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③福間健二

アキレス3
『アキレスと亀』

(選出理由②’柳下毅一郎2からのつづき→)

『アキレスと亀』に登場する、たけし演じる“自称”画家は、アート界の流行やら絵画の歴史やら社会的インパクトやらにたいして「傾向と対策」的に“雑に”顔色をうかがいつつ、のらりくらりと一生涯画家/アーティストであろうと、“雑に”試行錯誤する。この、雑に、テキトーに、テンション低くそれを行うという有りようが、たけしのシャイネス(と知性)を感じさせて微笑ましくもありますが、そのようにして、生涯を画家/アーティストとして全うするということのみを指向するこの映画における創作活動が最終的に「母性による肯定」に帰結するのをみていると、この映画に登場する大した衝動も必然性もなく垂れ流される絵画群の寒々しさは、そのままたけしの近年の映画群の「どうでもよさ」と重なってみえますし、その向かうところが結局のところ「承認」「自己実現」でしかないという貧相な光景としてあらわれてきます。
「世界的映画監督」というポジションで安穏に末永く過ごす状態を“つづく”ためだけにコンスタントに作られつづけているようにみえる北野武の映画群の、そのあまりの無内容さは驚異的なほどで、その荒涼とした表情はどこか独特な風情の前衛性さえ帯び、それがある種の批評性としてかすかな魅力を放っていなくもなかったのでしたが、『アキレスと亀』の場合、いつも通りたいへん退屈は退屈なのですが、そのツマラナさは、これまでのツマラナイ作品群(『菊次郎の夏』、『Dolls』、『座頭市』、『監督・ばんざい!』等)とはどこか趣が違っていて、「冴えたショット」やら「こだわりのある主題」やら「作家独自の生理/文体」やらといった“長所ふう”の特徴やら輝きまでもがここでは「どうでもいいこと」として処理されはじめていて、すべてを無為と退屈の鈍い色彩で塗り潰しているようにみえます。

承認/自己実現のために「ポジション取り」をする、そのために“長所”をアピールしたり作品内に盛り込んだりすること“さえ”も、「どうでもいいこと」だと北野武は『アキレスと亀』で言っているふうだとおもった。ただただ母性的に無条件に肯定され承認されたいだけなんだ、結局ね、あれこれと冴えてみせたから承認されるとか面倒クセーし、そんなこととは関係なく頭を撫でられたいんだ本当のところは、と。

そんな身も蓋もない心情に沿って誠実に形成されたとおぼしき『アキレスと亀』は、それゆえにハンパなく退屈で無刺激な作品として私たちの前にあらわれてきたのでしたが、しかし、現在の「日本映画」の大部分を占めるのが、何らかの、あるいは誰かしらの、承認のための消費材、サプリメントとして供給/需要されるために垂れ流されているだけのモノだと感じられます。それらが『アキレスと亀』に比べて「より退屈でない」としても、それが作り手や消費者の優位性に結び付かず、その無自覚な様はかえって北野武の聡明さを相対的に際立たせてしまう。

愚にもつかない小手先のテクニックを「人の良さ」という免罪符でコーティングして消臭した『運命じゃない人』の監督に何かを期待しているほうがあれですが、「承認/自己実現」のための“冴えてる”の供給装置として制作されたことが更に露骨になってしまっている『アフタースクール』、「見事な唸らせるシナリオ」「数少ない本当に面白い娯楽作品の作り手」「役者を輝かせる演出家」という「ポジション維持」のためだけに作られたんじゃないかと思わせてしまう愛情も情熱も知識もない『ザ・マジックアワー』(アンジャッシュのコントの、長くて無理があってツマラナイバージョンみたい)。現在の風景は、そのようにして、「承認/自己実現」のための道具として映画を利用する“アーティスト”で溢れかえっていて、河瀬直美(『七夜待』)や是枝裕和(『歩いても 歩いても』)はその代表格だとおもう。
「承認/自己実現」のための「ポジション取り」、それへむけての「傾向と対策」的な姿勢の制作が支配的な気分として蔓延している様子は、ある種の観客を意気消沈させているんじゃないか。そして内田けんじや河瀬直美ほど鈍感でもなく、より才能があるにしても、タナダユキや吉田恵輔や石井裕也といった若手勢が、そうした風潮からじゅうぶん意識的に距離をおけているとは言い難いと思います。

傑作と世評高い『ぐるりのこと。』でさえ、「傑作とはこんなかんじ」「イケてる演技設計とはこんなかんじ」「リアルってこんなかんじ」という“長所”パーツの適所配分作業が「演出」という名のもとに行われる(大いに期待した『東南角部屋二階の女』にしてもそのテの作品で、ひと昔まえの「傾向と対策」的な「シネマ」を召喚した、カビ臭い映画だと思った)。それは結局高橋洋のいう<支配的になりつつある画面や音のもっともらしい審美>を反芻もしくはちょびっと更新する、同じゲームボード上での退屈な椅子取りゲームに過ぎないんじゃないか。ある均一的な観念として共有される「傑作感」や「作家感」を構成するために、それこそデータベース消費的に「傑作素」「作家素」を召喚してレイアウトする。そのゲームに参加する観客も、同じデータベースから「批評素」「感想素」を瞬時に取り出し、安心して感動したり斜に構えたり出来る。
そういった姿勢は、たとえば作り手にとって「映画監督であること(ありつづけること)」が主眼であって、「映画=表現を為していたら、その結果、監督/俳優/アーティスト等と呼ばれた」といった姿勢とは異なるということで、そこで生まれる作品はようするに『公募ガイド』しか読んだことがないひとが書いた小説みたいなもんで、その参照する手近にある「リアルへの審美」は、<現在>にも<世界>にも接続性をもたずに無限バリエーションとしての映画の量産を促す。そこには、「消費」があって「経験」がない。“映画”ともあろうもの(?)が、単なる文化/サブカルチャーの一ジャンルとして、幾多のカルチャーと同じく<母権的な承認を求めて自己目的化したコミュニケーション>のために存在するだけだとしたら、そんなもの有っても無くてもどっちでもいいものでしかないじゃないか‥。

そんな予備校的な映画が蔓延するなか、大林宣彦『その日のまえに』、新藤兼人『石内尋常高等小学校 花は散れども』、鶴田法男『おろち』などは、独自の「リアル」、「審美観」を貫いて、オンリーワンの輝きを放っていると感じさせます。(ナンチャンが出ずっぱりの2時間以上ある映画の推移を、食い入るように観つづけさせるということが、いかに異様な偉業であることか‥)これらの映画の表現は、「いまどきのリアル」と摩擦を起こすことで、<現在>に生きていると感じられます。

で、予備校的感性に侵された若手らを尻目に去年、もっとも“若さ”を体現していると思えたのが、福間健二の②『岡山の娘』でした。

“若さ”を失うということが、人生の審美や感じかたが、次第にある一定の方向に収斂してゆき、だんだんと人格が保護的にオートマチックに作動してゆく割合が増えてゆくことだとすると、他の硬度や質感をもつ審美/リアリティと接するたびに、その都度(確固たるものと思われた人格の総体が)脅かされるようにして変質を被る、ある意味“即興的に”人格を形成する境界の振動が繰り返されることが“若さ”の顕れだということになる。
そのたびごとに、「成功」や「維持」への「最適化」(つまり「傾向と対策」的な姿勢)とは無縁な振動を更新することは、愚かな、バカっぽさとして、「置きにいく球」で「とにかく成功したいだけ」のゲーム参加者からは侮蔑の対象とされることかもしれません。しかし個人的には、ゲーム上での最適化などというしみったれた作業を、わざわざ出かけて行ってスクリーン上でみたいとは思わない。

『岡山の娘』の福間健二は、誰かの敷いた(承認されるという)レールに無自覚に乗りはせず、原初的なところから、音/映像の関係、言葉/発声/意味の関係、自然物/人工物/人物が映るということの関係を捉えなおし、その異質なモノとモノの関係を融合的にではなく、その関係の摩擦の感触を抽象的なイメージ(既存ゲーム参加の観客との共有イメージ)に還元しないように一歩一歩確かめながら掴もうとする。女優でも素人でもなく、娼婦でも母でも少女でもない<女性>がそこには存在し、川とそこを流動する水は、何かを象徴するでもなく、画面を審美的に活気づかせるためでもなく、唯物論的に存在を誇示することさえなく、ただ人々の住む土地の傍らを今日もきらきらと流れる。言葉は物語を、フィクションは世界のかたちを、視線は感情を、“必ずしも”「説明」しない、飼い馴らさない、着地させ輪郭を鮮明にしない。
“何か”を媒介としない不用意さは、「自己実現」とも「事前イメージの追認」とも異なるイメージを現前させ、そこでは異なる感触をもつ複数の「リアル」が、収斂を拒んで触れ合い、その摩擦が、即興的な振動として、ひとつずつ「人生」の「経験」を刻む。それらの提示が「知的遊戯」に陥らないところに、『岡山の娘』の未来性があると思った。

なんだか概念的に話が進んでしまっていますが、『岡山の娘』の“若さ”は、そうした観念的に捉えられる側面を別にしても、はっとするほどの瑞瑞しさを誇っていて、端的に、「映画を撮る」、その喜びに溢れている映画だと感じられます。
若い女性を、正面から斜めから、堂々と、まじまじと、キャメラを媒介として淫するように見つめることの喜び。風景や人物をカッチリとした構図におさめることの嬉しさにふるえる姿勢と、ルーズな構図で動作や風景を追うことの愉しさとが共存する。繋がらないモノを繋げることの歪さにたのしみつつも、だからといって古典的なつなぎの快楽もイデオロギー的に放逐しはしない。B班の撮った映像を組み込むことや制作の過程で出来する様々な障害や状況の変転を、<私>がひとりで特定の中心的イメージに作品を収斂させてしまうことを妨げてくれる「他者」と出逢う喜びとすること。(『岡山の娘』における詩人、小説家志望の女子、映画(シナリオ書き)青年らは、<現実>の事件/身近な人々からの反射を受けて(接続をもって)、世界との摩擦を条件とする言葉を紡ぐ。「作品」の、<世界>への接続は、「自分ひとりで考えた」ことからは決して生じないことを、登場人物たちは知っている。現在や世界との接続性をもたない消費的な「審美」に閉じない、この映画におけるクリエイターたちは、幾重にも重なる質感の異なるリアルの感触の有機的な繋がりとして、人生を生きる。)
そのようにして、つっかえ、つっかえながら、他者の「リアル」と接触を繰り返してゆく、人生の軌跡のように。『岡山の娘』は、「承認/自己実現」ゲームとは意識的に距離をおいた、閉塞を突破する“娯楽映画”だとおもった。

(私的なことですが、敬愛する福間健二氏に、『岡山の娘』公式ブログで当ブログについて言及していただいたことは、この上ない喜びでしたが‥佐藤忠男を「遺物」呼ばわりしたことを、やんわり窘められただけというかんじも、なくはなかった。
いちおうここで言っておこうと思いますが、佐藤忠男は、例えば森直人や尾崎一男といった現在相対的に優秀と思われる批評家やライターと比べても、比較にならないほど多くの偉大な仕事を成した映画評論家だと思っています。しかし、『映画でわかる世界と日本』や『知られざる映画を求めて』等を読んでみても、ちょっと読めないというのが正直な感想で、『わが映画批評の五○年』の前半部の、言説を更新しようと意気込んだような(時代の)文章群には魅力を感じるのに、80年代以降の文章になるととたんに読めなくなる。「書くこと」が何かを伝達するための便利な道具にすぎないかんじがあって、佐藤氏のめざすものが文学やらエクリチュールやらでないにしても、個人的には(近親のお年寄りの手紙のように)読むのが苦痛な書き手であることに変わりはなく、形骸化した「仕組み」に、情報内容を嵌め込む手つきにはシステマティックなもの、つまり若くなさ、を感じています。)

(選出理由④ただ、愛のためににつづく)

okayama3.jpg
『岡山の娘』

関連記事:『岡山の娘』へ
       『岡山の娘』その1
       2008年日本映画ベストテン
       選出理由①城定秀夫
       選出理由②柳下毅一郎1
       選出理由②’柳下毅一郎2

       

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