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映画『岡山の娘』その1

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『岡山の娘』
(2008年、日本、92分)

監督・脚本:福間健二
撮影・照明:大西一光
記録・編集:福間雄三
音楽:吉田孝之
詩:福間健二、三角みづ紀、東井浩太郎
出演:西脇裕美、家ノ上美春、石原ユキオ、季羽和喜、入海洋一、東井浩太郎、岡本文子、佐藤盛一郎、三原真、真砂豪、杉本克敬、北川透

岡山に暮らす大学生のみづき(西脇裕美)の母が借金を残してこの世を去った。彼女は、大学をやめて自己破産の手続きをしようとする。みづきが青果市場で働きだした頃、会ったこともない父・立花信三(入海洋一)が長い旅から帰還し、岡山にやってくる‥。

1.

事前には『岡山の娘』という映画が、福間健二がかつて一時期過ごしていた岡山で撮られたこと、くらいしか予備知識がなく、氏がもしも岡山時代に娘をなしていたら‥という発想からストーリーが生まれたという、その大まかな物語(岡山に娘がいて、父親が会いにゆく)も上映前のトークショーで観賞寸前に知ったばかりでした。なるほど、それで『青空娘』か‥。
岡山時代の福間健二というと、『福間健二詩集』に次のような文章がありました。〈三十歳からの五年間、岡山にいた。国立大学の教師になったことで親を安心させたが、二十代を最初からやりなおしている感じだった。まるで危ういところを救われるように結婚し、五四二頁の詩集『最後の授業/カントリー・ライフ』を出した。〉
その“やりなおした二十代”については、同じ文章の前節に〈詩はだんだんしんどくなっていった。英文学にも意欲がわかなかった。映画とロックでなんとかもちこたえたということにしておきたい。〉とある。結晶し、成熟してゆく仕方ではなしに、横滑りしてやり過ごすかんじに、氏の20代の日々が、逃げるように想起されています。何かおおきなものへのカウンターから、成人を経て、構築し、定着してゆくといった成熟する大人としての人生モデルがしっくりいかない苦しさにあって、その「やりなおし」としての30代に福間氏は〈大学の教師になって親を安心させ〉、〈結婚し〉、長いブランクを経て詩人としても再生する。

そこで「やりなお」されていたのは、ツリー型/ピラミッド型というか、いわゆる旧来の人生モデルのステップを、こころでは仮初めのものながら、「とりあえず」「あえて」のぼってみること、だったのではないでしょうか。『カントリー・ライフ』の冒頭部、〈まるで快楽の演技でもするように/つぎつぎに季節を脱いで/なにかの主人となり、なにかの/奴隷となり、視線の消える坂道で/手袋をした手に不意を打たれ/かがやくのをためらっているうちに/私たちは衰弱する〉という言葉の連なりは、カウンターする(絶対的な基準となるような)対象も、超自我的なよるべき規範も見失いフラット化した現状に、成熟や完成に向かうやりかたでなしにその生を「とりあえず」「あえて」染まるように生きてみる仕方が示されているように読めます。
『岡山の娘』冒頭の「もうこれ以上することはない、と会う人みんなが言った、2007年夏、岡山」というみづき/西脇裕美の呟きは、「目指されるべきもの」の終焉した世界の到来を正確に告げていますし、それはまた、『ピンク・ヌーヴェルヴァーグ』での瀬々敬久の、〈テーマ主義も終わったし、きっちり芝居することも終わったし、どういうふうに映画を作るのかというところで、考え方がまったく違うところから行かないとしょうがない〉という言葉の向かうところとも響きあっているように思えます。

2.

幾分、雑に話を急ぎすぎたでしょうか。「しんどさ」に実直に向きあって、確信をもって「社会」や「人生」へ向き合うことを困難に感じていた二十代も、「あえて」選択された旧来の人生モデルの階段を〈親を安心させ〉るようにして刻んだ三十代も、福間氏は、「物語」を盲信することで安楽を得られない迷いと苦しさと居心地の悪さのなかで生の時間を刻みながら、それでも、ふと、〈いつまでも猶予と逃げ道をあたえられているように見えながら、いつのまにか、のっぴきならない大事な場面にさしかかっている。そこに〉、急にたどりついてしまう。そう感じる。そのようにして、否応なくその都度その都度〈急にたどりついてしまう〉人生の〈のっぴきならない大事な場面〉に立ち合いながら〈そこを生きぬく〉こと。それを“物語=映画”として提出したものが前作『急にたどりついてしまう』だったと、とりあえずコジツケるようにして言えるかもしれませんが、最新作『岡山の娘』においては、「とりあえず」「あえて」“物語”を選びとることへの懐疑/不信感がより深まっているようにみえます。
今でも、いや、人生のどの場面でも感じられてしまう〈のっぴきならなさ〉、〈急にたどりついてしまう〉感覚が、この映画にも遍在してはいるのですが、それが“物語”や“人間関係描写”の充実/充填からの作品的完成化/結晶化へと向かわず、“表現”として壊れることで「物語」が滲み、希薄化するように感じられます。『岡山の娘』という映画で選びとられた「物語」や「登場人物とその関係」が、その自己同一性を見失い、弱々しく、じんわりと失効してゆくのですが、それらが顕れてくるさまが、落ち着きのいいアヴァンギャルドな前衛性を提示せずに、だらしなく、自然に流れでるように、漏れでるようにして、物語や、人物像や、出来事から、同一性を微妙に奪ってゆく。これは去年、藤原章監督のDV映画『ヒミコさん』の話のときにも触れたDV映画的特質でもあって(『岡山の娘』はHD撮影)、映画『岡山の娘』が、『急にたどりついてしまう』的な端正さの、どこか閉じた作劇にとどまらずに、一個の作品としての自己同一性を曖昧に放棄し流動化させることで、「あえて」“物語”を選びとることの不自然さ、居心地の悪さに、より誠実であろうとした映画だったことのあらわれでもあるでしょう(劇場公開版の92分バージョンのほかに、2時間をこえるロングバージョンや岡山映画祭2007上映用の25分バージョン等が存在することからも、この映画作品が、確固として唯一的に結晶化/定形化することから逃れようとする性質を有することを示しているように思えます)。
『岡山の娘』は、様々な詩作品や書物、先行する映画からの引用やオマージュが積極的にとりいれられていますが、ここでの引用やオマージュは衒学的には作用せず、ここではそれらは、この作品の〈外部〉に、異なる思考や異なる世界、リアリティの硬度や質感が違う表現が他者的に「確かに」存在する、そのような接続を示すものとしてあります。均一的な価値観や審美性によって纏められたモノを一個の作品として結晶させる、そのような無自覚な「物語」性が、ここでは不誠実なものとして疑われているように思えます。『岡山の娘』は、作品的な境界/自己同一性を、非・均一的な外部へと曖昧に押しひろげることで、「現在」を生きる誠実な「物語」を掴もうとする。
(思えば、ここ最近のいまおかしんじ作品にどこか感じるネガティブな意味での違和感は、“物語”が「あえて」選ばれている「しんどさ」、「居心地の悪さ」をじゅうぶん感じながら映画制作が為されているのに、何だか妙にシュッとキレイに固定化させてしまう日和った力が働いている故で、その作品的境界を定形化する作用は、ある特定のサブカルチャー的文化圏や過去の映画作品に保護的に“依拠”することから生じているように思える。そこでは、「現在」が息をしていないんじゃないかと‥。)

3.

〈岡山になにかを置いたままにしていて、それを見つけに行く。岡山を舞台に映画をつくるとしたら、そんなふうにやりたい〉。置いたままにした“なにか”とはなにか。
福間氏独特の言い回しに、「‥ということにしておこう」「‥ということにしておきたい」というものがありますが、「運がよかった」/ということにしておこう(「映画とロックでなんとかもちこたえた」/ということにしておこう)という言い回しは、「運がよかった」「映画とロックで~」という認識や判断が「あえて」「とりあえず」選ばれているものにすぎず、不確かな、幾らでも交換可能な(不誠実な)ものとして揺らいでいることを示していると同時に、その上で、そのように「しておきたい」という気持ちの“本当さ”のほうに誠実さ、比重の大きさを置いていることをあらわす。「映画とロックで~」という認識/判断で勝負するのでなく、“そういうことにしておきたい”と感じる気持ちがあることのほんとう、を逃さないこと、で勝負したいという気分。ちょうどよく“冴えてる”かんじの認識/判断に着地させて得る〈知的さ〉に甘んじないこのような姿勢は、作品にグダグダな、バカっぽい表情を与えるかも知れませんが、それは幾多の映画における諸々の映像や言葉が結局のところ、独自でナイスな己の〈思想〉や〈前衛性〉や〈知性〉や〈センス〉を提示するという作り手の自己実現に還元されてしまう“貧しさ”から逃れようとすることに由来しているとおもう。

かつての福間氏は、岡山において子をなさなかったし、〈国立大学の教師になったことで親を安心させ〉もしたし、結婚もし、詩人として再生しもした。しかしそれは人生のその時その時に「急にたどりついてしま」ったようにして不確かな確信のうちの認識/判断によって「とりあえず」「あえて」選びとられてしまった交換可能だったかもしれない人生の刻印なのだった。〈「とりかえしのつかない夏」/たとえばそれを何べんくりかえしてから/ぼくたちは出会ったのだろう〉。寄る辺ない、カウンターするにも依拠するにも規範のないなかで「あえて」「とりあえず」生き、「急にたどりつい」た人生で生じた「物語」に常に付着するようにしてある、交換可能な「物語」。それを「選ぶ」という“手つき”が、ひとつの物語だけを選択し作品化することの居心地の悪い不自然さのなかで、かろうじて見つけることの出来るリアル(=ほんとう)だと、『岡山の娘』という映画はその出発点から告げる。(『岡山の娘』という映画は、そのような「根拠の薄弱感」の弱々しさに意識的に支配されているのではないでしょうか。この物語自体、「岡山」という土地を舞台でなければ成り立ち得ない物語ではないし(福間「岡山がどういう土地だってことじゃなくて、大阪と広島のあいだにこういうとちがあるってことを出せばいうと思いました。(略)どこでもよかったんじゃなくて、ここにみづきはいるという現実ですね。」)、冒頭のナレーションが「スペイン語」で語られなければならなかった絶対的な理由もなく(父・信三が放浪していたという土地の言葉のひとつですが)、そもそも当初は智子役だった西脇裕美をみづき役にコンバートせねばならなかったのも純粋に制作途上のトラブルからであって、役と役者の結びつきが絶対のものであるような信仰からも遠いところにある。)

〈なにかを置いたままにして〉いたのは、交換可能な選択肢としての、“わたし”の「物語」なのだった。


(つづく)

関連記事:『岡山の娘』へ

(引用・参考文献~福間健二『ピンク・ヌーヴェルヴァーグ』『福間健二詩集』『詩は生きている』『侵入し、通過してゆく』、『急にたどりついてしまう』『岡山の娘』パンフ、『シナリオ』『映画芸術』『キネマ旬報』BN)

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