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映画『トウキョウソナタ』その2

(→映画『トウキョウソナタ』その1、からのつづき)

2.

〈京王線初台駅ちかくのこの場所、かつてここに石造りの巨大な廃墟があった。(略)国の所有物で、何とか試験場と言ったが、私はその敷地を大学のキャンパスに見立てて『ドレミファ娘の血は騒ぐ』という映画を撮った。(略)この初台の試験場がメインのロケ場所に選ばれるにおよんで、結果、映画はやけに重苦しく陰鬱なムードの漂うものとなった。〉

1984年に(当初、『女子大生・恥ずかしゼミナール』なるタイトルのにっかつロマンポルノとして)撮影された『ドレミファ娘の血は騒ぐ』(85)のメインロケ地が、実際の大学ではなくて〈巨大な廃墟〉だったことは、黒沢清がそのキャリアの初期から、〈廃屋をめぐる想像力〉を駆動させていたことを示しています。〈全てはこの場所のせいである。この場所に偶然行き着いてしまったおかげで、作品の運命は大きく変化してしまった(略)。廃墟の中で、時間は止まっている。ゆえに、そこはあらゆる流行や風俗と無縁の場所である。変わりに、死が、永遠と不動のしるしとしてヌッと頭をもたげてくる。〉

そのようなかたちで、〈流行や風俗〉からどこか断絶した、どこか抽象的な世界/映画内で、幾人かの(複数のグループの)登場人物が戯れ/闘争劇を繰り広げるのが、黒沢清映画の基本的な形であったと、とりあえずは言うことが出来ると思います。

『地獄の警備員』(91)の頃を振り返って、黒沢清は以下のように述べています。〈当時はまだ、ストーリーが起こる舞台の外側は意図的に排除しようと思っていました。(略)物語の起こる舞台とその外を、抽象的などこでもない場所に設定していました。怪物も荒野の彼方から謎のガンマンがやってくるように、ふらりと抽象的な外部からやってくる。(略)(『地獄の警備員』は)確信を持って外部はないと決めて撮った最後の映画かもしれません。〉
黒沢清にとって「廃墟」で映画を撮ることは“どこでもない抽象的な場所”で己の信ずる映画的指向/嗜好/試行を阻害されずに実践することが出来るという意味で、格好の場所だった。“そこに外部はない”。そのようにして、流行や風俗などと無縁の抽象的なところで発想され組織されていた初期作品、『神田川淫乱戦争』(83)も『ドレミファ娘の血は騒ぐ』も『地獄の警備員』も、依拠するところは(現在や現実とどう関わるかということにはなく)あくまでも〈映画の原理〉=「シネマ」だけだ、という作家的スタンスで構築されたものにみえたし、黒沢清監督がそのように素朴な「シネマ」信奉を貫く「映画原理主義者」であったことは、その映画をある種のユートピア的な幸福感で充たすのと同時に、何かから取り残された、(それこそ廃墟のように)ドンヨリとした死んだ空気が澱んでいる、そんな鬱陶しさをもその作品の感触に与えていたように感じられます。

流行や風俗に無縁の、外部のない抽象的な世界で、無時間的な死の支配する“どこでもない場所”で推移してゆく映画世界は、『復讐』二部作(96)あたりで変貌を遂げるまで、ごく普通に観客とすれ違ってしまっていたのはある意味必然でもあったと思われますが、そこで第一に夢見/目指されているのは黒沢清がおもう「シネマ」へ向けての純粋な運動体としての映画製作であり、その真摯な殉教ぶりは胸を打ちますが、同じ教義を共有しない不特定多数の観客に愛されることは叶わないだろう孤高さで、それこそ〈餌を下ろしたこともないし、餌が下りてないから当然誰もかかってこなかった〉し、むしろ〈その餌を下ろさないということがすごい〉と個人的には衝撃を受けたのでしたが、しかし、ここであらわれてくる“映画”の姿は、必ずしも黒沢清なりの「シネマ」概念の純粋培養的な生成物としてのみ有るわけでなく、そこにはイメージとしてコントロール不能な異物が“残念ながら”入り込んできて、混濁してチグハグな印象をもたらします。そしてそんな“ズレ”は、確信犯的というか意識的なものらしくみえる。

『地獄の警備員』の舞台は90年前後のとある一般的な比較的大きいオフィスビルということになっていますが、実際に画面にあらわれるそれは、なんだか埃っぽく古ぼけていて、ここで人間が常時活動しているという気配がさっぱり無く、空気が澱んで死んでいる感じがあります。
映画一般のごく通常の手続きとしては、廃校なり使われていないビルや家屋などを、あたかも人が常時活動しているような生き生きとした息吹きをその建物に吹きこむという作業が行われ、物語の運行や人間関係の推移に対し違和感なくスムーズに観客に感知/移入させるわけですが、黒沢清のばあいはそのように空間を「死(無時間的)→生(有時間的)」と変貌させようという意志が感じられず、死(無時間的)的な空間はそのままに、そこで抽象的な映画世界を創り上げようとする。死的な澱んだ空間を映画内物語に適合させるために最適化しないという黒沢清監督の姿勢には、性格的にいいかげんだということがあったにしても、それ以上に、抽象的な外部なきシネマを夢見ると同時に、そんな理想的状態などありえないという事実を引き受ける、相反する意志を示すものであるようにみえます。
そのような〈残念ながら〉を積極的に引き受けること。何度となく黒沢清により口にされていた(筈だけれど当該テキストが見つけられなかったので記憶で言いますと)「ハリウッドではなく、この現代の日本の限られた環境で映画を撮らなければならないことのみっともなさ、残念さ、を引き受けること」という旨の言葉通り、その映画には前提としての不完全さに支配され、不均衡でチグハグで、不透明さに澱む気配が満ち、その解読不能性と異物的な他者性が「廃墟」という場に集約されます。

〈もう、映画というこの世ではない楽園だけでは世界は成り立たないと意識せざるを得なかった〉と述懐する黒沢清は、『復讐』二部作(96)で排除していたはずの日常的な風景を(『運命の訪問者』では〈郊外の建売の一軒家を、『消えない傷痕』では〈狭いアパートの室内や学生下宿〉を〉)あえて舞台とし、『アカルイミライ』(02)に至っては〈努めて映画から来る発想は禁じようと思っていました。最終的には何らかの形で出てしまうでしょうが、スタートの地点では映画に寄りかからないと〉決意する。黒沢的「廃墟」は、「シネマ」発動の絶好の場であると同時に、その不可能性も宿す(映画の原理の)「外部」でもあるという、二重化された、混濁した〈世界〉の無秩序が顕れてくる場だとも言えて、抽象と具体が同時に宿される錯綜したダナミズムがその映画を魅惑的なものとしているように思えます。そして、黒沢清の映画では、そのように抽象/主題/意味といった指示作用を、〈世界〉の具体性/物質性が常に凌駕するという運動が波立つ非・意味作用の極点として、「廃墟」が現前する。

〈映画の原理だけで映画を作ろうとしていて、それができていると信じることができた時期はどこかユートピアみたいでした。しかし、映画を作っていれば、外の原理は自然に紛れ込んで来ますし、嫌でもそれについて考えるほかありません。日常であったり、夫婦であったり、社会の状況であったり、さまざまな社会の現実から逃れられないものでしょう。(略)映画以外の原理を無理にでも取り入れたものと、どうしても動き出してしまう映画の原理に身を任せたものと、二つの原則の間をまるで二本撮りのように行ったり来たりして、いつの間にか一本の作品の中に両方あることになってきたような気がしています。〉


3.

「シネマ」という言葉について、青山真治の『サッド ヴァケイション』に触れたときもロクに説明しなかったのですが、ここでいう「シネマ」の定義は、アンドレ・バザンがああ言ったとかジル・ドゥルーズがどう問うたとかいったこととは厳密な関係は無く、各々のシネフィル(死語?)が不変な絶対基準としてもつ「シネマ」の概念が、イデアみたいにしてあるとかそういう話で、「シネマ」についてちょうどよい話があった『ロスト・イン・アメリカ』(稲川方人・樋口泰人編)での青山真治、阿部和重、塩田明彦、安井豊による座談会の一部を、以下に引用します。

〈安井 「シネマ」って言語学でいう「ラング」と同じようなものだと思うんですよ。ソシュールが「ラングは実在体ではなく、語る主体のなかにしか存在しない」と言っているんですが「シネマ」も、目に見えるような外在的なものではなくて、見る主体でも、撮る主体でも、(略)その主体の意識に問うことによってしか明らかにならない性質のものだと思うんです。(略)ジャック・ラカンという人の理論を乱暴に要約したものなんですが、人間というのは独りでは決して生きてはいけない動物で、必ず模範となるモデルを必要とする。で、そのモデル、例えば先生なら先生を尊敬し、同一化することによってヒトは大人になっていくと。ところが、ラカンは「それだけではない」と言っている。(略)いろいろな生き方をしている人がたくさんいる。それなのに「なぜ先生なのか」と問われた時に「いやいや、君の選択は正しい。大いにその先生を尊敬してよろしい」と言ってくれる、目に見えない何者かが同一化の対象の背後にいる。つまり、ヒトは先生に同一化すると同時に、(略)その選択を保証してくれる、目に見えない何者かにも同一化するという二重のプロセスによって
、大人になっていくというのがラカンの考え方なんです。で、ラカンは、先生への同一化を想像的な関係、その背後の何者かへの同一化を象徴的な関係と呼んでいるんです。一方はイメージですから目に見える。もう一方はシンボル、言葉ですね、だから目に見えない。(略)人間は目に見えるものだけを見ているのではなくて、その背後の見えないものも見ている。で、その見えないものを見ることによって、常に自分の見ている世界を確認しているんだと。(略)同一化することになる先生の正しさを保証する目に見えない何者かを、ラカンは「大文字の他者」と呼んでいます。(略)東(浩紀)君は「大文字の他者」を具体的に「社会」と言い換えていました。社会が先生の正しさを支えていると考えれば分かりやすいでしょう。で、僕は「象徴的なものへの同一化、目に見えないもの、大文字の他者、……それはシネマだ!」(笑)と確信したわけです。(略)
青山 (略)「シネマ」という言葉が、映画を撮るなり、批評を書くなりする時の正統性を無条件に保証するものとして機能していたというのはよく分かる。(略)「ホークスは天才だ」ということを広く認知させることが第一の目的ならば、彼ら(ヌーヴェル・ヴァーグの連中)がその後、なぜ次々と映画を撮り始めたのか、つまり批評を書くことと映画を撮ることの関係が見えないし、作家主義がもっている政治的な意味合いも分からない。彼らは、批評を書くことと映画を撮ることを別次元で考えていたわけではなく(略)そのふたつの行為を結び付けていたのが「シネマ」という言葉だと。
安井 そこでは「シネマ」という言葉が理念として機能していた……。〉

青山真治が『サッド ヴァケイション』でその自分のなかにある「シネマ」の虐殺を試みて、澱んでいた〈世界〉との接続性を回復しようとしたように、黒沢清も〈映画というこの世ではない楽園だけでは世界は成り立たない〉という自覚から『復讐 消えない傷痕』あたりから黒沢的「シネマ」観に適合しない「外部」を積極的に取り入れてゆくことになる。〈映画以外の原理を無理にでも取り入れたものと、どうしても動き出してしまう映画の原理に身を任せたものと、二つの原則の間をまるで二本撮りのように行ったり来たり〉してキャリアを重ねてきた黒沢清は、『ニンゲン合格』(98)や『カリスマ』(99)や『大いなる幻影』(99)ではまだ濃厚に澱んで充満していた「シネマ」に対し、『2001映画と旅』(01)あたりを転回点として、積極的に虐殺に転じてゆきます。
『アカルイミライ』という映画の風通しの良さは、そのような虐殺による更新のある種の成功に由来していたと思いますし、『LOFT』(05)のばあいは、キャメラマン芦澤明子の参入や2キャメ方式の採用が、「シネマ」の揺るぎない強固さをかえって強調し内側に閉じてゆく作用をもたらした、虐殺という意味では未遂に終わった映画だったと感じたのでしたが、そこで最新作『トウキョウソナタ』の登場となります。


4.

印象で言いますが、「シネマ」の虐殺と外部の導入、という観点でいえば、『トウキョウソナタ』は黒沢清のフィルモグラフィ中、それがもっとも達成された映画だと思います。黒沢清監督自ら規制をかけていたはずの平凡かつストレートな家族という題材、高橋洋や古澤健のような“コチラ側”ではない他人(マックス・マニックス)の脚本といった外的な要素の導入や、活気あふれるショッピングモール(屋内ロケは昭島のモリタウンですが、外観はどこか郊外のジャスコ‥)というおよそ黒沢清ぽくない舞台装置の援用など、あらかじめ目立った差異もありますが、それ(外部からの導入)以上に、映画そのものの内実が「シネマ」に依拠しない“手ぶら”感があります。その感触は(阪本順治の『魂萌え!』(07)にも感じた)冬の遠い日差しのような“弱々しさ”を醸し出していて、そよぐような頼りないような、何か小さくざわざわした感情が生じます。

ラストのピアノ演奏シーンは、撮影なり、演出なり、美術なりの力によって、映画をどこか目論んだ地点に着地させるのではなく、既成の音楽、その楽曲一曲のもつ力に、この映画が2時間の上映時間を費やして持続させたエモーションの行く末を終結する役割を預けてしまうやり方で、映画の原理を遠ざけ〈世界〉を召喚します。演出のコントロールも趣味の発露もその効果に殆ど影響を及ぼせない、ある意味投げっぱなしな大胆さは、意味や歴史に重く撓む「シネマ」を放逐する。そこで最期に吹く風はまた、世界の“変調”の〈兆し〉としてありますが、その“変調”は、誰かの信ずる原理や信条や世界把握のあり方とは無縁に、ただ、そのようなもの(音楽)が世界には在る、という提示だけがあって、それはいかなる意味指示作用も生まない、そのような更新を示す。それは〈センス〉や〈才能〉や〈深い洞察〉によって構成/構築/配置されたものではなくて、ただそこに無作為的に“在る”。それを記録する、キャメラとマイクがツールとしてたまたまあった、そんな手ぶら感が、この映画の観終えたときに開放的な気分をもたらしていると思います。

そして、ここには無時間的な澱んだ気配も無いかわりに、映画的な魅惑もなんだか希薄におもえます(映画的な魅惑、というと「シネマ」がどうのという話と混同しそうですが、要するに、魅力がない、と感じる)。そこで思い出すのは、エドワード・ヤン後期(『エドワード・ヤンの恋愛時代』『カップルズ』『ヤンヤン 夏の思い出』)やホウ・シャオシエン後期(『フラワー・オブ・シャンハイ』『ミレニアム・マンボ』等)の、風通しは良いが「不気味な」作品群で、いかにも傑作然とした佇まいの、映画的気配が濃密な作品群(『恐怖分子』『クーリンチェ少年殺人事件』や、『恋恋風塵』『冬冬の夏休み』など)を遺棄するようにして到達した、透明で拡散的でフラットでかつ混濁もした快楽素の解析が困難なこれらの映画にはあった「不気味さ」が、『トウキョウソナタ』には何だか感じられない‥。たとえば『カップルズ』では、オリエンタルであったり映画的であったりするフック/快楽素を削ぎ落とし、外部に出られないある種絶望的なシステム/社会に生きる登場人物たちが蠢くさまが描かれていました。ここで導入される〈世界〉/〈外部〉は、システムを揺るがす
わけではなく、それでもシステムは作動しつづけ、我々は生きていく、といった真っ直ぐで甘えのない厳しい認識が『カップルズ』にはあります。『トウキョウソナタ』の作劇は、与えられた素材に対し、システムの作動についてはいかにも黒沢清的な手つきで素描し、〈世界〉/〈外部〉については「そこにそのようにしてあるものだから、自分の関知するところじゃない」と責任を放棄する。
〈世界〉/〈外部〉を、解読不能性を属性とする物質性/他者性として安易に括弧に入れることで、結果、抽象と具体の混濁がダイナミズムをうんでいたその映画世界から具体を排除し、抽象が保護される。次男が警察に留置される場面や子供部屋に国境と称する線が引かれている場面が与える「安心」感は、「シネマ」が“抽象的”に保護されていると感じることに由来するし、そうして〈世界〉の具体性との闘いに背を向けたことから、「廃墟」の混濁は吹き払われ、囲われてただ単に弱体化し延命した「シネマ」がチロチロと小さな光を発する。
『トウキョウソナタ』には「不気味」な「物質性」が、つまり〈未来性〉がない。真摯な世界把握への意志無き〈世界〉への依拠は、ただの怠惰な逃避に過ぎないと思います。


(主要引用・参考文献~『キネマ旬報』『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』『映画芸術』『ユリイカ』BN、黒沢清『映画のこわい話』『恐怖の対談/映画のもっとこわい話』『黒沢清の映画術』『映画はおそろしい』『映像のカリスマ』、宇野邦一『映像身体論』、蓮實重彦『映画狂人、神出鬼没』『映画崩壊前夜』、『アカルイミライ』『ニンゲン合格』『トウキョウソナタ』『カリスマ』パンフレット、宮台真司『絶望 断念 福音 映画』、稲川方人・樋口泰人編『ロスト・イン・アメリカ』、大寺眞輔編著『現代映画講義』、金井美恵子『金井美恵子全短編Ⅱ』『愉しみはTVの彼方に』)

関連記事:映画『トウキョウソナタ』その1
       シネマの虐殺
       映画『叫』①
       映画『叫』②


theme : 日本映画
genre : 映画

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はじめまして、he-wasと申します。今回、ししらいぞう様の黒沢清論を読んで考えさせられることが多かったので、そこから『トウキョウソナタ』の別の解釈の可能性について少し考えてみました。もしよろしければご覧ください。(どうしてもトラックバックができなかったのでコメント欄に書きこませていただきました。)

http://d.hatena.ne.jp/he_was/

he-wasさんへ

コメントありがとうございます。お返事遅くなってすみません。

はい。拝読させていただきます。
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