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映画『トウキョウソナタ』その1

『トウキョウソナタ』
〈2008年、日本・オランダ・香港、119分〉

監督:黒沢清
脚本:Max Mannix、黒沢清、田中幸子
撮影:芦澤明子
音楽:橋本和昌
照明:市川徳充
出演:香川照之、小泉今日子、小柳友、井之脇海、津田寛治、井川遥、児嶋一哉、役所広司

サラリーマン・佐々木竜平(香川照之)は突然、会社からリストラを宣告される。妻(小泉今日子)にそのことを言い出せぬままにハローワークで仕事を探すも、なかなか満足いく職にありつけないまま時が過ぎてゆく。その父に頭ごなしにピアノを習いたいという希望を却下された次男の健二(井之脇海)は給食費を着服し、月謝とすることで密かにピアノを習い始める‥。


1.「廃墟」としての家庭

居間か食堂か、何の変哲もないけれども人の気配が感じられない部屋に、画面の右手から、どこか凶々しい、不吉な風が吹き、ゆっくりと新聞紙が舞う。『回路』の街角に吹きすさんでいたあの風、『降霊』では窓外の木の葉を揺らし、『LOFT』における謎の建物へ向かう道筋に生い茂る緑を靡かせていた、〈世界〉の変調を知らしめるようなあの風が(『ドレミファ娘の血は騒ぐ』の、『復讐 消えない傷痕』の、『CURE』の、『大いなる幻影』のあの風‥)、閉塞しているかと思われた室内を流れている。黒沢清の映画に吹いている“風”は、たとえそこが世界の果ての辺境であろうとも、不可視の世界/原理/構造の中枢から距離を無効にして“飛躍して”届く〈兆し〉としてあって、そのようにして突然現れる〈兆し〉は、何の変哲もなかった風景(世界の在り方)を一変させます。

嵐の訪れに薄暗く色素を失った室内の奥にはサッシの窓が半ば開かれてあり、外からの激しい雨がそこから入り込み水が居間の床をパタパタと叩いている。窓の外では、ポツポツと植えられている貧相な木の枝に張りついた葉が雨に打たれて揺れる。何の変哲もない筈の部屋が、その空間のガランとした暗い空虚さと、その床面を浸食する水によって、「廃墟」化する。
(蓮實重彦はかつて黒沢清の映画における廃墟の頻出について、〈空洞化した建築が人目を避けてどこかに残されているなら、その床一面にわずかな水を流しておけ〉ばそこに「黒沢的廃墟」は瞬く間に完成し、〈林を抜けてこの廃墟にたどりつく者がいたとするなら、その人間には「善悪」を超える権利が認められる〉だろうと『「善悪の彼岸」に』で述べています。)
単なる民家の一室に過ぎない場所が、ここでは「黒沢的廃墟」の気配をかすかに放ち出す。その廃墟化に抗うように、雨水を拭こうとしているこの家の主婦らしき女性がバタバタと画面のなかを行き来し(それはどうやら小泉今日子らしいのだけれど、人物に焦点をあわせてゆくスター化作用はそこでは行われず、厚みのある人物像として結晶しない、以後しばらくは内面も体温も感じさせないシステマティックで空虚な物体としてこの家に「いつも居る」。)、この空間のガランとした空虚感を際だたせる。

窓が開かれた、あるいは窓ガラスそのものがなく外界/世界にひらかれた居室の空間性もまた、黒沢清の映画の重要な魅惑のひとつとしてその映画(群)を形成していて、『大いなる幻影』のアパートの開放された窓と吹きわたる外気、『蜘蛛の糸』で大杉漣が棲む事務所の窓から臨む樹の緑を透過する光、『カリスマ』で刑事の役所広司がたどりつく植林作業員たちの宿舎では多くの窓ガラスが割れていて風が通り過ぎるがままになっているさまや、『LOFT』で中谷美紀が住むことになる部屋の開け放った窓から入りこむ正面の謎の建築物の物質性はこれまで、私たち観客をワクワクさせてきたものでした。そして勿論、「廃墟」もまた、窓も扉もない、内と外が無媒介的に通底する空間性の最たるものとして、黒沢清映画の多くの場面でその姿を現してきました。

前述の蓮實氏は、黒沢的廃墟を無時間的な物質の悪意が跳梁する空間と定義し、宮台真司は〈社会〉の中に突如として〈世界〉が侵入してくるときに〈社会〉の中の「弱い環」である廃墟が登場すると指摘していますが、要するに、黒沢清の「廃墟」は、雑な意味でのリアリティの観念(=世界把握)からは零れ落ちる、真に物質的な〈この世界〉の感触として、不意にぬっとあらわれてくる「他者性」として存在を観客に知覚される。時代や社会のシステムや、慣習や習慣による慣れからくる常態化に抗うようにして、私たちの怠惰な固定観念の向こう側から、システムを押し分け、一瞬で亀裂を入れてそれは立ち顕れる。そこでは、そうであろうと普段私たちが思っていたルールとは違う不可視の〈世界の法則〉が作動し、思わぬ不意の惨劇が起こりますが、それは私たちがそれまで依拠していた、心理や、時間的歴史性や、善悪の社会的な価値基準を無効にする〈世界〉の物質性が“何も媒介としないこと”、つまり〈暴力〉として顕れてきていたからだということになります。

さて、小泉今日子の蠢く家屋を襲った不意の嵐は、(黒沢清もある種の影響を受けているアッバス・キアロスタミ監督の、『友だちのうちはどこ?』での雨が、隔たった2つの地点を結びつけるように)風とともに離れた場所にある夫・香川照之のいるオフィスへと、距離を無効化して観客を連れてゆきます。
外が嵐の不穏な空気でざわざわと騒がしく落ち着かなげなこの会社(TANITA)、このオフィスでは先刻の家屋の場面とは異なりすべての窓は閉ざされ、そして白いブラインドがことごとく降ろされていて、外界を臨むことができない。ブラインドの向こうからの、暗く、そして中途半端に明るいぼんやりとした光が、射し込むとも射し込まないとも言えないような曖昧さで室内を包む。
この部屋の、妙に曖昧で不安げな宙吊り感”は、ブラインドのもつ開/閉の二重化という属性、そうして結局のところ外は見えないという特性からして、この『トウキョウソナタ』という映画のもつ「隠す/露呈する」「見る/見えない」という主題体系と響きあうようにもみえますが、それ以上に、黒沢清映画に幾度か登場するある舞台装置の感触を想起させます。

それは、窓が何らかの理由で曇っているのか、あるいは窓の外が霧に包まれているのかは分からないが、とにかく乗客を取り巻いている窓という窓が曖昧な不透明さを帯びていて外界から視覚的に遮断されている、ある種幻想的なかんじもある乗り物。『地獄の警備員』ではその冒頭、窓外が不気味にくすんだタクシーに乗った久野真紀子が通勤するオフィスビルに向かう。その露骨に抽象的な舞台装置を経由して、主人公は常人には計り知れない原理で殺戮を重ねる殺人鬼の待つ非・日常世界へと侵入してゆきますし、『CURE』の後半、まるで雲の中か異界を浮遊してさまよっているようなバスに乗った役所広司は、その反リアリスティックなバスに揺られて、やがて人知れぬ廃墟に辿り着きます。
このように窓という窓を不透明さに覆われて外界と遮断され、極度に抽象的空間と化した黒沢的な移動装置(乗物)は、我々の知る原則からは断絶した〈世界〉そのものの暴力性に遭遇する場へと主人公/観客を導いてゆく作用があります。

この妙に曖昧な不透明さで窓を覆われたオフィスは、嵐の気配に微かに振動するようにして不可視の外界の不穏さを抽象的に漂わせています。スタジオに作られた電車車両内セットのように揺らぐ気配さえみせそうなこの抽象的な“乗物”で、香川照之はリストラを宣告され、平坦な日常から転げ落ちる(以降に登場する、事実としての乗り物である屋根の開閉する自動車や出兵する長男の乗りこむバスは、その窓からの眺めは可視的で、そのような作用は生まない)。そしてオフィスからかろうじて持ち出した日常の残滓であった私物や書類の入っているらしき紙袋も、その帰宅の道行き途中で廃棄することになります。

その道行き途中でふとたどり着く公園らしき広場は、職を失った者たちで溢れており、幽鬼の群れのような彼らのドンヨリした意志なき動作からは後戻りが困難な異界の臭気が漂う。もう後戻りが出来なくなった1人の浮浪者が、新参者の幽鬼候補者に今のうちに引き返せと助言をしている。公園には椅子とも言えないようなごく低い四角のコンクリートの塊が地面からニョキニョキと幾つも生えており、人々はその椅子(?)に律儀にポツリポツリと腰をおろしている。屋外のだだっ広い空間に多くの椅子、といういかにも黒沢的な光景は、奇妙で間抜けで、魅惑のある図。

さて、世界の変調の〈兆し〉としてある“風”に吹かれ、黒沢的〈乗物〉に揺られた香川照之は、必然的に「廃墟」に辿り着くことになります。幽鬼の群れを傍らに通り過ぎた彼は、自宅近くの三叉路で偶然次男の健二(井之脇海)と合流し(ここでの、微妙な距離感の父子のやりとりが素晴らしいと思います)、ふたりは電車がすぐそばを走り抜ける場所に建つ家に共に帰り着きますが、玄関からふつうに家に入ってゆく息子とふと距離を置いた香川照之は、玄関を回避し、家屋に付随したわずかばかりの細長い敷地を右手に迂回して苦労しいしい進んでゆき、先程雨水が激しく入り込んでいたサッシから密かに居間に侵入しようと試みる。
リストラゆえの早く帰りすぎたことを妻不審がられないために、玄関を避けての居間からの侵入だという心理的説明もなくはないのですが、どう考えても庭~居間からの侵入行為はどんな理由づけをもってもより極めて不審だし、そもそも主婦である小泉今日子が、息子の帰宅時間頃に食堂と続き部屋になっている居間にいないとタカをくくるのはいくらなんでもムリがあるでしょう。香川照之は、心理的必然とは無縁に、黒沢的「廃墟」に〈世界〉の原理に従って、開巻早々に辿り着いた。〈床一面にわずかな水を流〉されて俄かに「廃墟」化した我が家に、〈林を抜けてこの廃墟にたどりつく者〉としての資格を得るためにわざわざ貧相な庭の貧相な木々をぬって(=林を抜けて)到着する。という卑小な冒険を経て。

〈林を抜けてこの廃墟にたどりつく者がいたとするなら、その人間には「善悪」を超える権利が認められる〉、だろう。たしかに『トウキョウソナタ』での香川照之は、黒沢清的な想像力に忠実な筋道をとおって、「廃墟」たる家庭にたどりつたように見えます。しかし、ここであらわれてくる廃墟は、これまでの黒沢清映画の廃墟とはだいぶ趣が違って感じられます。

“雑な意味でのリアリティ”の信奉者であるごく普通の登場人物/もしくは観客が、それとはまったく別種の世界の原理に触れ、次第に触覚的に汚染されてゆくようにして事態が推移していったとき、不意に黒沢的廃墟が顕れてくる。それが黒沢清的な世界観というか世界把握なわけですが、『トウキョウソナタ』では冒頭から既にメインの廃墟である筈の家/家庭が画面に登場してきます。そこには、幾多の黒沢清映画にあった廃墟特有の映画的かつ魅惑的な空間性もなく、そこで吹いている風には、『降霊』なり『LOFT』なりでの風にはあった有無を言わせないような官能性が、スッポリ抜け落ちています。
不意打ちするものとしてでもなく、顕れてくるものとしてでもなく、魅惑的な官能性も欠落している『トウキョウソナタ』の「廃墟」の在り方は、黒沢清の想像力の変質を示すのでしょうか。

(→映画『トウキョウソナタ』その2につづく)

theme : 日本映画
genre : 映画

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