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青山真治“監督作品”『酔眼のまち ゴールデン街』

『酔眼のまち 新宿ゴールデン街1968~98年』
(たむらまさき、青山真治/朝日新書)


〈カウンターカルチャーの聖地・新宿ゴールデン街。1968年の新宿騒乱からバブル期の狂乱を経て、98年までの映画人の梁山泊ぶりを、渦中にあった映画キャメラマンたむらまさきの証言を〉映画監督・青山真治が聞き書きした、という触れ込みの薄い新書、『酔眼のまち 新宿ゴールデン街1968~98年』。

この本を一読したところの印象は、〈新宿ゴールデン街〉について、その黄金期に立ちあった者(たむら氏)から貴重な証言を採取し、ひとつの街の(一時代の)すがたを描き出す、というところに主眼はないと感じられます。それ(新宿ゴールデン街)はこの新書の企画が商業的に成立するための方便であって、〈キャメラマン・たむらまさき〉の貴重な証言/発言を出来るだけ長い分量として形にして残す、その映画史的な意義がこの書物の指向するところであり、〈新宿ゴールデン街〉が語られ、その証言が採取されてゆくのは、あくまで副次的な要素に過ぎません。

たむらまさき/田村正毅は映画ファンなら誰しもその名を知る名キャメラマンで、比較的若い観客にとっては歴史上の、あるいは神話的人物として捉えられているのではないでしょうか。黒木和雄『竜馬暗殺』(74)、柳町光男『さらば愛しき大地』(81)、相米慎二『ションベン・ライダー』(82)、藤田敏八『修羅雪姫』(73)等の日本映画史に燦然と輝く重要作のキャメラマンをつとめたのは勿論のこと、とりわけその名が無条件に(?)リスペクトの対象となるのは、小川プロダクションのというか、小川紳介の主要な映画群のほとんどの撮影を手がけたことによるのが大きいとおもう。小川紳介監督第1作『青年の海/四人の通信教育生たち』(66)から小川作品に撮影助手として就き、「三里塚」シリーズの第1作『日本解放戦線・三里塚の夏』(68)から撮影としてクレジットされ、以降シリーズ全作品に撮影として関わり、山形県に移り住んでからの『ニッポン国古屋敷村』(82)、『1000年刻みの日時計・牧野村物語』(86)の記念碑的二大巨編も担当。世界映画史に永遠にその輝きを刻むだろう小川作品の代表的キャメラマンとして、その名は畏怖と憧憬をもって読者に受け止められているのではないかと思います。

さてこれまでインタビューやら何やらで、その発言/証言を読んだり目にしたりすることも絶無というわけではなかったのでしたが、たむら氏は〈基本的に異様に口数の少ない人〉であり(〈「無口のたむら」と言われるくらいだったんだけど。だから「恐い」とも言われたのかな(笑)。無口でいて、いきなり怒鳴りだすと言われてたんだ。〉)、そうであれば、なかなかその発言/証言がまとまった形で世に出るのは幾分の困難があるでしょう(小川紳介全作品追悼上映会(@アテネ・フランセ文化センター)において、『三里塚・岩山に鉄塔が出来た』(72)上映時のゲストとして田村氏が登場したさいは、その無口ぶりへの配慮から松本正道氏が聞き手としてフォローしていましたし(〈普通ですと、講演というかたちでお話が進むんですが、田村さんはとても寡黙な方なので、一応僕が一緒に座らせていただいて、質問をしてみようということになりました〉(松本))、また、〈アテネ・フランセ文化センターで僕のやった作品を特集上映してくれまして、そのとき舞台に出て何かしゃべれ、というんで、(略)心細いんで(佐藤)譲に一緒に出てくれ、と頼んだ〉という具合に、その口の重さにはかつて定評があったよう)。
しかしその貴重な発言/証言の数々が世に出ないのは非常にもったいないというわけで、後発世代の映画監督として『Helpless』(96)でたむら氏と組んで以来、〈実のところこの十年、それこそゴールデン街のカウンターで、あるいはロケ先の宿舎だかその地方の酒場だかで〉多くの話を交わすことになった青山真治は、〈いつの間にかどんな話も気楽にできる立場に潜りこんでしまった私が、ならばここはひとつ、〉ある時代の、ゴールデン街や映画史の貴重な証言者であるたむら氏に長いインタビューをおこなうという〈お節介を承知で一肌脱いでおくか、と踏んだ次第〉で、それがこの『酔眼のまち 新宿ゴールデン街1968~98年』という薄い書物として結晶する。

本来であるなら、この手のインタビュー本は現行のものより、発言のより細密かつ多量な収集/提示と的確で膨大な脚注の集積によって、ひとつの時代のひとつの文化を浮かび上がらせる、というのが資料的にも書籍としてもよりよい姿であるように思えるし、朝日新書からではなくてワイズ出版あたりから重量感のある大部の書物として出版されるほうが、よほど有り難かったなという残念な気分もある。

しかし新書という性質上、そのすべてを記録し貪欲に取り込み膨れあがろうとする類いの指向性を望むべくもない『酔眼のまち』は、たむら氏の〈無口〉と〈酩酊〉をある種の口実として、その発言が戦略的に組織される。各章は〈ロールⅠ〉〈ロールⅡ〉‥と名付けられ、それらを構成するパート群は〈シーン1〉~〈シーン23〉とシーンナンバーをふられてゆく。明らかに、というか言うまでもなく一本の映画という体裁を模して組織された『酔眼のまち』は、編年体的なクロニクルとしてでなく、酩酊する語り手の非・厳密さに添うように時と場所が錯綜し、モンタージュされるようにして、全体でひとつの時代/場所/感情が浮かび上がるような、“青山真治監督作品”の『酔眼のまち』、という“映画”として、撮られ、編集されたものとして、私たちのまえに提示される。
青山真治の監督作品でいえばそのDV作品、『軒下のならずものみたいに』や『すでに老いた彼女のすべてについては語らぬために』あたりの感じの、40~50分ほどの中編がめざされているようにみえる『酔眼のまち』においては、「死者は何度でも回帰する」という青山映画的主題を担った故・太田喜代子というキャラクターが、〈不在の中心〉としてこの“映画”には遍在しています。
誰がみたって露骨に中上健次の『岬』『枯木灘』『地の果て至上の時』の秋幸三部作に添わせるように「北九州サーガ」を(浅野忠信の役名は‥などと指摘するのも憚られる露骨さで)組成していった青山真治は、本書においても中上に倣うかのように、その彼女(太田喜代子)の、〈本書の至る所に響いているはずのあの高らかな笑い声〉を、(オリュウノオバの声や瞳が中上健次の幾つもの小説に遍在し全てを見渡しているように)すべてを包みこむ遍在する基調として響きわたらせようと試みている、と感じられる。

ここでは、〈でも「唯尼庵」があって、キヨがおってのゴールデン街というところもあった。いなくなることによってゴールデン街が違ってしまった、と言えばそれもそうかもしれない〉と、まるで中上的「路地」が語られるときの口調のように、「ゴールデン街」が語られる。〈幻覚のさめたトモノオジは、はるか昔にオリュウノオバは死んだはずだ、それに律儀者で信心深いオリュウノオバが、(略)アル中の自分のような半端者に、柔らかい路地の女のように笑みをつくり手招きするはずがないと〉思い、〈トモノオジが思い浮かべ、あの時はああだった、この時はかくかくしかじかだったと神仏の由緒をなぞるように(略)、幻覚とも現実ともつかぬ相貌のオリュウノオバ相手に日がな一日来る日も来る日も語るのは、アル中のトモノオジの深い嘆き以外なにものでもなかった〉といった、『奇蹟』の記述におけるトモノオジ/オリュウノオバの二重化された語りをなぞるようにして、錯綜し酩酊したエクリチュールとして「たむらまさき」の「語る言葉」が遍在する太田喜代子の声を全編を覆う基調として、切り刻まれ、編集されてゆく。

〈話はもどるけれども〉、〈話を前に戻すけれども〉、〈また少し話が戻るけど〉といちいち頻繁に往還し錯綜し、反復するたむらまさきの語りは、この書物/映画が、露骨に反・編年体的クロニクルとして指向されていることを表します。実際、『酔眼のまち』を読んで「新宿ゴールデン街」の正確な知識を仕入れたいと願う種類の読者の期待は、残念ながら裏切られるでしょう。そこで語られているのはあくまで語りのおぼつかない酩酊者・たむらまさきの、過ぎ去ったが確かに在ったある時代へ、過ぎ去ってしまったがまだたしかに居ると感じられるひとへ向けての、ある感情の滲むエクリチュールに過ぎなくて、その様相があくまで反・知識的、反・情報的な不定形さを帯びるのは、カテゴライズを極端に嫌うというたむら氏のある種のシャイネスが、『酔眼のまち』を便利で得してタメになるようなものとして結晶化していくことに違和や拒絶を感じていたためでしょうか‥。そのために結果生じた“貧しさ”の印象は、清潔に感じられて好感を抱かせる種類のものだとおもう。

本文中で〈ハローワーク〉とも称される新宿ゴールデン街は、映画史的にはある時期重要な映画人たちの集いまた流動してゆく交通的な場として読者のまえにあらわれてきます。曽根中生、姫田真佐久、中上健次、武満徹、川喜多和子やヴェンダース等々といった錚々たる固有名詞が映画の名の下にあらわれ、そして去ってゆく運動体としての街が活写される。

それが時につれ次第に、たしかに〈徐々に人が減ってきつつあり〉、〈「ゴールデン街ハローワーク」的なことはもう全然起こらなくなって〉きたとたむら氏は語り、ゴールデン街がそれこそ(蓮實重彦が『路地と魔界』で指摘するところの)中上的に「また一人」、「また一つ」と減少の翳りをみせても、インタビューを受けて〈新宿ゴールデン街〉という路地を想起するたむら氏は〈今回のこういうきっかけ〉によって喚起された様々なものごとに対しても〈そうであったのかあ。おれはその頃、そんなことを知らずに何かワイワイ飲んでて、その人と出会ったりして、なんだかんだ言ってたんだけど、(略)ちゃんと知ってれば、もっとちゃんと付き合えたかもしれなかった〉と思い、〈だから私はますますここにいます〉と言う。〈変わったから寂しいとか、ぜんぜんない〉と言うたむら氏の、〈ずっと変化はあるわけだし〉、〈うろ覚えだったことがこのたびいろいろ修正されたり、(略)その変化のことを私なりにもう一回ちゃんと反芻して〉酩酊し記憶を錯綜させる姿勢(それこそ〈右にぶつかって一つ知り、左にぶつかって一つ知るという具合に〉)は、〈減少〉に対してあくまで悲観的な感傷を持ち出さない(反・経時的姿勢)。その“語り”に、中上的魅惑を見、そしてゴールデン街に路地をみた青山真治(小説家としては中上健次のパスティーシュから出発した)が、〈独特の言葉でもって語られるのを〉音楽をきくようにして〈聴く、という試み〉により組織するという、たいへんに中上的な方法による書物の提示をめざした、と感じられるのは、自然な経緯ではないでしょうか。青山真治は、リファレンスによる他者性の導入を不可避なものと前提することで、かろうじて映画に携わることが出来るといった倫理観をもつ「映画作家」なのだとおもう。
長編小説『ユリイカ』が『枯木灘』をめざして書かれたとするなら、新書『酔眼のまち』は、『紀州 木の国・根の国物語』の輝きに魅せられるようにして形作られていったのではないでしょうか。


付記:
本文中、〈つまらない作品〉だの〈やってて面白くはなかったな(笑)。もうほとんどばかばかしくなってきて(笑)〉と否定的に述べられている映画の題名は伏せられていますが、『1000年刻み~』の仕上げから『死霊の罠』(87)あたりということから、当該の映画は高橋和夫『熱海殺人事件』(86)と推察されますが、〈あれこれやってはいるんだけど〉と複数的に語られていることから長谷部日出雄『夢の祭り』(88)もその一本だと考えられます。

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