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蓮實重彦の捏造癖?ーー蓮實重彦『映画崩壊前夜』

20080726234944
蓮實重彦『映画崩壊前夜』


蓮實重彦の新刊『映画崩壊前夜』を読む。思ったり連想したりしたことを、以下に書いてゆこうと思います。

北野武の第1作『その男、凶暴につき』(89)に初めて接したとき、素晴らしいシーンの連続に、これは凄いとか傑作だとか思いつつ興奮しながら観つづけていたのでしたが(後年、観直したら結構スキだらけなので逆にびっくりした)、その反面、コレはちょっと‥という弱いと感じられるシーンも幾つかあって、その最たるものが白竜演じる清弘がチンピラをビルの屋上から落とす場面でした。

その直前までの、ガランとした室内に鉄パイプが転がり響きわたる音から、屋上のコンクリを振るわれる鉄パイプがガラガラ擦る音へ連鎖し、そうやって鉄パイプをふるいながら後ずさりするチンピラの背後に遥か下の地上の街並みがヌッとフレームインしてくるまでの呼吸が素晴らしいだけに、そこからの拙い指切り描写→落下するチンピラを数台のキャメラでとらえる一連の凡庸な処理には、すっかり白けて現実に引き戻されてしまったのでした。
この場面ですぐに思い出されたのは、蓮實重彦の『映画と落ちること』という(『映画の神話学』所収。この新刊『映画崩壊前夜』にも、『映画の神話学』を思わせる原論的な文章が冒頭に載っています)名高い文章で、たけしといえど映画における“落ちること”の不可能性から逃れるのは困難なんだなと思わせられたのでしたが、それとは対照的に、蓮實重彦のこの論文が間違いなくずっと念頭にあったはずの門下生・黒沢清が、『CURE』(98)や『回路』(01)や『叫』(06)などで卓抜な落下シーンを提示してみせたのが興味深い。そういえば、たけし『その男、凶暴につき』での、鉄パイプや金属バットの内部が空洞であることからくる乾いた響きや、ロッカールームや清弘のアジトのガランとした何もない空虚な空間の設計からくる乾燥した廃墟感は、後期黒沢清映画の空虚な空間性と通じるものがあるかもしれません。
物語の中枢に存在する妹・灯(川上麻衣子)は精神的にも肉体的にも空洞性を体現し、その(肉体的/精神的)空洞を何かで埋めようとする複数の登場人物による闘争劇が、『その男~』というドラマだったといえるかも知れない。そして、世界から何かを内部に補填され変容してそこに存在する妹を前にして、それこそ「全部なかったことにしたい」とばかりにたけしはその存在を抹消する。そういう意味では、灯に薬物が注入され男性器が挿入された時点で、闘争劇とともにこの映画自体も本質的には終了していて、その後のシーンは商品として成立するための蛇足であったのかもしれません。
(根本的に空虚な“何か”を埋める、という作業は北野武映画の手つきとして一貫しており、前期には主に〈時間〉が、後期では〈映画そのもの〉が空虚な空洞性を有しています)

少し話が逸れはじめてますが、この『その男~』の落下シーンをみて蓮實重彦はどう言うかな~と思っていたところ、みた限りでは89年中にたけし映画への言及はなかったし、翌90年の『マリ・クレール』での連載では、最近の若手でまともな映画が撮れるのは阪本順治と周防正行くらいのものだ、とか言っていたので、あぁたけし映画はハスミ的にはダメなんだな~と思ってた。それからしばらくのち、『あの夏、いちばん静かな海。』(91)と『ソナチネ』(93)の間くらいの時に『ルプレザンタシオン』誌上で蓮實重彦による北野武インタビューがあって、両者は初遭遇。蓮實氏がたけし映画をどう評価しているのか注目しましたが、記事を読んでみた印象ではなんだか褒めてはいるものの、例えばホウ・シャオシエンなんかに対するインタビューに比べて明らかに熱度が低く、相対的な意味で持ち上げてるんだなと思わざるをえないものでした。

のちに森昌行プロデューサーに乞われてたけし映画の世界的売り出しに一役買ったのも、たけし映画を高く評価するゆえというよりは、「いま、僕に一〇億をくれたら、五年で日本映画を世界的なものにしてみせる」「私に一〇億くれたら、くれなくてもいいから貸してくれれば(略)向こう三年は世界の映画祭でグランプリをとれる日本映画をプロデュースすることができる」等との発言の背後にある幾分“政治的な”自己顕示欲、自己実現のための道具としてたけし映画を利用しているだけにしか思えなかった。『3ー4x 10月』(90)のことは本気で好きらしいが、『ソナチネ』以後のたけし映画についての発言や文章には、どこかローテンションな弛緩した気配が漂っているように感じられます。

新刊『映画崩壊前夜』にも、『Dolls』(02)や『座頭市』(03)などのたけし映画へ言及した文章がいくつかありますが、どうも持ち上げることをあらかじめ決めたうえでその映画に接している緊張感の無さがあらわれていて、信用ならないうえに、まるでハスミのエピゴーネンの書いたんものなんじゃないかというような不出来さ。これらに藤井仁子とか署名があっても少しも不思議じゃないかんじ。

そもそも蓮實重彦の、時代時代での反応に関する捏造癖は、小心からくる明らかな弱点で、北野武評価も自分がいち早かった~みたいなとんでもないことを言うから注意が必要だとおもう。例えば『文藝別冊』の淀川長治追悼特集号における、金井美恵子との対談では〈(北野武を映画批評家で)最初から褒めてたのは、淀川さんと山田さんと僕くらいでしょ。あとは誰も褒めなかったんですから。〉なんて歴史の捏造を平気で行う。少なくとも、蓮實重彦や淀川長治よりずっと“いち早く”、(映画評論家に限っても)秋本鉄次、大高宏雄、内海陽子、北川れい子、塩田時敏、寺脇研、野村正昭、山根貞男等々といった面々が公の場でたけし映画を高く評価していました。もしたけし映画が黙殺の憂き目にあっていたのであれば、『その男、凶暴につき』がヨコハマ映画祭や映画芸術誌での年間ベストテンで共に第2位に輝くことなどなかったでしょう。それとも、蓮實重彦の言うヒヒョーカとは、佐藤忠男や双葉十三郎、山田和夫といった前世紀の遺物みたいな人々のこと“しか”指し示していないのだろうか。

その対談において蓮實氏は、〈批評家というのは、まさにその時・その場で仕事を果たす人ですから、その効果をリアルタイムに受け止められない人たちは駄目だと思う〉と断罪しますが、残念ながらその言葉は蓮實氏自身にも跳ね返ってくる。アレクサンドル・ソクーロフへの評価などは、蓮實氏が批評家として“リアルタイムに受け止め”そこなった例でしょう。

1990年のロッテルダム国際映画祭に参加した蓮實重彦は、「ストローブ=ユイレの新作『黒色の罪』と『セザンヌ』の厳しい美しさには慄然とさせられた。/第十九回ロッテルダム国際映画祭報告」という原稿を『マリ・クレール』誌に寄せる。そこでソクーロフの出品作『ボヴァリー夫人』に触れた箇所がある。これをテクスト①とします。


〈たしかにかつてのモスフィルムの文芸超大作とかなりの違いがあって、無視はしえないものの、とうていホウ・シャオシエンとは比較しえないし、ストローブとユイレの新作『セザンヌ』に唐突に挿入されるルノワールの『ボヴァリー夫人』の一シークェンスの前に消滅するしかないといった程度のものだ。〉

それが、①をそのまま収録した『映画に目が眩んで』の上梓から2年後に刊行された『映画巡礼』ではなんと以下のように修正されていました(②)。


〈かつてのモスフィルムの文芸超大作とはきわだった違いが認められる。たしかにその作風は無視はしえないものの、『ボヴァリー夫人』を見た限りではホウ・シャオシエンとは比較しえないし、ストローブとユイレの新作『セザンヌ』に唐突に挿入されるルノワールの『ボヴァリー夫人』の一シークェンスの迫力の前にはやや色褪せてみえる。この監督の評価はもっと他の作品を見てからにすべきだろう。〉

②では、“『ボヴァリー夫人』を見た限りでは”とか余計な逃げ道を新設しているし、“消滅するしかないといった程度のもの”という威勢の良い断言が、“やや色褪せてみえる”と急転直下のソフト路線。②の末尾にとってつけたように加筆された一文などは、悲しくて泣けてくる。

天下の蓮實重彦がそんなコスいマネをするに至った背景は、周知のように、90年のロッテルダム映画祭参加から93年の『映画巡礼』出版までの間に、レンフィルム祭のための作品選定という作業(サンクトペテルブルグ滞在)や『レンフィルム祭――映画の共和国へ』監修というビッグプロジェクトがあったことで、その作業の過程を経た結果“その時・その場で”“リアルタイムに”発した断定の修正を余儀なくされてしまったということになる。
たけしにしろ、ソクーロフにしろ、見くびっててスマンくらいで済むような話で、何も捏造や偽装を行わなくても‥と普通に思いますが、そんな小細工をも為さなければ批評家としてのアイデンティティが成り立ち得ないような批評家像を、蓮實氏が自身で構築してきたということでしょうか。

つまり、扇動家、動員力のある映画批評家としての部分での、蓮實重彦の根幹にあるのが「ホレ見ろ。俺が(ずっと前に)言ったとおりだろ?」という目利きの先見性、レーダーの鈍い者への絶対的な優位性なのでしょう。その命綱が(というか、その言葉の価値が)、リアルタイム勝負での打率の圧倒的な高さ、であるなら、それの「巧妙な誇示」と「負けないリアルタイム勝負」とで織りなすテクスト群の継続的な発信が必須となり、対ソクーロフ戦でのチョンボは隠蔽すべき過去となる。そんなかんじでしょうか。

私見では、蓮實氏のそういった映画批評家としての有効性をもったテクストの発信は、93年頃に書かれたヴィクトル・エリセの『マルメロの陽光』についての一群の素晴らしい文章を最後のピークとして、ゆるやかに減少/減退してゆく。ここからは確証のないテキトーな戯言ですが、90年代なかば、社会状況のタコツボ化によってでしょうか、映画を巡る言説全般のうねりを左右するような扇動運動の試みは、機能不全化する。かつては何らかのカウンターカルチャー足り得ていた、日本映画も、ピンク映画も、シネフィル的映画も映画秘宝的B級映画もVシネマも、それぞれほどほどに許容される市民権を得て並列的にサブカルチャー化する。そこでは、蓮實的文化圏からの言葉は波及して響かず、「あっそ」と受け流される。
クリント・イーストウッドの『許されざる者』(92、日本公開は93年)公開の折りに蓮實氏がパンフレットに寄せた文章は、それこそ「ホレ見ろ。ずっと前に俺が言ったとおりだろ?」の典型だったのでしたが、この一文が予想外なほど一大バッシング、大ブーイングを呼び起こしたのは、「負けないリアルタイム勝負」の提示が波及力を失い、バランスを失った「巧妙な誇示」が単なる誇示に堕ちてしまったからなのかもしれない。

90年代後半の映画批評家廃業の期間を経て、映画批評家業に復帰した「総長以後」のゼロ年代の文章群が収められている『映画崩壊前夜』においては、“その時・その場で”“リアルタイムに”他者としての未知の映画との遭遇を言葉として組織してゆく、そのような批評的運動は諦念の果てに置き去られているようにみえる。日本の映画作家でいえば、とりあげられているのは黒沢清、青山真治、万田邦敏、中田秀夫、塩田明彦、北野武といった、蓮實門下生か蓮實プロデュース関連といえるセレクトが大部分で、俗に言う内輪ボメの様相を呈し、未知の言説に触れる目眩や興奮は読む者についには訪れない。しかし、タコツボのなかでの言説でも、読むべきものが皆無な状況であるならば、それでも自分が書くしかないだろうといった消極的なモチベーションがその文章を支えているのかも知れない。
勿論、唯一無二、比類なき映画批評家として一世を風靡した蓮實重彦の映画批評は、凡百のエセ評論家を今でも遥かに凌駕する。その意味では、『映画崩壊前夜』という書物は、相対的にたいへん優れた映画批評本だ、ということが出来ると思います。

追記:北野武の修正癖?につづく)

theme : 映画関連ネタ
genre : 映画

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