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『チェケラッチョ!!』
(2006年、日本、117分)
監督:宮本理江子
音楽:ORANGE RANGE
出演:市原隼人、井上真央、平岡祐太、柄本佑、伊藤歩、玉山鉄二、山口紗弥加、KONISHIKI、ガレッジセール、陣内孝則
進路に悩む、沖縄の高校三年生のボンクラトリオ(市原隼人、平岡祐太、柄本佑、)と幼なじみの唯(井上真央)。市原隼人は、バイト先で出逢った年上の美女(伊藤歩)に一目惚れする。ある日、彼らが井上真央に連れられて人気バンド「ワーカホリック」のライブに行くと、会場には伊藤歩がいた。そしてライブをみた彼らは、バンドを組んでラップに挑戦することになるが‥。
2006年の東宝は興行的に絶好調だった。年間日本映画興行収入ランキングベストテンでは、『デスノート the Last name』(ワーナー)『男たちの大和 YAMATO』(東映)をのぞき、じつに8本を占めた(『男たち〜』は去年からのロングラン上映、ワーナーの『デス〜』は業界の掟(協定)を破る短期間でのテレビ放映でヒットを拡大したという、ややイレギュラーな要因もあった)。ラインナップ的に、『ゲド戦記』をはじめとしたアニメ作品をのぞいても、何らかの話題性、つまりメジャー性を、作品が有していたものが並ぶ。『THE有頂天ホテル』『県庁の星』『海猿LIMIT OF LOVE』『嫌われ松子の一生』『トリック2』『日本沈没』『涙そうそう』『NANA2』といった作品群は、良くも悪くも何だかんだ話題にのぼったし、ホラーというジャンルでさえ『輪廻』『着信アリFinal』はホラーファン層以外にもちゃんと題名が浸透した。見るからにマイナーな装いの『虹の女神』みたいな小品さえも、キッチリある程度の話題作に仕立て上げた。
(これに対して、たとえば東映の、『最終兵器彼女』『燃ゆるとき』『バルトの楽園』『風のダドゥ』『アジアンタムブルー』等々といった題名の映画が公開されたことが、いったいどれだけの人に認知されているのでしょうか。)
『チェケラッチョ!!』も目立たないながらも見事興行収入10億を突破(10.8億)、これは松竹第2位の『タイヨウのうた』(10.5)を上回る数字で、キャストやスケールを考えると大当たりしたと言えると思います。
東宝の戦略は、多くはテレビ局とのタイアップで知名度をあげ、ターゲットとしては若年層やファミリー層を見据える。いわゆる良心的映画ファンに訴えかける映画では、出来不出来を問わず大ヒットは見込めない。普段映画を観に行くことが習慣化していない浮動票的な部分に的を絞ることでヒットを目論むという、出版業界が露骨にベストセラーを狙うときと同様のやり口は、根本に観客への不信感がある。良質なもの、優れたものを希求する営みによって映画館が満員になるなどという、甘い考えをいだいていないのだ。
『チェケラッチョ!!』は、フジテレビとのタイアップ(スピンオフの連続ドラマも放映)、市原隼人・井上真央・平岡祐太といったプレブレイクなキャスト、夏×海×沖縄×ラップ×青春という題材、楽曲はORANGE RANGE、という要素から構成され、徹底してテレビサイズ的な平板平明な“明るさ”が指向されている。そこに〈経験〉は最初から用意されていなくて、観る前に抱く〈イメージ〉の〈確認〉、〈追認〉のためだけに作品が存在する。
“謎の美女”(伊藤歩が!?)は登場した瞬間にその正体は予想出来るし、クライマックスもラストシーンも、予想された光景がやがて目の前で繰り広げられ、それを観客は安心(と退屈)とともに確認し、観賞前抱いたイメージとの合致にどこか満足して観賞を終える。〈経験〉ともっとも遠いこの作業は、摩擦や刺激を脳にも感情にも与えることなく、その脳軟化的で平穏な〈口当たりのよさ〉が、〈快適さ〉として満足感を生むという、非生産的な構造がそこにはあって、現在的な〈イベントムービー〉のひとつの姿であるとは思う。
『ナビィの恋』(99)のときには他の人々同様、〈沖縄〉をとらえるのに〈歴史性〉を無視している制作者の姿勢に憤りを感じたりしていたのでしたが、ここ(『チェケラッチョ!!』)に至っては、もう何も感じなくなってしまった。『チェケラッチョ!!』での沖縄は、たまたま舞台が沖縄であるに過ぎず、他のどの町なり海なりに差し替えてもかまいやしないかんじがあって、『ナビィ〜』ではまだあった〈オキナワ〉固有の地域性はかなり薄れています。歴史的なものの忘却だけでなく、地霊的なものや空気感すら喪失して、スタジオだの伊豆だので撮影を済ませたといわれてもソッカと思ってしまうような抽象性を帯びた舞台で、徹頭徹尾テレビ的演技でもって物語が処理されてゆく。
開巻早々の結婚式の場面には10分も費やされ、語りの遅さが際立ちますが、これはオキナワ的時間の緩慢さを示す気概などは無論なくて、単に設定や感情や出来事を一個一個単調に説明していったら長くなったということで、退屈することはあっても置いてきぼりにされる心配は全くないという“安心の構造”が宣されているともいえましょう。以下、喜怒哀楽のハッキリした顔の演技と大きい身振り、目をこらす必要のない画面設計と、〈カッコイイ/カッコ悪イ〉〈キレイ/キタナイ〉〈縛られた大人/理屈じゃない若者〉といった意味指示作用の明確なパーツ群で映画はかたちづくられ、片手間に観ても完全に理解が及ぶという種類のノーストレスを『チェケラッチョ!!』は提供する。
〈観る〉ことが精神に負荷をかけることで何かが生じるという〈経験〉が、かつては「映画をみる」ということだった。しかし現在的な〈私〉(主体者=客体者)は、変容させてゆくものではなくて、無刺激的にただ己を肯定してくれる無限反芻的なものを欲しているだけという現状。ここでの〈私〉は、「映画をみること」によく似た、自分への共感という不毛な回路に閉じる〈イベント〉を擬似的に体験する。東宝という会社は、そのような感性を狙い撃つ。上記のラインナップを今一度みてみれば、見事に貧困な〈イメージ〉に従順に合致する、〈反・経験〉的な映画ばかりだということが露骨にみてとれます。その典型例である『チェケラッチョ!!』について、どこがいいとか悪いとか言ったりすることは、根本的に不毛なことなのだ、とおもう。






