スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

?『ニュータイプ ただ、愛のために』

あいの2
『ニュータイプ ただ、愛のために』

 (選出理由?福間健二からのつづき→)

そういえば、前々々々記事ですっかり書き忘れていましたが、城定秀夫監督の『ガチバン』(脚本はイマタケマサオと城定秀夫)、佐藤二朗が全身白タイツで演じるザーメンの役がひとつのポイントだったわけですが、あれは『愛染恭子の人妻セールスレディ~快楽の実演~』(小林悟、00)の時に助監督だった城定秀夫と竹洞哲也がやはり全身白タイツで演ったという精子の役からの意図的な引用なりオマージュなりなんでしょうか(『PG』No.103)?

‥こんな枕で人が引かないか若干心配ですが、佐藤二朗といえば、その監督デビュー作『memo』が去年公開されましたが、たいした注目も浴びなかったことが考えさせられたというか、これが20年前だったら、この独自である意味達者な軟体的映画文体やシリアスかつコミカルな不思議な作風は、それなりの話題をあつめて、要注目の異業種監督としてそれなりに語られたんじゃないか‥と時代が変わったことを思った。共通認識としての「映画」「技術」「古典」等の確固たるイメージが広く共有されていない状況では、「あえて」とも言える「個性的であること」はカウンターとしての効力を持たないということでしょうか。とすると、こういった事態は、現行のカルチャー全般が、その存在基盤として、短絡的で単純な、脊髄反射的な感情喚起作用をよりどころにするのは不可避だということを指し示し、<若い作家のウエルメイド志向と、老練な監督たちの余裕綽々のコワレっぷりに二分してしまった>(松島政一、同上)といった現象はいずれ必然だったとも言えるかもしれないし、そうすると自分の、若めの作り手に抱いている不満の数々は、言っても詮無いことかも知れません。

さて、絶賛ムード漂う園子温の『愛のむきだし』ですが、個人的にもじゅうぶんに面白かったとはいえ、何だか熱狂しきれなかったというのが正直な感想です。雑に話をすすめると、園子温は、手持ちのカードを切り尽くしたという印象で、ここまで毎回毎回観客が思わぬほどの距離を踏破してハッとさせてきたものが、手の内が底をつき、内容としても戦いかたとしても分かりきったかんじになってみると、本人の狙いとは裏腹に、ラフさが強度を削ぐ結果になっているとおもった。(なぜか)花村萬月でいうと、イケイケ後期の『皆月』『鬱』あたりを過ぎた、『ぢん・ぢん・ぢん』『風転』『♂♀』等のラフさが熱気とならずに欠点として目につくかんじを連想した。

その園子温はさいきん、「ケータイ小説的なもの」への興味をインタビュー等で示していて、『愛のむきだし』"『ちゃんと伝える』はその作品的冒険の端緒なのかも知れませんが、廣木隆一は前々からずっと地道に、「ウエルメイドなもの」「ケータイ小説的なもの」に接するように、映画を量産しているとおもう。ウエルメイドであることやケータイ小説的もしくは刹那的、あるいはセカイ系的であることは、一般に、現在的にはコミットの不能性を見据えた「交換可能性」への対処としての「文脈の不在」からの「接続性の容易さ」として捉えられていると思われますが、廣木隆一監督はそこに「具体性」の楔を打ち、「交換不可能性」を現出させる。その作用は、幾つかある作風のうち、文芸路線(『やわらかい生活』『きみの友だち』等)や、フェチ/SM路線(『美脚迷路』『ラマン』『M』等)ではなく、観念に溺れないぶん何ということもないウエルメイドな作品群(『恋する日曜日』諸作等)のほうに鮮明にあると思います。で、そのような理由から(も)、去年の廣木映画では、文学的で高級な複雑さをもつ『きみの友だち』よりも?『ニュータイプ ただ、愛のために』をとります。

さてタイトルにはその名は冠されていませんが、BS-iドラマ『恋する日曜日 ニュータイプ』からの発展企画である?『ニュータイプ ただ、愛のために』は、アンドリウ印『恋する日曜日』シリーズの映画版の、『さよならみどりちゃん』もカウントすれば第4弾。廣木隆一監督作がそのうち3本(『恋する日曜日』『恋する日曜日 私。恋した』と、本作)を占める。ダブル大悟(竹財輝之助、佐野和真)の共演ということで、ドラマ版『砂時計』のファンが劇場に押し寄せる‥ということもなく、大政絢ヲタが大挙して駆け付けるということもなく、ひっそりと少ない劇場数での公開を静かに終えた模様。僕の観た回は観客は5人いるかいないか位でした‥うむ、いつもの映画版『恋する日曜日』の客席風景、ってかんじ。
(尚、大政絢演じる超能力者・津木野ユリは、『恋する日曜日 ニュータイプ』に登場した同じく大政絢演じる超能力者と同名ですが、ドラマ版の彼女はサイコメトリーであり、生活環境も本作とは異なる。ドラマ版での片手を革手袋で隠し能力をセーブする表現は、本作での眼帯へと転化していますが、二作品はそれぞれ独立したまったくの別物です。)
まだ未ソフト化ということで、伏せるべき点は伏せて話をしたいと思いますが、別段、煽るほどの傑作であるわけでも、催涙効果のはげしい感動(喚起)作でもなく、ごく普通のウエルメイドな映画だということは先に断っておきたいとおもいます。

荒涼といいたいほど鄙びた土地、死んだようにくすんだ海と山がある、ある地方の土地。その土地の、閑散とした港の端にあるフェリー乗り場に付属する、ガランとして寂れた切符売り場の建物で、寡黙に仕事をする津木野ユリ(大政絢)。港も切符売り場も、仕事の行き帰りで通る通勤路も、そして帰りつく古びた一軒家にも、人の気配がまるで無いかあっても間欠的でごく僅か、基調としての静謐が支配する<世界>。海を見晴らすことのできる場所からの風景には、世界の終わりのような風のふく音が響きわたる。

この<終末感>、そしてある種の紋切り型でいえば中景としての<社会>が欠落した「セカイ系」の世界観のなかで、ごくわずかな登場人物たちが、「愛すること」の証明がそのまま「死」や「記憶の喪失」や「大切なつながりの感情の、消失」や「身体機能の欠損」に直結する苛酷な交換ゲームを、刹那的に/永遠的に、生きぬく。ここでは、「きみとぼく」あるいは「私とあなた」の関係の変転がそのまま<世界>の形を変え、時空と運命を歪める。接続性の容易な、つまり歴史性や固有性から無縁な「物語」は、取り立てて新味のない、“そのテ”の作品の典型といってもいいでしょうし、結末で主人公がする、ある決断的な選択は、極限状態での二択という“あるある的な”接続性の高さで、観客との共感作用を強引かつ安易に招き寄せているでしょう。

しかしここでは、そういった安易な消費行為に還元され尽くさない、具体性の余剰が感じられます。
乾いた冬の大気のようによく通る音の響きが、寂漠とした切符売り場前の空間でちいさく反響し、大政絢の住む家の、それぞれ古びた、雨戸や、柱や、床や、雑然とした庭先にはプライベートさが宿り、唯一的な、具体的な手触りとして、交換不可能性をしっとりと生理的に滲ませてゆく。それらのプライベートなスペースへ不意に男性的な無骨さと柔らかさをもって侵入してくる竹財輝之助が、大政絢に対してゆるゆると放っている異性としての官能は、シャッフル感なく、この場にしかない魅惑を、小さく更新してゆく。緩やかな長回しを基調とした演出は、そこにあるままの、反・カテゴライズ的な時空間を提示し、パターン化された感情喚起パーツの組み合わせとして流通させることが困難な「なんでもなさ」を積み重ねてゆきます(反・ヒット作的要素)。そこには、シネフィル的な文化圏に適合し易いようなショット/文体の特権化も、インテリの語りを誘発するようなフックも見当たらずに、この映画をひとつの全体として結晶させていると想定されるような野心なり自己実現方向への意図なりが希薄なのだ。そしてその希薄さを、肯定的に受けとっている自分がいる。ひとつの映画を観て、良い悪いを判断したり、コミュニケーションを志向して何事かを語ったりする、そのために存在するのではなく、ただその1時間半の上映時間のあいだ、その触感を感じつづけ、上映時間が終わる、そこにはイデアはなく、ただ触れるように“普通の映画”がそこにあるだけ。『ニュータイプ ただ、愛のために』はそのような映画だと感じた。
(反・美学的な長回しの多用は、硬直した文体として表現が閉塞してゆきがちかもしれませんが、廣木隆一のいいところは、軽薄に、いともアッサリと審美的/フェティッシュにも走るところで、中盤に颯爽と登場する廣木組常連の山田キヌヲが、海岸沿いに伸びる堤防のところを歩く横移動の画面の、急に快楽的にピシリと決まったカッコ良さ。廣木映画はやっぱり横の移動と音の設計が素敵。あと、どうでもいいこと(?)なのかも知れませんが、山田キヌヲはあの能力があるなら、“あのような事態”には陥らないのではないでしょうか‥?)

‥まだ触れていないことを幾つか。
既出記事で称賛した(?)?『接吻』は、これも既出記事で批判した(?)『トウキョウソナタ』に比べて、「他者性」「通俗」にたいする闘いかたが、より意識的だったと思っています。「シネマ」の虐殺は「映画獣」黒沢清の任ではなく、より下の年代の者が為すのが健康的。

江川達也の書いた、マンガ入門的な本だったかコラムだったか忘れましたが、そこで言われていたことのひとつは、作者が「10」の物凄い熱量で、スゲエ~面白いと思って描いたものでも、読者はようやく「1」クスリと笑うくらいだというギャップ、つまり作り手が「4」の面白さだと思って描いたものを受け手は決して「4」の面白さとは受け取らない、超本気でやらなきゃ娯楽になんか成らないというふうなことだったと記憶します。そのことを、?『片腕マシンガール』を観て思い出した。口の端をニヒルに歪めて斜に構えている類いの者には、決して作れない映画だと感嘆しました。

( 選出理由?くりいむレモン 旅のおわりにつづく)
スポンサーサイト

theme : 日本映画
genre : 映画

③福間健二

アキレス3
『アキレスと亀』

(選出理由②’柳下毅一郎2からのつづき→)

『アキレスと亀』に登場する、たけし演じる“自称”画家は、アート界の流行やら絵画の歴史やら社会的インパクトやらにたいして「傾向と対策」的に“雑に”顔色をうかがいつつ、のらりくらりと一生涯画家/アーティストであろうと、“雑に”試行錯誤する。この、雑に、テキトーに、テンション低くそれを行うという有りようが、たけしのシャイネス(と知性)を感じさせて微笑ましくもありますが、そのようにして、生涯を画家/アーティストとして全うするということのみを指向するこの映画における創作活動が最終的に「母性による肯定」に帰結するのをみていると、この映画に登場する大した衝動も必然性もなく垂れ流される絵画群の寒々しさは、そのままたけしの近年の映画群の「どうでもよさ」と重なってみえますし、その向かうところが結局のところ「承認」「自己実現」でしかないという貧相な光景としてあらわれてきます。
「世界的映画監督」というポジションで安穏に末永く過ごす状態を“つづく”ためだけにコンスタントに作られつづけているようにみえる北野武の映画群の、そのあまりの無内容さは驚異的なほどで、その荒涼とした表情はどこか独特な風情の前衛性さえ帯び、それがある種の批評性としてかすかな魅力を放っていなくもなかったのでしたが、『アキレスと亀』の場合、いつも通りたいへん退屈は退屈なのですが、そのツマラナさは、これまでのツマラナイ作品群(『菊次郎の夏』、『Dolls』、『座頭市』、『監督・ばんざい!』等)とはどこか趣が違っていて、「冴えたショット」やら「こだわりのある主題」やら「作家独自の生理/文体」やらといった“長所ふう”の特徴やら輝きまでもがここでは「どうでもいいこと」として処理されはじめていて、すべてを無為と退屈の鈍い色彩で塗り潰しているようにみえます。

承認/自己実現のために「ポジション取り」をする、そのために“長所”をアピールしたり作品内に盛り込んだりすること“さえ”も、「どうでもいいこと」だと北野武は『アキレスと亀』で言っているふうだとおもった。ただただ母性的に無条件に肯定され承認されたいだけなんだ、結局ね、あれこれと冴えてみせたから承認されるとか面倒クセーし、そんなこととは関係なく頭を撫でられたいんだ本当のところは、と。

そんな身も蓋もない心情に沿って誠実に形成されたとおぼしき『アキレスと亀』は、それゆえにハンパなく退屈で無刺激な作品として私たちの前にあらわれてきたのでしたが、しかし、現在の「日本映画」の大部分を占めるのが、何らかの、あるいは誰かしらの、承認のための消費材、サプリメントとして供給/需要されるために垂れ流されているだけのモノだと感じられます。それらが『アキレスと亀』に比べて「より退屈でない」としても、それが作り手や消費者の優位性に結び付かず、その無自覚な様はかえって北野武の聡明さを相対的に際立たせてしまう。

愚にもつかない小手先のテクニックを「人の良さ」という免罪符でコーティングして消臭した『運命じゃない人』の監督に何かを期待しているほうがあれですが、「承認/自己実現」のための“冴えてる”の供給装置として制作されたことが更に露骨になってしまっている『アフタースクール』、「見事な唸らせるシナリオ」「数少ない本当に面白い娯楽作品の作り手」「役者を輝かせる演出家」という「ポジション維持」のためだけに作られたんじゃないかと思わせてしまう愛情も情熱も知識もない『ザ・マジックアワー』(アンジャッシュのコントの、長くて無理があってツマラナイバージョンみたい)。現在の風景は、そのようにして、「承認/自己実現」のための道具として映画を利用する“アーティスト”で溢れかえっていて、河瀬直美(『七夜待』)や是枝裕和(『歩いても 歩いても』)はその代表格だとおもう。
「承認/自己実現」のための「ポジション取り」、それへむけての「傾向と対策」的な姿勢の制作が支配的な気分として蔓延している様子は、ある種の観客を意気消沈させているんじゃないか。そして内田けんじや河瀬直美ほど鈍感でもなく、より才能があるにしても、タナダユキや吉田恵輔や石井裕也といった若手勢が、そうした風潮からじゅうぶん意識的に距離をおけているとは言い難いと思います。

傑作と世評高い『ぐるりのこと。』でさえ、「傑作とはこんなかんじ」「イケてる演技設計とはこんなかんじ」「リアルってこんなかんじ」という“長所”パーツの適所配分作業が「演出」という名のもとに行われる(大いに期待した『東南角部屋二階の女』にしてもそのテの作品で、ひと昔まえの「傾向と対策」的な「シネマ」を召喚した、カビ臭い映画だと思った)。それは結局高橋洋のいう<支配的になりつつある画面や音のもっともらしい審美>を反芻もしくはちょびっと更新する、同じゲームボード上での退屈な椅子取りゲームに過ぎないんじゃないか。ある均一的な観念として共有される「傑作感」や「作家感」を構成するために、それこそデータベース消費的に「傑作素」「作家素」を召喚してレイアウトする。そのゲームに参加する観客も、同じデータベースから「批評素」「感想素」を瞬時に取り出し、安心して感動したり斜に構えたり出来る。
そういった姿勢は、たとえば作り手にとって「映画監督であること(ありつづけること)」が主眼であって、「映画=表現を為していたら、その結果、監督/俳優/アーティスト等と呼ばれた」といった姿勢とは異なるということで、そこで生まれる作品はようするに『公募ガイド』しか読んだことがないひとが書いた小説みたいなもんで、その参照する手近にある「リアルへの審美」は、<現在>にも<世界>にも接続性をもたずに無限バリエーションとしての映画の量産を促す。そこには、「消費」があって「経験」がない。“映画”ともあろうもの(?)が、単なる文化/サブカルチャーの一ジャンルとして、幾多のカルチャーと同じく<母権的な承認を求めて自己目的化したコミュニケーション>のために存在するだけだとしたら、そんなもの有っても無くてもどっちでもいいものでしかないじゃないか‥。

そんな予備校的な映画が蔓延するなか、大林宣彦『その日のまえに』、新藤兼人『石内尋常高等小学校 花は散れども』、鶴田法男『おろち』などは、独自の「リアル」、「審美観」を貫いて、オンリーワンの輝きを放っていると感じさせます。(ナンチャンが出ずっぱりの2時間以上ある映画の推移を、食い入るように観つづけさせるということが、いかに異様な偉業であることか‥)これらの映画の表現は、「いまどきのリアル」と摩擦を起こすことで、<現在>に生きていると感じられます。

で、予備校的感性に侵された若手らを尻目に去年、もっとも“若さ”を体現していると思えたのが、福間健二の②『岡山の娘』でした。

“若さ”を失うということが、人生の審美や感じかたが、次第にある一定の方向に収斂してゆき、だんだんと人格が保護的にオートマチックに作動してゆく割合が増えてゆくことだとすると、他の硬度や質感をもつ審美/リアリティと接するたびに、その都度(確固たるものと思われた人格の総体が)脅かされるようにして変質を被る、ある意味“即興的に”人格を形成する境界の振動が繰り返されることが“若さ”の顕れだということになる。
そのたびごとに、「成功」や「維持」への「最適化」(つまり「傾向と対策」的な姿勢)とは無縁な振動を更新することは、愚かな、バカっぽさとして、「置きにいく球」で「とにかく成功したいだけ」のゲーム参加者からは侮蔑の対象とされることかもしれません。しかし個人的には、ゲーム上での最適化などというしみったれた作業を、わざわざ出かけて行ってスクリーン上でみたいとは思わない。

『岡山の娘』の福間健二は、誰かの敷いた(承認されるという)レールに無自覚に乗りはせず、原初的なところから、音/映像の関係、言葉/発声/意味の関係、自然物/人工物/人物が映るということの関係を捉えなおし、その異質なモノとモノの関係を融合的にではなく、その関係の摩擦の感触を抽象的なイメージ(既存ゲーム参加の観客との共有イメージ)に還元しないように一歩一歩確かめながら掴もうとする。女優でも素人でもなく、娼婦でも母でも少女でもない<女性>がそこには存在し、川とそこを流動する水は、何かを象徴するでもなく、画面を審美的に活気づかせるためでもなく、唯物論的に存在を誇示することさえなく、ただ人々の住む土地の傍らを今日もきらきらと流れる。言葉は物語を、フィクションは世界のかたちを、視線は感情を、“必ずしも”「説明」しない、飼い馴らさない、着地させ輪郭を鮮明にしない。
“何か”を媒介としない不用意さは、「自己実現」とも「事前イメージの追認」とも異なるイメージを現前させ、そこでは異なる感触をもつ複数の「リアル」が、収斂を拒んで触れ合い、その摩擦が、即興的な振動として、ひとつずつ「人生」の「経験」を刻む。それらの提示が「知的遊戯」に陥らないところに、『岡山の娘』の未来性があると思った。

なんだか概念的に話が進んでしまっていますが、『岡山の娘』の“若さ”は、そうした観念的に捉えられる側面を別にしても、はっとするほどの瑞瑞しさを誇っていて、端的に、「映画を撮る」、その喜びに溢れている映画だと感じられます。
若い女性を、正面から斜めから、堂々と、まじまじと、キャメラを媒介として淫するように見つめることの喜び。風景や人物をカッチリとした構図におさめることの嬉しさにふるえる姿勢と、ルーズな構図で動作や風景を追うことの愉しさとが共存する。繋がらないモノを繋げることの歪さにたのしみつつも、だからといって古典的なつなぎの快楽もイデオロギー的に放逐しはしない。B班の撮った映像を組み込むことや制作の過程で出来する様々な障害や状況の変転を、<私>がひとりで特定の中心的イメージに作品を収斂させてしまうことを妨げてくれる「他者」と出逢う喜びとすること。(『岡山の娘』における詩人、小説家志望の女子、映画(シナリオ書き)青年らは、<現実>の事件/身近な人々からの反射を受けて(接続をもって)、世界との摩擦を条件とする言葉を紡ぐ。「作品」の、<世界>への接続は、「自分ひとりで考えた」ことからは決して生じないことを、登場人物たちは知っている。現在や世界との接続性をもたない消費的な「審美」に閉じない、この映画におけるクリエイターたちは、幾重にも重なる質感の異なるリアルの感触の有機的な繋がりとして、人生を生きる。)
そのようにして、つっかえ、つっかえながら、他者の「リアル」と接触を繰り返してゆく、人生の軌跡のように。『岡山の娘』は、「承認/自己実現」ゲームとは意識的に距離をおいた、閉塞を突破する“娯楽映画”だとおもった。

(私的なことですが、敬愛する福間健二氏に、『岡山の娘』公式ブログで当ブログについて言及していただいたことは、この上ない喜びでしたが‥佐藤忠男を「遺物」呼ばわりしたことを、やんわり窘められただけというかんじも、なくはなかった。
いちおうここで言っておこうと思いますが、佐藤忠男は、例えば森直人や尾崎一男といった現在相対的に優秀と思われる批評家やライターと比べても、比較にならないほど多くの偉大な仕事を成した映画評論家だと思っています。しかし、『映画でわかる世界と日本』や『知られざる映画を求めて』等を読んでみても、ちょっと読めないというのが正直な感想で、『わが映画批評の五○年』の前半部の、言説を更新しようと意気込んだような(時代の)文章群には魅力を感じるのに、80年代以降の文章になるととたんに読めなくなる。「書くこと」が何かを伝達するための便利な道具にすぎないかんじがあって、佐藤氏のめざすものが文学やらエクリチュールやらでないにしても、個人的には(近親のお年寄りの手紙のように)読むのが苦痛な書き手であることに変わりはなく、形骸化した「仕組み」に、情報内容を嵌め込む手つきにはシステマティックなもの、つまり若くなさ、を感じています。)

(選出理由④ただ、愛のためににつづく)

okayama3.jpg
『岡山の娘』

関連記事:『岡山の娘』へ
       『岡山の娘』その1
       2008年日本映画ベストテン
       選出理由①城定秀夫
       選出理由②柳下毅一郎1
       選出理由②’柳下毅一郎2

       

theme : 日本映画
genre : 映画

08 | 2009/09 | 10
Su Mo Tu We Th Fr Sa
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 - - -
プロフィール

ししらいぞう

Author:ししらいぞう



東京在住

調理師のようなことをやっています。

趣味は立ち読み 格闘技観戦 映画観賞

3月生まれO型  

ランキング参加中☆
良かったらクリックをお願いします


ブログランキング・にほんブログ村へ
ブログランキング
ブログ内検索
最近の記事
リスト
2009年09月の記事
カテゴリー
Category Sum
全記事一覧
あいさつ 11
映画紹介(ア行) 21
映画紹介(カ行) 19
映画紹介(サ行) 13
映画紹介(タ行) 15
映画紹介(ナ行) 7
映画紹介 (ハ行) 18
映画紹介(マ行) 9
映画紹介(ヤ行) 7
映画紹介(ラ行) 5
映画紹介(ワ行) 1
観るまえの映画のこと 19
本と映画 22
雑誌と映画 18
その他映画 36
フルモーションレーベル 14
『恋する日曜日』 13
ユーロスペース 5
本・マンガ 40
雑誌 22
ドラマ 60
いろいろなBest10 15
日記 75
作家・監督・俳優・女優 6
舞台・イベント 4
未分類 8
月別アーカイブ
最近のコメント
最近のトラックバック
リンク
YouTubeSEARCH mini
おみくじ

©Plug-in by
FairyDances
★
HeroRisa

ぱたぱたアニメ館
GIFアニメ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。