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秋の新ドラマ

古い話題が続いてますが、夏を通りこしてまもなく始まる秋の連ドラ、みる予定なのは以下のもので、期待している順です。

『流星の絆』(金子&宮藤、キャスト)
『ブラッディ・マンデイ』(キャスト)
『ギラギラ』(ネタ、荒井修子)
『メン・ドル IKEMEN・アイドル』(枠、キャスト)
『Room Of King』(枠、大宮エリー、キャスト)
『トンスラ』(枠、スタッフ、吉高由里子)
『セレブと貧乏太郎』(上戸彩)
『風のガーデン』(倉本聰)
『イノセント・ラヴ』(キャスト)
『オー!マイ・ガール!!』(吉田里琴)
『夢をかなえるゾウ』(小栗旬)
『七瀬ふたたび』(原作)

『SCANDAL』は“微妙な年齢の女4人組”モノ、前期『四つの嘘』がアレだったのでどうも見る気がしませんが、逃したら後悔する気もします。『イノセント・ラヴ』、月9で堀北真希×北川悠仁では数字が出るわけがなくて、終わってからアーダコーダ非難されそうで今から気の毒なかんじ。カビ臭いAC風味のハッタリドラマだったら、早期離脱するかも。

東野圭吾×宮藤官九郎、というだけでも食い合わせが悪いかんじなのに、戸田恵梨香×錦戸亮×二宮和也という組合せもゼンゼンピンと来ませんが、終わってみれば結局一番面白いような気もする『流星の絆』。ポイントは戸田さんと錦戸くんの関係性か?
自分はジャニーズには比較的耐性があると思ってますが、Jr.っぽいのはどうにも生理的にダメ(少年売春的な臭気が気持ち悪い)なので、そんな香りが充満してそうな『スクラップ・テイーチャー 教師再生』はパス。今さらな『チーム・バチスタの栄光』は、キライな伊藤淳史が主演だからパスしたいが、仲村トオルの変人・白鳥役は気にかかる。

三浦春馬&佐藤健の『ブラッディマンデイ』のキャスティングには爽やかな新しい風があると思えるのに、『Room Of King』の水嶋ヒロ×鈴木杏には新味が感じられないのは何だろう。『七瀬ふたたび』の蓮佛美沙子は角川の秘蔵っ子で、古き良きジュブナイル路線まっしぐら。実はけっこう需要のある貴重な隙間ポジション?

アホくさい原作をもつ『夢をかなえるゾウ』、2時間SPの単発ドラマ版と、日テレ木曜深夜という珍奇な枠の連ドラ版が別にあって、それ(2時間ドラマ版&連ドラ版初回)が10月2日にそれぞれ放映という煩雑さ。なんか面倒くさいなあ‥。
毎度毎度しっかりしたクオリティを維持している信頼のテレビ東京深夜枠〈ドラマ24〉。今回の『メン☆ドル』はAKBの3人が主役ということで、あらかじめ敬遠するひとも多そう。ヲタ商売のナメたヌルドラマでなく、いつも通りの良質なドラマを期待したいですね。

ところで、『月刊ザテレビジョン』を読んでたら『愛讐のロメラ』について〈いとうあいこが昼ドラに初挑戦〉とあって、いい加減さにムッときた。昼ドラでは『貞操問答』にも出ているし、『スイーツドリーム』という立派な主演作だってあるのに‥。
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theme : 2008年 テレビドラマ
genre : テレビ・ラジオ

ドラマ『ROOKIES』その2

ルーキーズ1
『ROOKIES』


ドラマ『ROOKIES』その1からのつづき→)

2.ワルボロとクローズZERO(つづき)

物語設定のレベルでも、『クローズZERO』のその親和は(どの地方に住んでいようと、どの年代であろうと)誰もが容易に接続しうるサブカル的データベースのアーカイヴからの召還事項との間に生じます。

小栗旬の役柄の設定は、「ヤクザの組(流星会)を継ぐための強さと器の大きさを、超不良高校(鈴蘭)をシメて頂点に立つことで証明しようとする、転校生」というものだし、(ツッパリ/ヤンキーモノの現在的なイコンというべき)やべきょうすけも「その小栗の組(流星会)とは敵対する組(矢崎組)に属しながらも小栗に友情と絆を感じ、刺客として板挟みになるチンピラ」という役柄で、それらは、現実のリアリティとも大きな物語の歴史性とも無縁に構成された、パターン化された物語構成パーツの組み合わせとしてそこにあるに過ぎず、固有性(他者性)として想像力を排除しない(『ワルボロ』におけるコーちゃん/松田翔太の家族間の感触や、ビデちゃん/古畑勝隆の家庭環境は、物語を駆動させる「設定」として存在するのではなくて、パーツ構成的でない、交換不可能なものとしての、プライベートな切なさがある)。
それは交換可能なものとして、それぞれの消費者が属する文化圏(マンガ、映画、ゲーム、アニメ、小説等‥)のデータベースから各人が構成要素を呼び出し、イメージを結晶することがスムーズであるように設計されていて、そのテの漫画なり映画なりに精通していなくても簡単に「ノる」ことが出来る間口の広さを示しています。

肝心のアクションシーンについてもそういう傾向は顕著で、『クローズZERO』において、「痛み」や「スピード感」を実現させたその描写(主に予備動作のデフォルメ化と打撃インパクト時の時間圧縮)は、現実の精緻な観察や映画的な呼吸の良さにより結実させた「リアリティ」とも、(近年誰しも食傷ぎみでしょうが)クンフーアクションの豊かな歴史が作り上げた技法による様式美としての意匠的アクション等とも距離を置き、テレビゲーム的(格ゲー的)なデータベースからその技法を召還する。
(アクション主体である)俳優の肉体のパフォーマンスに依拠するわけでもなく、演出家独自の個性による映像表現としてあるわけでもない『クローズZERO』のアクションの生成は、あくまで“重さというもの無い平面表現”での、「重く、速く、痛く 」の実感を希求し、ここでは格ゲーの(実感的/臨場的リアリズムの方向性への)進化パターンと同じ方法論が採られていると感じさせます。そこにあるのは、マンガ/アニメ/映画からの非・歴史的な借用、単なるツールとしての手法やアイデアの再利用であって、言わば「データベース消費」的にアクションが(そして、映画が)組織されてゆく。
そこでは、映画(史)的教養の有無などといった辛気くさいフィルターは破棄され、接続性が高く、ほどよい「実感」に充たされた娯楽として『クローズZERO』という映画が提供されています。


3.花ざかりの君たちへとクローズZERO

そういった諸要素のうえで、『クローズZERO』を大ヒットに導いた最大の要因は、ティーン女子やF1層といった、本来基本的にはツッパリ/ヤンキーモノとは無縁のところにある観客を呼びこんだ点にあったと思われます。彼女たちは、ヤンキーの男気を観に来たわけでも、激しいアクションに期待を膨らませて来たのでもなく、小栗くんや山田(孝之)くんといった、どちらかというとテレビスターである「アイドル男優」の、一風変わった“コスプレ劇(←いつもと趣の違うカッコ良さ)”をスペシャル版のテレビドラマを享受するような期待の仕方で、映画館に駆けつけたのではないでしょうか。相容れない複数の文化圏を、『クローズZERO』は親和的に接続することに成功した、と言えるんじゃなでしょうか。

昨今のDーBOYS等の隆盛や『花より男子』(小栗旬のブレイク作)シリーズの大ヒットにより、イケメン・ムーブメントが盛り上がってきている折り、必ずしもジャニーズメインではない“イケメン軍団のパッケージ売り”としてのソフトとして、『クローズZERO』公開と同時期に放映されていた、フジテレビ系テレビドラマ『花ざかりの君たちへ イケメン♂パラダイス』(これも小栗旬主演‥)がブレイクする。そこで選ばれた題材(原作)は、オリジナルの面白さうんぬんというよりはイケメンをパッケージ売りするための方便に過ぎず、実際にドラマ『花ざかりの君たちへ イケメン♂パラダイス』という作品が優れていたということがあるにせよ、そのような消費者のニーズと芸能プロダクションの要望が幸福な合致が生んだ産物ともいえて、以後、この方向性は商業的に確立したと言っていいと思います。

本来フジのドラマの脚本家であった武藤将吾(『花ざかりの君たちへ~』脚本)を無理を言って招き、東宝/TBSは映画『クローズZERO』を成功させる。ヤンキーモノが、“イケメン軍団のパッケージ売り”という口実として、新たな金脈として動き出したという流れを感じさせました。
ドラマ『ごくせん』シリーズもそのような流れの先駆けに見えますが、基本ジャニーズメインの(ジャニタレバーター売り的な)テレビドラマの一環に見える『ごくせん』の、ナヨナヨしたなんちゃってヤンキー像は、文士劇や学園祭でのバンド演奏のように、愛好者や仲間内感覚の濃厚な根本的には閉塞した文化圏の、内向きの求心力に支えられているように感じられる。女性アイドル像が、“グラビア/歌メインで演技はお愛想”というモデルから、演技での露出がメインの「アイドル女優」といったモデルに移行していったように、『クローズZERO』におけるヤンキー群像も「アイドルのなんちゃって演技」ではなく、本格的な(俳優的)クオリティを求められています。「アイドル男優」は、ジャニーズマニア的な閉塞感を、島宇宙化を逃れた存在として突破する。俳優としても遜色なく、男性的魅力としても求心力のある、そのような存在としての任を負った「アイドル男優」は、『花ざかりの君たちへ~』のようなバカバカしい話や設定にも全力で付き合い、立ち向かい、振りきった演技を提示することにも躊躇しない。こんなドラマでそこまでしなくても‥という声もよそに繰り広げられたそのムダな熱量の放射が、いつしか、冷ややかに見守る眼にさえ爽やかで強い情動を映し、感情を揺り動かしはじめる。


4.ROOKIES

‥また話題が逸れはじめてる気もします。で、前項での、アウトサイダーと『クローズZERO Ⅱ』とのコラボへの違和感ーー凡百の産業的なソフトとは違う、〈極端な、もう足も踏み入れられないような差〉があるモノとして『THE OUTSIDER』や『クローズZERO Ⅱ』があるんだという差別化の誇示としてのコラボレーションだが、果たしてそれほどの決定的な差(ホンモノの危険さ)を果たして示し得ているだろうかというーー違和感について、上記のような過程を振りかえってみるとまさにその正反対のソフトとして『クローズZERO』が存在しているように感じられます。足も踏み入れられないような危険さを示す、どころか、どの近接する文化圏からも足を踏み入れることが極めて容易であり、なにより映画興行で潜在的観客の最大のボリュームである女性層を取り込むことに成功した、稀有な本格的ヤンキー映画(not少女マンガセンス)、それが『クローズZERO』だということになるかと思います(※1)。

菊地成孔氏はアウトサイダー観戦記において、カルチャーとしての格闘技/プロレスが、〈なんかもう全部Aの箱(オタクカルチャーの箱)の中にボンボンボンボン入れられちゃう〉と、ヤンキー文化との不均衡なバランスの不健康さを嘆いてみせたのでしたが、そこで絶賛された“絶対的なB”であるアウトサイダーとの親和性を誇示してみせた『クローズZERO Ⅱ』は、じっさいのところ、〈Aの箱〉ならぬ〈女子供の箱〉の中に〈ボンボン入れられちゃう〉、という事実が、現在的な避けられない商業的な隆盛としてあらわれている。ツッパリ/ヤンキーモノが“イケメン軍団のパッケージ売り”という口実として〈女子供の箱〉を経由して、アウトローなVシネマのセンスまでが消費されるのは、しかし、そう悪いことでもないとおもう。やべきょうすけがメインキャラクターを演じる、三池崇史監督の、墨汁を撒いたような黒っぽい画面の映画が大ヒットするのだというなら、その鉱脈は尊守すべきものでしょう。

TBS/東宝が確かな感触として掴んだこの路線は、2008年の春から夏にかけてのTBSドラマ『ROOKIES』として、ふたたび提示されました。『オーラの泉』、『めちゃイケ』、『世界一受けたい授業』に包囲され、完全に“死に枠”である土曜8時に新設されたドラマ枠での絶対的に不利なスタートを余儀なくされたうえ、度重なるバレーボール中継で何度も放送休止の憂き目にあいながらも、最終話では19・5%を記録するという大健闘をみせて終了した『ROOKIES』は、今秋のスペシャル版放送決定に加えて来春の続編映画版公開と、その勢いは増すばかり。聞けば、映画版はやはり東宝系で公開とのこと。このことは、『ROOKIES』がTBS/東宝の『クローズZERO』が切り開いた路線を継ぐある種のシリーズ作であるという確証ともなり、ジャンルムービーの新たな萌芽の予感さえ漂わせています。

小栗旬や山田孝之が不在とはいえ、『ROOKIES』には高岡蒼甫、桐谷健太、やべきょうすけ、鈴之助、伊崎央登、遠藤要、上地雄輔、高橋努、深水元基、小柳友といった『クローズZERO』のキャストが大挙して再集結し、まさにクローズZEROふたたび、といった勢いで春期連ドラの話題をかっさらいました。
勿論、“イケメン軍団のパッケージ売り”の口実として、野球+不良=若い男だらけという題材がピックアップされたに過ぎないにせよ、たとえば同時期放映の『ごくせん』第3シリーズと異なるのは、先程も少し触れましたが外へ波及してゆく力として表れるか、閉塞してゆく求心力として表れるかという作品の示す方向性の違いとしてあらわれます。

『クローズZERO』(的作品)がそもそも、“商売として、女子供にウケればいい”という作りになっておらず、あくまで従来の(Vシネマに親和性のあるような)男性消費者の観賞に耐えうるモノであろうとするのが大前提だったわけで、そのうえで他の文化圏への接続をよくした事が状況の更新だった。それに対して、旧来からのジャニーズメイン的パッケージ・ソフトがターゲットを絞るのはそのままソッチ方面であって、“口実としての物語”はパッケージ売りとしての意義が第一であることは揺るがず、結果的にそのソフトが良質であろうがなかろうが切り離しがたい排他的な閉塞感をともない、他文化圏への接続を弱めてしまう。

『ごくせん』の作劇は、ヤンクミ/仲間由紀恵が例外的な能力をもってトラブルを解決するというクライマックスから逆算してなされており、発端までを遡行するようにしてパターン化された物語のパーツが説得的に順序よく配置されてゆく。そして、そのあらかじめ用意された枠に当て嵌るように、高校生役の男子達がそれぞれの魅力やそれなりの演技力をそこで示してゆく。
このドラマでは、「形式の維持」が至上命令のように前提にあって、各パーツでの各人の演技なり存在感なりにリアリティや説得力が欠けていたとしても、全体としては頑として揺るがないという特質がある。それを視聴者はいちいち作品世界を著しく損なうキズだとか騒ぎだてたりせず、「お約束」に枠をとられた安全でナアナアの(=内輪的)パッケージとして受容する。ここでの“ヤンキー”や“ヤクザ“は、それこそ〈女子供の箱〉に〈ボンボン入れちゃう〉ための単なるファッションであり、ファンタジーとしてのみ消費される。要するに、ヤンクミの格闘を、真に迫った“強さ”と納得している視聴者などまず存在しないわけで、それはそれ、とカッコに入れて割りきることが出来る文化圏の者にだけ、『ごくせん』的作品は接続可能だという開かれ方をして、そして、閉じている。

(→ドラマ『ROOKIES』その3につづく)

(※1‥‥興行通信社調べによると、『クローズZERO』の客層の比率は男女比が43:57、ティーンが観客数の53.8%を占めるという。)

theme : テレビドラマ
genre : テレビ・ラジオ

ドラマ『ROOKIES』その1

くろ
『クローズZERO』


『ROOKIES』
(TBS系、土曜20時~、放映期間4/19~7/26)
企画:石丸彰彦
原作:森田まさのり
脚本:いずみ吉紘
プロデューサー:津留正明
演出:平川雄一朗ほか
主題歌:GReeeeN「キセキ」
出演:佐藤隆太、市原隼人、小出恵介、城田優、中尾明慶、高岡蒼甫、桐谷健太、佐藤健、五十嵐隼士、川村陽介、尾上寛之、村川絵梨、浅野和之、吹石一恵ほか


1.アウトサイダーとクローズZEROⅡ

不良達ヨ、覚醒セヨーー
常にその動向が注目されるプロレス/格闘技界のカリスマ・前田日明が、今年の3・30に旗揚げした不良のための喧嘩(格闘技?)大会『THE OUTSIDER』は、一部でたいそう話題になりました。で、『Quick Japan』の原稿依頼により、7・19の『THE OUTSIDER』第2回大会(第弐戦)をリングサイド観戦した菊地成孔が『Quick Japan』vol.79及び『kamipro.com』のpodcast番組「mimipro」で言っていたことがなかなか興味深かった(『Quick Japan』の記事では〈オタク文化/ヤンキー文化〉と表記されていたものが「mimipro」では〈A系/B系〉と表現されています)。菊地氏は、大筋、以下のように語っていました。

日本はアメリカに極端に似てきているが、日本には、白人と黒人が残念ながらいない。在日韓国人という方たちをよしんば対立項に持ってきたとしても色はおなじであり、黒人と白人のような厳然たる区別は無く、もしBLACK&WHITE的な対立項を設けるとすれば、これはもうA系/B系(オタク文化/ヤンキー文化)しかない。このAとBがちゃんと(BLACK&WHITEみたいに)拮抗している状態が一番健康的だと思われるが、現在Aが世を席巻していて、BはAのように世間を巻き込んでエライことになってない。そのうえ〈犯罪までAに持ってかれちゃったら、Bの不良はカタ、ないです、よね。Aからもヤバいひと出てきて、包丁振り回しちゃう、えー、模倣犯が出て、毎日毎日日本のどこかでグサグサグサグサ。あんなことされちゃったら、ワルの、面目丸つぶれだし、ストリートの暴力とかいうエネルギーのそのマグマの力が、なんかもうナイみたいなね。〉〈で、格闘技は格オタって言われるぐらいで、なんかもう全部Aの箱の中にボンボンボンボン入れられちゃう。〉そんな、『マッスル』がAの極北で、Bが絶無というアンバランスななか、『THE OUTSIDER』の出現で、バランスがとれた。極端な、もう足も踏み入れられないような差ってのはあるべきだし、それが丁度揃って、とっても健康的だと思った、と菊地氏は言う。

なんだ、単なる島宇宙の棲み分け話じゃないか、と思われるかたもいるでしょうし、じっさいそれだけの話とも言えますが‥‥なるほど、確かに危険な、他の文化圏の者には触れがたい香りが漂っているのでしょうし、それはそれで大変魅力的なイベント/ソフトが出来上がりつつあるんだろうなとハタから楽しく思う一方、何か、棲み分け無事完了、とは言いきれない変な気分があります。
〈変に毒抜きされてオーバーグラウンドになるぐらいなら、アンダーグラウンドでいいからカルチャーとして輝いているほうがいいのかも〉と菊地氏は『QJ』誌で述べていましたが、すでに早くも、巧妙に毒抜きの魔手が忍び寄っているんじゃないかと感じられます。それは個性によって棲み分けられた隣接する島宇宙・Aからの侵略ではなく、それらを商業的に利用しようとするメディアによって、後方から浸食されてゆく感じ。

この大会(第弐戦)において、前田日明、三池崇史監督らがリング上にあがり、『THE OUTSIDER』と映画『クローズZERO Ⅱ』とのコラボを発表しました(コラボレーションの内容は、今のところは『THE OUTSIDER』に出場したファイターやその取り巻きのなかから選抜されたメンバーが、不良役として映画に出演するというもの)。
大手映画会社製作(東宝/TBS)の商業映画とのコラボだからといって、『THE OUTSIDER』が商業的に取り込まれてオーバーグラウンド化してしまったと即断するわけにはいきません。これは、〈THE OUTSIDER〉のもつ「危険さ」と、三池崇史もしくは『クローズZERO』のもつ「危険さ」とを共鳴させ、世間にひろく波及/認知させるための広告効果のためのコラボレーションでもあり、互いの「ヤバさ」の「ホンモノ感」、「半端なさ感」を提示する宣言でもあるわけだ。凡百の有りがちで産業的なソフトとは違う、それこそ〈極端な、もう足も踏み入れられないような差〉があるモノとして『THE OUTSIDER』や『クローズZERO Ⅱ』があるんだという差別化が誇示されています。
しかし、『クローズZERO』という映画が、果たしてそれほどの〈極端な、もう足も踏み入れられないような〉決定的な差(ホンモノの危険さ)、を、他のその種の映画(群)に対し、果たして示し得ているだろうかという疑問が当然湧くわけで、結論から先に言えば、事態はまったく逆だったんじゃないかと思う。



2.ワルボロとクローズZERO

去年(2007年)、ほぼ同じ時期に『クローズZERO』、『ワルボロ』という二本のヤンキーモノ映画が公開され、周知のように興行成績という面でははっきり明暗が分かれました。東宝『クローズZERO』の興行収入が25億という、大ヒットといえる数字をたたき出したのに対し、公開スクリーン数は3分の1とはいえ、東映『ワルボロ』はわずか興収1・5億程度にとどまり、その作品的クオリティに自信のあった東映の配給を大いに動揺させる結果となりました。
配給が東映で、製作がセントラル・アーツ、製作に黒澤満の名があることからみても、『ワルボロ』は系譜的に『ビー・バップ・ハイスクール』の流れを汲むヤンキーモノ映画のバリバリに正統な後継作と言うことが出来ますし、キャスティングの時代的タイミングや細部の演出の肌理細かさも含めて、普通に言って充分に健闘している映画だと思われますが、結果大コケした。ここまでは、ケンカ/ヤンキーモノ映画は現在、商業的に厳しいという従来の興行価値基準に沿うような結果が順当に出ただけとも言える。しかしそこで、『クローズZERO』よもやの大ヒット。東映の配給が真に動揺したのは、『ワルボロ』がコケたことよりも、東宝なんぞが作ったヤンキーモノ『クローズZERO』が大ヒットしたことのほうが大きかったのじゃないかとおもう。

それだけ差が開く結果となったことには、いくつもの要因が考えられます。まず最初に挙げられるのは東宝/TBSの、テレビ局主導の製作委員会方式による映画制作が相も変わらず強力な成果をあげているということで、昨今の東宝ひとり勝ち状態は、マルチメディア展開による浸透の効率化と製作委員会方式によるリスクヘッジの方法論が機能的に回転するノウハウを有していることが大きい。対して東映は、去年までは旧態依然とした製作/配給体制が残っており(2007年全体の成績としても興収が前年比74%と惨憺たるもの)、シネコンの台頭やテレビ局主導という潮流におおきく出遅れていた結果ともいえます(今年度は修正し、『相棒』の大ヒットを為した)。
そのうえ、マルチメディア展開の元ソフトである原作の点でも、ある大きな一定の市場をなすヤンキー漫画の中のベストセラー『クローズ』と、たかだか一介のライターによる自伝的小説でしかない『ワルボロ』とでは元々の波及力が比べものにならないということもあるでしょうし、キャストやスタッフの差異による公開段階での吸引力/集客力の差も影響しているだろうと思われます。

映画の内実としても、集客力に影響的な表情の違いが認められます。『ワルボロ』は1980年代の立川や国立を舞台とし、そこで繰り広げられる青春群像劇は、特定の時代性・地域性に基盤を置いたうえで固有的に生成されてゆく。ここでの観賞は、交換不可能な「歴史性」を、言わば「大きな物語」を媒介しての共感作用が強いられることとなり、共通前提としての教養や文化が拡散し作用する力が弱まった現在では、避けるべきメンドクサイものとして、共感を阻害する要素となって敬遠されかねない。『パッチギ!』や『ALWAYS 三丁目の夕日』の場合は、一見『ワルボロ』と同じように時代や場所が限定されているように見えても、そこでの「時代」や「地域性」は単なるファンタジーであり、観念的・抽象的なイメージの公約数的な具体化でしかないため、共感することにストレスがかからない「事前イメージの再確認作業」でしかない観賞体験であり、多くの支持を容易に得ることが出来たのだとおもう。
『ワルボロ』では、諸事情により殆どロケーションに現実の立川(や国立)が使用されていず、当時の風景の精緻な再現など成されていないのにかかわらず、ここには、その時にしか吹いてはいなかっただろう風の、具体的な臭いと肌触りがある。
新垣結衣の自転車を操る手つきや、ビデちゃんの部屋の諸々のインテリアなどの、繊細な“ほんとうさ”には、交換不可能な艶があって、そこには勿論、新人監督・隅田靖の確かな演出の痕跡が認められると言えましょうが、そもそも、隅田監督が助監督として長年師事した澤井信一郎監督は、「日本映画」の「歴史」そのものであるマキノ雅弘の教えを尊守する「撮影所システムの(最期)の後継者」という自覚をもった、それこそ「歴史」の体現者であったのだ。ある一定の映画ファンは、『ワルボロ』を観るとき、映画の演出をとおして、隅田~澤井~マキノと遡る、日本映画の、あるいは東映の築いてきた歴史(映画史)や継承される技法を確認してゆき、また、セントラル・アーツの足跡を辿るようにして、『ビー・バップ・ハイスクール』以来のヤンキーツッパリモノの系譜の行く末に思いを馳せることとなる。
しかし、そういった類いの観賞には、ある種の選民指向的な排除の力が働き、(ある人たちには「良い映画」かもしれないけど、「歴史性」を共感ツールとして共有しない自分らには知ったことか‥)という隔絶感を生みかねないという弱さにも転化しうるでしょう。

勿論、『ワルボロ』の演出は慎ましやかなもので、高飛車に観客を選別したりはしていないのですが、作品の表情にどこか交換不可能性に重く撓む気配があり、いつ、どこからでも即時コミット出来る気分を有していないと感じられ、映画が、シネコン時代的意味合いでは、開かれていないともみえる。自分ちの近所にある大きいTSUTAYAに、『ワルボロ』のレンタルDVDが大量入荷したさい、「最新作」のあいだは全く人気がなく有り余っていたのが、「準新作」におちた瞬間から大人気で、打って変わって回転しまくっていましたが、それは、『ワルボロ』には不特定多数の人々に対してそれなりの興味を抱かせ得るものの、“即時的に”接続させる作用力が極端に弱いという性質によるものなのかと感じられました。

それに対し、『クローズZERO』はレンタル開始から常にトップスピードでフル回転、棚にはカラ(レンタル中)のケースが常に並び、1本残っていればラッキーくらいのもので、その即時的な接続の容易さからくる“取っつきの良さ”は特筆モノだと感じられます。
映画『クローズZERO』の世界は、何時とも、何処とも言い得ないような、(非・特定的な)抽象的な時間/空間として観客のまえに現れてきます。そこへの接続は、ある特定の文化圏にコミットしていなければ充全に理解出来ないような、そんな排他的な気配が無く、「事前イメージの再確認」を為すのがスムーズであるだろうという、弛緩した/リラックスした接続を“予想させる”。『クローズZERO』という映画がある、という認識を持ちうる程度の文化的近接性のある世界に生きているだけで、即『クローズZERO』に接続可能だという開かれかたを、この映画は磁場として持っているわけで、三池崇史のフィルモグラフィも東宝という会社の作風も、予習しておく必然はいっさい無く、そもそも映画は原作『クローズ』の前日談であるのだから、原作を予習しその“相違を楽しむ”必要すらない‥。


(なんだか、いつまでたっても話が『ROOKIES』にたどり着きませんが‥その2につづく

theme : テレビドラマ
genre : テレビ・ラジオ

青山真治“監督作品”『酔眼のまち ゴールデン街』

『酔眼のまち 新宿ゴールデン街1968~98年』
(たむらまさき、青山真治/朝日新書)


〈カウンターカルチャーの聖地・新宿ゴールデン街。1968年の新宿騒乱からバブル期の狂乱を経て、98年までの映画人の梁山泊ぶりを、渦中にあった映画キャメラマンたむらまさきの証言を〉映画監督・青山真治が聞き書きした、という触れ込みの薄い新書、『酔眼のまち 新宿ゴールデン街1968~98年』。

この本を一読したところの印象は、〈新宿ゴールデン街〉について、その黄金期に立ちあった者(たむら氏)から貴重な証言を採取し、ひとつの街の(一時代の)すがたを描き出す、というところに主眼はないと感じられます。それ(新宿ゴールデン街)はこの新書の企画が商業的に成立するための方便であって、〈キャメラマン・たむらまさき〉の貴重な証言/発言を出来るだけ長い分量として形にして残す、その映画史的な意義がこの書物の指向するところであり、〈新宿ゴールデン街〉が語られ、その証言が採取されてゆくのは、あくまで副次的な要素に過ぎません。

たむらまさき/田村正毅は映画ファンなら誰しもその名を知る名キャメラマンで、比較的若い観客にとっては歴史上の、あるいは神話的人物として捉えられているのではないでしょうか。黒木和雄『竜馬暗殺』(74)、柳町光男『さらば愛しき大地』(81)、相米慎二『ションベン・ライダー』(82)、藤田敏八『修羅雪姫』(73)等の日本映画史に燦然と輝く重要作のキャメラマンをつとめたのは勿論のこと、とりわけその名が無条件に(?)リスペクトの対象となるのは、小川プロダクションのというか、小川紳介の主要な映画群のほとんどの撮影を手がけたことによるのが大きいとおもう。小川紳介監督第1作『青年の海/四人の通信教育生たち』(66)から小川作品に撮影助手として就き、「三里塚」シリーズの第1作『日本解放戦線・三里塚の夏』(68)から撮影としてクレジットされ、以降シリーズ全作品に撮影として関わり、山形県に移り住んでからの『ニッポン国古屋敷村』(82)、『1000年刻みの日時計・牧野村物語』(86)の記念碑的二大巨編も担当。世界映画史に永遠にその輝きを刻むだろう小川作品の代表的キャメラマンとして、その名は畏怖と憧憬をもって読者に受け止められているのではないかと思います。

さてこれまでインタビューやら何やらで、その発言/証言を読んだり目にしたりすることも絶無というわけではなかったのでしたが、たむら氏は〈基本的に異様に口数の少ない人〉であり(〈「無口のたむら」と言われるくらいだったんだけど。だから「恐い」とも言われたのかな(笑)。無口でいて、いきなり怒鳴りだすと言われてたんだ。〉)、そうであれば、なかなかその発言/証言がまとまった形で世に出るのは幾分の困難があるでしょう(小川紳介全作品追悼上映会(@アテネ・フランセ文化センター)において、『三里塚・岩山に鉄塔が出来た』(72)上映時のゲストとして田村氏が登場したさいは、その無口ぶりへの配慮から松本正道氏が聞き手としてフォローしていましたし(〈普通ですと、講演というかたちでお話が進むんですが、田村さんはとても寡黙な方なので、一応僕が一緒に座らせていただいて、質問をしてみようということになりました〉(松本))、また、〈アテネ・フランセ文化センターで僕のやった作品を特集上映してくれまして、そのとき舞台に出て何かしゃべれ、というんで、(略)心細いんで(佐藤)譲に一緒に出てくれ、と頼んだ〉という具合に、その口の重さにはかつて定評があったよう)。
しかしその貴重な発言/証言の数々が世に出ないのは非常にもったいないというわけで、後発世代の映画監督として『Helpless』(96)でたむら氏と組んで以来、〈実のところこの十年、それこそゴールデン街のカウンターで、あるいはロケ先の宿舎だかその地方の酒場だかで〉多くの話を交わすことになった青山真治は、〈いつの間にかどんな話も気楽にできる立場に潜りこんでしまった私が、ならばここはひとつ、〉ある時代の、ゴールデン街や映画史の貴重な証言者であるたむら氏に長いインタビューをおこなうという〈お節介を承知で一肌脱いでおくか、と踏んだ次第〉で、それがこの『酔眼のまち 新宿ゴールデン街1968~98年』という薄い書物として結晶する。

本来であるなら、この手のインタビュー本は現行のものより、発言のより細密かつ多量な収集/提示と的確で膨大な脚注の集積によって、ひとつの時代のひとつの文化を浮かび上がらせる、というのが資料的にも書籍としてもよりよい姿であるように思えるし、朝日新書からではなくてワイズ出版あたりから重量感のある大部の書物として出版されるほうが、よほど有り難かったなという残念な気分もある。

しかし新書という性質上、そのすべてを記録し貪欲に取り込み膨れあがろうとする類いの指向性を望むべくもない『酔眼のまち』は、たむら氏の〈無口〉と〈酩酊〉をある種の口実として、その発言が戦略的に組織される。各章は〈ロールⅠ〉〈ロールⅡ〉‥と名付けられ、それらを構成するパート群は〈シーン1〉~〈シーン23〉とシーンナンバーをふられてゆく。明らかに、というか言うまでもなく一本の映画という体裁を模して組織された『酔眼のまち』は、編年体的なクロニクルとしてでなく、酩酊する語り手の非・厳密さに添うように時と場所が錯綜し、モンタージュされるようにして、全体でひとつの時代/場所/感情が浮かび上がるような、“青山真治監督作品”の『酔眼のまち』、という“映画”として、撮られ、編集されたものとして、私たちのまえに提示される。
青山真治の監督作品でいえばそのDV作品、『軒下のならずものみたいに』や『すでに老いた彼女のすべてについては語らぬために』あたりの感じの、40~50分ほどの中編がめざされているようにみえる『酔眼のまち』においては、「死者は何度でも回帰する」という青山映画的主題を担った故・太田喜代子というキャラクターが、〈不在の中心〉としてこの“映画”には遍在しています。
誰がみたって露骨に中上健次の『岬』『枯木灘』『地の果て至上の時』の秋幸三部作に添わせるように「北九州サーガ」を(浅野忠信の役名は‥などと指摘するのも憚られる露骨さで)組成していった青山真治は、本書においても中上に倣うかのように、その彼女(太田喜代子)の、〈本書の至る所に響いているはずのあの高らかな笑い声〉を、(オリュウノオバの声や瞳が中上健次の幾つもの小説に遍在し全てを見渡しているように)すべてを包みこむ遍在する基調として響きわたらせようと試みている、と感じられる。

ここでは、〈でも「唯尼庵」があって、キヨがおってのゴールデン街というところもあった。いなくなることによってゴールデン街が違ってしまった、と言えばそれもそうかもしれない〉と、まるで中上的「路地」が語られるときの口調のように、「ゴールデン街」が語られる。〈幻覚のさめたトモノオジは、はるか昔にオリュウノオバは死んだはずだ、それに律儀者で信心深いオリュウノオバが、(略)アル中の自分のような半端者に、柔らかい路地の女のように笑みをつくり手招きするはずがないと〉思い、〈トモノオジが思い浮かべ、あの時はああだった、この時はかくかくしかじかだったと神仏の由緒をなぞるように(略)、幻覚とも現実ともつかぬ相貌のオリュウノオバ相手に日がな一日来る日も来る日も語るのは、アル中のトモノオジの深い嘆き以外なにものでもなかった〉といった、『奇蹟』の記述におけるトモノオジ/オリュウノオバの二重化された語りをなぞるようにして、錯綜し酩酊したエクリチュールとして「たむらまさき」の「語る言葉」が遍在する太田喜代子の声を全編を覆う基調として、切り刻まれ、編集されてゆく。

〈話はもどるけれども〉、〈話を前に戻すけれども〉、〈また少し話が戻るけど〉といちいち頻繁に往還し錯綜し、反復するたむらまさきの語りは、この書物/映画が、露骨に反・編年体的クロニクルとして指向されていることを表します。実際、『酔眼のまち』を読んで「新宿ゴールデン街」の正確な知識を仕入れたいと願う種類の読者の期待は、残念ながら裏切られるでしょう。そこで語られているのはあくまで語りのおぼつかない酩酊者・たむらまさきの、過ぎ去ったが確かに在ったある時代へ、過ぎ去ってしまったがまだたしかに居ると感じられるひとへ向けての、ある感情の滲むエクリチュールに過ぎなくて、その様相があくまで反・知識的、反・情報的な不定形さを帯びるのは、カテゴライズを極端に嫌うというたむら氏のある種のシャイネスが、『酔眼のまち』を便利で得してタメになるようなものとして結晶化していくことに違和や拒絶を感じていたためでしょうか‥。そのために結果生じた“貧しさ”の印象は、清潔に感じられて好感を抱かせる種類のものだとおもう。

本文中で〈ハローワーク〉とも称される新宿ゴールデン街は、映画史的にはある時期重要な映画人たちの集いまた流動してゆく交通的な場として読者のまえにあらわれてきます。曽根中生、姫田真佐久、中上健次、武満徹、川喜多和子やヴェンダース等々といった錚々たる固有名詞が映画の名の下にあらわれ、そして去ってゆく運動体としての街が活写される。

それが時につれ次第に、たしかに〈徐々に人が減ってきつつあり〉、〈「ゴールデン街ハローワーク」的なことはもう全然起こらなくなって〉きたとたむら氏は語り、ゴールデン街がそれこそ(蓮實重彦が『路地と魔界』で指摘するところの)中上的に「また一人」、「また一つ」と減少の翳りをみせても、インタビューを受けて〈新宿ゴールデン街〉という路地を想起するたむら氏は〈今回のこういうきっかけ〉によって喚起された様々なものごとに対しても〈そうであったのかあ。おれはその頃、そんなことを知らずに何かワイワイ飲んでて、その人と出会ったりして、なんだかんだ言ってたんだけど、(略)ちゃんと知ってれば、もっとちゃんと付き合えたかもしれなかった〉と思い、〈だから私はますますここにいます〉と言う。〈変わったから寂しいとか、ぜんぜんない〉と言うたむら氏の、〈ずっと変化はあるわけだし〉、〈うろ覚えだったことがこのたびいろいろ修正されたり、(略)その変化のことを私なりにもう一回ちゃんと反芻して〉酩酊し記憶を錯綜させる姿勢(それこそ〈右にぶつかって一つ知り、左にぶつかって一つ知るという具合に〉)は、〈減少〉に対してあくまで悲観的な感傷を持ち出さない(反・経時的姿勢)。その“語り”に、中上的魅惑を見、そしてゴールデン街に路地をみた青山真治(小説家としては中上健次のパスティーシュから出発した)が、〈独特の言葉でもって語られるのを〉音楽をきくようにして〈聴く、という試み〉により組織するという、たいへんに中上的な方法による書物の提示をめざした、と感じられるのは、自然な経緯ではないでしょうか。青山真治は、リファレンスによる他者性の導入を不可避なものと前提することで、かろうじて映画に携わることが出来るといった倫理観をもつ「映画作家」なのだとおもう。
長編小説『ユリイカ』が『枯木灘』をめざして書かれたとするなら、新書『酔眼のまち』は、『紀州 木の国・根の国物語』の輝きに魅せられるようにして形作られていったのではないでしょうか。


付記:
本文中、〈つまらない作品〉だの〈やってて面白くはなかったな(笑)。もうほとんどばかばかしくなってきて(笑)〉と否定的に述べられている映画の題名は伏せられていますが、『1000年刻み~』の仕上げから『死霊の罠』(87)あたりということから、当該の映画は高橋和夫『熱海殺人事件』(86)と推察されますが、〈あれこれやってはいるんだけど〉と複数的に語られていることから長谷部日出雄『夢の祭り』(88)もその一本だと考えられます。

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夏の思い出?

この夏は、なんだかブログに携わるモチベーションが保てず、すっかりサボリ癖がついてしまいました‥。何かを観たり読んだりすることに時間を費やす気にはなっても、それを何やかんや書いてアウトプットする必然がどうも感じられなくて、どうしたもんでしょうか。

映画は、映画館も何度か行きましたが、最近は基本的にレンタルDVDでの観賞が大部分で、しかも準新作まで落ちてからのレンタルがメイン、ということで、すっかり世の中の流れには置いてきぼりにされているので、わざわざ逐一何か反応するのもバカバカしいというか‥そんななか、DVDで観た前田弘二監督『くりいむレモン 旅のおわり』は年間ベスト級の傑作だとおもいました。自分の判断として『人のセックスを笑うな』がなぜだか何か絶賛出来ない理由が、『旅のおわり』を観てわかった気がする。機会があれば別記事で何かしら言いたいと思います。

映画を観賞するという環境においても、人々が、価値観のちがう文化圏に分かれてそれぞれ無縁であるかのように生息する状況化が進む現在、幾つかの話題作、たとえば『崖の上のポニョ』や『セックス・アンド・ザ・シティ』や『花より男子ファイナル』などに対して、性差/年代別/文化圏別にまったくその評価を異にしていて、そうして、お互いにその異なる評価や判断に対して耳を貸す気も、自分の認識なり判断なりを再検討する気もさらさら無いように見えるのが、なんとも現在的だなというのがこの夏の印象でしょうか。個人的には『ポニョ』も『セックス・アンド・ザ・シティ』も素晴らしかったと思いますが、その意見の内実を説得的に外部にむけて言い募ることに不毛な感じがどうしてもあります。この(言ってもしょうがないという)感じが加速されたのは、去年の『恋空』あたりからだったのか‥。

同じく賛否両論モノとはいえ、阪本順治監督『暗闇の子供たち』においては、観客それぞれ一人一人のなかに賛否が渦巻くというか、映画によって単純に全肯定でも全否定でもない感情や思考が喚起され(また、そうされるよう映画じたいが設計されている)、最終的に表面にあらわれて表明される意見なり感想なりは、その異なる意見が交通的なバリエーションとして対話の材料となる。『暗闇の子供たち』という映画は、その意味で“古き良き”「問題作」だと言えるかもしれません。

自分としては、素材や主題の重要性がどうあれ、その出来栄えからして『暗闇の子供たち』を肯定することはどうにも出来ないという立場ですが、それよりも今回、『暗闇の子供たち』を巡る言説に接していて気になったのは、一昔前であったら、熊井啓や今井正やらの真摯だが鈍重な社会派映画に対して、映画としての貧しさという立ち位置からその作品を否定的に語っていたであろうひとなどが、こと阪本順治/『暗闇の子供たち』に対しては、そのタイヘンな題材に真摯にぶつかっていったのだから表現の達成度はどうあれ貴重な挑戦と尊重すべきみたいな、そんな言葉を弄して擁護したりしているのがどうにも腑に落ちないかんじがある。『シネフロント』一派の人たちがそうゆうこと言うならわかるんですが‥。

その『暗闇の子供たち』を観に渋谷へ行ったのが最大の遠出だったこの夏は、いつになく何の思い出も印象もなく終わっていった1シーズンだったのでしたが、強いて最も印象に残ったことというと‥‥特に名を秘すGO!GO!アッキーナなる深夜番組をみていたら、5年ほど昔に僕の上司だったヌマケンこと沼田健氏が画面に登場してビックリしたこと、です。沼田さんはドッキリを仕掛けられる側のBerryz工房オタクの1人として登場、カラオケルームにてベリエやら℃ーuteやらの曲にあわせて熟練のダンスを披露。そういえば当時、沼田さんは、根強く囁かれていた松浦亜弥ファン疑惑を否定しておきながら、飲みの席では「あややかわいいよお~」と呟いていました‥。5年の歳月は、沼田さんをその後ベリオタに変えていたのか‥しかし、なんか画面の向こうの沼田さんは幸せそうで、良かった。

さて、だいぶ間が空いてしまい、書くと言っていたこともいろいろと書き逃してしまいましたが、特に反応もないので気にせず先に進もうと思います。

次項以後記事予定~
○青山真治・たむらまさき『酔眼のまち 新宿ゴールデン街1968~98年』
○ドラマ『ROOKIES』(&『クローズZERO』など)
○2008年夏ドラマ
○『Girl's Box/ラバーズ☆ハイ』その3
○宇野常寛『ゼロ年代の想像力』
○『ハプニング』

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