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追記:北野武の修正癖?

なんだか前項は『映画崩壊前夜』本体とはあまり関係ない話ばかりして終わってしまいましたが、考えたら映画についての雑多な文章を集めた蓮實重彦の映画本について、新刊とはいえ今さら大して言うべきこともない気もします。

さて、蓮實重彦がたけし映画評価について小細工じみた歴史修正を加えていたという話をしましたが、そういえばたけし=北野武も、映画についての言説ではかつてそれらとどこか似たような修正を施しておりました。そのことが、どこか自分がたけし映画への信頼を曇らせていったことの一因ともなっていた、と感じられます。その例を2つほど以下にあげようと思います。
(ただし以下の話は、原典が古い週刊誌だったりするため手元に資料がなく、自分の記憶に依るものなので資料性や引用というか言い回しなどはアイマイ。気になるかたは国会図書館等で確かめていただきたいと思います。)

今はなき『週刊テーミス』誌に90年7月18日号~91年7月17日号まで映画カントク・たけしによる映画評が連載されていました。北野武的には、第2作『3ー4x 10月』~第3作『あの夏、いちばん静かな海。』というイケイケな時期にあたる。これは『仁義なき映画論』(単行本奥付は91年12月)としてのちに一冊にまとめられましたが(この有りがちな映画本は、平易な語り口で精緻かつ正確な評価を下してゆくなかなかに侮れないもので、松本人志のアホみたいな映画批評などは比較にならない類のもの。中野翠あたりがウカウカできないレベル?)、連載時はたしか違ったタイトルだったと思うが今は思い出せません。

で、単行本化にあたって、当初は別々の記事だった『八月の狂詩曲』や『真夏の地球』が他記事と統合されてスリム化していたのは別にいいとして、問題なのは載録が見送られた回が幾つかあるということで、そのセレクトから漏れたというのがアキ・カウリスマキ監督『コントラクト・キラー』やセルゲイ・パラジャーノフ監督『ざくろの色』といった優れた作品群で、しかしこの連載では前者は確かギャグが冴えねえとかセンスが悪いとか、後者がセゾンのCMみたいなもんで大したもんじゃないとか、貶しというか掃いて捨てていたように記憶しています。

それを単行本化するさいに、『!(アイ・オー)』などのマルでもバツでもどうでもいいような作品をとりあげた、それこそどーでもいいような回は収録しているのに、パラジャーノフやカウリスマキの回はヤメる、という判断に至ったのは、おそらく誰か周囲のブレーンで映画に詳しい者が、「たけしさん、スコセッシならともかく、パラジャーノフやカウリスマキの価値を見定められなかった文章を単行本として後世に残すと、のちのち末永く嘲笑の対象になりますよ、載せるのはおやめなさい」的なことを進言し、たけしのほうも彼の言うことを信頼していて従う。そのような背景があったのではないか。それが『HANAーBI』あたりで「二人目の(実質的)監督」とも言われたりした森プロデューサーなのか、それとも「スコセッシはともかく、パラジャーノフやカウリスマキがダメっていうのはちょっと」といかにも言いそうなあの人なのか‥。しかし、それが誰であろうとも、そういうチンケな隠蔽を経て「映画的教養はないが映画が本質的にワカッてる映画監督」像をつくりあげようとしているかに見える北野武監督の周囲に漂う空気には、“実”より“名”をとるような、俗物的な処世術を思わせるものがあって、なんだかな~と失望感がなくもなかった。たけしほどの表現者が、己の審美眼や倫理観を世間や特定の文化圏の評判に迎合してどうするんだと憤るのは、青い意見なのだろうか。

もしかしてたけしは抜きん出た才能をもつ表現者として単純に勝負するよりも、自己アピールが巧みで世渡り上手な計算君として、映画に携わっていこうというスタンスに移行してゆくんじゃないか。そんなかすかに芽生えた不信感が確信にかわったのは、次のような矛盾する2つの発言によってでした。共にたぶん週刊誌あたりでの発言だったと思いますが、確証はありません。

ひとつは『ソナチネ』(93)が公開され、ひとしきり(概ね高評価な)批評やら評判が出揃ったあとでの発言で、(批評家ってもんは何もわかっちゃいないね。みんな『ソナチネ』を最高傑作だの何だのと持ち上げるけど、オイラに言わせりゃ『ソナチネ』は全然ダメ、半分くらいしか上手くいってない。それを全肯定で持ち上げられてもなぁ)というふうなかんじに、批評や反応に対して侮蔑的な気分をぶつけていたし、『ソナチネ』の出来上がりにもガッカリして幾分恥じているようでもあった。この時のたけしにとって、自分のなかでいちばん良かった『3ー4x 10月』(90)の沖縄パートのイメージに『ソナチネ』は全然及ばなかった、という認識であったよう。

それが、『HANAーBI』(98)でヴェネチア国際映画祭グランプリという栄冠を得、国内外でそれこそ〈名〉を成したときの発言(週刊誌か何かでの、北野武成功ヒストリー的な記事?)では、何だかその時言っていた認識が無かったものとなっていて、愕然とした。それは大体(オイラは『ソナチネ』を世に問うたとき、この映画で世界の映画の最先端に並んだ、そう思った。けど『HANAーBI』を撮って&発表してみて、まだまだ(自分の表現の高みの)先はあったんだって分かった)というふうな内容で、『ソナチネ』は上手くいかなかったし後退してしまったなという当時の自己認識が、国内外の高い『ソナチネ』評価に引っ張られるようにして消えていってしまった。
映画監督の仕事とは「OK」か「NG」かを決めることだ、という言葉がありますが、この「行け」と「待て」の峻別を、感性や論理や倫理や人間性、それこそ才能としかいいようのないものによって決断する能力(とは、要するに「魅力」のことでもある)を有するのが映画監督という存在のもつスキルであるなら、『ソナチネ』の価値判断をいつの間にやら外部に委託してしまい、『HANAーBI』のゼロ号試写あたりでは煮え切らない印象をもっていたらしい筈のたけしが、グランプリを得た途端に上記のような言葉を発することで、「映画監督業」の主体を世間的/映画祭文化圏的評価に躊躇なく委託していると示すのは、ある種の職務放棄のあらわれと言えなくもない。『HANAーBI』の段階でのたけしは自分のなかの映画的倫理によって「OK」「NG」を峻別することを止めていて、外部の評価がそれを最終的に決める、というごく通俗的で社会的存在であるような方式を選んでいると言えそうです。「世界的映画作家になる(する)」というたけし・プロジェクトは、孤高で唯一無二な存在として豊かに突出する、という方法ではなく、傾向と対策により予備校的にス
ノッブにおもねったやり方をもって完遂された。


関連記事:蓮實重彦の捏造癖?ーー蓮實重彦『映画崩壊前夜』
       映画『TAKESHIS'』
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蓮實重彦の捏造癖?ーー蓮實重彦『映画崩壊前夜』

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蓮實重彦『映画崩壊前夜』


蓮實重彦の新刊『映画崩壊前夜』を読む。思ったり連想したりしたことを、以下に書いてゆこうと思います。

北野武の第1作『その男、凶暴につき』(89)に初めて接したとき、素晴らしいシーンの連続に、これは凄いとか傑作だとか思いつつ興奮しながら観つづけていたのでしたが(後年、観直したら結構スキだらけなので逆にびっくりした)、その反面、コレはちょっと‥という弱いと感じられるシーンも幾つかあって、その最たるものが白竜演じる清弘がチンピラをビルの屋上から落とす場面でした。

その直前までの、ガランとした室内に鉄パイプが転がり響きわたる音から、屋上のコンクリを振るわれる鉄パイプがガラガラ擦る音へ連鎖し、そうやって鉄パイプをふるいながら後ずさりするチンピラの背後に遥か下の地上の街並みがヌッとフレームインしてくるまでの呼吸が素晴らしいだけに、そこからの拙い指切り描写→落下するチンピラを数台のキャメラでとらえる一連の凡庸な処理には、すっかり白けて現実に引き戻されてしまったのでした。
この場面ですぐに思い出されたのは、蓮實重彦の『映画と落ちること』という(『映画の神話学』所収。この新刊『映画崩壊前夜』にも、『映画の神話学』を思わせる原論的な文章が冒頭に載っています)名高い文章で、たけしといえど映画における“落ちること”の不可能性から逃れるのは困難なんだなと思わせられたのでしたが、それとは対照的に、蓮實重彦のこの論文が間違いなくずっと念頭にあったはずの門下生・黒沢清が、『CURE』(98)や『回路』(01)や『叫』(06)などで卓抜な落下シーンを提示してみせたのが興味深い。そういえば、たけし『その男、凶暴につき』での、鉄パイプや金属バットの内部が空洞であることからくる乾いた響きや、ロッカールームや清弘のアジトのガランとした何もない空虚な空間の設計からくる乾燥した廃墟感は、後期黒沢清映画の空虚な空間性と通じるものがあるかもしれません。
物語の中枢に存在する妹・灯(川上麻衣子)は精神的にも肉体的にも空洞性を体現し、その(肉体的/精神的)空洞を何かで埋めようとする複数の登場人物による闘争劇が、『その男~』というドラマだったといえるかも知れない。そして、世界から何かを内部に補填され変容してそこに存在する妹を前にして、それこそ「全部なかったことにしたい」とばかりにたけしはその存在を抹消する。そういう意味では、灯に薬物が注入され男性器が挿入された時点で、闘争劇とともにこの映画自体も本質的には終了していて、その後のシーンは商品として成立するための蛇足であったのかもしれません。
(根本的に空虚な“何か”を埋める、という作業は北野武映画の手つきとして一貫しており、前期には主に〈時間〉が、後期では〈映画そのもの〉が空虚な空洞性を有しています)

少し話が逸れはじめてますが、この『その男~』の落下シーンをみて蓮實重彦はどう言うかな~と思っていたところ、みた限りでは89年中にたけし映画への言及はなかったし、翌90年の『マリ・クレール』での連載では、最近の若手でまともな映画が撮れるのは阪本順治と周防正行くらいのものだ、とか言っていたので、あぁたけし映画はハスミ的にはダメなんだな~と思ってた。それからしばらくのち、『あの夏、いちばん静かな海。』(91)と『ソナチネ』(93)の間くらいの時に『ルプレザンタシオン』誌上で蓮實重彦による北野武インタビューがあって、両者は初遭遇。蓮實氏がたけし映画をどう評価しているのか注目しましたが、記事を読んでみた印象ではなんだか褒めてはいるものの、例えばホウ・シャオシエンなんかに対するインタビューに比べて明らかに熱度が低く、相対的な意味で持ち上げてるんだなと思わざるをえないものでした。

のちに森昌行プロデューサーに乞われてたけし映画の世界的売り出しに一役買ったのも、たけし映画を高く評価するゆえというよりは、「いま、僕に一〇億をくれたら、五年で日本映画を世界的なものにしてみせる」「私に一〇億くれたら、くれなくてもいいから貸してくれれば(略)向こう三年は世界の映画祭でグランプリをとれる日本映画をプロデュースすることができる」等との発言の背後にある幾分“政治的な”自己顕示欲、自己実現のための道具としてたけし映画を利用しているだけにしか思えなかった。『3ー4x 10月』(90)のことは本気で好きらしいが、『ソナチネ』以後のたけし映画についての発言や文章には、どこかローテンションな弛緩した気配が漂っているように感じられます。

新刊『映画崩壊前夜』にも、『Dolls』(02)や『座頭市』(03)などのたけし映画へ言及した文章がいくつかありますが、どうも持ち上げることをあらかじめ決めたうえでその映画に接している緊張感の無さがあらわれていて、信用ならないうえに、まるでハスミのエピゴーネンの書いたんものなんじゃないかというような不出来さ。これらに藤井仁子とか署名があっても少しも不思議じゃないかんじ。

そもそも蓮實重彦の、時代時代での反応に関する捏造癖は、小心からくる明らかな弱点で、北野武評価も自分がいち早かった~みたいなとんでもないことを言うから注意が必要だとおもう。例えば『文藝別冊』の淀川長治追悼特集号における、金井美恵子との対談では〈(北野武を映画批評家で)最初から褒めてたのは、淀川さんと山田さんと僕くらいでしょ。あとは誰も褒めなかったんですから。〉なんて歴史の捏造を平気で行う。少なくとも、蓮實重彦や淀川長治よりずっと“いち早く”、(映画評論家に限っても)秋本鉄次、大高宏雄、内海陽子、北川れい子、塩田時敏、寺脇研、野村正昭、山根貞男等々といった面々が公の場でたけし映画を高く評価していました。もしたけし映画が黙殺の憂き目にあっていたのであれば、『その男、凶暴につき』がヨコハマ映画祭や映画芸術誌での年間ベストテンで共に第2位に輝くことなどなかったでしょう。それとも、蓮實重彦の言うヒヒョーカとは、佐藤忠男や双葉十三郎、山田和夫といった前世紀の遺物みたいな人々のこと“しか”指し示していないのだろうか。

その対談において蓮實氏は、〈批評家というのは、まさにその時・その場で仕事を果たす人ですから、その効果をリアルタイムに受け止められない人たちは駄目だと思う〉と断罪しますが、残念ながらその言葉は蓮實氏自身にも跳ね返ってくる。アレクサンドル・ソクーロフへの評価などは、蓮實氏が批評家として“リアルタイムに受け止め”そこなった例でしょう。

1990年のロッテルダム国際映画祭に参加した蓮實重彦は、「ストローブ=ユイレの新作『黒色の罪』と『セザンヌ』の厳しい美しさには慄然とさせられた。/第十九回ロッテルダム国際映画祭報告」という原稿を『マリ・クレール』誌に寄せる。そこでソクーロフの出品作『ボヴァリー夫人』に触れた箇所がある。これをテクスト①とします。


〈たしかにかつてのモスフィルムの文芸超大作とかなりの違いがあって、無視はしえないものの、とうていホウ・シャオシエンとは比較しえないし、ストローブとユイレの新作『セザンヌ』に唐突に挿入されるルノワールの『ボヴァリー夫人』の一シークェンスの前に消滅するしかないといった程度のものだ。〉

それが、①をそのまま収録した『映画に目が眩んで』の上梓から2年後に刊行された『映画巡礼』ではなんと以下のように修正されていました(②)。


〈かつてのモスフィルムの文芸超大作とはきわだった違いが認められる。たしかにその作風は無視はしえないものの、『ボヴァリー夫人』を見た限りではホウ・シャオシエンとは比較しえないし、ストローブとユイレの新作『セザンヌ』に唐突に挿入されるルノワールの『ボヴァリー夫人』の一シークェンスの迫力の前にはやや色褪せてみえる。この監督の評価はもっと他の作品を見てからにすべきだろう。〉

②では、“『ボヴァリー夫人』を見た限りでは”とか余計な逃げ道を新設しているし、“消滅するしかないといった程度のもの”という威勢の良い断言が、“やや色褪せてみえる”と急転直下のソフト路線。②の末尾にとってつけたように加筆された一文などは、悲しくて泣けてくる。

天下の蓮實重彦がそんなコスいマネをするに至った背景は、周知のように、90年のロッテルダム映画祭参加から93年の『映画巡礼』出版までの間に、レンフィルム祭のための作品選定という作業(サンクトペテルブルグ滞在)や『レンフィルム祭――映画の共和国へ』監修というビッグプロジェクトがあったことで、その作業の過程を経た結果“その時・その場で”“リアルタイムに”発した断定の修正を余儀なくされてしまったということになる。
たけしにしろ、ソクーロフにしろ、見くびっててスマンくらいで済むような話で、何も捏造や偽装を行わなくても‥と普通に思いますが、そんな小細工をも為さなければ批評家としてのアイデンティティが成り立ち得ないような批評家像を、蓮實氏が自身で構築してきたということでしょうか。

つまり、扇動家、動員力のある映画批評家としての部分での、蓮實重彦の根幹にあるのが「ホレ見ろ。俺が(ずっと前に)言ったとおりだろ?」という目利きの先見性、レーダーの鈍い者への絶対的な優位性なのでしょう。その命綱が(というか、その言葉の価値が)、リアルタイム勝負での打率の圧倒的な高さ、であるなら、それの「巧妙な誇示」と「負けないリアルタイム勝負」とで織りなすテクスト群の継続的な発信が必須となり、対ソクーロフ戦でのチョンボは隠蔽すべき過去となる。そんなかんじでしょうか。

私見では、蓮實氏のそういった映画批評家としての有効性をもったテクストの発信は、93年頃に書かれたヴィクトル・エリセの『マルメロの陽光』についての一群の素晴らしい文章を最後のピークとして、ゆるやかに減少/減退してゆく。ここからは確証のないテキトーな戯言ですが、90年代なかば、社会状況のタコツボ化によってでしょうか、映画を巡る言説全般のうねりを左右するような扇動運動の試みは、機能不全化する。かつては何らかのカウンターカルチャー足り得ていた、日本映画も、ピンク映画も、シネフィル的映画も映画秘宝的B級映画もVシネマも、それぞれほどほどに許容される市民権を得て並列的にサブカルチャー化する。そこでは、蓮實的文化圏からの言葉は波及して響かず、「あっそ」と受け流される。
クリント・イーストウッドの『許されざる者』(92、日本公開は93年)公開の折りに蓮實氏がパンフレットに寄せた文章は、それこそ「ホレ見ろ。ずっと前に俺が言ったとおりだろ?」の典型だったのでしたが、この一文が予想外なほど一大バッシング、大ブーイングを呼び起こしたのは、「負けないリアルタイム勝負」の提示が波及力を失い、バランスを失った「巧妙な誇示」が単なる誇示に堕ちてしまったからなのかもしれない。

90年代後半の映画批評家廃業の期間を経て、映画批評家業に復帰した「総長以後」のゼロ年代の文章群が収められている『映画崩壊前夜』においては、“その時・その場で”“リアルタイムに”他者としての未知の映画との遭遇を言葉として組織してゆく、そのような批評的運動は諦念の果てに置き去られているようにみえる。日本の映画作家でいえば、とりあげられているのは黒沢清、青山真治、万田邦敏、中田秀夫、塩田明彦、北野武といった、蓮實門下生か蓮實プロデュース関連といえるセレクトが大部分で、俗に言う内輪ボメの様相を呈し、未知の言説に触れる目眩や興奮は読む者についには訪れない。しかし、タコツボのなかでの言説でも、読むべきものが皆無な状況であるならば、それでも自分が書くしかないだろうといった消極的なモチベーションがその文章を支えているのかも知れない。
勿論、唯一無二、比類なき映画批評家として一世を風靡した蓮實重彦の映画批評は、凡百のエセ評論家を今でも遥かに凌駕する。その意味では、『映画崩壊前夜』という書物は、相対的にたいへん優れた映画批評本だ、ということが出来ると思います。

追記:北野武の修正癖?につづく)

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ふたつのドリーム

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 Dream メインビジュアル


梅雨も明け、のうのうと猛暑のつづく7月のあいだじゅうずっと、不穏な空気が漂いつづけていたふたつの“ドリーム”が、先頃の連休を経るころ、ようやくひとつの(ふたつの?)着地点をみました。

ひとつは「総合格闘技の世界最高峰」PRIDEが消滅後、その残党がFEG・TBSと組んではじまった総合格闘技イベント「DREAM」が、変則的な放送を数大会経て、さまざまな困難に直面しながらも尻上がりに評価をあげつつ、大勝負となる当日地上波ゴールデン放映の7・21「DREAM.5」@大阪城ホールを迎えたのでしたが、ミルコの連続欠場にはじまって、KIDのケガ&スキャンダル、所英男の追突事故(被害者)、“超大者外国人”バンナの不出場、大会2日前のカード決定と、ズンドコだのまさに悪夢(ドリーム)だのと恒例のように揶揄される事態に陥りながらもなんとか無事成功のうちに終了しました。視聴率的にはギリギリ2ケタ(10・0%)で決して良くはないものの、通年よりズレ込んだ月9(『太陽と海の教室』)の初回スペ(20・5%)ともろかぶりになってしまったことを考えたらまあしょうがないところ、という感じなのかもしれません。
注目のライト級グランプリは、準決勝の宇野対青木、川尻対アルバレスの2試合がいずれもたいへんな激闘というか好勝負だっただけに、リザーブマッチながら盛り上がりを優先したマッチメイクで金魚(ブラックマンバ)を軽々と退けてピンピンしたまま決勝に臨んだリザーバーのハンセンが優勝をかっさらうという、予想外の展開で幕を閉じた。ハンセンの相手がもし普通にシビアに、リザーバーに相応しいギルバート・メレンデスなり石田なりだったとしたら結果は変わっていたかもしれない。
そんなこんなで現時点での“最強”が、エクスキューズありの曖昧なままでネクストステージに持ち越されるという事態はある種日本的ともいえて、物語が次へ繋がるという意味では最良の結末だったのかも知れません。青木もアルバレスも、優勝出来なかったにも関わらずまだゼンゼン底を見せてませんし‥。

もうひとつの“ドリーム”は言わずと知れたダンス&ボーカルユニットで、旧dreamであるDRMの周辺にも、ここのところずっと不穏な空気が漂っていました。5月くらいからピタリと動きも予定もなくなり、Podcastでメンバーの高本彩が6月中にビッグな発表があると吹いたことから様々な憶測を呼んだ。その後、DRMと改名してから1周年になろうとする頃、所属事務所FITONEのサイトからDRMの名が消える。果たしてDRM/dreamはどこへゆくのか?と残存するファンがヤキモキして固唾をのんでいたところ、7月22日、ようやく発表があった。概要は以下のようでした。

○グループ名が(dream→)DRM→Dreamと変更
○所属事務所がFITONEからLDHに
○長谷部優の離脱。ただし長谷部はFITONEに残るわけではなくて、残りの6人=DreamとともにLDHに移籍
○オフィシャルファンクラブ〈Live your dreams〉(略称lyd)の終了
○DRMオフィシャルサイト、橘佳奈&高本彩&中島麻未ブログ&長谷部優オフィの終了、およびDreamオフィシャルサイト開設

‥相変わらず裏事情が見えてきませんが、とりあえず解散終了ではなくしぶとく生き延びた形になった。これがエイベックスのたらい回しに過ぎず、傘下にあるLDHがイヤイヤ貧乏クジを引いた格好なのか、それとも積極的に引き受けたのかが気にかかる。これで名実ともに“EXILEの妹分”になったわけですが、事務所が積極的に売る気があるのか、飼い殺しにするつもりなのかで、今後の展開もだいぶ変わってくると思われます。
長谷部優離脱も、LDHへの移籍もある程度予想の範囲内ではありましたが、長谷部優はてっきりFITONEに残るもんだと思っていたのでそこにビックリした。
それとlydの終了、というのはエイベックスとの関係に変化があったということなのか‥レーベルが変わるということ?エイベックスからFITONEに移籍後も、変わらずにエイベックスの寮にメンバーが住めていたのがDRM/dreamの七不思議のひとつだったのですが、閉鎖直前の中島麻未ブログをみると最後にアップした記事(7/19)では何でか母親と一緒にいるようだし、橘佳奈ブログでも(7/19)ママが部屋に来て一緒に部屋の大掃除、片づけをずっとしているがなかなか終わらない、という主旨の記事があがっていました。状況としては寮を出てゆくってこと?そうしてエイベックスと直接は関係のないどこかに居を構えるということなのでしょうか?
それに、これだけ予定より発表が遅れた理由は何なのか?グループ名をDRMからドリームに戻すことをLDHから反対されていたとか長谷部優の処遇をどうするのかとか、いろいろ細かく詰めなければいけない事があったのかもしれませんが良くは分からない。

こうして不可解な疑問だらけのままの一方的な発表を受け止めての残存ファンの反応は、ファンブログを巡回した限りでは茫然困惑悲嘆といった感情が支配的なようで、意外。ディーアールエムではなくて“ドリーム”の響きに皆さん愛情を感じておられたようですし、やる気や協調性やdream愛のない長谷部優にたいする冷ややかな気分も蔓延してた気配があったし、FITONEで飼い殺しにされているより事態は悪くなることもなさそうに思えますが‥

このニュースを受けて気づいたのは、“ドリームではない長谷部優”の女優業、に対して、興味が以前の100分の1くらいに減退してしまった気持ちが自分のなかにあることで、ドリでない阿井莉沙を応援出来てもドリでない長谷部優は応援出来ないという感情。よって以降、長谷部優の女優業について殊更に言及することもなくなるかと思います。
あと、LDHのサイトに行ってみたらDreamメンバーのプロフィールが下の名前のみでローマ字表記になっていた。コレで行く気か?なんか有りがちでヤだな~

theme : 雜記
genre : アイドル・芸能

遺失物センター

ケータイを紛失してしまい、しばらくブログからは遠ざかっていましたが、先日遺失物として届けられていたそれを小金井警察署までようやく取りに行って再び手元にケータイが帰ってきましたので、また更新を再開したいと思います。宜しくお願いします。

なんだか、ケータイのない生活はそれはそれで大変に快適でした。ネットに無縁の日々は開放的で、すっかりサボリ癖がついてしまった気もしますが、さてどうでしょうか。

ケータイを手にするために、幼少時に数年間住んでいた、JR武蔵小金井駅の南口周辺を久しぶりに歩きましたが、何だかただの地方都市か発展した郊外みたいになっていてびっくりした。区画整理も為されているのか、かつて警察署があったはずの場所に向かうも、道はスムーズにイメージする方向に伸びていかないし、どうもちょっとだけズレた場所に移転したらしく見知らぬ建物が小金井警察署として妙なポジションにあったりするしで、すっかり白々しい気分になりましたが、余計な郷愁を背負わずに以後生きていけるというのは悪いことでもないと思った。

届けられていたケータイは既に電池が切れていて、で、電源が入らないと本人確認が出来ないからとか、よく分からないダンドリ上の障害があるらしく、なかなか渡してもらえずイライラする。メガネだのカバンだの、電源のない遺失物だって色々あるだろうに、なまじケータイ電話が電気を使っているんで返してもらいづらいってどういうこと?感謝する気持ちで入って来たのに、なんだか憎々しい気持ちを抱いて署を出るハメになった。

中野巡回

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中野・タコシェ


昨日は、久しぶりに電車に乗って中野へゆきました。

ここのところずっと自転車通勤をしているので、電車に乗ること自体にイベント感がある。中央線に乗っていて最近イライラすることは(JRの他の路線もそうなのかもしれないけど)、車内テレビでいつも大嫌いな『ダーリンは外国人』が流れていることで、街角を歩いていてストリートミュージシャンが聴きたくもない音楽を押しつけてくることに生理的に嫌悪感がわいて道を変えるように、画面が視界に入らないようにする、その手間がいちいち煩わしい。

中野に着いて南口に出る。丸井本店が更地になっているところを初めてみた。コーヒーロードの並びにあったフェニックスという古ぼけた喫茶店が無くなっていたり、マルニの裏の薬局が同人誌/マンガ/DVD販売といういかにもな店にチェンジしていたりと、チョロチョロと街並みが変わっている。かつてマクドナルド中野南口店でバイトしていたときこの薬局が開店し、ここで売ってたお弁当が(何で薬局で弁当を売ってたんだろう?)近隣でいちばん安かったので、休憩時の昼食にはよくここの弁当を買ってハトヤビルの休憩室で食ってた記憶がある。街並みが変わることにそれほどの無念さはないけれども、その町が変転する推移の時間に、同時代的にこの町に居合わせていなかったことには残念な気持ちがあります。

所用が終わって北口に移り、いったん同行人と別れて自由行動。中心的アーケードであるサンモールを中野ブロードウェイ方向へ歩いて行きしばらくして右手をみると、山下敦弘監督『中野の友人』(『週刊真木よう子』第4話)のなかで真木よう子と井口昇が奇妙な交流をむすぶ舞台となっていたゲームセンター〈TIGER〉がなんと閉店していた。
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シャッターの閉まった〈GAME TIGER〉

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エスカレーター脇の貼り紙

〈閉店のお知らせ/ゲームセンターを閉店いたします/長い間ご利用いただきありがとうございました!/タイガー〉と貼り紙がしてあり、シャッターが降りていた。『中野の友人』を撮影したころにはまだ営業していたのだろうか?数えきれないくらい通ったゲーセンだが、今は特に行きたいわけではないのでそこまでのショックはない。


『中野の友人』の井口昇は、ドラマ内で中野ブロードウェイ3階にある〈明屋書店〉でアルバイトをしていましたが、その明屋書店の斜め向かいにあるサブカル系書店〈タコシェ〉では、先日“おうち火事”になったことで話題の掟ポルシェが、煙にまかれてしまったレアなコレクションの品々(北斗の拳冷蔵庫、ラムちゃんのコスプレ衣装、本やレコードなど)を格安で放出!という趣旨の〈掟ポルシェの『火事場焼きだされフェア』=“掟エイド”〉が開催されており、告知からだいぶ経ってたのでもう何もないかな~と思いつつ覗いてみたら、まだ古本等が残っていました。
野村沙知代写真集(題名忘れた)、清水アキラ『清水アキラのバカと呼ばれたい!』、えなりかずきの『えなりですどうも!』、コロッケの『コロッケちょうだい!』、青木りん写真集『パイナポー』なんかがありましたが、う~~んイラナイ‥‥でもせっかくなので松山千春『月刊松山SAGA 11/月刊松山千春とおすぎとピーコに変更!?の巻』(100円)を、機会がなくて買いのがしていたピンク映画ミニコミ誌『PG』の103号や、某ミニコミ論壇誌のバックナンバー等と一緒に購入。あとで本(『SAGA 11』)を嗅いでみましたが、べつに燻されたようなニオイはしませんでした。それと、なんか特典として〈デビュー当時のロマンポルシェ。のポジ〉が1枚付いてきました。白い厚紙がロの字形にポジを保護しており、厚紙の端をもって光にかざすと、ポジの中央に仲良く並んで拳を突き出す掟ポルシェとロマン優光、マッパのふたりがボンヤリと浮かび上がる。これは一体‥。
(『SAGA 11』は、後で読んだら数分で読みおわってしまったので、100円でも高かったかなとおもった。)

TRIOの1、2では映画雑誌、音楽雑誌、特撮雑誌のバックナンバーや中古映画パンフ類を買うとともに、『a-nation'03 インビテーションパーフェクトDVDマガジン』と『a-nation'03 メモリアルパーフェクトDVDマガジン』(共にムック+DVD)も見つけたので購入。特に『インビテーション』のほうは“navigated by dream”ということでドリヲタにとっては必須アイテムのDVDだが、最近離脱したヲタが放出したものだろうか。

〈まんだらけ〉では探していたマンガが全て在庫が無くて空振り、なにも買わず。〈タコシェ〉にも無かった。新刊書店では主に雑誌類。東浩紀・北田暁大編『思想地図 vol.1』はNHKブックスの外国語講座とかの小冊子があるような雑誌コーナーにあるんだとばかり思っていたら、ソフトカバー仕立ての立派な書籍扱いだった。どうりで今まで見つからなかったわけだ‥。ほか『ユリイカ』『早稲田文学』『UTB』。『ユリイカ』はスピルバーグ特集で『早稲田文学』は追悼アラン・ロブ=グリエ特集、どちらも映画ファンなら一応おさえるべきかんじですが執筆陣のセレクトが悪くないので買いかなと。『UTB』はリニューアルしてから2号目、表紙は前号が長澤まさみで今号が中川翔子というセレクト、洗練された装丁ともどもメジャー感が一般層のほうに向かって発散されていて、良好なリスタートを切っていると言えるとおもう。旧『アップトゥボーイ』の近年のフンイキはハロプロ機関誌みたいで、部外者には近寄りづらかった。今号は〈歌姫復権〉ということで“音楽系アイドル”特集。THEポッシボーやキャナァーリ倶楽部、9nineなどといったユニット名が誌面に踊ってもガンバッテル感がなく、自然で地に足が着いたかんじは本誌の蓄積の賜物、スタジオボイスやクイックジャパンにはこの味は出せません。吉田豪と宇多丸との、アイドルソングについての対談が載っているので、ごく普通の一般的な読者にとっても読み逃せないはず。その宇多丸の、出たばっかりの新刊、『ライムスター宇多丸のマブ論CLASSICS アイドルソング時評2000~2008』は立ち読みしてたらスルスル読み終わっちゃったので、買いませんでした。だいたいは連載時に読んでもいたので、特に新しい感想もあまりない。

携帯に電話があり、同行人と合流して野崎コインへ向かうことに。自由行動タイムは終わった。

theme : 購入/売却書籍
genre : 本・雑誌

月刊『創』7月号【 映画界の徹底研究--日本映画の活況は本物か】

少々古い話題ですが、たびたび映画についての特集のある『創(The Tsukuru)』の7月号の特集は、〈映画界の徹底研究〉でした。作品論や作家論ではなく、日本映画界の興行や製作の現状についての分析がメイン。でも監督の普通のインタビューとかも中途半端にある。結果、かんじとしては日経エンタメといけないインビテーションじゃなくてInvitationを足して割り、商業誌的洗練を排して代わりに機関誌的センスを移植した感じの印象に。
表面上好調で活況を呈しているかのようにみえる日本の映画界をめぐる現状だが、はたしてそれが“本物の活況”なのかどうか、という特集。ここでは主に、シネコンの隆盛による環境の変化、製作委員会やテレビ局主導映画の席巻の是非がその中心的議題としてとりあげられています。

大店法(大規模小売店舗法)改正の翌年にあたる1993年にシネコン〈ワーナー・マイカル・シネマズ海老名〉が開業する。以来、主として外資系のシネコンが、全国各地に出店されてゆきます。
そしてその後、廃止された大店法に代わって施行された大店立地法(大規模小売店舗立地法)、土地の利用規制を緩和・促進した都市計画法、中心市街地の空洞化を食い止め、活性化活動を支援する中心市街地活性化法(→「まちづくり三法」)により、00年以降、〈郊外に(略)大規模ショッピングセンターが誕生し、シネコンはそこに併設されるかたちでさらに増加していった。〉しかし郊外の開発化に成功する反面、中心市街地の活性化に失敗し空洞化現象を引き起こす。そこでこれらを修正すべく施行された07年の改正「まちづくり三法」により、〈郊外への大型小売店の出店が再度規制され〉、〈郊外のシネコンの増加は、09年~10年あたりで収まることが予想される〉。また、入場者数は横ばいなのにシネコンやスクリーン数が増え続けた結果過当競争となり、閉館するシネコンも出始めた。PSA(パー・スクリーン・アベレージ、1スクリーンあたりの興行収入)は年々下がり続け、07年には約6161万円にまで下がってしまう。
そうした流れの中、増加の停滞した郊外型シネコンにかわって、六本木や新宿などの新たな都心型シネコンの出店が注目を集め、シネコンをめぐる状況自体、環境そのものが変わりつつある。

このような変転を経て形成されたシネコンによる映画業界の席巻は、現在スクリーン数でシェア全体の76%を占めるというかたちで如実にあらわれ、〈もはや映画界におけるシネコンの位置はゆるぎないと言えそうだ。俗に「日本映画の活況」ともいわれる状況を牽引しているのも、明らかにシネコン型映画館での映画興行である。興収10億円を超える日本映画はアニメやファミリー向けあるいは恋愛映画で、それらはシネコンでの集客によって支えられている。〉と論じられる。

その状況に対して各映画会社やプロデューサーやクリエーターたちがどのように対応対処してゆくのか、というのが各論となっています。
たとえば松竹は、これまでの映画配給部を営業部と宣伝部に分け、きめの細かい対応がとれるシネコン時代に合わせた組織編成/機構改革を行う。〈「シネコンは、公開一週目の動員が悪い作品はすぐに上映回数を減らします。いまは2週目になると、興収が一週目の7割以下になる作品が多いですよね。(略)営業は単にブッキングするだけでなく、公開2週目以降も期間や回数などゆ細かく交渉していく必要があります。(略)」〉(松竹映像本部編成部長秋元一孝)

これまでの直営館チェーン時代はとうに終わり、シネコン時代が訪れると、初速が悪ければシネコンで即切られてしまう。昔のように初動は思わしくなくてもジワジワと尻上がりでヒットする、という形式のヒットが有り得なくなってしまった現在に各社各クリエーターは知恵を絞り、状況に対応し乗りきろうとする。
〈いまは『ピンポン』のように、順次拡大してロングランというのは、かなり難しい。初動が悪ければ、すぐに上映回数を減らされますから。インディーズはメジャーと違って新しい価値を提出しないと生き残れないんですが、(略)いまのマーケットが求めているのは、最初から100万人が観るような映画です(略)この状況に対応するには、戦略を根本的に変えていかないといけない(略)中規模、小規模の作品だけでなく、テレビ局と組んだ大ヒットを狙う作品も製作していきます。そうした生き残り策を講じておかないと、次の新しい展開につなげられないんです」〉(アスミック・エース・チーフプロデューサー小川真司)

こうして、大向こうを狙うような作品を提供しなければならなくなった映画業界が流れたリスクヘッジの方法論が、製作委員会方式であったりテレビ局主導の映画製作であったりもするということになる。最大公約数的な分かり易いヒット要因をもつ映画を製作しなければならないという条件が、製作委員会方式の選択やテレビ局の映画製作というかたちになってあらわれる。

複数のメディア企業が出資し、製作費をシェアする製作委員会方式は、近年ほぼ定着しており、この方式は〈テレビ局を中心に、出版や新聞社、広告代理店、芸能プロダクションなど、出資各社による多メディア露出によってヒットを導いてきた。また、予算はもちろんのこと、監督や脚本、キャストなどを出資各社がそれぞれ吟味・判断(略)それまでの映画界ではおざなりにされていた部分に対し、有効なチェック機能となった〉というプラス要因もある。〈しかし、一方では合議制ゆえの欠点もある。各出資者の合意を取り付けるために、斬新な企画が通りにくくなる。〉

そうして、こういった現状が、巷で作り手側からよく言われる、原作モノでなければ企画が通らない、冒険的なキャスティングが出来ないなどのボヤキの発症のもとともなっていています。
そして、そのようにして製作され消費されてゆく映画が、果たして豊かで面白いのか?というのが、必ずしもシネコン的でない種類の映画ファンの心配ではありましょう。シネコン的興行のありかたが日本映画の利益と数量を支えたとしても、そこで産み出されるものがしょーもないものでしかないのだとすれば、そんな産業は滅びても一向に構わないと思う。

この特集では特に触れられていませんが、ネットの普及や録画再生方式の変換等様々な要因による、テレビCM枠の広告的な価値の下落によって広告収入が激減し経営が左前になってきていると伝えられるテレビ局にとって、放送外収入源としての映画事業がかつてなく更に重要なものとしてクローズアップされてきたことを考えると、〈「邦画全体を盛り上げよう」という共闘意識が高まってきた(略)テレビ局から「邦画市場を盛り上げよう」という責任感・義務感が生じてくるのは当たり前のことだろう。(略)邦画のアイデンティティを確立するのはテレビ局であろうし、それはそのまま日本人のアイデンティティにも直結するはずだ。その国の文化と国民性を切り離すことは絶対に不可能だからだ。〉という「いまや最大の映画製作会社テレビ局に課せられた責務」という記事のまとめ部分はあんまりにも脳天気で安易なんじゃないかとおもう。最大のメディア露出を担うというテレビ局のアドバンテージをアテにして〈視聴率=認知率と考えれば、連続ドラマを映画化した方が宣伝効率もいい〉という考えかたのもとで量産される、必然性もないテレビドラマの映画化やメディアミックス商法の、どこが〈観客は自国の映画に誇りを持って〉いたかつての〈邦画のアイデンティティ〉の再確立という話と繋がるのでしょうか。
エイベックスが音楽事業に行き詰まり、映画事業に活路を見出そうとしているのと同じ構造がテレビ局の映画事業にも見られるのであって、結局、〈日本映画の活況〉として伝えられる、ここ近年の日本の映画業界をめぐる好況は、流動する日本の経済的環境や政治的(法的)状況がたまたまもたらしたに過ぎず、“映画外”の要因によってもたらされたにわか景気だということが浮き彫りになります。
先鋭的なセンスをもつとされる山本又一朗が『僕の彼女はサイボーグ』の綾瀬はるか&小出恵介、『クローズZERO』の小栗旬の起用を〈いつも僕らは先物買いしてるんですよ〉と誇らしげに語り、御大角川春樹が『男たちの大和』時の松山ケンイチ&蒼井優、『神様のパズル』の市原隼人&谷村美月の起用を〈新鮮すぎ〉と自慢する程度の、なんともノンビリした“先見性”が業界の最前線であるのなら、やはり好況は映画業界内には要因はなく、単に映画外の状況が今たまたま良い巡り合わせになっているだけだと悲観的に思わずにはいられない。状況が次なる展開を示せば、たちまちまた邦画は暗黒時代を迎えても一向におかしくないと感じられます。有能なプロデューサーには違いない久保田修氏のインタビューでの発言にしても、この状況を“映画として”勝ち抜く決定的な方法論は示せていない。
是枝裕和は言う。
〈(邦画は)本当に活況を呈しているんでしょうか。僕はテレビをやってきた人間だから余計思うんですけど、今の状況は、映画にとってもテレビにとっても不幸なことだと思うんですよ。(略)テレビで連ドラが当たって、そのテレビ局が大宣伝して劇場でかけたものにお客が来るということの繰り返しをしているわけでしょ。そのテレビと映画との癒着の仕方というのは、やはり健康的ではないですよね。電波を持っている局自体が、(略)もう少し“公共”的なものであるという意識を持って、その役割を考えなければいけないと思います。単純な私企業ではないわなけですから。今の状態は完全に一私企業が自分の商品を売るために電波を使っている状態ですよね。そのテレビのありように関しては非常に問題が大きいなと思っています。
ただそのテレビの力を借りないと、映画が成り立たなくなっている。とくにメジャー(作品)はね。代理店と放送局を入れないと成立していないでしょ。シネカノンの『フラガール』なんかは、そうでない成功例ではあります。興行的にも作品のクオリティ的にもそういう成功例が10本も20本も出てきているのであれば、活況を呈していると思いますけれど、そういうものが出にくい状況になっている。そのことを監督の立場からは活況とは呼びたくないですよね。〉

自分の感じる感覚で言うと、映画を観ることが“経験”ではなく単なる“消費”となっている、それが郊外型シネコン文化のもたらしたものなんじゃないかと。家の近所で比較的安価なレジャーとして消費される“映画”は、人生を変えたりする力をもつ“経験”であることを望まれていない。
シネコンの隆盛と時を同じくして外国映画のシェアが減少していったのは、見知った俳優やキャラクターが演じる安心して観ることの出来る勝手知ったる世界や文化圏での映像を怠惰に“消費”したいという、新たな観客層のニーズに邦画が比較的親和性を持っていたからにすぎないのだろうとおもう。この新たな観客層は、聞き慣れない言語、見知らぬ世界の未知の出来事を、過剰な説明ぬきで観賞したいと欲するようなレベルの民度には到底たっしていない。それこそ気楽にテレビを観るようにして、かすかにテレビに〈イベントという付加価値〉を追加した娯楽として消費しているのでしょう。この“活況”は、日本映画業界の活況ではなくて、“テレビを観る”という行為の一変種、一形態としての活況であるのだと思います。

(その他)
特集とはあんまりというかぜんぜん関係ありませんが、一番印象に残ったのは廣木隆一監督(『きみの友だち』)の以下の発言。〈小学生の頃、母が地元の東宝系の劇場で働いていたので、放課後そこに寄って随分たくさん映画を観ました。本当に三橋達也から加山雄三、黒沢年男とか何でも観ています。だから、僕の映画、東宝っぽいでしょう(笑)〉
冗談めかしての発言ですが、なんかなるほど~と思いました。あと、『実録・連合赤軍事件』が文化庁から助成金をもらえなかったことについて若松孝二が〈何で「連合赤軍」がダメで「靖国」がいいんだよって言いたいですよ(笑)〉と言っているのが、健康的でおかしかったですね。

theme : 雑誌(既刊~新創刊)
genre : 本・雑誌

夏の新ドラマ

個人的には、『ROOKIES』以外はけっこう微妙だった印象の春の連ドラ。その『ROOKIES』がまだ終わってないから(ていうか、いつ終わるんだろう)ピンと来ませんが、もう今日より続々と新ドラマがスタート、既に夏ドラシーズンが始まっています。ざっと見たかんじだと春より良さげですね。

◎見る予定のもの(惹かれる要素)→

『コード・ブルー ドクターヘリ緊急救命』(キャスト)
『魔王』(大野智)
『モンスターペアレント』(?)
『シバトラ 童顔刑事・柴田竹虎』(塚地くん以外のキャスト)
『正義の味方』(聖千秋!)
『四つの嘘』(寺島しのぶ)
『ヤスコとケンジ』(?)
『学校じゃ教えられない!』(深田恭子、谷原章介)
『太陽と海の教室』(キャスト)
『打撃天使ルリ』(枠)
『33分探偵』(枠)
『恋空』(こわいもの見たさ、瀬戸康史)
『ウォーキン☆バタフライ』(枠)
『ナツコイ』(枠)
『大好き!五つ子2008』(枠)

あとは『キャットストリート』をどうしようかと悩み中‥。山下智久、新垣結衣、戸田恵梨香と揃えた『コード・ブルー ドクターヘリ緊急救命』もキャストが充実してますが、それ以上に豪華なのが学園モノの『太陽と海の教室』
教師側が織田裕二、北川景子、小日向文世ほかで、生徒側は男子が山本裕典、岡田将生、中村優一ら、女子が北乃きい、前田敦子、大政絢、吉高由里子、谷村美月など、錚々たるメンツ。この中で抜きん出たら本物ですね。これに比べると同じ学園モノでも『学校じゃ教えられない!』の生徒の顔ぶれは相当渋くて、『正しい王子のつくり方』(冬、テレビ東京系)とかよりも更にマイナーなかんじですが、メインキャストが深田恭子&谷原章介の『山おんな 壁おんな』コンビというだけで観る気になった。遊川和彦の『演歌の女王』の次なる冒険としても興味深い。

韓国ドラマのリメイクというと『ホテリアー』を連想して、ゼンゼン面白くなる未来図が浮かばない『魔王』ですが果たしてどうでしょうか。大野“魔王”智×生田斗真ということでジャニーズ専門チャンネルとしてある一定のサークル内に話題と興味が閉じてしまう可能性も。脇をかためる田中圭、小林涼子といったキャスティングも女子ウケ的で、ターゲットは定まっているかんじ。

前作で五つ子たちが高校三年だったから、これが最終作かもと心配された『五つ子』シリーズも、無事新作『大好き!五つ子2008』が登場。続くにしても『大好き!五つ子GOGOGO!!』→『~GOGOGOGO!!』→『~GOGOGOGOGO!!』と表記がややこしくなるな~と心配してましたが年度表記に変えるよう。ということは、まだまだ続ける気か‥。
『ナツコイ』は『砂時計』『愛のうた』につづく路線を狙った武田有起脚本の催涙系か?しかしこのメインキャストは‥。

ハイアベレージのカッチリした作品を連打するテレ東の深夜枠は『ウォーキン☆バタフライ』中別府葵が主役でサブに石原さとみ滝沢沙織、というキャスティングだけ聞くと、アタマ大丈夫かと心配になるかもしれませんが、テレ東には珍しくメディアミックス戦略で映画『フライング☆ラビッツ』との連携作。つまんなそうに見えますがきっとジワジワ面白いでしょう。

さて個人的に最大の注目作は『正義の味方』。別マ系というか集英社系の少女マンガ家ではじつは最も愛着のある聖千秋先生。聖先生んちが僕の実家と近所なこともあって思い入れがあるという面もありますが、何より滲み出る人柄の良さ、真面目さが素敵で、あんまり売れてなしそれほどリスペクトされてないのも応援しがいがある。そんな聖千秋のマンガがドラマ化!是非これを機会に、日本全国津々浦々の多くの視聴者には聖千秋のマンガを手にとり買って頂いて、新書店にも古書店にも聖千秋の本がなかなか置いていないという現在の状況が打破されたらと希望しています。ドラマ版もCMみましたが、なかなか面白そうですね。あと、なんだか同居人には志田未来ファンだと思われてますが、そうでもないです。

theme : 新番組
genre : テレビ・ラジオ

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ししらいぞう

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