スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

映画『接吻』

せぷうう


『接吻』
(2006年、日本、108分)

監督:万田邦敏
脚本:万田邦敏、万田珠実
プロデューサー:仙頭武則
ラインプロデューサー:佐藤公美
音楽:長島寛幸
撮影:渡部眞
録音:臼井勝
美術:清水剛
照明:和田雄二
出演:小池栄子、豊川悦司、仲村トオル、篠田三郎

孤独な日々に過ごすOLの遠藤京子(小池栄子)はある日、テレビに映し出された坂口秋生(豊川悦司)の笑顔に釘付けになる。一家惨殺事件の犯人として、坂口が警察に逮捕される瞬間の笑顔だった。この人は自分と同じ人間だ。そう確信した京子は、取り憑かれたように坂口に関する資料を収集し、裁判の傍聴に通い始める‥。

1.

この妙な映画について、何を言ったらいいんでしょうか‥。言うことがたくさんある気もするし、何もない気もする。とりあえず、たいしたプランもなくアタマからこの映画について触れだしてみて、この映画が突然ブツリと終幕を迎えるのをマネて、無造作に終わってみたいと思います。

2.

この映画を制作した会社はランブルフィッシュであると告げる、これ見よがしで騒々しく忌々しい、カンに障るアニメーションが鎮まったあと、素っ気なく『接吻』本編がはじまる。急な石段をのぼってゆく男の後ろ姿が、アメリカンビスタの横長の、しまらない微妙な画面上にペッタリと扁平に張りつき、ゆっくりと動いてゆく。男の尻ポケットからは、金槌の柄らしき棒状の物体が飛びだしている。石段をのぼりきると男/豊川悦司は、はっきりしない天候の空の下、何の変哲もない風貌の閑静な住宅街を一歩一歩あるいてゆく。

男の“歩み”の、夢魔的な感覚に、“8ミリ感”がある。(万田邦敏が8ミリ時代に、数々の名作を残したという事実からの連想などでなく、ただ、)豊川悦司の、夢のなかのような水のなかのような、息苦しい微妙な“歩み”に、8ミリ感、夢魔的な感覚を、感じたのでした。自主制作8ミリ的な撮影/映写/観賞体験における登場人物の立ち振る舞いには、通常の商業映画とはちがう、ただそれだけ、という即物感がある。歩くこと/振りかえること/見つめることといった〈身振り〉のひとつひとつ、いちいちが、唯物論的でありつつ、かつ、意味で重く撓む。〈歩くこと〉が、〈歩くこと〉というアクションであることを強調され、同時に〈歩くこと〉が前後のカットとの繋がりのなかで意味をもって存在することが常に意識化される。人物の動作の無意味と有意味とが、同時にその存在にまとわりつき、その動きに不可思議な夢魔性を付与する。豊川悦司の歩みは、そのように複数のコノテーションをはらむように感じさせながら、そのじつ、端的で、唯物論的なモノとしてしか、そこには、ない。
そのようなある種の矛盾を孕んだあり方は、『接吻』という映画の魅惑とそして語りづらさをあらわしているようにも感じられます。豊川悦司や小池栄子の人物ありようは、他者性を徹底した描写ゆえのものであって、上記のような感触も、他者性が表象としてあらわれたものだと簡単に言えるのかもしれませんが、それだけで説明がつかなそうなところが『接吻』には確かにあって、『接吻』が『Unloved』と異なる種類の困惑を観客に与える要因でもありましょう。

3.

その、幾分不気味で不穏な“かんじ”を、8ミリ感だとか夢魔的だとかとりあえずここでは呼んだのでしたが、その“かんじ”は『接吻』にも『Unloved』にもあった。しかし、ショットとショットが連なり、(その間にある動作や言葉の)無意味と有意味が厳密に連鎖し一本の映画として結晶してゆく、その(シネフィル的な意味での)“シネマ感”が『Unloved』にはあり、そこには新鮮な驚愕とともにある種の既視感と安心があり、「ショットの厳密さ」がどうの「映画的」がどうとか言っていれば済みそうな落としどころが無くもなかったと、今にしておもう。
『Unloved』では、その不穏さの/映画的魅惑の/張りつめた語りの、起因するモノとしてそういった要素(ショットの厳密さ等)を意匠→効果→演出として私達は納得しえていたのかもしれませんが、『接吻』における、語りの透明さや、構図の厳密でなさ等からは、もはや“凄さ”や夢魔感の根源を演出や画面設計に安易に求めることの危うさを示しているように思えてくる。純粋な階級闘争の物語として硬質な強度を誇った『Unloved』の感触があくまで作家的なものに起因するものとして感じられたのに対し、ごく普通の演出に思われる『接吻』でのそれは、結局京子/小池栄子や坂口/豊川悦司の人間個体そのものに起因しているように感じられます。

『Unloved』という映画は、独自の感性と思考を生きる、共感することの限りなく困難なひとりの女性がおのれの“愛のかたち”を貫き通すさまを異様なテンションで描いた映画だと、ひとまず表現することも出来るとおもいます。
ここで言う「異様なテンション」とは、例えば『トレインスポッティング』だとか、三池崇史のある種の映画とか、いかにもで予定調和な“カウンターカルチャー然”とした映画に付随する(気持ちのよい)「異様なテンション」ではなく、われわれ観客の様々な快楽原則に寄り添わぬ「異様さ」であって、映画を観ようというわれわれ観客の動機や気持ちに奉仕しない、よく分からないが不可視の存在意義ノヨウナモノが、私たちの見えないどこかで蠢いているようなのだった。そのようにして、何か私たちのあずかり知らぬ原理で進行してゆくと思しき『Unloved』においては、「他者性」としての「人間・関係」が描かれるとともに「他者性」そのものとしての「映画」が顕れてくる。露骨な三角関係、図式的な貧富の格差、合致せぬ人生観をもつ他者との相容れぬ闘争が非・融合、反・和解的に繰り広げられ、そこで飛び交う「言葉」は言外の意味を含んだりしない非・ニュアンス的な言葉として、硬質な物体として唯物論的なブラウン運動を繰り広げていた。その運動体そのものとしてあった『Unloved』の魅惑に比べて、『接吻』のそれは慎ましやかな物語映画の顔
をしているように見えますし、前より上手くなったんだか下手になったんだかよく分からないのも『接吻』の面白さのひとつですが、「他者性」の導入の水準が変化した結果、息遣い荒くそして静かに進行する『接吻』には、活劇の匂いがより強く漂う。ゴダール的活劇からイーストウッド的活劇へ、と言えば口当たりはいいけど、果たしてどうか(透明であろうとする意志有り)。ただ、「アート系映画」的な安心感から、普通の映画、としての不穏さに一歩踏み出したかんじはじつにあって、『接吻』のラストのあっけらかんとした切れ味には、通俗の良さが確かにあった。

編集やら映像処理やら構図などに宿った意志が前景にせり出してくるようだった『Unloved』にあった「他者性」は、それこそ用意されて差し出された「他者性」として、我々は内輪の言葉のようにツーカーで授受し、自閉していっただけなのかも知れません。
それらが後退していったとき、『接吻』にあったのは万田夫妻の自我の顕現でもシネフィルへの目配せでもなく、ただ、瞳を見開き、じっとどこかを見つめる小池栄子の存在の、圧倒的な豊かさ。声の響き。その佇まい。ピンとあがった眉尻から凛とした孤高な気配が立ちのぼり、その、何ということもない身振り、言葉のひとつひとつが、かけがえのない、この世にひとつしかないモノやコトとして一瞬一瞬に小さく眩しくきらめき、消えてゆく。その束の間のまどろみの、胸を締め付けられるような切なさは、至福と絶望を同時に体感させますが、そのようなことは、京子/小池栄子にとっては、預かり知らぬどうでもいいこと。彼女はただそこに存在し、ある決断を不断にくだしつづけ、その連鎖が彼女の生き様となって立ち現れてくる。観客はそれを息をのんで見つめ、見守りつづけるだけ。彼女が波及させる行動や言動の印象から純粋な愛を感じようと恐怖を感じようと、それは硬直したカテゴライズに逃げたい観る側の怠惰な精神の動きに過ぎなくて、彼女は死刑囚・坂口/豊川悦司との、名付けがたい関係をただ淡々と、それこそ、生きるように、生きている。
この映画内では、京子ー坂口ー長谷川(仲村トオル)の関係をめぐる多くの言葉が費やされてゆきますが、それでもその関係は定義されて安定した構図に定着してゆかない。言葉に深読みすべき深遠などなくただ言葉は言葉として硬質に存在しているように、その言葉によって人間たちもその存在を定義されたり解釈解読されたりせず、ただそこにそのように在るモノとして関係という不定形の流動体が浮遊している。他者としての〈言葉〉、にとっても他者性としてある〈コト/モノ〉、にとって他者としてある〈関係〉。すべては解読不能で、唐突で、必然。そこには気負いも装飾もなくて、ただ不意打ちとして観客を襲う。

スポンサーサイト

theme : 日本映画
genre : 映画

自転車置き場

20080426195244
このところ病院代がかさんで、定期代がなくなってしまったため、家から国立の店舗まで、仕方なくしばらく自転車通勤していました。

これまでブログの文章は主に電車通勤の行き帰りの時間にケータイで打って更新していたため、自転車通いになったとたんに滞ってしまいましたが、給料日が来てようやく定期が買えたので、以後更新を再開していくことと思います。また宜しくお願いいたします。

さて、現在自分の通っている病院が放映中の連ドラ『Around40~注文の多いオンナたち~』のロケで使用されています。主人公の天海祐希や藤木直人が勤めている病院。ドラマの中で、自転車通勤の天海祐希が、いつも駐輪するこだわりのスペース(関係者用の3番)があるという場面があった。先日、この病院に行った際にチェックしてみたのですが、その場面で映されていたような駐輪スペースは見当たらず、どうやら別の場所で撮ったカットだったみたい。

だいすき!!(と、僕の歩く道)

dai_20080320_003.jpg
『だいすき!!』


(~冬ドラ話つづき)

さて、何気にお気に入りの『だいすき!!』です。
福田沙紀の演じた琴音という存在についての話は疑似家族の話と重複しそうなのでそちらにゆずることにして、それ以外でおもったりしたことを言っていこうと思います。

障害者ネタということで、どうしても間近にあった秀作『僕の歩く道』と比較されてしまうかも知れませんし、そうなると正直、『だいすき!!』は作品的にも演技のクオリティとしても幾分旗色が悪いように思えます(障害を単なる萌え要素として悪用した『愛していると言ってくれ』には、勝つ)。

しかし、言ってみれば『僕の歩く道』は、一人の障害者が社会のなかで生きてゆく困難が描かれていたに過ぎなかったとも言えます。そして、そこでの(血族以外での)心の支えとなるキーパーソン・都古ちゃん/香里奈は、ある種天使的人物像であって、演出や演技の卓抜さによって確かな実在感を残しますが、現実的な乗り越えるべき厳しさを考えると、救いの置きどころが甘くなっていたかなという気もします。

『僕の歩く道』は、たとえば動物園の従業員との関係が前進する、その微細な進展の描き方は秀でている反面、親なき後ひとりで生きてゆくことの困難や補助なしでの人との交流についてといった大きなハードルの対処の描き方については、幾分ファンタジーの域に留まったと感じます。

『だいすき!!』での障害者・ゆず/香里奈は、障害を背負ったうえに、妊娠・出産し、子供を育てるという更なる困難に直面する。未来への希望という点では、『14才の母』より過酷なシチュエーションと言えましょう。
その困難の階段の一歩一歩を、鈍重に生真面目に、ある意味、芸もなく正面から描いてゆく。それゆえに一見冴えない風貌のドラマともなりましたが、冴えた風貌、という賞賛を得るためではない『だいすき!!』の作劇には好感を抱きました。「泣かせ」を狙いに狙っていないのもいいですね(もしかしたら、泣かせたいが泣かせる技量がないだけのかも知れませんが‥)。
『だいすき!!』というドラマは確かにそれほど冴えてないかも知れないし、面白いのか面白くないのかもよくわからないし、催涙作用が強力なわけでもない。しかし、『僕の歩く道』が、“ささやかな奇跡”としての小さな飛躍の連鎖で物語がステップを登るというかたちで“傑作感”を得たかわりに固有性のなかに埋没し、社会問題としての広がりが減退して、“愛でる為の作品、偏愛の対象”として消費者に消費される対象と化し、状況突破力を失ったのに対して、鈍重な『だいすき!!』が社会のなかで生きる障害者の問題を一般にひろがる力を『僕~』よりも示す。

確かに『僕~』の自閉症描写にはかなりのリアリティがあったし、草なぎ君の演技も高い達成を示していました。ごく近親に自閉症児のいる自分にも、じゅうぶん納得し満足できる演技なり演出でした。

しかし『僕~』において、草なぎ君演じる大竹さん(テル)と健常者/障害者の境界を越えて交流するのは、都古ちゃん(香里奈)やロードレーサーの浅野和之などの“変わり者”(→ファンタジー)であったり、そうでない者は、後ろめたい過去、後ろめたい現在など陰あるバックボーンを大竹さんの言動行動によって改めて照射されて「浄化される」。そのような関係性によってドラマは世界と大竹さんを繋ぐ。そこには障害者が聖なるものに転化する、なにげに古風な物語装置が働いていたのだった。
清/濁、聖/俗、差別/被差別といった対比を、静謐なリアリズム演出に巧妙に埋め込んだ『僕の歩く道』は、徹底したリアリズムが飛躍のすえ、抽象的・観念的な地点に辿り着く。ミヤコとテルが共有する幼年時の記憶にある風景は、今生のものではないかのような神話的な景色にみえる。〈繋がらないこと〉への不安(リアルな心象)は、原初的神話的な記憶の共有によって、永続的に〈繋がること〉の安心(ファンタジーな心象)にすり替わる。

dai_20080221_002.jpg


『だいすき!!』では、ゆずの娘であるひまわりが、両親の愛の結晶であって永続的な愛に包まれていることの幻想的表現が、ひまわり畑での亡き草介(中村俊介)の現前というかたちで表現されましたが、そこで私たちに印象されるのは、今このとき、満開のひまわり畑も草介も、ここにはないという〈不在〉の強調でした。ただ、(愛が、それによる結晶が)かつては確かにあったのだろうと、幼いひまわりは心に刻む「ことにする」。ファンタジーに荷担して飛躍するのではなく、幻は幻でしかないことを示して、地についた足の置き場は忘れない。
たとえば、ひまわりを通わせることになった保育園で、ゆず/香里奈は他のお母さんたちに拒絶されたりする。図式的な対立と書き割り的な群像がこのようなエピソードを構成し、ゆずの理解者となるMEGUMI(『僕~』でも香里奈の親友でしたね)でさえ、ザックリした役割的な設定しか与えられていない。問題が固有性のなかに埋没してゆかずに社会性(ネタ)のまま留まり、図式的ななかで解決の糸口が探られます。全般、ゆず/香里奈がいかに前向きな努力家であるにしたところで、ゆずのパーソナリティが“奇跡”を呼び起こすのではなく、一障害者とそうでない者との共存が図式的なままではかられる。特殊な能力や(大江健三郎のイーヨーや草なぎ君演じるテルの発するような)飛躍的で核心をつく台詞により状況を突破するのではなく、強い気持ちや強いおもいが人心を動かす凡庸な話に終始する。
しかし障害とともに生きることの困難は、『僕の歩く道』よりも『だいすき!!』にその魂があった。凡庸に終始することの冴えなさに、〈現在〉があるとおもう。(先ほど言ったように)近親に自閉症児がいる関係で、長年様々な障害者と関わりがあり、養護施設での活動等も身近なものとして生きてきた経験でいえば、演技による障害者表現として最上のリアリズムを実現した『僕の歩く道』に比べて、『だいすき!!』のワークセンターに集う障害者たちなどは目も当てられない表現のレベルですが、それでも、障害者とともに生きるという世界は『だいすき!!』の空気のなかに息づいていると感じる。『僕の歩く道』というドラマは、〈障害者〉というパーツをリアルに尊重したうえで為された〈映像作品の創造行為〉の結果であって、テレビのなかにある世界。障害者との日常と、確かに繋がっていると感じられる空気が流れているのは『だいすき!!』のほうだとおもいます。

そこからくる「誠実さ」が、キャスト陣の「(非・性的な)女性的な柔らかさ」と相俟って、独特な「爽やかさ」を視聴者に届ける。いわゆる性的ではない女性性を体現するのは、福原家の香里奈を中心とした家族としての女性たちだけでなく、ワークセンターの紺野まひる等も、恋愛や性を越えたところにある女性性のあたたかさを体現していますし、平岡祐太を筆頭に、パン屋のおじさん、ワークセンターで働いているお兄さんといった男性陣の物腰の柔らかさは、ほとんど女性的だとも映る。そんななか、平岡祐太(家族のために性的闘争から離脱した、脱色された中性ぶり)の恋人として登場した夏梅/臼田あさ美の恋愛に生きる性的な気配は前半、かなりの異物感をドラマに与えていましたが、身なりも構わずワークセンターでの作業に携わるその姿からは、性的な気配が徐々に漂白されてゆき、『だいすき!!』的世界に次第に親和。
(ドラマ『だいすき!!』のイメージ。病院の待合室に置いてある厚紙で出来ている絵本。そこに宿る気分は、貧しさ、優しさ、平和さ、凡庸さ、そして切なさ。『だいすき!!』についておもう時の切なさと、湧いてくる優しい気分は、そのようなイメージとして自分のなかにはあります。)

まえにもたぶん言いましたが、キャストのうち、流石役者だとおもったのは岸本加世子と福田沙紀の『拝啓、父上様』の親子コンビ(ただし、『一瞬の風になれ』の福田沙紀は全然ダメ‥)。逆の意味で気になったのは、保育士役の余貴美子。こんなに一本調子で、大根風味満点の良くない余貴美子を見るのは、初めてというくらい。どうしちゃったんでしょうか‥。
香里奈の演技は、当初“がんばってる香里奈”と度々見えてしまい、痛々しく居心地悪いかんじでしたが、こっちが慣れてきたのか、無事、ゆずにしか見えなくなってきました。イタズラっぽく破顔し、ピンと指を開いた両手で口元を隠す仕草が好き。役者としてではなく人間としてどこか危うい香里奈が、振り切った障害者役を完遂して尚、女性としての魅力や幻想が少しも使い減りしなかったということの幸福感。

(つづく)

dai_20080306_003.jpg

以降予定記事~
○『接吻』
○『Girl's Box/ラバーズ☆ハイ』
○『斉藤さん』&『薔薇のない花屋』&『ハチミツとクローバー』&『未来講師めぐる』&『コスプレ幽霊 紅蓮女』
○島宇宙化と脊髄反射的ドラマ~『一瞬の風になれ』『SP』『正しい王子のつくり方』『チョコミミ』
○疑似家族の問題

theme : テレビドラマ
genre : テレビ・ラジオ

4月10日(木)  接吻~Girl's Box/ラバーズ☆ハイ

せぷ
『接吻』


国分寺駅構内の変電所などの火災により、中央線が大変なことになっていた今日ですが、前にも後にもずっと都合がつかず、他に行くチャンスがないので予定通り渋谷へ映画をみに強行軍。予定は

『接吻』
 ユーロスペース
 (18:40~20:45)

『Girl's Box/ラバーズ☆ハイ』
 渋谷QーAXシネマ
 (21:00~22:50)


の二本立て。道玄坂のほうに移転したユーロスペースと、QーAXシネマは同じビル内にあるので効率よくハシゴが出来て好都合。

JR中央線は当初12時ごろ復旧すると報じられていたが14時をすぎても吉報は届かず、じりじりして待つ。15時過ぎ、運転再開のニュースがはいり、とりあえずホッとする。

夕刻、体があいて立川駅に着く。これより、問題の中央線に乗りこむことになる。特急等は運休で、運行本数は4割程度、アナウンスによると各駅に少々止まりながら進むかもという。果たして間にあうのか‥。
最初は比較的スムーズだったが、東小金井あたりから停車時間が長くなりだし、間に合わない気がしてきました。JR1本で行く気だったが予定変更、長い時間かけてようやく吉祥寺駅に到着すると、ダッシュで振替乗車票もらって京王井の頭線への階段を駆け上がる。運よく急行渋谷行に飛びこんだが、中央線の車両に傘忘れてきたことに気づいた‥

朝、病院にいるとき、切ってなかったケータイに店から電話がかかってきた。僕を休ませる為に日野近辺から来てくれる手筈の社員が、中央線のトラブルで立ち往生しているという。手配するがどうにもならず、結局12時過ぎまで店をあけることが出来なかったようだった。

ザバザバ雨が降り注ぐ渋谷の街を、道玄坂方面に向かって傘もなく走る。ずぶ濡れた風体でユーロスペースの入ったビルに駆け込んだのは、上映開始時間を6分過ぎた18:46。まだ予告編の上映中だった。なんとか無事、『接吻』をファーストシーンから堪能すりことが出来た。傑作!!今年のベスト3は確実か。(詳細別記事予定→追記:別記事

入りは6割方で、公開1ヵ月経ち、電車と天候の悪条件を考えると良く入っている。客層は20代が多いが老若男女適度にバラエティに富み、特徴としてはインテリジェントな方向に洗練されたオシャレ度が高い。メガネ率高。やや男性優勢だが女性も決して少なくない。
予告編、PFFのスカラシップにしてベルリン国際映画祭最優秀新人作品賞を受賞したことで話題の熊坂出監督『パーク・アンド・ラブホテル』。予想に反して寒そうな気配が漂う。ラブホテルの屋上に小さな公園が不思議なことにあって、心に傷をかかえる面々が‥という話からして元々サムいが‥下手したら『Laundry』程度の映画かも。
ユーロスペースの売店にも売っている佐々木敦によるミニコミ誌『エクス・ポ』第2号には、佐々木敦による『接吻』をめぐる万田邦敏監督インタビューが載っているので必見(インタビューとしては無難な出来)。自分は幸い視力が相当良いので無問題ですが、GON!より小さいんじゃないかというくらいの『エクス・ポ』独特の極小文字群を眺めていると、大多数の読者が果たして普通に読めているのかと心配になる。

上映後、ユーロスペースを出て、階段を降りてQーAXへ。女の子同士が怖かったね~と『接吻』についてごくフツーな感想を言い合いながら階段をくだってゆく。

公開前、特定の場所で買う『Girl's Box/ラバーズ☆ハイ』の前売り券には、特典としてオリジナルトレカ(全6種のうち3枚)がついていたのですが、自分が引き当てたのは斉藤未知、嘉陽愛子、星野七瀬の3枚だった。微妙‥。長谷部優、長澤奈央、紗綾の3枚を逃しているということで、このテの収集癖はないものの、イラッと来る引きではあった。星野七瀬がどうも苦手で‥。その前売り券を、1階窓口で当日指定券に替えると、サービスとしてトレカがさらにが1枚付いてきた。開けてみると、星井七瀬‥。嫌いだっつーの!
B1のQーAXシネマ、約260人収容出来る広々とした劇場内には、金魚の『LOVERS HIGH』がうっすらと流れている。観客は10人に届かない入り。メインの層は、やはり30歳前後の、ガルボ客層とカブる色合いの地味な男性陣。男女比6:3。というか6人と3人。ロックテイストの若い女性もいたが、彼女が何を求めてこの劇場にさまよいこんでしまったのか、心が痛いばかりだ‥。

予告編がはじまると、ビデオプロジェクター上映らしく、酷い画質におおのく。予告編のセレクトも、ハイソなユーロスペースの予告群と違って、『お姉チャンバラ THE MOVIE』とか『すんドめ 2』とか、男性のリビドーに露骨に訴える作品群が劣悪な画質で連打される。そして『すんドめ』的映画と差のない画質で『Girl's Box/ラバーズ☆ハイ』がはじまる。う~ん予想通り‥。しかし‥目に楽しい様々なタイプの女性たちが、歌い、踊り、叫ぶ。それでじゅうぶんじゃないか、そう言われたら、そうなのかもしれない。この映画が『ロックよ、静かに流れよ』くらいの優れた映画だったとして、それで何が変わるというのだろう‥。(詳細別記事予定→追記:別記事



080115_girlsboxmovie_sub2543.jpg
『Girl's Box/ラバーズ☆ハイ』


関連記事:映画『接吻』
       映画『Girl's Box/ラバーズ☆ハイ』その1
       映画『Girl's Box/ラバーズ☆ハイ』その2

theme : 今日見た映画
genre : 映画

交渉人など、オスカープロモーション

ko_20080228_005.jpg
『交渉人 THE NEGOTIATOR』、城田優


春の連ドラも続々始まりつつあるなかにあって、冬ドラの話をつづけるのがだんだん居心地悪くなってきましたが、本論的なところを潰してゆくまえに、まず、その他の言及してこなかったしこれからもしそうにないドラマについて、感想等を残しておこうと思います。

○『交渉人 THE NEGOTIATOR』。

警視庁内の各部屋や、ウサギ(米倉涼子)が真里谷恭介(城田優)と接見する部屋の、美術。端的に、このドラマがリアリティを優先していないことが見てとれます。(昨今流行傾向にある、映像処理をもって、でなく)演出としてケレンに振り切った姿勢に好感度あり。米倉涼子がいくら実績や成功を積んでも、捜査一課にも特殊犯捜査係SITにも一向に温かく歓迎されず、ようやく最終回に受け入れられるという構成もカッチリしていて、快作とよんでいい着地を決めたと思います。

キャストでは相変わらず陣内孝則が破滅的な演技で世界観をぶち壊す。それを芸達者っぽい大勢のバイブレイヤー陣が何とか繕うといった格好。個人的には興味がなさすぎてフルネームが漢字で書けるか怪しい米倉涼子ですが、オーバーながらも幸薄そうなオーラとも相俟って、精神の不安定そうな揺らぎが役に定着していて、このドラマの緊迫したトーンをうまく作り出していたと思います。
新鋭陣は、城田優と林丹丹が着実に印象を残す。DーBOYS躍進のシンボル的存在として映る城田優は、ここ一年、あらゆる方面で露出しいよいよ知名度が相当あがってきたが、人気だけが今ひとつついてきていない気も‥。僕はなんとなく好きですが。演技の上手い下手、イケメンか否かといったような議論とは別のところにいるようで、きわめて安定度が高い。(そういえば、かつて、橘佳奈がブログで城田を“親友”呼ばわりしていましたが、それは彼女のの勝手な思い込みなんじゃないのか‥と常々疑っています。)
主演の米倉涼子と同じオスカー所属の林丹丹は、美少女クラブ31メンバーでもないのに『恋愛百景』(美少女クラブ31の番組)に出演したりと、露骨なオスカーのプッシュを獲得している新鋭。バーターでのドラマデビューとなる今作では、ウサギ/米倉涼子の妹を堂々と演じて揺るぎない。“大器”感は示せたかも知れませんが、タフすぎて今後の展開が不明瞭な気も‥。

オスカーといえば、2時間スペシャル『アテンションプリーズスペシャル オーストラリア・シドニー編』では、上戸彩のバーターでやはり美少女クラブ31の清水由紀が登場。なんだかベリエのキャプテンと混同しそうな名前ですが‥彼女は二代目ミサキヨーコとして上戸彩を下から突き上げる生意気なCAの候補生役というおいしい配置。しかし、その‥子ダヌキのようなルックス(しかもブスッとした役)からは、これまた今後どのような展開が有りうるのか心許ない‥ていうか、バーターとはいえ新人CA役にはあまりにもなんじゃないかな‥。だいたいオスカーの推しは総じてトンチンカンで、事務所の目論見とは違うところからニョキッと突発的にブレイクするのが通例となっている気がします(『コスプレ幽霊 紅蓮女』での高部あい~中村静香(&薗田杏奈)もバーターと思われますが、同じタヌキ系でも、中村静香にはある嗜好を満たすようなある種の魅力があり、一定量の需要があると思う)。

さて、『ホテリアー』やら『暴れん坊ママ』やらの、「けっこうイイ人」の上戸彩ばかり最近みせられてきていて、そこで久しぶりに『アテンションプリーズ』の上戸彩、無神経でガサツで空気の読めない上戸彩を見ると、イライラカリカリしつつも、これだよ、この感じが上戸彩だよと懐かしくも嬉しくなる。相武紗季らを相手に、自分勝手なテンションで暴虐の限りを尽くすミサキヨーコ。粋がって、調子にのりつづけて周囲を困惑させ疲弊させ続けるミサキヨーコ。
上戸彩をみるという行為は、どこかイラッとしつつげながら見る、何か空虚な寒々しさを感じつつ見る、ということで、それなくしてはどうにも物足りない感じがする。という不思議な感情の動きが自分のなかにあります。

さきの『恋愛百景』といい、テレ朝とはきわめて近い関係があると印象されるオスカープロモーション(『交渉人』の企画協力には古賀さんの名が。『コスプレ幽霊 紅蓮女』にも〈企画協力〉としてオスカープロモーションとある)ですが、テレ朝木曜のドラマ枠ではじっさいオスカーの上戸彩と米倉涼子が交互に主演していて(2004年『エースをねらえ!』『黒革の手帖』、2005年『アタックNo.1』、2006年『けものみち』『下北サンデーズ』、2007年『ホテリアー』、2008年『交渉人』。主演米倉涼子/バーター福田沙紀の『不信のとき ウーマン・ウォーズ』もこの枠かと思ったらフジテレビだったんですね‥。そう言われてみればいかにもフジっぽい気もする)、一般的には米倉モノの評価が高く上戸モノに難癖が集中、という傾向がありますが、青春を謳歌する上戸モノに愛着があるのに対し、精神年齢的に米倉モノはしっくり来ず、松本清張路線にも疑問を感じていて食わず嫌いだったんですが、『交渉人』を観とおすことでその殻を個人的に破った気がして爽快感がある。それが『交渉人』への高い好感となってあらわれたのかも知れません。

またオスカーつながりの連想でいうと『だいすき!!』、この危うい、ギリギリの難しいところにあるドラマを救ったのは、福田沙紀だったと思う。福田沙紀は、オスカーとか美少女クラブ31といった枠を超えて、同時代のなかでも突出した女優さんだと確信しています。
(つづく)

theme : テレビドラマ
genre : テレビ・ラジオ

映画『さよならみどりちゃん』その2

さよみ3
『さよならみどりちゃん』


映画『さよならみどりちゃん』その1からのつづき→)

3.

関係ができた後、ユウコ/星野真里は、スナックで働くよう、ユタカ/西島秀俊に何となく言いくるめられてしまう。受動的であることが愛し/愛されることである彼女は、従ってしまうことで彼と繋がることになるが、彼は舌の根もかわかぬうちにカフェの新しい店員・岩佐真悠子と親しげに戯れる。
そのさまを、西島を、呆然と見つめる星野真里の表情と瞳の“散漫さ”には、試みられた心理的説明を一歩手前で霧散させる〈微妙さ〉がある。意味(心理)に還元し尽くされない、その余剰を生んでしまうことが、『さよならみどりちゃん』における“星野真里”という存在の「豊かさ」だと感じられます。そのようにして、ひとつのシーンが“説明”によって消化され尽くさず次のシーンへ移行する。このことが、主人公の「とりあえず」流されてしまうさまの〈染まりやすさ〉、照射されてゆるゆると低温的に蠢くしかない他動詞的な有りよう(自動詞的な、確固とした主体性を持たない)と同調する。

主体性が不確かで浮遊的であり、根無し草的かつ依存性質であるユウコの、その感情、情動の、さざ波のようにささやかな感情生活の低空飛行ぶりが、80年代的空虚さと、青春の時間の無益で無為で怠惰な浪費の空虚さと重なる。恋愛主体は、愛するものに対して常に〈待ち受ける身〉であり、決定的で永続性のある「愛のしるし」を獲得しない限り、相手の照射によって恋愛時間が蠢きだすまで、待機としての非・意味を耐える存在に甘んじる。(そのような情熱恋愛の世界を生きるユウコ/星野の無為な生活の「だらしなさ」は、ユタカ/西島の性的な「だらしなさ」とのバランスある関係の持続をもたらす。)

他動詞的存在で、常に〈意味〉を取り逃すということが、必然、〈染まりやすく〉〈流され〉〈待つ〉といった恋愛性質を余儀なくする星野真里。彼女が待ち、事物から意味を取り逃し、そして流されてしまうことは、彼女にとってある種“愛の成就のかたち”であるということになる。

だから、彼女のまえにライバルとしての異性たち、若い魅力を放つ岩佐真悠子があらわれて「センパイ、私ユタカさんの彼女になりたいんですけど、いいですか。」と告げられることも、元カノの中村愛美が登場しユタカに馴れ馴れしくしなだれかかるのも、そしてみどりちゃんという本命がいることも、意味作用が物語を起動させず、彼女のまえでは機能不全を起こす。彼女たちの登場はユウコ/星野真里の恋愛生活にほんとうの波紋は起こさない。中村愛美とのことをグダグダ話しだす西島に、星野がすわった目で「つまんない」と言い放つのは、西島と他の女とのあれこれが結局のところ、本質的には彼女の生きる物語に属さないことを示す。

このようにして、物語に用意されたさまざまな物語素は、説話の持続に弱々しくしか働きかけることが出来ない「意味の弱さ」として表れ、この映画の、鬱々としつつも晴れ晴れとしているような弱い魅力のトーンをつくりだします。

4.

その非・意味の極点、つまりこの映画の魅力である意味の弱さがもっともあらわれているのがスナック〈有楽 You Lark〉での、一連のシーンというかそこでの無為の時間の流れ。ママがローテンションに客をあしらい、諏訪太朗や佐藤二朗らの常連客がどうでもいい話に興じ、星野真里は半分は楽しげに、半分はお愛想で笑顔を浮かべ、誰にとっても無為な時間をやり過ごす。何の発展もない、その“括弧付きの楽しい時間”にある切なさ。ことにラストシーン、〈有楽〉を辞めることが決まったユウコが主題歌をカラオケで歌う(絶妙な下手さ!)姿を長回しで切りとる、その小さな小さな、たのしさ(そして曲名は14番目の“月”。)。何の解決も進展もあったわけではなく、ひとつのことが終わるというに過ぎない時間。素朴で、冷たくあたたかい、素敵な場面となったとおもいます。

あるいはまた、ユタカの彼女である“みどりちゃん”が空虚の中心として物語世界を空洞化させる。その女がユタカの彼女であるらしいことも意味を結晶せず、やがてその“みどりちゃん”とは別人の“みどり”の名を持つ新人(小山田サユリ)がスナックに雇われる。こうして特別な意味を帯びていた“みどり”という言葉から、意味が剥奪されてふわふわと浮遊する。そして、現実に星野真里の目の前にいる小山田サユリのほうが(虚点である“みどりちゃん”より)遙かに主人公の存在の場を脅かすのだ(結局、小山田に居場所を奪われるようにして、星野はスナックをやめることになる)。この小山田が同じ空間にいるという、何とはなしの居心地の悪さも、独特な趣をもって映画に豊さをもたらしていると感じられます。

一方、スナックの前の長い石段とか、オヤジの話をしながら水まくシーンとか、パタパタいうサンダルの音に蝉の声がかぶさるのとか、そういったいかにも映画的な豊かさを体現しているようなシーンは、既存の「映画的」という(コミュニティー的)“意味”に安易に結びつき、白けるというと大げさですが違和感を感じる。肉体的/他者的でありそうなそんな表現こそが非肉体的で意味に重く撓むという皮肉。ユウコの家のまえの段差のある位置関係でのユタカとのやりとりも、どこか物足りない。同じように、西島がみどりちゃんらしき赤い服の女を連れて乗り込むタクシーを走って走って追う星野真里、といういかにも「名場面ふう」なシーンも、そぐわない、と感じる。ただし、星野真里のもったりしたやや重たい走りの身体性が、やがてシュッとした肉感に変容していくさまは興味深い。『さよならみどりちゃん』という映画が、欠点を有しつつも星野真里という主演女優の肉体に助けられていることのひとつの証しでもあります。

5.

2人の乗ったタクシーを追って走り尽くした星野真里が、明け方の、線路脇ののぼり坂をひとりトボトボと歩く。奥にトラックが走りすぎるのが見え、烏の鳴き声が響く。肩紐を落としているのがいかにもヤリスギ、横移動、寄りのキャメラが少しだけ遠い半端な感じが古厩的。

アパートに戻ってくると、ユタカが階段上にいた。「いつから?」「ずっと。」
ユタカ、私のこと知らないでしょ。んー‥しらない。私、お店辞めたいの。いんじゃない?やめても。‥うん。ねぇ。ヤリたくない?と問いかけ、部屋へあがるふたり。
室内は既に明るく、ムードもなければ身を潜める月夜の影もない。ブルーな夜に沈み、照射するユタカの光によってかろうじて生の時間と情動を紡いできたユウコはここには既にいない。お店を辞めたいと自発的に発言するユウコは、ユタカに寄りかかり、存在も意志も委託して〈溶けてなくなる〉ことはない。ユタカの光に輝く月でなく、ユタカと同様に太陽の光を浴びるただの即物的な肉体をもつものに過ぎない。ユウコの振り向けた視線は、ユタカの瞳に絡みつき、吸い寄せられるように唇と唇を重ねる。

〈溶けてなくならなくてもいい。初めてそう思ったセックスはとても良くて、ユタカはいつもよりゴツゴツしてて、でも、とても良くてーー。〉

意識も存在の感触も消えて溶けゆくように愛するものとの融合を指向していたユウコは、ひとりの(みすぼらしい)肉体をもつ女性として、ひとつの肉体としてのユタカを愛している、とおもう。ユタカが好き。だから私のこと、好きになってよ。という言葉は懇願として響かず、ひとつの爽やかな宣言ときこえる。相も変わらずだらしないユタカは、恐らく彼女にしっかり向き合うことはないだろう。それでも他者としてのあなたを愛する。窓の外から案外冷たい風が吹く。もう夏は終わっている。

theme : 日本映画
genre : 映画

03 | 2008/04 | 05
Su Mo Tu We Th Fr Sa
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 - - -
プロフィール

ししらいぞう

Author:ししらいぞう



東京在住

調理師のようなことをやっています。

趣味は立ち読み 格闘技観戦 映画観賞

3月生まれO型  

ランキング参加中☆
良かったらクリックをお願いします


ブログランキング・にほんブログ村へ
ブログランキング
ブログ内検索
最近の記事
リスト
2008年04月の記事
カテゴリー
Category Sum
全記事一覧
あいさつ 11
映画紹介(ア行) 21
映画紹介(カ行) 19
映画紹介(サ行) 13
映画紹介(タ行) 15
映画紹介(ナ行) 7
映画紹介 (ハ行) 18
映画紹介(マ行) 9
映画紹介(ヤ行) 7
映画紹介(ラ行) 5
映画紹介(ワ行) 1
観るまえの映画のこと 19
本と映画 22
雑誌と映画 18
その他映画 36
フルモーションレーベル 14
『恋する日曜日』 13
ユーロスペース 5
本・マンガ 40
雑誌 22
ドラマ 60
いろいろなBest10 15
日記 75
作家・監督・俳優・女優 6
舞台・イベント 4
未分類 8
月別アーカイブ
最近のコメント
最近のトラックバック
リンク
YouTubeSEARCH mini
おみくじ

©Plug-in by
FairyDances
★
HeroRisa

ぱたぱたアニメ館
GIFアニメ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。