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『東映ヒロインMAX』6号ほか

爆音映画祭
爆音映画祭@吉祥寺バウスシアター、注目のリクエスト決戦投票(上位ベスト3が上映される)の結果が24日に発表されました。

①ワイルド・バンチ(56票)
②プライベート・ライアン(44票)
③台風クラブ(38票)

ということで、3位と4位のスピ『宇宙戦争』(37票)とは、わずか一票差。『台風クラブ』が通ったことによって、セレクトに味がでた。良かった良かった。
その他、爆音映画祭上映が決定した作品が続々と発表。まずは、オリヴィエ・アサヤス(アサイヤス、の表記のほうに愛着アリ)『CLEAN』、北野武『3ー4x 10月』、デヴィット・ラシャベル『RIZE』、ロマン・クロイター&ウルフ・ケニッグ『グレン・グルード 27歳の記憶』、ヴェンダース『パリ、テキサス』、ペドロ・コスタ『ヴァンダの部屋』、ハリー・ホッジ『バンド・オン・ザ・ラン』といった素敵なラインナップが。以降の発表も俄然、楽しみになってきました。

爆音映画祭HP:www.bakuon-bb.net


プリズン・ブレイク
ようやく『プリズン・ブレイク シーズン2』を観終えた。シーズン1同様、観とおすのに何となく勢いがつかず、半年以上かかってしまいました。シーズン1を観了した時点では、シーズン3は『女囚さそり けもの部屋』(さそりシリーズ第3作)みたいになるんじゃないかなといい加減に予言(?)しましたが、シーズン2の終わりかたをみるに、全然そうなりそうもないな‥。


相棒
なにかと好評な、水谷豊&寺脇康文の『相棒』シリーズ。はたから見てると何が面白いんだろうと、このうえなく食指が動かないまま長いことスルーしてきましたが、『未来講師めぐる』の後半でさんざん相棒ネタが出てきてクヤシイ思いをしたのと、劇場版『相棒』がもうすぐ公開(水谷豊、完全新作の劇場用映画出演は工藤栄一の『逃れの街』以来なんと25年ぶりとのこと)されるのとで、さすがに観なきゃダメかなと思いレンタル店へ『相棒』を借りに行きました。
シーズン2は今テレビ朝日で再放送しているのでそこでチェックするとして、シーズン1を借りればいいだろうと思っていたら、シーズン1より前に放映されていたプレ・シーズンとして分類される2時間SPが3本あるというのでそれから観賞し始めました。演出は映画版と同じく和泉聖治。で、時代を感じさせるというか、あまりの古さにクラクラして、今のところなかなか乗れませんが、そのうちハマるんでしょうか‥。評価が安定したら感想等を別記事で。


東映ヒロインMAX、クライムハンター、芳賀優里亜
『東映ヒーローMAX』からのスピンオフした不定期刊雑誌(ムック)『東映ヒロインMAX』も、無事6号目がでました。
東映特撮ヒーローモノ専門雑誌である『ヒーローMAX』の増刊号的(かつ、鬼っ子的)位置にある『ヒロインMAX』は、文字通り東映特撮モノに登場するヒロインにスポットを当てたムックで、レジに持っていくのも勇気がいるものですが、東映系のSF/アクション映画についての記事があったりするので一般的な映画ファンにとっても油断できません。

今号では、Vシネマの黎明期に登場した『クライムハンター』シリーズ(『クライムハンター 怒りの銃弾』&『クライムハンター2 裏切りの銃弾』&『クライムハンター3 皆殺しの銃弾』)がDVDーBOXとして発売される(4月21日)のを記念して10ページに渡る『クライムハンター』特集が。大川俊道監督(『NOBODY』、好きです)のロングインタビューが読みでがあって充実。特撮ヒーローヲタ向けの“ヒロイン”目当てみたいな雑誌で、「又野誠治」の名前がしつこく何度も出てくるような文章が長々と掲載されているのが趣ぶかく、爽快。このDVDーBOX、付属のボーナスDISCには完全新作の『クライムハンター 蘇える銃弾』が収録されるとのことで、主演をあの芳賀優里亜が勤めています。ということで、芳賀優里亜インタビューの写真記事あり。ガンアクションは初体験とのことで、その撮影時の苦労話などが中心。『555』撮影時のエピソードもチラッと。
新垣結衣が出演していたことで再注目を浴びている、御大・田崎監督の野心的深夜ドラマ『Sh15uya』も最近、DVDーBOXが出たところでもあるし、芳賀優里亜に外部から新たなチャンスがやってくるかもしれません。

‥ところで『クライムハンター』って、〈東映Vシネマの金字塔〉で〈ガンアクションのマスターピース〉なんて映画史的評価ありましたっけ‥。“東映専門誌”である『~MAX』の場合、作品評価的には全肯定の傾向があるので注意というかリテラシーが必要ですね。


『Girl's Box/ラバーズ☆ハイ』、長谷部優
昨日3月29日、ようやく『Girl's Box/ラバーズ☆ハイ』が公開初日を迎え、舞台挨拶も行われたようです。
先日、『映画芸術』誌のホームページ上で、予想外に『~ラバーズ☆ハイ』がとりあげられていて、しかも意外にも好意的に評価をされていたのをみて、他人ごとながら嬉しかった(記事はコチラ)。

で、公開初日当日(昨日)の『東スポ』をみたら、〈ズームイン!!話題のヒロイン〉なるコーナーに主演者・長谷部優が登場。記者のインタビューに答えて宣伝活動をまっとうしています。
長谷部優本人と同じ岐阜県出身という設定の主人公・優亜。ということで、登場する母親も岐阜の人という設定だが、その母親役の女優さんが喋る岐阜の方言がぜんっっぜん違う、という話など。
記者による〈取材後期〉には、12万人から選ばれた(ふるい話‥)ことから類推したらしき〈イメージ的には「エリート」なのだろうが(‥)〉というトンチンカンな一文があったりして、長谷部優というタレントはまったく知られていないんだなと実感‥。もっとも、この下の記事では阿部力を〈若者世代に圧倒的人気を誇る〉とか言ってるし、東スポの記述にドーコー言っても仕方ない気もする。
ネットにはいくつもの長谷部優インタビューがありますが、比較的長いのはコチラでしょうか。


キン肉マン生誕29(ニク)周年
今週の『アメトーーク!』はプレゼン大会で、ケンドーコバヤシが「キン肉マン芸人」をプレゼンしてましたが、『kamipro』最新号(121号)では、好評の〈変態座談会〉シリーズに特別ゲストとしてミノワマンを迎えて、一足先に〈キン肉マン変態座談会〉を敢行(参加者は他に井上崇宏、橋本宗洋、堀江ガンツ)。
1ヵ月ほど前に新宿バルト9で開催された『キン肉マン映画祭』に、ゲストとしてケンドーコバヤシ、バッファロー吾郎とともにミノワマンも登場していました。いわば、キン肉マン生誕29(ニク)周年に、『キン肉マン映画祭』を出発点として、ミノワマンは格闘技&プロレス雑誌で、ケンコバはテレビで、それぞれ『キン肉マン』啓蒙活動を推し進めていこうとしているいう形になる。(かつての、『kamipro』/『アメトーーク!』での越中詩郎プッシュ(せき詩郎/ケンコバ)と様相がカブる。)

面白いことを言おうとするのが職業の芸人たちが集ってネタにするのと、生き方までキン肉マンに影響されすぎたミノワマンみたいな人が原作とアニメ版の細かい違いに触れて〈ビデオを何回も何回も巻き戻しして、一時停止したりして見てましたね〉とか言ったりするのを読むのとでは、“面白さ”の重さというか味わい深さが格段に違うだろう、とおもう。今後『アメトーーク!』でキン肉マン芸人が実現したとしても、越中詩郎のとき同様、『kampro』版のほうがずっと面白いでしょう。

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映画『さよならみどりちゃん』その1

さよならみ


『さよならみどりちゃん』
(2005年、日本、90分)

プロデューサー:丹羽多聞アンドリウ
監督:古厩智之
原作:南Q太
脚本:渡辺千穂
主題歌:『14番目の月』(奥村愛子)
出演:星野真里、西島秀俊、松尾敏伸、岩佐真悠子、小山田サユリ、中村愛美、佐々木すみ江、千葉哲也

OLのユウコ(星野真里)はカフェで働くユタカ(西島秀俊)と初めてセックスした日、彼に“みどり”という彼女がいることを知る。それでもユウコは、彼にどれほど雑に扱われても惹かれつづけ、唯々諾々と彼の言うことに従ってしまう‥。

1.

丹羽多聞アンドリウ制作のBSーiの短編ドラマシリーズ『恋する日曜日』(03年~)について、これまで断続的に書いてきましたが、その映画バージョンは公式的には現在まで06年の映画版『恋する日曜日』、07年の『恋する日曜日 私、恋した。』の2本がありますが、それ以前に公開された『さよならみどりちゃん』(04)は、当初『恋する日曜日』シリーズとして制作されたものでした。
ということで、『恋する日曜日』カテゴリーとしてこの映画にも、多少触れておきたいと思います。

久々の公開作が『奈緒子』『ホームレス中学生』とつづく監督の古厩智之は、『灼熱のドッジボール』(92)がPFFのスカラシップを獲得し、『この窓は君のもの』(94)で商業映画デビュー、『まぶだち』(01)、『ロボコン』(03)と、一貫して青春映画を手がけている映画監督、という印象がありますが、じつは主要な活動の舞台はBSーiのドラマで、丹羽多聞アンドリウプロデュース作品での演出を数多く手がけています。
BSーi(ということはキング・アンドリウのもと)で『ケータイ刑事』の各シリーズに頻繁に参加しているし、『さそり』や『東京少女』のシリーズ、『スパイ道』も手がけ、『恋する日曜日』第1シーズンでは南Q太原作の『丘を越えて』『ゆらゆら』の2本を監督。この延長上に『さよならみどりちゃん』があるということになります。
(『恋日』シリーズでは『恋する日曜日 文學の唄』、『恋する日曜日 ニュータイプ』、『恋する日曜日』第3シーズンにも引き続き参加。甘さとラフさがあたたかく香る作風、そこにかすかな苦さもあって、アンドリウプロデュース作品との相性が悪くないということでしょうか。)

初めて接した古厩作品である『この窓は君のもの』での、いかにも映画的で魅力的な舞台装置なのにイマイチ活用しきれていない演出と画面設計、そして元カノだという主演女優のビミョーさ(スミマセン)に、印象が〈苦手〉とすっかり刷り込まれてしまって以来、長年その印象が自分のなかから払拭出来なかったのでしたが、よく考えたらその後の、真面目かつ堅実ながら、思春期的な繊細さも失わない弱い春風のような作風には、どちらかというとどこか好感を抱きつづけていたのでした。

2.

平熱が37度もあると言うユタカと初めて性交したとき、「ユタカはほんとうに熱くて、わたしは溶けてなくなった‥」と星野真里の呟きがブルーの夜に滲み、部屋の奥に重なる二人の男女が見えてくる。
初めての性交らしいこの場面には、トキメキやら緊張からくる鼓動の高鳴りも、熱く高まる情動も感じられず、青く沈んだ陰鬱さが感じられます。熱さ、をその存在の内部に宿すらしいユタカ/西島秀俊という〈赤〉からの熱を受け止めるだけの、徹底して受動的な機械としての〈青い〉肉体のユウコ/星野真里がいる。月のような女。

男の言うがままにスナックで働きだすし、彼が他の女とさんざんヤルのを横目で見つつも、ソープで働けよと言われれば今にもソープに沈みそうな、そんな〈染まりやすい〉〈流される〉受動的なユウコ/星野真里の、ゆっくりと「堕ちてゆく」さまを映画はゆったりとローテンションで描きだします。

雑に話を進めますが、イメージとして、60年代70年代映画の堕ちてゆく女は、宿命や運命に翻弄されながらもその瞳につよい炎がともる、情の濃さ、熱さを感じさせたように思えます。制作年度はともかく、イメージが(使用楽曲も)“空虚な”80年代的のものである『恋する日曜日』(=恋する日曜日的世界)から派生した『さよならみどりちゃん』での「堕ちてゆく女」は、空虚でそれこそ「ふわふわ」とした、軸というか主体性のない流されかたをする(南Q太の思春/青春期もまさに80年代であり、“恋する日曜日的世界”との親和性があります)。そこでは、堕ちゆくさきもさほどの奈落でもなく、堕ちるに値するほどの(我が情に殉じて死す、というほどの)主義もパッションもなく、何となく目の前にある弱々しい魅惑を選びとり、ズルズルと執心するローファイな恋愛がモノのように転がっている。
たとえば若尾文子や梶芽衣子に代表されるような増村保造的女性像の、射るように真っすぐな瞳をもつ女とは異なり、星野真里の、扁平な顔面に散漫にパーツがちらばった顔立ちの焦点の定まらなさ、瞳の弱さは、ごく凡庸な幸薄さを茫洋と指向する。そこでは、情念の炎がついには結晶し難く、彼女より相対的に熱が高いモノよりの熱を照射されてようやく情動がユルユルと蠢く。その低温動物的な淫靡さが、この一編の映画の基調となっていると思います。

コトを終えたあと、寄り添いつつ、自分には彼女がいることを平然という西島に、動揺しつつも平気なふうを装いやりとりする星野真里。西島の「平然」を自身に転移させて「染まる」ことでとりあえずの関係を維持するという種類のいじましさ。
彼女の名前をきく。みどり。ふーん。みどりちゃん‥。〈わたしは、溶けてなくなった‥〉ブルーな、雪降る夜を窓越しに見上げる星野真里。

ユタカと繋がり、密着して熱を与えられるようにして「溶けてなくなった」ユウコは、ユタカの存在(熱)そのものと融合するようにして「溶けた」。そのような“寄りかかり”(ユタカへの、限りない(自分の存在ごとの)依存)を為した直後に、ユタカには「彼女」という唯一的な融合者がいると宣言され、先刻の「溶けて」「融合」した筈のわたし/あなたの交歓が無効だと宣告される。
ユタカに溶けきったはずのユウコは、ユタカのなかにはいなかったのだという。そこに居場所を占めていたのはみどりちゃん。彼女は、どこにも溶けゆくところなく、冷たい、夜の青い大気に寄る辺なく漂う‥

(→映画『さよならみどりちゃん』その2につづく)

theme : 日本映画
genre : 映画

4月からの新ドラマの期待度

さて、まだ冬ドラマの話も終わってないのに春ドラマです。
以下はみる可能性のあるもので、期待している順。『瞳』以外、テンション上がってませんが‥。いつものクールよりオリジナルが多い気がしますね→
(カッコ内は自分が惹かれる要素)

『瞳』(ネタ)
『パズル』(ネタ)
『キミ犯人じゃないよね?』(ネタ、枠)
『絶対彼氏』(水嶋ヒロ)
『ホカベン』(上戸彩)
『秘書のカガミ』(ドラマ24枠)
『Around40~注文の多いオンナたち~』(なんとなく‥)
『ラスト・フレンズ』(微妙)
『ROOKIES』(いずみ吉紘)
『おせん』(微妙)
『週刊真木よう子』(枠)
『猟奇的な彼女』(谷原章介)
『2クール』(寒そう‥)
『7人の女弁護士』(‥)
『CHANGE』(阿部寛)

theme : テレビドラマ
genre : テレビ・ラジオ

ボンビーメン覚え書き

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『貧乏男子 ボンビーメン』
(日本テレビ系、火曜22:00~)
演出:猪俣隆一、吉野洋
脚本:山浦雅大ほか
出演:小栗旬、八嶋智人、山田優、三浦春馬、ユースケ・サンタマリア、仲里依紗、音尾琢真、上地雄輔ほか


○楽天的でお人好し。困っている人が周囲にいると、ほっとけなくて何やかんやと世話を焼いてしまう。付き合いやお誘いには全ていい顔してしまい、人助けにも分を弁えない安請け合いを繰り返し、いつの間にか借金に借金を重ね、その額は膨大な額に膨れ上がっていってしまう。それでも、心配する周囲をよそに、「オカネよりココロ」とのたまい、今一つ反省が感じられない‥。

ボンビーメン=小山一美は、そんな困った男。

そのような甘ったるい人生観で、無事に世の中をわたっていけるわけがない。そこで「ココロよりオカネ」を標榜する、ユースケ・サンタマリア演じる“オムオムさん”なる怪人物が、対比的に配置され、小山一美と衝突することになります。『貧乏男子 ボンビーメン』というドラマはとりあえず、〈金銭優先し感情軽視〉と〈感情優先し金銭軽視〉というふたつの両極端なイデオロギーの覇権争いとして展開されてゆきます。

その意味で、『貧乏男子 ボンビーメン』は、表面にあらわれているかたちはコメディタッチですが、〈お金と、ココロの尊厳〉という問題をめぐる、なかなかに観念的なドラマだと言えると思います。
まだ、第1話あたりは普通のリアリズムの範疇に入るドラマだったものが、2話以降、作劇も演技も舞台も抽象性を増してゆき、演劇的な空間性と観念性を帯びていった。
ことに、白石ちゃん(三浦春馬)の借金を肩代わりして以降は、現実と接点のほとんどないファンタジーな領域へと飛躍(迷走?)してゆき、劇中で八嶋智人と山田優が「ついていけない‥」と呟いたように、ある一定数の視聴者にも同じように呟かせたんじゃないかと危惧していますが‥。


○矢口真里のモッサリした顔の元カレ、というくらいの認識だった小栗旬が、花沢類役でブレイク後、花沢類=王子(『花より男子』)、ヤンキー(『クローズZERO』)、オラニャン(ぎみ?)(『花ざかりの君たちへ~イケメン♂パラダイス~』)等と、それぞれ異なった“男子の魅力”を次々に制覇し、イケメン・ムーブメントを牽引する俳優になりおおせようとは、だれに想像出来たでしょうか。

そのような“カッコイイ”小栗旬がついに連ドラ初主演の機会を迎えた。今度はどのような種類の男子の“カッコよさ”なり色気なりを提示してくるれるのか、という方向で、視聴者が興味を向けるなか、あらわれた役は‥フェロモンのない雑な風合いの男だった。
髪はモジャモジャ、動作はガサツ、仕草に色気なく声はムダにデカく、ガタイもあるしノリはいいが全般的に未成熟な幼児性が漂う。

ひとそれぞれ、好きずきがあるのだから、そんな小栗くんにもギュッと掴まれる向きもあるのかも知れませんが、まぁ少なくとも、マーケティング的な発想からしてもプロモート的な面からしても、この小栗旬は断然“なし”でNGであって、一本の映画とかならまだしも、連ドラでこの〈女子の求めていないであろう新たな小栗旬像〉を、今・このときにヤルということは、そうとうな冒険で、そうまでしてヤル、それだけの必然性をこの作品に感じて参加して/させていた、ということになります。つまり、より高い視聴率を得たり、より多くの声援を得たり、現在の人気をより長く持続させたり、俳優としてのポジションをより有利に確固たるものにしたりすることが結局の目的となる多くの連ドラと異なる強い意志が、『貧乏男子 ボンビーメン』には働いている、ということになると思います。


○『貧乏男子 ボンビーメン』を何話か観進めてゆくうち、感じた感触は天海祐希主演の『演歌の女王』みたいだなあ、というものでした。

『演歌の女王』も『ボンビーメン』も、どう考えても現在の社会のシステムとは相容れないような、素朴な性善説にしがみついた主人公が、厳しい現実にぶつかりつつもその愚直な人生観を貫いて生きるさまを描く、という共通点をもちます。
しかも、2話3話と話数が進んでいっても、毎度毎度現実の側から手ひどいしっぺ返しを喰らいながら一向に反省も成長もしない、楽観→失敗→楽観→失敗→‥といった無限ループをしつこく描きだす主人公の懲りなさに目眩を覚えて、いったいこの連ドラに「進展」の二文字はあるのだろうか・・と不安になってくるところまで似ています。

『演歌の女王』については既出記事でも言いましたが、性善説を盲信し突き進む主人公・ひまわり(天海祐希)のイデオロギーの帰結は、現実の世界に太刀打ち出来ずに自らの超主観性を増幅させ、現実と遊離する、という苦い結末を導きました。それに対して、『ボンビーメン』/小山の場合、そのイデオロギーが現実世界の袋小路に入り込むと、ドラマの物語世界が都合よく流動してゆく、という甘い作劇に逃げた感がある。何百万、何千万借金を作ってもどこかに返済する救済策が転がっている。どんなに社会不適合な行いを為そうとも、友人は逃げていかず、最後まで「まごころ」は通じる。最終回の様々なエピソードなどはオール最悪で、そこまでの“観念”と“シビアな現実”との闘争の説話を無効にするような雑な決着をつけてしまいました。惜しい。


○主人公・小栗旬・小山一美は、その人物をあらわす固有名詞が定着せずに揺らぐ。
オムオムさんからは「スルテンちゃん」というニックネームを冠され、借金仲間となる八嶋智人や山田優からは主に「あのバカ」「あいつ」「お前」「あんた」と呼ばれ、視聴者からは「ボンビーメン」「小栗旬」と呼ばれる。闘争劇外の周縁人物からは本名で呼ばれるものの、殆ど印象に残らず、その名がオヤマだかコヤマだかも定かじゃないような、不安定な気がしてきます。
この主人公の固有名の“たゆたい”は、交換可能な偶然性を示しているのじゃないか。彼は、私であるかもしれないし、あなたであったかもしれない。確固として私が私であるという断言、それが揺らぐ装置として観念があり、心は大事だ、と感じる私たちが、「彼でない、ということはないかもしれない」という「交通」が、『ボンビーメン』というドラマと私たち視聴者の間を繋ぐ。
金銭は複数のものを繋ぐ交換可能な交通の装置であるし、彼が大切だという“こころ”とやらも、人と人との間の交通として初めて存在する類いのもの。
そしてラスト、形だけながらも、借金の貸し/借りの立場を交換した小栗旬/小山一美/スルテンとユースケ・サンタマリア/オムオム/尾武村賢三郎(小栗→(金による繋がりを指向)→ユースケ)は、感情的立場も交換する(ユースケ→(心による繋がりを指向)→小栗)。図式的すぎて少々ノレないものの、上記のような“交換可能な流動性”を人間社会/関係のシステムとして提示する、そのような作品として『ボンビーメン』を組織してゆく(作り手の)強い意志が終幕まで貫かれたことは、このドラマの志の高さとして評価されるべきことだと思います。


○人間関係が紡がれる、〈交通〉の“場”として、毎度まいど借金仲間たちが巡り合い/集結/離散する場所の設定がユニーク。橋の脇の路上(もしくは橋の上)。コインランドリー。これらは匿名性を帯びた人と人の交通の場という意味指示がある?


○観念に楔をうつ、小栗旬の演技設計。
相手の腕(肩)を思いっきり叩く動作。ふわぁい!!!!と頭に響くような大声での返事。どちらも〈痛み〉として他者に関係をもたらす。

○山田優は舌打ちが似合う。

○八嶋智人の演技はココリコミラクルタイプぽく感じてしまい違和感‥。

○すみれ役の仲里依紗、当初の予定や設計図からドラマがズレていってしまったためか、不要な人物と化してしまい、知名度を飛躍的に上げる大チャンスの筈が残念な結果に‥。

(つづく)

関連記事:ドラマ『演歌の女王』
       ドラマ『花より男子2(リターンズ)』
       ドラマ『花より男子』

theme : ドラマ感想
genre : テレビ・ラジオ

『ユリイカ』3月臨時増刊号ほか

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『アウト・ワン』


○いよいよ3月29日に公開が間近に迫った『Girl's Box/ラバーズ・ハイ』。このテの映画に対しては、現在影響力的に最大級の宣伝媒体のひとつであるだろう、『sabra』連載の中森明夫「美少女映画館」に無事(?)とりあげられていました。営業妨害にならない程度の取り上げられかたでホッとする。ま、ドラマ部分がからきしダメ的には書かれてましたが‥。


○爆音映画祭@吉祥寺バウスシアター、一般投票による上映作品枠は、決戦投票によって上位3作品が決まるとのこと。多数決かよ‥。当初はたしか期限16日までだったはずだがいつの間にか23日までに延びてる。
上位は現在、

①『ワイルドバンチ』(48票)
②『プライベート・ライアン』(35票)
③『台風クラブ』(25票)
④『宇宙戦争』(24票)
⑤『珈琲時光』『狂い咲きサンダーロード』(15票)

といった感じで、もし『台風クラブ』が落選したとしたら、アンケートとった甲斐がまるでない、ツマンナイ結果になりそう。〈上映希望作品リクエスト〉という企画は失敗か‥。映画と民主主義は、折り合いが悪いですね。


○最新作『ランジェ公爵夫人』の公開が控える、ヌーヴェル・ヴァーグの重戦車、ジャック・リヴェットのレトロスペクティヴが、フランス映画祭2008の一環として、ユーロスペース&東京日仏学院で開催中。
ペドロ・コスタとかニコラ・フィリベールの特集上映などに比べて、ぜんぜん旬な感じもしないし盛り上がる気もしませんが、リヴェットはヌーヴェル・ヴァーグの面々中最も呪われた感があって、“レトロスペクティヴ”という語感にいちばんフィットする。〈トリュフォー映画祭〉とかいっても、別にドキドキしないもの。

狙い目は『アウト・ワン』(上映時間12時間40分!!)、『現代の映画作家 ジャン・ルノワール』、次いで『デュエル』『ノロワ』あたりでしたが、どれも仕事で行けず。残念。
『地に堕ちた愛』とかソッチ方面はどうも愛せず、『狂気の愛』や『彼女たちの舞台』みたいな路線のリヴェット作品が好きな自分としては、『アウト・ワン』を劇場で観る機会を逃したくなかったのだけれど‥。
90年、リヴェット日本初公開作『彼女たちの舞台』、ローランス・コートの“まなざし”にハマった。ごく最近、その『彼女たちの舞台』がDVD化され、レンタル店にもごく普通に並び出しましたが、果たして今でも変わらずこの映画に(ローランス・コートに?)魅力されるのか?若干疑わしく、観直すのがこわい。


○『ユリイカ』の3月臨時増刊号は超永久保存版!!お題が『ジャン・ルノワール』!!責任編集が山田宏一!!ということで問答無用、全映画ファン必須アイテムの登場だ。2400円と、雑誌と考えるとやや高いかもしれませんが、書籍と考えれば信じられないほど安いとおもおう。96年、フィルムセンターで大特集上映され盛況をきわめた『ジャン・ルノワール、映画のすべて。』と併走して企画されていたムックが、13年も費やしてようやく形となったものだという。内容は全作品評論、年譜、関係者インタビューなど。巻末の寺尾次郎や角井誠による詳細なフィルモグラフィーや関連資料一覧など資料的にも充実。
山田宏一を筆頭に、中条省平、筒井武文(やっぱ異常!)、上野昴志ら執筆陣も豪華というか予定調和というか。強力な執筆陣の超力作テクスト群がひしめくなか、粉雪まみれ氏は少々気の毒な感じが‥。


○『あしたの、喜多善男』、最終回をみおえました。
『エジソンの母』や『貧乏男子 ボンビーメン』といった、自分のなかでの有力作が最後の最後で演出的にも脚本的にも腰砕けというか失速するなか、『あしたの、喜多善男』は最終回まで演出のテンションが落ちなかった。
『鹿男あをによし』の最終回も予告をみるかぎり、けっこう甘めの着地みたいでしたし、自分のなかでは今期冬ドラマのベストワンは『あしたの、喜多善男』に確定しました。

島田雅彦の小説を一度も面白いと思えたことがなくて、『夢使い』あたりを最後に小説は読んでいなかったんですが、それでも『自由死刑』は探して買った。そうさせる力が、このドラマにはあった、と思います。
ところで、たしか数週間前の『週刊文春』に載った、冬ドラに関する記事中、『~喜多善男』について、これからは渡部篤郎にいってたような役が松田龍平に押し寄せるだろう、酒井若菜に託されていたような役が吉高由里子にまかされるだろう、というふうなことが言われていましたが‥。どうもホメて言ってるらしいのですが、酒井若菜ファンのかたには悪いけど、問題にならない、比較するのも失礼なほどの大器でしょう、吉高由里子は、と思う。ピンとこないひとには、これっぽっちもピンとこないんでしょうが‥。


(‥ということで、『あしたの、喜多善男』についてはきちんと別記事で色々言いたいと思います。次記事予定は『貧乏男子 ボンビーメン』です。)

伊東美咲と『エジソンの母』

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『エジソンの母』


女優としての伊東美咲は、新たな段階に入った。今期連ドラ、『エジソンの母』をみていて、そう思いました。

1.

『未来講師めぐる』の深田恭子&『エジソンの母』の伊東美咲という、快作『山おんな 壁おんな』コンビが同時期に連ドラ主演で、ともに怒濤のモノローグ攻勢でドラマを独り言(?)(の言葉群)で埋め尽くす圧倒的なさまを優しい気持ちでみつづけながら、妙な感慨を抱いていたのでしたが、そういえば『サプリ』、『山おんな 壁おんな』、そして『エジソンの母』と、伊東美咲の独り言/モノローグ女優化、という性質が定着化しているなあと、遅まきながら意識にとめました。
(『未来講師めぐる』での、深田恭子によるモノローグの奔流は、昨今の吹替ブームなりニコニコ動画のコメント機能なりを思わせる、思考思索よりは瞬間的反射を優先する〈ツッコミ〉の、多重的/短絡的な共有化を体現しているようにも思えます。ツッコミとは、“共有イメージの交感”ともいうべき「強引なムラ社会化」のあらわれ。同じ文化コードを有する者の間で成り立つコミュニケーションはやはり、島宇宙化のひとつの作用でしょうか。)

そもそも最初に違和感を感じた、『サプリ』放映当時に自分が言ったことを以下に繰り返すと、『サプリ』の〈不評の最たる理由は伊東美咲の予想外なほどの魅力のなさではないでしょうか。これまで女優としては非現実的な、ふわふわと浮き世離れしたようなとらえ所のない魅力と色香を発散してきた伊東美咲は、主体/客体の関係としといえば徹底して客体側、つまり(みる側から)主観的に〈みられる者〉としとの魅力を認知されてきました。浮気かつ純真な娘(『タイガー&ドラゴン』)や徹底して男性に都合のいい物分かりのいい女性像(『電車男』)といった、リアリティのないキャラクターを、伊東美咲に演じさせると、みる側から何らかの照射される好都合な想い(こんな女性がいたらいいなとか、こんな女性になりたいとか)を受け止めて肉体化するということが具現化する。〈ウソ〉のリアリティを宿して、自身に常に〈幻想の余白〉を残す。のが、女優・伊東美咲の魅力維持の秘訣であったなら、(略)〈主観的〉人物としてモノローグを多用するしかない『サプリ』の伊東美咲が輝かないのは自明の理〉で、〈伊東美咲の感情の動きは逐一視聴者に開示/共有される
ため、〈幻想〉を感じることができない〉。

というふうに感じたよう。そしてその感じは今も変わらないといえば変わらないのですが、『サプリ』時のように否定的なニュアンスではなく、いまの、魅力的女性とは必ずしも言い難い女優・伊東美咲の“微妙な存在感”を、なんとなく肯定的に受け止めている自分の気持ちに気づきます。

『エジソンの母』は、図らずも、エジソンのように“天才”であるかもしれない少年=はなふさ・けんと(清水優哉)の担任となってしまった女性教師=鮎川規子(伊東美咲)の視点から、小学校の教室で巻き起こる騒動をコメディタッチで描くドラマで、視聴率的にはともかく、内容的にはなかなかの好評をもって迎えられた様子。
日本の学校教育の現在的問題という硬派な主題を、『わたしたちの教科書』や『3年B組金八先生』のようにことさら深刻・高邁にとりたてるのではなく、キッチリと正面から娯楽性で勝負する、そのような姿勢の潔さが爽やかな後味となって、好印象に結びついたのでしょうか。

しかし、ひっかかったのは、松下由樹あたりの演技をホメて伊東美咲の演技はケナす、そのような有りがちな言説がそれなりに幅をきかせてなくもないらしいことで、やれモデルあがりのデクノボウだのルックスだけで感情表現が豊かじゃないだの、なぜか演技についてだけは一家言あるらしい人たちは、モデルあがりの演技をクサすという定型的態度を示すものらしい。

しかし、新劇的な価値基準だけでは捉えきれないものもあると思う。かつては、気持ちよく流れに乗るように、軽やかにそこに存在するだけで輝きを放っていた伊東美咲が、『エジソンの母』においては、立っていても座っていても、人と対面して話しているときも独りで考え事しているときも、どこか居心地悪そうにたどたどしく存在しています。
みる側から照射される願望が〈幻想の余白〉を埋めるようにしてその存在感の輪郭を形づくっていた伊東美咲が、内発的にその存在感の輪郭の〈余白〉を意識や感情で埋めてゆくとき、いったんそれらがどこかに転送されてから、改めて伊東美咲の身体に照射し、転移する感じがある。そのため、外界への反応にいちいち一瞬ずつズレがあり、感情(や演技)も、自分のもの/事でありながらどこかかすかな“他人ごと感”が漂います。

あくまで真面目に真剣に対処しているのに、何かがふわふわしていて輪郭があいまいなギクシャクした感じは、芸能人的(もしくは役者的)自己愛を感じさせず、ただ自分のいる世界に対する真面目かつブサイクな対応をみる者に提示するだけだ。
主演者的ナルシスもバイブレイヤー的ナルシスも感じさせず、“ただそこに存在するだけ”といった類いの佇まいかたもしない、微妙な存在のしかたで〈世界〉に相対する伊東美咲は、自分が輝かないかわりに、彼女のいまいる〈世界〉の、不可思議さ、奇妙さ、温かさ、不条理さ、美しさに、ギクシャクと接してゆく。
ほんの微かな感触の、そのブサイクで誠実な空虚さによる照射は、おっぱいの大きい者が絶対的優勢である世界(『山おんな壁おんな』)や天才少年がその他の児童と共存出来る世界(『エジソンの母』)といった「ごく普通、かつ我々のいる世界とどこかがかすかに違う世界」を「確かに」ひとつの(作品)世界として岐立させる。

世界のすべてのものと比べて、常に若干の温度差がある伊東美咲がはなふさ・けんと君(清水優哉)と接するとき、元恋人の谷原章介と、けんと君の母のあおいさん(坂井真紀)と、他の先生がたや他の保護者のかたがたと接するとき、新たに世界や他人と接触してゆく手触りがある。(メーターを振り切った見事なほどのルーティンが支配していた『山おんな壁おんな』でも、伊東美咲の世界への接しかたが、“びみょうに”確かな手触りをドラマに与えていたと思います。)
人とはすこし違った回路をもつ天才かもしれない少年=他者が、どのようにして、異なる者たちと「人と人の繋がり」を紡げるか、という物語終盤の主題は、以上のような現在の伊東美咲的資質とフィットして、『エジソンの母』を幸福な作品にしているとおもいます。

2.

伊東美咲のことを抜きにしても、『エジソンの母』の卓抜なところは、登場人物それぞれの体温のちがいを感じさせるところだと、少なくとも自分は感じる。変なダウンを羽織って息せききって走りまわり、迷いながらも確信をもって、けんとを信じて強い視線で冬の大気をキラキラと射抜くあおいさん(坂井真紀)をはじめ、谷原章介、伊東美咲、清水優哉らが別々の体温を有し、それぞれ脈打っているとかんじる。『薔薇のない花屋』や『佐々木夫妻~』や『4姉妹~』等々の登場人物たちは、各人の性格設定がちがうだけで体温がいっしょだとおもう。そこが『エジソンの母』の素晴らしさのひとつだとおもう。‥こんな話、どこまでひとがついてくるか不安なところですが‥。

『エジソンの母』は基本、ノリコ先生=伊東美咲の視点で物語が描かれてゆき、そのため、彼女の不安定にふわふわした人や物事への対応ぶりが、“人と接すること”の描出のルーティン化を回避させる。一瞬一瞬の、人や物事へたいすることへの畏怖や違和感が、体温のちがいとしてあらわれて、人と人が共に生きてゆくお話をファンタジーに逃さない。時に雑なセリフや雑な演出(最終回が最も残念でした)があろうとも、肝心なところの把握がなされているのだと感じます。

先ほどの自己愛ついでに言えば、天才?はなふさ・けんと役の清水優哉という子役。この子がまたいいですね。彼の良さは、子役に有りがちなナルシスティックなところが表出していないところ。子役という性質上、チヤホヤされて調子づく驕りがどうしても露わになってしまい、その発声や佇まいに鼻につくモノが漂ってしまう。結果、天才役などやると俗物臭しか漂わない悲惨なことになるのは、子役に限らず失敗例がいくらでも見つかります。
はなふさ君にはその俗物臭が奇跡的に無く、天才にも見えるしバカにも見えるといった、絶妙な存在感と佇まいをキャラクターに定着させていました。演技が上手いとかそういうコマッシャクレタ感じがぜんぜんないのも素敵、フラットな台詞まわしもハマった。

谷原章介、坂井真紀のキャラクターの良さ、醸しだす温度や声音のトーンのいいかんじな様子も素晴らしかったんですが、最後にやはり、あまり誉められなそうな伊東美咲についてもうひとつ絶賛しておきたいとおもいます。(ちなみに、自分は今も昔も伊東美咲のファンだったことはありません。念のため‥)

『山おんな壁おんな』のときは、貧乳属性により必要以上に軽視される、という役柄上のこともあり、フテぎみにぶつぶつ力なく呟く、声のトーンの低さや発声の弱々しさが基調として印象づけられたのでしたが、今作『エジソンの母』における伊東美咲の「声の張らなさかげん」は尋常なレベルではなく、囁き声にすら至らない極限までか細い発声のシーンが頻出。キャラクターの諸属性に還元し納得できる範囲を遥かにこえていると思われます。声帯を振動させずに狂言回しとしての説明的な対話をこなしたりする驚異の演技プラン(?)は、殆ど前衛芸術の域だとおもいますが‥。

(つづく)

theme : エジソンの母
genre : テレビ・ラジオ

さようなら吉祥寺

今日で、仕事のために吉祥寺に毎日通うのも終わり。
街をぶらりと歩いて色んな店をのぞいたりすることに興味がないので、駅から店までの通勤路を地味に往復するのがほぼイコール自分にとっての吉祥寺の風景。旅行などに行っても、風景や店々に興味をかき立てられることなく、感慨もあまりわきません。

それらが、いったん過ぎ去り、記憶に定着してからしばらくのち、記憶の底からふたたび召喚したときに初めて〈あの日々〉と現在の断絶に情動がうごく。だから今は特にこれといった心持ちもなく、未来の感慨を想像してふわふわと不安な気持ちになる。

自分の両親は武蔵野・吉祥寺界隈で育ち、出会った。だから実家の実家は、かつて吉祥寺の東町にありました。おばあちゃんが死んだとき、色々事情があってしばらくの間は小平の市立小学校に吉祥寺から電車で通ってました。

学校の帰り、吉祥寺の駅舎を出て、今でいうサンロードをしばらく歩いて突っ切ると、商店が途絶えて住宅街になる。やたら緑が各家々の塀や柵からモコモコはみ出していて、屋外迷路のようになっていてチクチクした狭い道を辿るとやはり鬱蒼とした庭をもつ祖父母の家に辿り着く。

サンロードはその頃、今みたいに道のりのいちいちを屋根で覆われていなくて、開放的で寂しげでビュービュー風の吹きすさぶ、普通の商店通りだった気がする。雨が降ればちゃんとずぶ濡れになる、そんな通りだったような‥。道端も今より広々としていた、という記憶は、その頃自分が小さかったからか。
サンロードの終わるところ、今でいうと天やとかバウスシアターとかそのあたりに小さい汚い本屋があって、いつもそこで週刊少年ジャンプやら特撮ヒーローモノのムックやらを立ち読みしてから帰るのが日課でした。
そんな記憶が蘇ったのは、次のような本をめくったから。

本屋で見かけた、『吉祥寺 消えた街角』(土屋小旬/河出書房新社)という写真集をパラパラみてみると、天蓋なきサンロードの写真にたどりついた。記憶違いじゃなかったのか‥と安心する。現サンロードは、かつては駅前通りと呼ばれていたそうな。
しかし、写真を眺めながら、ほんの20年かそこら前のことなのに、こんな、思いっきり薄汚いALWAYSみたいな世界に自分が存在していたっけ!?と愕然。昭和が、昭和生まれの自分にとってさえファンタジーにしかみえん。
もっとも通学していたときに近い時期の写真、〈昭和60年〉とあるものを見ても、自分の少年期の記憶とギャップがありすぎて、この写真群がほんとうとはまったく思えない。

ということで、自分には、『吉祥寺 消えた街角』からは〈“架空の”懐かしさ〉(としか思えないもの)しか喚起されず、買わずに平台に本を戻す。幼年期から青年期までを吉祥寺で過ごした両親なら〈架空でない〉懐かしさを覚えるんだろうか?2日前、2年間交流断絶中の父からメールがあった。たまには顔を見せてください。『吉祥寺 消えた街角』をもし買うなら、両親にあげるため、になる。

夜、閉店したお店の前で、アルバイトの面々と挨拶を交わして別れる。当たり前のように毎日しゃべって喋って過ごしていた人たちと、当たり前のように会わなくなる。そのことにふと感慨が湧いて孤独に悲しくなる、そういうごく近い未来を想像して、しみじみと悲しみもどきを感じる。

国立

ここ一週間くらい、凄くめまぐるしい、激動の日々がつづいていました。

3月はいって、早々に吉祥寺のマイ店舗のメニュー替えがあって、それだけでも忙しいのに、その翌日は姉妹店の新メニューの手伝いにかり出されたりしていました。

3・5は『戦極』(@代々木第一体育館)旗揚げ大会を見にいく予定だったのが、なぜか直前17時くらいになって結局やめて焼き肉屋へ。肉食べたらとたんにピーピーにお腹下しました。

その翌日、予期しない異動の発表がありました。次の店舗は国立。16日からはもう吉祥寺のひとじゃなくなるとのこと。
遠くなるので、吉祥寺バウスシアターの爆音映画祭に通うのにはハードルが少々あがった。なるべく多く気軽に行きたいと思ってたけど、ラインナップ次第だな~という気分に変わりました。

日経エンタメ4月号

サブカル化の話でいうと、現在発売中の『日経エンタテインメント!』4月号(No.113号)、〈次世代ヒットメイカーはどいつだ?〉の記事が表面的にドラマ・映画のサブカル化を薄~く検証。
①脚本まで書ける=トータルコーディネイト出来るクリエイターの隆盛②小劇場から才能豊かな(?)人材の大量流入③深夜(バラエティ)番組は「深く狭く」をモットーに、というあたりがシンクロしていなくもない。しかし、『日経~』の記事はいつもデータの提示とマッピングだけで、分析が恐ろしくおろそかですね‥。どうしても分析が必要になりそうになるとすぐ「識者」のコメント。編集のポリシーは主張しないことか‥。
個人的には、深夜枠だろうが何だろうが、地上波という超メインストリームで「深く狭く」という傾向に走るのは容易しすぎて、若干引っかかっています。メディア露出の最高峰である地上波での戦いで、その姿勢って美しいのかという倫理の問題を感じています。

上記『日経~』の記事によらずとも、ドラマの昨今の“サブカル臭”は、勿論大部分はもっぱら小演劇(及び、小演劇ブーム=大衆化)方面からの人材流入に起因するでしょう(演劇は他ジャンルに比べて、形式、内容、才能もそのまま映画/ドラマにトレースし易い親和性をもちます)。(娯楽、王道、演技力や美術や脚本のクオリティを誇る、筈の)大劇場演劇に対するカウンターカルチャーであることを宿命づけられた小演劇演劇は、「ひと味ちがった」「視点を変えた」「アヴァンギャルドな」「現代現在的な」ものであることを義務づけられる。いわば、「前衛」であることがあらかじめ受け手に想定された、微温的に閉じた安心のシステムのなかでの戯れであることが定められています。その「センスのよい」作品発/創作者発のテレビドラマは、昨今の小演劇ブームに乗って地上波にリンクするわけだから、必然、どこか平易な大衆性をも含みもつ。つまり、アヴァン・ポップ芸術の地上波への氾濫の道がひらかれるという成りゆき。

結局、サブカル化し細分化した各々の「アヴァン・ポップ」作品は、ニヤリとさせるような「分かるヤツに分かる」という選民的作用を促し、島宇宙化へと繋がる。「テレビドラマのサブカル化」という話はつまり、用語を変えて「テレビドラマの島宇宙化」という本筋の、前段階のフリだったということになります。

以降記事の予定は以下の通りです→

○『エジソンの母』

○『あしたの、喜多善男』

○島宇宙化と脊髄反射的ドラマ~『一瞬の風になれ』『SP』『正しい王子のつくり方』『チョコミミ』

○疑似家族の問題~『だいすき!!』『貧乏男子 ボンビーメン』など

○その他の感想『斉藤さん』『未来講師めぐる』『交渉人』『ハチクロ』など

‥さて、ちゃんと飽きずに予定通り話を進められるでしょうか。尚、前述特集〈次世代ヒットメイカーはどいつだ?〉内の〈各賞から読み解く新ヒットメイカーの条件は「越境」〉は、宇野常寛の署名記事ですがあまり冴えてないので、未読のかたも特に読む必要はないでしょう。

(つづく)

theme : 雑誌(既刊~新創刊)
genre : 本・雑誌

鹿男あをによしなど

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またつづきです。

(そもそも、地上波連ドラのサブカル化などという話は、耐用期間のあやしいジャパニーズなタームなど持ち出さなくても、〈アヴァン・ポップ〉の概念ひとつで用が足りるんじゃないかという反応も、もしかしたらあるかもしれません。
しかし、ここで自分が言いおいておこうとしているのは、最先端臭のする(抵抗の意志、的な)“精神の運動”についてではなくて、時代状況に対して受動的な対処がなされ、静かにその(ドラマ群の)表情に沈着してゆく“おとなしさ”の感触について、でした。)

さて、万城目学の小説を原作にもち、石原隆がプロデューサーに名をつらねているわけだから勿論、サブカルとメインストリームの中間という名の王道をハイクオリティでゆく奈良・ファンタジー・ドラマ『鹿男あをによし』は、今期サブカルドラマ中、もっとも成功したものといっていいと思います。

純粋に面白さで勝負すれば、『未来講師めぐる』に軍配があがるでしょうし、サブカル的濃度という面でいえば『栞と紙魚子の怪奇事件簿』に、表現の次世代感でいえば『チョコミミ』に、遅れをとっているかも知れません。
しかし、『鹿男あをによし』に漲るある種の“メジャー感”は、地上波ゴールデンでこのキテレツな物語を一定以上のクオリティで供給し続けるという困難とともに、そう易々と獲得出来るものではない貴重なものだと思います。メジャー感には玉木宏、綾瀬はるかの存在とネームバリューが大いに貢献しているのは確実ですが、考えたら玉木宏も綾瀬はるかもそして多部未華子も、必ずしもメインストリームの匂いのしない微妙な存在感の持ち主でした。

成り行きから奈良の女子高に赴任することになった理科講師が、言葉を喋る鹿に〈運び番〉という使命を託され、日本滅亡の危機回避に奮闘することになる。同時に鹿の、鼠の、狐の化身かと思われるような謎の人物たちが、彼の周囲に出没する。

そのような奇矯な物語を、括弧付きの描写――同タイプの人間群の〈共有する記憶〉に依拠した、当てこんだ、甘えた描写――に走らず、正攻法で(危ういながらも)描いてゆく。ファンタジーではあるがファンタジー風なお約束の話法、お約束のテイストに逃げずに、その都度“『鹿男あをによし』の”話法を創出してゆく。それが、ある一部のセンスにのみ向けただけの内輪ドラマに堕ちない、毅然とした凛々しい意志を体現し、ドラマ『鹿男あをによし』に凛とした清潔さを与えています。

奈良は小さいころに行った事があるはずだけど、ロクに記憶がない。また、大人になってから特に行きたいと思ったこともないから、行ったこともありません。
そんなあやうい前提で言いますが、ドラマ『鹿男あをによし』に接すると、ああこの空気、このざわめき、この光線が奈良なんだと思わされる。

こころの線が細い鹿男=玉木宏が、事態の展開するスピードについていけず、気持ちが落ち着くヒマもないままフワフワするなか、彼の周囲には、未明の早朝のような乾いた冷たい空気が張りつめている。その空気を表現する空間のつかい方、殊に光の表現が素晴らしく、あるひとつの独特な土地に、玉木宏とともに我々視聴者も一緒にいるんだ‥と感じさせます。

特に室内のシーンがいいですね。逆光を主体にした、妙な角度で細く弱く外界から室内に射し込んでくる白い光は、しかし静かに眩しく、深い奥行きと天井のガランとした高さを感じさせる空間設計のガランとした寒々しさは、冬特有の空気が乾いたさまを体感させます。
たとえば校舎内の、廊下に上階への左右二本の階段を配した縦の構図は、通常のドラマでよくみる構図よりカメラを引き、奥行きと広々とした空間を強調していて、そこに大気が存在していることを意識させます。そして玉木宏や綾瀬はるか、佐々木蔵之介の下宿する下宿兼小料理屋の建物がまた天井が高い。一階は食堂や炊事場や玄関が一望出来そうな奥へ横への広がりをみせていて、同時に二階への階段が視界に入り、二階は吹き抜けの空間を挟んで玉木宏の部屋の窓と綾瀬はるかの部屋の窓が向かい合うという映画的というかラブコメ的配置。その就寝するためだけにあるような部屋には深夜、窓の遥か上方から乾いた大気を裂いて月光が煌々と射しこむ。

その独特の静かな大気の手触りと、奈良で出会う人々の、ほんのり優しいがどこかコミュニケーションの取りきれない不思議に飄々としたさまは、異郷に迷いこんで不可思議な運命に遭遇する主人公の感情のたゆたいに同調し、じつに自然な気持ちで私たちをファンタジーの世界へいざないます。

しかし、そのように静的な凛とした不可思議な描写(対話時の真正面カットバックもいい味が‥)が素晴らしい反面、動的な演出はけっこうマズくて、鹿のモニャモニャした動きには“なんちゃって”の甘えがあったし、大和祭の剣道のシーンなどはアクションのみならず観客の描写も大味で、おおいに白けてしまったのでした。
同じように物語の舞台である土地の精気と空気を感じさせ、秋から冬にかけての弱い光と大気のなかドラマが進行してゆく『僕の歩く道』(アソシエイトプロデューサー石原隆)では、描写の突出によって物語が解体してゆくのに対して、『鹿男あをによし』のばあい、あくまで律儀に物語を中央に据えて語りつづける大人しい“お行儀の良さ”があって、それがこのドラマになにか凡庸な、クスんだ印象を与えていて、突き抜けて話題作になる、そういう機会を逃した感はあります。

キャストについては、児玉清が最悪で、『ドリーム☆アゲイン』に引き続き、惨憺たるありさま。(特別出演)みたいな甘えた演技でお茶を濁すのはやめてほしいと思う。
『夜のピクニック』や『ルート225』などで、映画ファンにはとうに有望な新鋭女優と見られていた多部未華子が、連ドラ『山田太郎ものがたり』で平板で愚鈍な女をショッパく演じているのをみて、資質にあわないこんな役で名を知られてもしょうもない!!と心を痛めたものでしたが、『鹿男あをによし』では独特な透明感ある適役を好演。自己顕示欲が前面に出過ぎていて心理の底が浅くみえる田中麗奈あたりには出来ない演技だと思います。
ということで、多少何かしら瑕があったにしても、『鹿男あをによし』は志高く、魅力的なドラマだったと思います。

それと比較すると、『栞と紙魚子の怪奇事件簿』は、じつに〈小劇場演劇〉系のテイストで“諸星大二郎”といういかにもな題材をセンスよく処理するという、島宇宙化を前提とした安心しきった作劇。井口昇、南沢奈央、毛皮族の江本純子、AKB48の前田敦子等という組み合わせはあらかじめ〈共有サブカルチャーの記憶〉をアテにし、あとは「気のきいた」「センスのよい」ところでだけ勝負すればいいという、一見破天荒にみえて実はハードルの低い勝負を試みているドラマだと思う。正直、たいへん面白いんですが、面白いわりにはこのような戦略にそれほどの困難はみえないことから、このテのものが今後続々と増えてゆく気がします。BSーi『恋する日曜日 ニュータイプ』主演者だった南沢奈央の地上波連ドラ初主演作なので、是非ヒイキしたおしたいところでしたが、冷静に考えたら自分は彼女をあんまり買ってないのでした。

『腐女子デカ』、『コスプレ幽霊 紅蓮女』も同系統の深夜ドラマで、バカにしてというか油断していると意外と不意を突かれるくらいの、じゅうぶん充実した面白さをもっています。小劇場風味のある『腐女子デカ』より、野暮ったくていかにも〈ドラマ24〉枠らしい温かみのある『紅蓮女』を上位にしましたが、たんに好みの問題かもしれません。近ごろすっかり見飽きてウンザリしていた高部あいの演技を見たくない気がして、観るか観ないか最後まで悩んだ『紅蓮女』でしたが、観たらみたでやっぱり抜きん出た存在感があると認識。

さて、サブカル化への対処として、最も浅はかな例では『佐々木夫妻の仁義なき戦い』が挙げられると思います。そしてある意味、これはこれで現在を象徴する代表的なドラマだということも出来ます。

稲垣吾郎と小雪の夫婦がいる。夫婦ともに弁護士、性格が対照的で衝突続き、婚姻の絆は崩壊寸前の危機。そこに持ち込まれる事件やトラブルの解決を通して、夫婦とは何か、異なる人と共に生きるとはどういうことかという問題が改めて照射されるという寸法のドラマです。

日曜劇場のこの枠はおおかた、男女の絆、夫婦の絆を主題に据えていて、男女(夫婦)ふたりでこの枠のドラマをみながらアーダコーダと自分らの関係についてとるに足りない会話を交わす。そのようなコミュニケーションのためのツールという効能があります。その点からいえば、ここで展開される「価値観のちがうふたりが一緒にいること」についての言説は、じゅうぶんその任を果たすし、ある種の感慨をもたらす力も有しています。

しかし、W弁護士、佐々木夫妻の関係と法的トラブルの二重化した描写、極端なキャラ付け、過度に意匠にはしる映像やナレーション、といった過剰なガジェットは、いかにもサブカルふうな「傾向と対策」による過剰さで、そして、不要。いちいちのキャラクターにプロレスラーの名が冠せられ(小ネタ、目くばせ)るのも、主題を浮き立たせるわけでもなく表現する話法の楽しさとして表れるわけでもなく、ただ単に余計で不純なものにしか感じられません。芯のところにある、古めかしいがハートのあるものが、面白くも何ともない浮ついた意匠によって濁って映る。ぜんぜんアマチュアレスリングを分かってないいい加減で面白くもないレスリング場面を何度も見せられて、このドラマの作者たちの誠意を信じるのはかなりの困難だとおもう。

(つづく)

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theme : 鹿男あをによし
genre : テレビ・ラジオ

4姉妹探偵団など

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『4姉妹探偵団』


冬ドラからサブカルっぽさを感じた、という話のつづきです。

(冬ドラマの一連の話題では、宮台真司・東浩紀・宇野常寛の文章・ターム等を、ある程度引用・参照にして話を進めていますが、微妙に合致しない三者の思想の、どれかを称揚するとかしないとかは目的ではなくて、ただ単に状況をみるツールとして便利だから使っている、という点を御了承願いたいと思います。)


さて、ポストモダンの時代、各種ジャンルでは他ジャンルと同様のサブカル化が進行する。しかしそれを単に時代の流行の一種として、マーケティングの材料としてしかみていない、そのような対処もやはり、テレビドラマを襲うサブカル化の波による(最も低次元な)影響といえます。

マスメディアとしての地上波テレビ放映。慣習的(?)制度としての連ドラ。その前提にじゅうぶん意識的でない送り手は、前述のように作品の洗練化に指向が向かう。

ある特定のターゲットに絞った作品形成は、〈共有する記憶〉をアテにして、省略とデフォルメを反復し、〈島宇宙〉内をバリエーション豊かな世界にしてゆくとともに、他の島宇宙との断絶がひろがってゆくという構造があります。

このようなサブカル化の波への対処の、意識的な洗練化が計られたのが『鹿男あをによし』『未来講師めぐる』『栞と紙魚子の怪奇事件簿』『腐女子デカ』『コスプレ幽霊 紅蓮女』あたりで、逆に、時代の要請による必然が無意識的な(ある種の)洗練としてあらわれているのが『正しい王子のつくり方』『1ポンドの福音』『一瞬の風になれ』など、そして『チョコミミ』です。
「ある特定の嗜好を肯定し(肯定され)同時にその素を供給する(供給される)、自己愛的な閉じたシステム」という意味ではどちらもおなじものとも言えますが、前者にサブカル臭があって後者にないのは、前者が、絶えず自分の立ち位置を“意識的に”確認しつづけることによって成立する態度であるからで、そこにかすかな鬱屈が滲む。後者は、ただ現状の自分でいれば肯定されるのを待っていればいい、という無意識的立場をとる。そんななか、『4姉妹探偵団』も一見、いかにも後者に分類されそうですが、どこか微妙にちがっています。

『赤川次郎ミステリー 4姉妹探偵団』は、企画としては、アイドル的女優を集めてソッチ方面のターゲットを狙う、島宇宙化邁進を歓迎するような企画なのかもしれませんが、夏帆・中越典子・加藤夏希・市川由衣という布陣は、現在テレビ的にキテルとは言い難い弱さがあります。唯一、夏帆のみが上昇株ですが、長所である(?)存在感の輪郭の曖昧さが、作品の印象を茫洋としたものと化すという作用があって、フックあるキャッチーさが必要な地上波のテレビドラマでは、苦戦を強いられる要因にもなります。

『4姉妹探偵団』における、そのような一見マイナスに見える要素と、ミステリとしての粗雑さ、現実的/マイペース/うっかり/しっかり者といったザックリした書き割りで描かれる姉妹たち、といった要素からみれば、このドラマに相当にヒドい気持ちをもちそうなものだけれど、不思議とそうは感じませんでした。
『探偵学園Q』にはあった、特定の嗜好におもねるような“なんちゃってミステリ”な感触(つまり、神木くんや志田さんや山田くんについてアーダコーダ言ったりワーギャー言うためのパッケージに過ぎない、という元気だが空虚な感触)が『4姉妹探偵団』にないのは、テレビ朝日が周囲の視線を気にするふうもなく、華のない刑事ドラマや素人探偵モノやらを(連ドラから単発ドラマまで)千年一日淡々と絶え間なく制作しつづけているという背景があるからで、『4姉妹探偵団』の地味な感触に、マーケティングからくる性欲的なざわざわした感じがなく、あくまでテレ朝的ミステリードラマ群の延長線上にある手触りがあって、その華のない地道さを纏う佇まいが、好感となって結実する。多人数姉妹モノでありながら、各姉妹のキャラクター描写が(データベース的な)オタク的ツボをちっとも突いていなくて、いまいちキャラ萌えすることが出来ないアナログぶりも、好感度が大だ。

そもそも赤川次郎原作のお話を、チャチだの粗雑だの責めるのは、分かりきったことを安心して言う脳軟化的な言説に過ぎません。毎回、ユル~い物語(事件の捜査)が地味~に進行してゆき、ようやく終盤、犯人捕獲が為され、夏帆が「かい・けつ」と呟くように宣言する発声が響くと、心に爽やかな風が吹きわたるような開放感が生じる。
その、かすかなカタルシスを得るまでに、こじんまりとした華なき50分を耐えるのは、習慣になると、案外たのしいものです。

『4姉妹探偵団』については、空前絶後の低視聴率ぶりばかりが話題になり、その要因としてのマイナス点さがしが横行しそうだし、逆に擁護派は誰かのファン‥‥そんな無益な消費の仕方をされそうなので、ふんいき支持派みたいな話の進め方になってしまいましたが、まあ、ごくふつうの、現れては消えてゆくようなドラマだと普通に認識しています。

(つづく)

theme : 4姉妹探偵団
genre : テレビ・ラジオ

ドラマのサブカル化

さて、冬ドラの話のつづきです。

今期、冬ドラマ全般をみていて、まずおおざっぱなところで感じられたのは、“テレビドラマのサブカル化”が飛躍的に・顕著に進んでいる、そのように印象されたことでした。
島田雅彦、三浦俊彦、井口昇、諸星大二郎といった名前が、原作等送り手側の固有名詞として平然とならぶ。たいへんな時代が来たな、とおもう。

テレビドラマのサブカル化は、別段さいきん始まったことではなく、かつて〈今や映画もテレビドラマも漫画も小説も、全部サブカル化した〉と、(『あしたの、喜多善男』の原案となった小説『自由死刑』の書き手でもある)島田雅彦も言っていましたが、そのとき付随していた論旨は、階級等級的な確固とした優位性を他ジャンルに(各カルチャーが)持たない、そのようななかで、各カルチャー独自の優位性の鼓舞(=強度)、ということだったと思います。
つまり、基本の話は東浩紀『動物化するポストモダン』での、ポストモダンの社会構造下での〈ツリー型世界からデータベース型世界へ〉というビジョンと同じものだし、その東浩紀を打倒せんと論陣をはる宇野常寛の提示する〈トーナメント方式からバトルロイヤルへ〉というビジョンも、結局のところ同根です。〈ポストモダン化は大きな物語の衰退を意味する。大きな物語の衰退は、現実認識の多様化を意味する。〉(東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』)
そのようにして、多くの〈小さな物語〉が絶対的優劣の基準なく並列的に散乱しているという世界像がポストモダンなのだから、その世界では、〈月9〉だの〈トレンディードラマ〉だのといった、テレビドラマ界のピラミッド型価値基準がもう既に無効になっているだろう。皆が皆、話題の、話題だから、同じドラマを集中的に勇んで観る、という状況はとっくのとうに遠い過去のものとなっています。トレンディーな俳優を使って、ゴールデンのいい枠でキャッチーな物語を放映する=視聴率と話題が集中する。近年、そのようには事態がスムーズに進行していないことは、誰の目にも明らかでしょう。

いわゆる〈トレンディドラマ〉が退潮するなか、ドラマのサブカル化は、三谷幸喜、堤幸彦や宮藤官九郎のスター化をもって大衆的には定着化し、オフィスクレッシェンドの演出に代表されるような「これ見よがしの意匠」の称揚とセットで受容されていった。そういう漠然とした印象がまず前段階としてあります。
しかしそれらの/彼らの作品群は、じつにサブカルチャー的風貌をもっていたとはいえ、ある個性的な作風というにとどまり、あくまでメインストリームのなかでのバリエーション。そういう構図があったと思います。

『ケイゾク』や『トリック』のもつ“個性”の有り様は、あくまでメインストリーム中での勝負にみえました。“サブカルふう”ではあっても、『木更津キャッツアイ』等の宮藤官九郎脚本作も三谷幸喜脚本の諸作も、万人に愛されることが可能な、いわば〈大きな物語〉のなかの〈個性〉のひとつ、でした。ようするに、ここではまだテレビドラマは〈島宇宙化〉の前段階の表情をしていた、ということです。

『時効警察』の登場と成功は、真にドラマにサブカル化の波が到来した、と確信させる出来事でした。たとえば『トリック』は、マニアックにみえても「センスのいいヤツ(俺、やお前)なら、分かる」という全方位的に肯定しうる古風な娯楽性を帯びていましたが、『時効警察』の「面白さ」は、「Aには分かるけど、Bにはきっと分からないだろうな」という諦観を伴う。それを「面白さのスケールが小さい」と斬り捨てることは可能でしょうが、『時効警察』の、例えばサブカル誌の象徴的雑誌である『Quick Japan』との親和性をみるに、この平和に閉じた〈サブカルな気分〉は、ポストモダン的な必然であったとも見えます。

先ほどの『ゲーム的リアリズムの誕生』からの引用には続きがあります。
〈ポストモダン化は大きな物語の衰退を意味する。大きな物語の衰退は、現実認識の多様化を意味する。したがって、ポストモダンでは、多くの物語が、現実に依拠するのではなく、ポップカルチャーの記憶から形成される人工環境に依拠することになる。〉

『時効警察』の作者たちの依拠する〈ポップカルチャーの記憶〉を共有しない視聴者は『時効警察』を十全には愉しみ得ないし、ジャニーズのファンでない者は『1ポンドの福音』を充分には愉しめないでしょう。そして、それでもいいと、送り手側も観る側もどこか居直っている。そこに時代の更新がある。

続々と発表されだしている次期連ドラのラインナップに、傑作『花ざかりの君たちへ~イケメン♂パラダイス~』に触発されたとおぼしき、イケメンらしき男子をゾロゾロと大量に揃えたドラマが乱打されています。ジャニーズにアレルギーがなく、基本的には何でも観る、自分のような人間にも、どう楽しめばいいんだ‥これは流石にキツイな‥と思わせる、そういう閉じた雰囲気が企画段階から漂っていると感じます。

当たり前すぎて言うのもかったるいですが、かつては、ジャニーズ系が主軸を担うドラマであっても、浮動票を得ようという気が制作側に感じられました。観てくれたら面白いと感じさせるぞ、という気概があった。もちろん。

ジャニーズを愛する人々の形成する〈島宇宙〉の外部の者からすると、『1ポンドの福音』での山田涼介の扱いなど寒々しい限りにしかうつらないし、逆にその〈島宇宙〉からみれば、『栞と紙魚子の怪奇事件簿』での前田敦子の扱いには鼻白むでしょう。クオリティやココロザシの比較でいえば『栞と紙魚子~』が遥かに上ですが、おそらく『1ポンドの福音』を応援する者には、そのことからは何の価値も脅威も感じないでしょう。

かくしてここテレビドラマ界にも、各宇宙間でのコミュニケーションを欠く〈島宇宙〉的世界が現出する。そして各々のドラマは、(主に日本の)各種サブカルチャーのもつ表情に酷似したオーラを漂わせています。

ついに地上波に出た、出ない、といったレベルのマイナーなカルチャーが基本的守備範囲の自分からすると、この地上波内での“閉じかた”に、ある種の違和感を感じるし、何か大きな魅惑が欠落している、とおもう。〈島宇宙化〉に伴う“洗練”は、〈地上波〉〈連ドラ〉という“システム”に不可欠の“通俗”の魅惑とは、根本的に相容れないんじゃないか、という疑問があります。

(つづく)

theme : テレビドラマ
genre : テレビ・ラジオ

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