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ドラマ『ライフ』  2007年夏ドラマ②

らいふ1

→2007年夏ドラマ①からのつづき)

さて、まただいぶ間があいてしまって、テンションが下がってしまいました‥‥ので出来れば手短にいきたいと思いますが、どうなることやら‥。で、『ライフ』について、からでした→


①『ライフ』

1.

『ライアーゲーム』は滅法面白かったんですが、『ライフ』を観たあとから振り返ってみると、あらかじめ設計された物語の展開やゲームの進行に登場人物たちを嵌め込んでゆくその手つきが、どうも気にならなくもない。書き割り的な、多くの競技者やライアーゲーム事務局の面々が、物語やゲームの設計に沿うように分かりやすいキャラクターのコントラストを強調されていて生命感がなく、空虚空転の気配があるのは否めないところで、“根拠のリアリティのなさ”が眼目のひとつでもあるゼロ年代的作品とはいえ、翻弄されゆくキャラクターたちの存在にリアリティがないというのは、また別の問題かとも思います。

原作の功績も大きいにしても、その点『ライフ』は、緻密かつ巧みに登場人物たちの感情と物語のアヤが空転感なく織り成され、シラケさせずにドラマが進行してゆくのがまず良かったですね。“感情”と密接に関わる〈いじめ〉という題材だからそれもまあ当然とも言えそうですが、主人公の椎葉歩(北乃きい)がいじめのターゲットになるまでの不可避なプロセスが、じゅうぶんなリアリティを伴いつつ、詰め将棋のような厳密さで詰められてゆき、それを、手と手の触れあい、視線が交錯すること、並んで歩くことといった具体的なアクションの数々が関係の物語を紡ぐ。殊に、合わさる視線、逸らされる視線、一方が見つめる視線、見下ろし見上げる視線、遮断される視線といった〈見ること〉による、人と人との関係性の変容が、まるで肌と肌の触れあいのように直接的な感触をもってサスペンスを生んでいます(ポーンという音に代表される、関係性が“軋む”瞬間に挿入される音の効果も面白い)。

そこで織りなされる感情の機微は、感情は関係であり/関係は視線であり/視線は触れるものであり/触覚はすなわち暴力であるといったふうに、常に複合的意味合いを持ちつつ、織りなされてゆきます。それらをひとつの複合的な力として、登場人物たちはこのサバイブすべき“戦争”をたたかう。
感情が語られると同時に暴力が語られ、視線が示されると同時に関係の手触りが呼び起こされる。見ること・見ないことが暴力になり、ある感情をもつことだけでなく、何の感情ももたないことさえ関係であり、暴力であり、触れることであり、愛でさえある世界。

〈いじめ〉という題材が、単なる社会的なネタなりホントっぽいという“あるある”なりに留まらず、また心理小説的に還元もされえないような豊かさをもったのは、人物たちや諸関係のありようが、非整合的に複数的だったからだと感じたし、心理や関係が触感として示されたことで、言語化できない豊かで微妙なニュアンスを生んだ、と思います。

2.

なんだかまどろっこしい話になってしまいましたが、結局、“ニュアンス”とは、何だか分からないが存在にそっと〈触れて〉くるもの。それはパターン化されない。されないからニュアンスだとも言えますが、〈何だか分からないが存在にそっと触れてくるもの〉に触れられるものは、徹底して受け身にならざるをえず、触れられてはじめてリアクションを起こすことになる。だから〈触れるもの〉が、常にイニシアチブを握ることになります。

『ライアーゲーム』~『ライフ』というフジ土曜ドラマの流れは、いわゆるゼロ年代的作品シリーズであるのは間違いないにしろ、それと同時に、自分の独断では前項でも言いましたが触感を伴ったSM的闘争遊戯が繰り広げられるシリーズだともいえて、『ライフ』では、〈触れるもの〉である安西愛海/福田早紀が世界の中央に鎮座しています。

3.

『ライアーゲーム』では、神崎ナオ/戸田恵梨香がM的存在として作品の中心を担っていましたが、『ライフ』においては主人公でありM的存在の椎葉歩/北乃きいではなく、S的存在の安西愛海(マナ)/福田沙紀が、作品の、そして“根拠なきゲーム”の中心を担う。
『ライフ』に登場する多くの人物のなかで、絶対的なほど別格の非整合性・複数性をその存在に装備するマナ/福田沙紀は、常に〈触れるもの〉として世界の理(ことわり)をひとり手中にしています。物語的にはストレートに悪役でしかない彼女が、このドラマの魂であるようにみえるほど圧倒的な魅力を放つのは、この物語における闘争ゲームを支配する事の出来る、突出した“ニュアンス力”とでも言うべきものを備えているからで、被害者は〈存在にそっと触れてくる〉マナの触れるさまの両義性に宙吊りにされ、後手にまわり、操作され、虐げられてゆく。
例えばマナ/福田沙紀が屈託なく笑顔でウェルカムに話すとき、どの程度の割合で本気で笑ってるのか、どの程度含んだものがあるのか、登場人物たちも視聴者も判断つかないまま、否応なしに巻き込まれてゆきます。泣いているマナ、困っているマナ、好きだと言っているマナ、怒ってるマナ、優しく爽やかに話すマナ‥。福田沙紀の発語と身のこなしは、どれも明晰な方向性をもつ物語的説明とは微妙にズレがあり(非整合性)、そのズレの両義性を醸す素振りが優雅ささえ感じさせて、圧倒的な輝きと求心力を示す。

苦境やいじめに対する北乃きいの、繊細でないわけではない演技なり反応が、ある種パターン化された、予測も心理的理解もしやすいものであった(それ故に感情移入が容易であるなら、連ドラの演技として非難すべきものじゃないですが)のに対して、福田沙紀のこの優位性。北乃きいだけでなく、被害者チームの関めぐみ(羽鳥さん)、北条隆博(薗田くん)らも型に嵌った分かりやすい演技で、このゲームにおけれ福田沙紀の君臨を援護する。

加害者(S)チームの面々であっても事態はそう変わらない。たとえば佐古克己/細田よしひこの場合、緊縛プレイ愛好家のサディストという役回りで、最も露骨にSM風味をこのドラマに持ちこんでいますが、演技の示す意味作用が一義的でわかりやすすぎるため、彼もまた、ニュアンスの非・体現者としてゲームの統治者マナの張り巡らせた糸に苦もなく絡めとられ操られてしまう。不良グループの頭・狩野を演じた山根和馬も同断で、わかりやすいだけのオーバーアクトは加害者チームであってさえ、存在感そのままマナに搾取されていってしまう宿命にあるよう。やはりこれは、一にも二にもマナ/福田沙紀のドラマ、なのでした。その証拠(?)に、北乃きいがいじめに打ち克ち解放されるという“解決”よりも、福田沙紀が被害者側に転落する結末のほうが、よほど鮮烈な印象を残します。

クライマックス、彼女がゲームに敗れ去るためには、感情/視線/暴力に前後左右から上方まで全方位において包囲される必要があった。もうゲームとは言えないほどの物量でもって、少しの隙間もなく視線で埋め尽くすこと。そうしなければ屈服させ得ないと思わせるほど、彼女はこのゲームの達人であったし、ホラー映画における強大で恐ろしいモンスターのように油断ならない生命体として、『ライフ』世界を支配していたのでした。

最終回、立場が逆転し、被害者のポジションに毅然として耐えつつ、マナ/福田沙紀がようやく涙し、ひとりの人間に戻れたのは、誰の視線にもさらされない(視線/ゲームに携わらない)独りきりの薄汚いトイレ。束の間、ひとときだけ中断されたゲーム。解き放たれた素のマナの情動。この無意味なゲームの参加者は、勝者も敗者もなく生きることになる“孤独”が露呈した瞬間。(このあとの、「いじめは対象が変わっても、変わらずつづく」ことの告発というありがちなオチを提示する結尾部は余計に感じられて、少しテンションが落ちました。)

4.

SM的ドラマとしての『ライフ』は、題材のせいもありますが、『ライアーゲーム』より遥かに直接的な性的場面を持ちながら、それらを表象するさいの手つきが常に距離を保った乾いた感触があるせいか、『ライアー~』の“淫靡さ”に比べて、透明な清潔感があります。その違いが、『ライアー~』にはどこかマイナーな、『ライフ』にはメジャーな表情を与えていることに表れているんじゃないか、と感じられました。

個人的に、星井七瀬というタレントは色んな面で大変苦手なのですが、マナのグループの一員ヒロを演じた今作での存在感というか演技は良かったと素直に賞賛。福田沙紀に次ぐネットリしたニュアンスの体現者として、ドラマに緊迫感を生んでいます。佐古君なり狩野なりの悪役が提供する「サスペンス」や「苦境」は、役割と物語に端を発したものに過ぎませんが、ヒロ/星井七瀬が用意するサスペンス等は、“ヒロ/星井七瀬という存在の”次の瞬間の決断、次の瞬間の感情の揺れが、物語の進展と共震するように生じる。戸田先生役の瀬戸朝香にも、かすかにそのような不穏な“ニュアンス”の気配があり、彼女がその一部を構成している職員室の描写は、近年のドラマで出色のものだと思います。

このドラマで、ようやく全国区になったと思われる北乃きいですが、残念ながら個人的にはその魅力がよくわからないままドラマが終了してしまいました‥。
そういえば、どこかで目にした北乃きいのインタビューだか記事だかで、『ライフ』での演技の苦労を問われて、普段はしない“愛想笑い”をしなければならなくて、それが大変だった、というふうに彼女は答えていました。しかし、番宣で出ていた幾つもの番組では、しっかり、バリバリ愛想笑いをしていましたが‥。ある意味、油断ならない大器だとも言えましょう。


‥②以下のドラマにまた触れずじまいですが、いいかげん話題的に賞味期限切れかなと思い、一応夏ドラマの話はここまでにします。ただ、少なくとも、『山おんな壁おんな』と『花ざかりの君たちへ』は、素敵なドラマだったと言い残しておきたいと思います。

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theme : TV
genre : テレビ・ラジオ

11・16

へあー
『ヘアスプレー』

今日(11月16日)、『バイオハザードⅢ』を観に行く予定があったため、昨夜は予習として『バイオハザードⅡアポカリプス』を観てましたが‥‥20回くらいウトウトした‥‥。なんとも興味が持てず、翌日の上映中爆睡しないか不安になってくる。

『Ⅱ』はともかく『Ⅲ』はラッセル・マルケイだからとか無理やり期待を盛り上げつつ、翌日の夕方に出かけたのでしたが、食事をとったあと、何だか話の成りゆきで『ヘアスプレー』を観ることになっていました。
で、観た。た、楽しい‥。泣いた。洗われた。

ジョン・ウォーターズ版を神格視してるわけでもないので、あーだこーだアラ探しする気持ちもなく、素直に歌と踊りに溢れたピースフルな世界にどっぷり浸り幸せな気持ちに満たされる。舞台(版)のミュージカルを映画的に転生させるとか、昔のモノを現在的映画ならではの工夫をするとか、ヘタにしていないのがいいなと退廃的に思い、社会的テーマに本気で色気を出したりしていないのにも好感を抱く。ジョン・ウォーターズよりちょっとだけ上手く、ちょっとだけ大衆的。芸術とか賞とかカルトとかいう言葉が浮かばないのが素敵。歌とダンスと、笑顔。それ以上に何がいるんだという気持ち。最近のミュージカル映画、『シカゴ』や『プロデューサーズ』や『ドリームガールズ』には全然ピンとこなかったのが嘘のように涙が流れていた。
やっぱりデブは明るく大らかじゃなくちゃ。とニッキー・ブロンスキーの笑顔を見ながら某ドリームガールズの小癪な新人女優を思い浮かべる。大丈夫かなとおもうくらいアホっぽくなってるザック・エフロンは、最近の木村了に見えた。

パンフレットを、長谷川町蔵の文章だけはお金を払う価値があると思いつつ読みおえる。外は冬の夜。ピースな未来を夢見ることが出来た時代。そんな世界とは無縁な時代に生きている。やっぱり人生にはミュージカルが必要だ、とおもう。



『ヘアスプレー』

(2007年、アメリカ、116分)

監督・振付:アダム・シャンクマン
脚本:レスリー・ジェイクソン
作曲:マーク・:シェイマン
作詞:マーク・シェイマン、スコット・ウィットマン
出演:ジョン・トラボルタ、ミシェル・ファイファー、クリストファー・ウォーケン、ニッキー・ブロンスキー、ザック・エフロン、アマンダ・バインズ、ジェリー・スティラー、クイーン・ラティファ

theme : 記録
genre : 日記

国道20号線、映画『ヒミコさん』

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→映画『国道20号線』、ヒミコさん からのつづき)

さて、21時ジャストにポレポレ坐ビルの階段を地下に駆け下りきって、ポレポレ東中野のロビーに到着する。今日はローテーションの谷間で、トークショー無しの日(前日は高橋洋&柳下毅一郎、翌日は佐藤左吉&塩田時敏&宮川ひろみという錚々たるメンツ)。なので客入りはイマイチかと思いきや席は大方埋まっており、熱気が渦巻いていました。

客層はやはり男性が多いが、意外と女性の数も少なくない。7:3か6:4くらい?年齢は20代がメインみたいですが、30代もことのほか多い。白髪混じり50代らしき人もいた。ただ、そういった年配のかたが上映中、僕の隣でスヤスヤ眠っていましたが‥。
30代らしき人々はかなりの割合で、年のとりかたが良く分からないといった風情の非成熟な青さを醸し出し、若手層のうち少なくない人数からは、自身の鬱屈をカウンターカルチャーに依存することによってやり過ごしているような雰囲気が発散されている‥。つまり、スタッフキャスト陣から(物語内容からも)映画秘宝臭が漂っているように、観客層もそのまんま『映画秘宝』の読者層(もしくは秘宝の潜在的読者)といった趣がつよい。

ムック時代の創刊号から購読しつづけていた『映画秘宝』と訣別したのが去年の秋。それ以来読んでいないのでよく知りませんが、長いスパンでこの『ヒミコさん』は応援され紹介つづけていたに違いないとおもう。映画を観にきたというよりは、映画秘宝のイベントに参加しに来たという感じのなくもない、このワイワイした雰囲気とカルトを求める予定調和な期待感の充満に、かすかな違和感と不快感を覚えつつ上映がはじまる。

自分は藤原章の熱心な信奉者であるわけではなく、純然たる監督作とは言いがたい『神様の愛い奴』(01)と、『ラッパー慕情』(04)しか観ていません。『神様の愛い奴』には説得されませんでしたが、『ラッパー慕情』は“ある種の”傑作だと感じて、その年の個人的なベストに数えました。

その“ある種の”というのは、普通の意味ではヒドい出来栄えだがという意味もあって、『ラッパー慕情』は同年(2004年)に公開された井口昇の『恋する幼虫』や高橋洋の『ソドムの市』とともに自分のなかではひとかたまりの印象としてあり、古風な意味での学生8ミリ的な壊滅的クオリティのしろものが、芯を食った表現をもつと、人畜無害な幾多の映画群をよそに存在意義をもつという認識をさせられたということ。しかも、それが形式として立派に劇場公開され、ある程度の話題作となるという状況。そのうえ、その8ミリ的なモノがいわゆる〈映画的〉表現に向かわず(勿論言うまでもなく、岩井俊二的方向にも走らず)、DV的と言いたくなる独自の空虚な話法として04年に同時多発的に噴出したこと。(〈(DVによる映画制作の)利便性が、カットを割ってゆく撮影時の前提を曖昧にし、結果、作品組成がルーズになっている。そのルーズさが個々の作品の差異をうまないのだ。〉〈(カット/シーンの進展が時間の進展になるという通常のフィルム映画の特質にたいし)「映画≠時間」という新形式をつくったのがDVといえるかもしれない。つまり映画と時間が非同一的な関係になり、両者の隙間に不定型な何かが生ずる。〉阿部嘉昭「ビザールと純愛」)

90年代後半から収穫を示しはじめたDV映画ですが、DVによる映画撮影がフィルムで撮れないゆえの代替でなく、まさにDVによってしか示されなかっただろう達成が、一個人の才能によってではなくムーブメント的に立ち現れてきた。そういった映画史の更新が行われたという認識が、『恋する幼虫』『ソドムの市』と『ラッパー慕情』をひっくるめて評価する理由だと。雑に言えばそうなります。

メチャクチャなフレーミング、雑な編集、素人まるだしの演技、まとまりも緩急もない話法、ありえない照明にありえない美術、失敗している録音、思いつきのようなセリフ。「映画の底がぬけた」とは、撮影所システムもプログラム・ピクチャー制度も崩壊し、映画表現の豊かな積み重ねの歴史が無効となった時に映画評論家の山根貞男が発した言葉でしたが、その時でさえ、目指されるべき「優れた映画的表現」や「クオリティ」や「エンターテインメントとして楽しませるために呻吟された表現」があった。しかし『ラッパー慕情』などには、到達すべき表現的クオリティが本気で夢見られている形跡がないように見える。かつての同人的8ミリにさえ向こう側に垣間見えたような、「本来、あるべき完成形」が見えてこないのだ。

4畳半的リアリズムと、絢爛たるビザールな妄想的描写。DV的にラフな時空間のシャッフルと、純なほど映画青年的に無防備な長回し。それらが、質もリズムも何も、一本の映画として存在させるための通常考えられる整合性によって制御されずに散乱し、1本の映画という枠にも、1時間半の上映時間にも収まらず、滲んでハミ出してゆくように作品的境界がたゆたっている。観客は、藤原章『ラッパー慕情』前半と井口昇『恋する幼虫』後半を雑に接合させて上映したとしても、それほど動揺せずに観つづけているんじゃないか。そのような面でも、これらの伝統と断絶したようなDV映画の達成は、商業映画の形式を更新したと言えると思います。

そのなかでも(『恋する幼虫』や『ソドムの市』に比べても)、『ラッパー慕情』は作品境界の溶解率が高く、現行のものがトータルに制御された一塊の作品であるという印象が、一段と弱い。それが良い事なのか悪い事なのか分かりませんが、観賞しての印象では別バージョンがいくらでもあり得るように感じさせます。というのは、『神様の愛い奴』が上映や公開のたびにバージョンも印象も著しく異なったことから後付け的に導き出したこじつけというわけでもない。井口昇であれば『~幼虫』には『~幼虫』固有の空気があり、ノーマルな映画に比べれば遥かに作品境界の溶解現象が見られるものの、作家主義的に掬いとることが出来そうな全体の統御感がある。雑多な細部も、最終的には〈井口昇の〉、〈『恋する幼虫』の〉というふうに、所属先が回帰してくるかんじがありますが、『ラッパー慕情』の、そして『ヒミコさん』のばあい、突飛であったりシブかったりする様々な細部の所有権が、われわれの生きるこの〈世界〉に属するような気配があります。

何でもいいのですが、たとえば井口昇の眼球いじり描写、口唇期的描写、他者を傷めることによって関係を築くといった触覚描写、その、眼球や傷や唾液は、われわれのいる世界のものではなく、井口昇の宇宙で咀嚼され発酵し吐き出され、画面の向こう側から観客の前に差し出されている。井口昇という触媒を経て、よく知っているモノや事のはずだがどこか妙な臭いや液体のこびりついた変容した・加工されたモノやコトとして、それらは現れてくる。そこに作家性を確認する人々は、ある種の奇妙な安堵につつまれながら、安心して井口昇の映画を賞賛できるというわけなのでしょう‥‥過激に飛散しそうなDV作品が、そのように一個の作品として包み込まれる‥‥そして、皆、安心して、破天荒な傑作だと口にすることが出来る。

(観た範囲でしか言えませんが、)藤原章というひとりの映像作家に、刻印をのこすような作家性がないというのではないのですが、『ヒミコさん』という映画の独特な拡散してゆく風貌は、〈作家性〉や〈括弧付きのアート〉にいったん事物を預けない態度(生理)から生じているように思えます。

野球部エースの武川君が、座頭市のようにオニギリを不器用にほおばる。そこで触発されるのは観客の『座頭市』を観た記憶。後半、事件(?)が進行してゆくなか、画面に唐突に日時等のデジタルな表示が現れてはじめる。『グッドフェローズ』だ。われわれは、〈藤原章を介して〉でも〈『ヒミコさん』という愉快なカルト作を介して〉でもなく、その瞬間、じかに『グッドフェローズ』(や勝新の『座頭市』)という映画に接したときの感触を蘇らせる。藤原章はブルース・リー好きだからとかどうだとか、スコセッシの影響だとかオマージュだとかいうことは、いったん観る者が自分のフィルターを“介して”、事後的に了承しているに過ぎない。
若者たちに名を尋ねられた謎の美女が、去り際、振りかえってヒミコですと答えるわざとらしいカット、ベタ中のベタで笑いを誘う。ベタ→笑いという回路は、自己の記憶庫と照らし合わせて発動する。そこには、〈藤原章〉という固有名詞も、そのシーンの前に後に連なっているはずのカット群や物語の流れやキャラクターのアイデンティティの変容も、介在していない。唐突に歌われる紅工業高校の校歌、その一節が「共産思想を叩きこめ~」と歌われるありがちなネタに、案の定ある種のセンスを共有する観客から笑いが生じる。そこでも、ある種類の、斜に構えた性質をもつ人格パターンを刺激するピンポイント攻撃が為されただけであって、作家主義とも、1時間なり2時間なりの上映時間の一定かつ不断の流れとも無縁に、バラバラに解体した“断片”として直接的にわれわれ観客に接した瞬間、われわれ観客の、これまで世界と接してきたある種の感情が召喚される。
笑いや、悲しみや苦しみや後悔や情けなさや性欲の疼きや郷愁が、〈世界〉対〈われわれ〉が関係する作用として、『ヒミコさん』によって促される。〈われわれ〉対〈映画〉の関係のうちに、〈映画〉の内実としてそれらの諸々の情動が詰め込まれているのではないのだ。〈藤原章〉は対世界を見つめる。その映画は、私たちの生きる世界に相対するように観客を誘い、私たちがひとつの小さな完結した小宇宙に閉じこもることに異を唱える。人がカメラを回し、映画を撮り、それを観にひとが劇場に訪れて一本の映画と言われているものを観る、という、人と人が関係することを、限りなく開かれたものとして提示する。それがDV映画、とりわけ『ヒミコさん』の“前衛”だ、とおもう。

『ヒミコさん』は開かれている。作品的境界が曖昧にひろがっている。狭い範囲の話で言っても、(『ラッパー慕情』に引き続き『ヒミコさん』には宮川ひろみを筆頭に多くのキャストが続投していますが(次作『ダンプねえちゃんとホルモン大王』も、『ヒミコ』の監督&キャストで撮影が開始されたそう))、田野辺尚人は『ラッパー』と同じ〈百円さん〉なるキャラを演じていますし、『ヒミコ』には『ラッパー』で撮影された井口昇(まりっぺの父)のシーンと継田淳のシーン(狂太博士)が組みこまれたすえ、“(流用)出演”なる、ケッタイな表記が生じている。〈一本・の・映画・を・観る〉ということが、当たり前の一繋がりのコトとしてではなく、無意識無自覚の偽られた結合でしかないと疑われています。

しかし‥実際のところ、そのような特質とは無縁なところで『ヒミコさん』は消費されていた。高橋洋が『ソドムの市』を世に問うたとき、商業的価値として、現状では“カルト”として期待され、納得され、消費されてゆくことを受け入れつつも、苦渋の心情を吐露していました。『ヒミコさん』を観賞する客席からひっきりなしに上がる笑い声からは、未知のものに接するという“体験”として謙虚に相対する意識とは徹底的に無縁に、カルトなもの/難解なもの/カウンターカルチャー的なもの/冴えたもの、を確認して称揚し、そして、安心する。という無為な精神運動が営まれているように感じられる響きがありました。弛緩し、安心しきった屈託のない笑い声。
そこには、別の〈島宇宙〉に住んでいるという違いがあるだけで、セカチューから三丁目の夕日から恋空まで、〈泣きに〉行って自分の都合のいい(→グッとくる)パーツだけ拾って“泣いて”オシマイという閉じた回路を生きるある種のライトな観客たちと、結局同じ安心への依存構造がみえます。
『涙そうそう』の項ほかでしつこく繰り返しているように、“事前に抱いた〈イメージ〉を追認するために観るという自己肯定に閉じたシステムを生きる感性”が〈共感作用〉をもつパーツに折々に触れて、満足する。大概それは結局のところ“あるある”探しでしかないというのが現状で、それが、それぞれバージョン違いの、<ある人生モデル>あるあるであったり<ある性格傾向モデル>あるあるであったりするにすぎない。セカチュー的観客とは知能指数的には大きな隔たりがありそうですが、にもかかわらず、セカチュー的映画に反応する層を軽蔑してそうな『ヒミコさん』に駆けつけた層の多くの部分では、無自覚に、セカチュー的観賞と何ら変わりない精神の運動が生きられてるのではないでしょうか。
<「映画としての体を成していない」「ヘタウマでなくてヘタクソだ」批評家はそう言ってこの映画をくさすだろう。だが>、われわれは違う。と。そのような某ライターのコメントがパンフに載っていました。典型的な閉じた共同体を自己肯定的に生きる派閥的怠惰な精神が、そのように決め付け、安心を得る。
そのような状況下で、『ヒミコさん』プロデューサーのしまだゆきやす氏は、自分の〈人生モデル〉に都合のいい〈共感作用〉をつまんでいるだけの意見に、苛立ちを示しています。〈『ヒミコさん』を案外悪くないと言う人も、青春モノとしてわかった気になってるだけのように思えます。ちょっと待ってよと。(略)みんな個人が許容できるリアリティーだけで解釈しようとする。なぜ、もっと妄想力を広げないのかと苛立ちます。〉

『ソドムの市』公開にさいしてのインタビューで、高橋洋は以下のような言葉を残しています。
〈当然商売的なこととして、たぶん今だったらカルトとして受け止められて、ある流通力は持つかもしれないという計算は勿論働いているけど、出所は全くピュアなんです〉、〈ある種の受け方として一番判り易いのは、これはカルトものだと。それはそれでいい。取り込まれてもいいけど、見てくれたお客さんがそうじゃない何かも感じてくれたらいいな、ということですね。〉

『ヒミコさん』を、自分の人生傾向に引き寄せて、カルトのノリで消費するのではなく、素直に〈そうじゃない何かも〉無視せず感じること。作品が開かれている、ということを、都合のいいツールとしないことが、「観る」という“楽しい”〈経験〉なのではないでしょうか。


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『ヒミコさん』宮川ひろみ、高橋洋

theme : 日本映画
genre : 映画

映画『国道20号線』、ヒミコさん

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‥ドラマの話の途中でしたが、映画に行ってきて、メモっとかないともう触れない気もするので書いておきます。これまでみたいな個別評みたいなのをやる気が最近起きないのですが、観たということを残しとかないと何だかドンドン忘れてくので‥。

11月6日(火)

①渋谷・UPLINK-X 19:00~
『国道20号線』
(2007年、日本、77分)
監督・編集:富田克也
脚本:相澤虎之助、富田克也
出演:伊藤仁、りみ、鷹野毅、西村正秀、村田進二

②東中野・ポレポレ東中野21:00~
『ヒミコさん~Lady Himiko~』
(2007年、日本、88分)
監督・脚本・撮影・編集:藤原章
出演:宮川ひろみ、園子温、高橋洋、吉行由実、田野辺尚人、切通理作、辛酸なめ子

タイムテーブルは渋谷で7時から、東中野で9時からと、①が1時間17分しかないとはいえ、一見不可能なプランですが果たしてどうか?

(9月11日に新宿で映画を観たときも結構危うくて、
①10:30~12:30(新宿バルト9)
『ワルボロ』
②12:30~14:25(新宿TOKYU MILANOビル)
『ヱヴァンゲリヲン 新劇場版:序』
と間が0分しかない強行スケジュールで、走ってなんとかなりましたが、今日の場合は電車を乗り換えてゆかないとたどり着かないし、そもそもアップリンクって渋谷から何気に歩くんですよね‥。)
で、アップリンクに直接電話して訊いてみると上映終了予定時間は20時20分ごろだという。①の終了後ダッシュして、新宿での乗り換えでタイムロスしなければ何とかなりそうだと見切り発車。

アップリンクまでの道のり、東急の脇に入った道路沿いに古本屋があったはずだが見当たらず、かわりに(?)見覚えのないコンビニが出現していました。劇場までの道のりの魅力が、何気に減退‥。

アップリンクに着いてみると結構な人だかりが(そしてある種の鼻をつく体臭が充満)。公開始まって間もないし、やはり若い人は要注目作を敏感に嗅ぎつけるんだな~と呑気に列に並ぶと、『国道20号線』は1階じゃなくて2階ですと。1階のアップリンク・ファクトリーでは本日「雨宮処凛のオールナイトニッポン」公開生放送がこれから行われるということで、その列だったみたい。
2階に上がると間もなく上映だというのにガランとしていました。受け取った整理番号は2番。開場時にも観客は3人しかおらず、興行的には相当な苦戦が強いられている模様。定員40の座席は、最終的には8人ほどの観客で占められましたが、どうも数人は関係者に見受けられる‥。それ以外の一般客は、若すぎずもせず年老いてもいず、劇中に出てくるヤンキー文化の所属者でもなくましてやサブカル野郎でもない、ごく真面目な映画ファンといった風情。

19時より始まった予告編はたっぷりと正味12分ほどはあり、どう計算しても終わるのは8時半ごろにはなってしまう。電話で問い合わせたとき教えられた、20時20分終映というのは嘘じゃないかと暗澹となる‥

味も素っ気もなくまっすぐのびる国道。その国道をはさんで、こちら側にはパチ屋があり、向こう側には消費者金融各社のATMが群をなすようにひしめいている。何でもないような何かあるような、日本中どこにでもありそうな風景。

そのような一見平凡な風景から、映画の作り手たちは、絶望的に閉じた、社会/環境における搾取の構造を炙り出してゆく。

ダメ人間がダメなままダラダラと、しかし本人たちなりには必死に生き、ドツボにハマってゆく。『国道20号線』同様にそのような物語をもつ山下敦弘ローファイ悲喜劇群(『どんてん生活』ほか)の登場人物たちは主に文化系非モテダメ人間でしたが、ヤンキー崩れの登場人物たちが右往左往する富田克也監督の『国道20号線』は、とりあえず、そのDQN版と言えるかもしれません。
しかし、山下映画の男どものダメさかげんが、結局のところ自己責任に回帰するのに対して、『国道20号線』に登場する人々の閉塞したダメっぷりは、その背後にある社会的構造の問題を(露骨なまでに)照射していて、その意味ではこれは、井土紀州『ラザロ』と並んで、今時珍しい形の真っ当に現在形の社会派劇映画だと言えましょう。

富田克也監督〈きっかけは普段走ってる国道の風景だったんです。(略)パチンコ屋から男がスルスルって出て来た。そいつがそのまま消費者金融のATMにスルスルって入っていったの。“(略)便利だな。ン、便利かこれ?”みたいな。ちょっと待てよ、罠だろ。仕組まれてるだろって思った瞬間に、普段見慣れていた風景が違和感そのものになった〉

新鋭による映画の多くが、違和感から出発し、大方ある種の、〈ある時代、ある状況における、(新機軸な)人生モデルの提示〉を為すものであることから逃れられず、『国道20号線』もその例外ではない。いつかの記事でクサした『14歳』を筆頭に、それらの映画群の大部分は、その出発となる着眼点のところで満足してしまうのか、稚拙で凡庸かつ安パイな表現でお茶を濁すような、自己アピール(ナイスな“あるある”を提示する冴えたジブン!)に長けただけの代物。もう新鋭といえない某監督の、某国際映画賞受賞作品も、そこから距離を置いているとは言い難いと思う。それら〈ヘタ/自己実現〉系の映画群にいい加減ウンザリし続けてきましたが、『国道20号線』からは、そのような不快感を殆ど感じませんでした。

冒頭、主人公の運転する車のフロントガラス前、ダッシュボード上部に敷きつめられた白いファーを目にした瞬間から、被写体との距離の置き方に信用を置く。ダメダメな悪循環にのみこまれてゆく登場人物たちの世界を構成するモノ──演技、美術、服装、エピソード、モノローグが、あくまで“冴えて”いるモノではなくて、世界にフィットするように鈍く画面に沈み込んでいる。それら世界を構成する要素群は、誇るべき〈意匠〉ではなく、ただ、そこにある。
この映画に比べれると、表現の達成度も技術も面白さも遥かに上位にある『松ヶ根乱射事件』における素晴らしい表現の数々も、これ見よがしの意匠に見えてきてしまう。しかし、そうして(奥ゆかしく?)描き出された、ただそこにあるだけの愚かで静かに絶望的な人生の姿は、ただそこに提示されただけであって、生の“痛み”は鈍く露出しているが、それが批評的に映らず“社会を撃つ”感じが迫ってこない。いわば意匠的に、世界を対象物提示と批評的描写とに遊離させることによって生じる他者性が、ここでは何か希薄なのだ。

たとえば主人公の恋人・ジュンコ(りみ)が、女友達とカラオケに行き安室奈美恵の『CAN YOU CEREBRATE?』を歌うシーン。何ということはないけれど、超絶的に面白いシーン。しかしこの“面白さ”は、どこへ向けて理解を求めればいいのか‥。近年でいえば『リアリズムの宿』や『やわらかい生活』でのカラオケ場面が豊かな達成を示していると思いますが、それらの映画では、確固とした批評的方向性を見定めたうえで、技法を駆使し、心理の綾を幾重にも織り込んだ、高度な表現の結晶としてそこに顕れていました。『国道~』のカラオケ場面にはそういったものはなく、生のままの存在感が薄暗く佇んで発声しているだけだ。

このカラオケ場面は、そのナンデモナサこそが凄いとも言えますが、理解しやすい意匠を取っ掛かりとして求めるような固定観念に囚われた観客とは、どうも『国道20号線』という映画はすれ違ってしまうのではないかという危惧が。それが、公開早々の夜の回にかかわらずこの客入りの悪さ、に表れてるんじゃないか‥。思えば、『サッド・ヴァケイション』でのラストの水の飛散シーンは、そのような凝り固まった観客や論客をも救う、“優しい”サービスだった。『国道20号線』における“描写”と“語り”は、単なる出来事の羅列としか受け取られかねないし、フラットにダラダラと状況を提示しただけだと批判されても仕方ない側面をもつ。題材はともかく物語りかたにキャッチーな“ひき”がないから、作品的迫力として不特定多数に波及して有無を言わせず動員する求心力が生じないのか‥。

分かりやすい〈凶々しい過激さ〉、相対しやすい〈カルトさ〉、観たらお勉強(ウンチクの足し)になるだろう〈お得感〉が欠落している『国道20号線』はしかし、だからこそ好感を抱けるし、だからこそ貴重だと言いたくなります。

全体、描写のピントが甘いというか、何より肝心の国道やATM群を撮って画面に収めることにあまり戦略が感じられないし、演技や録音も満点とは言い難く相当のムラがあって、簡単に傑作とか必見とか言いづらい感じがあるのは辛いところですが、予定調和じゃない、モデルニテな映画表現の更新があったことは喜ばしいこと。停車中の自動車、仕草、発声、立っている人物の描写などに才能アリ。ヤク中のユカリんちを訪問したジュンコらの、玄関扉のあけかたなんかも良かった。

監督をつとめた富田克也は映画美学校出身者で、篠崎誠監督に見出された逸材。その名高い8ミリ大作『雲の上』(03)は11月22日(木)にアップリンクでレイトショー上映されますので、気になるかたは行きそびれないようにしたほうがいいかと思います。その篠崎誠は『刑事まつり』路線まっしぐら、最新公開作は寒々しい『0093 女王陛下の草刈政雄』‥篠崎誠はどこへ行くんでしょうか‥。美学校出身者のものとしては他にも横浜聡子監督の『ジャーマン+雨』など注目作が公開を控えており、まだまだ映画美学校のムーブメントはつづくみたいです。

さて、20時30分に上映が終わり、表に飛び出し、渋谷駅方面に足早に急ぐ。東急が見えてくると渋谷に戻ってきたという感じがする。目の前には劇中でみたばかりのケバケバしさでドンキが迫ってくる。109前の三叉路を点滅する信号に急かされながら走り抜けると、視界に溢れるネオンの海にはパチンコ屋に消費者金融のサインがきらめいて流れ去ってゆく。システム化した搾取の構造は、甲府という一地方都市の問題などではなくて都会にも田舎にも偏在している日本そのものの問題だということを示唆する風景。

渋谷駅、20時41分発の山手線に飛び込んだ。新宿までの所要時間は7分‥ギリギリかなと思っていると、只今新宿駅付近でお客様が転落‥‥救出作業を‥‥この電車は当駅でしばらく停車‥‥などとアナウンスが。幸い間もなく動き出しましたが、『ヒミコさん』はもうムリかなと諦めムードに支配されはじめました‥。

予定より2分ほど遅れて新宿駅15番線に到着すると、向かいの16番線に総武線各停三鷹行きがすぐに滑り込んできて、20時52分、扉が即閉じて列車は無事走り出し、東中野に着いたのは20時56分!勝った‥。

→国道20号線、映画『ヒミコさん』につづく)


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『国道20号線』

theme : 日本映画
genre : 映画

2007年夏ドラマ①~ゼロ年代の想像力、ライアーゲーム&ライフ

〈2007年夏ドラマ〉
①ライフ
②山おんな壁おんな
③花ざかりの君たちへ~イケメン♂パラダイス~
④パパとムスメの七日間
⑤ホタルノヒカリ
⑥大好き!五つ子GOGOGO!!
⑦山田太郎ものがたり
⑧ファースト・キス
⑨探偵学園Q
⑩牛に願いを。~Lov&Farm


夏に更新して以来、気付いたら秋が来て冬がきてしまいました。色々と事情もあってほとんど死にかけているこのブログですが、これから一体どうしたものでしょうか‥。

また話題がずいぶんと古くなってしまいましたが、この夏、最後まで付き合った夜ドラは9本。前期は基準となるボーダーラインを④『バンビ~ノ!』として置きましたが、今期は適当なものが見当たらなくて昼ドラ『大好き!5つ子』シリーズの最新作を⑥に置いてみました。
他をざっとふりかえると、夏休み恒例の、“子供もターゲットにした昼ドラ”だった『こどもの事情』は、当初の設計図からどんどん物語もキャラクターもズレていった感じ。案外ノッタリクッタリした地味な展開で、若年層からの支持は今ひとつだったんじゃないかと危惧‥。弟マサトシ役の子(小阪風真)が東海林さだおそっくりだったのが印象に残る。
『スシ王子』は、あのネタであの演出は予定調和かと。例のテレ朝のナイトドラマ枠で、この話をオフィスクレッシェンド制作って、安易すぎるんじゃないでしょうか。

トップは、前期の『ライアーゲーム』に引きつづき、新設されたフジテレビ土曜の深夜枠作品『ライフ』。『ライアーゲーム』から『ライフ』と、一貫した傾向戦略が感じられ、それが評価的にも数字的にも上々という結果をうんだことは好き嫌いをこえて賞賛すべきことだと思われます(『ライフ』は、周知のように最終回では視聴率17・4%という深夜帯としては歴史的な記録を打ちたてた)。『ライアーゲーム』での松田翔太×戸田恵梨香という配役も危ういというか攻めてましたが、『ライフ』では北乃きい×福田沙紀という一般的にはまだまだ無名なキャスティングで勝負するという、更なる冒険にでた。

ところで、現在、話題の言説といったら、『SFマガジン』に7月号から連載されている宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』をおいて他になく、そこでは、サブカル全般を対象に、90年代のエヴァ、セカイ系に代表される「引きこもり的」な〈古い想像力〉をいつまでも〈最新の思想〉とする批評界を弾劾して、新たに、『デスノート』や『無限のリヴァイス』などに代表される思想を〈決断主義〉〈バトルロワイヤル系〉〈サバイブ感〉等ののタームで〈ゼロ年代〉の〈新しい想像力〉としてマッピングする作業が行われており、J文学からテレビドラマ、マンガ、ゲーム、アニメ、仮面ライダーシリーズまで視野に入れた、宮台真司や東浩紀以後の世代の新潮流の言論として、かなりの注目を集めています。

(未読のかたには現物を読んでいただくほかないのですが、そこで取りあげられる膨大な作品群や作家たちは、宇野氏の提示したいビジョン(ゼロ年代の思想)を浮かび上がらせるために奉仕される材料に過ぎず、テクストや映像作品の細部も手触りも何も、実体はすべて無視されて、設定と物語のみでほとんどを語られ、分類されつくしてしまう。だから本人が言うように〈これは「批評」ではな〉い。その理由として、宇野氏は(「批評」のように)〈人を安心させて、思考停止に導くものではなく、むしろ不安にさせ、考えさせるためのものだ。だが不安や憤りこそが、つかの間の安心よりもより大切なものをもたらすことがある。〉と説く。
しかし「批評」が、〈安心させて、思考停止に導〉いたり、〈特定のキャラクターをアピールしたい人のためのツール〉でしかないとする雑駁な論理展開は、言いたいことは分かるけど分析なき威勢のいいスローガンでしかなく、この一連の文章が前世代の言論を葬るための巧妙なアジテーションに過ぎないことの表れともいえる。9・11を時代の切断点として用いたりする分かり易い雑駁さは、それこそ〈安心の構造〉、〈ドクサ/パラドクサ〉の構造に容易に回収されかねない。事実、氏の提示した思想地図のビジョンをいったん頭に描き得たあとは、この連載を読み続ける者に、その文章群は〈不安〉よりは予定調和な〈安心〉を与え続ける‥。じっさい、11月号での宮藤官九郎論などは粗雑すぎて、安心を通り越して退屈してしまいました‥。)

で、その『ゼロ年代の想像力』での分類によると、(原作の)『ライアーゲーム』と『ライフ』は、共にゼロ年代的な〈新しい想像力〉の産物たる作品として分類されています。
90年代的感性を支配していたセカイ系的な非戦主義から、〈「引きこもっていたら殺されてしまうので、自分の力で生き残る」というある種の「決断主義」的な傾向を持つ「サバイブ感」を前面に打ち出した作品〉群が多数出現する時代にシフトし、現在的な想像力の質的変化をあらわしてきた。と。
絶対的な正義も社会的規範も霧散した現在、その状況を拒絶するのではなく敢えて受け入れ、無根拠であることを承知で、ある価値観を選択すること。「相手を傷つけることになっても対象にコミットする」という〈誰もが自分が信じたいものを信じて噴き上がり、互いの足を引っ張り合う戦国時代〉的なバトルロワイヤル状況を示す作品群を、宇野氏はゼロ年代的なものとして提示したのでした。その論旨は、(10年以上も前の)宮台真司「島宇宙化」論の粗雑な展開バージョンに過ぎないんじゃないかという気がしなくもないですが、ともかく『ライアーゲーム』『ライフ』において、リアリティも参加意義も希薄なまま“あえて”参加する(せざるをえない)ゲームが物語として提示され、それが多数の同時代的視聴者の支持を得たことは間違いのない事実でしょう。

一見、『カイジ』の“さらにリアリティがないバージョン”に過ぎない作品にみえる設定をもつ『ライアーゲーム』ですが、その設定の“リアリティのなさ”自体が、ある種の(時代的な)批評性をもつことは自明で、そのリアリティも根拠もない戦いのなか、〈ゲームに参加しつつこれを止める〉ことを神崎ナオ(戸田恵梨香)は企て(?)る。それが無数の決断主義者たちが群雄割拠するゼロ年代的世界において、唯一の未来への指針であるかのように。
ドラマ『ライアーゲーム』最終回で明かされる、ゲームを仕掛けた黒幕の、本当の狙いだという〈真相〉のくだらなさ、馬鹿馬鹿しさからくる“脱力感”は、一つの立場を選びとる決断の“無根拠さ”を強調し、戸田恵梨香の揺るぎなさはそのゲームの無効性を正面から撃つ(昨今の〈脱力系〉の隆盛も、これらの文脈に関連づけて語れるのではないでしょうか)。同じように『ライフ』での北乃きいも、無根拠かつランダムに選択される加害者/被害者が、いじめという永久機関の回路に封じ込められつづけるなか、その戦い/ゲームから逃走するのではなく内側に留まり、かつ、その作動機械に戦いを挑む。

『ライアーゲーム』での批評的自己言及性や共闘することの不可能性(困難さ)の描出のあとでは、『ライフ』における“いじめサバイバル”の描きようは、仲間/勇気/共闘といったキーワードの無邪気な有効さによって、一歩後退している感がなくもなく、〈現在のいじめをリアルに描いた〉などとツマランあるあるネタとして回収されかねない弱さがあるかもしれません。

しかし、それは『ゼロ年代~』的視点から物語骨子を拾い上げて考えられることに過ぎず、ドラマ『ライフ』の(そしてドラマ『ライアーゲーム』の)魅力は、そのあたりとはまた別のところにあると思います。

ドラマ『ライアーゲーム』にあった魅力は、ケレンたっぷりの演出ぶり、ゲーム状況の展開の面白さ、中田“perfume”ヤスタカの音楽だけでは語れない、どこか淫猥な感触があるように感じられます。

いい加減長くなってきてしまったので急いで言えば、それは(触覚的な)SM的風土かと。
何度となく騙され、ダマされ、裏切られ、そのたびにバカだマヌケだと嘲笑され、高笑いという名の罵声を浴びつづける神崎ナオ/戸田恵梨香の、困って潤んだ瞳、うっすらと開いた唇、泳ぎ、うつむく視線。その被虐者ぶりの、圧倒的な魅力。フクナガユウジ(鈴木浩介!)を筆頭に、彼女をじっとりといたぶる面々の淫猥な声音や素振り。ゲーム状況の進展を一歩一歩、心理から身振りからを着実に追うように描かれるゲームの機微が、いつしか妖しげな淫靡さをまとってゆく。その中心にあるのは勿論、神崎ナオ/戸田恵梨香の生々しい存在感であり、(極私的な人生訓に律された結果)禁欲的に振る舞わざるをえない秋山シンイチ/松田翔太から匂う青々としたフェロモンがジンワリとそれを包みこむ。味気ないプロット/物語が、現実の身体をもつ俳優たちの肉体に託されると、想定外なほどの別種の艶やかさを放ちはじめる。

(ただし、ここでの戸田恵梨香の魅力は、女優・戸田恵梨香の魅力が現在キテルといった類いのものではなくて、神崎ナオ=戸田恵梨香という存在の被虐的ポジションによるもの。その証拠にコレ近辺の時期の作品、『奇跡の動物園2007』(前作に及ばす)や『牛に願いを。』(この題材でこのキャストで、これだけしょーもないものが出来るのはある意味奇跡的)での戸田さんは全然ダメでした。
スレンダーで黒く長い髪に、あの容姿。しかしそのソツの無い構成要素のなか、どこかしら漂う、暗く濁ったモノ。それをここではとりあえず“暗黒性”とでも呼びますが、その暗さ、邪悪な深遠さこそ彼女独特の真髄。その“暗黒性”を、『野ブタ。をプロデュース』や『花より男子2』での彼女は、体内に宿して不気味さを発散させたし、『デスノート The Last Name』や『ライアーゲーム』では自分を取りまく世界に“暗黒性”を転嫁し、自分は邪悪な精神や力に虐げられつづけながらも純真に信じつづけるM的存在として妖しく輝く。
“暗黒性”をその存在の内側に置くか外側に置くかで様相は異なるものの、暗黒性を配置してゆくことにより自身の女優的存在感を際立たせてゆく戸田恵梨香の邪悪さと魅力は、世界に思いっきり転嫁した(世界の構成要素を全て邪悪な色に染め上げ、自身に世界を司るほどの純真さを付与した)『ライアーゲーム』で最大級に発揮されていました。)

いつになっても話が『ライフ』にたどり着きませんが‥‥一見『ライアーゲーム』の先鋭さに一歩及ばないようにみえる『ライフ』の素晴らしさは、『ライアーゲーム』よりも遥かに触覚的に話が進展してゆく感触にあると思います。

(→ドラマ『ライフ』~2007年夏ドラマ②につづく)

theme : テレビドラマ
genre : テレビ・ラジオ

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