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吉祥寺バウスシアターで『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』爆音ナイト

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○今、もっとも気になり、観に行きたい映画は、公開されたばかりの新人・吉田恵輔監督の『机のなかみ』です。気になって気になってしょーがないんですが(傑作の予感)、貴重な休み、結局行ったのは違う映画‥

○で、行ったのが久しぶりの吉祥寺バウスシアターの爆音ナイト。上映作品は青山真治『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』、1年ぶりの観賞。仕事もあって扶養する者(一人と三匹)もいる身としては、(ほんとは本命の)週末の青山真治オールナイト行きはあまりにハードルが高く、妥協点としてのレイトショー。
爆音ナイトは『右側に気をつけろ』とか『ジェリー』とか、爆音でもう一度観てみたい、と思うものだけ行ってますが、爆音環境での観賞が大前提な『エリ・エリ~』は、DVDで観ても何の足しにもならない希有な映画なので、この機会を逃すまじと足を運びました。〈テアトル新宿〉での上映に接したときは、「まるで〈吉祥寺バウスシアター〉にいるみたいじゃん!」とその爆音上映ぶりに驚嘆したのでしたが、今回、爆音の本場の〈吉祥寺バウスシアター〉で観ることで、『エリ・エリ~』の真の真の姿がみられるんじゃないかと‥。

○上映前、一本だけ予告編が流れる。AJ・シュナック監督の『カート・コバーン アバウト・ザ・サン』。94年に自殺したニルヴァーナのカート・コバーンについてのドキュメンタリー。奇妙な符合、必然?青山真治の劇場映画デビュー作『Helpless』(96)で主人公にニルヴァーナのTシャツを着せて、当時のパンフレットに〈ニルヴァーナ〉なる短文を寄せた青山真治の、10年目の到達点『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』の爆音上映前にカート・コバーンの声が流れた。また、去年の『エリ・エリ~』公開時期が、ニルヴァーナのカート・コバーン最期の二日間を描くフィクション『ラストデイズ』ガス・ヴァン・サント監督)とカブるという偶然もあった。
〈何に興味あるかと言うと、いわば半死半生の世界である。例えばニール・ヤング。そのギターの音が太くでかくなるばなるほど生の実感を離れていく不思議。(略)奇妙な偶然(略)、カート・コバーンがニール・ヤング狂であり、その遺書にニール・ヤングの詞を引用していたということ。〉(『〈ニルヴァーナ〉』、青山真治)
(「It's bettbr to burn out than to fade away」、衰えて消えてゆくよりも、今燃え尽きるほうがいい)

○探偵・戸田昌宏(このひとが出てると、何だか不穏なモノが漂う)の爪に、キャラクターにそぐわない、白いマニキュアが光る。小津安二郎『秋日和』における原節子の、〈パール入りとも銀入りとも見えるネイル・エナメル〉の光りかたの〈異様さ〉の引用でしょうか。
『秋日和』の物語は、言ってみれば複数の中年男がひとりの若い女性を人生の軌道にのせようとする話。そう考えれば『エリ・エリ~』との繋がりも、ナクハナイと、こじつけレナクモナイ。クライマックスの草原でのライブ場面も、ピクニックだと言えば言えなくもないし、終盤、筒井康隆と戸田が車を走らせながら共に歌を口ずさむのもピクニック的だし‥?

『レイクサイド マーダーケース』で「女もイケる(描ける)」と示した青山真治でしたが、『エリ・エリ~』での描写は母性としての女、娼婦としての女、そして少女、という露骨に分離した概念的な抽象化に後退。ヤッパリ苦手なんじゃないか‥?シネスコ画面を縦に倒して撮影された、横たわる女(〈娼婦としての女〉)をナメるドリーショット、結果、大きなスクリーン画面に現れるのは、横長に切り取られた巨大な女体の部分のアップ。カメラがゆっくりとナメて上昇しつづけ、巨大な女体が長めのワンショットでようやく全貌をあらわす。そこに感じられるのは、女性への恐怖心というか畏怖というか、インポテンツ的なもの‥。


エリ・エリ・レマ・サバクタニ エリ・エリ・レマ・サバクタニ




『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』

(2005年制作/2006年公開、日本、107分)
監督・脚本:青山真治
撮影:たむらまさき
出演:浅野忠信、宮崎あおい、中原昌也、筒井康隆、岡田茉莉子

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theme : 映画館で観た映画
genre : 映画

きのうサリの(BlogPet)

きのうサリの、事件みたいな描写したいです。
かつラーマは、サリが設定♪


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ラーマ」が書きました。

海外ドラマ『ハイスクール・ミュージカル』

ハイスクール・ミュージカル ハイスクール・ミュージカル




『ハイスクール・ミュージカル』

(2006年、アメリカ/ディズニーチャンネル)

監督:ケニー・オルテガ
脚本:ピーター・バルソッキーニ
音楽:デヴィッド・ローレンス
出演:ザック・エフロン、ヴァネッサ・アン・ハジェンズ、アシュレー・ティスディル、ルーカス・グラビール

高校のバスケ部のキャプテンのトロイ(ザック・エフロン)は、旅行先のパーティーでガブリエラという少女(ヴァネッサ・アン・ハジェンズ)とデュエットすることになり、歌を通してふたりは惹かれあう‥。一旦は離ればなれになったふたりだったが、トロイの通う高校に偶然にもガブリエラが転校してきて、運命的な再会を果たす。演劇部でミュージカルのオーディションが開かれると知ったふたりは、オーディション会場をのぞきにゆく‥。

2006年1月に初放映されたテレビムービー『ハイスクール・ミュージカル』は、ディズニー・チャンネル史上最高世帯視聴率を記録、度重なる再放送でアメリカ国内だけで視聴者6000万人を越え、サントラは去年アメリカで最も売れたCDとなった。キャストのヴァネッサ・ハジェンズアシュレイ・ティスデイルはソロ・デビューをはたし、番組の関連商品はバカ売れするなど、社会現象を巻き起こしました。その勢いは世界各国に飛び火し全世界で一億人以上が視聴、日本でもNHKで放映されおおむね好評を博し、知名度もジワジワ上がっているようす。
現在、アメリカにおけるアイドル市場の主なメインターゲットはトゥイーン(子供とティーンの中間、小学生位の女子)といわれていて、新たな巨大な購買者層として近年注目を集めています。かつてはアイドル商売がそれほど上手じゃなかったディズニー・チャンネルですが、ヒラリー・ダフリンジー・ローハンをブレイクさせたあたりからコツを掴んだみたいで、次第に戦略は高度にシステム化し、06年の『ハイスクール・ミュージカル』での爆発的成功に結晶した格好となった。

見た目もさわやかな男女が、恋と友情の青春を謳歌し、歌い踊る。学園映画もミュージカル映画もアイドル映画も大好きな自分にとっては究極に理想的な映画であって、じゅうぶんに楽しいことは楽しいのですが、爆発的な面白さ、という突出した面はなかなか見いだせない甘さが全体にある。

シンガーを志しているわけではないトロイとガブリエラが、年越しパーティーでたまたまカラオケのデュエットパートナーに指名され、驚異的なハーモニーで歌い上げて心通わせる、という唐突で強引な導入部は見過ごすとしても、1週間後の新学期、ニューメキシコ州アルバカーキのトロイの通う高校に〈たまたま〉ガブリエラが転校してくる“偶然っぷり”はヤリスギで、作劇能力を根本のところから疑いだすことになりました。

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主人公のトロイは名門バスケ部のキャプテンにしてエースで学園のヒーロー、チアリーダーたちは競って彼に黄色い声援を送り、誰もが友だちになりたがっているナイスガイ、もうひとりの主人公ガブリエラは数々の学力コンテストを制覇した“天才少女”で、運動も達者、「学校一の天才少女なんてもうイヤ!」なんてイヤミなボヤキをもらしたりして、主人公ふたりともがプラスの札ばかり持ち合わせている点が興味深い。ルックス、スタイル共によく、そして勿論歌とダンスにも例外的才能をもつ。そんな彼らが、無事ミュージカルの主役の座を勝ち取り、トロイはバスケの決勝戦でガブリエラは学力コンテストで勝利をおさめ、恋も栄光も掴み尚且つ誰の恨みも買わずに全員の祝福を受ける‥。
大金持ちがまた金を儲けました、ガリ勉がまた100点とりました、みたいな、そんな順当な物語に感情移入するのは難しく、〈疎外感〉が根本的主題としてある〈学園映画〉を観続け応援してきた者には、こういう非の打ち所のない主人公たちに熱狂できる人々に違和感を覚えなくもない。

舞城王太郎『煙か土か食い物』『暗闇の中で子供』でデビューしたとき、印象的だったのはその狂騒的文体ではなくて、「無根拠な自信」に支えられた「圧倒的な自己肯定」ぶりでした。主人公たちはカッコ良く、女にはモテ、仕事や勉強も優秀、運動神経は抜群、自分も含め兄弟は破天荒な天才揃い、母親は美しく聡明で素晴らしい人間‥。てらいもなく「自分の周囲のものだけ、優れていて、特別」と表明するような(モロにセカイ系な)感性が、突破力として一般の世間に進出してきたなという、新世紀な感慨を抱いたのでした。

楽曲もドラマも、出来としてはほどほどな『ハイスクール・ミュージカル』に対する熱狂には、「自分だけは特別な人間」「自分の好きな相手は特別な人間」という無制限な自己愛が世界認識を覆うある種の人格パターンの隆盛化を物語っているかのようで、うすら寒くなる。幼い少年少女向けの作品だから良いというものでもない気が‥。

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疎外感を感じつづけて生きてきた身からすると、器用なマルチ人間のつまみ食いから愛するミュージカルを死守しようとするブロンド娘、シャーペイ/アシュレイ・ティスディルの姿勢のほうがはるかに好感度が高い。
主人公たちに意地悪したりするとはいえ、ほんとうに自分の好きなものへの情熱が根底にあるから嫌みがなくて許せる気がするし、異性にアタック(ふる)するときは素直すぎるくらいストレートに飛びかかってゆく。学園内権力闘争に興味があるというよりは、ミュージカルを愛する素直な女子なだけであって、オーディションに敗れたら爽やかに負けを認めて、笑顔で主人公たちにエールを送る、その姿にグッときました。パートナーが彼氏とかでなく、弟なのも萌え余地アリ。

第1次オーディションで歌われる『What I've Been Lookimg For』『も、作曲・伴奏をつとめる少女ケルシーのオリジナルを尊守したトロイ&ガブリエラ組のシリアスな歌いっぷりよりも、シャーペイ&ライアン組の楽しげなアレンジのほうが断然好きだし、クライマックスで『We're All This Together』をトロイやガブリエラを中心に皆が歌い踊りはじめるのは順当な気持ちでみていましたが、二番にはいり弟ライアンがキャラクターにそぐわぬほどのキレの良いダンスと歌で視線を集めると、彼の切り拓いた花道をシャーペイが笑顔で歌いステップを踏みすすんできてセンターを奪取する、その展開にもカタルシスを感じました。

厳格なカースト制がしかれるアメリカのハイスクールにおいては、ギークならギークの、ジョックスならジョックスの、それぞれの階級にふさわしい“とられるべき振る舞い”がありますが、「そんな事にとらわれずに、素直に好きなことしようよ」という、甘く現実ばなれしたメッセージがこのドラマの主題に置かれています。
通常、学園映画においては、下位カースト者が階級の壁を越えて上位者と恋愛を成就させたり栄光を掴んだりするには、特殊な事情や技能や戦略が必要となってくるし、勝ち組が壁を越境するには、下位者の心情や思考にリアルに直面する厳しい状況が必要となってきます。
しかし『ハイスクール・ミュージカル』では、一応「似合わないことはやめとけ」という世界観(常識)は提示されるのですが、そのハードルは一事が万事「勇気を出してやってみたら、みんな祝福して受け入れてくれた」というファンタジーな性善説でノー摩擦で乗り越えられてしまう。その摩擦/ストレスのなさが、このテレビムービーにどこか盛り上がりきらないユルさを与えると同時に、主役も悪役もない、微温的なホンワカした柔らかい感触を帯びさせた。その柔らかい〈鋭くなさ〉が広範に獲得された人気の理由だと思われます。
しかし、「みんな一人一人が特別な人間」というテーゼは、「自分(だけ)は特別な人間」へとキモチヨク短絡的に発展する危険性がある。トゥイーン層の幼い世界観と、「自分だけは特別な人間」という「無根拠な自信」の肯定性は直結しやすく、それはそのまま〈セカイ系〉の肥大した自我へと結びつくんじゃないでしょうか‥。

さて、5月にはNHK教育とBS2で再放送(BSのほうはダンスレッスン付)があり、日本版DVDもでます。なんだか、中途半端な時期にこのドラマに触れたのは、舞台版『ハイスクール・ミュージカル』が6月にあるということで、それが楽しみだということを言おうとしていたからでした。

(この項→舞台版『ハイスクール・ミュージカル』上陸につづく)

theme : ドラマ感想
genre : テレビ・ラジオ

ミルコまた‥

ミルコが負けた‥。
8月にランディ・クートゥアーのもつUFCヘビー級王座挑戦が内定していたミルコ・クロコップが、よりによって前哨戦である4・21(現地時間)UFC70、イギリスマンチェスター大会のガブリエル・ゴンザガ戦で星を落とした‥しかも柔術家相手にハイキックで失神KO負けとは‥。
ヒョードル挑戦直前の、2003年の暫定王座決定戦でノゲイラに敗れて挑戦権を失ったり、翌04年に再びヒョードル挑戦&ベルト獲得のチャンスが訪れたグランプリ一回戦でランデルマン相手にポカやったりした、あのあたりの感じを思いだす。ゴンザガ戦前のインタビューでの自信満々ぶりが、悪い予兆だったのか‥‥柔術家なんぞによもやテイクダウンなど取られまいという慢心‥‥自分が攻撃にヒジを使うことばかり想定し、上になられてのヒジ防御の対策がおろそかだったのか‥‥前戦で対戦相手に金網の中を逃げ回られたので、今度も逃げ回られるものとばかり思っていたら相手がヒョードル方式を採用していて調子狂ったか‥母国で注目されていればされているほどヤッチャウみたい。
それにしても、いちクロアチア人ファイターが遠いイギリスの地で敗北したというに過ぎないことが、なぜこんなに悲しくショックなのか‥。かの地でマッハがヒューズに負けたときも、五味がニック・ディアスに負けたときも、こんなに悲しくなかったのに。

それにしても、〈世界最高峰の舞台〉と銘打たれていた『PRIDE』の世界観が崩れてゆく敗戦がつづく。同マンチェスター大会ではファブリシオもアルロフスキーに敗北。五味を破ったニック・ディアス(のちに薬物検査で陽性、勝利は無効となった模様)はUFCのベルトに手が届かなかった男。〈絶対王者〉シウバを沈めたダンヘンも、よく考えたらUFCの元チャンピオンだった。つい先日、藤田和之も、自身のMMA史上最もつまんない試合を展開したあげく、UFCの刺客・ジェフ・モンソンの前にあっさりタップアウト負けを喫した‥。


theme : 格闘技
genre : スポーツ

映画『ステップ・アップ』

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『ステップ・アップ』

(2006年、アメリカ、100分)

監督・振付:アン・フレッチャー
原案・脚本:デュエン・アドラー
出演:チャニング・テイタム、ジェナ・ディーワン、マリオ・ドリュー・シドラ、レイチェル・グリフィス

貧民街に生まれ育ったタイラーは、ある事件のせいで有名な芸術学校で奉仕活動をすることになる。そこで出逢ったバレエ・ダンサーのノーラは、大切な発表会を控えてパートナーが戦線離脱するという緊急事態に陥っていた。彼女の要求する高いレベルの踊りに対処できるのはタイラーだけだった‥。

エイベックスが日本配給に関わった『ステップ・アップ』(共同配給は松竹)は、全米興行収入6500万ドル超で、宣伝によると全米ダンス映画史上5位の興収を記録した(ダンス映画って分類がアイマイで胡散臭いが‥)そうで、“今の時代”のダンスを息吹きを伝える、オシャレ度と娯楽性の高い映画を期待させます。『チアーズ!』ほか、膨大な映画の振付をしてきたキャリアを誇るアン・フレッチャー、これが監督としてのデビュー作となります。
近年、『セイブ・ザ・ラスト・ダンス』『ダンス・レボリューション』など、若者をターゲットにしたダンスを題材にとった映画がコンスタントに制作され、需要も少しずつ高まってくるところへ、クラシックバレエとストリートダンスの出会いという、ありがちかつ新機軸な切り口でスマッシュヒットをとばした本作で、新鋭俳優としての主演ふたりのステップアップにも成功した模様(ダジャレの意図無し)。

作品全体の出来不出来といったものとは関係なしに、音楽が流れて登場人物が踊り出すと、それだけでもう無条件に楽しく、ワクワクさせるものがあります。中盤のクラブでの大勢によるダンスバトル、クライマックスの、バレエとストリート・ダンス、バックボーンの違うふたりのそれぞれの特性を生かし融合させたステージなどは盛り上がり、なかなか楽しくみることができました。

しかし、なんだかアッサリした感動しか残らないのは、道具立てがイージーで、その設定をサラッと撫でれば描写は事足りる、という制作者の姿勢によるものでしょうか。〈バレエ(伝統的)/ストリート(現在的)〉、〈金持ち/貧乏〉、〈将来を約束されたレール/将来の見通しのたたなさ〉等々という図式的な対比を二人に割り振って、乗り越える(分かり合える)ためのドラマの装置としているのが、幾分古めかしく感じられます。
金持ちのクラシック娘は、実は親にちゃんと愛されていない冷たい家庭に暮らす。貧民街に住むタイラーの親友は黒人で、バスケと悪事の刹那的人生を送ってる、等。そういった、パターン通りの設定をザッとみせるだけでは描写とはいえないし、今ここに生きているというような、たったひとつの人格/魂という唯一性が薄い――つまりキャラクターの設定も描写も薄っぺらく書き割りじみているから、事件が起きてもダンドリで物語が進行したようにしか感じられなくて、もうひとつ胸に迫ってこない。親友の弟がささいな行き違いから面白半分に手を染めた犯罪により殺されるのも、不可避な悲劇にはどうもみえない“ユルい必然さ”で、殺すことはなくても死んだら話が進むから殺したという気配がなくもない。
そういった登場人物に対する傲慢が、例えば復帰してくるノーラのパートナーの、掃いて捨てるような扱いに出ているとおもいます。

唯一、違っていたのが、タイラーとその幼い妹との関係。微妙な距離感とお互いへの微妙な愛情が滲んでくるようで、このふたりだけにしかない唯一性の親密さがあった。小さな庭で遊ぶシーンや、妹がお兄ちゃんに大きなグラスでオレンジジュースを持ってきてあげる場面などは、きらきらと息づいて感じられました。

ストリートなイケメンを演じる『コーチ・カーター』チャニング・テイタムは、顔や髪型や体つきが『プリズン・ブレイク』に出てくる死刑確定したお兄さんにみえて、その彼がカッコ良く踊ったりするのが可笑しく感じられてしまう。前半の練習で“クラシックバレエ式に苦労してる”場面は、(後半上手くなってみえるために)ワザと手を抜いて踊っているようにしか見えませんでした。

山の手バレエダンサーのノーラを演じるジェナ・ディーワンはバックダンサーをPVやライブで数多くこなしてきた本格的なダンサーで、『ステップ・アップ』で映画初主演、公開待機作にあの『THE JUON2』を控える。『呪怨』ハリウッド版の一作目の主演がサラ・ミシェル・ゲラーだったことを考えると、大きな瞳と豊かな胸、なんとなく共通するものがあって、なるほどねえと感心する。

エンドロール後、〈オンライン・ダンス・コンテスト〉と称して、倖田來未『BUT』にのせて、どうやって選ばれたのかは知らない最終選考に残ったらしき6人のチンチクリンが延々と踊る。そうして延々と『BUT』が流れつづけ、『ステップ・アップ』で流れていたいくつもの楽曲の余韻も記憶も流し去った。エントリーナンバー5番の男子が飛びぬけてリズム感がなかったことだけが、印象に残りました。

そのうちの誰が良かったかを、出口にある投票用紙に書いてくれと画面上では言ってたんですが、表に出ても何も置いてない。松竹は何やってんだ‥。

theme : 洋画
genre : 映画

『電車』恋する日曜日第1シーズン⑯

『恋する日曜日』第1シーズン第16話
『電車』

監督:麻生学
脚本:武田百合子
主題歌:岡村孝子
出演:堀北真希、石田えり、武田航平

母・美也子(石田えり)から呼ばれて、階下に行こうとして二階から階段を転げ落ちた娘・千佳子(堀北真希)は、階段の下にいた母親と衝突、心と体が入れ替わってしまう。急ぎの用のためやむなく女子高校生姿のまま出かけた美也子(外見は堀北真希)は、亘(武田航平)という高校生と知り合い、トラブルから行動を共にする‥。

現在、映画やゴールデンの連ドラで主演・ヒロインを数多くこなす今やトップアクターとなった堀北真希、その記念すべき初主演ドラマが今作『電車』。ということで、結果的に『恋する日曜日』第1シーズンのDVDーBOX収録作中、最大のウリともいえる一編です。プロデューサーの丹羽多聞アンドリウは、『恋日』についてエッセイで〈かなり冒険的な事をした。特に新人俳優の起用にこだわった。この作品がTVの主演デビュー作の女優に堀北真希・小出早織・北乃きい・秋山奈々などがいる〉と先見の明を誇らしげに語っていましたが、堀北さん以外は北乃きいですら全国区とは未だ言えない状態、ということは今のところ、堀北真希が『恋する日曜日』発の唯一のスターということになるかもしれません。

『恋する日曜日』シリーズのシンボル的女優なのが、水橋貴巳と堀北真希(複数の主演作他、多数出演している小山田サユリは、助演的なイメージがある)。現在はマイナーとメジャーという違いはあれ、共にBS-iっ子として成長してきて、水橋貴巳(については映画版『恋する日曜日』他の記事参照)がまず映画版『恋する日曜日』の第1作の主演を(テレビ版の再編集版ながら)つとめました。とくれば、第2弾は当然、堀北真希主演作。という筋道かどうかは分かりませんが、とにかく6月公開の『恋する日曜日 私、恋した。』(1作目と同じく廣木隆一監督!)では堀北真希が主演者として『恋日』ブランドのプロパガンタの役割をにないます。

『恋する日曜日』で初主演→劇場版主演、という関わりだけでなく、堀北真希と、アンドリウ印のBS-iドラマのつながりは深い。代表作である『ケータイ刑事銭形舞』(03)の主演者であり、その映画版(『ケータイ刑事THE MOVIE バベルの塔の秘密~銭形姉妹への挑戦状』(06))でも主演、同じように、『怪談新耳袋』第3シーズンの『幽霊屋敷と呼ばれる家』(04)主演、および映画版の『怪談新耳袋劇場版』(04)主演と、「BS-iのヒットドラマ」→「劇場版」のステップアップに歩みを合わせるように、堀北真希は女優としてもステップアップしてきました。

とは言っても、堀北真希が全国区になったのはよく考えたらごく最近のことで、2005年の暮れ、ドラマ『野ブタ。をプロデュース』の野ブタ役と映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の六ちゃん役で一気にブレイクするまでは一般には無名の存在に過ぎず、『野ブタ』(10~12月期)の前クールである7~9月期に出演した『電車男』伊藤くんの妹役を演じていたときはライト層には全くノーマークの存在に過ぎませんでした。
その堀北真希がようやくブレイクし、ここ1、2年、怒涛の主演作やヒロイン役のラッシュで、ついに若手トップ女優の地位を確固たるものにした。そんな彼女にとって、ステップアップ的な意味では出演するメリットの薄い、BS-i/アンドリウの『恋する日曜日』にちゃんと帰還して、過酷なダイエット等による役作りや、シゴキで有名な廣木監督の演出にキチンと挑む、ということの“計算高くなさ”が感動的で、『恋する日曜日 私、恋した。』への期待がますますつのります。

なんだか『~恋した。』の前フリみたいな話になってますが、本作『電車』は、なんというか、普通の意味ではたいした作品ではなく、「堀北真希の初主演作」というフィルターをもってして初めて輝くという類いものかと。『恋する日曜日』シリーズは映画的な肌理細かい作品が比較的多いのですが、『電車』は抜けたかんじのあるスカスカな手触りで、そのユルい空気感は『恋する日曜日』というより『ケータイ刑事』系統な感じ(丹羽多聞アンドリウの好みとしては、ほんとはコッチ(ユルいほう)が本道なんじゃないかという気がする)。冒頭、ホルンを吹けるようにはとても見えない堀北さんの所作が、端的にこのドラマのユルさを予告しています。

デビュー後しばらくの、雌伏の時代の堀北真希をグラビア等で見てきたころ印象的だったのは、その突出した〈透明感〉でした。女子の〈透明感〉は、しばし男子の〈汚したい〉という性的征服的欲望と結びつくのですが、堀北さんの〈透明感〉の突出ぶりはそういうこととは領域を異にしていて、〈心のアルバムのなかにある、理想的な青春期の眩しさ〉の具象化された女の子にみえ、田舎で過ごした澄み切った冷たい水の痛さの思い出ように、切ない輝きを放っていました。

『電車』における、『野ブタ』や『ALWAYS』での名演技者として世間に認知された堀北真希の現在のポジションから見ると意外に危なっかしい演技と、ドラマ全体に醸し出されるユルい空気は、このドラマがまさに“正調アイドル映画”の趣をもち、クオリティについてアーダコーダ言うことを無効化する種類の作品だと告げています。落っこちてぶつかって人格交換!というお話は露骨に『転校生』系のネタで、予想を1ミリたりとも裏切ることのない極度の予定調和的展開が、微温的心地よさとして温かいものを感じさせつづけます。
石田えりが乗り移ってオバサン化した堀北真希が、見た目を裏切るオバサンぽい言動と行動で、男の子(武田航平)の目を白黒させる。若い娘さん特有の溌剌さもなく、かといって完全にオバサンが憑衣したようにもみえない堀北さんの演技を、つたないものとして捉えるのは少し違うのではと思う。
これは、リアリズムの映像作品などではなくて、“堀北真希という少女”のイメージビデオみたいなもの。性的なものが漂白され極度に透明感のある(悪くいえば、パサついてる)堀北真希に、色をつけ、様々な動作や風変わりな言葉を言わせたりすることによって、優しい親近感をその身体に付加した。そういった作業の結晶がこうしたドラマであり、〈アイドル映画〉というものの一形態なのだ、と言えると思います。

脚本の武田百合子は、現・武田有起で、現在話題沸騰中のTBSの昼ドラ『砂時計』の脚本を担当しています。監督の麻生学は映画、ドラマに多数の演出作品があり、ついに始まった『帰ってきた時効警察』に満を持して登板。『クイックジャパン』最新号(特集『時効警察』)にインタビューが掲載されています。『電車』主演の堀北真希とは、のちにもまた『ケータイ刑事銭形舞』や映画『着信アリFinal』(06)で組んでいます。


theme : テレビドラマ
genre : テレビ・ラジオ

夢想や白昼夢にSTILLするしかなくなる(BlogPet)

こないだ、ししらいぞうが
現実の世界に対抗する術を持たないひまわりは、窮地に陥ったとき、夢想や白昼夢にSTILLするしかなくなる。
とか言ってた?

*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ラーマ」が書きました。

『STILL I'M IN LOVE WITH YOU』恋する日曜日第1シーズン⑬⑭

『恋する日曜日』第1シーズン第13話&第14話
『STILL I'M IN LOVE WITH YOU』

監督:高野英治
脚本:渡邉睦月
主題歌:角松敏生
出演:黒谷友香、青木伸輔、和田聡宏、細木美和、野中りえ、芦垣雪衣、飯田健太郎

千尋(黒谷友香)は、同棲中の怜(和田聡宏)から飾り気のない、熱烈でない(レイらしい)プロポーズをされる。夜のベランダで星を見ながら、ねえ、今年は見れるかなあ、天の川、と。(ナロウヨ、シアワセニ。オレタチ、ソロソロ籍イレヨーカ。眼下は闇の中、車の流れの光の洪水が、まるで天の川のよう。

ドラマは、結婚も秒読みなくらいの、平穏な関係にある彼氏がいる黒谷友香のもとに、昔好きで「好きって言わなかった、言えなかった」ままでいた男性があらわれることから始まるという、過不足ない黄金パターンの恋愛物語(結婚したら幸せにしてくれるに違いない男性をとるか、危険なモテ男をとるか)が語られますが、発想と道具立てが綿密で飽きさせないドラマとなっています。

星空~天の川のモチーフとともに、夜の現代的な河(車の流れ)や、橋桁の下の川辺などの様々な“川”が配される。主人公たちの脇を、たびたび走り流れ去る列車の轟音が響く。そして、重要な小道具としてマルセル・プルースト『失われた時を求めて』が用いられる。流れるものとしての川は、押しとどめられずき過ぎ去ってしまう時間であり、過去であり、記憶。

ある日、レイがふたりで暮らす部屋に、偶然バッタリ会ったと雅哉(青木伸輔)を連れてくる。レイの提案で、アフリカ帰りで当面行くあてのないマサヤをおいてやろうという話になる。チヒロ/黒谷友香は実は高校時代、ずっとマサヤを好きだった。(変な感じ、初恋のひとと一つ屋根の下で暮らすことになるなんて‥)けれどもマサヤは黒谷を全然覚えていないと言うのだった。

暮らしはじめて、なんだかいきいきと輝きだし友人に不審がられる黒谷は、レイのドタキャンによりマサヤとデートすることになる。
楽しかったその帰り道、彼の口からホントに好きなヤツには告白できなかったという言葉がもれ、黒谷はオレンジを落とし、ふたりで拾い集める、高校時代、黒谷の落とした『失われた時を求めて』を一緒になって拾い集めてくれたマサヤの姿が記憶の底から噴出する、あのとき、ふたりはキスを交わしていたのだった、そして、彼女を覚えていないと言ったマサヤは、ほんとうはずっと彼女を覚えていたのだった。そのことは、「落とし→ふたりで拾う」という〈記憶喚起動作〉が三度行われたときに告げられ(嘘なんだ、忘れていたなんて嘘なんだ。アガワ(黒谷)のことも、あの日のキスのことも‥)、時間をこえて再びふたりはキスを交わすことになる。
そのようにして、堰止められていた〈失われた時〉の〈流れ〉は再び流れだした。しかし、という展開が待っています。

黒谷友香は、凛としたルックスながら、感情に瞳が不意に揺らぎ、心の不安定な揺れを存在感そのものとして体現し、恋して揺れ動く者の機微と切なさを、ドラマにもたらしています。すこしうわずる声音も絶妙だとおもいます。ドラマ、CM、バラエティーと多方面で順当な活躍をみせていますが、映画では意外にも去年の『TANKA 短歌』(06)が初主演作(デビュー作の『BOXER JOR』(95)は当時、ヨコハマ映画祭で観ました)。BSーiでの仕事はほかに『怪談新耳袋』(第77話)があります。

川のうちでも、最も不動である永遠的な属性をもつ“天の川”と対となっているような、天文好きの彼氏役は和田聡宏。ドラマ『東京湾景』や映画『バレット・バレエ』『県庁の星』などで少しずつ知名度を増しつつあります。浅野忠信系統の、キモイんだかカッコイイんだかという微妙なラインで、時と場合によってはブレイクする気もします。こういう地味な受けの役もしっくりくるかんじ。

さて、全体に手堅い出来のこのドラマにおける、最大の問題点であるマサヤ役の青木伸輔『水の中の八月』(95)で目にしてすぐ、つづけざまに連ドラ『変[HEN]』(96)『イタズラなkiss』(96)に主要キャストとして登場していたから、てっきりブレイク間近かと思っていたが鳴かず飛ばずで、さいきんも『夜王』『弁護士のくず』に出演も、頭角をあらわす助けにはならなかったよう。要潤くらいにはとっくに成っていそうだったのにそうなっていないのは、勝手な想像ですが、性格に難があってあんまり使ってもらえないのかも、とかおもう。
というのは、当初(青木伸輔の)セリフの間の悪さに最初イライラして観ていただけだったのでしたが、そのうち妙なシーンがやってくる。
指輪を落とした黒谷友香と一緒に床を探し、みつけた指輪を青木が彼女にしたあと、唇を奪うのですが、その一連のシークエンスにはワンカット足りないというか、アクションがなく唐突に唇が重なっているショットに繋がっていて、どうにもヘン‥。勝手に邪推すると、盛り上がってキスする普通なシーンを撮ったのだが、黒谷友香の彼にたいする拒絶ぶりが激しくてどうしても良いショットにならなかったんで、仕方なく現行の形になったんじゃないか‥。
他にも同じように不可解な場面がいくつかあって、例えば終盤、青木から電話があり逢いたいと言われて黒谷が承諾、部屋で逢って抱かれたらしき場面も、ならんで座って彼が黒谷の肩をぎこちなく抱いている格好の画面からはじまり、ギクシャクしたカットが連続する。何度かある二人でいるシーンでの会話も、ふたりは横に少し間をあけて並んでいて、彼は黒谷のほうをむいて喋るのに、彼女は正面むいてセリフを言い、彼のほうを見ようとしない。レイが事故で一生意識が戻らなくなるという悲劇のあったあとの病院の屋上、基本青木を見ない黒谷、抱き寄せる彼に体硬くして座り続ける彼女、ようやく向き合い肩をもつ彼の手に、思いきり腰がひけてる黒谷友香‥。いったい、どれだけイヤなことを青木伸輔にされたというんでしょうか‥。

発見された、『失われた時を求めて』に挟まっていた、今は物言えぬレイからの手紙。すべて最初から知っていて、チヒロの愛を試していたのだという。レイの初めて知るドロドロしたところを、彼女は歓喜とともに受け止めていた。ほんとうのレイがいた。うれしかった。あたし、ずっとレイに愛されてた、と。

theme : テレビドラマ
genre : テレビ・ラジオ

映画『涙そうそう』






『涙そうそう』

(2006年、日本、118分)

監督:土井裕泰
脚本:吉田紀子
音楽:千住明
出演:妻夫木聡、長澤まさみ、麻生久美子、塚本高史、平良とみ、森下愛子、大森南朋、船越英一郎、小泉今日子、中村達也、橋爪功

森山良子作詞の『涙そうそう』をモチーフに、東宝が例によってテレビ局とのタイアップ(本作はTBS)で催涙映画(もしくは、催涙を期待させる映画)を仕立て上げ、客を呼びこんで大ヒット(興収31億)を記録した映画『涙そうそう』。主演に妻夫木聡と長澤まさみという、非映画ファンにも波及力のあるスターを配し、兄妹愛を歌いあげる。監督はTBSのベテランドラマディレクターの土井裕泰で、映画『いま、会いにゆきます』(04)では興収48億をあげたことから、企業的な信頼はあついと思われます。

歌を元ネタにした映画の企画が近年花盛りで、今年(2007年)も『恋しくて』『Watch with Me~卒業写真~』『歌謡曲だよ、人生は』などがまもなく公開。こういう企画はいい加減ウンザリで、例えば大林宣彦『なごり雪』(02)を題材に映画を撮ったりするのは、年寄りの感傷として許せる面もあるのですが、最近のこの安易なブーム(?)には正直嫌悪感があります。この現象は、ショーン・ペン『インディアン・ランナー』(91)を撮ったりすることや、丹羽多聞アンドリウ『恋する日曜日』(03~)シリーズを制作しつづけることとは、明らかにベクトルが異なっているとおもう。ショーン・ペンなら内的必然性があるわけですし、アンドリウの場合はおおまかに言ってさまざまな枷を設けることでアイドル映画のかたちで作家主義政策を復古させてもいるわけだし、そもそも大ヒットの為のヒキのある楽曲セレクトなど為されていない。

『涙そうそう』に代表される、近年の歌を元ネタとした映画群には、殆どそういう要素は見られない。そう遠くないごく近い過去にたいそうヒットした歌謡曲というものは、ようするに、現在のごく一般的な不特定多数の層にアピールする共感作用(そーゆー恋って切ない、そーゆー死って悲しい、そーゆー事ってよくある、等々‥)を根本のところで有しているということでもあって、そのエッセンスを映画にスライドさせて落としこめば、少なくともCDの大ヒットをもたらした範囲くらいの、共感作用を欲する層には容易にアピールしうる、ということからの企画のゴーサイン。まして、『涙そうそう』などといった、催涙系かつオリエンタル風味ももつ素材は、東宝にこの上なくオイシイと思わせたに違いない。〈死〉や〈家族愛〉などとは、誰もが無縁ではいられず、共感は広範に作用しないわけがない、と‥。

共感作用のニオイに強く吸引されるたぐいのライトな客層とは、このところしつこく何度も言ってる気もしますがつまり“事前に抱いた〈イメージ〉に作品が合致するかを確認・追認するだけの、自己肯定的/自己共感的に閉じたシステムを生きるような感性”の持ち主と同一でもあって、『涙そうそう』でいえば彼ら彼女らは〈曇りなき善意〉〈曇りなき無償の愛情〉〈愛する者の死、による涙〉〈沖縄の海や風物詩〉〈妻夫木聡の爽やか〉〈長澤まさみの可憐〉といったあらかじめ想定される要素にたいして、待ち焦がれるかのように見出しては〈確認〉し〈共感〉のチェックマークをつけてゆくことを「観賞の手びき」とする。
そこでは、例えば妻夫木聡がじゅうぶん納得いく成りゆきで不可避的に死のうが、とってつけたような展開で死のうがお構いなし、(妹を想って、頑張って、死んだナ)とポイント的把握(共感)が為されたら無事泣く、というシステムが生きられています。

冒頭、妻夫木聡は異様なほどニコニコしつつ、〈いいひと〉〈さわやか〉要素をしつこいぐらい不断に振りまきながら映画に登場し、その善人ぶりを観客に念押しする。さりげなく画面で示すなどという上品なことはせず、セリフで声色で脇の登場人物による評価でと、後半に用意する「悲しい結末」を効果的にすべく、露骨な下準備を進める。
彼が騙されてオケラになる必要も、死に至らざるを得ないほど体を壊す絶対的な理由も、妹にそこまでこだわることも、不可避なことかというとそこまでじゃなくて、その理屈や筋道や必然性を欠いた“作りすぎ”“やりすぎ”なパーツパーツががそっけなく放置されていて、好きなモノ(自分が泣けるヤツ)拾って持っていきな、という案配で、やんわりと不幸と悲しみの共有を強いる。(荒井晴彦『ALWAYS』『火星のカノン』『害虫』への批判を思い出した、〈『害虫』は「美徳の不幸」かと思ったら、ご都合主義の「不幸」だった。(略)どうしてこの子ばっかりこんな目にあうのって言ってるけど、映画がそうしてるんだよ。映画の作り手がそんな目にあわせてるんだよと思った〉『映画芸術』402号、とか‥。)

ものすごく久しぶりの再会で、たったひとりの血のつながっていない妹が、まるで長澤まさみみたいに可愛らしく成長していた!という肝心な再会時の妻夫木くんの反応は、描かれないで、すっ飛ばされる。〈再会〉が映画の発端で、長澤まさみの可憐な魅力がこの映画の大きな売りなのは間違いないのだから、芸術映画なわけでもない東宝の単なる娯楽映画でこのすっ飛ばしは解せないと誰もが不審に思うはずなのですが、きっと共感派(?)の人々にとっては「あるがままの映画作品」なんてどうでもよくて、好きずき気ままに共感パーツを引っ張ってきては泣けばいいのだから、映画に落ち度があろうが長所があろうがどうでもいいことなんでしょう。東宝/TBSとしても、別にこのテの映画のクオリティなど気にしてないのだから、こんなビックバジェットを土井監督程度の人材に易々と預けられるのだと思います。

公開時、主演ふたりがプロモーションでしきりにテレビ画面に登場していましたが、印象に残ったのは妻夫木くんが土井監督を軽視しているのがミエミエに感じられたことで、ヒットするならオレと長澤の力であるだけで、アンタの下手な演出の手柄じゃないとでもいうふうだった。じっさい、松岡錠司塩田明彦清水崇三池崇史犬童一心廣木隆一行定勲等々といったそうそうたる映画監督と仕事を重ねてきた妻夫木くんにとっては、ベタな箇所をスローモーションで強調したりする土井裕泰のバカみたいな演出は、よくて苦笑いの対象でしかなかったでしょう。

この映画の魅力の大きな部分をになう長澤まさみ、最近は映画でもドラマでも今一つ成績が出なかったのが『涙そうそう』のヒットでひと息ついたかたち。ここでの魅力は『ロボコン』『セカチュー』路線の種類のかわいさでありつつも、しかし、なんだか徐々に存在感がささくれ立ってきていて、翳りはじめている気がする。健康を損なうと肌荒れするように、精神(の輝き)が気づかない間に磨耗していて、溌剌さにもどこか憂鬱ななにかの影がさしている。成長過程で一度ガクンと落ちて、運が良ければ中年期に盛り返すたぐいのひとなんでしょうか‥。

theme : 日本映画
genre : 映画

『ロンリィザウルス』恋する日曜日第1シーズン⑩

『恋する日曜日』第1シーズン第10話
『ロンリィザウルス』

監督:安藤尋
脚本:福田裕子
主題歌:永井真理子
出演:内山理名、北村一輝、高田宣美、平野眞蔵、町敬博


最新作『僕は妹に恋をする』で一躍メジャー監督に名を連ねた感のある安藤尋の、『恋する日曜日』初登板作(第1シーズン第25話『猫』で再び演出を担当)。安藤尋監督の作風等については、『僕は妹に~』の項(→コチラ)で書いたので省略、時期的には『blue』『ココロとカラダ』の狭間に位置し、ドラマながら映画的技法を駆使した作品に仕上がっています。

お話は、傷ついた野良犬のような男性をしがないOLが拾う、という定型的物語。男(北村一輝)は危険な香り漂うヤクザ風の若者だが、どこか憎めない善良さがあり、OLの美保(内山理名)は次第に惹かれてゆく。

この、男の自己愛漂うパターンは、現在的にはVシネマの導入部っぽい題材ですが、〈オンナノコ〉な作家・安藤尋(男)はそんな男性的美意識には寄り添わない。沢田研二のロンリーウルフじゃなくて、永井真理子のロンリィ“ザウルス”なのが象徴的で(〈恐竜〉にはどこかファンタジーの余地が残り、奇形的かわいさがある)、視点は基本的に女の側に置かれ、〈独りでいる淋しさと心地よさ〉から〈ふたりになったことによる心地よさと淋しさ〉への変転が物語られます。

冒頭、オフィスで働く内山理名はモノローグで
〈絶滅した恐竜の最期の一匹は、淋しかっただろうか。
広い大地に自分だけ、でも、誰にも干渉されず、やりたいことは何でも出来て。
その恐竜も、それはそれで、あんがい優雅な気分だったんじゃないだろうか。〉
と呟く。異性のパートナーもなく、独りでいる平穏さに心地よさを感じている自分を〈恐竜〉になぞらえて、ロマンチックに肯定している彼女は、それはそれ、一方牛丼屋では牛丼に醤油をジャージャーかけてドンブリをかっこみ、イタい女扱いの視線を周りに浴びても平然としている。そんな内山理名が仕事の帰り道、傷つき倒れている北村一輝を成りゆきで匿う羽目になる。(少し居させてくれ‥何もしないから。)

翌日に出ていった北村一輝を、ほっとけずに彼女が再び家にあげるまでのプロセスは、窓の外に降る雨の音、室内に干してあるタオルで示され、説得させる。電車の通る音、オフィス場面のビスタに適した描写の仕方など、映画的に達者だと感じさせる細部が全編を充たす。

けれども、どうも感慨が薄い。ひとつには内山理名の反応の鈍さがあって、部屋に不意に彼が侵入してきて口をふさいだときも、そのあと解放されてアワアワと這いずって逃げるときも、妙に落ち着いていて、感情の揺れを感じさせない。一事が万事そんな感じで、同僚といても飲食店にいても妙に物事に対する反応が鈍いのは、そういうキャラと言われればそうなんでしょうが、〈恋する〉機微の必要なこのストレートな恋愛物語で感情の揺れがニブいというのは致命的だとおもう。
彼が出ていったらもう会えないみたいなことを言う場面で、「イヤ!お願い、行かないで。」と北村一輝に抱きつき、哀願するのですが、どうも切羽詰まってなくて、抱きつく力も中途半端。抱きついた内山にカメラのほうを視てセリフを言わせるレイアウト優先な演出も、物語のエモーショナルな分岐点の勝負所を、スタイルに溺れて、しくじった感じ。

彼女の誕生日を祝う場所へ辿り着けず、彼の魂はカメラとともに無彩色に曇った空へと舞い上がる。そうとも知らない内山理名は、笑顔に溢れ、彼の待つはずの場所へと急ぐ。

〈恐竜の最期の一匹は死ぬときも一匹だったのだから、やっぱり淋しかったにちがいない。
でも、わたしはひとりじゃない。
あの人も、ひとりじゃない。〉

彼の末路を知らず、まだ希望にみちた笑顔のままの内山理名の姿で、ドラマは終わる。反応のニブい内山さんが、北村一輝の姿をみてドンヨリと悲嘆にくれるのをみるよりは、こうやって待ちかまえる悲劇を暗示して終わったほうがよっぽど切ないので、終わり方としては良かったとおもった。内山理名も北村一輝も、明るくも暗くもなく、心ささくれてもないし満たされてもない、微妙な佇まいで、クライマックスの曇り空のように半端な印象を残しました。
朝、鏡に向かう内山理名に、鏡越しに警察に自首しにいく、と北村一輝が話しかけるシーンは、ちょっとだけ良かった。

theme : テレビドラマ
genre : テレビ・ラジオ

ドラマ『演歌の女王』

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『演歌の女王』

(日本テレビ系、土曜21:00~)

プロデューサー:大平太、太田雅晴
脚本:遊川和彦
演出:大塚恭司他
出演:天海祐希、原田泰造、酒井若菜、池内淳子、福田麻由子、成海璃子、温水洋一、武井証、半海一晃、黄川田将也

“日本一不幸を呼ぶ演歌歌手”大河内ひまわり/天海祐希は、かつて『女のわかれ道』でプチブレイクしたことがあるが、長いあいだ低迷しっぱなし。人のよさが災いしてか、災難が次々に舞い込んでくる。ひまわりに借金を負わせたまま逃げた元恋人の疫病神・ヒトシ/原田泰造に再会したことから、更なるトラブルの連鎖が加速してゆく‥。

2005年夏期、日テレの意外なスマッシュヒット作となったドラマ『女王の教室』を受けて、今回、主演・脚本・プロデューサーが再び結集し、いわば“女王”シリーズ第2弾として世に放たれた『演歌の女王』は、予想に反し視聴率1ケタ台をバク進(第1話と最終話のみ2ケタを記録)、評判は散々で、快進撃を続けていた日テレ土9の枠を『たったひとつの恋』と共に連続して傷つけた格好。天海祐希や福田麻由子の潜在視聴率的価値も大いに揺らいだ。

世の視聴者のある割合の人々は、『女王の教室』のストレートなバリエーション的続編としてこのドラマに期待して臨み、内容もタッチも展開もキャラクターも予想に反していたために、ほぼ思考停止的に拒絶反応を起こしたようにみえます。自分だって『演歌の女王』をそうそう偉大な傑作だと思っているわけではないのですが、クソつまんねーとか脚本がヒドいとかワケワカランとかいった、己の予想や欲望に現実(や作品)が合致しなかったときに見られる典型的な反射的反応がこのドラマの周囲に充満しているのをみると、殆どキチンと吟味したうえでの評価がなされてない『演歌の女王』がカワイソウになってくるし、雑な意見には憤りも感じるから、いきおい弁護に回りたくなる。

このことは、『チェケラッチョ!!』の項(→コチラ)で触れた問題と関係してきます。つまり、作品等に接するにあたって、自分の事前に抱いた〈イメージ〉を確認・追認するだけの(自分の理解できるイメージに合致するかどうかが評価基準になる類いの)、自己肯定的/自己共感的に閉じたシステムを生きるような感性が横行しているという問題です。
自己イメージや価値観を傷つけずに、滑らかに世界と接してゆく、このテの脳軟化的な処世術は、“あるあるネタ”的なもの(ケータイ小説など)に接して共感したりするときにのみ効力(能力?)を発揮する。〈共感〉や〈感情移入〉に代表される「自分のものさし」しか手だてを持とうとしないようなこうした感性は、価値観の変容を迫るような他者性をもった〈作品〉の芯に迫る術をもたず、肯定か否定か(共感/非共感、理解/非理解)の選別をすることだけが鑑賞から得られる結果(作業)となるでしょう。


1.
前作はシリアスで大仰なタッチで今作はコメディと、表向きの表情もかなり違ううえ、さまざまな点で『女王の教室』とは一見直接の関連性は薄いようにみえる『演歌の女王』。しかし、最終回にチョウが舞うことやスタッフキャストがダブること以上に、ここには前作との見逃せない多くの共通することも見いだせるんじゃないかと思います。
『女王の教室』の阿久津真矢先生/天海祐希は無表情で冷徹、『演歌の女王』の大河内ひまわり/天海祐希は人情にあつく頭が弱い、そのように対照的な人物像としてまずは見え、(新しい役柄へのチャレンジなんだな)くらいに認識されがちですが、2つのドラマのあいだに06年3月17日・18日の二夜連続放映された『女王の教室スペシャル エピソード1:堕天使』『同 エピソード2:悪魔光臨』(以下、スペシャル)を置いてみると、ふたつのキャラクターが同じ世界認識から派生したものだというこえがみえてきます。

『女王の教室』の前日談である『スペシャル』は、どうせ惰性で作られた絞りカスみたいなドラマでガッカリするんだろうなと油断していると、そのヘビーさにガツンとやられます。その内容は置いとくとして、ここで登場する“悪魔”になるまえの阿久津真矢は、『演歌』のひまわりそっくりな、善意と感情で動く人物として視聴者のまえにひとまず現れます。『演歌』のひまわりも『スペシャル』前半の阿久津先生も、一生懸命な努力と善意と思いやりと優しさをもってすれば、世界もヒトも少しずつ良くなる、と素朴に信じているが、いつしか現実世界の壁にぶつかることになります。〈世界の構造〉のまえでは“善意のきもち”は何の効力もなく、かえって事態を深刻なものにもしうると阿久津真矢は痛感するのでした。

悪魔となった阿久津先生の教えの特徴は、スパルタによって生徒の壁となることが主眼なのではなくて、過酷な世界の構造を呈示すること、そしてそのような世界を前にして自分自身の思考と信条を組織することでもって対することを、最善と思われるやり方で教えようとする。

まさに〈共感〉などでは対処できない“他者性”として、世界が登場人物たちのまえには現前しているのが、『女王』の世界です。ある種の児童教育の態度、つまり「あるべき良き社会」「あるべき良き子供」の「あるべき良き生活態度」「道徳心」「授業態度」を指導してゆこうとする教育態度は、先ほど述べた“自分の事前に抱いた〈イメージ〉を確認・追認するだけの(自分の理解できるイメージに合致するかどうかが評価基準になる類いの)、自己肯定的/自己共感的に閉じたシステムを生きるような感性”による姿勢でしかなく、そこにあるツールは〈共感〉のみ。自分の知る、かつての/良き/健全な、学校/生徒/精神の有りようを拠り所にするしかない(そこを目指すことしか知らない)から、〈今現在の社会〉にも〈今現在の子供〉にも対処できないし、何より〈自分ではない他人〉の魂の有りようなど想像が出来ない。子供や若者が“分からない”ことを嘆き、非難し、昔はこうじゃなかったと偽りの高みから見下ろして放言するくらいしか関わる手だてがないのだ。

『女王の教室』が当初、かなりの批判非難にさらされていたのは、そのような「感性」からの攻撃として予測の範囲内の必然であって、むしろ放映がすすむにつれて非難の声が減り賞賛が高まっていったことのほうが暁光だった。それはある意味、『女王の教室』が、雑な言葉ですが希有な力をもった作品だったからで、『演歌の女王』も当初の悪評はある程度想定内だったのかもしれませんが、「感性」を突破する力を持ち得なかったがために、非難を賞賛に転化するまでいかなかったのだろうと思います。

かつての阿久津真矢と同じパーソナリティを有しながら、彼女とは別の方向に先鋭化していった『演歌』のひまわりは、もうひとつ別の、厳しい世界に対処する方法を模索して生きてゆくことになる。
言ってみれば、

○阿久津A(『スペシャル』前半)→阿久津B(『スペシャル』後半と『教室』本編)
○ひまわりA(『演歌』前半)→ひまわりB(『演歌』後半)
(阿久津A=ひまわりA、阿久津B≠ひまわりB)


という図式があることになる、阿久津AとひまわりAは同種の人間で、その同じ根から阿久津BとひまわりBというふたつの人格に分岐した。「阿久津先生のもうひとつの可能性」が(コメディ調で)描かれるのが『演歌の女王』だという見方も出来るようにおもう。さて、では分岐したひまわりBは、世界にたいしてどのように戦うというのでしょうか。



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 2.
『演歌の女王』は、いざ放映が開始されてみると、寒くて、タイミングの悪いギャグが連打され、キャラクターは彫りが浅く、お話は毎回同じように主人公がアタフタ→不幸→アタフタ→不幸のループを巡るだけで、根本的な進展が永遠にないようにみえるし、“演歌”もあんまり出てこないうえになにが“女王”なのかもよく分からないと、途中で視聴者が離れていくのも無理のないことともいえます。演歌の扱いなどは、明らかに当初の設計図からズレていったようにみえますし‥。

しかし、表面にわかりやすく見えていることだけが全てとは限らないというのは世の常。たとえば『教室』ではドリー撮影やクレーンなどの機械的で大掛かり、プロフェッショナルな技法によって凝った構図の場面が頻出、独特のムードを醸し出していましたが、今回の『演歌』では魚眼/広角などのレンズを用い、手持ちカメラを多用するという、連ドラとはとても思えない大胆な撮影方法が採用されています。これは何を表すのか。

クレーンやドリーといった手法は、通常の人間の視線とは異なる視線の動線を描き、(ヒトでは立ち得ない高みから俯瞰する等といった)世界を構造化する働きを見せる。主観的でない視線を獲得することで、構造を見透かすことができる、そのような足場に立つために、阿久津真矢は「人間的」であることを棄てた。“主観”とは通常のヒトの視線の高さでものをみることであり、阿久津真矢は子供らに世界の構造を示唆する触媒となるために、人間的であることと同義でもある主観/主体を捨て、非人間的な仮面を被った。だから、阿久津せんせいが人間的なものさしで計れる社交術を用いた世渡りなどとは無縁なのは当然のことなのだった。
このように、『教室』の技法と阿久津真矢の生き様は不可分な関係にあります。それと同様に、『演歌』での技法も徹底してひまわりのパーソナリティと密接な関係をもつ。広角や魚眼といったレンズでの撮影は、世界を歪めて映像に定着させる。そして遠近が狂い、金魚鉢にうつる部屋の光景のようにペタッと表面にはりつくようにして距離感が失われ、平面化する。そして、揺れる手持ちカメラでの撮影とは勿論、『教室』での技法とは逆に極限的な主観性の露呈を示す。手持ちカメラでの撮影以上に、撮影主体者の存在を感じさせる技法は、ない(反構造化、超主観性)。

ひまわりには、世界を上手く生きぬくルールを把握する能力が、世界の構造を視とおす視線が、徹底して欠けている(反構造化)。性善説を基準に相手と接するから、世界との、他者との距離の目測を誤り(平面化)、軋轢を生む。そのようにして善意のひまわりは〈過酷な世界の構造〉や〈他者の悪意〉にぶつかり、阻まれ、常に敗北する。現実の世界に対抗する術を持たないひまわりは、窮地に陥ったとき、夢想や白昼夢に退避するしかなくなる。白昼夢内でのひまわりは、言いたいことを明晰に言い通せる、つまり世界の構造化に成功した(夢想場面での技法は『教室』的)のでしたが、やがて白昼夢内でのみ世界に対峙(言いたいことを言う)出来ていたひまわりが、徐々に現実世界での障害に対峙するようになってゆく。その方法、ひまわりが世界を突破しようするやり方は阿久津真矢とは異なり、主観性をつきつめることだった(超主観性)。

しかし、現実の世界が過酷なことに変わりはなく、ひまわりが現実に対峙出来るようになっても世界との関係は悪化する(ヒトシの母のボケ、死、警察に追われての逃避行‥)一方だという苦さがある。用意した図式を主人公が乗り越えたからといって、そこに幸福を用意してあげられない、〈物語〉への不信感が作り手の根底にあるのは、『教室』でありもしない「クラス全体の団結」を安易に提示してしまった悔悟からくるのでしょうか‥。

最終回、なんと瀬々敬久映画みたいな無限的シャッフルのなかでドラマは爆走する。そこで用意されるラストシーンは、夢想としか思えないリアリティのなさで、超主観の不幸な帰結をしめす。しかし、ひまわりは、たとえ世界の構造から弾かれても「変わらず、懸命な努力と善意と思いやりと優しさでもって闘う」という傷つき易い唯一の信念に固執する決意をする。〈不死身〉とは、脆弱すぎる彼女が世界に対抗するために与えられた、フィクショナルな属性だった。

(最終回で示された360度パンという技法は、クレーン等世界構造化の技法とは異なる、主観的視座による極限の、せいいっぱいの精神運動のあらわれだと受け止めることが出来ると思います。)

駆け足で概要だけ語ってきましたが、次項では疑似家族のことを書こうと思います
(以下つづく)。



theme : テレビドラマ
genre : テレビ・ラジオ

のだめカンタービレ(BlogPet)

ししらいぞうが、小栗旬、道明寺で“次なる物語”
をストレートに伝えて、面白いといえば面白いけど、いつ何がどうころぶかはよく知らない
海外ロケに力のお馴染みで待望のをやめてしまって以降のお話なひとで、成就までのが、道明寺で大きくコチラ
はまえに書きました(「のだめカンタービレ」)
が、悩みつつ大人などを凌駕したかったのは、→
でも結局オレはオマエしか見えてない彼が芸能人ならアイドル、医者志望なら同じ医者志望なら同じ医者志望なら同じ医者志望の才色兼備の肝だった“嘘”
も引っ張って盛り上がるのにキスもしびれました


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ラーマ」が書きました。

ドラマ『拝啓、父上様』

『拝啓、父上様』

(フジテレビ系、木曜22:00~)

製作総指揮:中村敏夫
脚本:倉本聰
演出:宮本理江子ほか
出演:二宮和也、高島礼子、黒木メイサ、梅宮辰夫、八千草薫、岸本加世子、高橋克美、福田沙紀、横山裕ほか


観終えた印象は、サラッとしていて、あんまり感慨がわかない。みていて苦痛になるわけではぜんぜんないのですが、面白いかというと感情はそれほど波たたないかんじ。軽くコメディタッチなためか、メロドラマっぽい展開のわりに重くない、その軽さがどの方向へも振り切らなくて、中途半端な印象に感じられます。

長年、倉本聰『北の国から』(81~02)をともに作り上げてきた中村敏夫が、フジテレビ取締役を退任後、現場に復帰してきて倉本聰とのコンビが復活した。そうして作られた『優しい時間』(05)に引き続いて世に問われた倉本/中村コンビの新作『拝啓、父上様』はしかし、『優しい~』同様、大した反響もなく、ゆるやかな黙殺の憂き目にあっています。

『北の国から』を一度をみたこともないような自分はもちろん倉本聰ファンではありませんし、当然のように『前略おふくろ様』に接したこともない。ドラマより映画派の自分としては、『冬の華』(78)とか『駅―Station―』(81)とか『時計―Adieu l'Hiver―』(86)とか『海へ―See You―』(88)といった惨憺たる映画群に関わった人間としての倉本聰は、どちらかといえば軽侮する対象だったし、現在カルト作と化した感のある岡本喜八監督の『ブルークリスマス』(78)だって、ごくふつうに言って岡本映画では最低の部類だとおもう。
そんな無関心ななかで、たまたま観た『優しい時間』にはすっかりハマってしまった。どういうふうに面白かったかは面倒くさいので言いませんが、腕に〈死神〉と刺青をいれるというような危ういセンスも愛しく思えて、今回の『拝啓、父上様』にも俄然期待を抱いたのでした。

前作『優しい時間』では父(寺尾聰)と息子(二宮和也)の断絶と和解が描かれていましたが、『拝啓、父上様』での一平/二宮和也からは、はじめから父親が奪われています。芸者だった母・雪乃ちゃん(高島礼子)はシングルマザー、一平に父親のことを聞かれても絶対に教えない、という態度を貫いている。そこで料亭・坂下の三番板前である二宮くんは〈あるべき、理想の父親〉の姿を同じ職場の花板(一番板前)である竜次(梅宮辰夫)に求めますが、実際は品性の疑わしい某政治家や某流行作家なのではないかと半ば諦めが入っている‥。
一方、〈古きよき〉風情の残る東京・神楽坂は高度成長(?)の波にのみこまれようとしていて、昔ながらの老舗一流店である坂下も高層マンションの建築予定地としてのみこまれてゆく。〈古きよき、あるべき姿〉としての、理想的な父親像、町の景観、昔ながらの人情のある町の人々の繋がり、受け継がれる高度な職人仕事、といったものが、〈去りゆき、決してもう戻らないもの〉という(ベタな)郷愁にドラマ全体が彩られています。
最終回あたりで、ナオミ/黒木メイサや雪乃ちゃん/高島礼子と関係のこじれた一平/二宮くんに対し、周りの大人が後悔するからと和解へと促すのは、〈過ぎ去ったものは元に戻らない〉という諦念に至る前に手を打たなければならない、という主題とリンクし、あるかすかな希望的な未来を垣間見せて物語は終わる。けれども、なんだか感慨は薄い。

繰り広げられる一平/二宮くんの父親探しは、“現在日本に求められる厳格だが尊敬をもてる理想的父親像の不在”という視点を照射するが、そういう紋切り型はあまりにイージーで現実感に乏しく、そのことが、一応の決着をみせなくもない父親探しの物語の結末にも浮遊感あたえています。作品世界も登場人物たちも、固有のモデルニテ(現代性)を生きていないから、“いいお話”に付き物の道徳的教訓にとどまって切迫感が生まれない。時代把握も人物把握も“今”ではない、作者の感じた“よき時代”の夢想の繰り言のようで、微温的に作品が閉じてしまい、それが心地よくもあるのですが、物足りなくもある。面白い路地があり坂道があり水場もある、たいへん魅力的な街の風景を演出家がキチンと映像に定着していれば、あるいは全く違った感想をもてたのかもしれませんが‥。唯一、大女将の八千草薫がボケてゆくのだけが微温的でない、迫真的悲しみの表現になっていたと思います。

さて、本作でやたらと気になるのはいわゆる萌え的要素で、二宮くんを中心軸として近親相姦的なイケナイあやしい香りがそこここで立つ。

料亭・坂下の孫娘・エリ(福田沙紀)は「お兄ちゃん!」と一平/二宮くんを呼び、ことあるごとに開けっぴろげに甘えてくるような、あからさまな〈妹属性〉をもち、無邪気に(な、ふりをして?)豊かな胸を一平の腕に押しつけてくる。ある時トラブルからエリの胸をつかんじゃった一平ちゃん!あとからからかうようにお兄ちゃんにならいいよ~と冗談半分に言うという、妹萌え的コケット。

一平の母親である高島礼子は、息子に自分を雪乃ちゃんと呼ばせていて、二宮くんは二宮くんでまんざらでもなくなんやかんやと母/雪乃ちゃんと一緒にいるし、大事に思っている。誰よりも色っぽい雪乃ちゃんを自慢に思っていなくもないふしのある一平ちゃん、呼び出されて擬似的デート的に喫茶店でお茶したりもし、ある時は雪乃ちゃんに抱きつかれてあわやチュ!というイケナイ感じに。

一平が一目惚れした謎の美少女・ナオミ/黒木メイサは、それこそ血をわけた兄弟かもしれないという疑惑が浮上する。
この露骨に兄/妹の近親相姦的恋愛の危機がクライマックスのひとつを形成するのですが、そのふたりがいるレストランのテーブルに、一平の父かもしれない男、吉行淳之介か渡辺淳一かといったふうな流行作家・津山冬彦/奥田瑛二がやってくる。そこで奥田瑛二のかける言葉のいちいちを、容貌の印象よりずっと幼い甘えた声でそのつどリピートする黒木メイサ、その二人のやりとりにも必要以上に肉体的な親密さが香り、父/奥田が一本指で(こいつう~)といふうに娘/メイサのひたいを突く、その場面はスローモーションになり、淫靡な接触の瞬間は引き延ばされる。一応、奥田の指の長さを二宮くんに確認させる、という意味合いの場面ではあるのですが、その引き延ばされた接触からは、違う性的な感触が定着されていたように感じられました。



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2007春の連ドラ

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まもなく、2007年の春ドラマが順次始まりだします。

ここのところ、想定視聴者層の低年齢化がすすみ、学園を舞台にしたドラマなどが多く制作されて好評(および高視聴率)を得る、という流れがあった。ところが、前期冬ドラのシーズンでは、まるでふた昔まえくらいに戻ったかのようなドラマ(キムタクモノ、OLモノ、倉本聰モノ、夫婦モノなど)が忽然と連打された。
『日経エンタテインメント!』2月号の記事(『ドラマ復活をかけたテレビ業界7つの戦略』)の比較図によると、主演女優の平均年齢が06年秋ドラでは24歳だったのが、07年に入っての冬ドラでは平均31歳と、7歳もあがったという(この数字は、学生/OL間の断絶的な年代差に合致するようにみえます)。しかもこの平均年齢比較図は、よくみると連ドラ版『東京タワー』の主演女優を香椎由宇(19歳、07年1月4日時点)として概算しており、ドラマの実質としてはオカン=倍賞美津子が主演なのだから(『拝啓、父上様』(→別記事はコチラ)では本質に則り、黒木メイサではなく高島礼子を主演女優として数字をだしていることからみても、倍賞美津子を主演女優ととるのが順当でしょう)、修正すると平均年齢は更にあがることになります。そうしてみると、少なくともこの記事で扱われた主要ドラマでの主演女優で、10代の女優は井上真央(19歳)ただひとり、ということになります。
その結果はどうだったのか。絶対王者・キムタクのドラマを視聴率で何度か上回り、あわや王座陥落の盛り上がりをつくりあげたのが、その10代主演女優井上真央を擁する『花より男子2(リターンズ)』(→別記事はコチラ)でした。オリコン調べのドラマ満足度調査では、『華麗なる一族』をこえて全期間でトップに君臨し続けた。
このことからは、やはり現在のところはターゲットは低年齢層を想定するほうが得策、という結論が導きだされると思われ、春ドラマでは再び主演女優(男優も)なり想定視聴者層なりが低年齢指向に戻った。さいわい、ここ最近のムーブメントにより、そこそこ主役級の若手スターの層は厚くなりだしていて、どのドラマもそこそこのキャストで勝負しており、横並びで(『プロポーズ大作戦』以外は)本命作が絞りにくいかんじ。今期は、素直に作品的に面白かったものが浮上してくるんじゃないか‥。2クール続けて主演作が視聴率等で低迷し、小泉今日子とのスキャンダルで商品価値の暴落した亀梨くん、今期のラインナップに名前はない‥。

さて、今回みようとおもうドラマ、上の3つは必ずみて、以下のものは何話か様子をみて決める予定です。

『プロポーズ大作戦』
山下智久長澤まさみのラブコメ。豪華にみえますが、よく考えたら『ドラゴン桜』はこのふたりにくわえて新垣結衣、小池徹平、サエコ、長谷川京子がサブキャラに阿部寛が主演という、今からみると錚々たるメンバーだった。この『プロポーズ大作戦』も、藤木直人、榮倉奈々、平岡祐太という共演陣で隙がない。しかし正直タイムスリップネタには食傷ぎみ‥。

『帰ってきた時効警察』
スタッフ、キャストそのままに待望の続編。観るほうとしては喜ばしいけれども、三木、園、オダギリらにとって余計な仕事なんじゃないかと。(『ケータイ刑事』他、BS-iっ子の)小出早織が新キャラとして登場。

『恋する日曜日 ニュータイプ』
去年(2006年)の暮れにBS-iで放映されたものが地上波に登場!『恋する日曜日』シリーズ的には本道とは言い難いですが、とりあえず地上波放映は、めでたく、有り難いこと。

『ライアーゲーム』
戸田恵梨香、連ドラ初主演〉とアナウンスされていますが、『ギャルサー』(必見!)だって立派に主演だったと思うんですが‥。あれでカウボーイが藤木直人でなく竹中直人とかで、1年前は今より知名度の低かった戸田恵梨香の代わりに(サキ役が)長澤まさみ級のひとだったら、間違いなく主演と称したはず。フジ土曜深夜という実験的な枠で、結果が出せるか?と興味深い。共演は松田翔太

『花嫁とパパ』石原さとみ主演)、
ヒイキが忍成修吾くらいしか出てないので観ない気だったけど、脚本がいずみ吉紘ということで。

『ホテリアー』
テレ朝の上戸彩モノとして。テレ朝のマンガっぽいドラマって好き。未見の韓流ドラマのリメイクらしいけど、そういわれてキャスト(笛木優子とか)をみてみるとなんだかそっちぽい顔に見えてくる。

『バンビーノ!』
料理人モノ。松本潤、北村一輝、香里奈、佐々木蔵之介、内田有紀、市村正親、佐藤隆太といった連ドラ的にじゅうぶんすぎるキャスティングだが、題材的には正直飽き飽き。同じ原作つきの料理人モノなら『鉄鍋のジャン!』(チャンピオン)とかを連ドラでやったらいいのに。映画『僕は妹に恋をする』に引き続き松本潤と共演の小松彩夏、ブレイクなるか。

『生徒諸君!』
意外と少ない学園モノ。堀北真希&内山理名&本郷奏多、というキャスティング、菅野美穂&伊藤淳史&志田未来という『わたしたちの教科書』より採る。それに、“教科書”という言葉を商売に使うやり方は好かない。

○あと、『特急田中3号』田中聖、栗山千明『セクシーボイスアンドロボ』松山ケンイチ、大後寿々花)の2つの変化球、じつはかなり期待してます。『エリートヤンキー三郎』『カメレオン』みたいな話)のドラマ化って、いかにもテレビ東京ぽくて好感度大。インパルス板倉、まさかあの役‥?

以下はたぶん観ないもの。
『冗談じゃない!』大竹しのぶ、飯島直子、田口浩正、上野樹里という面々はあまりみたくないものの代表。田中圭は、いつもどおり片思い役か‥。

『喰いタン2』、『鬼嫁日記 いい湯だな』は前作をみてないので。

『孤独の賭け~愛しき人よ~』長谷川京子&伊藤英明は、自分にとって、みるとなんだかこっちの元気がなくなる人たちだ。

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(→春ドラマ終了後の記事はコチラ)

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genre : テレビ・ラジオ

ドラマ『花より男子2(リターンズ)』

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『花より男子2(リターンズ)』

(TBS系、金曜22:00~)

原作:神尾葉子
出演:井上真央、松本潤、小栗旬、松田翔太、阿部力、加藤夏希、西原亜希、加賀まりこ

2005年秋、TBSによる連ドラ版『のだめカンタービレ』が、原作者とのトラブルで企画が直前で頓挫するという事態が発生し、この緊急事態に、原作スタッフキャストをかきあつめて間に合わせのように作られたドラマ版『花より男子』。「今さら、なんでまた『花より男子』‥」という素朴な疑問や、突貫工事に対する期待の低さに反し、いざふたを開けてみれば意外なほどの傑作になっていました(『のだめ』は後に無事フジでドラマ化)。世の中、いつ何がどうころぶかわからない。井上“ざけんなよ!”真央は一躍全国区になったし、松本潤は代表作を得たとおもう。その1作目の感想(→コチラ)はまえに書きましたが、道明寺司と牧野つくしと花沢類のキャラクターとバランスが原作を超えてよかったのが成功の肝だったし、下手に自然体演技などない作品の風合いが“初恋”をストレートに伝えてきました。

さて、続編ときいたときにまず感じたのはヤッタネ感でしたが、それとともに(やらないほうがいいのに‥)という複雑な気持ちも抱いたでした。
ある種の少女マンガには、恋愛が成就してからはどうしてもそれ以降作品のテンションが落ち、面白さが減ずるという傾向があると思います。ある種の、というのは、男女ふたりが反発しあっていたり、階級的世間的困難があったり、男がいつまでも真意がよめないパーソナリティの持ち主だったりするとかいった、恋愛成就までのハードルが高い類いの少女マンガのことで、成就までが盛り上がるだけに、そのあとはカップルに危機をもたらすお決まりの手が延々くりかえされるが、それまでほどは盛り上がらない、という宿命的欠点がある。血のつながっていない妹が突然登場してお兄ちゃーんと甘えてみせるとか(幼なじみ、もこのバリエーション)、彼と同じ価値観の世界に生きる女が登場するとか(彼が芸能人ならアイドル、医者志望なら同じ医者志望の才色兼備の女、主人公にはついていけてない彼の趣味とバッチリあう趣味の女とか)で誤解や関係にヒビ、→でも結局オレはオマエしか見えてないよ!の繰り返し(その他、自分や彼の生活環境に変化が生じ、これまでのような付き合いが困難になる、など)。
原作の『花より男子』も成就後は延々ソレで、面白いといえば面白いけど、いつまでやってんだろ‥とだんだんテンション下がってきて読み続けるのをやめてしまった記憶があります。

続編制作決定後、ファン投票によってドラマ化してほしい原作のエピソードが募集されていましたが、それがどの程度反映されたのかはよく知らない。原作には滋(加藤夏希)や海(戸田恵梨香)などのエピソードがあったんでしょうが、なんにも覚えてない。何せ読んだのはかなり前のことだし‥ということで、まっさらな状態で“次なる物語”を堪能することが出来ました。

あれから一年。東京とニューヨークに離れ離れになった二人。異国の地を道明寺に会うために訪れるつくし。海外ロケに力の入りようもみえ、花沢類/小栗旬、道明寺/松本潤の、タメにタメた登場シーンも、お馴染みで待望のスターやヒーローが舞台に現れ決めポーズを決めたときのようにカタルシスがある。

つくし/井上真央は変わらないといえば変わらないんですが、道明寺を好きと認めてしまって以降のお話なので、道明寺の事であんなやつ!とフテたり、花沢類に揺れたりするのも、なんだかウジウジした優柔不断な態度でしかないともとれて、一点突破的だった“雑草・つくし”の魅力はややパワーダウンしたことは否めない。
同じように、いつになく次々と道明寺/松本潤を襲う試練につぐ試練は、前作より困難度もスケールも大きく、ドラマ/お話としては盛り上がることはおおいに盛り上がるんですが、悩みつつ大人にならざるを得ない道明寺の姿からは、前作での爆発的な魅力(異常さ)は発散していない。

その代わりというか、〈私をわかってくれて、私だけに優しい彼〉、ある種理想の王子様・花沢類/小栗旬の魅力はさらにアップしたかんじがあり、物語はよりゴチャゴチャしているのにその存在感を増した。前作では遊びでつくしにちょっかい出してからかってただけな感じがあったのが、今作では道明寺と宿命的な恋愛関係を結ぶつくしに対して望みがない想いを揺らがずに抱き、しかし彼女の幸せを優先して身をひく。つくしに最期にあらわれたライバル・海ちゃん/戸田恵梨香にも、ひとり敢然と拒否の姿勢を示して視聴者の共感を一身に集めたとおもう。モテるクールな美少年(美青年)が恋したときに限って片思い(で遠くから眩しそうに微笑む)、というパターンはツボなので、グッときた。書き割り的だった美作さん=阿部力や西門さん=松田翔太のキャラクターも、今回は掘り下げられていて、物語世界に深みが増したとおもう。‥しかし貫地谷しほりの扱いのよさは不気味かつ疑問‥‥弁当箱みたいなひとで、自分には藤田朋子とか片桐はいりとかのバリエーションにしかみえませんが‥。

新キャラの大河原滋/加藤夏希は、道明寺と同等以上の大財閥の娘ながらキャラクターはつくしとカブる、という強力なライバルで、序盤大いに盛り上がりますが、前述の〈成就後パターン〉をなぞるこの手は気持ちとして道明寺/松本潤をよろめかせはしない(誤解や関係にヒビ、→でも結局オレはオマエしか見えてないよ!方式)から、いつまでも引っ張って盛り上がるのには限度があり、終盤の海ちゃん/戸田恵梨香の登場が必要になってくる。だけど片思いとわかっていてもけなげに明るく振る舞い前向きにアタックを続ける加藤夏希は切なく輝き、二股オンナのつくし/井上真央を魅力で凌駕した。ニクい決別のさいの置き土産の“嘘”も切なくカッコ良く、ラストのプロムで道明寺/松本潤とともに笑顔で颯爽と車から降り立つシーンもしびれました。
そのクライマックスの、日本武道館に一万人集まっての告白場面、馬鹿馬鹿しくなくもないけれどこのくらいの大げさな飛躍は大歓迎、素直にジーンとしました。

恋人同士なのにキスも性的なことも描かれないふたりの間柄の描写に、ずっと違和感をかんじて、大人の事情かなーとおもっていたところへ、ラストシーン、恵比寿のお馴染みの場所で交わされる、キス。ベタだけど、全11話を照射するキレイな着地。

終盤のライバルキャラを担当した海ちゃん/戸田恵梨香は、優しくかわいく明るく、人心を虜にしまくる。それでいて実は計算高い薄汚さをもっている危険な女なのですが、〈実は‥〉というエクスキューズとして“ニヤリと邪悪に笑う”とか“裏で憎々しい表情をする”とかいった戸田恵梨香の演技での表現がいっさいなく、それがかえって海ちゃんの底知れぬ恐ろしさにみえ、邪悪さが倍増した。戸田恵梨香は、なんだかいつもトクなんだか損なんだかよく分からないような役ばっかりやってるような気がする‥。

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theme : 花より男子2
genre : テレビ・ラジオ

ドリームズ(BlogPet)

今回は、とにかく応募者のキャラの濃さ
日本の天然系お笑い芸人を納得しなかったのでした
それぞれは、特集が40頁にも及ぶ(アメリカン・)
アイドル
日本の天然系お笑い芸人を筆頭に、

(極論を受容してどう遇さ)
日本未放映の、シーズン4までの名場面集が40万票に新奇なものはないが、分かりやすく概要がまとまってるかんじ


あの阿部和重も好きだという(やっぱり‥)「アメリカン・」
ドリームズ(06)
の役者陣ではエディ・
マーフィ、さすがにカッコイイということで最新情報をこき下ろすこのブラックなかたちでファンに愛されたりして、それが人々の記憶に残る
でも私自身はそれに不満を感じたことなんて一度もない)(「ドリームガールズ」
で最新情報をチェック!
アイドルとTVの蜜月な関係
などの他、ラーマたちを受容していてどう遇され、とにかく応募者のキャラの濃さ
日本の天然系お笑い芸人たちが、このインタビューの以下の部分を読んで、グッとか読んでも、たとえばヒラリー・
ダフなりアシュレー・
ティスデイルなりアマンダ・
バインズなりが、よく気持ちなどを企画しなかった
執筆陣にはあまり興味がなくて、記憶に満足して登場して憎たらしい態度のジェニファー・
ティスデイルなりアシュレー・


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ラーマ」が書きました。

映画『チェケラッチョ!!』






『チェケラッチョ!!』

(2006年、日本、117分)

監督:宮本理江子
音楽:ORANGE RANGE
出演:市原隼人、井上真央、平岡祐太、柄本佑、伊藤歩、玉山鉄二、山口紗弥加、KONISHIKI、ガレッジセール、陣内孝則

進路に悩む、沖縄の高校三年生のボンクラトリオ(市原隼人、平岡祐太、柄本佑、)と幼なじみの唯(井上真央)。市原隼人は、バイト先で出逢った年上の美女(伊藤歩)に一目惚れする。ある日、彼らが井上真央に連れられて人気バンド「ワーカホリック」のライブに行くと、会場には伊藤歩がいた。そしてライブをみた彼らは、バンドを組んでラップに挑戦することになるが‥。


2006年の東宝は興行的に絶好調だった。年間日本映画興行収入ランキングベストテンでは、『デスノート the Last name』ワーナー『男たちの大和 YAMATO』東映)をのぞき、じつに8本を占めた(『男たち~』は去年からのロングラン上映、ワーナーの『デス~』は業界の掟(協定)を破る短期間でのテレビ放映でヒットを拡大したという、ややイレギュラーな要因もあった)。ラインナップ的に、『ゲド戦記』をはじめとしたアニメ作品をのぞいても、何らかの話題性、つまりメジャー性を、作品が有していたものが並ぶ。『THE有頂天ホテル』『県庁の星』『海猿LIMIT OF LOVE』『嫌われ松子の一生』『トリック2』『日本沈没』『涙そうそう』『NANA2』といった作品群は、良くも悪くも何だかんだ話題にのぼったし、ホラーというジャンルでさえ『輪廻』『着信アリFinal』はホラーファン層以外にもちゃんと題名が浸透した。見るからにマイナーな装いの『虹の女神』みたいな小品さえも、キッチリある程度の話題作に仕立て上げた。
(これに対して、たとえば東映の、『最終兵器彼女』『燃ゆるとき』『バルトの楽園』『風のダドゥ』『アジアンタムブルー』等々といった題名の映画が公開されたことが、いったいどれだけの人に認知されているのでしょうか。)
『チェケラッチョ!!』も目立たないながらも見事興行収入10億を突破(10.8億)、これは松竹第2位の『タイヨウのうた』(10.5)を上回る数字で、キャストやスケールを考えると大当たりしたと言えると思います。

東宝の戦略は、多くはテレビ局とのタイアップで知名度をあげ、ターゲットとしては若年層やファミリー層を見据える。いわゆる良心的映画ファンに訴えかける映画では、出来不出来を問わず大ヒットは見込めない。普段映画を観に行くことが習慣化していない浮動票的な部分に的を絞ることでヒットを目論むという、出版業界が露骨にベストセラーを狙うときと同様のやり口は、根本に観客への不信感がある。良質なもの、優れたものを希求する営みによって映画館が満員になるなどという、甘い考えをいだいていないのだ。

『チェケラッチョ!!』は、フジテレビとのタイアップ(スピンオフの連続ドラマも放映)、市原隼人・井上真央・平岡祐太といったプレブレイクなキャスト、夏×海×沖縄×ラップ×青春という題材、楽曲はORANGE RANGE、という要素から構成され、徹底してテレビサイズ的な平板平明な“明るさ”が指向されている。そこに〈経験〉は最初から用意されていなくて、観る前に抱く〈イメージ〉の〈確認〉、〈追認〉のためだけに作品が存在する。
“謎の美女”(伊藤歩が!?)は登場した瞬間にその正体は予想出来るし、クライマックスもラストシーンも、予想された光景がやがて目の前で繰り広げられ、それを観客は安心(と退屈)とともに確認し、観賞前抱いたイメージとの合致にどこか満足して観賞を終える。〈経験〉ともっとも遠いこの作業は、摩擦や刺激を脳にも感情にも与えることなく、その脳軟化的で平穏な〈口当たりのよさ〉が、〈快適さ〉として満足感を生むという、非生産的な構造がそこにはあって、現在的な〈イベントムービー〉のひとつの姿であるとは思う。

『ナビィの恋』(99)のときには他の人々同様、〈沖縄〉をとらえるのに〈歴史性〉を無視している制作者の姿勢に憤りを感じたりしていたのでしたが、ここ(『チェケラッチョ!!』)に至っては、もう何も感じなくなってしまった。『チェケラッチョ!!』での沖縄は、たまたま舞台が沖縄であるに過ぎず、他のどの町なり海なりに差し替えてもかまいやしないかんじがあって、『ナビィ~』ではまだあった〈オキナワ〉固有の地域性はかなり薄れています。歴史的なものの忘却だけでなく、地霊的なものや空気感すら喪失して、スタジオだの伊豆だので撮影を済ませたといわれてもソッカと思ってしまうような抽象性を帯びた舞台で、徹頭徹尾テレビ的演技でもって物語が処理されてゆく。

開巻早々の結婚式の場面には10分も費やされ、語りの遅さが際立ちますが、これはオキナワ的時間の緩慢さを示す気概などは無論なくて、単に設定や感情や出来事を一個一個単調に説明していったら長くなったということで、退屈することはあっても置いてきぼりにされる心配は全くないという“安心の構造”が宣されているともいえましょう。以下、喜怒哀楽のハッキリした顔の演技と大きい身振り、目をこらす必要のない画面設計と、〈カッコイイ/カッコ悪イ〉〈キレイ/キタナイ〉〈縛られた大人/理屈じゃない若者〉といった意味指示作用の明確なパーツ群で映画はかたちづくられ、片手間に観ても完全に理解が及ぶという種類のノーストレスを『チェケラッチョ!!』は提供する。

〈観る〉ことが精神に負荷をかけることで何かが生じるという〈経験〉が、かつては「映画をみる」ということだった。しかし現在的な〈私〉(主体者=客体者)は、変容させてゆくものではなくて、無刺激的にただ己を肯定してくれる無限反芻的なものを欲しているだけという現状。ここでの〈私〉は、「映画をみること」によく似た、自分への共感という不毛な回路に閉じる〈イベント〉を擬似的に体験する。東宝という会社は、そのような感性を狙い撃つ。上記のラインナップを今一度みてみれば、見事に貧困な〈イメージ〉に従順に合致する、〈反・経験〉的な映画ばかりだということが露骨にみてとれます。その典型例である『チェケラッチョ!!』について、どこがいいとか悪いとか言ったりすることは、根本的に不毛なことなのだ、とおもう。

theme : 日本映画
genre : 映画

世界規模の格闘技戦争

2003年の猪木祭りのゴタゴタに端を発する、『週刊現代』のネガティブ・キャンペーンやフジテレビ・ショックにより、総合格闘技〈世界最高峰の舞台〉『PRIDE』の屋台骨が揺らいだ。そして、何よりもUFCが大ブレイクしたために生じたファイトマネーの高騰による選手の離脱の波に抗えず、〈最高峰〉な大会のクオリティの維持が困難となったPRIDE/DSE。苦難に満ちた波乱のすえに事態は27日、いちおうの決着をみました。

27日に六本木ヒルズアリーナでマスコミ、報道陣と約3000人のファンを集めて行われた記者会見では、DSEからUFC=ズッファ社のオーナーであるロレンゾ・フェティータにPRIDEの全てを譲渡、DSEは解体され、スタッフは新規に興される〈PRIDE FC WORLDWIDE〉にそのまま移行、引き続きイベント運営に関わることになると発表されました。榊原信行代表はひとり泥をかぶって、4・8たまアリ大会を最期にPRIDEに別れを告げ、ひとりDSEの消滅に立ち会うことになるという。
ほぼネットで飛び交った噂にちかい結果でしたが、おそれられていたUFCの下部組織としてではなく、同一オーナーが2つのリーグを有するという、並列的なかたちでのリスタートということで、交流戦の夢も含め、とりあえずは『PRIDE』というブランドは保たれるという吉報ではありました。

それはそれとして、気になるのは、榊原氏が死にやしないかということ‥‥。かつての(前DSE代表)森下社長の不可解な自殺が頭をよぎる。自殺なのかそうでないのかもよくわからないような森下社長の死を受けて、PRIDE/DSEを引き継いだ榊原氏は近年、徐々に顔の左右の表情が不均等さを増してきていて、極度のストレスと錯綜した心情を物語っていたと思われます。〈奪われるもの〉の属性をひとり負って、DSEとともに沈みゆく榊原氏。『kamipro 109』でのインタビューにこたえて〈自分が滅びるときが『PRIDE』がなくなるときだと思っていたし、『PRIDE』がなくなるときが、自分の滅びるときだって思っていた〉と述懐している榊原氏にとっての『PRIDE』は無くなるのだし、グレーな汚名だけが一身にのこされた。掲載されたスチール写真の榊原氏は、遺影のように淡く儚げにみえます‥。

一方、同じく27日にアメリカで重大な発表を行うと予告していたFEGは、〈ロサンゼルス・メモリアル・コロシアム〉で会見をひらき、エリートXC、ボードッグ・ファイト、ストライク・フォース、スピリットMC、Cage Rageとの提携を発表するとともに、6・2に『Dynamite!!』として10万人興行を敢行すると宣言。器が大きくて中身がスカスカな、相変わらずの谷川イズムの発揮ともいえて、DSE/UFC連合の発表した藤田和之VSジェフ・モンソンという渋いが興奮度のたかいカードに比べて、FEG連合が早々とメインとして発表したカードはブロック・レスナーVSチェ・ホンマン。名前とガラばかりでかくて、内容はよければめっけものというダイナマイッなノリがアメリカで通用するのか甚だ疑問ですが、これら一連の発表も吉報ととりました。

というのは、数年前日本でDSE(PRIDE)とFEG(Kー1、HERO’S)が激しく覇権争いをしていたパワーバランスのあのかんじ。がふたたび世界規模で復活したというか、既視的な表情におさまった安心感を感じずにはいられない。ここ一年くらい、双方(DSEとFEG)それぞれ何らかのスキャンダルや裏切りに揺らぎ、Kー1は興行を世界中に拡散させてゆき、PRIDEはUFCの本陣ラスベガスに乗り込んでいった、という状況の流れは、熱量が増して上昇的な興奮を生む(物語的)というよりは、拡散によって塊だった熱が拡散して低温化してゆく(非物語的)感じで、ワクワクの質が期待していたものとはどこかズレていた。本来非クライマックス的で拡散的な、現実のガチンコでの競技性のなかで、地球規模の世界像で古典的な〈物語性〉を競技として持ち得たPRIDEに奇跡をかんじて興奮した身としては、PRIDEとKー1のつばぜり合いがスケールアップして良く見知った光景におさまったのは限りない安心感を与えるのだった。

2大メジャーだった全日本と新日本が衰退し、インディー団体が乱立・拡散化、結果総インディーと化してジャンル衰退の一途をたどったプロレス界の過程をなぞるようにみえながら、どっこい世界規模になって2大メジャー時代が復活、みたいな。このばあい、“純”を尊ぶPRIDE=全日で、山師的なFEGはもちろん新日でしょうか。。

theme : 格闘技
genre : スポーツ

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ししらいぞう

Author:ししらいぞう



東京在住

調理師のようなことをやっています。

趣味は立ち読み 格闘技観戦 映画観賞

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