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『PLAYBOY』日本版4月号

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『PLAYBOY』[日本版]4月号

もうつぎの5月号が書店にならんでいるころに、今更4月号のこと。アメリカンな、いわゆるプレイメイト的な女性像にはあまり興味がなくて、『月刊プレイボーイ』という雑誌を手にとる機会もまずなかったのですが、特集が40頁にも及ぶ〈アメリカン・アイドルの秘密〉ということで購入。
海外ドラマをみたり映画をみたりしていても、たとえばヒラリー・ダフなりアシュレー・ティスデイルなりアマンダ・バインズなりが、本国の芸能界でどのような位置にいてどう遇され、どのようなかたちでファンに愛されたりしているのか、全然ピンとこないというか上手くイメージ出来ない感じがあります。断片的な言葉で“大ブレイク”とか“ティーンに人気を博し”とか読んでも、何歳くらいの男/女がどうそのスターたちを受容しているのか、カッコ付きで想像するしかない状態がもどかしく、モノを言うにも言いづらい感じ。そういうことへの、想像の手引きとなるこういうテクストの存在はありがたいと思います。

次世代のアイドルを発掘する公開オーディション番組、『アメリカン・アイドル』は常に全米視聴率No.1を誇り、視聴者からの投票数は決勝戦で6300万票に達するという。映画方面でいえばアカデミー女優ジェニファー・ハドソンまで生み出したこの番組を紹介する記事〈アメリカン・アイドルを知っているか?〉を筆頭に、〈同じアイドルの世界でもこんなに違う!日米アイドル文化比較〉、アメリカという国でアイドルが世に出て育つための厳然たるシステムを紹介する〈アイドルになるための条件〉、〈誕生から知るアメリカン・アイドルの移り変わり〉、〈知っておきたい旬のアイドル25人〉のグラビアとプロフィール、〈『ディズニー・チャンネル』『MTV』で最新情報をチェック!アイドルとTVの蜜月な関係〉などの他、ファッション、ゴシップ、名作(DVD、CD)選、といったラインナップ。執筆陣にはもちろん長谷川町蔵、山崎まどか『ハイスクールU.S.A』コンビが名を連ね、それぞれ複数の記事を担当しています。全体、格別に新奇なものはないが、分かりやすく概要がまとまってるかんじ。

あの阿部和重も好きだという(やっぱり‥)『アメリカン・アイドル』。日本未放映の、シーズン4までの名場面集がDVDーBOXで発売されています(FOXでは、シーズン6が放映中だそう)。DVDをみてみましたが、番組のつくり自体そんなに冴えてないのにそれなりに面白いのは、とにかく応募者のキャラの濃さ。日本の天然系お笑い芸人たちがみんな海の藻屑と消え失せるほどの、スケールのデカい底知れないバカさに溢れた若者たちが、大挙して登場しては散ってゆく。やっぱり、アメリカはスケールの大きい国だ。底辺もそんななら、トップどころの実力もやはりちゃんと本格的で、ASAYANあたりとはひと味ちがうと思った。視聴者投票によって当落が決まるので、これをみると、歌唱力があってもふてぶてしくて憎たらしい態度のジェニファー・ハドソンが途中で落選したことに深く納得出来ます。

その『アメリカン・アイドル』をモチーフにした悪意ある怪作、『アメリカン・ドリームズ』(06)が長谷川町蔵選のオススメDVDに入っていて、ふうんと思う。〈現在のアメリカ〉と〈アイドル〉に関するすべての事柄をこき下ろすこのブラックな作品をセレクトするのは、特集の企画にあっているんだかいないんだか、微妙なところ。(『アメリカン・ドリームズ』、初めて新聞というものを読んでみて、中近東情勢を初めて知るブッシュ大統領!家畜のような雑な扱いのアイドル予備軍!ラストのオチまで、感動はさせまいという姿勢がリッパ。ところで、ドリームズのズの“Z”を歌詞で強調したりする意味が、英語力のない自分にはよくわからない‥。)

この特集のほかにも、映画関係のけっこうきちんとした記事がいくつかあって、油断ならない。役所広司インタビュー(インタビュアーがダメ)や「ボカシの文化誌」(あたっている資料が少なくて、記述に厳密さが欠ける)より、エディ・マーフィのインタビューが良かったとおもいます。
個人的には、『ドリームガールズ』(06)の役者陣ではエディ・マーフィが一番良かった(次がビヨンセ。ジェニファー・ハドソンは伏兵として不意を突かれるが、冷静にみればそれほどのもんでもないと思った)と思ってるんですが、どういうつもりでこの映画に臨んだのか、多少訝しむ気持ちがありました。つまり、コメディアンが年とってシリアスに勲章欲しがるパターン(つまり、森繁パターン)なのではないかと‥。

その気持ちが1ミリも無かったとは言えないとは思いますが、このインタビューの以下の部分を読んで、安心したところがありました。

インタビュアー(エリサ・レオネッリ)の、〈あなたはコメディアンとしてだけでなく、演技力のある俳優として認めてもらいたいと、今までもずっと思っていたのですか?〉、〈コメディ俳優としてのペルソナから逃れたいと思っていますか?〉という意地悪な質問に、

〈極論を言えば、観客が私の映画に足を運ぶのは、私が笑えるからだ。観客は私の演技が気になるわけじゃない。(略)求めているのは笑いだからね。その映画が面白ければ、観客はそれに満足して、それが人々の記憶に残る。でも私自身はそれに不満を感じたことなんて一度もない〉〈『ドリームガールズ』での役柄を引き受けたのは、何かから逃れるためじゃない。(略)私にとっては今回のジミーも数ある役柄のひとつであり、キャリアの一部でしかない。(略)アーティストとして自分が来年何をしているのかはわからないけど、でもそれは間違いなくこれまでとは違う何かになるはずだ。〉
とクレバーに答えるエディ・マーフィ、さすがにカッコイイとおもった。

“面白くて、満足して、記憶に残った”という記憶のある、自分の最も好きなエディ・マーフィ映画は、、『星の王子ニューヨークへ行く』(88)です。初めて観たとき、ちょうどこの映画の主人公と同じように〈リサ〉という名前の女の子を好きだったので、グッとどころかグワッときたのでした。マクドナルドネタも面白かった。

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theme : 映画
genre : 映画

映画『パニック・フライト』






『パニック・フライト』

(2005年、アメリカ、85分)

監督:ウェス・クレイヴン
出演:レイチェル・マクアダムス、キリアン・マーフィ

ここのところしばらく具合悪くて寝込んでいた。
ようやく少し元気が出て、たまっていたDVDをみだしました。

で、本作、何故かてっきり、サミュエル・L・ジャクソンの「ヘビが、ジャンボを、ジャックする」のかけ声(?)でおなじみの『スネーク・フライト』だと思いこんで観はじめたから、たいへんな目にあいました。
(DMMで、ジャケットをみずにタイトルのイメージでいい加減にウィッシュリストに入れるとこういう失敗をするという教訓。。)

離陸しようとしている飛行機、不穏な陰謀のにおいがかすかに漂い、ホテルウーマンのヒロインはジャンボに乗りこむ。
‥ヘビはどこに潜んでいるんだろう?サミュエル・L・ジャクソンはいつ登場するんだろう?と不審に思いつつも『スネーク・フライト』だと思いこんでいるから、ヘビが出ないとはカケラも思っていない。やがてヒロインの隣席の男の怪しさが増してゆき、そろそろヘビの出番かと思いきや、その加藤ローサみたいな顔したホテルウーマンはテロリストにためらいなく反撃!なんと飛行機を降りてしまう!このあたりで時間はもう後半戦に突入している。飛行機降りて、なおかつヘビがまだ出てこない!なんて斬新な構成!とビビる。

しかしクライマックスがきても、彼女はついに再び飛行機にのることはなく、犯人とのアクションに突入‥。ようやく(これは、どうやら、スネーク・フライトじゃないな‥)と気づきましたが、気づいたときには映画は終わっていました‥。

theme : 映画感想
genre : 映画

映画『陽気なギャングが地球を回す』






映画『陽気なギャングが地球を回す』

(2006年、日本、92分)

監督:前田哲
原作:伊坂幸太郎
出演:大沢たかお、鈴木京香、松田翔太、佐藤浩市、加藤ローサ、木下ほうか
、大倉孝二、古田新太、大杉漣、光石研、松尾スズキ

映像化作品がじわじわ数を増してゆく人気小説家・伊坂幸太郎のノベルス作品の映画化。伊坂幸太郎はどちらかというと苦手なというか支持していない作家で、『ラッシュライフ』まではたしかに応援していたはずなのですが、『重力ピエロ』『アヒルと鴨のコインロッカー』で完全にアンチにまわった。伊坂幸太郎を悪く言うひとはあんまりいないのでかなり肩身が狭い思いしていますが、受け付けないものは仕方ない。その最大の理由は、映画の趣味が悪いことと、“軽妙な/洒落た文章”というもののもつ根本的なサムさに無自覚な点。人柄が良いのは救いですが、だからといって愛読者にはなれない‥。村上春樹から吉田修一まで連綿とつづくこの鈍感な寒さの系譜はしかし、読書人口のかなりの割合を占める支持率を得ていて、微温的自己愛と、原理的思考の放棄の、悪しき温床となっているとおもう。

監督は、『かわいいひと』(98)の演出で一躍有望株として注目された前田哲ですが、『sWinG maN』『パコダテ人』『棒たおし!』等といった、なんだか頭の半分は冴えていて半分は眠っているような、かすかな底抜け感を漂わせている映画を積み重ねていつの間にやら“期待される新鋭”の座から脱落していた感じ。作品群の全般的な印象は、かすかな退屈さと楽天的なほの明るさ。そういう意味では(かすかで/ほんのりして/楽天的/微温的)、伊坂幸太郎と相性がわるくはなさそうにおもえる。

和製『オーシャンズ11』あたりを狙ったらしきこの映画は公開当時、かなり評判の悪かった記憶があります。この『陽気な~』を観たがっていて、観にいった子(大学生、普段ほとんど映画などみない)は、『チェケラッチョ!!』も観たがっていて、観にいっていました。つまりは、そういう激ライト層が観て、松田翔太なりなんなりがカッコ良かったり可愛いかったりしたらまあオッケー、という類いの映画だと、覚悟して観賞に臨む必要があるのかもしれない。『パコダテ人』だって正直、宮崎あおいを可愛いと思えなければ、とても観つづけられないようなモノだったわけですし‥。

序盤、いわゆるマンガチックな大仰な構図のカットがベタッベタッと小気味よく繋がれて連鎖し、野暮ったいが独特な快感のあるカッティングに、オッと前のめりになり、いずまいを正す、それにこの音楽‥。まるで往年の岡本喜八が蘇ったみたいじゃないか!
‥と喜んだのも束の間、「林さんが林に入っていった」あたりから映画はどうも鈍重で退屈になりだす。リアリティ無視なんていうのは承知のうえですが、色彩設計もカメラワークも芝居も展開も、凡庸なルーティンに従ってしまっていて、結局見せ場でないシーンはツマラナイという、よくある凡作に堕ちていった。例えば何度も出てくる大沢たかおの勤めるオフィスの場面の退屈さといったら‥無策にもほどがあるんじゃないでしょうか。原作と違うの違わないのなんて正直どうでもいいような冴えない場面が延々つづいて、90分くらいの映画なのにひどくつらかった。無内容なオトナの悪ふざけ、といっても、マイク・マイヤーズの映画や三池崇史監督のある種の映画をさんざん観たあとでは、ルパン三世の第2シリーズ以上にフヌケたお子様仕様にしかみえませんでした。工夫らしい工夫の見られる場面はみんなCGがらみという、実体感のない空虚さは、この映画のカラッポさを端的に示していると思います。

theme : 日本映画
genre : 映画

2007年冬ドラマ

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あらかた最終回をむかえた、2007年の冬ドラマ。全体の印象としては、ここ数シーズン、ターゲットが若年層に移行していった(つまり、若年層ターゲットのものしか視聴率が稼げなくなった)ものが、今期では、ふた昔まえくらいの感じのドラマ、つまりOLあたりを視聴者層の中心に見据えたものが多かったように感じられました(F1、F2等の言い方には抵抗感があるので使いたくない‥)。

亀梨君、田中聖、長澤まさみ、上戸彩、戸田恵梨香、NEWSの面々、綾瀬はるか、新垣結衣ら、現在のドラマの顔といえるタレントたちがこぞってお休みだった今期。キムタク、篠原涼子、仲間由紀恵、釈由美子、といった、「今まさに旬」というよりは「今まだ、健在」というふうなかたがたでお茶を濁して様子をみてみた、という感じで、結果、案の定テレビドラマシーン全体として今一つ盛り上がりに欠けていました。
そんななか、大本命キムタク『華麗なる一族』に視聴率でも支持率でも互角以上の成果をあげた松本潤『花より男子2』の存在が、かろうじてジャンルとしとの盛り上がりをみせるとともに、やはり若年層狙いのドラマの勝利を印象づけた今年の冬ドラ。一般的には、その2強があって、つぎに迫るのが『ハケンの品格』、そして高橋克典『特命係長・只野仁』(第3シリーズ)あたり、という勢力図。だったようです。


『華麗なる一族』‥〈キムタクのドラマ〉というものを、良いとおもうのも、良くないとおもうのも、どっちに組するにしても非生産的に思えて、〈キムタクのドラマ〉は未見。別にキムタクが嫌いなわけではありませんが。
同じような理由で『東京タワー』も1話で挫折。現象化したリリー・フランキーの母恋いモノに、感応して泣くのもヤダし、シラけて批判するのもヤダ。要するに『東京タワー』というシステムにコミットしたくない、という拒否反応がある。もこみち君はそれなりに高評価を得たようで、ひとまずは良かったんじゃないでしょうか。

そのほかの挫折したドラマは、『エライところに嫁いでしまった!』、(4話まで)『ハケンの品格』(4話まで)、『きらきら研修医』(1話まで)。

エライところに嫁いでしまった!』は、仲間由紀恵のキャラクターに疑問が。なぜ、ふつうに社会人でありフリーライターである彼女が、『ごくせん』『トリック』を少し混ぜたような、スゴく不自然な喋り方をするのか?まずスタイルありきで属性は後付け、では、人物に血が通わないと思います。

『ハケンの品格』にも、似たようなものを感じました。秒単位で割り切りまくって働く独特のスタンスと豊富なスキルを誇る派遣社員の篠原涼子。話がすすむにつれて、意外な一面や真意や人間味がみえてくるという寸法ですが、それがどうもとってつけたように感じる。
○真意(魂)→現在表面にあらわれている行動や態度
という仕組みでなく、
○極端な“ハケン像”(面白い)→物語の(必然的な)ベクトルとして真意(魂)探し
という構造から導き出された人物造形は空転ぎみで寒々しく感じる。フラメンコの扱い方にも立腹しました。

『きらきら研修医』は‥‥ふうん‥‥というかんじ‥‥。


結局、止めずに観とおせたのは『花より男子2』、『ヒミツの花園』、『演歌の女王』、『拝啓、父上様』の4本のみでした。

松本潤・井上真央主演『花より男子2』→別記事はコチラ)は、なんだかんだ言ってもやっぱり面白かったんですが、自分が一番面白くみたのは釈由美子主演の『ヒミツの花園』(以後別記事予定)。去年の『結婚できない男』(→別記事はコチラ)に勝るとも劣らない、素晴らしいドラマだと思うんですが、この、なんだか世の中がシーンと黙殺してる雰囲気は、いったい何故なのか‥?結局、『結婚できない男』の高評価は、“あるあるネタ”として面白がられてただけで、『オバタリアン』読んで笑うのとおんなじレベルの享受のされかただったのか‥。

二宮くん『拝啓、父上様』(→別記事はコチラ)、黒木メイサのスゲ~~下手なフランス語に卒倒。コメディだとようやく気づく。このドラマの影響で、うら若き女子が神楽坂に大挙して殺到したとききましたが、『木更津キャッツアイ』的なヒートアップするようなローカルの中毒性は発散していない。ホントなんでしょうか。

天海祐希主演『演歌の女王』(→別記事はコチラ)、ここのところ頻出する〈疑似家族モノ〉ドラマのバリエーションとして、興味深く観た。一般的には、傑作『女王の教室』とスタッフ・キャストがかぶる〈女王〉シリーズ第2弾、的に期待され、そして評価も視聴率も芳しくなく撃沈。コメディにみえるのにギャグが寒いのも悪いほうに働いたと思われますが、藤田まこと・松たか子『役者魂!』と似たような“失敗作”っぷりが清々しい野心作。以後別記事で。

theme : ドラマ感想
genre : テレビ・ラジオ

映画『松ヶ根乱射事件』

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『松ヶ根乱射事件』

(2006年制作/2007年公開、日本、112分)

監督:山下敦弘
脚本:向井康介、佐藤久美子、山下敦弘
企画・制作:山上徹二郎
出演:新井浩文、山中崇、木村祐一、川越美和、三浦友和、キムラ緑子、烏丸せつこ、西尾マリ、安藤玉恵、光石研

90年代初頭、ある田舎町。事件らしい事件の起こらぬこの町で光太郎(新井浩文)は警察官をしている。双子の兄である光(山中崇)は家の仕事を気まぐれに手伝うだけ、父・三浦友和は家出中‥。ある意味平穏なこの町の人々の生活に、訳ありなカップル(木村祐一、川越美和)が侵入してきたことから、少しずつ亀裂が入り始める‥。

天才との名声が日増しに高まる大阪芸大一派の出世頭、山下敦弘監督が、映芸年間ベストワンに輝いた『リンダ リンダ リンダ』(05)のつぎに世に問うた長編映画が、この『松ヶ根乱射事件』です。
山下敦弘監督は『どんてん生活』(01)『ばかのハコ船』(03)でダメ男の人生の時間をオフビートなコメディとして提示してみせ作風を確定させたあと、以降3作、『リアリズムの宿』(04)では高名な他者(つげ義春×長塚圭史×くるり)を導入し山下流ロードムービーを仕立て上げ、『くりいむレモン』(04)では名作エロアニメ(亜美モノ)の実写版リメイク、『リンダ リンダ リンダ』はガールズバンド青春ムービーと、タイプの違う映画に挑んだ。そしていずれもかなりの成功をおさめることで、個性的な作風という範疇に収まらない、本格的な技術と才能もつことを知らしめた。
勝負作かつ本人的には変化球、という難しいところ(『リンダ リンダ リンダ』)での成功でブレイクを果たした山下敦弘監督が、脚本の向井康介とのコンビを離れた新たな冒険の旅(『天然コケッコー』)のまえに、“自分の王道”を再確認するように発表したのが『松ヶ根乱射事件』で、ダメ男のオフビート・コメディ路線に再降臨。というのが、大ざっぱなフィルモグラフィの流れとして、観客なり論客なりに把握されている最大公約数的な位置づけだと思われます。

何でも来い、何でもできるということを証明しまくって名をあげたのちに、元々得意としていた題材やタッチに帰ってきたわけですから、本作のクオリティの高さが尋常じゃないのは当然というか、名人芸の域。しょーもない時代のしょーもない町に生きるしょーもない人々の間に起こる、愚かしい波紋が描かれるだけのこの映画において、ほんの小さな細部ちいさな細部に、いちいち技術とハートが投入されているのだから、もう誰にも真似出来ない〈山下/向井ワールド〉がかなりの高みで結晶しています。冒頭の、子供が死体(?)に対してしょうもないことをする場面から、ラストの、2時間かけてタメてタメた“乱射”がスカしっ屁のように終わる感じまで、ダラッと決まった傑作だと思います。

非力なエンジンが回転する音から、家庭用電灯のヒモに付けられた余計なもの、光の部屋のダサいインテリアまで、世界を構成する諸要素のことごとくが、いちいち、温かく、安く、見苦しく、切ない。キャラクターのいちいちも、生き恥感あふれる味があって、いとおしい。しかし正直なところ、個人的には、何故だか山下敦弘監督の映画をいちいち細かく具体的にホメたりすることに、常々徒労感を感じていますので、あんまり文章であーだこーだ言いたくない気分‥。

さて、批評的には概ね、山下節健在、ということで、『ばかのハコ船』や『リアリズムの宿』に寄せられたような賛辞が与えられているようですが、群像劇であるという新機軸のほかに、新たな段階に入ったかとも思わせる差異もあるようにみえます。
『松ヶ根乱射事件』での主役・新井浩文は、〈主演というのは受け身で、脇の人が攻めたり遊んだりして、映画を成り立たせる〉という通常の配置関係で世界に放たれ、じわじわゆっくりと壊れながらも狂言回しとして“松ヶ根”という〈世界〉を観客の目の前に開示する役割を誠実に担う。それは、これまでのダメ・オフビートな作品群での主人公とは明らかに違う表情を映画にもたらしているように思います。

『リアリズムの宿』までの作品では、堂々たる連続主演として山本浩司が作中に存在していましたが、彼は世界を開示するどころかごく間近なモノゴトしか把握できず、ちっさな保身と慢心によって物語世界をどうでもいい方向へ迂回・疲弊させてゆくだけで、まるで脇役の(スケールの小さい)トリックスターじみて、自分のこざかしい策略に自分ではまってみたりして映画/物語の支柱としての役割を放棄しつづける。主軸をになう人物が短絡的すぎて映画の構造は軟化してゆき、作品じたいが不定形に流動化していた印象があった。『リンダ リンダ リンダ』でも、そもそもの始まりであった友人同士のケンカの原因を観客に開示してくれる登場人物は、誰一人いない。そうして〈ブルーハーツ〉を演る必然性も〈韓国からの留学生〉をボーカルに据える理由づけもなにもなく、構造としての〈発端〉〈必然性〉〈動機〉がことごとく骨抜きにされているという異様な作劇。がそこにはあった。

『松ヶ根乱射事件』では、眼差しに秘めたものをもつ新井浩文が世界の理をじっと見据えていて、語りは整然とすすむ。彼は作品の主軸と主題をにない、照射された世界も周囲の人物たちも、鮮明な像をむすぶ。この“りっぱに”“ふつうに”〈優れた映画〉っぷりに、かすかな違和感を覚えなくもない。この映画が孕む、〈笑い〉の裏にひそむ〈毒〉は、万人にたやすく受容されるものですが、たとえば『リアリズムの宿』にあった〈愚かしさ〉への〈笑い〉は、善/悪、正/誤という世界把握へと至らずに、無責任に放置する、というトンデモな批評性に支えられていたのではなかったか‥。


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theme : 邦画
genre : 映画

映画『叫〈さけび〉』② 記憶の二重化――黒沢清映画の世界像

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(『叫〈さけび〉』①(→コチラ)からのつづき)

『叫〈さけび〉』②

(記憶の二重化――黒沢清映画の世界像)

映画『叫〈さけび〉』では、複数の登場人物が「全部なしにしたい」、「全部なかったことにしたかった」とつぶやき、凶行に及びます。文明の進歩や人生の成りゆきに、「なしにしたい」と切り捨て忘れ去ってきた、大切だったり好きだったりした物や事や者が、少しずつ澱のように(世界の底に)沈殿し、いつしか怨念の噴出として復讐を行うという構造。その構造を黒沢清は“怪談”とよび、それを現代の、刑事物/ミステリの形式に落とし込んだのがこの『叫〈さけび〉』ということになります。
世界の復讐を担う存在である葉月里緒菜は、宮崎アニメあたりであればキャラ付けされて文明批判を滔々と述べる存在に仕立て上げられるところでしょうが、ここでの葉月里緒菜は、叫び声をあげ、忘却されることの悲しみを表すだけ。人格を削ぎ落とされた〈かなしみ〉の権化として、高度成長社会の発展によって忘却された土地の表情とともに、個々人の呻きも掬いあげます。

この映画のなかで、「なかったこと」にせんと個人が個人を殺すことは、社会や時代の問題として処理されてはいない。犯人たちは、それぞれのごくプライベートな動機と衝動によって事をなす。その淡々かつ陰鬱な犯罪の様相に、時代があわられているという言い方も出来るでしょうが、ここではそれを殊更に現代社会の病理として示してはいない。公と私という、遊離した要素は無理に統合されずに、“罪を忘却する”ということそのものに亡霊が復讐するという、システマティックな特性が霊的存在に与えられています。映画の発端としては個人的な殺人が問題とされ、調査を進めるうちに、〈世界〉を〈忘却〉することへの復讐、が接ぎ穂されるのですが、“個人の死が序章に過ぎず、社会の死が本質的な問題としてクローズアップされてゆく”とスケールアップしていくわけでは必ずしもなくて、終幕に至っても変わらずある個人にとって近しい者の死は世界の崩壊と優劣をつけえぬ痛みとしてある。

さて、たまたま最近読んだ〈戦後のサブカルチャーの流れから、時代ごとの「意味論」と、その変遷過程を明らかにする〉書として書かれた『増補 サブカルチャー神話解体』(宮台真司・石原英樹・大塚明子、ちくま文庫版)に、以下のような記述があるのを目にしました。

73年以前は、〈〈若者〉の概念は、〈大人〉や世間との差異によってはじめて意味をもつものだった。こうした互いに相補的なコードが、実は〈大人〉にも〈若者〉にも共有されていた。〉〈どちらの側も、相手側を「敵」と見なすことで「連帯する内部」を構築でき〉ていた。だが〈大学紛争の敗北を最初のきっかけとし、(略)[〈大人〉/〈若者〉]という相補的な共通コードが崩壊し、「連帯する内部」が消滅した。「シラケの時代」の到来だ。代わりに〈我々〉としての自己ではなく、唯一性としての〈私〉が浮上してきた。(略)
変化の最初の表れは、意外にも恐怖コミックに見出された。新興住宅地の開発のかげで忘れられた共同体の記憶(白蛇!)が、失われた個人の記憶(前世!ポルターガイスト!)に置き換えられたのだ。〉〉

55年に生まれ、まさに70年代の転換期を青春時代とした黒沢清は、上記の引用文に従えば、相補的なコードであった〈大人〉/〈若者〉という二元論が崩壊せんとする微妙な過渡期に若者として人格を形成するという錯綜した体験をした、ということになると思います。結果、黒沢清のパーソナリティのなかには相容れないふたつの世代の要素が混在し、創作に反映されることになった。と仮定してみます。

〈大人〉への対立項としての立脚点を反・〈大人〉=〈若者〉に置くことが、黒沢清の創作のとりあえずのスタンスではあった。①で触れた、『ユリイカ』での黒沢×万田対談はまさに〈私は絶対に成熟しない〉と題されていましたし(このタイトルはのちシネマヴェーラ渋谷での黒沢清大特集上映のタイトルに転用)、このコード内での闘いが、作家としての原動力であったことも明かされています。

〈意地になってる。絶対に成熟しないぞ、と。(略)自分のテーマやスタイルを確立して、巨匠への道を歩んでもいい年齢なんだろうけど、なんでかはわかりませんけど、それだけはいやだという思いがあって、子どもじみたことをいつまでもやっていたい(略)上の世代への感情的なレベルでの反感っていうのが基本にありますね。僕らの上の世代の誰かが作ってきた、大人ってこうよねという像にはまるのが絶対にいやだという。〉

この発言をみるかぎり、権威的な〈大人〉の対立項である〈若者〉として表現の牙を研ぐ黒沢清は、73年以前の、典型的な、相補的なコードの補完者に見えます。じっさい、彼が映画で扱う題材には、73年以前の風土にふさわしい〈新興住宅地の開発のかげで忘れられた共同体の記憶(白蛇!)〉(以下、白蛇的記憶)が数多く見受けられます。『カリスマ』の〈世界の法則〉を司る巨木、企画の段階で終わった『水虎』、テレビ版『学校の怪談』シリーズでの伝承的綺談に勿論『叫』での地霊まで‥。それだけであったなら〈過去〉や〈物語〉や〈対立項〉に固執する典型的な世代にみえる黒沢清の存在や作品を、どこか複雑化していて、尽きせぬ豊かなものとしているのは、その要素とは必ずしも合致しない〈具体性〉〈生々しさ〉〈私的〉である部分だ。(権威的な価値観には反発しつつも、解読を拒む具体的生々しさを帯びた黒沢映画は、共同体の無意識を表象するような抽象的共感からは逸脱し、世間的拡散という成功のレールから逸れ続ける。)

黒沢映画における、〈具体的〉な〈生々しさ〉をもつ〈私的〉な手触りは、73年以前的なものとの断絶、〈「連帯する内部」の消滅〉(白蛇的記憶の消失)と密接に関わりがあるようにも見えます。恐怖コミックの分野において恐怖客体が〈失われた個人の記憶(前世!ポルターガイスト!)〉(以下、前世的記憶)の段階に以降したように、〈大人〉/〈若者〉コード内で闘いつつも、コード体系そのものに馴染めない自己も黒沢清は敏感にかんじとる。

〈客観的な視点を持っているのが大人びていてよろしく、自分の妄想や知っている世界だけでやっているのが子どもじみていてよろしくないと普通言うけど、「本当にそうか?」というところでやってるつもり。区別がない、とは言い切れないんだけど、そういう大人・子どもの区別はやめたいと思ってる。〉

黒沢ホラーの商業的出発点であった『スウィートホーム』の原型となったシナリオは『心霊』なる題名で、その〈一番の狙いはダブルで幽霊を出すこと〉で、〈主人公のお父さんは、もとからいる幽霊と、(略)死んだ奥さんの亡霊の挟み打ちに遭〉うという、いわば〈白蛇的記憶〉と〈前世的記憶〉という異なるベクトルの恐怖客体が同一作品内に共存/偏在するという、驚くべき構造をもっていた。

最新作『叫』に存在する、よくみると歪に不均衡な姿で居心地悪げにある〈世界の記憶〉の恐怖と〈個人の記憶〉の恐怖は、シナリオ『心霊』と同様に、黒沢清の分裂し錯綜した作家性を示しているとおもう。73年以前と73年以後を同時に生きることは、〈ゴダール以後〉の代表的映画作家でもある黒沢清が透明なウェルメイドな物語映画を語ろうとしている二重性ともダブる。
「連帯する内部」が消滅した時代になお、〈世界の理/記憶〉(白蛇的記憶)を捏造し、それをあくまで個的な手触りで構築してゆくこと。ゆえに、黒沢清の映画からは、“主題”も“心理”も剥落してゆく。もはや共同幻想では有り得ない、相補的コードとしての〈世界の理〉は、とりあえずでっち上げられたものでしかないのだから、その映画の風景が廃墟そのものであるのは、必然なのでしょう。


theme : 日本映画
genre : 映画

映画『叫〈さけび〉』①

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『叫〈さけび〉』

(2006年、日本、104分)

監督・脚本:黒沢清
プロデューサー:一瀬隆重
出演:役所広司、小西真奈美、葉月里緒奈、伊原剛志、オダギリジョー、加瀬亮、平山広行、奥貫薫、中村育二、野村宏伸

刑事・吉岡(役所広司)の周囲で続発する殺人事件。被害者は皆、海水による溺死を遂げていた。そして被害者の周辺には自分の痕跡がかすかに見え隠れする。自分が犯人なのかと揺れる吉岡の前に、この世のものではない謎の赤い服の女(葉月里緒菜)が出現しはじめる‥。

1.

去年『LOFT』(06)公開時には、すでに次回公開待機作としてその名が広く知られていた『叫〈さけび〉』が、ついに公開されました。
前作『LOFT』は、あまりにも〈純・映画〉としての野心的な映画表現が孤高の域に達していて、結果、シネフィルや黒沢マニアにしか開かれていないようにみえる閉じかたで、観客不在の様相を呈していたように思います。いつもどおり、黒沢清監督は娯楽やサービスを心がけたとのたまうが、ホラーとしてもラブストーリーとしても、ストレートに恐怖や感動が観客に与えられたとは思えない。黒沢清擁護派がその恋愛映画ぶりをホメる恋愛映画的部分ですが、『LOFT』を恋愛映画としてスムーズに感動する人がいたとしても、それは幾分アブノーマルな反応で少数派にとどまり、大方の賛同も感動も呼び起こしてはおらず、困惑ばかりが反射されていた。優れた美点も多々有する『LOFT』ですが、相容れない細部のムリヤリな結合ぶりが、フランケンシュタインのように奇妙な継ぎ接ぎだらけの生命体としての不気味さを醸し出し、そのどんより澱んだ感じが映画の表情を決定し、『LOFT』という映画=運動体=生命体は、生きているのか死んでいるのか分からないような脈打ちかたで、描写は時に躍動し、時に空転する。『LOFT』が孕み、そして主題ともする要素
である生/死の中間性は勿論〈ミイラ〉のモチーフと重なるが、そこから派生し生成する要素群が独特すぎて、多くの観客をほんとうに中間性のただなかに宙吊りにしてしまったのは、ある意味狙いどおりだったとも、その様相が魅力だとも言えますが‥。

2.

さて、『LOFT』では泥吐きやミイラの甦りや奇妙な機械の作動ぶりといった細部が、脈絡を欠いた唐突さで一般の観客をおいてきぼりにしていましたが、『叫〈さけび〉』では一応、謎は整合性をもって回収され、娯楽映画としての形を成しています。たしか『ドッペルゲンガー』(03)公開時、対談で万田邦敏が黒沢清に対し、最近の黒沢映画が甘いのは抑圧が足りないんじゃないかと言って、黒沢清は抑圧なんかイラナイ!と突っぱねていたのでしたが、ホラーなり娯楽なりを一応真面目に目指しながらも奇妙なオブジェと化すほど暴走した『LOFT』とは対照的に、Jホラーのドン、一瀬隆重プロデューサーの抑圧下にあった本作はまがりなりにも商品のかたちをとっていて、ホレミロやはり抑圧は必要だったんじゃないかと言う声も聞こえてきそうな一方で、『LOFT』等の孤高を愛するファンからは、『叫〈さけび〉』は中途半端に世間に迎合した生ぬるい作品だと糾弾されかねない映画にもみえかねない面も有しています。

パッとみたところ、『叫〈さけび〉』はこれまでの黒沢映画の集大成的作品にみえます。手口が同一で犯人の異なる連続殺人事件、という筋立てや赤いドレスは『CURE キュア』(97)を思わせますし、幽霊+ミステリーは『降霊』(99)、飛び降りを着地までとらえるシーン等は『回路』(01)、失われた記憶は『ニンゲン合格』(99)ほか、そして登場人物に与えられた、“吉岡”の名。風は幾多の黒沢映画のそこここで吹いては髪を乱し、帽子を押さえさせる。やはり登場する数々の廃墟は、黒沢映画のトレードマークと言ってもいいでしょう。

それらの魅力的な細部が、これまで〈純粋運動機械〉としての〈映画〉を構成する唯物論的な諸要素として、そっけない素振りでひとつの映画作品をつくり上げていました。黒沢清監督は、〈時代〉も〈主題〉も〈知〉も〈感情〉も表象しようとせず、本人がのぞんでいるのかもしれない〈物語〉や〈娯楽〉さえも指向しない、反・意味的な〈運動としての映画〉を量産してきました。しかし『叫〈さけび〉』の一見突拍子もない細部は最終的には物語やサスペンスに奉仕/回収され、各々の部分は全体を指向する。かつてゴダールの『ヌーヴェル・ヴァーグ』について、そこには細部はなく、あるのは全体を構築するシステムだけだ、と論じた黒沢清が、『叫〈さけび〉』をそのような領域へと近づけて構築しようとしたとしても後退とはいえないでしょう。

『打鐘〈ジャン〉 男たちの激情』(94)を黒沢清の最高傑作とする意見に、納得する気持ちもなくはないらしい本人にとって、奇妙な細部の傑出は、マニアは喜ばせても自分の目指すところからしたら至らないだけ、という認識があるのではないでしょうか。90年代初頭、黒沢清の、こう撮りたい、こんなものを作りたいという欲望と衝動がつくりあげてきた映画が、世間の無視と黙殺にながらく晒される一方、周防正行は、無意識的な同時代的感性とは離れた立ち位置から、己の欲望と世間の欲望を一致させるというわざを成し、日本映画界の希望の星と化した。その影になるようにして、低予算プログラムピクチャー的世界に埋没していった黒沢清監督の孤独な姿は美しさを放ち、『地獄の警備員』(92)以降、『復讐』2部作(97)直前の作品群は、個人的にはもっとも愛する黒沢映画でした。
しかし『復讐』以降事態は一変する。『復讐 運命の訪問者』(97)の“誰がみたって大傑作”な佇まいは、黒沢清がついに己の欲望と世間の欲望の一致点をみつけた記念碑であると同時に、不気味な異物として絶望感と非解読性を発散させていた異形の作風に別れをつげる宣言ともとれて、併走し続けてきたファン(自分)には寂しい“幼年期の終わり”だった。かくして、黒沢清は〈世界のクロサワ〉となった。時折登場する異様な作品(『回路』等)に待ってましたと狂喜したりするのは、やはり間違いなんだと『叫〈さけび〉』は告げる。

3.

『回路』で観客の度肝をぬいた、一女性の高所からの飛び降り→地面に激突死、をワンカットで捉えるショットが、今作『叫〈さけび〉』でも繰り返されますが、既にそこにはあの衝撃的カタルシスはなく、中途半端に危険な高さからしょぼくれた中年男が飛び降り、中途半端に着地して死には至らないという、煮え切らない感触が残される。この飛び降りシーン、『回路』では突発的かつ突出し、衝撃と傷をフィルムに残して物語には関与しない、異物としての細部を形成していたのでしたが、『叫〈さけび〉』では鈍い音と擦過傷を世界に刻み、落ちた男はそのまま世界にとどまり、物語に参加し続ける。異様なシーンは異様なシーンのままにとどまらず、結果、異様な全体像を、世界像を形成し、“異様な映画”に結実する。“異様なシーンを含む映画”ではなく全体としての“異様な映画”が形成される営みを過小評価して済ませて、いいものかどうか。物語に奉仕しないことを殊更持ち上げれば済むと思うある種の美学にとらわれることは、何でもかんでも他者性がどうのと言って済ませていたある時期の批評家みたいに怠惰な態度でしょう。

それらが物語に回収されえたとしても尚、役所広司の飲むペットボトル、弁当を入れていたビニールの色、凶器のコードが収められたビニール袋の質感、小西真奈美が帰って玄関に鍵をかけるタイミングといったささいなことから、葉月里緒菜の動くスピードや黒い建物の位置とたたずまいまで、ワクワクするような豊かさに満ちた細部をもつ映画を、図式的な予想や思い込みで切り捨ててはならないと思います。

4.

新宿武蔵野館では上映前、相変わらず石井スポーツ、焼き肉の長春館、の化石みたいなCMが流れていました。新宿のローカル館で映画を観るよろこびの一つは、ご当地CMをみる喜びでもあります。これらに加えてかつては今は亡きサウナ・レインボーなんかのCMがあった。(エル・フラメンコのCMも最近みないな‥。「サウナ、レインボウ~~」の響きは、先ごろ三木聡監督『亀は意外と速く泳ぐ』でふせえりが完コピし、現在に蘇らせてました。)そういう俗っぽい郷愁も、映画観賞のおおきな要素だとおもう。

何が言いたいかというと、映画が地に足ついた俗っぽさを黒沢清が愛しているのに対し、ある種の黒沢ファンなりシネフィルが、修道院的雰囲気の知的磁場のなかで現実から遊離して映画と接するという遊戯に淫していて、両者間には違う方向のベクトルをもつことからくる、不幸なすれ違いがあるのではないかということで(『黒沢清の映画術』の、『CURE キュア』の項参照)、反・通俗の牙城として〈テアトル新宿〉があるとしたら、批評で語られてナンボなところのある青山真治はさしずめ〈テアトル新宿専門監督〉の様相を呈しています。〈ユーロスペース〉や〈シネセゾン渋谷〉の部類ではもちろんないけれども、ジャンクな客層が相手というわけでもないという幾分半端なポジションにある〈新宿武蔵野館〉で、その映画がたびたび上映されている黒沢清は、商業監督としての困難な位置にいることが、その上映館のポジションが示唆的にしめしているとおもう。殆ど最上のハリウッド映画のようだった『ドッペルゲンガー』が新宿武蔵野館で、多くの観客とすれ違ってしまった『LOFT』がテアトル新宿で公開、という事実からは、その立ち位置の困難さと過分な期待と誤解の交錯ぶりが伺えます。

黒沢清の世代は、焼き肉の長春館のCMの場末感と調和し拮抗する、そのような映画を撮る最期の世代だと感じる。それを感じる主体としての自分は、彼や彼らの世代にたいして、映画が通俗であるということが血肉としてあらかじめ魂に備わっている、最期の人類だという憧憬を抱いています。黒沢映画に頻出する廃墟の風景は、滅びゆく“娯楽としての映画”への、遠未来からの挽歌のようにして心に刺さる。あからさまなメタ映画だったりはしないのに、いつも“映画についての映画”にみえてしまう黒沢映画(の、憂鬱さ、黄昏感)。その最新、『叫〈さけび〉』において、〈記憶の忘却〉を主軸として物語が語られているのは、必然にもみえるのでした。

→『叫〈さけび〉』②につづく。

theme : 日本映画
genre : 映画

『殺し 井上義啓追悼本』

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『殺し 活字プロレスの哲人 井上義啓追悼本』

(『kamipro』編集部/エンターブレイン刊)

〈活字プロレス〉の祖にして第一人者だった井上義啓氏、通称・I編集長が昨年、2006年暮れに亡くなられました。奇しくも同じ2006年に休刊となり、その寿命を終えた『週刊ファイト』の名物編集長として、かつて活字プロレスの〈骨格を作り、ターザン山本!、金沢克彦など、『週刊プロレス』や『週刊ゴング』を支える人材〉を世に送り出し、プロレスの文化的隆盛に多大な功績をのこしたI編集長は、〈殺し〉〈底が丸見えの底なし沼〉〈バード〉など独特の井上語でもってプロレスを、近年では総合格闘技を妄想&愛情過多に語りつくし、ファンを虜にしていました。
晩年の活躍の場となった『紙プロ』ではキャラクターの面白さで取り沙汰されていた感もありますが、読者に愛されつづけた井上義啓の追悼本として、本書はその『紙プロ』(『kamipro』)のエンターブレインから出版されました。(仕事場のある高円寺では某サブカル本屋でも扱っておらず、会議の際に行った町田の書店でようやく購入。やっぱり高円寺はダメだ‥)

全体の4分の3を占めるI編集長じしんの原稿や発言は、過去『紙プロ』に掲載されたものからの採録が大部分ですが、去年の6月に行われた雑誌未掲載の喫茶店トークも収録。名物企画“喫茶店トーク”集のほかは、名高い“井上小説”も3編、携帯サイト用での連載(ここ数年、毎週月曜日になった瞬間に更新されるI編集長のコラムを読むことが、一週間の始まりを告げる、たいせつなリズムになっていました‥)も少数セレクトされて収録。インタビューのいきいきした語り口には圧倒的な生命エネルギーがあふれていて、晩年の言葉群とは思えない“今なお青春”な世界の謳歌ぶりに切なくなる。今から読むと、いわゆる“井上小説”は死後、黄泉からの手紙のように静かで色褪せて、哀しみがある。

金沢克彦、水道橋博士による、I編集長を優しく送り出す、追悼のエッセイを経て、通常の葬儀で、棺桶に生前好きだった物を入れてあげるように、本の末尾には“好きだったモノ”であるモンターニャ・シウバとアントニオ猪木のインタビューが添えられていて、編者の哀惜が滲む。猪木はI編集長が生涯かけて熱狂的に追い続けたプロレスラーであり、とにかく巨きな人が好きだった井上義啓が近年、とりわけ執心していた巨人がモンターニャ・シウバでした。

病に矢折れ力尽きたI編集長の、中断された最期の原稿の写真が掲載されていて、〈中西学、永田裕志〉の名をあげた次の行で文章は途絶えていました。最期の最期で行く末を憂いていたのは、結局新日本プロレスに関することがらだったのでしょうか‥。

どう考えても売れるわけない、こんな本を出版するという英断にたいして尊敬の念を抱きますが、どうせならこんな普通の単行本の体裁でなく、出来うる限りの文章を集めた巨大な書にしてもよかったんじゃないかとも思う。買うひとはどうせ五千円だって買うんだし‥。ひとりでも多くの読者に、広くI編集長のことを伝えたいということならば、現行の形ではなくて増刊号的なテイサイの、ムック形式のほうが適していたんじゃないかと思います。

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genre : 本・雑誌

『終章〈エピローグ〉』恋する日曜日第1シーズン⑰⑱

『恋する日曜日』第1シーズン第17話&第18話
『終章〈エピローグ〉』

監督:鈴木浩介
脚本:渡邊睦月
主題歌:CHAGE&ASKA
出演:坂井真紀、高橋和也、中山俊、久野真紀子

志穂(坂井真紀)は前の彼氏と残酷な別れかたをし、その時の傷心の傷痕が手首に残る。しかし今度の彼、ヒロム(高橋和也)は違う、絶対に私を裏切らない、と思いこむが‥。

この2話分のドラマ、すこし凝った構成で、前半では、坂井真紀主観で、高橋和也との恋の終わりが描かれます。ここでの高橋和也は、嘘ツキのダメ男として坂井真紀の前からフェイドアウトしていきますが、後半では一転、時間が遡り、ふたりの出逢いと、彼の宿すある秘密が明らかになり、驚くべき別れの真相があかされます。ひとつの物語が、前半は坂井目線、後半では高橋目線でなぞられて、同じひとつの恋のゆくえに別々の光をあてるというかたち。観ていないかたは何の予備知識もなくみたほうがいいんじゃないでしょうか。催涙効果のたかい、会心の一作だと思います。

テーマとしてあるのは、〈嘘〉と〈裏切り〉。そして、「かけがえがない」とおもった愛するひととの避けられぬ“別れ”に、いかに立ち向かうのか、ということ。愛する人が突然目の前から消えちゃうって、タマンナイよな‥。絶対私より先に死なないで‥。作中の台詞のひとつひとつが、物語全体を照射する。恋の成就が描かれるよりある意味、もっと、切実なテーマだと感じる。

そのドラマを支えるのは、主役の男女ふたりの佇まい。高橋和也は、まだ若いのに感情が皮膚化してのち角質化したように、感情が表面に表されるまえに乾いて相手に伝播しない、そういうたぐいの人生の苦渋の処理の仕方を顔面に刻んだ穏やかさを体現し、前半後半でのギャップを無理なくうめた。
坂井真紀の顔は目、鼻、唇といった各パーツがそれぞれ別個に茫洋と独立していゆそうな浮遊感があって、そこに精神のいたたまれないかんじが宿される。マイナスの依存心でもって、世界との繋がりを必死に掴もうともがく人間の哀しみがその存在感にはありました。
ふたりが束の間寄り添う場面では、女は男の胸元に鼻先をうずめ、男は女の頭に顔をあずける。動物が匂いによって相手を確認しあうような仕草が、ふたりの終わりのある恋の、現在しかない切なさに、ほんとうを与えていました。

監督の鈴木浩介は、第8話『FOR YOU』に引き続いての起用。ケータイ刑事シリーズなど、丹羽多聞アンドリウとの仕事も多い(制作プロデューサーをつとめた最新作が『ケータイ刑事THE MOVIE』(07))。映画、ドラマ、Vシネ、PV、CMなどノンジャンルに活躍する映像作家で、ユルめの作品が多いが硬質なタッチのものもこなす。映画では『HAPPY PEOPLE』(98)でデビュー、かすかに評価されました。代表的な作品は『BLOOD 狼血』(98)、『援助交際撲滅運動』シリーズ(01~)、『熱血!二代目商店街』シリーズ(99~)など。名前の雰囲気が佐々木浩久ににてますが(ジョン・シングルトンとジョン・マクノートンみたいに)、作風はまるっきりちがって佐々木監督よりはずっとノーマルな指向資質を有しているようです。

theme : テレビドラマ
genre : テレビ・ラジオ

『ウエディングベル』恋する日曜日第1シーズン①②

『恋する日曜日』第1シーズン第1話&第2話
『ウエディングベル』

監督:若松孝二
脚本:渡邊睦月
主題歌:シュガー
出演:星野真里、大沢樹生、来栖あつ子、目黒大樹、田中要次

BS-iで2003年から現在まで、断続的に製作されつづける人気シリーズとなった『恋する日曜日』、記念すべき第1シーズン開幕の第1話(&第2話)の演出をになう監督は、なんと若松孝二。最初にして最大の飛び道具。シリーズの方向性を決定づけるトップに若松孝二を持ってくる意図は不明ですが、観てみるとあんがいノーマルに手堅いつくりで、言われなければ監督名はわからないかも。以降の作品群では、タイトル&主題曲となる歌とあまり関係ない物語を語っているものも少なくないのが、若松『ウエディングベル』は“縛り”を律儀にキチンと守り、シュガーの『ウエディングベル』そのままの発端から物語をかたりだす。

星野真里と3年付き合っていた、仲睦まじかった章吾は、今まさに結婚式の主役として、星野とは違う女と祭壇の前で永遠の愛を誓おうとしている。くたばっちまえと律儀に歌詞を呟く星野は、花婿の誓いのキスを、花嫁から横取りする。騒然とする教会、逃げ去る星野真里の進む通路の先に、大沢樹生がフレームインする。
花嫁は専務の娘・久美だった。会社をクビになった星野真里のまえに新婦の意志を受けた弁護士の大沢樹生が現れて、700万の損害賠償等を請求してくる。章吾とつながっていたいために払いつづける星野に、大沢は婚約破棄で訴えれば損害賠償と相殺でチャラになるんじゃないかと橋のうえで諭す。しかし「あたし払う。絶対払いつづける」「取り上げないでよ‥たった一つの‥章吾とのつながり‥今のアタシはお金を払いつづけることでしか章吾と関わり続けれない」と彼女はそれを拒絶する。
じつは大沢も新婦の久美に叶わぬ愛を抱いて教会にいた、星野と同類の立場の男なのだった。俺たちってさ、意外とお似合いなんじゃないの。

かくして、星野と大沢の組み合わせにロマンスは移行する。星野と大沢がふたりで逢うシーンのほとんどが川辺で展開され、涙、雨とともに流れる液体を演出の基調として構成される。そうしてもっとも躍動しているとおもう場面は、恣意的すぎる雨が星野の住む部屋の窓をたたき、俺、雨の音好き、と言った元カレの言葉がよみがえり、すると来るはずのない元カレからの電話が部屋に響き、密約を求める彼の言葉に端を発して久美、そして星野真里と流涙が伝播する、“水”による語りに最大の充実をみる。

教会で始まり、出逢い、反発と共感ののちにラストふたたび教会で結ばれるふたり。演技も歌の入るタイミングも黴くさくて冴えませんが、無駄のない効率的な語り口は捨てがたく、写真の使い方も巧妙だとおもう。ふたりが恋愛に発展する感情の展開に無理はないけれども、もうふた山くらいないと正直盛り上がらないと思う。ともあれ、シリーズの“カセ”としての、歌と物語の関連性を見本品として提示した、という意味では、無難になされていると思います。

主演の星野真里は、子役から順当にキャリアを重ね、ドラマ『新・星の金貨』で全国的知名度を得た。先ごろは『さよならみどりちゃん』(05)で一躍有望な映画女優の仲間入りもしましたが、正直興味がなく魅力が分からない。『ウエディングベル』での彼女にも、ノるとっかかりが見つけられず苦心した。

大沢樹生は自分のなかでは及川中『日本製少年』(95)のおかげで、いちおう贔屓の俳優ということになっています。『ウエディングベル』のあと、また若松孝二とタッグを組んで『完全なる飼育 赤い殺意』(04)のメインキャストを務めました。

60年代から70年代にかけて、全共闘世代からの熱烈な支持を得ていた、いわば時代のスターだった若松孝二は問題作話題作を連打していたのでしたが、80年代、おそらく『スクラップ・ストーリー ある愛の物語』(84)あたりを境に、毒にも薬にもならない生あたたかい映画も(先鋭的な映画とともに)量産しだしました。『ウエディングベル』もその路線(代表作『寝取られ宗介』)で捉えられるもので、問題作路線だと無技巧に近いタッチのものが多いのに、このテのものでは意外なテクニシャンぶりを発揮するのが不思議だ。

theme : テレビドラマ
genre : テレビ・ラジオ

映画『アキハバラ@DEEP』

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『アキハバラ@DEEP』

(2006年、日本、119分)

監督:源孝志
原作:石田衣良
出演:成宮寛貴、山田優、忍成修吾、荒川良々、三浦春馬、佐々木蔵之介、寺島しのぶ、萩原聖人

〈ユウのライフガード〉というホームページをきっかけに知り合った、一癖あるオタクたち。彼らは秋葉原に事務所を構え、〈アキハバラ@DEEP〉なる会社を設立する。やがて、彼らの開発した新型検索エンジンに大企業の魔の手が‥。

石田衣良のくだらない小説の映画化。マンガ化、ドラマ化、そして映画化とメディアミックス展開したこの作品ですが、他のメディアミックス展開された〈商品〉としての〈物語〉群と同様に、物語構造はたいへん古くさく、最先端というわけでもない適度な時代的適合性を帯びた設定をもつ。異なる特性をもったマイノリティの軍団(弱者)が上位の権力者(強者)を倒す(もしくは、懲らしめる)という猿蟹合戦パターンで、オタク版『七人の侍』をいち早くやった映画『7人のおたく』と一体何が違うのか、あるいは石田衣良自身のIWGPシリーズあたりと何がどう異なってるのか理解に苦しむ。
勿論あの石田衣良が“オタク”にも“アキバ”にも格別の愛情を抱いているわけがないのだから、この小説がそれらをテキトーに利用して器用に料理しただけのものになっているのは必然。別に、〈アキバ〉でなくても〈オタク〉でなくても成立するお話。だから映像化でもアキバとは縁遠そうな源孝志(映画版)なりオフィスクレッシェンドの大根仁(ドラマ版)なりの監督が、なんの気負いもなくオシャレに映像処理して一丁あがり、としても後ろめたくもならない、そうした〈軽さ〉が『アキハバラ@DEEP』にある。その〈軽さ〉は、質的には欠点である一方、メディアミックス的には長所だともいえる。
〈軽さ〉とは、必然性や固有性の薄さに由来し、異メディア間での互換性の高さを召喚する。“異形の傑作”と賞されるようなタイヘンな作品を、誰が多メディア展開しようとするでしょうか。

ということで、この映画版『アキハバラ@DEEP』も、極めて低いハードル設定と低い期待感を帯びて生まれ、飄々と“ほどほど”の表情を浮かべています。2時間のあいだ、ほどほど楽しめたらオッケーで、仮に感動したとしても、その感動を10年も20年も引きずるようには出来ていない。そもそもジャンルが違うのだとおもう。

映画版では〈アキハバラ@DEEP〉のメンバーは6人から5人に改められ、よりシンプルに観やすくなり、山崎邦正、田口浩正、博多華丸、田口トモロヲ、森本レオなど、出ても出なくてもいい“良く知った顔”の登場で退屈は紛らせられる。原作同様、オタクのリアリティなど知ったことか、とばかりにメンバーに成宮、忍成、三浦とイケメンが揃い、髪型だって清潔なカッコイイもの。言われなきゃオタクだと分からないような面々がキレイに演じてフィクションを織り成す。ドラマ版では小阪由佳(納得)が演じた役も、映画版では萌えのカケラもない山田優を配置。男子オタク受けしそうな要素を極力排して、マイルドに一般層に吸収、かくしてオタク文化をDQNの圧政下に置く作業がまたひとつ進行した。

通り一辺のオタク理解を体現するのが、成宮君の演技設計。こういうハートのない紋切り型のオタク像に心底ウンザリしてます。それに比べて忍成修吾は、ベタに潔癖症のオタクを演じているだけなのですが、体の反射、目の動き、言葉の響きのバリエーションが素晴らしく、こんな世界観にもほんとうを与える恐るべき才能を示す。山田優はリアリティとは関係なく、キックとパンチのキレが物凄くて、単純にほれぼれした。

theme : 邦画
genre : 映画

『SIGHT』春号

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『SIGHT』2007年春号

渋谷陽一責任編集の季刊『SIGHT』、今号の特集は“鬱”。
すこしまえの『ユリイカ』でも鬱を特集した号がありましたが、これはユリイカのことなので書き手も読み手も自分の頭の良さをアピールするためだけにあるような醜悪なものでしたが、『SIGHT』ではそういう初歩的な罠にはまらず、まず〈“うつ”をめぐる状況は、まだまだそのリアルが伝わりにくいところにある〉と現状認識したうえで、賢しげに〈一定のメッセージを提示するより〉も〈まず読者の皆さんに伝えたい〉と考える。読者のレベルを低く見積もるぶん高く跳べなくなるのは周知のうえで、こんなもんでいいだろうと流すのでもなく、真摯にスタンスを探る態度に好感を抱く。個人的なことですが、ごくごく近しい人間が長く鬱を患っていて悩まされていて、とても他人事じゃない。鬱の主体者じしんの持つ偏見が、治癒を遠ざけているという状況の把握が特集の方向性を決めていて、近しい例を鑑みるにナルホドと思う。

〈誰にも聞けない、鬱のリアル〉と題されたこの特集は実に100頁もあって、知らずに病んでしまっているひとの足を病院までのばさせようという熱気がある。『SIGHT』の熱気って、いつもなんかいい湯加減的に微かにぬるくて、そこに可読性があるとおもう。宮台真司や泉麻人も登場しているので、鬱に興味ないひとでも読み通せる工夫があります。

映画ファン的には、北野武の連続インタビューは立ち読みで毎回フォローするという類いの扱いでしょうか。表紙に書いてないので見落としがちですが『硫黄島からの手紙』についての小特集アリ(“アメリカは『硫黄島からの手紙』をどう観たか”)。

theme : 雑誌(既刊~新創刊)
genre : 本・雑誌

『プリズン・ブレイク  シーズン1』

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『プリズン・ブレイク  シーズン1』
(20世紀フォックス)

製作総指揮:ブレット・ラトナー
出演:ウェントワース・ミラー、ドミニック・パーセル、ロビー・タニー、サラ・ウェイン・キャリーズ、ピーター・ストーマー、ステイシー・キーチ

最近やっと『プリズン・ブレイク シーズン1』を観おえました。一度、途中で挫折して放棄していたのを、ひとから熱心に勧められたので奮起して再チャレンジ、無事に最後までたどり着いたことに、とりあえずホッとしています。

現在、日本における3大人気海外ドラマとされるのが、『24』、『LOST』、そして、『プリズン・ブレイク』。『24』はシーズンⅤまで、『LOST』も最近リリースのはじまったシーズン2を追っかけている一方、『プリズン・ブレイク』だけ大幅に停滞していました。今は観終えて満足感がありますが、当初の抵抗感というか躓き具合には半端じゃないものがありました‥。

映画では、古くはベッケル『穴』ブレッソン『抵抗』から、新しくは(?)ドン・シーゲル『アルカトラズからの脱出』まで、映画の脱獄モノにはこれまでにも名作傑作佳作が目白押しで、変則モノまで含めればちょっとした歴史のある立派な一大ジャンルだし、近年、刑務所内の勢力争いが濃密で圧倒的なリアリティで描かれたミッチェル・スミスの長編小説、『ストーン・シティ』(じつは苦手)なんてのもありましたし、そうした状況下でこの『プリズン・ブレイク』、どれほどのもんかよ、どーせイケメン売りなんでしょ、と構えた気持ちで観はじめたのもマイナスに作用した。
加えて、主人公マイケル・スコフィールドがとてもIQ200には見えない。自分が設計に関わった刑務所の見取り図くらい、体中に書かなくても暗記出来るでしょうよ!と、そもそもの主人公の設定である〈天才〉という属性自体に疑念をもつ。彼の計画は、いちいち些細なことで頓挫したり実行困難に陥ったりして、その浅はかさはとても天才の御業とは思えない。

それはいいとするにしても、物語(脱獄計画)を転がすパターンが一定で、しかもその転がし方に難を感じていたのでした。大体、物事は以下のように展開します。

①スコフィールドが計画し、
②皆で地道な下準備や実行
③その途中で、ままならない邪魔が入る
④「なんとか他の選択肢はないのか?」と他の仲間がきくと、「これ以外方法はない」と断言するスコフィールド。
⑤そこは乗り切るが結局、最終的にはダメになる。そこで、新たな手段を思いつく。(→①にもどる)

④で「これ以外方法はない」とか「それが手に入らなければ計画実行は不可能だ」とか言って散々煽っといて、いざ頓挫してサスペンスが尽きると次の手段が出現。他のテもあったんじゃん!“天才”で首謀者のマイケルがそれしかないって言ったのに!このあたり、サスペンスを盛り上げるためにそう言わせてるんでしょうが、(まだ他にあるのに)それしか思いつかないというのはマイケルの天才性にますます疑問符がつくから、宜しくないやり口だと感じる。

他にも、ノンストップのサスペンスを目論んでか、物語展開と無縁なサスペンス(秘密の作業している場所に、看守がどーでもいい話しにくるとか)をガンガン詰め込んで、かえって安っぽい作りにしてしまっているとか、問題は色々感じつつも、後半に入ると俄然、とつぜんのようにして面白くなり始める。

主人公マイケルのパーソナリティに〈弱っている、困っているひとをほっとけない〉という項目が突如として明文化して付け加えられ、マイケルの“天才なだけでない、欠陥ぶり=人間ぽさ”という側面により、脱獄の計画の“揺れ”に自然なサスペンスが生まれたうえに、ようやく主人公に血が通いだす。そうすると、それまでにきっちりキャラ立ちしていたスクレやティーバックらとのパワーバランスのたゆたいも、なんだか面白くなってきました。
アブルッチの復活や父親の出現にはじまる、終盤のたたみかける展開の推移は、タダでは済まないとんでもない事態の連続で、イケイケだったころの船戸与一の小説のように目が離せなくなる。最期は怒涛のようなスピードで観おわりました。

さて、脱獄したはいいものの、頼みの綱の飛行機を失い途方に暮れ、とりあえずあてもなく逃げる脱獄犯たちの姿がロングでとらえられて、シーズン1は終わりました。シーズン2の予告をみると、脱獄した囚人たちがあてもなく右往左往逃げ惑うお話のようで、伊藤俊也・梶芽衣子コンビのさそりシリーズ2作目、『女囚さそり 第41雑居房』(72)みたいな案配だと思った。“さそり”も、元はといえばハメられて刑務所まで堕ちて復讐を誓ったわけですし‥。とすると、シーズン1は第1作『女囚701号 さそり』(72)で、後にくるだろうシーズン3は第3作、『女囚さそり けもの部屋』(73)のように、マイケル・スコフィールドは大都会ニューヨークを都市伝説のごとくさまようことになるのかも知れません。

theme : ★海外ドラマ★
genre : テレビ・ラジオ

『シネマの記憶喪失』

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阿部和重・中原昌也『シネマの記憶喪失』
(2007年刊/文藝春秋)


本書は、2005年から2006年まで純文学誌『文學界』で連載されていた、付け焼き刃でない、バリバリのシネフィルである小説家、阿部和重中原昌也の、対談形式の映画時評が一冊の書物にまとめられたものです。
『文學界』の映画時評枠は、この前は阿部和重単体(『映画覚書vol.1』に収録)のものだったのが、この阿部/中原『シネマの記憶喪失』にうつり、現在は中原昌也がピンで『映画の頭脳破壊』を連載中。じわじわと阿部和重が追い出されて中原昌也を据えた、みたいな図ですが、どうやらこれは阿部氏の事情らしく、今年は映画批評家業は放棄して小説家業に専念するようです。今年の『群像』1月号から連載がはじまった『ピストルズ』は、『シンセミア』に劣らない画期的な大作になる予定なんだと思います。

中原昌也と阿部和重、小説家としてどちらを上位におくか、好みや小説観によってわかれるところかもしれませんが、こと映画批評家としての資質に関しては、中原昌也が圧倒的に上だとおもう。阿部和重じしんも『映画覚書』の連載で、つくづく映画批評家としての才能のなさに嫌気がさしたのではないか、とたいした根拠もなく思う。

阿部和重の時評は、疑似ドキュメンタリー問題に拘りがあり、そのテーマにリンクした作品を論じる時は熱を帯びるが、それ以外、大部分の映画について触れた文章では、クリエイターらしく秀でている武器である、構造分析力(殆どの映画評論家を名乗る人々に欠けている資質だから、それだけでも凡百の評論家を軽く凌ぐ)頼みのごく大人しいもので、正確を期して手堅く息苦しく乗りきっている感があった。あくまでも、間違いはおかさないようにという、聡明な慎重さは美点でもあるけれども、“小説家”としてはもう少し無責任な放言を繰り出してもいいんじゃないかという不満が残る。聡明な悪趣味さを作風として選択できる小説家・阿部和重ともあろう者が、映画批評の場では妙に大人しいのは読者として残念で、〈阿部和重〉にしか書けない〈阿部和重〉の批評だからこそ読める、そういうたぐいのものを読みたいとおもう。だから『映画覚書』で異様に突出するのは、ゴマキのコンサートに触れたときだったりする。

このひとの映画評を読むと、いつも何か元気がなくなる。しゃっちょこばってるひとを見ると疲れる、みたいなかんじ。そんな阿部和重と、無責任な放言が案外的をついたりする中原昌也の対談、という組み合わせはお互いマイルドになってけっこう普遍的な読み心地。
(じつは連載時ほとんど(数回くらいしか)読んでませんでした(映画を観るまえはなるべく情報をシャットアウトするので、観たあとだともう『文學界』は次の号になってたりする)ので、はじめて読むようなものでした(『ミュンヘン』の回、『宇宙戦争』の回、『LOFT』の回あたりは連載時に読んでた)。通読して面白くかんじたのは『ライフ・アクアティック』の回や『ヒストリー・オブ・バイオレンス』の回など。傑作だとおもった『ヒストリー~』をイイと言うひとが周りにいなくて、孤独な思いをしていたので、きちんと語られていてうれしかった。国でいうと、アメリカ映画については読みも造詣も深い一方、なぜか日本映画やフランス映画については読みが今一つ浅いのが残念。)

読み違えず、かつ紋切り型にならないようにも気をつけながら映画に“言葉”で接していくのが阿部和重なのに対して、中原昌也は(言葉でなくて)“人格”で直に接してゆく。〈中原 ヴェンダースは何を考えて映画を作ってるのか、どこに映画の完成を求めているか、いつも謎ですね。そもそも、自分が作った映画がどんなものか分かっているのか、まずそれを問いたい気がする〉なんて、バカだと思われたくない阿部和重や青山真治には言えないセリフで、それがまた何気にヴェンダース映画の核を掴んでいるようにみえるのが侮れない。〈野蛮〉を現代日本で体現出来ている、希有な存在だ。

『シネマの記憶喪失』は、自身らもクリエイターである者達による映画論として、映画というジャンルを原理的に探究する傾向のある精神の持ち主にはある程度有益な書物だけれど、映画をあくまでも“共感主義”でしか観ることをしないある種の観客層(読者層?そもそもそういう人たちは本など読まないかも‥)には徹底して無縁の本だし、そもそもそこへ届かせようとしてもいないようにみえる。そのことが、この本を織り成す文章群を、内輪に閉じ澱んだ、鮮度の低いものに感じさせていると思う。

2月、本書刊行を記念して、吉祥寺バウスシアターで例の爆音上映がオールナイトで行われました。そこでは阿部/中原トークショーのほか、ホウ・シャオシエン『憂鬱な楽園』ペキンパー『ガルシアの首』スコリモフスキー『ザ・シャウト』などが上映されました。(『シネマの記憶喪失』と直接関係ないセレクトが素晴らしいと思います。)そして、本書『シネマの~』にも度々ゲストとして登場した、二人の朋友である青山真治監督の『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』が4月にやはりバウスシアターでの爆音上映が決定!!テアトル新宿で観たときも、かなりの爆音上映ぶりだと思いましたが、これが爆音の本場・吉祥寺バウスシアターでの観賞だといったいどうなるのか‥。DVDで観たりしてもしょうがない映画なので、この機会に多くのかたに観られたらいいと願っています。

theme : 本の紹介
genre : 本・雑誌

『オトシモノ』

オトシモノ




『オトシモノ』

(2006年、日本、94分)

監督・脚本:古澤健
出演:沢尻エリカ、若槻千夏、小栗旬、杉本彩、板尾創路、浅田美代子

駅のホームで定期券を拾った少年が消えた。少年は、沢尻エリカの妹の同級生だった。やがて、同じく“オトシモノ”の定期券を拾った妹が消えた。沢尻エリカは事態の究明に乗り出すが‥。

DVDで観賞。公開時、どうにかして映画館でみたいと思っていたのだけれど、今となっては何をこの映画に期待していたのかサッパリ思い出せない。黒沢清の映画に関わり、『ロスト★マイウェイ』(04)を撮った、映画美学校出身の古澤健が大メジャーでホラーに挑んだという点に興味をひかれたのだったか‥。

松竹のマークに、予算の比較的余裕のあるホラー、という珍妙で希少な映画ですが、観ているうち、過去のさまざまな映画の手法をイタダキ、ただ使ってるというかんじに、すっかり萎えてしまう。Jホラーの凄さは、ホラー表現の歴史を踏まえてそれを常に刷新しつづける作業によって豊かになってきたのではなかったか‥。カットが変わると人影が近くに出現、振り返るとカットが切り替わり誰もいない、とか頻繁に出てきますが、そういうテはもう食傷ぎみ‥。

冒頭、ホームで定期券を拾う手のショットから、カメラがポンと引いてロングぎみに少年とホームをとらえたのをみてオッと思ったのも束の間、そのあと列車内から少年が引きずり出されるまでのやり口は韓国ホラーみたいで(悪口)、げっそりする。カットが変わったら突然何かが起こってる、という積み重ねが、ある種の逃げにみえてしまう。

妹の同級生の少年の家を訪ねる沢尻エリカ。そんな薄い関係性で、返事がないからってズカズカ家にあがっていく神経が信じられん。それですごく小さい声でどなたかいらっしゃいませんか‥とか言って侵入するなんて、空き巣じゃないんだから‥あまつさえ、勝手に人んちのベランダまで入り込んだ挙げ句、呪怨な子と遭遇‥って知ったことか!

リアリティからズンと離れた終盤の展開、地底トンネル巡りの、トビー・フーパー・ライドな感じには、心惹かれるものがなくもなかったのですが、すでにそれまでの展開で散々興味が擦り切れていて、良い反応を自分の精神が示すことはなかった。通常の、ホラーならではのフィルムの質感に乏しかったのも、世界観が峻立して迫ってこなかった一因でしょうか‥。

theme : ホラー
genre : 映画

『空に近い週末』恋する日曜日第1シーズン⑨

『恋する日曜日』第1シーズン第9話
『空に近い週末』

(BS-i、2003年6月1日放映)

監督:利重剛
脚本:福田裕子
主題歌:今井美樹
出演:小山田サユリ、奥野ミカ、鈴木卓爾

利重剛というと、現在は監督よりも俳優としての顔のほうが比率がたかいひとになってますが、かつては新人映画監督として将来を見込まれたひとでもありました。個人的には第1作目の『ZAZIE』(89)以外買ってませんが、ある時代のある時期、次世代を担う旗手になるんじゃないかという空気が、かすかに無くもなかった。
利重剛は、いつも同じ歌を歌っているというかんじがする。作品の中心には空虚な存在があり、それを巡って幻想やら風聞やら、が虚構の中心を(とりあえず)補填しつくりだすが、結晶化したそれは実体と常にズレている、という主題だ。だからだいたい彼の作品は群像劇のような体裁をもち、彼ら彼女らがその中心の空虚に向けて照射するそれぞれに異なる願望や思いこみが、多面的に中心物を形成する。
出世作『BeRLiN』(95)は、失踪した女性をテレビドキュメンタリー制作スタッフたちやデークラ通いのサラリーマンらが断片的な事柄を頼りに探す話だし、『エレファントソング』(94)は死者という“空無な存在”との約束に従って(縛られて)行動を起こす複数人の物語。『ZAZIE』での空虚の中心は帰ってきた“伝説のロックンローラー”で、周囲の期待と夢とは裏腹に彼はなにも行動しないというズレが生じ、軋轢をうむ。ボリス・ヴィアン『うたかたの日々』をベースにした『クロエ』(01)の〈不在の中心〉は勿論、肺に睡蓮が咲くという奇病を宿した妻の中心にある“解読不可能性”だ。

さて、この『空に近い週末』でも、中心はあらかじめ主人公から奪われていますし、そのあらかじめ失われた中心の存在のじっさいは、謎を追う主人公の認識とは違うものがある、という図式は踏襲されています。亡くなった夫。遺された妻。妻は、その生前、知り尽くしていたと思っていた夫の意外な顔を知り、心揺れる‥。

部屋を片づける京子(小山田サユリ)。夫を亡くし、四十九日も終わった。夫の好きだった、星ぼしに関する趣味の品々の数々、星の本や望遠鏡などが部屋にあふれ、彼の記憶がまといつき、染みついたこの部屋を思い切って引っ越そうともおもう彼女。そこで発見する、夫が〈滝沢うらら〉なる女性に書き、出されなかった熱烈な恋文。星々の世界に夢中で、他の女性がどうのというタイプにはとても見えなかったダンナ(鈴木卓爾)の意外な一面を知り、戸惑いを覚えると同時に、このひと、私と居て本当に楽しいのかな‥と常々不安に思っていた小山田サユリには、その秘めた“おもい”は早すぎる死を迎えてしまった夫の生にかすかな希望を与えるものでもあるように感じたのだった。

夫の職場にあった遺品のなかに図書館から借りっぱなしだった本があったので、京子はその本を返しに行く。そこで受付の愛想ない女の胸元、〈滝沢〉のネームプレートに目をとめた京子/小山田サユリは、帰りかけるその女に滝沢うららさんですか?と尋ね、確証を得るとお食事いかがですか?と重ねて誘うが気味悪がられて去られてしまう。

古びた喫茶店で食事をする滝沢うらら(奥野ミカ)、尾行してきた小山田が真後ろの席からじっと観察しているので気になってしょうがない。何ですか?根負けするように合流して話をすることになるふたり。小山田はショートカット、細い肢体、顔立ちを形成するパーツがいちいち可愛らしく小さい造作で透明感があり、細くクリアな声の持ち主であるのに対して、うらら/奥野ミカは派手な顔立ちで脱色した髪にも服装にもどこか雑駁なスキがありガラッパチな声音と対照的だ。

亡くした夫が他の女に気があるという手紙をみてその当該の女に会っておきながら、憎むでもなく最終的には意気投合までしてしまう奇妙な会話の成りゆきがなんだかユーモラスだ。そして物語の舞台となる空間には、川辺の冷たい風が吹きすさぶ音に鳥の声、遠くから小さくしかし良く澄んで通る町のざわめきが聞こえ、かえって静謐さを強調し、孤独とカラッと乾いた明るさも示す。冷たさと暖かさ、悲しみと喜びが混じりあい、近代的で無機質な建造物と古き良き味わいある建物の肌触りが同時に感じられる世界。
一言で言って、小春日和のような映画(ドラマ)。
過去(冬)への後ろ向きな停滞に、いつの間にか未来性の光が眩しく差し込む(春)。
この作品のザワザワした落ち着かない感じと平穏な幸福感の混在はそんな未来性からくるようにみえる。(ザワザワ落ち着かないのは、つまり中心の空虚感からくる。中心、ひとの心を形成する核には、いつでも〈過去〉があるはずなのだ。)

私、金森です、金森周平の妻です。ご存知ないですか?ぜんぜん。夫のラブレターを滝沢うららに渡そうとするがうららはキモいと抵抗する。小山田は必死に説得する、大丈夫です、死んでますから、金森くん(京子は夫のことを“金森くん”と呼ぶ)。金森くんをこんなにときめかせる人はどんな人なのか知りたかったんだと訴える。

腹たってんでしょ?と訝るうららに、どうして腹が立つんですか?と彼女は邪気無くこたえる。手紙を読ませてもらうが思い出せないうららは、妻のために図書館に戻り貸出本リストをプリントアウトしてくる。宇宙の本ばっかですね。そのリストのなかに、一つだけ異質な題名が見つかる。『枕草子』。「金森くんと清少納言?」と虚を突かれる小山田、あ!とそこで“金森くん”との馴れ初め(?)を思い出すうらら。星や宇宙関係の本を探して、彼がカウンターのうららに尋ねにきた時、彼のまくしたてるチンプンカンプンな言葉に困惑していた彼女は、彼の言う対象が昴であることに気づき、文系オンチの彼に一矢報いた。

〈星は、すばる。ひこぼし。ゆふづつ。よばひ星、すこしをかし。尾だになからましかば、まいて。〉

知らないことを引用されたことに触発された彼は、『枕草子』を手に取ったのだった。「それで金森くんあなたのこと好きになったんだ。残念だなあ。こんなに早く死ぬとわかってたら、あたしなんかといるより、もっと情熱的な恋をさせてあげたかった。」実は、小山田は彼に離婚届けを渡したことがあった。私はいいけど、あの人は私と居てもツマラナイのじゃないか‥とどこまでも卑屈な小山田‥

なんでそんなに自分に自信がないの?
私に子供が作れないことが関係してるのかも知れない。

離婚届を、長い間に何が起こるかわからないからと理由づけて彼に渡したとき、僕らにとって、これはありがたきものだね、そう彼が言ったと小山田が告げたとき、滝沢うららは彼女が(ありがたきもの=ありがたい)と誤解していることに気づき、図書館へ彼女を連れて行って『枕草子』を示した。

〈ありがたきもの。舅にほめらるる婿。また、姑に思はるる嫁の君。毛のよく抜くるしろがねの毛抜。主そしらぬ従者。〉

妻・京子にたいして、ふたり離婚することは、ありがたきもの=滅多にないものだと、夫は言ったのだった。

「ふたりが別れるなんて考えられないって、
つまり、生涯、あなたを愛し続けるって。
そう告白したんですよ。
京子さん。
京子さん、ぜんぜんつまんなくないですよ。
面白いです、すごく。
友だちになりたいくらいです。」

泣き崩れる小山田サユリ。三度観ましたが、三度とも自分もこの奥野ミカのセリフの後半部分で涙が出た。


小山田サユリは、天の夫に手紙を送る。

《前略、金森周平さま。
久しぶりにあなたと手をつなぎたくなりました。
あなたと美味しいごはんを食べたくなりました。
あなたに、口づけしたくなりました。
とても、とても、あなたに会いたくなりました。
あなたのことが、大すきです。
このラブレターが、星々のあいだをくぐり抜け、どうか、あなたのもとに届きますように。》

風の音、川の音。小山田サユリの視界の奥を、飛行機が空へとのぼってゆく。遠くまで響く音は、室内でも屋外でも、そこより外へ外へと広がりゆく空間を感じさせ、乾いた大気は、空高く突き抜けて宇宙までの空間を無媒介に感知させる。秀作だとおもった。

(ただ、発端となる滝沢うらら宛のラブレターを彼が書いたことと物語の結論が合致しない気もする。一応、手紙は本心からのものじゃなく書いてみたかっただけなんじゃないかという解釈が示されるが、まったく納得がいかない‥。)

主演の小山田サユリは『恋する日曜日』とは縁深い人物で、本シリーズに何度も登場しているほか、派生シリーズである『恋する日曜日 ニュータイプ』、『文學の唄 恋する日曜日』などのシリーズにも顔を出している(前出映画版『恋する日曜日』にも出演)。透明感があっておとなしめなイメージは、永作博美とか鳥越マリ(ふる)とかそんな系統にみえますが、それよりはもうすこし計算高くない部類の、地方都市発の文化系女子といった趣で、出演作の選びかた共々好感度が高い。都会派ともいわれる廣木隆一や、似たような空気感がなくもない利重剛の映画に似合う存在感があります。(それに比して永作らは廣木隆一映画には似合わない、そんな違いがあると思います。小山田サユリは廣木作品では『東京ゴミ女』『君が僕を知っている』『新居~ひと我を非情の作家と呼ぶ』に出演。)
夫役で一瞬出演の鈴木卓爾(ピンク映画やインディーズぽい映画で活躍)とは『ボディドロップアスファルト』(00)で共演。その鈴木卓爾は、奥野ミカとはかつて、今作の監督である利重剛の『クロエ』で共演していました。

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『ボディドロップアスファルト』の小山田サユリ

theme : テレビドラマ
genre : テレビ・ラジオ

『Invitation』3月号

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先日、『Invitation』3月号を購入。

コンセプトやポリシーは今一つよくわからないカルチャー雑誌なんですが、最近よくある、コジャレたフンイキで邦画もとりあげたりするカルチャー/サブカル雑誌のひとつで、興味ある企画のときだけ立ち読みで読んで済ませていましたが、今回は黒沢清監督、小西真奈美、葉月里緒奈『叫〈さけび〉』トリオのインタビューが載ってるから買いました。
(と認識しているのだけれど、本当のほんとうの本心は、野村浩司による広末涼子のグラビア目当てなのかもしれないとも思う。過去10年間の、『ボム』その他での自分の発言に、現在のヒロスエがツッコミを入れる『バブルへGO!!タイムマシンはドラム式』にひっかけた企画アリ。)

本特集は〈ココロもカラダも露わにした女優たち〉とやや品なく題され、前述『叫〈さけび〉』『バブルへGO!!タイムマシンはドラム式』のほかに、幾つかの〈女優/映画〉がピックアップされています。
『さくらん』土屋アンナ、木村佳乃、菅野美穂『バベル』菊地凛子『蟲師』蒼井優『アルゼンチンババア』堀北真希『神童』成海璃子『口裂け女』『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』サトエリ『アンフェアthe move』篠原涼子『となり町戦争』原田知世‥などの女優/映画についての、軽~いインタビューやテクストがグラビアに付属する。全体、食い足りない記事が多かった。

ここで紹介されている女優映画、公開済みのもこれから公開のやつもどれひとつ観てませんが、『叫〈さけび〉』を除いたら、まず注目しているのは『神童』です。ドラマ『のだめカンタービレ』の向こうを張る音楽マンガ原作で、長年山下敦弘とコンビを組む脚本家・向井康介が挑む。山下監督と正反対にかっちりした『帰郷』萩生田宏治監督とのコラボがどんな映画をうんでいるのか、興味津々。『口裂け女』も白石晃士だということで面白いかもーと思ってる。大注目、井口奈己の新作『人のセックスを笑うな』は来年公開だそうで、まだまだ先だ‥。

堀北真希出演映画でいえば『アルゼンチンババア』じゃなく、BS-iドラマ班のドン・丹羽多聞アンドリウがまた仕掛けた『恋する日曜日』の映画版第2弾(『恋する日曜日 私。恋した』)に注目しています。廣木隆一がどんな堀北真希をひきだすか?去年の堀北さんは、映画もドラマも微妙なものが多くて停滞感があったから尚更。

個人的意見に過ぎませんが同じく去年はふるわなかった蒼井優。世間的評価では躍進の年だったのでしょうが、『ハチクロ』の彼女も『フラガール』の彼女も『Dr.コトー』の彼女もそうとう厳しかったとおもう。おかげで、ながらく蒼井優が出演してたら何でも観る派だったのが、この1年でそんなでもなくなった。大友克洋の最新作は、すこしだけ期待しています。アニメの方はかなり微妙な大友克洋ですが、実写でやった『ワールドアパートメントホラー』はちょっと良かった記憶が残っているということがあっての、もしかしたらという儚い期待。

どちらにしても、ここでリストアップされている女優さんたは、メジャーすぎて、映画女優というよりはタレントさん。独自のセレクトで批評性を出す気など毛頭なく、部数を売れば良くて、女優をめぐる言説を更新しようという気概が編集に感じられないのが残念。

全体、企画が弱くて執筆者のセレクトは悪くない。よって誌面の出来不出来もカラーもコラムや記事の執筆者次第という情けなさが漂い、これじゃぴあなんかと大差ないなと思って読んでたらこの雑誌、ぴあから出ていた‥。

現在日本映画最前線の映画について、頻繁に文章を発表しつづけている批評家(?)の名前として、森直人と相田冬二のふたりの名を最もよく見かける気がする。森直人はなかなか面白いのですが、相田冬二は文章も論旨も貧弱でしばしイラつく。この『Invitation』ではやたらと相田冬二の文章が多くてウンザリさせられた。目を通した限りでは、『それでもボクはやってない』について書かれた文章のなかで、森直人のものはかなり上位のものだと思いましたが、本誌での相田冬二の『それボク』論は最悪な唾棄すべき下らないもの。カイエ・ジャポン一派よりも遙かにハスミの完全コピー文体で、「事件」は法廷で捏造される可視化しえぬものとか言って、バカじゃないのかとおもう。

読んでよかったコラムは斉藤守彦『映画経済スタジアム』。新宿地区にオープンしたシネコン〈新宿バルト9〉にを巡る、経済的データを駆使した論考が読み甲斐がある。10年前に比べて、新宿地区が興行収入の市場占有率シェアを3分の1以下に減らした現在の環境下で登場したバルト9は、40億円と言われる新宿マーケットで興収20億円を目指すというが、その戦略と成否は果たして‥?というもの。自分もほんとうは近所のシネコンなんかじゃなく、新宿とかで映画をみたいけど‥。

theme : 日本映画
genre : 映画

『それでもボクはやってない』

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『それでもボクはやってない』

(2007年、日本、143分)

監督・脚本:周防正行
出演:加瀬亮、役所広司、瀬戸朝香、山本耕史、
もたいまさこ、 田中哲司、 小日向文世、
光石研、尾美としのり、高橋長英、
大森南朋、鈴木蘭々、唯野未歩子

就活中の青年(加瀬亮)は、面接に向かう満員電車で痴漢に間違われ、現行犯逮捕されてしまう。彼は取り調べで一貫して容疑を否認するが、勾留、起訴、裁判と不可避的に“日本の司法制度”の泥沼にはまってゆく‥。


すごかった。2時間23分の上映時間のあいだ、エンドロールが終わりきるまで、緊迫感に固まりつづけみまもりつづけました。おもしろかった。冤罪を主題に、ものすごくストレートに作られ、ものすごくストレートに訴えかける映画で、枝葉に色気を出さないそのブレのない真っ直ぐさは、さすが邦画の4番打者だとおもう。

この映画は、誰かしらの役者の評価をあげるためにあるのでも、周防正行の作家性や手腕を周囲に称揚させるためにあるのでも、ましてやより多くの観客を動員して配給会社なり製作会社なりを潤すためにあるのでもなく、ただただ日本の刑事裁判の実態を嘘なくありのままに描くことを動機として存在しているようにみえる。そのためには、映画としての面白ささえ犠牲にしたと監督自身が語るように、家族愛や異性愛による彩りは余分な脇道だとばかりに排除されるし、いかにもな憎々しい判事像や裁判官像を配して主人公への感情移入をことさら促したりもしない。主人公は裁判であって、加瀬亮ではないのだ。そこでは加瀬亮応援団として映画が主人公に加担したりせず、気持ちよく彼に感情移入してノセてもらいたい観客の欲望に日和ることはない。厳密なリアリズムで裁判を描ききった『それでもボクはやってない』の潔癖さは、素直にすごいとおもいます。

周防正行、じつに11年ぶりの新作で、直球中の直球を投げた。もともと直球派といえば直球派でしたが、それはあくまでも娯楽映画としての直球であって、お金を出した人間(なり会社なり)は、周防正行なら、まず間違いなく観客を楽しませる、満足感を与える映画をつくるはずで、マーケティング力に突出した周防氏の企画なら題材のキャッチーな話題性で大化けする可能性があると考えたでしょう。そこにあるのは、“ハリウッドにも認められた企画力をもつ、娯楽映画職人”としての周防正行監督への信頼感だったと思います。

しかし周防正行は予想された道をゆかず、映画はシリアスな社会派の様相を呈していました。現実としてあることを優先し、たとえ法廷や取調べ室に窓があったりしたほうが映画が面白くなるにしても、「現実はないから」というリアリズムをあくまで優先し、面白かろうと面白くなかろうとそれが真実の姿だから。と本当にあるがままを提示することに徹する。過去作とは明らかに違うこの制作姿勢は、果たして周防正行の変質を物語るものなのでしょうか。

これまでの周防作品でも、ある特殊なルールに従って機能している共同体なり機構なりに投げ込まれたフラットな性質の主人公が、手探りでその世界のルール(ことわり)を触知しながら生きてゆくさまが、繰り返し描かれてきました。『変態家族 兄貴の嫁さん』では、“変態家族”に嫁いできたヨメは、それぞれアブノーマルぎみな性癖をもつ家族に圧倒され右往左往し、その家族の一員になるためにただならぬ苦労を強いられるし、『ファンシィダンス』ではお寺、『シコふんじゃった。』では相撲の世界、『Shall weダンス?』では社交ダンスといった、制作当時は「なんとなくは知ってるけど、ダサいし縁遠そうだし、よくは知らない」微妙にマイナーな世界に主人公を投げ込んだ(『ファンシィダンス』は『ピュアラブ』よりずっと前だし、『Shall weダンス?』はウッチャンナンチャンが番組で社交ダンスをやりだす前だった。『シコふんじゃった。』だけは、企画段階では(相撲は)マイナーだったものが、公開までのあいだに大相撲がブレイクしてしまったため後追いぽくなってしまいましたが‥)。
『それでもボクはやってない』も、まさに「なんとなくは知ってるけど、ダサいし縁遠そうだし、よくは知らない」世界にごく普通の青年がなんとはなしに迷いこみ、その徐々に明らかになってゆく機構のルールに新鮮な反応を示し、やがてそのルール内で生きる道を探ることになる物語で、その意味でこれまでと変わらない〈周防的世界〉だ。

しかしそこで今回、目をひくのが、語り口、ということになる。冒頭の俯瞰のパンから走行中の列車をカメラは捉え、列車内に視点が移動したかとおもうと、ひっきりなしにカメラが揺れ動きながら物語を語ってゆく。
これまでフィックスの固定画面、ローアングルといった小津譲りの文体を駆使し、画面構成をカッチリと行ってきた周防正行の映画とは思えない不均衡で無造作なショットが頻出し、ここのところずっと流行っているドキュメンタリータッチかとも思わせる映画の成りゆきに、誰もが目を疑うでしょう。

インタビューにこたえて周防正行は、〈映画を面白くするための「計算、論理」は考えなかった〉、〈この映画を面白くしようと考えたことは一度もなくて、とにかく現実に僕が見たことを伝えたい〉、〈演出の工夫をしようとかいっさいなく〉、〈ほんとに小技ないです〉と言い放っています。媒体が違ってもそれらの談話で共通して訴えられているのは、制作態度の〈無作為ぶり〉の強調だ。なるほど、だから今まで蓄積してきたテクニックを捨て去り、手ぶらで題材に相対していったのか。と何となく納得しそうになる。しかし、果たしてそうなのか。

阪本順治『魂萌え!』で見せた手ぶらぶり。一見、『それでも~』も同じようにゼロ地点からの“手ぶら”のように見えても、『魂萌え!』での演出が明らかに不器用に弱々しく、庇護欲をそそるくらいだったのに対し、『それでも~』はやけに明朗明確に迷いなく、なによりやたらと力強いのだ。このあまりの違いはなんなんだろうとおもう。

先に結論を言ってしまえば、周防正行はぜんぜん手ぶらでも無作為でもなく、かなり周到に勝算をはじき出してこの映画の撮影に臨んだのだとおもう。ある意味それは『シコふんじゃった。』や『Shall weダンス?』に挑んだときよりも余程自信をもって臨んだ勝ち戦だった。その自信と数倍増しの周到さが表現のものすごい力強さの正体ではないのか。

これだけのブランクのあと、新世紀を迎えて幾年も経過しているところへ、〈ナイスな題材〉+〈スキない上質のコメディ映画〉をもって復活したところで、過去の人の懐メロ的活躍。という扱いで終わる可能性は大きかった。「周防正行?まあ面白いけど、やっぱり古いよね。ワンサイクルまえの映画ってかんじ。今の空気吸ってないというか」とかなんとか。プロモーション的には何かを仕掛けなければクリエーターとしてアトは無い。という危機感が皆無だったとは思えない。

「痴漢冤罪」という題材と出会ったとき、周防監督はそれにみあった表現のスタイルを探りに探ったのだとおもう。そうして出された結論は、テクニカルに流麗に語ることではこの題材は活きず、意匠を前面にみせると“良質で、良心的な社会派映画”にカテゴライズされてオシマイ、という判断で、そうならぬためには、是非とも無技術・無作為の表情を表しつづけなければならないと考えた。その“手ぶら”ぶり、“ゼロ感”が、題材にむかう真摯な姿勢をもっとも表現しうるだろう。取り繕う余裕がないほど、映画か否か面白いか否かなど関係なくとにかく現実を伝えたい、という“切羽詰まった”表現。それが、この題材に最も適していると思われたから、採用した。いわば“無作為”という名の作為。これがフェイクドキュメンタリーだったりしたらお里が知れて分かりやすいのだけれど、聡明な周防監督はあくまでごく普通の劇映画として作品を組織してゆく。作為的な表情を極力覆い隠しながら。

『それでもボクはやってない』は、そうとは見えないが周到な作為の連打で成り立っていると思う。以下、少しだけ例をあげていきたいと思います。

まず映画のおおまかなリズムとして、肝心の法廷場面はフィツクスでじっくりと描き、そしてそれ以外の場面では前述“手ぶら”ふう手法を発動させ、それらが交互に現れることで、まるで快楽原則に則ったかのような絶妙なリズムとコントラストをみせる。手持ちカメラで絶えず揺れ動いている画面の頻出、雑なつなぎに画面レイアウトの不均衡、と乱調相次ぎ、明らかにピントが甘すぎるショットまであって、あれだけ厳格な映画群を構築してきた周防監督が、ワザとでなければOK出すはずがない箇所が満載。(森田芳光『39・刑法第三十九条』の〈乱暴さ〉はわざとらしいと皆気づくのに、『それでも~』はなんだかわざとらしくないのは勿論、わざとらしい/わざとらしくないの境界を周防正行が凡百の映画監督より敏感に感知できるバランス感覚、聡明さを有しているから。)
そして現実には映画で描かれたよりずっとずっと長いはずの裁判も、じつは得意なディゾルヴ(『シコふんじゃった。』冒頭)を用いて、観客が退屈しない長さに切りつめてある。

役所広司瀬戸朝香のいる弁護士事務所が、薄汚い川沿いに位置し、高架線だか高速道路だかがその上を覆い川面にコンクリの建造物が影を落としているという優れた舞台装置も、メタフィジックに意味作用の解読を誘う。

しかし恣意的であることが最もわかりやすいのは、重要な証人・唯野未歩子の扱いだと思います。あの結末、あの判決文を聞いて、それまでの経過を遡って思いかえしたとき、唯野の存在の扱い方が映画を盛り上げるのに効果的なように巧みになされていたことに気づいた。
加瀬亮を救える唯一有利な目撃をした唯野未歩子を、加瀬側は探し出すことが出来ず、裁判は公判を重ねてゆく。(判決がどっちにも転びそうなたゆたう成りゆきも充分エンタメですが、)そこへついに唯野が見つかって、証言台にたつのが第9回公判。第10回公判が検察官の論告・求刑で第11回が弁護士による弁論要旨、第12回は判決なのだから、まさにギリギリに飛び込んできた一発逆転の朗報として観客の前に提示されるのだ。〈映画を面白くするための「計算、論理」は考えなかった〉なら、目撃者を行方不明にして公判の最期に滑り込ませたりせずアッサリとっとと提示すればいいのに、溜めに溜めた。
シナリオを読んで気づいたのですが第9回公判と第10回公判を提示する順序がわざわざ逆になっていて、

⑩(検察官の論告・求刑→ここまで不利でピンチを煽り)
⑨⑪(新証人、弁論で有利に、カタルシスを準備しといて‥)
⑫で一転、一気に観客をどん底に突き落とす。という工夫。

〈演出の工夫をしようとかいっさいな〉かったなど、到底信じらんない。肝心の唯野未歩子の証言内容の絶妙なスキも、判決理由を聞くに及んでその徹底的に緻密な効果のための構成・計算に感嘆したのだった。(思えば、主人公の26歳フリーターという設定も、被害者の法廷でのあまりにいたいけなさまも、本当にジャストな細部として判決とサスペンスにに貢献していました。)

衝動などではない。
冷徹で強靱な意志で、すべてがコントロールされているのだ。その意志が、無作為な衝動というスタイルを観客に納得させるという方向に向かった、これはある種前衛的な映画なのだった。

映画作家ピエル・パオロ・パゾリーニは、古典的な〈散文的映画〉に対して、ゴダール以後の、カメラを意識させる、文体そのものが映画であるような映画を〈詩的映画〉と名付けた。周防正行の仕事は、デビュー作から一貫して、露骨な文体の映画(〈詩的映画〉)でありながら、作り手である〈わたし〉を滅却することで、限りなく〈散文的映画〉に近づこうという、とんでもなく野心的なものだった。周防正行は、何も変わっていなかったのだ、とおもう。

theme : それでもボクはやってない
genre : 映画

『夢で逢えたら』恋する日曜日第1シーズン⑦ 

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『恋する日曜日』第1シーズン第7話
『夢で逢えたら』

(BS-i、2006年5月18日放映)

監督:行定勲
脚本:渡邊睦月
主題歌:吉田美奈子
出演:水橋貴己、宮崎将、中村愛美、倉沢桃子、斉藤花咲、榊英雄、長塚圭史、川越美和

映画版(ブローアップ版みたいなもんですが)『恋する日曜日』主演者として、『恋する日曜日』のメインビジュアルイメージをになうことになった感のある水橋貴己。彼女の『恋する日曜日』での初主演作がこの『夢で逢えたら』です。第2シーズン『君が僕を知っている』(=映画版『恋する日曜日』)では男勝りなキリリとした女の子を演じていましたが、今作はもう少し普通の女の子を演じています(BS-i入ってないので未見ですが、第3シーズン第7話『ジャスト・ニート』でも主演をつとめているようです。)。監督は『GO』『春の雪』『ロックンロールミシン』等、オシャレ文芸路線を得意とする行定勲。一見、映画で“J文学”しているようにもみえますが実体はかなり保守的な作風です。
脚本は、『恋する日曜日』第1シーズンではもっとも数多く脚本を手がけた渡邊睦月

無数の星を散りばめた、いかにもラブホテルな天井を眺めながら、呆然としたように小さく歌を口ずさんでいる少女。水橋貴己。その足指の爪には赤いマニキュアがポツポツ灯っている。それは少女が“女”になったことを示唆し、以降しばらくはそこに至るまでのプロセスが遡って語られる。

化粧品売り場でマニキュアを見つめながら(この色は、オトナの女の色‥)と想起する水橋貴己は、付き合っている彼はいるがまだ処女だ。女になること、オトナになることへの過大な気負いの原点は、7歳のときに父が突然連れてきた“あたらしいママ”(川越美和)にあった。“オンナ”を濃密に感じさせる川越美和はいつでも足の爪に真っ赤なマニキュアをしていて、靴下はいたら見えないのにと訝る幼い娘に、オンナはいざという時のためにこうして準備しとくものだと諭す。

色フィルターがかったような画面からはビデオ的な貧弱感でなく映画ふうの香気が漂うという仕組みのなかで、ながらく岩井俊二の助監督だった行定勲監督が今作で採用したタッチは、モロに岩井ふうというかウォン・カーウァイふうというかそっち方面のテイストで、その手法は刹那的にその場その場をリリカルに切りとるのに適している反面、大きな建造物を構築するようにひとつの主題を語りあげるのにはもうひとつ別な工夫が必要で、この作品では過去からひきずる重要なオブセッションである〈赤〉が、デッサンふうなタッチとも、淡い間接照明が事物の輪郭をやわらかくしている画面の設計ともそぐわず、露骨に浮いていて空転感を感じさせた。

それでラストで唐突に彼女に「海が見たい」と彼氏の宮崎将言わせ、海に連れて行ってもらい(さようなら、私、そして、こんにちは、新しい私)と語らせてエンド。と急に脈絡無く情緒的になって何となくのルーティンで閉じられても違和感ありで、ノリきれない。

(そもそも、過去のママハハとのエピソードを持ち出さなければならないほど彼女が体を許さないことが不自然ってわけでもなし、川越美和のエピソードは余分な気もしますが、ほんとうはそっちがやりたくて企画に合わせた恋愛のほうがメインじゃなんでしょう。そう思えば、彼女が彼氏を特別オンリーワンに好きな描写もされないから、彼氏が宮崎将であるのは彼女の人生にとってたまたま今カレであるに過ぎないともみえる。かといって母との話がメインにも見えませんが‥。)

岩井タッチが顕著だと思われるのは、カーテンを閉めた自室でキャミソール姿の水橋貴己がマニキュアを塗ったりベッドに寝ころんだりしてひとりの時間を過ごす場面や、映研の連中と飲み屋で飲む場面。前者は、暖色系カーテンというフィルターを通して外の光が暖かい色合いに部屋中とそこにいる水橋貴己を染め上げて、思春期の少女が過ごす無為な時間と空間が魅力的に掬いとられています。後者では、イラつかせる映画オタクを長塚圭史(宮崎将が別の年上の女に惹かれているとき、水橋貴己は成りゆきで彼に無理やり抱かれてしまう。それで冒頭のシーンに繋がる)が若干やりすぎぎみに好演、“シュンジ・イワイの『Love Letter』”について水橋貴己と語り合う(水橋のほうは、イヤイヤ)。師匠格である岩井俊二への目配せのようなシーン。

彼氏の宮崎将の部屋で、出来たての自主映画の試写に水橋貴己がつきあうシーンが秀逸。そのフィルムにうつる女性のことを、彼は好きなんだなと水橋が気づく。説明でもセリフでもなくて分かってしまう感じが出ていていい。‥きれいなひとだったね、と彼女が動揺を隠しつつ普通のふりしてつぶやくのへ、平然を装いつつもしどろもどろに言い訳する宮崎、無難なホメの感想を心ここにあらずで述べる水橋の言葉に気を良くする宮崎、ふたりの会話と演技がいいですね。彼女は切なく、彼はバカ丸出し。いいタイミングだと大誤解して押し倒す彼は、もちろん拒絶されます。

ショートカット、大きな瞳、しっかりした鼻筋、セクシーな唇とは違うが意志的な唇をもつ水橋貴己。強いつよいまなざしには憂いが宿り、どこか重力を感じさせる肉感的(官能的ではない)な身体は、その肉体という殻に閉じこめられた精神の運動が居心地悪くて噴出しようとして起きる微熱が、静電気のように肌の表面を走る。肉体の実在感と精神の繊細な揺らぎが不均衡に混在する、じぶんの存在を持て余しているかんじが、少女期特有のきらめきとなっている。かすれた不安定な声音は、絶頂期の長澤まさみ奥菜恵に似て、声を発するだけでドラマを生む、とおもう。

BS-iがホームグラウンド(『恋する日曜日』『さそり』『愛の道チャイナロード』)で、地上波では時代劇ばっか(大岡越前、水戸黄門、忠臣蔵‥)という、世間的には極めて地味な存在の水橋貴己は、とくべつ綺麗でも可愛くも色っぽくもないのだけれど、どこか気になる女優さんだ。いつか地上波で、輝くように明るい(ちゃんと主要な)役柄の彼女を連ドラとかでみてみたいと思います。(映画では、『ホタル』とか『千年の恋 ひかる源氏物語』とか、とびきりヒドい作品にばかり出演‥映画ぽい素材だと思われるのに作品的に未だ恵まれていないようです。)


theme : ドラマ感想
genre : テレビ・ラジオ

恋する日曜日第1シーズン

BS-iで放映された短編ドラマシリーズ『恋する日曜日』(→コンセプトは映画版『恋する日曜日』その1参照)。現在第3シーズンが放映中ですが、2003年4月から9月のあいだに放映された第1シーズン全26話のデータは以下の通りです。
(話数、放映日、タイトル、監督、脚本、出演者の順。☆印は『恋する日曜日プレミアムDVDーBOX』に収録された作品、★印の作品はDVD『ゆらゆら~南Q太セレクション』に収録。)

☆第1話 2003年4月6日 ウエディングベル(前編)(→記事はコチラ)
 若松孝二、渡邊睦月/星野真里、大沢樹生、来栖あつ子、目黒大樹、田中要次

☆第2話 2003年4月13日 ウエディングベル(後編)

第3話 2003年4月20日 見つめていたい~トワイライトアヴェニュー~
 松田礼人、武田百合子(武田有起)/柏原収史、江川有未、佐藤康恵

☆第4話 2003年4月27日 もう一度夜をとめて(前編)(→記事はコチラ)
 酒井聖博、渡邊睦月/篠原ともえ、川崎麻世、芦田昌太郎、秋山実希、寺崎万里子

☆第5話 2003年5月4日 もう一度夜をとめて(後編)

第6話 2003年5月11日 遊びの恋~ロングバケーション
 高野英治、福田裕子/岡本光太郎、矢部美穂、小橋めぐみ

☆第7話 2003年5月18日 夢で逢えたら(→記事はコチラ)
 行定勲、渡邊睦月/水橋貴己、宮崎将、中村愛美、倉沢桃子、斉藤花咲、榊英雄、長塚圭史、川越美和

第8話 2003年5月25日 FOR YOU
 鈴木浩介、武田百合子/津田寛治、石田未来

☆第9話 2003年6月1日 空に近い週末(→記事はコチラ
 利重剛、福田裕子/小山田サユリ、奥野ミカ

☆第10話 2003年6月8日 ロンリィザウルス(→記事はコチラ)
 安藤尋、福田裕子/内山理名、北村一輝、高田宣美、平野眞蔵、町敬博

第11話 2003年6月15日 レイニーブルー
 荒井光明、渡邊睦月/つぐみ、山下真司

第12話 2003年6月22日 Flame
 堀秀樹、小杉晶子/伊藤高史、持田真樹

☆第13話 2003年6月29日 STILL I'M IN LOVE WITH YOU(前編)(→記事はコチラ)
 高野英治、渡邊睦月/黒谷友香、青木伸輔、和田聡宏、細木美和、野中りえ、芦垣雪衣、飯田健太郎

☆第14話 2003年7月6日 STILL I'M IN LOVE WITH YOU(後編)

第15話 2003年7月13日 DOWN TOWN
 荒井光明、渡邊睦月/吉川ひなの、大島信一、小倉久寛

☆第16話 2003年7月20日 電車(→記事はコチラ)
 麻生学、武田百合子/石田えり、堀北真希、武田航平

☆第17話 2003年7月27日 終章 A面(→記事はコチラ
 鈴木浩介、渡邊睦月/坂井真紀、高橋和也、中山俊、久野真紀子

☆第18話 2003年8月3日 終章 B面

第19話 2003年8月10日 ダイアリー
 加藤章一、渡邊睦月/栗田麗、高野八誠、新谷真弓、佐藤二朗

第20話 2003年8月17日 色彩都市
田沢幸治、相内美生/橘実里、大浦龍宇一

第21話 2003年8月24日 言えずのI LOVE YOU
 加藤章一、福田裕子/斉藤慶太、西山繭子

第22話 2003年8月31日 そして僕は、途方に暮れる
 松田礼人、琴塚七海/木村貴史、藤真美穂、伊達建士、大沢舞子

★第23話 2003年9月7日 丘をこえて~May be Tommorow
 古厩智之、渡邊睦月/京野ことみ、遊井亮子、西島秀俊

★第24話 2003年9月14日 ゆらゆら~バカンスはいつも雨
 古厩智之、渡邊睦月/尾野真千子、堀江慶、岡本信人

★第25話 2003年9月21日 猫
 安藤尋、渡邊睦月/前田亜季、邑野未亜、山中崇、藤沢大悟

第26話 2003年9月28日 渋谷で5時
 利重剛、中谷まゆみ/温水洋一、尾美としのり、織本順吉、奥貫薫

theme : テレビドラマ
genre : テレビ・ラジオ

『もう一度夜をとめて』恋する日曜日第1シーズン④⑤

『恋する日曜日』第1シーズン第4話&第5話
『もう一度夜をとめて』(前編/後編)

(BS-i、2003年4月27日、5月4日放映)

監督:酒井聖博
脚本:渡邊睦月
主題歌:崎谷健次郎
出演:篠原ともえ、川崎麻世、芦田昌太郎、秋山実希、寺崎万里子

OLの篠原ともえは、職場に新しく配属されてきた課長(川崎麻世)に初日からこっぴどく罵倒されたうえ、大切に育ててきたプロジェクトも取り上げられてしまう。課長/川崎麻世への復讐を誓った篠原ともえは、その気にさせてからこっぴどく振る、という方法でやっつけるために彼にモーションをかけるが‥。


‥もちろん篠原ともえが本気になっちゃうというお話。この作品のひとつの注目点は“篠原ともえ”っぽさを極力排除し抑え、出オチ的でない彼女の可能性を開拓しようという試みともいえます。彼女が普通のしゃべり方をして普通に演じたら、果たして観る者に恋愛の切なさをスムーズに感じさせることができるのか、という。

しかしそれ以前に作品じたいが今一つで、テレビドラマ以外のなにものでもないという出来映え。描写はなくダンドリだけで話がポンポンすすむから、観賞するといってもセリフを聞いて顔の演技を追っていたらぜんぶ済んでしまうていのものでした。

新たな超厳しい上司にさんざんやりこめられた直後、篠原のケータイが大きな音でピロリロリ!なのに気まずいとかそんなそぶりも全然なくて、しかもそれを鳴らしたのはすぐそばにいた篠原ラブの同僚男子で、この男もまったく平気な顔。信じられない描写、演出不在とはこのことだよ!まだ課長同じ部屋にいるって!他にも、キスするとき爪先立ちになる足元がアップになるとか、たいへんな細部に困惑。

川崎麻世を陥れるためにしたデート(それから彼女に火がつきはじめた)の報告を同僚のOLたちにせがまれて、食堂で気乗りしないまま話す篠原、悪口大会となって気づくと川崎麻世がきいていた、きかれた、気まずい篠原。だけど、そもそもそれまでにその空間がちゃんと描かれていないから、どうして彼がそんなに近くに来るまで気づかなかったのか良く分からず、話をころがすためにとりあえずテキトーに座ってしゃべらせてテキトーに気付かれただけにしか感じられない。一事が万事そういう無神経さに支配されていて、篠原ともえがどうの川崎麻世がどうのと言う以前のものだった。残念。

theme : テレビドラマ
genre : テレビ・ラジオ

ぴあテン

20070301154540
例年、『キネマ旬報』のベストテン以上に嘲笑の対象として名高い、『ぴあ』読者が選ぶ“ぴあテン”(の映画部門)は、毎回毎回、そのあまりに批評精神の無さすぎる結果ゆえにバカにされつづけ、「まるで興行収入ランキングの引き写し」と揶揄されるけれども、アメリカのアカデミー賞も日本アカデミー賞も、作品の質とは無関係に映画業界への貢献度でほぼ決まるわけだから、信頼度では興行収入ランキングとニアリーイコールなぴあテンと五十歩百歩という気がする。まるでベテランレスラーの間でIWGPのベストがぐるぐる回ってるように、大手映画会社の“アカデミー賞向け”映画が順繰りに穫ってゆくのに比べれば、ぴあテンのほうがまだ、奇跡が起こる可能性は、原理的にはある。原理的には‥。

〈2006年・ぴあテン映画部門〉
①パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト
②フラガール
③ダ・ヴィンチ・コード
④THE有頂天ホテル
⑤デスノート The Last Name
⑥木更津キャッツアイ ワールドシリーズ
⑦デスノート 前編
⑧日本沈没
⑨嫌われ松子の一生
⑩ゆれる
(次点)ナルニア国物語


theme : 映画情報
genre : 映画

アメリカ

日本でのブームというかバブルがはっきり終焉を迎えつつある総合格闘技が、その隆盛を(規模を格段に巨大化させながら)アメリカを中心とした諸外国に舞台を移してから、なんだか『紙プロ』も『ゴング格闘技』も『格闘技通信』も似通った誌面のイメージになってきたなあと物足りなさを感じていたら、『紙プロ』のケータイサイトで紙プロ編集部員が〈デザインから企画までいろんなものを貪欲にパクることに熱心な某雑誌に後追いで同じ企画をやられかねない〉とか書いていました。

地上波的なところから総合格闘技の舞台が移りはじめ、それまで通りにしていたらネットのあやふやな情報しか目に触れなくなる今、雑誌媒体の重要性は増しつつあって、各誌にとってチャンスともいえますが、本拠地を日本においての海外取材、というかたちだとどうしてもどっしりかまえて独自の視点を探るというわけにもなかなかいかず、浅い戦略や反射で逃れがちで、安易なパクりがあると言ったり言われたりする状況も、ある程度は仕方ないともいえると思います。これまで他の追随を許さない独自のアプローチが、他誌がマネしたくてもマネのしようがなかった『紙プロ』の誌面が海外に総合が舞台を移してから妙にお行儀がよくなっていることも、パクりやすい余地を生んでもいるのでしょう。DSEがアメリカ支部に本腰をいれているように、各紙も特派員でなく本拠地をおくくらいの気でないと充実したフォローは難しいのかもしれません。

アメリカ人の心のスポーツであるアメフトの、その最大人気を集めるプロリーグNFLのスーパーボウルが開催される1月末から2月初頭はアメリカ男子の関心がそちらに集中するのだそうで、その時期を避けるように2月24日に開催された2度目のPRIDEラスベガス大会の熱気をかき消すように、UFCが『UFC70』ほか実に3大会のカードを続けざまに発表して相変わらずのPRIDEつぶしを敢行。

ミルコの相手がブラジルのガブリエル・ゴンザガ、という微妙なとこなのに、ファブリシオ・ヴェウドゥムはUFCヘビー級トップグループのアンドレイ・オルロフスキーと対戦と、次の3戦目でヘビー級タイトル挑戦が予定されているミルコのタイトルマッチの前フリ=前哨戦としては不思議な相手ですが、もうすでにタイトルマッチはあっさりティム・シルビアなりクートゥアなりがミルコに負けることが予想済みで、そのミルコの王座に挑戦させるコマとしてオルロフスキーが考えられているのかも知れない。

さて、肝心のPRIDEラスベガス大会はビッグアップセットの連続で、シウバ、五味、三崎、ホジェリオが敗れる波乱が起きました。もっとも、三崎和雄が負けるのは順当で、むしろGPがラッキーだっただけだときっと多くの人が思ってるんでしょうが、“チャンピオンカーニバル”とまで宣言したDSEにとっては、曲がりなりにもPRIDEのチャンピオンをこの地に送り込んだんだから、フランク・トリッグ程度には勝たないとハクもつかない。ましてや、ヒョードルとともに最強PRIDE王者のイメージを担う五味が、ショーン・シャークに判定負したニック・ディアスと散々いい勝負したあとに負けたとあっては、“世界最強はPRIDEが決める!”というDSEもファンも選手も共有してきた価値観が揺らいだことは疑いない。今大会は盛り上がって良かったにしろ、次からのプロモーションを考えると痛いんじゃないかとおもった。特にシウバの敗戦は。

ようやくブーム中のアメリカ全土にシウバがその強さを示そうというときに、高熱とはいえ最強のイメージのサラサラないダンヘンに負けちゃって‥かつてUFCではビクトーとティトにも負けている(それぞれ開催地がブラジルと日本だけど)バックボーンを考えると、アメリカのファンには所詮小さな島国で連勝してただけのローカルヒーローと甘く見られかねないし、シウバにとっても、アメリカは鬼門なのかもしれません。菊池成孔がかつてシウバを評して言った〈「奪う」シウバのシウバ性〉を未だにシウバが有していれば、ダンヘンはおろかティトもリデルもランディー・クートゥアも皆やすやすと飲み込んでいったはず。菊池説を盲信していえば、“奪う”属性をもつシウバから「可愛さ」「残忍さ」「怖さ」「面白さ」をハントが食物連鎖的に“奪った”のであれば、まだまだ“奪う”属性は元気に有していそうなハントは、ラスベガス要員として最優遇すべきなんでしょう。

そういえばそもそもPRIDEといえば“奪う”属性を強く有していたプロモーションだった、リングス、パンクラス、UFC、修斗、DEEP‥。そのPRIDE(DSE)が今やボードックやらUFCやらに“奪われる”一方で、PRIDEをPRIDEたらしめていた属性は、もうないのだ‥。その、“属性の変質”という事態の始まりは、やはり桜庭を“奪われ”たことだったのだ。

theme : 格闘技
genre : スポーツ

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