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映画版『恋する日曜日』その2

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『恋する日曜日』その2→その1からのつづき

2.

さて、そのような経緯で成立し公開されることになった『恋する日曜日』は、観てみればしっかり廣木調の、みずみずしい正調青春映画な仕上がりで、元々がテレビドラマであったとは思えないクオリティだと思います。

男勝りの主人公・晶=水橋貴己が、片思いの幼なじみ(直=若葉竜也)に想いを告げれぬまま、町を離れようとしている最期の一日(朝から、翌日の朝まで)が描かれているのですが、せめて最後は彼とふたりきりで一緒にいたいと願い、シチュエーションをセッティングする彼女をよそに、晶=水橋貴己に告白してくる先輩・楽=佐々木和徳、その楽と付き合っていたが彼の気持ちが水橋貴己に行っているのをやっかみ若葉竜也にモーションをかけて夢中にさせてしまう環=芳賀優里亜、が絡んできたりして、事態は想定していない方向に進んでゆきます。

つまり想いのベクトルは、水橋貴己→若葉竜也→芳賀優里亜→佐々木和徳→水橋貴己、と片思いのループを描いているのですが、それが観ていてちっとも煩雑でなくクリアな印象を与え、かと言って図式的にも陥らずに、ある年齢の男女の思慕の想いのたゆたい揺れ動くさまを繊細に描き出す。
他愛ないといえば他愛ない、複雑といえば複雑な物語が躍動感をもって持続するのは、時間なり細部の描写なりが“説明”に費やされるではなくて、演出も脚本も演技も、肉体や精神の運動感の表現に奉仕されるという、“運動としての映画”が実現されているからで、説明シーンは説明シーンだからつまらなくて見せ場が見せ場だから面白い、という類の貧しい映画群とは異なる、映画ならではの感情と技術が全編に行き渡っていると思います。

言う、言わない、言う、言わない‥。冒頭の、晶(水橋貴己)が屋根上を往復する運動からして、廣木的でワクワクする。そこへ、バイブが着信をつげケータイを取りだすと、地上からの交信で、女友達二人がいまからスタートすると宣言する。観る者が事態を把握する間もなく、晶がストップウォッチを起動させると二人はは走りだし、屋外から校内、屋上へと、水平から螺旋、垂直運動の運動線を描き、映画も走りだす。

この水平から垂直へ至る運動は、クライマックスで再び繰り返され、その頃にはその運動の意味(学校につたわる、“イブの夜にカップルが手をつないで廊下から屋上まで一気に走り、2分以内なら二人は十年付き合えて、1分以内なら永遠に結ばれる”という伝説)は観客に開示され、〈想い〉をのせた〈運動〉にカタルシスが集中する。

誰かを想いつつ、走ること。
走ることが、何か焦がれて希求することから生じる衝動/運動であるなら、片思いが連鎖するこの恋愛物語で、走る場面が頻出し、映画の主軸となるリズムを刻んでゆくのは必然となりましょう。
冒頭とクライマックスで伝説を反復するように登場人物たちが疾走するのをはじめ、晶=水橋貴己が結婚式ごっこの思い出の地をまわるシーンや、主人公4人が夜の繁華街を走りまわり離れては再合流する場面など、“走ること”が愛であることが理屈でなく感情として観る者を捉えて、観客は共に感情の揺れを経験する。

また、走る=水平運動という主題は、晶=水橋貴己と楽=佐々木和徳が弓道部だという設定とも呼応する。水平運動の最たるものである弓道の性質は、そのまま“走ること”でもあって、それは直への想いからくる晶の動揺がその矢を的から逸らしてしまうことや、我の想いを通すための手段として行われる弓による勝負が登場人物たちがついにほんとう感情を吐露する磁場を作り出し、クライマックスへとなだれ込む前段のシーンを形成することなどからも示されます。(この、勝負が行われる深夜の弓道場の場面、多人数の思惑や駆け引きや動揺や心境の変化が微細に描かれ、しかし全くこんがらがったりしない大変巧みな場面だと思います。)

いつも横移動が印象的な廣木映画ですが、今作ではヨコからタテに移動のベクトルが流れていることが興味深い。ロケ場所の問題でしょうか、小高い丘陵がそこここで画面に曲線的な広がりをあたえ、重要な舞台となる晶の家や神社の境内が全方位的に開け放たれている空間のかんじは、自然と画面奥への印象を誘っていて、そこから観客に感じられる感情は(一点透視的な)閉塞感でなく、開放感だと思う。
繁華街を4人が並んで“歩く”場面は、ヨコでもタテでもない、画面奥にやや斜めに進んでゆく構図で、開放感でも閉塞感でもなく宙吊りなフワフワした浮遊感を与えて、“走る”という〈愛の闘争〉をつかの間放棄したようにみんなが仲良く並んで歩くこの微温的なシーンは、特異な艶を帯びていて、グッとくる。個人的には、映画『恋する日曜日』で一番好きなシーンです。

さて最大出力の〈“想い”の発露〉、全力疾走の果てに辿り着いたのは、最大の丘陵であり、最大の開放感の磁場である校舎の屋上だった。一方通行の思慕の指向性は無力化され、性交的でなく接吻的な和合の瞬間が訪れる。キスとともに、晶=水橋貴己が言葉を口にする。

わたしは、直が誰を好きになったって構わない、離れたって全然平気だから。振るとか、振られるとか、そんなことどうだっていい。もし、わたしがおばあちゃんになったら、おじいちゃんになった直に逢ってみたい。逢って冗談言ったりケンカしたい、それだけでいい、わたしの好きは、そういう意味だから。

彼氏/彼女か否か、片思いか両思いかといった、指向性が強固で硬直した〈恋愛〉という呪縛から、彼女は自分の想いを解き放った。その解放された彼女の“想い”は、微細な粒子になり、朝はやい、屋上の清潔な大気に浮遊していきました。

晶と直、ふたりが最後の時間を過ごす場面はタテの画面のなかをすすむ姿となる。焦がれ、走るというヨコ的運動から、恋愛闘争が解体され無効化するタテ的宙吊りへ。いっしょに歩きながら何時の電車?教えない。きいただけだよ。教えたら来るくせに。見送りなんか行かねえよ、といった愛情のこもった憎まれ口の叩きあいのニュアンスからは、幼なじみから端を発した、ふたりだけの間にある、ふたりだけにしか名付け得ないある愛の関係性を、ふたりとも正確なかたちで自覚し肯定したようすが窺える。

そのやわらかく、半端に充足した幸福感のなか、直が「‥何分だった?」と訊いてきて、相変わらず電車の時間のことを言ってるんだとおもった晶は、
「しつこいねえ」とかえすが、直からは違うこたえが返ってきた。
「違うよ。俺たちが屋上まで走った時間」
「‥1分」
と晶はこたえた。


3.

美少女キャラのポジションは芳賀優里亜がにない、男勝りなフテたかんじを前面に出した、それでいてどこかしら可愛らしさもある、微妙な役まわりを演じた主演の水橋貴己は、『愛の道チャイナロード』、『恋する日曜日』第1シーズン第7話・行定勲監督作『夢で逢えたら』(以後別記事予定)、幾度も映画化された篠原とおるの名作の初ドラマ化『さそり』(連続ドラマ初主演作。以後別記事予定)とキャリアを重ねてきて、テレビのブラッシュアップ版ながら本作で映画初主演デビューを飾りました。浮腫みやすそうな顔立ちで美しくも醜くもなりそうな、一瞬一瞬魅力が移ろうかんじと、瞳のちからの強さは、じつに廣木隆一ぽい女優だと思わせられた。その時折変化するきらめきが、映画女優としての未来を垣間見せる。

『野ブタ。をプロデュース』で堀北真希を好きになるクラスメイトを、『マイ☆ボス マイ☆ヒーロー』→別記事はコチラ)では長瀬智也を舎弟として従える(?)不良(?)の星野くんを演じた若葉竜也は、甘いマスクというよりは間が抜けたマスクで、何をしても似合っていないようないたたまれなさが憎めないうえ、相手の演技を反射する性質があると思う。『4TEEN』で廣木演出も経験済みの、ある意味核となるキャストだ。

『マスター・オブ・サンダー 決戦!!封魔龍虎伝』(06、→別記事はコチラ)、『海と夕陽と彼女の涙~ストロベリーフィールズ~』(06、→別記事はコチラ)の項でも触れた、おなじみ芳賀優里亜は、今作ではクラスの高嶺の花なポジションの美少女・環を演じる。さいきん、初期出演作『どこまでもいこう』(99)、『害虫』(03)も再見したのですが、『どこまでもいこう』(やっぱり傑作!)では、言いたいことありそうだけど言わない、眼力のつよいヒロイン格の女の子を印象的に好演していて、当時から変わらない資質を有していたことを知らしめていた。『害虫』では普通の意味合いで可愛いとかキレイとかいう範疇とは若干ズレる蒼井優が従える3人組の1人として完全に輝きを消し去っているのに、本作『恋する日曜日』ではクラス一のモテ女子を納得させる輝きをはなっています。浮腫みがちな感じは、水橋貴己とカブりぎみな気もしますが‥。

主題歌以外にも、挿入歌である宮原永海『DAYS』、バードシロップ『好きなひとよ』がいいタイミングで流れて、歌詞ともども聴かせて、ジンワリ来る。廣木映画は歌の使い方がいつもいい、歌詞までなんだかきかせる。そういえば『ヴァイブレータ』のときも、歌が流れるところ(浜田真理子『あなたへ』)がすごく良かったと思います。

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genre : 映画

映画版『恋する日曜日』その1

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『恋する日曜日』

(2006年、日本、89分)

監督:廣木隆一
脚本:いずみ吉紘
プロデューサー:丹羽多聞アンドリウ
主題歌:『君が僕を知っている』RCサクセション
撮影:村石直人
録音:深田晃
出演:水橋貴己、若葉竜也、芳賀優里亜、佐々木和徳、水橋研二、小山田サユリ、高橋真子、石野真子

父親の仕事の都合で、終業式を最期に転校を控えた男勝りの少女・晶(水橋貴己)は、幼なじみの直(若葉竜也)に言い出せない想いを抱いていた。しかし、そんな直はクラスメイトの環(芳賀優里亜)に夢中の様子。最期の日、せめてふたりきりのお別れ会をと画策するが、自分に想いを寄せている弓道部の先輩・楽(佐々木和徳)や楽に振られた環が絡んできて‥。

 1.

BS-iで放映され、好評を博したドラマシリーズ、『恋する日曜日』からスピンオフの映画版がこのドラマと同題の『恋する日曜日』。ドラマ版のほうは、去年から今年にかけてTBS深夜に地上波で再放送されていた(第2シーズンからのセレクト)ので、眼にしたかたもおられると思います。このころ、ちょうどBS-iで『恋する日曜日 ニュータイプ』という連続ドラマがスタートして、その番宣的意味合いもあって『恋する~』の地上波登場と相成ったわけですが、どちらにしてもBS-iの(アンドリウ印の)ドラマシリーズなり『恋する日曜日』なりを広く一般に知らしめる効果はあったのではないでしょうか。そして、そのドラマ版『恋する日曜日』のDVD-BOX(第2シーズンからのセレクト。第1シーズンからのセレクトは既に発売済)がついこないだ(2月7日)発売されたのが記憶に新しいかと。(是非購入したいがおこづかいに余裕がない‥欲しいからといって一万円以上の商品をホイホイ買える裕福な生活じゃない‥)

さて、地上波でないにかかわらず、いや〈地上波と同じ事をやってもしょうがない〉とBS-iならではの企画にこだわり、『ケータイ刑事』『怪談新耳袋』等の話題作を放ちつづけるBS-iの名プロデューサー・丹羽多聞アンドリウ(以下アンドリウ)。彼が手がけたドラマシリーズ『恋する日曜日』は、2003年と間をおいて2005年の2シーズン放映された一話完結の恋愛ドラマシリーズ(現在、2007年1月より第三シーズン放映中)で、80~90年代の隠れた名曲を主題歌かつタイトルに用い、原石的な新人俳優と、実力派の中堅・ベテランの映画監督という組み合わせが話題を誘った人気ドラマです。

このドラマが主演デビューだった女優に、堀北真希、北乃きい、小出早織、秋山奈々らの名前が並び、アンドリウの先見の明を示すとともに、演出陣には若松孝二(!)、中原俊、篠原哲雄、行定勲、安藤尋、井口昇、佐々木浩久、利重剛、古厩智之ら錚々たる顔ぶれを起用、映画にもじゅうぶん詳しいことを伺わせる。新鮮な原石の魅力と実力派の監督の演出が、アンドリウの用意した“カセ”の枠内で炸裂し、数々の恋愛フィルムの傑作を生みました。

2005年の第2シリーズからは、絶好調の廣木隆一監督も満を持して参加(『『終わらない歌』『君が僕を知っている』を担当)しました。そして連ドラ『『さそり』(今回の映画版『恋する日曜日』の主演をつとめた水橋貴己が、初主演した連続ドラマ)で丹羽多聞アンドリウと組んだ脚本家・いずみ吉紘もこの第2シーズンより参加し、名作『魚』(加藤章一監督、黒川芽以主演)『バージンロード』(中原俊監督、星野真里主演)がその筆から生まれました。

テレビドラマが主戦場とはいえ、映画にも造詣が深い脚本家、いずみ吉紘と、紛れもなくすぐれた映画作家であり、ピンクやテレビドラマでも同じテンションで演出できる廣木隆一が組んだのが、この第2シーズンの第20話~22話の全三回、前中後編で放映された『君が僕を知っている』です。この作品を、映画版にブラッシュアップしたものが、放映(05年8月14日、21日、28日)から約1年後(06年7月22日~)、シネマート六本木で公開されました。

廣木隆一監督は去年(2006年)、『やわらかい生活』、『予感』ときて最後この『恋する日曜日』と、公開作が相次ぎました。どの作品も、企画の成立から映画の完成までの過程がそれぞれ全く違っていて、それだけフットワーク軽く仕事をこなしているということで、しかも内実も充実しているという、廣木監督にとってじつに脂がのっていた一年でしたし、ファンにとっても満たされた一年でした。

企画の成立過程と背景を言うだけで長くなってしまいました。
感想などは次項に書きます。(→その2につづく。

(テレビシリーズの『恋する日曜日』については、別記事でシリーズデータと、DVDで観れる各編についての記事をあげる予定です。)

theme : 日本映画
genre : 映画

長谷川町蔵・山崎まどか『ハイスクールU.S.A.』

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長谷川町蔵・山崎まどか
『ハイスクールU.S.A~アメリカ学園映画のすべて~』
(国書刊行会)

ジョックス、ギーク、プレップ、サイドキックス、ブレイン、スウィート・シックスティーン、プロム‥、アメリカ製学園映画には、そこでしか聞き慣れない単語があるように、独自の法則性と歴史性がある。〈学園映画は、隠れたアメリカのティーン文化の宝庫である。その独自性は常に興味深い。同時に、学園映画ほど、些細なようにみえて実は重要な、普遍性のあるテーマを扱っている映画ジャンルはない。私たちはそこに十代の自分自身を見出すだろう。〉
と、まえがきで宣言がなされる本書は、題名どおり、アメリカの学園映画(学園を舞台にした映画)を縦横無尽に語り尽くした、たいへん貴重な書物だとおもいます。
ただし誰もが必読、一読感嘆間違いなし!という貴重さかというと、必ずしもそうではないかもしれないんですが、少なくとも、好きな映画のジャンルはと人に訊かれたとき、いつもアメリカのティーン・コメディ・ムービーを挙げる自分にとっては、殆どがビデオスルーでロクなレビューもされないアメリカ製学園映画についての詳細な本が上梓されたことは、たいへん喜ばしいし貴重なことにおもえるし、買ってから何度も読んだんでもうだいぶボロボロになりかけてる、そのくらい待望だったし、想像以上に読み応えがあって、うれしかった。

去年の夏くらいに、学園映画/ティーン・コメディのレビューの第一人者・長谷川町蔵がついにソッチ方面の本を出すという告知を最初に目にしたとき、てっきり様々な媒体で発表している短評群を一冊にまとめた本が出るのだとばっかり思っていたのですが、いざ出版され手にとってみれば、山崎まどか(『女子映画スタイル』も興味深い本でした)との対談形式の本で、それぞれテーマごとに章立てられて(①ジョン・ヒューズ(『すてきな片想い』(84)で“学園映画”を誕生させた偉人)、②学園映画の集団劇としての構造、③階級社会としての学園内における、階級差恋愛、④学園ホラー映画、⑤学園女子(目線)映画、⑥古典リメイクの場としての学園映画、⑦脱出劇としての学園映画、⑧学園映画からコロンバイン事件を読み解く、⑨学園卒業後の映画、⑩そして現在形の、最新の学園映画の潮流)、学園映画とは何か、学園映画の面白さ、豊かさを網羅的に論じて隙がない。ミニコラムや脚注も充実していて隅々まで楽しい一冊です。

だいたい、(最近作でいえば、)名作と一般にも名高い『ハイスクール白書 優等生ギャルに気をつけろ!』や『『天才マックスの世界』ならともかく、この本以外のどの書物で『恋のミニスカ ウエポン』『チアガールVSテキサスコップ』を正面から取り上げて、真面目に論じられるでしょうか?
〈学園映画〉は、このジャンルにつきものの、(表面上の)表現や物語の平面さ(=たわいもなさ)が災いしてか、日本ではカルト的にもカウンターカルチャーとしても省みられず、マトモに受容されない歴史を重ねてきました、ある意味、日本映画の“鬼っ子”であるVシネマのように。『ハイスクールU.S.A』は、その映画史の空白をうめる、“貴重な”一石だ、とおもう。
これを読めば、『電車男』が学園映画のさまざまなパターンの、劣悪なコピーにすぎない貧相な物語だというのがわかるし、乙一の『GOTH』になんとはなしに感じた、ゴス理解の甘さへの不満の根本もみえてきます。

かつて、アリシア・シルバーストーン主演、エイミー・ヘッカリング監督の『クルーレス』(95)を観たときに、凄い!と感じたものの、当時の自分の映画観なり成熟度なりでは、その良さを言葉に出来ずにモヤモヤしていたのでしたが、本書のわかりやすい分析と学園映画史における位置づけによって、なんとなく腑に落ちたかんじで、得した気持ちになりました。

(そういえば、この『クルーレス』、恵比寿ガーデンシネマで観たんでした。恵比寿ガーデンシネマが開館したとき、こけら落とし、オープニング作品が『ショート・カッツ』と『リアリティ・バイツ』で、ナルホドね~とその路線に関心したのでしたが、間もなく公開された、アーパーギャルが闊歩してるようなこの映画は、ラインナップ中なんだか異質で居心地悪そうだったし、お客さんの入りも微妙だった記憶があります‥。)

ジャンルの称揚という使命を負っているとはいえ何でもかんでも絶賛し過ぎな気もするし、せっかくの対談形式なのにあまりに整理されていて会話が予定調和すぎ、対談形式のものを読む愉しみに欠けるだとか、出来れば作品名だけでなくて人名の索引があればなあとか(無いと結構不便)、思うところがなくもないんですが、少なくとも、今後このジャンルの映画を語るには、絶対に欠かせない一冊になっていると思います。

theme : 本の紹介
genre : 本・雑誌

映画『恋文日和』

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『恋文日和』

(2004年、日本、111分)

①『あたしをしらないキミへ』
監督:大森美香
出演:村川絵梨、弓削智久

②『雪に咲く花』
監督:須賀大観
出演:小松彩香、田中圭

③『イカルスの恋人たち』
監督:永田琴恵
出演:玉山鉄二、塚本高史、當山奈央

④『便せん日和』
監督:高城麻畝子
出演:中越典子、大倉孝二


『ドリフト』『僕は妹に恋をする』、そして『マスター・オブ・サンダー 決戦!!封魔龍虎伝』ととりあげてきた小松彩夏出演作、紹介の最期は『恋文日和』。異端の少女漫画家・ジョージ朝倉の連作短編シリーズ『恋文日和』からセレクトされた4つの短編によるオムニバス・ムービーです。“恋文”をテーマにしたラブストーリー、ということが共通項で、各編に直接の関係はない。

映画全体としての形は、①②③の各短編を④『便せん日和』でサンドイッチにする構成で、つまり④Aパート→①→④Bパート→②→④Cパート→③→そして④のDパートで終わる、という構成。問題の演出陣は、キャリアがあるのは主にドラマの脚本家(『ランチの女王』『きみはペット』『マイ☆ボス マイ☆ヒーロー』など)として知られる大森美香と『ブリスター!』の須賀大観くらいで、あとの監督は新人という恐ろしい布陣。相当な覚悟を持って観賞にあたりましたが‥。

意外や、①『あたしをしらないキミへ』、④『便せん日和』が面白かった。ただし、ぜんぜん、映画ではない。ここにある面白さは少女マンガの面白さであって、ジョージ朝倉の原作というか作風がともするとサブカル方面に評価されてしまいかねない(少女マンガとしては)不純さを含有しているのに比べて、俳優の肉体というフィルターでエッセンスが濾過された映画版のこの2作品は、より純度の高い少女マンガっぷりで好感をもちました。少女なり女の子なりの、現実感覚と遊離しがちな妄想の空転感が描かれ、ふわふわとした恋の高揚をほどよく定着させていて、映像作品であるまえに少女マンガである、という楽しさがある。

①の監督・脚本の大森美香のいつもながらの特徴といえば、テキトー、ということに尽きるという印象なのですが、その考えなしのテキトーさによって、結果、女の子の考えなさとムダに考えすぎるところを、巧く掬いとるように表現がなされているとおもう。④の、恋する中越典子の空回りぶりの可愛さと楽しさは、映画全体のトーンを明るいものとして救っていますし、ずっとヘラヘラしたトーンできて、このオムニバス映画全体の末尾ともなるラストがぐっと優しく真面目なのも後味がいいですね。

全般、クオリティもタッチもテレビドラマ程度の表現なんですが、しかし、それである程度の面白さがあるなら、映画かどうかはそれほどの問題でもなく思えるし、そこまで期待するほどの企画でもないとも言えます。じっさい、もっとも映画的技巧が凝らされているといえなくもない③『イカルスの恋人たち』が、最もつまらなくてみるに耐えない(錯綜した語り口、死んだ男のビデオレターと合唱してブラウン管にキス、隅々まで寒い)という事態からは、映画的であるか映画的でないかは何のための評価基準かと空しくなります。

残るは小松彩夏出演の②『雪に咲く花』。常に揺れるカメラ、固定ショットでもなんかフラフラしてるカメラにイラっとこなくもない。他のエピソードが女目線のロマンティックなら、この②は男目線のある種の魅力を宿す女子が描かれる。ナゾな儚い風情の少女、は短編少女マンガの伝統的キャラクターとも言えますが、映像作品になると途端に男性的願望にみえてしまう不思議。

ピンク色のマフラーが高い枝に引っかかって、校舎の一段低い屋根から手を伸ばして取ろうとしている小松彩夏の姿を、田中圭が見つける。彼が屋根にのぼるともうそこにはいなくて、彼女はもう一段高い校舎のベランダで淡々とマフラーを首に巻いていた。とらえどころのない無重力的な未来感を露骨に描出。涼しく、寂しげで澄んだ瞳で見据えて振り返る小松彩夏の肖像には、意外と良くとおる声と相まって、儚さと、それだけでない眩しさがあります。終盤、ベタな不幸さに儚さだけに性質が集約されていって、結果魅力爆発には至らないのですが、小松彩夏の存在感と魅力の基本線は定着しえていると思います。

theme : 日本映画
genre : 映画

映画『魂萌え!』(2)

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『魂萌え!』(2)

『魂萌え!』(1)からのつづき

冒頭、井の頭公園。池に覆い被さる桜の木々と桜の花の房の群。コントラストは弱く、白っぽい画調。そこにはこれまでの阪本映画にはあった“凶々しさ”、こってりとしたケモノくさい人間ぽさが感じられず、自然界の植物の、細くながく持続する、微弱な力としての空気が淡くそよいでいるだけのようにみえる。ここでは〈異形のもの〉を好んで描いてきた阪本順治らしからぬ“平穏さ”が表出していて、新しい阪本映画の開巻を告げているようにみえます。

原作では夫の死後に物語が始まり、夫は全編、不在の虚の中心点として小説内に鎮座し偏在しているが、映画では定年退職の日の夫(寺尾聰)の行動が淡々と描かれ、一日の最期、妻(風吹ジュン)に微笑とともに握手を要求し、何事かを告げると、場面は三年後の火葬場にとび、その握手のくだりを想起している風吹ジュンが、あのとき夫が何を言ったのかを思い出そうとして思い出せないとこぼし、一緒にいた時間は長いのに、この三年間が一番あっという間だった、と語る。

このあと映画はずっと、寡婦である敏子=風吹ジュンに近づいたり離れたりしながら寄り添いつづけ、その生の持続を見つめるのですが、風吹ジュンの回想であるようにみえる生前の寺尾聰の出勤し会社で過ごす一日の描写はいったい何かとまずは不審におもう。社員食堂の場面があることから、あるいは不倫相手の伊藤昭子=三田佳子が働いていた場所を示したともみえるが、この段階では風吹ジュンは不倫相手の存在を知らないのだから、これはやはり回想ではなくて普通にある特定の日の日常描写に過ぎない。これにより、もの言わぬ死者としての夫が、この映画の説話構造の不在の中心点を担うという確固とした構図は崩れ、やや軟体化した語りは、緻密な構造としてではなく、常に綻びつづける弱々しい素っ気なさで紡がれてゆく。過去の作品群の豪快な破綻ぶりとは異なった(弱々しい)破綻のしかたで、欠陥といえば欠陥だし、それが新たに獲得された語り口だと評価するなら出来なくもない“微妙さ”を抱えて、映画は進行していきます。

基本的には風吹ジュンの魂の流浪が描かれてゆくこの映画のなかで、前述の生前の夫のシーンのような、風吹ジュンから離れた、語りの亀裂として在り、そのため印象的となったシーンがあって、それが不倫相手の昭子=三田佳子絡みの場面にあります。初対面(初対決)となる敏子=風吹ジュンのもとに赴くまえに、車のなかで三田佳子がブツブツと挨拶を練習する、異物感のある場面。あるいは、最期の対決のあと、〈阿武隈〉から敏子が帰り、表にのれんを掛けにでた昭子が風に煽られ、誰かに「風、でてきましたねえ」と語りかける開放感ある眩しいシーン。これらのシーンが映画全体が淡いトーンとテンポのなか、ひときわ印象に刻まれます。

その一方、風吹ジュンが夫の死後、意識すらしていなかった困難(と悦び)が次々と押し寄せてきて、眠っていた“魂”が“萌え”ゆく流浪の〈日常生活の冒険〉が語られてゆく〈チグハグでない〉本流のパート、①で述べたようにこれまでは役者に表現させた阪本映画独特のリアリティをもって虚構の強度に対抗してきた(→〈チグハグさ〉)ものが、今回普通の日常のリアリティに相対した〈チグハグでなさ〉に手ぶらで勝負をかけねばならないパートでは、正直、精彩を欠いているように思われます。ご飯を炊きすぎたり、ゲロをバックに吐いたりとか、良くなくない細部もあるのですが、自分がたいへんに問題があると感じるのは、主要キャストから端役までの演技です。

阪本順治流の演技指導は、先に述べたようにルーティンに流れぬようこれまでのやり方を削ぎ落とし作らせず、一歩一歩、一手一手、不器用に確かめるように作りあげてゆくものだった。同じように女性を主人公に据えた『顔』でも『ぼくんち』でも、主人公が行く先々で現れ出逢う人々は、その映画でしか居ない存在感を豊かに示していたが、どうしたことか『魂萌え!』の登場人物たち、殊に女性陣はルーティンな演技を繰り広げる。上手下手でなく、環境や相手あって反応としての演技がある、という阪本順治が今までこだわってきたことが、どこか疎かになっているようにみえてしまうのだ。
夫の死で初めて会うことになった長男の家族との会話を交わす風吹ジュンは、ある緊張感をもって接している風でも、呆然として無関心なようでもなく、ただ単に脚本上のセリフのやりとりを無難に消化しているようにみえる。キレて家出するくだりも、感情が沸点に至るまでを、必要なら長すぎるくらいの時間を浪費してでも表現すべきものを“丁度いい”“適度な”ところでキレに移行し、描写が滞らない。阪本映画のリアリティが日常のリアリティに向かう〈チグハグでなさ〉とはツルツルと流れるように描写が過ぎゆくことであるのかと訝しくおもう。

仲良し4人組が集うシーンがとりわけヒドく、これぞルーティン演技の見本ともいえるやりとりの間のオンパレードで、それぞれが作り込んだ役内でポンポンとセリフを消化してゆく。反射、反応として会話が機能していない。4人中、もっともヒドいのは今陽子で、まだマシなのは由紀さおりでした。

男優の演出には手馴れた阪本監督は、〈お互いにヒントを出しあう駆け引きみたいなこと〉をして剥ぎ落とし、コントロールしてゆくのが(今回、豊川悦司、田中哲司、共に良くて、印象も鮮烈で描写に愛情があった)、今作では、錚々たる女優陣を相手に、どうにもコントロールしきれなかったのではないか。と想像する。

不倫相手の昭子を演じる三田佳子は、幾つものインタビューで、どうやって理路整然と〈自分が〉役作りをしたかを滔々と語りたおす。声の出し方も白髪も福島弁も、おかしくなったあとのメイクも舌を出すシーンも、〈自分が〉考え、役作りしてきたと得意げだ。男優相手なら真っ先に抑圧するだろうこういう暴走をおさえきれず、結果、〈三田佳子の、いわゆる、名演技〉がそこに刻まれてしまった。ハッキリ言って、どうみても作りすぎだとおもう。(30年も東京で働き暮らしてアノ訛りようは、意味付加しすぎだ。)このようにして、女優による反・阪本的演技がそこここに出立してしまう事態となった。

原因は、不得手な女優のコントロールに手間取ったこともありましょうが、“普通の女性を、男の願望でなく描く”というかされた枷に、最期までうろたえ、自信が持てずに来てしまったということだろうと思います。

阪本監督は『シナリオ』誌の加藤正人との対談で、〈『顔』の吉村正子は、自分を全面的に投影するというか、演出する時に、言葉を持ち得ている、という自信があったんですけど。今回、セリフやト書きを書いても自分が100%腑に落ちてるかっていうと腑に落ちてなかったりするんだけど、原作に対する信頼を頼りに演出してみる、これは初めてですね。〉と完璧な自信をもって演出に臨まなかったことをもらしています。山根貞男によるインタビューでは〈初めてづくしが今回やりたいと思ったところ〉とも言っているのだから、それはそれで本人的には“是”なのでしょうし、次作へむけてのステップとして有意義なものではあったのでしょうが、『魂萌え!』単体としてみれば、結果は、意余って力足らず、突き抜けた感慨を得るのは難しい出来映えに終わってしまったのではないでしょうか。

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theme : 邦画
genre : 映画

映画『魂萌え!』(1)

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『魂萌え!』

(2006年、日本、125分)

監督:阪本順治
原作:桐野夏生
出演:風吹ジュン、三田佳子、田中哲司、常盤貴子、加藤治子、豊川悦司、寺尾聰

平凡に暮らす59歳の主婦・敏子は、突然訪れた夫の死に呆然となる。これまで夫の庇護下に生きてきた敏子はさまざまな問題に直面することになる。遺産相続に目の色をかえる、すねかじり癖の抜けない子供たち。隠されていた夫の長年の浮気。そして、老いた我が身と、独りで生きてゆくこれからの長い時間‥。

阪本順治長編第15作。〈骨太な、男の映画(活劇)、を撮り続けている映画監督〉とことあるごとに言われ続けてきた阪本順治が、老境にさしかかった女性を主人公に、軽やかな映画を撮った。ただし女性を主人公に据えることは『顔』(00)の藤山直美や『ぼくんち』(03)の観月ありさと前例はあって、必ずしも特異な例とは言えない。では阪本順治のフィルモグラフィ内において、あるいは『顔』『ぼくんち』と対比して、『魂萌え!』はいかなる位置を占めるのか。

『魂萌え!』で主人公の敏子を演じた、風吹ジュンは言う。阪本順治の映画では、〈私の知っている役者さんが、映画の中では知っている人に見えない。それって、理想じゃないですか〉。だから〈ずっとファン〉でいたし、いつかその〈現場に入ってみたい〉と念願していた、と。阪本順治の演出のもとであれば、“いわゆる、風吹ジュンの演技”、“いつもの、風吹ジュン”ではない、“未知の、新たな風吹ジュン”の肖像が刻まれ、更新されるかもしれないという期待感がもたれているということで、そこで語られた“期待感”には、演技指導だけに限らず、阪本映画のある種の特質が現れているでしょう。

阪本順治の意識の根幹には、常に、ツルッとイージーなイメージに物事が流れてしまうことへの嫌悪があると思われる。第1作『どついたるねん』(89)、第2作『鉄拳』(90)では、器用にソツなく演技をこなす既存の役者ではなく、演技は素人だが肉体的運動感にリアリティのある赤井英和、大和武士といった当時職業俳優ではない(元)ボクサーをつづけざまに主役に起用した。ほうっておいたら役と演技をつくって来てしまう、手馴れた役者というものへの警戒感が強くあり、それに比べればゼロ状態の(当時の)赤井や大和が、手探りで世界(映画)に接していく、その一歩一歩の確かな手触りを画面に定着させてゆくほうを採る。(今ではピンと来ないかもしれませんが『どついたるねん』当時、麿赤児や美川憲一を普通の娯楽映画でキャスティングするのはかなりの飛び道具で、これもゼロ状態を希求してのことでしょう。)

その逆に、経験のある役者をつかうとき、阪本順治はそれまでの彼らの既存のイメージ、既存の演じかたを剥ぎ取ることに専念腐心する。そうして引いていく、削っていくという作業は、俳優と監督との間に戦闘というか緊張関係が走り、これまでとは違う、俳優には自分のなかにあるルーティンでない芝居で世界と向き合わなければならないんだという実存的覚悟が生じる。そのような戦いはキャリアも名声もある役者にとってはいつもの演じる快楽とは異なる苦痛でもあって、『顔』(00)の藤山〈直美さんは、相当フラストレーションはあった〉ようだし、阪本映画の常連である豊川悦司もでさえ油断すると“いわゆる、豊川悦司”になってしまい、そのたびにその“豊川悦司”を削って演技指導が行われる。

『どついたるねん』『鉄拳』の赤井英和、大和武士が、『王手』(91)『トカレフ』(94)で阪本映画に帰ってきたとき、そこに映っているのは“『どついたるねん』の赤井”でも“『鉄拳』の大和”でもなく、『王手』の赤井、『トカレフ』の大和でなければならなかった。阪本順治の映画から離れていた、わずかな期間でもそれなりに蓄積してきた演技のノウハウを、今度は削っていかなければならない。『王手』『トカレフ』のふたりに、どこかフィルムの色彩を脱色していったような、存在感の消耗が見られるのはそういう理由だと思われる。『王手』演出時、阪本監督はインタビューにこたえ、〈赤井が見えたとか安達英志(『どついたるねん』での役名)が見えた時は、NGだしてるし。編集でもこれは赤井だなって、笑えても外そうっていう。やっぱり今回この将棋指しの、飛田っていう役に赤井がピタッとはまって、なおかつ特別のキャラクターを作らないと。〉と述べています。どこで読んだか聞いたか忘れましたが、スムーズに赤井として将棋を指させないよう、利き手と逆の手で指すように指示が出て、あの鮮明で印象的な、力のこもったモーションが生まれたの
だという。

〈彼は、どこかで常にナマなものを求めており、それが俳優の肉体に向かったりするのだが、その一方には強烈な虚構意識があって、ナマなものも必ずや阪本独自の虚構空間に引っ張り込まずにはおかないのだ。このあたりのバランスというか、せめぎ合いが、阪本順治の作劇術ということになるのであろう。〉と上野昂志は『『顔』を支える肯定の力』という文章で阪本順治の映画を規定する。ただある種の傾向にあるリアリズムの芝居で日常を描き、ひとつの世界の真実を切り取るのではなく、その確かな手触りを忘れぬまま、ある大きくフィクショナルな状況に人物たちを投げ入れる。そこに独特な構えの大きさと、それにそぐわないほどの鮮烈な人間の臭みや色気、哀愁が滲んだ。それこそが阪本映画の魅力の根幹でありましょう。

いつも映画をみるときは、なるべくチラシ程度以上の情報を入れないで観賞に臨むというスタンスなのですが、『魂萌え!』では観賞が都合によりだいぶ遅れて、そのせいか自然となんとなく色々入ってきてしまった。〈この企画を選択した時点で期待するのは、いままでの手練手管は通じないということの面白味〉〈いちばん素直な阪本さんが出たなと。かつてないほど無防備〉〈いま自分が「更地」になれたことが気持ちいい〉。なるほど。俳優にゼロ状態を求めるだけでなく、己にも常にゼロ状態で、ナマであることを希求する阪本順治らしいし、その希求の姿勢が、彼のフィルモグラフィの豊かさも貧しさも生んできたのだと思う。

同じように女性が主演でも、『顔』や『ぼくんち』の物語には異形のものがあり、ある種ファンタジー的な抽象性にまで達しかねないフィクションの香気が漂っていました。しかし『魂萌え!』での主人公は普通のオバサンに待ち受けている普通の物語だ。大状況に登場人物たちを投げ入れるという、阪本映画のやり方とは明らかに違う物語がここには用意されていて、人間の存在感のリアリティと虚構の強度のぶつかり合いのチグハグさが阪本映画であったとすれば、役者に表現された独特のリアリティの向かう先が、普通の日常のリアリティだという〈チグハグでなさ〉は、確かに阪本映画にかつとない表情を与えるでしょう。

〈風吹さんならでは、というものは全部消してもらいました。(略)すごく抑えてもらいました。風吹ジュンさんはいりません、みたいなキツい言葉を言ったらしいですよ(笑)。じゃあなんで私なの、って思いますよね。だから、ちょっと歩き方から変えてもらったり。〉と、いつも通りの演技指導で臨んだ本作は、ご飯の炊き方から靴の脱ぎかたといった小さな演出の部分の累積で勝負してゆく。人物のない画を極力避けてきたこれまでの作品と異なり、風景や花のアップといった非人間が対象となったショットも頻出する。

では、それらの狙いはどこまで達成できたのか、そうして何を描き得たのかという問題になりますが、先に感想を結論的に言えば、その達成は、結実度合いは疑問の残る、微妙なところだった、と感じています。

(以下、『魂萌え!』(2)につづく

theme : 日本映画
genre : 映画

映画『どろろ』

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『どろろ』

(2007年、日本、138分)

監督:塩田明彦
原作:手塚治虫
アクション監督:チン・シウトン
脚本:NAKA雅MURA、塩田明彦
出演:妻夫木聡、柴咲コウ、瑛太、杉本哲太、麻生久美子、土屋アンナ、劇団ひとり、原田美枝子、原田芳雄、中井貴一

乱世の武将・醍醐景光は、天下統一を叶えるために、我が子の体を48体の魔物に捧げる契約を交わす。生まれながらにして体の48箇所を奪われてしまった百鬼丸は、魔物を倒し己の体を一部ずつ取り戻す戦いのうちに、天涯孤独の野盗・どろろに出逢い、旅をともにすることに‥。

1967~69年にかけて執筆連載された手塚治虫の『どろろ』を、塩田明彦監督の演出により映画化したもの。話題をよんだ福井3部作でさえ製作費は各15億前後だったのが、『どろろ』ではなんと20億。ニュージーランドロケということはあったにせよ、塩田明彦にそれだけの大作を預けることにまずはビビる。

このところ日本映画界で隆盛を誇るムーブメントの担い手といえば、大阪芸大一派と映画美学校一派、ということになるでしょうが、その映画美学校一派の源流というか親玉は蓮實〈映画表現論〉の影響下にある立教大学一派(正確には、大和屋竺の影響下にある人々もカブる)。その立教一派の面々の勢いが、このところすごい。年の瀬には万田邦敏が異形の映画『ありがとう』を世に問うたかとおもえば、年があけると周防正行11年ぶりの新作『それでもボクはやってない』が公開され注目をあつめた。そして“現・世界のクロサワ”黒沢清の最新作『叫』もまもなく登場する。屁理屈みたいな映画を年がら年中発表している青山真治も、『サッド・ヴァケイション』が公開を控えています。

インテリしかターゲットにならない青山真治の映画はともかくとして、ひろく一般の人々にむけて娯楽の方向へ努力している万田・黒沢・周防のさまざまな苦難をよそに、現在『どろろ』が公開中の塩田明彦監督は、立教大学一派のなかにあって、例外的に興行的にも批評的にも幸福な地位を築いてきました。
デビュー作は『どこまでもいこう』『月光の囁き』(99)の二本同時公開という華々しいスタートをきり、その初日の劇場は観客で埋め尽くされ、批評的にも大変好評に迎えられた。代表作『害虫』(02)あたりまではどちらかというとシネフィル的な、いかにも立教らしい作家的立ち位置にいると思われたものが2003年、突如大バジェット『黄泉がえり』が大ヒットを記録、『この胸いっぱいの愛を』(05)に連なる大衆的ヒット狙いの作品も担わされはじめる一方、社会的問題作『カナリア』(05)では狙い通り賛否両論をよんだ。(順風満帆の代表選手のように思われていた周防正行でさえ『シコふんじゃった。』によって認知されるまでに10年のキャリアを要したし、絶頂期のあと11年の沈黙を余儀なくされた。)

『どろろ』がお仕着せの仕事ではなく、塩田明彦自ら念願していた企画だということから、『どこまでもいこう』から『害虫』『カナリア』と連なる批評的成功をおさめた作家主義的路線と、『黄泉がえり』『この胸いっぱいの愛を』の大きいバジェットで出来は無惨なオモテの路線、両方の中間に位置する作品としてみえ、出来不出来の落差がはげしい塩田作品の傾向から類推するに、出入りあって結果60点くらいのものに落ち着くんじゃないかという漠然とした消極的な期待感をもって、観賞に臨みましたが‥。

観了したあとに抱いた、このどんよりした気分はなんでしょうか。怒りも喜びもない、中途半端な気持ちは、たとえば万田邦敏『ありがとう』の異様な感触が気色悪いモヤモヤ感を生じさせるのとはすこし異なっていて、それとはすこし違う場所で発生しているかんじがする。

ノレたかノレなかったかで言えば、ノレなかったということになるんでしょうが、それでオシマイにしたいという気分にもならない。序盤、回想シーンと説明的場面と見せ場(アクション)が断続的に団子状に順繰りに展開される、そのリズムというか構成の、相互パート間のエモーションが繋がらないことにまず躓く。フィクション内のリアルすら指向しない統一感のないモンスター造形や、夢幻的傾向のつよいチン・シウトンのアクション設計も、それが総体に及ぼす狙いが今ひとつ見えなくて、躓かずにはいられない。

塩田明彦の商業映画監督としての出発点となる『どこまでもいこう』では(同日公開のデビュー作、『月光の囁き』のほうがじつは撮影順は先だが)、細部の累積が全体を見事に構成しているようにみえ、そこに素直な幸福感があった(その緻密なモザイクが織りなし、やがて控えめな光の乱反射が照らし出すのは、荒涼とした団地世界に生きる少年の〈孤独〉)のが、フィルモグラフィを重ねるにつれ次第に、部分の集積による全体像の形成、という作業に塩田明彦は懐疑を抱いていることが露わになってきた。
個々のカット、そのカットごとに宿る感情や空気が、別のカット(次のカット、や、あるいは呼応しあう要素を附加された親類のようなカットへ)に慣性的に流れるように移行してゆくことに塩田明彦は異を唱える。一本の映画のなかには人生のように、悲しいこともあり楽しいこともあり、冗談を言わなそうなひとがふと冗談を口にすることもあるはずだ。ある悲惨な事件が出立しても、その悲しいなかにも別の要素が常にもぐり込もうとしてくる。このカットに在る一瞬の(現在進行形の)感情が、次のカットにも移行し、そして全体を染め上げる(=それが“主題”となる)ことこそウソではないのか。思えば、楽しい遊びやイタズラ、冒険や走り回ること、異性の少女への淡い恋情などの諸要素が織りかさねられ、いざ出来上がった織物『どこまでもいこう』の中心にあらわれたのは、少年の深いふかい孤独と絶望だった。幸福なパーツの組み合わせが結果幸福を形成しないという皮肉な事実の現前。色素のうすい空に響く乾いた音は、哀しみも愉悦もともにあらわしていたのだった。

カットとカットの間の断続性の強調を推し進めたすえに到達したのが、代表作『害虫』で、そこでの〈断続性〉は、(宮崎あおい演じる)〈少女〉の心理の不可視性を、反心理的な突発性を、その存在感のみに依存して描くのに大変適していた。非説明的に、一瞬一瞬の宮崎あおいの動きや感情がカット毎にブレて、その描写の間欠ぶりが、息せききった〈青春映画〉〈少女映画〉と相性よく合致したのだと思います。しかし‥、ここでは分析的なことはしませんが、『害虫』においては、非説明的であることと、映画の物語を進行させることの相関戦略が甘くて、“映画的”な要素/雰囲気で画面を構成することと、作者側に都合よく話を進展させるご都合主義とで、なんとなく安易に乗りきった感があった。

『黄泉がえり』『この胸いっぱいの愛を』では、感動させるような要素が山積みなのにちっとも盛り上がらないのは、塩田明彦の作家的姿勢が、各カット間、各要素間、各挿話間を有機的に結びつけ全体化して、ひとつのエモーションを結晶化し現出させるというセオリーから、遠く隔たっていることが原因だと思われます。(しかし、コレらで感動したひともいたようなので挨拶に困りますが‥。そういう人々は、“映画”をみずに、“物語”を勝手に自分のほうに引き寄せて我が身と照らし合わせて想像し、勝手に感動しているのだとしか思えない‥。)

そして『カナリア』では各シーン、各カットの断絶はより増して、カット毎、シーン毎にエモーションはギリギリいうほど充填され、しかもそれぞれのカットや出来事は独立して無理に全体化を促されたりしない。登場人物の誰もが〈世界〉の全体像を把握できぬまま必死に生きる。さまざまな感情の暴発や感情の抑制、肉体を突発的に動かしたくなる焦燥が一瞬一瞬噴出し、そして断続する必然が、このうえない孤独の哀しみをあらわした。傑作だとおもった。

さて、このような経緯を経てたどり着いた『どろろ』では、各カットや要素の断絶するさまは、また新たな様相を呈する。『どろろ』では(あるいは、塩田映画では)いろいろな要素が同じ方向なりひとつの感情なりを指向せずに観客を躓かせることになるとこの文の前半で言いましたが、ここでは更に、外来的な非・結合要素が多々導入される。20億の製作費も海外ロケ、あまりにビッグな手塚治虫という原作者と原作、カルト作連発の曲者・NAKA雅MURAのシナリオ、直接コントロール出来ないVFXやチン・シウトンの珍妙なアクション演出‥。ほとんどは自らの要望で招き寄せたこととはいえ、100パーセントを制御しきれるわけもないそれら外的要因を召喚し、それぞれのパーツなりパートなりを一点の主題にむけて集約させるわけではなく、その描写を、さまざまに微妙にアサッテの方向を指向させる。これまでは内的要請により、各細部を全体化させないように結合の脱臼作業をおこなっていたものが、ここへきてその役割を〈他者〉に投げたかんじ。完全な制御はできず、完全な理解/融合はありえぬ〈他者〉の、絶対的な外部性を塩田明彦は欲したのではないかと思う。作家性という名の己が指向性に甘んじる慣性的堕落、知らぬまにルーティンに陥り気づかぬ危険、自分の映画がだんだん脳軟化症的に刺激も感性も失ってゆくのを畏れての〈他者〉導入措置ではないのか‥。

これまで〈他者〉がその映画に導入されていなかったかというわけではないにしろ、ここでははっきり意識的に、制御できない余地の残る方式での映画づくりを楽しみはじめたんだとおもう。そうすると、観客も、一瞬一瞬だけ見つめ、映画トータルの総体図など気にもとめずに、手ぶらでその映画に接していかなければならないのでしょう。着ぐるみみたいな怪獣が出たかと思えばCG臭まるだしのモンスターが現れるのをみて、世界観がメチャクチャだとかツッコんだところで何も生まれないのだ。

そして塩田明彦が『どろろ』という題材に固執した理由が以上のようなことから導き出される。断片/部分が全体/世界を構成するのだという常識を覆す、断片/部分は断片/部分のままであって総体を指向しないという世界観が塩田明彦の映画観にフィットしたのだ。盲目的に信じられている、ひとつの人格にひとつの肉体という〈結合性〉を疑うかのように、百鬼丸の体は〈結合〉を解き相互に〈断絶〉し、〈無法則/無方向〉的に散逸し、世界を断片化する。〈パーツ〉間の結合が生の基盤にあるはずだという常識がここでは疑われているし、その結合を追い求める百鬼丸の旅は〈荒唐無稽〉なものとなる。

そして更に結合の解体は加速する。

ひとつの人間/人格をあらわす言葉だったはずの“百鬼丸”“どろろ”という二つの言葉は同一性の楔を解き、妻夫木聡と柴咲コウの二つの人間/人格に分化される。そしてまた、分化の分化の末に存在する柴咲コウ=どろろに付与された性別も、〈男/女/性的未分化の子供〉と分割されかつその身体に偏在するという、部分→全体化の解体という塩田明彦的主題を一身に体現した。その意味で、柴咲版どろろ、というムチャな役に思いきり良く生命を吹き込んだ柴咲コウに、映画全体が救われていたと思う。

theme : どろろ
genre : 映画

『海と夕陽と彼女の涙 ストロベリーフィールズ』

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『海と夕陽と彼女の涙 ストロベリーフィールズ』


(2006年、日本、91分)

監督・脚本・編集:太田隆文

出演:佐津川愛美、東亜優、芳賀優里亜、谷村美月、伊藤裕子、小西博之、三船美佳、吉行由実、浪岡一喜、並樹史朗

昭和40年代。夕陽と海の美しい町暮らす、17歳の女子高生・夏美(佐津川愛美)は、自分も同乗していた自動車の事故で、三人のクラスメイトを亡くしてしまう。葬儀の日、ひとりだけ生き残った夏美の前に、三人が幽霊となって姿をあらわした。しかし、彼女たちが現世にとどまれるのは死後48時間だけだった‥。

村おこし映画、という蔑称が〈リージョナルムービー〉と名をかえて、日本中で制作がさかんに行われて隆盛を誇る昨今、和歌山県田辺市の全面バックアップを受けてオール田辺市ロケで製作された、『海と夕陽と彼女の涙 ストロベリーフィールズ』。自身も田辺市出身である太田隆文監督は、大林宣彦に師事し、テレビドラマの演出でキャリアは積んではいるが劇場映画としては本作がデビュー作となります(特別出演の小西博之も同郷)。

で、正直、何の予備知識もなく観たのですが、あんまり上手いのでビックリしました。太田隆文の演出、個人的には師匠の大林宣彦より上じゃないかとおもった。

回想のモノローグから、古き良き時代、少女たちの制服の白が眩しい季節に、海と山に囲まれ陽光に溢れた町に、観る者は連れて行かれ、その空気を吸うことになる。冒頭の、山や道や家や空、日常生活のスケッチや人々の躍動をとらえたカットの積み重ねがまず素晴らしくて、居住まいをただしました。

この映画最大の美点は、ロケハンがたいへん丁寧になされていることだと思います。古い街並、海沿いの狭くうねった道、草木の両脇に生い茂る石階段、本通りから枝分かれした坂道。幾分高い木塀に挟まれた細い裏道。高校生活の場として画面に登場する築100年以上だという木造校舎もすごいが、ラストの、小高い丘に建つ一軒の家とそこからの眺望も印象深い。

大林宣彦のばあいだと、高低差のある空間や密閉された空間などの使い方が、これ見よがし過ぎてクドクドしいことが多々あって、それが映画の勢いも魅力も減退させてしまうという事が度々起きてしまうのですが、『海と夕陽と彼女の涙 ストロベリーフィールズ』では、過剰な“映画的”粉飾としての空間設計をやりすぎず、物語の的確な舞台として慎重で自然な選択がなされ、きちんと躍動感を伴って活用される。そういう基本的なことが下地にあるから、ファンタジーな物語も空転せずに、登場人物たちの感情の移ろいが情感をともなって観る者に伝わってくるのだと思います。
奇抜な意匠で奇をてらうのではない、あくまで正攻法で物語と感情を見据える、そうした、作家主義に還元されない、慎ましい娯楽映画としての作法に、好感をもつ。

殊にいいと思ったのは、日本家屋の縁側や、学校一階にある渡り廊下(というんでしょうか、校舎の一部から一部に移るときに屋外を通る廊下)などの、室内と屋外の中間に位置する場所での場面、その活気づいて魅力的なこと。夏美の家の縁側でのドラマや、葬儀の行われれた建物の、ガラス戸で中庭と仕切られた縁側で暴発する感情劇はその舞台装置と相俟って、映画に印象的な区点を刻む。

屋外と室内の中間的な場での光線の巧みな使い手といえば、誰しもすぐ成瀬巳喜男の名を思い浮かべるかも知れませんし、さらに『海と夕陽と彼女の涙 ストロベリーフィールズ』では、8ミリビデオの使用からはじまって、霊の見える/見えないという装置に、様々な人物の思惑が交錯するドラマをきっちり視線劇として丁寧に仕立て上げるという、〈視線〉にこだわった映画の構築が行われていることからも、〈視線により構築される劇の名手〉としての成瀬巳喜男との類似点(もしくは、その影響)が想起されるかもしれませんが、じっさいに映像に接したかんじでいうとあまり成瀬的なものは感じられない。ああいった鋭敏で繊細な交響詩を織り上げる才能とは別種の、地道で鈍重な努力の積み重ねによって作り上げられた『海と夕陽と彼女の涙 ストロベリーフィールズ』は、どこか凡庸な印象を与えてしまうかもしれません。しかし、このような物語に感情をのせて観る者へ届けるのに必要なのは、才気や華麗さではなくて、丁寧で確かな描写なんだということを、この映画の存在は示していると思います。

物語の説明と人物紹介をするさいの簡潔な手際よさも侮れない。序盤、学校の教室内、無言でイジメの指示をだす芳賀優里亜(標的は佐津川)、そこへオフで谷村美月の怒鳴り声がかぶさる(男子につかみかかっている)のへ、毅然とした東亜優が止めにはいる。短い時間で関係と人物を分からせてしまう手腕。ことに、柔道でインターハイに出場することになった谷村美月の応援団を担任が募り、たまたまのようにして東佐津川芳賀の三人が決まってしまうダンドリはかなり危なっかしいのに、丁寧な視線のつなぎとアクションのタイミングの良さ(芳賀優里亜)でうまいこと乗り切っているあたりは確かな演出力を示したとおもう。

死神の処理の仕方はけっこう危なっかしいかんじもするのですが、しかし、悔いを残して幽霊になってしまった三人が、きっちり後悔を解消して成仏してゆくのではなく、あくまでやり残したことはやり残したままで死神に世界との繋がりを理不尽に絶たれてしまうという残酷な描きかたは、“死”を涙腺をゆるめるためだけの道具として安易に扱う幾多の映画群を前にして、倫理的な問いかけになっているともおもう。死神とは、生者や死者の都合によって現れたり出現が遅延したりする存在ではなく、とつぜん目の前に猶予なくあらわれてしまうものなのだ。一日一日をしっかり生きないといけないし、いろいろなことから目をそらしたまんまにしておいちゃいけないということ。

主演の佐津川愛美『蝉しぐれ』(05)でデビュー後、『真夜中の少女たち』→既出記事はコチラ)や『笑う大天使』など順調に映画出演をかさね、女優さんとしての地位を着実に築いている。ドラマ『がんばっていきまっしょい』『ギャルサー』などにも出演し、今作『海と夕陽と彼女の涙 ストロベリーフィールズ』では彼女の得意な〈よく転びそうなアタフタした女の子〉を着実に演じています。若者人気よりも、年配者が安心してみていられる女優として重宝されそうなかんじもあり、異性的“可愛さ”をいつでも封じて演じられるのが強みでしょうか。

谷村美月『カナリア』(04、→別記事はコチラ)がいつでも代表作であのイメージはなかなか拭えない。ドラマ『14才の母 愛するために生まれてきた』(→別記事はコチラ)がヒットしたことでようやく全国区的に顔が知られたとおもいますが、使い勝手の悪さも同時に示す。本作同様、『笑う大天使』でも佐津川愛美と共演。

芳賀優里亜には『マスター・オブ・サンダー 決戦!!封魔龍虎伝』(→別記事はコチラ)の項でも触れた。吉岡美穂を華やかにしたようなルックスだが、華やかなヒロイン役よりは陰のある役柄が多いのは大きい瞳に内に籠もった憂鬱が宿るからか。映画版『恋する日曜日』→別記事はコチラ)では華やかさと憂鬱の共存が絶妙だと思います。

東亜優はホリプロスカウトキャラバン出身、この映画のあと昼ドラながら世間的話題もさらった『吾輩は主婦である』(→記事はコチラ)に出演(斉藤由貴と及川光博の娘役)。先に撮った『海と夕陽と彼女の涙 ストロベリーフィールズ』のほうがずっと大人っぽいのが興味深い。
全体、おのおのの女優さんの特質が活かされるよう役の人物像に配慮がなされていて、それでもそのキャラクターの群像が物語と遊離しない。太田隆文監督、将来的に女優から演出されたいとラブコールがくる演出家になるかもしれないと思います。


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theme : 邦画
genre : 映画

映画『ゲルマニウムの夜』

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『ゲルマニウムの夜』

(2005年、日本、107分)

製作総指揮:荒戸源次郎
監督:大森立嗣
原作:花村萬月
出演:新井浩文、早良めぐみ、広田レオナ、石橋蓮司、大森南朋、木村啓太、山本政志、麿赤児、佐藤慶

映画化作品も数多い小説家・花村萬月の『ゲルマニウムの夜』は、芥川賞受賞作ということもあり彼の作品中最も有名な小説ですが、最良の小説でないのは花村萬月読者の意見の一致するところでしょう。『聖殺人者イグナシオ』(これも『イグナシオ』なるタイトルで映画化された)を陳腐にベタに、いかにもな純文学ふうにリメイクした『ゲルマニウムの夜』は狙いどおりの賞賛を得ましたが、そのせいで、そこから派生した『王国記』なる愚劣な連作をライフワークとさせてしまい、花村萬月がその貴重な才能と時間を浪費する羽目になった、忌まわしい小説だったとおもう。
そして時は流れ、昭和な山師・荒戸源次郎があらたに仕掛けたのは、新人監督・大森立嗣の起用による問題作『ゲルマニウムの夜』の映画化。東京国立博物館敷地内に劇場・一角座(いかにも“昭和”を感じさせる、“アングラ”な命名だ)を設けてのロングラン興行で話題を誘った。

過激で即物的な描写。いい役者の、いい顔、いい演技。荒涼とした風景に、乾いて切迫した情感が漲る。

ふつうの意味でクオリティの高い映画だとおもう。しかし、それで本当にいいのかとも思う。
〈問題作〉、〈野心作〉、〈鮮烈なデビュー作〉、〈既成概念を破壊する〉、〈問いかける映画〉といったフレーズにお行儀よくおさまる“問題作”ぶり。映画版も、安全なところから“これ見よがし”に問いかけを繰り出す、小説『ゲルマニウムの夜』が宿していた“醜さ”を無批判に継承してしまっていて、荒戸源次郎が狙った方向性を大森監督の演出は大人しく指し示す。数々のインモラルな行いと描写が連打され、価値観の破壊/再考を促すが、既存の構図/対立項のなかで程良く問題を掲げているのだから、対立項の存在基盤を揺るがすことなく、年配の識者にも安心して接することのできるカッコ付きの〈問題作〉として好評を博し得た。〈映画〉としての革新でなく、過激な題材の小器用な処理というだけの話ではないのか‥と居心地悪くおもう。(体育館での、痰とゲロとキックの乱れ飛ぶ、ドンヨリと長すぎるシーンには唯一、イメージを突破する力があった、とおもう。)

告解で殺人を告白し、神父に後ろめたくないのか問われた主人公・朧は「ぜんぜん。だって、世界は何も変わらない」と平然と言い放ち、「朧はわたしを馬鹿にしているね」と弱々しい神父のつぶやきにたいして「はい、少しだけ」と率直にこたえる。その問答はまるで、製作者たちの観客への侮蔑意識が露わになっているかのようにきこえた。世界は何も変わらない。テロ的な破壊活動にみえて、既知の安心の構図に上手におさまること。先人の手口をなぞったアヴァンギャルドなど、あからさまな反動より罪が深いとおもう。

新井浩文はいい役者だけど、朧役はやはり色香漂う美男子でないと。同じ花村萬月モノでいえば、高橋伴明の迷作『セラフィムの夜』の西島秀俊や、望月六郎の佳作『皆月』の北村一輝がいたし、『ゲルマ』の元ネタ『イグナシオ』では、ほぼ同じ役をいしだ壱成が演じていました。いかにアートだアヴァンギャルドだと言っても、工業高校の生徒然とした風貌の新井浩文が誰も彼もを虜にしてしまうというのは、ちょっと無理があると思います。

theme : 邦画
genre : 映画

買った本、『物質と記憶』ほか

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家から二駅のところにあるモール内の本屋で、ベルグソンの『物質と記憶』、阿部和重・中原昌也の『シネマの記憶喪失』を購入。『シネマの~』は仕事場(お店)のある高円寺の書店で探していましたが無くて、結局近所でみつけた。

ジル・ドゥルーズ『シネマ』の邦訳がようやく去年出て暮れに買ったのですが、『シネマ』という本では、ベルグソンの『物質と記憶』の流れにそって映画のイメージを分類する作業が行われている、そういう構造だという記述をかつて読んだことがあったから、じゃあ未読だったその『物質と記憶』を読んでからにしようと探していましたが岩波文庫版が入手困難で、なんとなくそのままになっていたのが、新訳としてちくま学芸文庫から出ているのを見かけてゲットしました。
ちくま学芸文庫(以下、ちく学)が創刊当時は、なんと値段のバカ高い文庫シリーズだろうと、講談社文芸文庫シリーズのとき以上に驚愕したのでしたが、最近はどこの文庫も高くて、ちく学の値段設定は安すぎるのではと、かえって心配になってきた。うろ覚えですが、ちく学の最初期配本には、たしかユングの『変容の象徴』(巨大なハードカバー版を持っていたのにメンドーくさくて読んでなかったらまさかの廉価版発売で、たいへんショックを受けた記憶が‥)や、蓮實重彦『監督 小津安二郎』なんかがあったとおもう。

で、蓮實重彦といえば、阿部和重&中原昌也の『シネマの記憶喪失』というタイトルの元ネタはもちろん、蓮實『シネマの記憶装置』のモジリなのですが、出来れば装丁も『~装置』に似せるというアソビが欲しかったとおもう。金井美恵子の『文章教室』のデザインが、丸谷才一の『文章読本』の装丁をモチーフにしてたみたいに‥。まあ金井美恵子のばあいは、多少(丸谷才一を)小馬鹿にしたニュアンスがあったからトンチが効いていたのであって、蓮實氏をリスペクトする両氏がやっても卑下にしかならないから、パロディとしても弱々しいか‥〈喪失〉という単語の採用は自己卑下の意識のあらわれなわけですし‥。

しかしじっさいのところ、『文章教室』も『文章読本』ももう文庫本でしか手に入らないのだろうから、単行本だったころの装丁に込められた狙いの話など、忘れさられていく一方でしょうし、『喪失』が『装置』のモジリなんていうのも、説明不要の大前提の事柄だと思って油断していたら、近未来では知らないひとばかりということになりかねないのでしょう。たとえば、高橋源一郎の文芸時評書『文学がこんなにわかっていいかしら』が、当時のベストセラーダイエット本『こんなにヤセていいかしら』からつけられたタイトルだったと、いったいどれだけのひとが現在記憶に留めているのでしょうか‥?

theme : 雑記
genre : 本・雑誌

『ロトセックス』フルモーション⑩

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『ロトセックス』
フルモーションレーベル⑩

(2006年、日本、68分)

製作・脚本・原案:永森裕二
監督:廣田幹夫
出演:南波杏、nao.、松浦祐也、中野裕斗、いとうたかお、金原亭世之介

ジュンコは、夫が失業以来、ギャンブル(特に宝くじ)狂いになってゆくのにたいして困惑していたが、ついにキレて“宝くじ禁止令”を発令する。そのかわり、ジュンコは〈家庭内宝くじ〉を発案、その一等は妻とのセックス‥。

ついにフルモーションレーベルも第10弾の『ロトセックス』。監督は前作に引き続き廣田幹夫が担当。前作『アイノシルシ』を観たときには、〈夫婦の性に特化した〉というこのシリーズの焦点がブレ、主題が〈夫婦〉から〈家族〉に移行していこうとしていると感じ、このシリーズの限界と終焉の予兆ととりましたが、記念すべきこの第10話ではシリーズ原点に立ち返った感があって、まさに“ある夫婦の、ある性/愛のかたち”が描かれていて、心豊かな気持ちに包まれました。

『アイノシルシ』が同シリーズの中核的代表作『脱皮ワイフ』の焼き直しだとしたら、今作『ロトセックス』も、同じく同シリーズの発端となる第1作『クエスチョン』のリメイクとも言える物語(あるゲームのルールに従って、夫婦の性的距離が変動する)で、期せずして、廣田幹夫の二作品は、フルモーションレーベルの歴史を概観する作業ともなった。

おそらくコピー的な発想で、まず“ロト6(シックス)”のもじりとしての『ロトセックス』というタイトル、まずそのタイトルありきだったろうと思われる『ロトセックス』という企画がスタート(推測)、そこから導きだされた物語は〈夫婦の性的結合を、家庭内宝くじで決定する〉という無理矢理なもので、観る前は失敗している予想しかたたずに、正直なかなか観賞する気になれませんでしたが‥。

翌朝にジャンボ宝くじの発売開始をひかえた、深夜の宝くじ売り場、シネスコサイズの横長画面に並ぶ列を作るうらぶれた人々に、通りすがりの浮浪者が、どうせ当たんねーんだ、ラクして金儲けしようとしないでとっとと帰れ!ともっともな罵声を浴びせる。
列にならぶ人々のなかに、薄汚い長髪に無精ヒゲ、見るからに甲斐性なしのダンナ・亭一郎(松浦祐也)と、退屈してアクビする妻・ジュンコ(南波杏)がいる。二人のややダサめの“軽妙な”会話で状況説明がなされ、「希望をもって、生きていかなきゃね。」のポジティブな呟きとともに、メインタイトルロゴが二人の上にさりげなく被さる。

ダンナの松浦祐也は失業中で、就活も失敗つづき、各種ギャンブルでダラダラと日々を無為に過ごしている。ほぼヒモと化したダンナを尻目に、タクシーの配車係として日々働き家計を支えている南波杏は、ふがいないダンナや職場でのストレス(やる気なく仕事をする茜(nao.)が同僚で、そのサボりのしわ寄せは南波杏にくる)にイライラは募る一方だ。

『アイノシルシ』同様、あか抜けないタッチとシネスコ画面は、これまでの洗練された映像美が印象的だったフルモーション諸作と異なっていて、今の映画というより70年代日本の青春映画を思わせる。そのテイストには序盤違和感を感じましたが、そこにある温かみと空気感は、やがて物語の推移につれ夫婦のお互いを慈しむ気持ちが露わになってゆくに従って、じんわりと幸福な同調を示していると感じさせ、徐々に納得させられてゆきました。

半年もプーをやり、毎日あげる小遣いもギャンブルにつぎ込み浪費する彼にイラつく南波杏は、そんなにクジやりたいなら自分たちで作っちゃえばいいと提案する。「どうせ普通に買ったって当たんないし、人に出す分のお金なら、それをあたしがあずかっといてあげるよ。」

かくして、家庭内宝くじが開始される。回転する扇風機をダーツの的に見立てて、0から9までの数字を割り振り、矢を6投して当てた数字が当選番号になる。ダンナは一口千円を投じ、予想する6ケタの当選番号を紙に書く。合致した数字のケタ数にしたがって等級が決められるという仕組み。

しかし、これが当たらない。日々チャレンジするダンナだがせいぜい五等〈キス(下2ケタ的中)〉止まり。妻に朝もらう2千円、「こうなりゃ意地だ。絶対当てる。」「てゆうか、働けよ。」
杏が仕事からかえると、パチンコで増やしたという一万円をもってダンナが待っていてチャレンジする。五等に2枚分のこり、2枚分だからとあらんかぎりのキスをする、潤む杏、四等、1枚のこり、〈乳もみ〉、杏も声が出る。三等。残った。〈おさわり全般〉、服を脱がせて触りまくり、ふたりで悶える。その流れを得て挿入しようとすると「ダメ」と杏。当てりゃいいんだろと次投。ハズレ。杏は部屋を出てゆき、シャワーで濡れそぼり、体の火照りを冷ます。

通常であれば、ゲームのルールに従って進んでゆくが二人の関係に変化が生じて、ルールに愛や欲望が勝り結合するに至るのが順当な展開だとおもう。しかし『クエスチョン』ではそのルーティンに従った結果、クイズというネタはあくまでフックに留まり、必然性の薄いガジェットの領域に甘んじ空転感を与えた。
それに対し『ロトセックス』では、南波杏演じるジュンコはルールをあくまで最期まで尊守し続け、愛や情によってウヤムヤにしたりはしない。そのことが、発端もネタも不自然で奇抜なガジェットにしかならなそうなところに、違う方向から必然性の光を当てることになる。

杏=ジュンコだってダンナを愛しているし、肉体的な結合も求めている。だが、目的は当たる当たらないではなくて、負けグセ、諦めグセのついたダンナ=亭一郎を支えてシッカリさせるためなのだった。だから、お互いかんじあい、求めあってもナアナアには決してさせずに挿入を拒絶する。男としてのダンナを支えて、きちんとさせることを自分の快楽や利益や幸福より優先させる。すごく、大きな愛だ。と同時に、あまりにキッチリが行き過ぎてて可笑しくもある。

失業しているのは自分のせいじゃないのにとボヤく夫が、「持たせてほしいなあ、モチベーション。なんでもいいから勝ちグセつけてーよ」と訴えるのに対しては仕事を見つけてくることを条件にルール変更を了承する。ダンナが勝ちグセをつけ、前進する力をつけるためなら杏=ジュンコは折れるのだ。

「じゃあまず、四等は手コキだ。」「え?」「だって、おさわりも乳もみも、お前が気持ちいいだけじゃん。」「いいわよ。」「三等は‥スマタだ。(略)二等は‥茜ちゃん(mao.演じる配車係の同僚)どうだ。」社内援交をしてるnao.は、亭一郎にコナかけたことがあった。他の女とスルことを持ち出した時点で、彼女がキレてルール変更話はご破算になってもおかしくないのに、一度言ったことをを厳守する杏=ジュンコがなんと承諾するのが可笑しい。「でももし当たったったらね。」しかしのちのシーンで、その二等が当たってしまい、さすがにダンナも「やっぱりやめよ!?」と提案するのに、あくまでナアナアは己に戒めている杏=ジュンコは「あした話してくる!」「ノリで書いただけだし‥」「ダメ。ルールでしょ。」かくして奥さんの推進でダンナが浮気という奇妙な状況に‥。

ルール変更の条件として南波杏は「仕事みつけてきてよ」とダンナに突きつけたのだが、ダンナは給料いらないからと必死で頼み込んでホントに無給の仕事をなんとかみつけてくる。ふつうなら、家計の苦労を軽減するためなり安定なりを考えて、奥さんは無給の仕事なんてなに考えてんのバカじゃないのと罵倒しそうなものなのに、ダンナのモチベーションややる気の持続、勝ちグセをつけさせてあげたいとかそういうほうを優先する杏=ジュンコはそれを黙って認め、ルールを尊守したダンナの行動を尊重するのだ。

今回主演女優の南波杏、これまでのフルモーション作品でもトップ級のAV女優が数多く主演しましたが、南波杏は正真正銘トップ中のトップ。その起用は10作になる節目としての力の入れようを感じさせますし、共演のnao.もまた名の知れた人気女優で、一瞬ダブル主演かと思わせる。nao.が気だるくユルい女として色気を発散するのと対照的に、南波杏は毅然として硬質な知性を漂わせ、欲望を抑えた瞳が切なく愛をかたる。シリーズ全般を通して言えますがAV畑の方々の演技は本気で上手くて安定感があるとおもう。テレビドラマ『下北沢GLORY DAYS』に出てた方々も全般安定していたし、正直いろんな意味で普通の女優には脅威だと思うのですが‥。

南波杏と同じ配車係で、ダラダラとやる気なく働く茜=nao.は、いつでも“じゃがりこ”を手放さずボリボリ食べていて(この辺のギャグは永森流)、へるもんじゃなしと男性社員はパンチラサービスで手懐ける。お金もらわないと不倫でしょ?不倫のほうがよっぽど悪いという妙な理屈で社内援交をおこなっていて、南波杏のデスクの上で不倫/援交相手のマミヤと絡む。シネスコは通常のショットだと遠すぎ、絡みの場面ではカメラが近すぎて肢体は断片的にしか切り取られず、溢れでるだらしない色香を描写しきれなかったのが惜しい(nao.に限らず、南波杏の絡みのシーンも失敗ぎみで、シネスコサイズとカラミのシーンの相性に対して、撮り手に戦略が足りなかった、とおもう)。
しかし、最期には援交がバレてクビになる。杏=ジュンコがルールに従ってダンナを茜=nao.の元に送りこんだあの日、ふたりはシテいなかったと彼女は杏=ジュンコに告げる。そのとき以来援交はやめたのだという(そのため、不倫/援交相手のマミヤにチクられた)。nao.は「ハイ」とじゃがりこを南波杏にわたし、「じゃあね。」と言って職場から颯爽と去っていった。

ダンナは職場に認められて少額ながら給料をもらった。帰りにふと宝くじを買ってかえってきた杏は、じゃがりこ片手に宝くじを並べだす。そこへ帰ったダンナがそれをみて驚くと「なんか、降りてきた気がしたから。」と杏。じゃ俺もと給料全額ロトセックスにつぎこむダンナ。スマタ止まり。じゃ、立ってやろ。うん。あたしたち、セックスレスね。死ぬまでに、一度は当てたいね。うん、当ててね。

お互い求めあい、愛し合って、ダンナも成長したのに、あくまでも最期までルールを曲げないのが可笑しく、ヘンな夫婦のヘンな関係だけど、本人たちの出した答えで本人たちが愛情をもって幸せみたいだからそれはそれでいいか、とあたたかい気持ちになり、いい夫婦関係だとジーンとする。

前作『アイノシルシ』からは中野裕斗が再登場。めでたく亜紗美の家族の一員となって日々を暮らす彼でしたがタクシーを停めて自慰をしているところを南波杏に目撃され、『アイノシルシ』での奇妙な家庭生活の後日談を語ります。ちゃんとストーリーの一翼を担っているのがうれしい。

‥これでシリーズ終了、有終の美だったら良かった(?)のですが、フルモーションレーベルはまだつづくようで、次作、第11弾は『ギネスの女房』。近日発売。

theme : 日本映画
genre : 映画

桐野夏生『魂萌え!』

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桐野夏生『魂萌え!』、新潮文庫版で読了。

桐野夏生から何となく興味が薄れていったのはいつ頃からか。一般デビュー作の『顔に降りかかる雨』から、好みではないけど大変な熱量のある小説というか小説の熱気にあてられて、つられるようにして読み続けてきました。何だかんだ言っても『OUT』だって充分面白かったし、『柔らかい頬』はかなり凄い野心的な小説で、はっきり傑作と断言したい作品だと今でもおもいます。

それがいつの間にやら、『光源』あたりが何となく分岐点か、わかっちゃったような気持ちになって、追っかけるのがめんどくさくなって、この『魂萌え!』が出たときももうあまり気にしませんでした。

阪本順治の最新作が『魂萌え!』だときいても、通常、原作つきの映画はよほどマイナーな小説でない限り、読んでから観るのが自分のスタンスなのですが、今回、そこはサボって一週間以上まえに観に行ったのですが‥。

前売り券もゲットしマックで食料も買いこんで、上映10分前に映画館のまえに立ったとき、ケータイが鳴った。出てみると高円寺の店からで、今日メインで料理(ストーブ)をやるはずの人が両手を切るケガをしたとのこと。観賞を断念し、映画館のまえから立ち去ることになってしまった。

それ以来、前売り券が宙にういたまま行くチャンスが未だに来ない。これは、小説『魂萌え!』を読んでから映画観ろというお告げだと前向きに受け止めて、買って読みました。

思ったより粘着質な描写がなくサバサバしているのは、作者の年齢的なものか。結末が映画と原作で違うという話はきいていたので、読了してますます観たくなったが次のチャンスまで果たしてまだ上映しているかな?と、ヒットしていることを願う。

普段の行動範囲ど真ん中の立川が頻繁に出てくるので、あそこでロケだったら面白いな、とか、想像しつつ読み進めました。

theme : 読んだ本。
genre : 本・雑誌

『マスター・オブ・サンダー 決戦!!封魔龍虎伝』

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『マスター・オブ・サンダー 決戦!!封魔龍虎伝』

(2006年、日本、92分)

監督・動作設計:谷垣健治
製作統括:倉田保昭
出演:木下あゆ美、芳賀優里亜、椿隆之、永田杏奈、小松彩夏、アドゴニー・ロロ、千葉真一、松村雄基、倉田保昭

怨霊が黄泉より蘇り人を襲いだした。千四百年の昔より伝わる、悪霊を封じ込めるための秘儀〈鬼封じの法〉を用いて怨霊を封印すべく、〈青龍の七人衆〉の縁者、子孫が集結した‥!

木下あゆ美出演作の最新は、TBSの昼ドラ『結婚式へ行こう!』ですが、ここでの木下あゆ美は、主人公である親友アオイ(石橋奈美)の結婚式当日に新郎リョウスケ(坂上忍)を奪い逃げておいて、その直後、いけしゃあしゃあと被害者当人のアオイの家に居候して、あまつさえ何かにつけてアオイにニャーニャー懐いているという、信じがたい妹的キャラ・マコトを演じています。このリアリティもへったくれもない役を、意外と嫌味なくどこか可愛げもある人物として体現し得ている木下あゆ美は、じつはなかなかの役者さんだとおもう。

この『マスター・オブ・サンダー 決戦!!封魔龍虎伝』での木下あゆ美の起用は、代表作であるデカレンジャーのジャスミン方向からの抜擢でしょうが、こういった、正面からリアリティをうんぬんするのが難しいような題材を成り立たせるだけのモノをもっていると感じさせるのでしょうか。芯がとおって背筋のスッのびた凛としたかんじと、舌足らずで無防備な部分が同居していて、頑なで抜けてる、硬質で幼稚、という振り幅をもっていて、それが少々苦しげな世界観や物語でも何とかしてしまう“大きさ”となっていると思います。

テレ朝系列の特撮戦隊もののヒロインのひとり(『特捜戦隊デカレンジャー』)、テレ東深夜ドラマのダークで妖艶な役(『怨み屋本舗』)に、TBS昼ドラの女の群像劇の一員(『結婚式へ行こう!』)、そしてこのVシネチックなファンタジーアクションの本作と、ムダにバラエティーに富んだ役柄を難なくこなす。〈アジア震撼!日本が誇る国際的2大アクションスター初バトル遂に実現!千葉真一VS倉田保昭〉と銘打たれた、2大スターの競演と、谷垣健治のアクション監督としてのこだわりぶりに注目が集まるこの映画ですが、実質、作品世界を負って立つ役柄を木下あゆ美が気負うことなく演じていて見事だと思います。

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お話は、里見八犬伝みたいな話のバリエーションで、無理のあるところが色々ありますが、こういう映画で細かくアラ探ししても生産的じゃないのであたたかく見守るべきでしょう。しかし、『七人のおたく』みたいに、アキバ系オタク、ナンパ師、コスプレ、ギャンブルなど様々な特性や属性をもった仲間が集結したのに、ほぼ誰の特技も役に立たないどころか、集めた面々は誰一人として事件の解決に関与しないまま終わるというのは、それはいくらなんでも‥。

さて、選ばれた勇士たち7人の面々、ターゲット(非モテ系男子)を想定してか、妙に美少女(アイドル)比率がたかく4名、それに対して男はオタク1名お笑い系外人1名と、ようやく最後にイケメンひとり。しかもそのイケメン(椿隆之、『仮面ライダー剣』)も軽いナンパ師で、女の子たちとステキなロマンスに陥って前面に出てきたりとかいうことはなくて、物語の後景で大人しくしていますから、非モテ男子が疎外感を感じないで済むように配慮されている(?)わけです。

ガリ勉少女役の芳賀優里亜『仮面ライダー555』発。映画は『恋する日曜日』(06、→別記事はコチラ)、『海と夕陽と彼女の涙~ストロベリーフィールズ~』(06、→別記事はコチラ)、『Voices』(05)などに出演。使い勝手がいいんだか悪いんだか、微妙な成長過程にあるひとかと思います。なにげに塩田明彦の『どこまでもいこう』(99)や『害虫』(03)に出ていたらしいのですが全く記憶にない‥。数年後には名をあげて、今度はメジャーな部類の塩田明彦作品に是非!

メジャー作『僕は妹に恋をする』(06、→既出記事有り)の好演で名が知れ、今後引っ張りダコ必至と思われる小松彩夏は、去年は『ドリフト』2部作(→既出記事有り)と『僕妹』(公開は2007年)、それにこの『マスター・オブ・サンダー』と映画に盛んに出演しました。『恋文日和』(04、→別記事はコチラ)を含め、アンニュイで儚げな、陰のある役を演じて印象をのこしていますが、今作では実写版『美少女戦士セーラームーン』からの流れでの出演か、まんまコスプレする美少女役。カラッとした明るめの軽い役柄も悪くなく、メイド姿などコスプレも見所。今後、安藤希とポジションがカブりがちかとも思うが、ダークなほうに行き過ぎない、明るさのある声質が救いにもなる。

アクションはインパクトのスピードと“痛さ”の表現に焦点。ただ『マッハ!』や『トム・ヤム・クン!』を観たあとでは、早回しはやっぱりシラケるところ。キャストがちゃんとアクションシーンを頑張ってる部分は好印象。
そして、千葉真一のアクション。千葉真一にたいして、斜めから笑いつつみようという向きもあるかも知れませんが、動きと動きの間を繋ぐ“タメ”の演技/アクションが、やっぱり素晴らしくて、老獪なレスラー(武藤とか)みたいになるのがアクションスター晩年の正しい在り方かとおもう。ジャッキー・チェンみたいな変わらぬ方法論だと、今のジャッキー映画が、その若いころの映画にかなわないのは必然となりましょう。

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genre : 映画

映画『僕は妹に恋をする』

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『僕は妹に恋をする』

(2006年、日本、122分)

監督・脚本:安藤尋
原作:青木琴美
撮影:鈴木一博
出演:松本潤、榮倉奈々、平岡祐太、小松彩夏、浅野ゆう子

双子の兄妹である頼と郁は同じ高校に通う高校三年生。郁は、幼いころから変わらぬ特別な想いを頼に抱いているが、ここのところ、頼は何を言っても冷ややかな反応しかかえしてこない。そんなとき郁には矢野が、頼には楠友華が接近してきて、兄妹の関係と感情に化学変化を起こす。そして、郁への想いを抑えていた頼はついに気持ちを彼女にぶつける‥。

大ヒットした少女マンガの映画化である本作は、松本潤、榮倉奈々、平岡祐太といった旬でなおかつ女子人気の高いキャストをそろえ(小松彩夏は違うか)、原作ファン(ティーン)に限らず一般女性層にもアピール可能な布陣を敷いた。しかし、このキャストでは、原作ほどのスキャンダラスな描写は望むべくもなく、更に、安藤尋が監督をつとめるとあっては、映画は原作のガチャガチャした雑多な魅力からは遠く離れた、息詰まる静謐なものとなるでしょう。

こうして、物語骨子のエッセンスを抽出されて別物となる定めを負った映画版『僕は妹に恋をする』は、原作のファンを困惑させる出来になっているかもしれません。映画版『僕は妹に恋をする』では、双子の兄妹の恋愛、という元々の観念的かつ神話的な出発点に立ち戻り、物語を動かす“外的要因”としての多くのエピソード群や事件は極力排されています。そうして、映画は、主要人物たちの〈感情〉のみに特化した抽象的・神話的な世界観をつくりあげる。映画を動かすのは、恋する者を妨げる社会や家庭の用意する障壁ではなく、あくまで恋愛主体たちの感情の揺れ。

母親は、ふたりの関係を怪しみはじめるが、それによって障害やサスペンスが生じて物語を形作るということはなく、母親の存在は傍景にとどまる。

あるいは、このような題材から推測される語り方からすると、かなりの禁忌/タブーをおかすことになる二人の恋の成就は、幾多の社会的慣習や葛藤を乗り越えてタメてタメてなされるのことになるのが常道であるはずなのが、(郁/榮倉奈々の真っすぐな気持ちは最初から顕れているが)頼/松本潤の本意がじゅうぶんに観客に浸透するまえに、序盤でさっさと二人は結ばれてしまう。(この、二段ベッドを舞台に、寝ている郁/榮倉奈々に頼/松本潤が唇をよせていき、郁は目覚め動揺する、頼は、ずっと、好きだったんだ、と告げ、自分か自分以外のヤツか、選んでくれと迫り、郁は受け入れ、キスをして、抱き合うまでの一連のシークエンスは、息づかいと感情の揺れが伝わる、さすがの処理。)これは社会であったり、家庭であったりする〈外的障壁〉との葛藤によるサスペンスを描くことが、この映画の主眼ではないことの証左だ。

その後、映画の大半は、主要人物の4人の思惑と恋情の交錯をじっくり描き出すとともに、二人の神話的な禁断の恋の着地点を模索し、探求し続けることに費やされることになる。

安藤尋は新鋭(‥と思っていたらもう10年選手だった。時の流れははやい‥)のなかでは確かな実力を感じさせる監督で、『blue』(03)『ココロとカラダ』(04)が一部で高評価を得ているが、苦手なひとも多いらしい。廣木隆一門下らしく、登場人物の呼吸音が響いてくるようなささやかな空間と時間のなか、感情の粒子が空気中に浮遊し、たゆたうように、少しずつ人と人との“関係”の“かたち”が変容していくさまを捉える長回しを得意とするが、ある種、役者の生や性の輝きを最優先する廣木演出と異なり、安藤尋のばあい、作品の構造と語りのプロセスの厳密化に志向をつよくもつ。『dead BEAT』(99)では借金苦を発端に不可避的に犯罪に至り、その犯罪による波紋が事実として累積してゆくさまが説話構造の厳密さとして形成されていた。『blue』では、同性愛的な魂の交錯関係をもつことになる二人の少女が、〈少女的なもの〉を形成するふたつの側面を二分した人格として、現在の空虚を埋める手だてとしてそれぞれの自己発現を示すが、その対比が縦の構図と横移動、静物画と接吻のモチーフと併せて厳密に構成される。『blue』での他者への依存の在り方は『ココロとカラダ』で変奏され、女主人公二人の、両者の依存と主導権争いを綿密に運動化し、脱色的に破滅へと向かうさまを構造化する。(『blue』での少女二人は東京にでてルームシェアする夢を果たせず、一人だけが東京へゆくが、『ココロとカラダ』はその後の二人を引き続き描こうとするかのように、先に東京にでた少女を追うようにしてもうひとりの片割れがその部屋に転がりこむ。)
どこか開放感をおぼえさせる廣木演出と異なり、安藤映画にあるこの種の厳密さは、息苦しい圧迫感を観客にあたえ、敬遠される要因ともいえると思います。

『僕は妹に恋をする』においても、環境音や自然光や息づかいなどの生理が溢れかえっているにも関わらず、自由な空気感とは程遠い濃密な閉塞感のなかで神話的宿命を背負ったふたりの道ゆきが探求されてゆく。

画面の構造化と連鎖する説話の厳密化は、おおよそ以下のように示されます。

冒頭(幼なじみの少年少女がやがて離ればなれになるホウ・シャオシエン『恋恋風塵』と瓜二つのファーストショット)、真暗な画面の中央に白い光がみえ、やがてそれがトンネルの出口へと向かう列車の視点によるものだと判明し、やがて画面全体に広がった光はハレーションを起こす。その列車は幼少時の二人に永遠の愛の約束を交わす〈約束の地〉に至る。
この、画面上手前の空間は暗く、奥の別空間は明るく(明るすぎて)不可視、という縦の構図は以後反復され(階段をのぼり屋上へ至る場面や、体育館と屋外の道を同時にしめす場面など)、クライマックスの再びのトンネル場面、及びラスト、〈約束の地〉から画面奥に二人が遠ざかってゆく遠景のシーンで閉じられる。(不可能性への〈希求〉の主題。)『blue』でも、幾度も登場する縦にのびる野道は、海と空の接するあの海辺、小西真奈美と市川実日子のふたりだけの〈約束の地〉へと通じていて、ラストカットで再び出現することで、その円環を閉じていた。

あるいは『blue』でも描かれていた〈並ぶ〉ことの主題(鏡/重複/対比の主題)。キリがないので主なものの列挙だけ。並んで横たわること(そこで向き合ったり、あるいは片方がいなかったりという変奏)。二段ベッドという空間で同方向をむき横たわること(結ばれる=それが重複する/重なりあう)。それぞれひとりずつの別の異性のパートナー(片方がデート中に、もう一組もデートする)。自転車に二人乗りし同方向を指向。そして、本作でも秀逸で印象ぶかいキス描写は勿論、相互侵犯的な性交と異なり鏡面対比的な接触だ。阿部嘉昭は『blue』評で〈接吻には濁った欲望がない〉〈だからそれは最終的に口と口との友愛の接吻に転ずる〉と指摘した。それに準じれば、本作でも、キスのみで描かれる松本潤と榮倉奈々の性愛が、ラストで友愛に至るのは必然だった。
そして、並列/重複/反復/鏡面対比の主題は、乱反射するクライマックスの、交互に背負いあい、幾度も往復するシーンで最高潮に達する(また、直接的には性交が描かれない今作において、ぼぼ性交描写ともいえる場面)。

大ざっぱにいって上のような厳密化された構造内で、抽象化された双子の兄妹の恋愛〈感情〉が綴られてゆく。映画内部に運動をもたらすのは(いずれかの)恋愛主体者の感情によってのみで、いわば映画全体が恋情の運動体そのものとなる。その蒸留された観念の抽象化がやはり息苦しさを映画にもたらすが、双子の恋愛の成就という題材の神話性は、純化した感情運動の抽象性と相性良く、“エモーションの持続”を特化するという属性をもつ長回しの多用も、神話的物語に肉体と感情を定着させた。

演じる役者陣は、郁役の榮倉奈々、頼役の松本潤も悪くはないけれど、印象鮮烈なのは楠友華役の小松彩夏。『恋文日和』(04)『ドリフト』(06)でも印象を残しましたが(『マスター・オブ・サンダー/決戦!!封魔龍虎伝』(06)では、別の意味で‥)、今作での、望みのない想いに存在を賭ける、“哀しみ”を少女の身体と大きい瞳に宿す儚いつよさは格段に鮮烈で、宿命的に空虚に墜ちてゆくさまは安藤映画のミューズを体現してみえます。それに比べると、松本潤と榮倉奈々は、頼や郁というよりはまだ、“松本潤”であり“榮倉奈々”であり、代表的イメージである『花より男子』『ダンドリ。』のバリエーションにみえてしまっていたかもしれません(ただし榮倉奈々の身長の高さは、妹萌え的誤読を拒絶する存在の確かさを画面に刻み得た、と思う。)

秀作だとおもいます。ただし、欠点がないとは言えないとも思う。まず冒頭の回想場面、ふたりの子役の“笑顔”の演技は、映画全体をぶち壊すほどの破壊的ダメさでした。そして、そもそもその〈約束の地〉の舞台設定が観念に傾きすぎ、かつ、あまり魅力的な映画的空間になりえていなかった(同様のことが、二段ベッドの空間設計にも言えると思います)。
また、人物の生の輝きより、ときに構造の厳密さを優先する演出は、例えば“振りかえる人物”をカメラの回り込みもしくはカット割りで捉えるときなど、人物の動きが死んで、仕草が亡霊化してしまっていると感じる‥段取りと丸投げの混乱が起きているんじゃないかと‥。
あと、ささいなことですが、最も良いと思えた、松本潤と小松彩夏がふたりで歩き、ホテルに入り性交に及ぼうとする一連のシーン。国立の大学通りを横切るカットから、脇道に入り古びたラブホがあるカットにつながるのですが、国立市は文教地区なのであのような施設は駅前にはないのだった‥。べつに、国立を舞台にしているわけでなくて単に無名の一本の通りとして使用したんでしょうが‥良いシーンだっただけに、個人的ながら興がそがれたことが残念でした。

しかし、最大の問題は、このような長回しと厳密な設計による勝負の仕方が幾分80年代的な古めかしい戦略にみえてしまうことで、果たして時代/題材とキチンと向きあって戦い得ているかというとやや疑問が残ります。その閉塞感が、映画を観る者に停滞した息苦しさを感じさせ、〈恋愛物語〉が純粋に〈恋愛感情〉として突出して結晶しようとするのをどこか妨げているとおもう(厳密な長回しでは世界一のテオ・アンゲロプロスが、『霧の中の風景』(88)『こうのとり、たちずさんで』(91)あたりを世に問うたときには、両方とも偏愛する映画ですが、さすがにもうこの巨匠の時代的役割は終わっているんだなと寂しさを感じさせた)安藤尋には自分の作風を貫くことでではなく、毎作ごとに自己を刷新してゆくことでブレイクしてもらいたいと思う。

しかし、そのような問題があるにしてもないにしても、いかにも“映画らしい映画”を、それを求めてもいないし体験したこともないかもしれない観客層に経験させることになるとしたら、それはとても貴重なことだったと思う。

映画館は比較的若い女性客が9割以上を占めていた。いつも試写室で映画をみるような人種には無縁のことなのでしょうが、この『僕は妹に恋をする』を、男性ひとりで観にいくのは相当な勇気が必要だ。もっといえば男性ふたりで行くのも三人でいくのもかなりハードルが高い。自分のことでいえば、異性と行くことを画策したがあえなく頓挫し、結局ひとりで行き、変質者に思われやしないかと戦々恐々として観る苦行となった。
そのような中で観る『僕妹』は、10代20代のその手の女性客の、あまりのマナーの悪さに観賞を阻害されることに。おしゃべりは上映中はそんなにないのですが、とにかく上映中、絶え間なくサラウンドでビニールをガサガサやる音がきこえる。息づかいの音を基調としたような緊張感ある長回しのシーンなどでは、殊更ガサガサは耳につく。よって、音響がじゅうぶんにはきこえてこない場面もあった。監督はじめスタッフも、客層を含む上映環境にまでは計算が行き届かなかったのではないでしょうか‥。

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theme : 僕は妹に恋をする
genre : 映画

映画『三年身籠る』

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『三年身籠る』

(2005年制作/2006年公開、日本、99分)

監督・原作・脚本:唯野未歩子
出演:中島知子、西島秀俊、奥田恵梨華、塩田三省、木内みどり、丹阿弥谷津子

末田冬子、29才。出産を間近にひかえているが母親になる実感がわかないまま日々を暮らしている。夫の徹は冬子以上に親になる自覚がなく愛人と浮気したりと、気ままに親になる猶予期間を生きていた。ところが冬子のお腹は大きくなるばかりで、いつまで経っても産まれてくる気配がない‥。

女優・唯野未歩子が放つ初監督作品(自主制作の短編作品有り)。自主映画女優として出発し、やがて新世紀日本映画の象徴的存在となった彼女は、いわば新世代の室井滋か。と言われても全然嬉しくないでしょうが‥。

一般的には誰それ?という知名度だと思われる唯野未歩子、ネイチャーメイドのマルチビタミンのCM出てた、米粒につのだじろうが目鼻を描いたような顔のひと、と言ってかろうじて通じるかどうか‥。しかし無名だろうとなんだろうと、そのすごさは主演作含む出演作群をみれば一目瞭然、『フレンチドレッシング』、『クルシメさん』、『大いなる幻影』、『ナイン・ソウルズ』、『恋する幼虫』、『透光の樹』、『血と骨』、『いたいふたり』、『犬と歩けば チロリとタムラ』、『それでもボクはやってない』‥。個人的な好悪で一部恣意的に題名を挙げるのを省いた映画もありますが、確かな作家の映画ばかり選んで出演し、しかも映画はその監督の仕事のうちでも最高傑作やそれに準じる作品が数多く含まれている。奇跡のような選球眼というべきか、“日本映画の神”に選ばれし女優なんだと納得するべきか。
とにかくそんな若手の女優さんが監督作品を世に問うたとなれば、その出来とは無関係に、無条件に祝福するべき出来事だとおもいます。

『三年身籠る』という題名からもう物語はぜんたい大体明らかで、女性が三年身ごもる話。そのようなわかりきった話をどのように力点をおいて語り、魅せるのか、あるいはまた、観客からしたらどのような魅力を映画に感知してノることが出来るのか。という、特殊な物語だが賞賛も批判も語り口の工夫に焦点がおかれる、ある種プログラムピクチャーでの評価のされかたに似るとおもう。

さて、データ的根拠もなく、勝手な想像というか印象でものを言いますが、“唯野未歩子”には東京郊外の匂いがあると感じる。

武蔵野台地からはじまって、奥多摩にかけて徐々に標高があがってゆく範囲の土地での、冬の外気は肌寒く葉の落ちた季節、晴れた弱々しい光も室内では窓を通して肌にあたたかい感覚。彼女の存在に接すると、そんなイメージが湧きます。
井口昇『クルシメさん』や黒沢清『大いなる幻影』に出演していたときの唯野未歩子から受けた印象も多分にあるのでしょうが、村上龍の文章から地方出身者の香りが露骨に漂ってくるように、唯野未歩子が醸しだす羞恥と鈍感の混在した性質は、東京多摩地区的なものを感じさせます。

監督作となる『三年身籠る』でも、たとえ本人が画面に姿を現さなくとも、そこには都心でもなく地方でもない、多摩の気配が精神として充満している気がする。

冒頭。少し肌寒そうな大気のなか、弱い光が視界全体をぼんやり浮かび上がらせる早朝、誰もいない道を掃く女がいる。中島知子。無表情とは違うが、何をも指向していない表情を表層にたたえて掃き続けている。
周囲を掃き終えて後ろを振りかえるとそこにもゴミが落ちていて、気になった女は下がってそれもチリトリに押しこむ。と、またその後ろをみるとゴミがある。真ん中に一本道が一点透視で画面の上へ消えてゆくロングの縦の構図が示され、その道を真っすぐ下がってゆく中島知子が示されると、一転横移動になり山林まで辿りつき掃き続けているカットに飛躍する。

中央線を下ってゆくと、八王子あたりで急に空気が冷え、そこまでは平らな土地がつづき民家が密集しているがその底冷えするかんじが山地と隣接した土地なんだということが意識されます。そのあたりから寂れた奥多摩へむかう道が伸び、木々は鬱蒼としてくるかわりに枯葉はふえ低温の自然界で植物が生きる厳しさを示す。自分のイメージでは、一本道は八王子からどこか支線に入ったマイナーめの路線のどこかに最寄り駅をもつ、そんなささやかな一軒家の前を通る道で、車で行けばそれほど時間がかからずに奥多摩の木々のなかにもぐり込む。
勿論、画面で展開される山奥まで掃き続けてしまう一連の場面は妄想的なイメージシーンで、女はほどなく現実に帰着し、さほど疲れた様子もなく自宅の玄関に戻り、玄関では今から出勤のダンナ(西島秀俊)とすれ違い、行ってらっしゃいと声をかけるが無視されることで閉じられる。この冒頭の山林への飛躍は、後半、出産の場となる冬枯れの山林という舞台を静かに予告する。

訥々とした、現実と妄想(もしくは、妄想じみたデフォルメ描写)を鈍重なリズムでベタに混在させて繰り出す意匠/スタイルは、たけしの『みんな~やってるか!』や、まあまあの時の森田芳光を彷彿とさせる。たけしのそれが、ぬめりを帯びた艶をふくんだ感触を与え、シャイネスゆえのトウカイとして無意味・無指向を組織するとすれば、森田芳光のそれは己を高くみせるための野心が、流行の先端でありたいという軽薄で重い強迫観念だけが、空虚で無機質な画面構成をうむ(表現欲の対象は己の名誉でしかないなら、その意匠の意味指示は徹底して無意味で、その空無さが時に時代に歓迎され、時にすれ違った)。そこでは枯渇する“何か”への希求が、小さく性欲にほてり発熱する肌のようなともしびとなって、画面に低いじんわりした熱を与えているようにみえる。

唯野未歩子のばあいは、女性であることで生理的表現や繊細なタッチを期待されるのにたいして、期待とは異なる意匠を映画にあたえる。作中には料理(=食べるという生理)や妊娠という性の生理がふんだんに登場しながら、どこか乾いていて、徹底して理知的だ。理知による描写では、子宮感覚的に無媒介に生理が噴出するのではなく、性=生を十全に描くために必要なパーツとして理詰めでそれらは配置されている。

山奥(奥多摩?)に引っ込んでからの後半の展開はあまりに理詰めで観念化が著しく、観客の人生との接点を失ってやや空転してしまった感がある。中島知子にあたえた、何事にも穏やかに、いかなる指向感情も付与しないという演技設計も、妊娠という圧倒的な事柄のまえに単なるガジェットとして遊離してしまった。予告をみたときは映画のヘソとなるかと思われた西島秀俊の、お父さん?なる!というセリフも、陰茎の切断という重い意味作用をもつガジェットを前にして、幾分突破力に欠けた。

そもそも、姉に〈冬子〉、妹には〈緑子〉という名を付与したことから、既に意味作用で存在が鈍く沈む。加えて名字には“末”の字がつくとくれば尚更。恒常的な生命増産器官そのものと化した姉が〈冬(=生命の死)子〉という名をもち、異性との結合/結婚/出産というシステムに徹底して抗おうとする(異性=他者としての男との結合を否定する、同じものを食べることによる同化融合への志向や、彼氏の去勢による同性化)妹の名がよりによって〈緑(=生命の繁栄)子〉だとか、露骨に乱舞する意味指示群が解読を強迫し、映画の運動を停滞させる。そのこと(意味作用/指示/解読)にはちょっと抵抗したい気持ちになります。(唯野監督自身による小説版は未読ですが、映画版は妻/夫の話が主軸だが、小説では姉/妹の話が主軸となっているらしい。夫の存在の肉付けが貧困なのに比べ、もうひとりの女性の在り方である妹の行動の豊穣な細部をみると、唯野未歩子のほんとうの興味はこちらにあるような気がします。)

何事かを訴えつづける細部はしかし、センスがいいとか肌理細やかだとかテキトーな言葉で流され、あとは物語の目新しさだけで安易に語られてしまう危険性、弱さをこの映画はもつ、と思う。表現が堂々としすぎていてそれがかえって主題の表現対象への浸透を阻んだ、と感じます。
ただ、ここから、このやりくちから何か大きなものが生まれる可能性はあるでしょうし、いつか理知的な作業の積み重ねが、巨大な傑作をうまないとも限らないんじゃないか‥。次回作も期待してます。

〈多摩地区的〉であるということは、〈地方的〉な中央(東京)への指向もしくは反発という一点集中な力学の世界観から無縁で、〈23区/都心的〉な、社会が機械構造のようにして作動するその中心点、内部機構の一部として同化しているのとも違う、中心への憧れもなく反作用的に別な価値観の立ち上げることもなく制度の担い手でもないといった、中途半端な立ち位置を有することであり、二元論から逃れるようにして宙吊り状態に在る微妙な困難さをある種、繊細な鈍感さ(?)で乗り越えるという生きる姿勢をもつということで、唯野未歩子の『三年身籠る』のばあいは、己の理知的頭脳を背景に、その“意匠”に必要以上に確信をもつという〈鈍感さ〉で事に対処したのだった。

theme : 日本映画
genre : 映画

『キネマ旬報』2月下旬ベストテン決算号

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『映画芸術』につづいて、『キネマ旬報』の毎年恒例、年間ベストテン決算号である2月下旬号がでました。自分のなかでのベストテンの定点観測は、毎年キネ旬、ヨコハマ、映芸の三点観測で行われていて、それらのベストテンについて感じる感情でじぶんの映画にたいする接し方がはかられる。要は、アーダコーダ色々思って楽しんでる、ということに過ぎませんが、いろいろな事を考えなおす機会にはなります。

で、結果は以下のよう。すでに報道やネットで結果はおなじみでしょうが、紙に印刷されて雑誌になったものをみて、初めて実感としてしっくりくるところがあります。

〈日本映画〉

①フラガール②ゆれる③雪に願うこと④紙屋悦子の青春⑤武士の一分⑥嫌われ松子の一生⑦博士の愛した数式⑧明日の記憶⑨かもめ食堂⑩カミュなんて知らない

①フラガール②ゆれる③武士の一分④かもめ食堂⑤嫌われ松子の一生⑥博士の愛した数式⑦紙屋悦子の青春⑧雪に願うこと⑨THE有頂天ホテル⑩明日の記憶

〈外国映画〉

①父親たちの星条旗②硫黄島からの手紙③グエムルー漢江の怪物ー④ブロークバック・マウンテン⑤麦の穂をゆらす風⑥太陽⑦カポーティ⑧グッドナイト&グッドラック⑨クラッシュ⑩マッチポイント

①硫黄島からの手紙②父親たちの星条旗③クラッシュ④ブロークバック・マウンテン⑤ホテル・ルワンダ⑥グエムルー漢江の怪物ー⑦ユナイテッド93⑧ミュンヘン⑨ナイロビの蜂⑩麦の穂をゆらす風


‥どっちかが批評家が選んだもので、どちらかが読者アンケートによるものです。
先にいえば上が批評家で下が読者によるものですが、結果を知らないひとがみたら、どっちがどっちか、全く判別出来ないんじゃないでしょうか。これはキネ旬の読者がとくべつ批評家なみに鋭敏という話でなくて、田舎の朴訥な映画好きの、市井のおじちゃんおばちゃんとドッコイドッコイの批評眼しか持っていない書き手が大勢を占めていることの証しだと思います。

いつの時代も山田洋次キンペンの映画や外国の賞に弱い特質が維持されていて、ある意味けっして期待を裏切らない。イーストウッドもたけしも外国で賞を与えられ出してからベストワン連発だし、崔洋一井筒和幸あたりがその才に反してようやくキネ旬に認められたのは社会派の衣を分かりやすく纏ったときだった。ソクーロフの映画なんて何十本もスルーしてきたんだから、今さら『太陽』で評価するとか、とことんズレてるし恥ずかしい。

しかしキネ旬はそういう存在でいい。仮想的がないと何事もつまらない、たとえば『週刊文春』のミステリーベストテンが最近マトモなセレクトになってしまって、アンチ文春としてうまれた『このミステリーがすごい!』が途端につまらなくなったのを近年みるにつけ、キネ旬はこれからもジジ臭い保守反動でいていただきたいと願う。『松子』6位というしぶしぶな中途半端さがまたキネ旬らしい。

個人賞でいえば、『間宮兄弟』をみて、もっとも印象的だったのが、それまで芸達者だと思っていたドランクドラゴン塚地の演技のダメさだった。映画の演技と芸達者ってこととは違うんだな‥と思っていたのが新人男優賞とは。世間はひろい、そうは思わない人が大勢いるんだなあとしみじみ。

個人的な、外国映画のマイベストは、シャマラン『レディ・イン・ザ・ウォーター』なのですが、『キネ旬』で選んでるのは大森望ただひとり‥。そのくらいのほうが、定点観測のしがいもあるとおもうことにする。

theme : ★映画ニュース★
genre : 映画

2006年度『映画芸術』ベスト&ワーストテン

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季刊『映画芸術』通巻418号、2007年冬号、2006年ベストテン&ワーストテン発表号が出た。買って読む。

なんだか風邪が流行っていて、ずっと体が不調で、体が不調だと、精神も不調。
精神が元気でないと、『映芸』を読むのはつらい。いつも、多かれ少なかれ、『映芸』読むとブルーになる。ネガティブパワー(?)がもらえるからでしょうか‥。そのネガティブさは、部数が売れない雑誌・映芸の、一号だすごとに赤字が出る(有)編集プロダクション映芸の、仕事がじゅうぶんに評価されていないとひねこびて数十年の荒井晴彦氏の、発しているものなのか。あるいは、低空飛行がつづく〈日本映画〉に根源的にこびりついているものなのか。

ヒット作が連発し、邦低洋高の興行収入シェアが数十年ぶりに逆転と、〈日本映画〉をめぐる言説も時ならぬ盛況にわいた去年でしたが、『映芸』的視点によれば日本映画の低空飛行、絶望的状況は変わらないというところでしょうか。

選評の文章でアーロン・ジェローは〈邦画のマーケットシェアが拡大しているといっても、全体のマーケットがこの数年間ほとんど横ばい状態だし、東宝(略)がシェアの六割以上を占めている〉、〈制作本数は急増しているが、その横ばいのマーケットがそれを支えきれるかどうか疑問だし、〉〈そもそも、テレビの資本のみならずその制作形態が主流になりつつあるコンテンツ産業化した日本映画界において、良い映画が生まれるかどうか〉と“好況”報道に疑問を呈する。そしてこれは『キネ旬』でだが大高宏雄が〈逆転云々の前に、全体の興行のパイが広がらない〉〈劇場に足を運んでいるのは、年配者が多〉く若者たちの足は劇場に向いていないことを指摘し、ジャーナリズムの浮かれ話に警鐘を鳴らす。活況の表面の下では、ポッカリ暗い穴が開いているのだ。そしてじつに年間500本の日本映画が公開された去年の状況は、映画評論家と名乗る人間でさえその全てをフォローするのが困難になり、ランダムに作品に接さざるを得ず、〈日本映画〉の全体像を把握出来る人間が誰もいなくなってしまったという事態。観客、批評家、それぞれおのおのの〈日本映画〉像が重なり
あいながら、全体として虚構でしかない状況論が語られ、もはや〈日本映画〉という括りさえ幻影と化しているなか、安易で楽観的な言説が大勢を占めてまかり通っています。

そもそも、ヒット作が『ゲド戦記』やら『THE有頂天ホテル』やら『海猿』やらで、賞賛を浴びたのが『ゆれる』やら『フラガール』やらでは“プロフェッショナルな作り手側”の映画雑誌である『映画芸術』誌から、絶望が漂ってこないわけがないとおもう。

で、発表されたベストテン&ワーストテンは以下のとおり。

〈ベストテン〉
①やわらかい生活
②雪に願うこと
③ストロベリーショートケイクス
④時をかける少女
⑤嫌われ松子の一生
⑥フラガール
⑦紀子の食卓
⑧LOFT
⑨ゲルマニウムの夜
⑩間宮兄弟

〈ワーストテン〉
①ゲド戦記
②ゆれる
③THE有頂天ホテル
④UDON
⑤日本沈没
⑥LIMIT OF LOVE/海猿
⑦男たちの大和/YAMATO
⑧武士の一分
⑨バッシング
⑩寝ずの番

‥という結果を受けて、『ヴァイブレータ』以来の、映芸編集長荒井晴彦脚本作品がトップということに対してアーダコーダ言う向きもきっとあるんでしょうが、ごくふつうにみて、『やわらかい生活』や『雪に願うこと』より『ゆれる』『フラガール』が優れていると考えることのほうが難しいと思います。それでも、ヨコハマ映画祭さえ『ゆれる』が作品賞だから、もしかしたら映芸1位だって『ゆれる』や『フラガール』が穫ってしまう可能性がある‥だったらせめて『松子』で‥と恐々としていたらこの結果でホッとした。『ゆれる』がとるくらいならいっそ発売しないでほしいと思ってた。
で、結果『ゆれる』は50位。弱々しくもアンチテーゼとしての存在意義をまもった。とおもったら編集後記でおんなじようなこと書いてあった。〈『ゆれる』が映芸のベストワンになったらどうしようと不安で仕方が無かった。(略)うれしい集計結果だった。(略)自分の雑誌で自分の映画をベストワンにするなんてよくやるよとかお手盛りとかまた言われるんだろうけど、俺は素直に喜んでいる。〉と荒井晴彦。去年、『ALWAYS 三丁目の夕日』ワーストワン選出にたいして、選考方式も知らないし映芸読んだこともないのにヒステリックに噛みついた(『ALWAYS 三丁目の夕日』をワーストワンに選ぶなんて編集部の見識を疑います、病んでるんじゃなかろうか、等)某氏は、この一文みてどうおもうのでしょうか。編集部の見識ひとつで結果が決まるなら、編集長が集計結果に〈不安〉になったり〈喜ん〉だりしない。

選評では、サトウトシキ『ちゃんこ』を褒めてる細谷隆弘氏に唸る。さすが。
毎年、セレクトも選評の文章も唸らせる福間健二。映芸執筆陣でも最もリスペクトする文章家。それが今回、セレクトも文章も、なんか遠いと感じる‥。福間健二の言葉は、たとえ自分の意見とは異なっていても、いつも何かしら染み入ってきてた。それが染みてこない。なんでだろう。福間氏が変わったのか読み手の自分が変わったのか、時代が変わったのか。でも1位が『HAZARD』って、やっぱりセンスがいいな。

theme : 雑誌(既刊~新創刊)
genre : 本・雑誌

映画『日本以外全部沈没』

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『日本以外全部沈没』
(2006年、日本、98分)

監督・脚本:河崎実
原作・出演:筒井康隆
出演:柏原収史、小橋賢児、村野武範、藤岡弘、寺田農、黒田アーサー、デーブ・スペクター、イジリー岡田、ダイハード鈴木、ユリオカ超特Q

駄作と名高い樋口版『日本沈没』と真っ向勝負!というわけでは必ずしもない本家の小松左京『日本沈没』よりある種高い人気を誇る筒井康隆のブラックユーモアSF短編『日本以外全部沈没』の映画化。
日本に落ち延びる有名外国人が原作ではフランク・シナトラとかだったのが、時代にあわせて装いも新たにブルース・ウィルスやシュワルツェネッガー。って『ダイ・ハード』も『ターミネーター』も15年以上まえ‥このテキトーなセレクトぶりがこの映画を象徴しています。

河崎実の映画みて出来がどうのとか欠点があるとか退屈だとか言う方がおかしいというか、覚悟して観ないとならない。覚悟といっても、襟を正して観なくちゃいけないほうの覚悟じゃなくて、ユル~いトーク番組や、タモリ倶楽部とか、そういうのをボケっと観るよりユルい姿勢でみないとつとまりません。

筒井康隆原作の映画化は『わたしのグランパ』とか『パプリカ』とかリメイク版『時をかける少女』とか、このところ盛況ですね(ドラマでは『富豪刑事』とか)。しかし問題作的な路線は『俗物図鑑』や『大いなる助走』あたりで途絶えていた、たしか(ちがってたら誰か教えて下さい。ちなみに『男たちが書いた絵』は無視。)。それを河崎実一派が『日本以外全部沈没』で復活させた。その出来は予想に違わずボロボロの貧乏っちいシロモノですが‥。

たとえば、あたらしいところでは阪本順治が『KT』や『亡国のイージス』を撮って世に問うた!みたいな、そういうふうな正面からの問題作。なつもりは『日本以外全部沈没』の作り手はさらさらない。とおもう。しかし、そのノンポリぶりが、かえってこの物語を危険でブラックなものに感じさせる。某大統領とか金某とかを粗雑に登場させて粗雑に扱うのに『花井さちこ~』を連想。思うに、“問題作”のカッコにくくられるとブラックな衝撃は弱まる気がします。だから、面白いとは言い難いが、存外危険なかんじがするのは結果オーライかと。そういえばこのツツイ問題作路線、内藤誠~鈴木則文~河崎実というラインは、一本なにか共通点がある。どこか底抜けで、だらしなく、映画を娯楽のための商品として認知していて、フィルモグラフイ全体からはそこはかとない貧乏臭さが漂う。先輩がたのばあい、貧乏ながら妙に行儀よく丁寧だったのが災いして『俗物図鑑』も『大いなる助走』も勢いのない凡庸な作品になってしまっていましたが、河崎実は実にいつもどおり、ヤッツケ仕事みたいにザッと作り上げた、それが結果的には良かったとおもう。世間的な評価はいっさい知りませんが‥。

そういえば、前項『ドリフト』につづきこれも柏原収史&小橋賢児コンビ作。ムチャな物語もテキトーな作りも、なぜか共通するところがあります。

theme : 日本映画
genre : 映画

『ドリフト』

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『ドリフト』

(2006年、日本、79分)

監督:神野太
出演:柏原収史、小橋賢児、遠藤雄弥、小松彩夏、長澤奈央、小阪由佳

CGなしの公道カーアクション。朽ちた廃墟のようになった車のカットからはじまる。廃墟は妻子を事故でなくした柏原収史の現在をあらわし、峠での走りは妻子の復讐の手段でありまた自己再生の運動ともなる。

肝心のカーアクションさえ不発。運転席のカットと走行する車のアクションのカットバック、という根本的な描写の遊離の問題に対して戦略がなく、だいじな事はセリフで解説するだけ、結果、インチキくさい。だいたい、妻子の復讐のために、プロボクサーが無敵の走り屋になるって物語からしてインチキくさすぎる‥。

柏原収史の坊ちゃんぽさや、小橋賢児の駄菓子くさい(30円くらい)貧乏たらしさでは、重い(?)物語を背負いきれない。柏原収史、最近出ずっぱりだが、どす黒いモノ漂う『カミュなんて知らない』でも、なんだか存在感が妙に楽天的で軽い。それが映画にとって良かったのか悪かったのか‥。小阪由佳や長澤奈央はアイドルのゲスト出演という域を出ないが、柏原の義妹を演じるグラビアアイドル小松彩夏(『僕は妹に恋をする』『マスター・オブ・サンダー 決戦!!封魔龍虎伝』『恋文日和』)は、大きく伏し目がちの瞳が哀しみを常在させていて秀逸、リアリティのない役柄に存在感を与えたと思う。フルモーション諸作のヒロイン(のはら歩とか)を思わせる透明な儚さがあり、背伸び感のある幼い発声が可愛い、そして重力にとらわれないひらりと軽い身体がまた儚い。(しかし、このキャラクターが、「ドラテク」とか言わないと思います、バカバカしい。まあ、言わせたいんでしょうけど‥。)

(続編『ドリフト2』あり、柏原、小橋、小松は引き続き登場。)

theme : 日本映画
genre : 映画

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