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玉袋筋太郎『男子のための人生のルール』

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玉袋筋太郎『男子のための人生のルール』

(よりみちパンセ/理論社)

先頃、テレ朝『草野☆キッド』プロデューサーが強制わいせつ容疑で逮捕されるという事件が勃発、年明け早々仕事にケチがついた感のあるたけし軍団のお笑いコンビ、浅草キッド。はっきりファンです。本業はお笑い芸人ですがその“笑い”のセンスがどうこう、ということで考えたことはあまりなくて、人間的に信用している、ということが自分のなかでデカい。相手が同性の男性であるばあい、なによりまず人間として尊敬できるかが一番にくるし、どんなジャンルにおいても人間としてリスペクト出来なければ才能があろうが権威があろうが、好きになり、おうえんしたくなったりしない。どういうふうに人間として信用出来るとおもうのか、面倒くさいのでいいませんが‥。

傑作『お笑い男の星座』シリーズほか、著作業は相方の水道橋博士が担当、というイメージの強い浅草キッド。水道橋博士の、情報満載ダジャレ満載で起承転結/構成のカッチリした文章はそれはそれで芸として既に完成した感がある。
それに対して、読んだことがないわけでもない玉袋筋太郎の文章は、“面白いひと、の書いた文章”という域を出ない、そんな認識があったので、玉袋初の単独著作となったこの『男子のための人生のルール』、読むまでは正直不安でした。痛々しいことになってなきゃいいがと‥。

しかし、予断ははずれて、本書は意外な感慨を自分にもたらしました。14歳をターゲットにするというこの新書シリーズにおいて、ちょうど著者じしんの息子が14歳だということも一因だったようですが、笑いの方向には走らず、存外正面から、息子に語りかけるように人生を説く。その真摯さに胸打たれ、4回くらい涙があふれそうになった。

自分の身体をちゃんと見る、そうしてからきちんとコンプレックスと向き合うこと。マイナスに思えることをどうやって克服し、プラスに転化するか。「ありがとう」「おはよう」「お先にどうぞ」等、“あいさつ”が人と人とが関係を紡いでゆくための基本姿勢なんだということ。「お金」とはどう付き合ってゆくか、など、人生の喜びや苦しみについての、生き抜くのに知っておかねばならぬ人生のルールが訥々と語られてゆく。

言ってることの内容や結論がそう奇抜なものでなくてたとえ月並みなことにみえるとしても、単なるオタメゴカシや現実と遊離した正論に逃げず、しかも語りかける対象に対して上から目線でものを言わず、中学生の延長の延長であるひとりの中学27年生が、たまたま〈キミ〉より年長であり父親のポジションをやっているひとりの男として、誠実に考え、語りかける。

新宿生まれ新宿育ち、都会っ子ド真ん中だから必然、照れ屋な男子・玉袋氏の本書における文体は、目線と目線をつよくあわせて語りかけるのではなく、少しホロ酔いかげんで息子とカウンターに並び、目を合わせるのをさけるようにして、何でもないことのように放り投げるようにしてポツポツと言葉を発する、そのじつは言葉を慎重に選びながら、という像がほのみえるような距離感をもって綴られていて、河島英五の『野風増』の世界みたいでシミジミと微笑ましくも胸に迫ります。

〈ココロの包茎は、根本までむけ〉等、浅草キッドらしい下品なフレーズも頻出するが、それはシャイの裏返しであって、伝えたいことは真剣だ。

本筋の話題でない小さなこと、たとえば、若者がタトゥーを入れることに異を唱えるにしても、ひとつひとつキチンと順序だてて話しかけてゆく。

〈まあ人がやってるのを見て憧れたり、「かっこいい!自分も見せて自慢したい!」って思ったりしてるんだろうけど、露出の高いカッコして絵を自慢できるのも夏だけだよ。「夏だけでもいい!」って、男も女も入れちゃうヤツは何言っても入れるだろうけど、それなら、ちゃんとこういったことを覚悟して入れろよ。「自分にいつか子どもができても、一緒にプールや健康ランドには行けない。それでもいいから、今、タトゥーを入れるんだ。(略)」ってな。
まあキミらは自分が良ければいいだろうけど、キミらの子どもはかわいそうだなあ、親と一緒にプールにも行けないんだもんなあ、お父さん、お母さんは刺青が入ってて入場できないからなあ。……入れたいものはしょうがないけど、オレなら、いつかできるかもしれないそいつらの子どもに同情しちゃうね。
「一生を棒に振る」って、なにも、キミ自身の「一生」だけに限らないよ。キミがいつか親になったとして、キミの「子ども」の一生にだって、かかわってくるんだ。
夏場、子どもと一緒にプールで遊ぶのは楽しいよ。親になったときのその楽しみを捨てちゃうってのは、ほんともったいないよ。若い人には、ぜひそう言いたいね。〉

シャイゆえに一杯ひっかけずにはマトモに息子に語れず、かといって、酔ったら酔ったでロレツが回らなくなってしまうような、そんなある種の父親的パーソナリテイに似て、“~なんだよな、うん”、“~だと思うんだ、うんうん”、みたいな、語尾に自分で相槌をいれる玉袋筋太郎の口癖がきこえてきそうな文章は哀愁を感じさせる。親と子、お互いの幸福が100パーセント一致するということはないという諦念をもつ者の、しかし、それでも抱く“ある希望”を告げた本書の結尾は感動的だ。

著者は、〈コンニャクとかうなぎと一緒で、親が力を入れあげれば入れあげるほど、子どもなんつうものはさ、逃げて行くもん〉で、〈逃げたり、逃げられたりするだけ、親と子の溝は深まっちゃう。〉〈でも、どんなに溝は深くなったって、その溝の深いところで、お互いの手は握っていられるって、オレ、思ってるんだ〉と言い、〈でも、だいじょうぶだって〉思える“あるもの”がその間に存在すると告げる、親と子の関係は、それがあるだけで、それでもう、じゅうぶんだと思わせると。その、いささかクサい“あるもの”だけれど、そこまで読み進めてきた読者には染み込むように受け止めることができるんじゃないか‥。少なくとも、現在親とのあいだにわだかまりをもつ自分には、素直にかんじることができたのでした。


(そういえば、先週末、新宿の某所で玉袋氏による、この本のサイン会がありました。キャラからみて、人が大挙して押し寄せたとは考えづらく、さびしいめにあってなかったかと本気で心配だ‥。)
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theme : 読了本
genre : 本・雑誌

『かもめ食堂』

かもめ食堂 かもめ食堂
(2006/09/27)
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『かもめ食堂』

(2005年、日本、102分)

監督・脚本:荻上直子
原作:群ようこ
出演:小林聡美、片桐はいり、もたいまさこ

フィンランドの首都ヘルシンキで食堂を営む女主人(小林聡美)と、そこを訪れた2人の日本人(片桐はいり、もたいまさこ)やお店にやってくるフィンランド人のお客さんとの交流をほのぼのと描く。

リピーター続出の意外なヒット作となった映画版を受けて、2月1日から、パスコの“超熟食パン”のCM、再現された“かもめ食堂”を舞台に小林聡美主演・荻上直子演出で撮影されたスピンオフ作(?)がオンエアされるなど、上映もソフト化も終了しているのに勢いがとまらない『かもめ食堂』。主に人生に若干疲れたような微妙な年齢層の女性にたいへん人気なよう。一方クソミソにこき下ろす一派もあったりして賛否両論、覚悟して観ましたが自分の判断としては想像してた以上に“否”だった。

フィンランド、オフビート、食堂を開くが経営は前途多難‥といった要素群からは、否応なしにアキ・カウリスマキ監督作品が連想され、カウリスマキの向こうを張ろうとするなんざ、無謀というか身の程知らずというか、いい度胸だ、とおもって観はじめたが、ぜんぜん、映画でもなんでもなかった‥。もしかしたら作り手は、カウリスマキどころか映画というものをみたことないのかも知れないとまで疑いたくなる‥。

日本人三人の会話は某猫が好きテイスト(それも中途半端な)で処理していながら、いっぽう登場するフィンランド人たちはフツーにテキトーなセリフとテキトーな演技で、味わいはゼロ。店のまえを通りかかるフィンランド人の三人組のオバサンは、ヒドい演技で説明的なセリフを言い合っていたかと思うと、いい匂いに誘われてのちにアッサリ常連になる。陳腐なダンドリという以上に処理が悪い。日本食にこだわっといて、急にシナモンロールで客ゲット、って、最低な展開。日本オタクの青年の使い方も、パックンマックンのパックンの俳優としての使い方の、最悪なケースに酷似した演出されっぷり。Tシャツもいちいち寒いし、名前を漢字で書いてくれなんてネタは正直飽き飽き。いつも店内を睨みつけてるオバサン、いざ身の上話してみればたわいない話。ガッチャマンの歌、ムーミン、合気道、小ネタがいちいちセンスない‥。
何より、最大の問題は、作り手と同じ感性の者に向けてしか、この映画が開かれていないことでしょう。この作劇やテイストを無条件に好む感性のもちぬしにだけ目配せのようにして作られ、閉じている。それ以外の者をも魅了する説得力を持たせ得なかったし、持たせることを怠った、と思う。


ラストは、売れない店がどうやって売れるようになったのか、日本とフィンランドとの食文化の差はどうやって乗り越えたのか、じゅうぶん説得されるまえに押すな押すなの大繁盛で幕。たとえば『県庁の星』で、売れなかった高級弁当が売れるようになる展開ぶりが納得いかず大変不満だったのだけれど、『かもめ』に比べたら、文句言ってスミマセンでした、と反省した。『県庁の星』は立派な映画でした。

theme : 邦画
genre : 映画

新宿のチケットショップ

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さいきんは、怠惰に家から近いシネコンで映画観賞は済ませてしまっているので、ちゃんと“映画館”で映画をみたい、ということで新宿へ。
チケットを買おうとチケットビューローへゆくと、去年いっぱいで閉まっていた。軽くショック。

新宿で映画をみる場合は、駅東口か中央口の改札から出て外へむかう、旧マイシティ/現ルミネストのビルをでる直前の、一階出入り口脇のチケット売り場で買うのが習慣になっていました。

今はなき新宿ピカデリーの、裏手のチケットショップも使うことは使うのだけれど、映画館のある場所によっては行くのがおっくうな位置であるし、時間によっては客が大勢いて疲れてしまう。地下のサブナード中央にあるチケットショップからは、何だか着物箪笥の防虫剤みたいな加齢臭的オーラが発散されていて、なんか映画を観る気持ちとそぐわないかんじがする。
大黒屋とかのディスカウントショップで買うのは、興行に金銭が還元されないということに抵抗感があるというのもあるし、なによりせっかく買うのに映画の絵柄が印刷されてない株主優待券だったりするのが心底ガッカリさせられる。

映画と映画のあいまに、せっかく新宿なので紀伊國屋書店へ。自分の行動範囲で月刊誌『シナリオ』のバックナンバーがおいてあるところは古書店を除きこの新宿の紀伊國屋書店しかない。南口店へゆく。タカシマヤタイムズスクエアを迂回する長いながい板張りの通路をあるいているといつもすこし興奮してくる。ちゃんといっぱい歩いたせいか、書店につくとキッチリ青木まりこ現象が起きていた。

theme : 雑記
genre : 日記

『マリー・アントワネット』②

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『マリー・アントワネット』

→①からのつづき
マリー・アントワネット=キルスティン・ダンストが画面に姿を見せない場面――たとえば母国の母が手紙を書いたり読んだりするシーン、兄がフランスにやってきてマリーの旦那を諭すシーン―― であってさえ、その場面は母の手紙を介して主体者マリーが想起する、想像としての肉親たちの行動風景だと捉えられうるのではないでしょうか。兄が夫を諭す場面では、巨きなゾウが介入し、一種幻想的な非リアリズムを感じさせる。同じくマリーの登場しない、従者らしき者どもが絵をかけかえることによってマリーの子供の死を表現した場面など、明らかにリアリズムからは遠く離れた表現主義的な描写で、マリーの心情の色彩に事実は歪められて顕れ、他とは異質なシーンとなっています。

〈表現主義〉とは『日本百科辞典』によれば〈様々な芸術分野(略)において、一般に、感情を作品中に反映させ、現実をねじまげて表現する傾向のことを指す。また、この語は、感情の中でも特に不安や葛藤などをあらわしたものを指すことが多い〉とされていて、その伝でいえば、『マリー・アントワネット』は表現主義の王道をいっている映画ということになるかもしれません。それにしては、過激さも冒険も独創性もないんじゃないかという意見もありましょうが、少なくともサントラにニュー・ウェーヴの楽曲が使われていたり大部分の登場人物が英語を話したり史実に反する描写が出てきたりするのをリアリズムに反すると突っついて非難するのは、見当違いというものでしょう。

話がそれました。あるいはまた、ある場面ではマリー=キルスティンのすぐそばで周囲の者がマリーについてひそひそとよからぬ噂話をしているが音として響いて来ないのに、幾分か後のシーン、マリーが宮殿内で孤立しはじめてからの場面では、遠くにあって届くはずのない場所からのひそひそした噂話が次々にマリーの耳朶にはっきりと届いてくる。全ては、やはりマリー=キルスティンの感じる孤独感、閉塞感、世界の断片の不愉快な肌触りであって、それでもそこに居ざるを得ないいたたまれない感情に沿って全ては組織されています。

しかし、何も有機的・立体的にドラマを形作っていかない(ないないづくしの)シナリオを用いて、感情にのみ寄り添い歴史上の人物を現在の時空間に蘇らせ体感させるという戦略は、たいへん志高く心意気には感服しても、それを完遂し成功に導くにはそれなりの力量が必要なのではないでしょうか‥、そして、ソフィア・コッポラにはその演出力(もしくは、人間的性格的な何か‥)が不足していたため、多くの観客を説得するに至らず、同じ感性の者にセンスを賞賛されるだけ、という非生産的な回路に閉じてしまっているような気がします。

それはたとえば登場する多くの人物たち、ポリニャック公爵夫人やプロヴァンス伯爵夫人やメルシー伯爵など、比較的マリーのそばにいる近しい面々ですら、通り一遍の薄っぺらい人物像しか与えられていないことにもあらわれています。マリーが生理的に嫌悪をもよおす相手であるデュ・バリー夫人も、近年稀にないほどキャラの立ってない魂のこもっていない悪役。マリーが心奪われることになる、男前なフェルゼン伯爵(『ベルサイユのばら』ではあのオスカルもフェルゼンの虜になったんだった‥)も、ルックスが良いだけで色気も人間的魅力も半端にしか描かれない。
フェルゼンと仮面舞踏会での見つめあうカットバックも、ルーティンに沿っただけの粗雑でおざなりなものだったし、性的関係を結ぶシーンも冗談みたいで、マリーに想起されるフェルゼンのイメージが“戦場で勇ましくポーズを決めるの図”では、いかにこの映画がマリー/キルスティン/ソフィアの内的世界の表出とはいえ、あまりに貧困ではないのか‥。

〈感情〉とは、孤独とは、〈他者〉との関わりあいから初めて生まれ、また、乗り越え得るのではないでしょうか。完全に理解しあう時など訪れない〈他者〉と生きる〈世界〉で生じる孤独こそが描かれるべきで、脳内妄想の域を出ない薄っぺらなカキワリの人間たちとの関係からいくら孤独や閉塞感を描いたところで、現実の感情の劣性コピーしか生じないでしょう。

このような事態に陥った要因は、たぶん、ソフィア・コッポラという人間の小ささ、未熟さに由来する、のではないか。自分の感情、不満(孤独など、の)を周囲にまき散らすのに精一杯で、周囲の他者が何を考え、感じているのか思いを馳せる余裕がないのでしょう、きっと。彼女の分身たる彼女の映画及びそのヒロインの姿がそれを端的に物語っています。
淋しい土地で夫にほっとかれて夜遊びする、という、『マリー・アントワネット』と殆どおんなじ話の前作『ロスト・イン・トランスレーション』は、いわばソフィア版『東京画』ともいえて、しかしヴェンダースの東京の活写ぶりとソフィア・コッポラのそれとは決定的な違いがある。

たとえば同じようにパチンコ屋が登場しても『ロスト~』のそれは“孤独なワタシ”の背景を彩るものでしかないが、ヴェンダースはその空間の不思議さと閉店後に作業する“釘師”の存在を興味深く凝視する。『ロスト~』に現れては消えてゆく人々は〈よそよそしい世界〉の象徴物でしかなく、彼らに内面はなく、賑やかしとしてセンス良く画面を横切る。一方の『東京画』でヴェンダースがキャメラを向ける厚田雄春は、ヴェンダースには計り知れぬ世界の秘密を知る人物としてあらわれ、不可知論という概念を、理論ではなく“経験”として、ヴェンダースの、そして観客の魂に刻みつけるのだ。

ソフィア・コッポラの世界においては、他者的な“経験”はなく、幼い抽象的な世界観のうちでの“わたしのモヤモヤ”があるだけだ。『マリー・アントワネット』において、表現がどこか突き抜けないのは、〈他者〉の設定にたいして高をくくってしまったからなのだとおもう。
自分以外の人間も、自分と同じように、しかし別個にそれぞれのパーソナリティ、感情を有して、生きているということ。そのことに鈍感な人間は、せいぜいよくても〈センスがよくて、オシャレ〉程度の映画しか作れない。

〈ロードムービー〉のキーワードとして〈閉塞感〉〈中間性〉〈断片性〉をあげましたが、それ以上に世界の手触りの〈外部性〉が〈旅〉の本質となる。〈外部性〉とは要するに〈他者〉のこと、そこで“唐突に”出会うもろもろの事物や生命は、根源まで完璧に理解し尽くすことのない余白を常に残しづつけ、存在の手触りだけを残像のように魂に刻んでゆくものだ。ソフィア・コッポラはそれらを容易に内面化出来ると(あるいは審美的記号化処理が出来ると)楽観視しているふしがある。

情勢は、革命の火の手は、伝聞でしかマリーの元へ届いて来ず、脅威も市民の貧窮も実感として彼女の感情をかきたてることはない。〈少女〉である彼女自身の感情、“閉塞感”や“居心地の悪い思い”と直接リンクしない他人の叫びは、抽象的な観念としてたやすく消化されてしまう。

ソフィア・コッポラの描写は決して〈他者〉の〈痛み〉には寄り添わない。革命の足音は、マリー=キルスティンにとってのそれはオフからの音にすぎず、不吉さの記号でしかない。それが他者のあげる苦痛の悲鳴のようなものだと想像することはないのだ。

マリー=キルスティン目線の映画だという軸は決してブレさせない作り手は、勿論暴徒化した群衆を大がかりなモブシーンなどで現出させず、彼らは、マリー=キルスティンから視認できる範囲の、黒い影、薄っぺらいシルエットのようにしか表象されない。自分を危機に追いこむ群衆など“わたしの人生の主人公であるわたし”にとってあくまで傍系の者ども、彩りにすぎず、バルコニーに出て群衆に頭を垂れるマリーの姿は、その他大勢である不特定多数の観客に対する主演女優の優雅な振る舞いとみえる。中盤では皆を集めて主演の舞台まで披露したマリー=キルスティンは、序盤、観客に甘んじていた観劇の場でも、禁じられた拍手を強行することで、己の存在を視線劇の中心化とせしめた。

ラストシーンは、迫りくる危険から逃れるために、馬車で宮殿から走り去るときに訪れる。キルスティン・ダンストは穏やかかつ確信にみちた表情を浮かべている。自分が世界の中心であるという妄執から解放されたとき、幼年期は終焉を迎える。〈他者〉の意志により強制的に生命を奪われるという、他者に主体性を譲り渡す出来事に遭遇するまえに、他者を排しつづけた映画は終わりを告げる。

theme : マリー・アントワネット
genre : 映画

『マリー・アントワネット』①

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『マリー・アントワネット』

(2006年、アメリカ・フランス・日本合作、123分)

監督・脚本・プロデューサー:ソフィア・コッポラ
原作:アントニア・フレイザー
美術:K.K.バーレット
衣裳:ミレーナ・カノネロ
音楽:ブライアン・レイツェル
出演:キルスティン・ダンスト、ジェイソン・シュワルツマン、アーシア・アルジェント、マリアンヌ・フェイスフル、ジュディ・デイヴィス、リップ・トーン

弱冠14歳の、オーストリアの皇女アントワーヌ、のちのマリー・アントワネット(キルスティン・ダンスト)は、単身フランスの王室に嫁ぐ。彼女にとって母国と自身の地位の安泰のためには世継ぎを産むことが急務だったが、夫との仲は思うように進展せず、マリーは異国の地で孤独を深めてゆく‥。

1.

キルスティン・ダンスト×ソフィア・コッポラ×マリー・アントワネット!!
この組み合わせを聞いた(見た)とき、ナルホドネ~~と、かなり感心しました。
頭が悪いわけでもないが微妙にガードのユルいかんじのあるキルスティン・ダンストをマリー・アントワネットに、というキャスティングは、ミスキャストにみえてジャストな気もする絶妙なキャスティングに思えましたし、『ヴァージン・スーサイズ』以来、キルスティンと久々にタッグを組むソフィア・コッポラが挑む題材が、オーストリアからたったひとり嫁いでくる華やかかつ悲劇の皇女の物語だというのも、一本筋の通ったことに思えたのでした。

山崎まどか言うところの〈女子映画〉というジャンルにおいて、ジャンル外の世間にまで名声をとどろかせている出世頭(?)のクリエイターといえば、ソフィア・コッポラをおいて他になく、彼女は長編第1作『ヴァージン・スーサイズ』(99)ではカンヌへの出品、MTVムービーアワード最優秀新人監督賞受賞を果たし、続く『ロスト・イン・トランスレーション』(03)でもアカデミー賞脚本賞やゴールデングローブ賞作品賞ほか、多数の賞を手中するなど、新世代の旗手として讃えられています。

で、その作風はというと、娯楽映画のフォーマットに忠実でありながらディテールへのこだわりやジャンルの脱構築によって〈女子映画〉を豊かにしてゆく他の多くの(ジャンルの)担い手とは異なり、かなりストレートなアーティスト、やや古ぼけた意味合いでの芸術家志向というんでしょうか、“社会や家庭のなかで少女が陥る、生ぬるい閉塞感へのいたたまれなさ、居心地の悪さ、居場所のないやるせなさからの、脱出(飛翔)”という自分の耽溺するモチーフ/感情を映画に定着させることに拘り、その映画はある種私小説的な色合いをおびる。

雑にいえば、『ヴァージン・スーサイズ』で描かれた生あたたかい退廃的な環境への苛立ちは、作り手じしんの、コッポラ・ファミリーの一員として在ることの没落貴族的甘美さと居心地の悪さを想像させるし、『ロスト・イン・トランスレーション』の、異境の地・東京でぽつねんと途方にくれているスカーレット・ヨハンソンのいたたまれなさと苛立ちは、本人の実体験が基になっているというのだから、ある程度恵まれていようとチヤホヤされていようと、なんとも言いようのない不自由な圧迫感にいつもどこかイラついているソフィア・コッポラ自身の人生や感情がそのままトレースされて映画に反映している。

そういう経緯から導き出されるのは、最新作『マリー・アントワネット』における、オーストリアから単身フランスの王家に身をよせることになるマリー・アントワネットは、これまでの作品同様、ソフィアの感情の分身として、ヴェルサイユに居心地悪そうに佇むだろうという予想。史実のなかの人物でなく、あくまで、“わたし”が14歳だったとき、そして“わたし”が18歳だったとき、感じていた息苦しさ、閉塞感が、ここでの主眼となろう。だから、ここでの王妃マリーは現代に生きる/生きたティーンエィジャーが転生したものだろうし、それは今の時代にこの映画を作る意義から要請されて表されたものでなくて、ソフィア自身の性質による必然の表出となる。(ほんとうの、自分の安息の場所とは信じえない場所に、孤独をかかえて、佇む)というソフィア的存在として、たまたまマリー・アントワネットという題材がそこにあったのだとおもう。その意味で、史実や言語のリアリズムをツッコまれたベルトルッチの『ラストエンペラー』について、(確実な記憶ではないのですが、たしか、)これは史劇ではなく広大な空間にポツンと取り残された幼い少年の映画だと看破した淀川長治に倣っていえば、『マリー・アントワネット』は史劇ではなく、異境の地で生あたたかい閉塞感に苦しむひとりぼっちで佇む少女を描いた映画となるのではないか‥というのが(長くなりましたが)観るまえの予想。でした。

2.

トワイライト、という単語を連想させるような、甘美な飴色の色調に染め上げられた写真。その中央には、フリルのついた純白のドレスを身にまとい、その胸元にはピンクのコサージュをつけたキルスティン・ダンストが、スイーツのクリームが付着した指先を舐めるかのように曲げた人差し指を唇に添え、いたずらっぽく微笑んでいる。ポスターなどに使われている、『マリー・アントワネット』のメイン・ヴィジュアル・イメージだ。そこに〈恋をした、朝まで遊んだ、全世界に見つめられながら。〉というコピーがつく。
まっすぐにガーリーなものをイメージさせるビジュアル。ささいなことでキャッキャと笑いころげ夜な夜な騒ぎ、噂話と甘いものに貪欲なティーンエィジャーのイメージがそこにはある。公開前から劇場内に鎮座していた、山のようなスイーツに埋もれて優雅に横たわるキルスティンのスチールを利用した立体的な造形物がまた、そのイメージを補強する。

おそらく、この映画を楽しみにして観にくる女の子たちは、夢のように壮大で豪華なヴェルサイユ宮殿の美しさとか、めくるめく可憐なファッションとか、登場するスイーツの数々が目にもたのしく美味しそうだとか、美しい映像だとか、時代劇とはおもえないポップでキュートな映画だとか、そういったことを賞賛するつもりでまた溺れるように楽しみたいとも欲望しつつ映画館に駆けつけるのではないか‥

しかし、事はそう単純にはすすまない。
冒頭、200年以上前のものとは思えぬリズムが刻まれはじめると、黒い画面にはセックス・ピストルズのアルバムロゴに模した書体のタイトル・ロゴが現れ、流れ去ってゆき、スイーツの山に埋もれたマリー=キルスティンのショットがインサートされる。一見、時代劇のリアリズムは徹底無視の、ガーリーでポップでキッチュな映像作品の開幕を宣言するかのような幕開け。

しかし、そのインサートされたショットが何やら異物感を訴えてくる。スイーツとマリー・アントワネットという組み合わせの、さぞ可愛らしいだろうと予想されたよりも遙かに色合いは地味で、殆ど退色したような白色ばかりが画面の印象をしめるような、冴えない光線が捉えられる。そればかりか、当のマリー=キルスティンは魂が抜けたような茫然とした虚ろな表情で脱力しているのだ。そこからは〈テーマ・カラーはキャンディ&ケーキ〉、〈甘くてロマンティックな夢の世界を観ているよう〉、〈考えられないほどカラフルな衣装や小物やスウィーツの氾濫〉というこの映画をめぐる言辞からはほど遠い〈憂い〉を含んでみえる。

以後頻出する多量のお菓子も、巷で賞賛されているほど美味しそうにもみえず言うほどカラフルでもなく、色味は沈んでいます。たびたび催される狂騒的なパーティの場面やさまざまなドレス姿からも、女の子のウキウキする“楽しさ”がじゅうぶんに浮かび上がって来ず、かえって空転している空虚さばかり印象づけられる。ただ演出が下手なだけといったらそれまでですが、例えば『プリティ・プリンセス』に代表される、いかにも少女好きするある種の〈女子映画〉の細部が、ディズニー的に100%の“楽しさ”を充満させるのに比べると、明らかに“孤独さ、空虚さ”がその色彩を決定づけているかにみえます。

だいたい、アン・ハサウェイあたりに大きい瞳を見開かせて、ヴェルサイユ宮殿の華麗さ壮麗さに感嘆させておけば、物事は簡単に済むはずなのだ。本物のヴェルサイユ宮殿でのロケされたという、この映画の目玉であるヴェルサイユをマリーが訪れるときには、楽しげな音楽でも流し、優雅でゆったりとしたトラヴェリングで宮殿の圧倒感を正面から示して、ワ~とか歓声をあげさせて瞳をキラキラさせたら一丁あがり‥なのに、マリーがキルスティン・ダンストで監督がソフィア・コッポラとなればそうはいかない。キルスティンの微妙にちっさい目が瞬間チラッと輝いたとしても、それが100%MAXの“楽しさ”を満たすことはついになく、マリー=キルスティンの視点/心情に寄り添ったカメラは、よそよそしく、断片的に宮殿を切り取ってゆくだけだ。

じっさい、この『マリー・アントワネット』においては、マリー=キルスティンの心情に徹底して寄り添って描写が綴られてゆく。だから、ヴェルサイユの壮麗さを観客に堪能させるための描写など充分になされるはずもなく、マリーがなにがなんだか分からないまま流れに流されていく気持ちそのままに描写/建物や風景のスケッチもラフに流れ去り、宮殿内は御寝所に至って初めてその場に立ち止まるようにして心身ともにそこに、佇み、途方にくれ、ようやく相容れぬ他者である夫と相対する。
感情も時も場所も移ろい、落ちつくところなく、今のところは、このような感情でここに居る、というとりあえずの宙吊り状態として表れる。その意味でこの映画はマリー=キルスティンに寄り添った、閉塞された空間・環境での一種の反転したロードムービーともみえて、〈ロードムービー〉というジャンルが本質的に内包する“閉塞感”と“中間性”が『マリー・アントワネット』の本質にあるのではないか。開巻まもなくの不必要なほどに長い馬車に揺られ旅する一連のシーンが示唆するのはそういうことではないのか。。事実、この映画が、もっとも映画として輝くのは三度の馬車での移動場面となるだろう。

〈旅〉とは、今みている世界を、世界の一断片でしかないと認識して把握するとともに、自分の存在もその断片のごく一部だと認識する営為だともいえる。そう認識したとき、人は圧倒的な自由感と不自由感を同時に感じ、そこに孤独を覚える。だから、広大な空間に孤独に佇むマリー=キルスティンの瞳は、孤独の受容にむけて組織される。歴史的真実や社会情勢の構造などが見渡せると過信することは決してないのだ。

描写がマリー=キルスティンの視点に徹底して寄り添っていることの証左は、宮殿の断片化以外にも幾つか指摘することが出来ると思います。
まず、映画全編、ほとんど全てのシーンに常にマリーは居合わせ続ける。マリーを省いた人物たちに集わせて背景を説明させる場面を要所要所挿入して物語をスムーズに語ったりはせず、だから、マリーがその全貌を把握しているはずもないフランス革命に至るまでの経緯は観る側にとってほぼ闇の中となるのですが、かろうじて説明がなされる数少ないシーン、ルイ16世がアメリカへの支援を続行する決断を下す政治的場面でさえ、大勢の閣僚に混ざって、必ずしも必要でないのにマリーがフレーム内に居てその決断に立ち合う(なんの資料的根拠もありませんが、このシーン、あとから足されたシーンではないか?と勝手に想像する‥、噂話やたわいない享楽の場面などだけで構成され物語の説明が極端に排された、“ないないづくしのシナリオ”を書き上げてたソフィア、斬新!冴えてる!自分って天才かも!と興奮したのもつかの間、スタッフだかプロデューサーだかに、最低限の背景は説明すべきじゃないか、そうしないとマリーの心情も浮き彫りにならないかとかなんとか非難され、渋々付け足した、とか。そういった折衷策的な中途半端なシーンにみえる。どうせなら、何も説明しないほうが狙いがはっきりしたのではないか‥)のだし、

→以下②につづく

theme : マリー・アントワネット
genre : 映画

BSアニメ夜話

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先日、安かったので、ブックオフで(『コマネチ!ビートたけし全記録』や『サイゾー』バックナンバーなどとともに)『BSアニメ夜話vol.01 ルパン三世カリオストロの城』、『BSアニメ夜話vol.02 機動戦士ガンダム』を購入。

『カリオストロの城』、岡田斗司夫、他の著書での話のほうがずっと詳細でタメになった。『ガンダム』、よゐこ有野の、相変わらずのなんにも知らないっぷりにいつもながらムカムカする。総じて、新発見はなくてガッカリ。『ガンダム』、巻末のスペシャル対談が古谷徹×鈴置洋孝、このムック出版後(奥付は06年7月20日)まもなく、鈴置氏が逝かれたんだと気づき、ある感慨をかんじつつ読み了える。『Zガンダム』の劇場版の新録に間にあってよかった。『星の鼓動は愛』のラスト、ブライトの一連のセリフも現状のものではなくなるところだったし、もうすこしで、エンドロールで井上瑶と同じように(ライブラリー出演)とカッコがつくところだったのだ、と今更ながら気づく。

theme : 機動戦士 ガンダムシリーズ
genre : アニメ・コミック

『ヴィタール』

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『ヴィタール』

(2004年、日本、86分)

製作・監督・脚本・撮影監督・美術監督・編集:塚本晋也
音楽:石川忠
出演:浅野忠信、柄本奈美、KIKI、岸部一徳、國村隼、木野花、りりィ、串田和美

医大生の博史(浅野忠信)は交通事故により一切の記憶を失ってしまう。自分の部屋にあった医学書に興味をもち、医学部に入学しなおした彼は、その空白をうめるように解剖学習にのめり込む。やがて徐々に記憶を取り戻しはじめるが、ある女性と自分が戯れるという、〈記憶をこえた、もうひとつの世界〉に同時に生きはじめる‥。

最新作『悪夢探偵』が公開中の塚本晋也監督。長編としてはその前作にあたる『ヴィタール』は、いつもながらのアイデンティティの実感の問題に、記憶/夢が介在するという映画で、まだ未見ですが『悪夢探偵』とおそらく興味深い密接な相関関係があるのではないか‥という予想があります。

塚本晋也監督の作風を雑にいえば、暴力とエロティシズムをモチーフに、身体の変容と痛みを描く、ということになると思いますが、ここに〈夢〉が介在するとどういうことがみえてくるのでしょうか。〈夢〉をみている状態というのは、〈生〉の根拠も〈現実〉の根拠もないところで、時間=空間を生きているという状態であって、そこでの“自分”は過去の〈生〉からも〈現実〉の〈肉体〉からも切り離された浮遊物としてある。今、こうしていることが、果たして“ほんとう”のことなのか、ここにあるおのれの肉体は、記憶は、人生は、愛情は、“ほんとう”のものなのか、確証を得るすべがまったくない未決定の状態。必然、物語の主体者である主人公は、その確証を、〈生〉の実感をつかむために力をつくす。では〈夢〉であるかないかを知るために、古来から行われている行為とは何か。(ホッペタをつねるなどして)自分の肉体に〈痛み〉をあたえ、観念ではない即物的な〈痛覚〉を呼び覚ますことだ。

ここで大ざっぱにですが、〈痛み〉のモチーフと〈夢〉のモチーフがリンクする。〈痛み〉も〈エロティシズム/性〉も、それらを生の実感を得るための重要な手段とすることは、塚本晋也に限ったことでなく普遍的な方法として多くの人間がとりつかれていることであって、そこでの〈生の実感の確認〉とは、己の生の根拠への不安感に基づいている。

『鉄男』における、人生に居場所のない風情のしがない主人公は、その肉体が鋼鉄化してゆく過程で、“痛み”と“エクスタシー”のない交ぜになった〈生の実感〉を得る。〈変容〉のなかの〈痛み〉と〈快楽〉によって、かろうじて生を生きている証として感じられることが、執拗に繰り返し語られるということは、塚本映画において、そもそも〈現実の生〉に実感が感じられないからであって、確証のもてない生の無根拠ぶりはいまが夢であろうが現実であろうが変わりがない。とすると、一段進んで、たとえ〈夢〉のなかであろうと、〈生の実感〉が得られるのならばそれは〈現実の生〉より上位のものとなる。

『ヴィタール』で語られているのはそういう主題であって、より大きくいえば、世界そのものよりも、感じる/知覚する主体の認識のほうに“ほんとう”の決定権を置くということで、なんだか『強い人間原理』とか、ソッチのほうまで行ってしまいそうな雲行きですが、塚本晋也の場合、精神の把握のリアリティというよりは、あくまで肉体的・触覚的リアリティを優位に置く。個人的には、必ずしも好きな作風ではないし、じつは人が言うほどは才能をかんじてもいないのだけれど、それでも無視できなくおもうのは、その姿勢というか資質が視覚芸術でなく触覚芸術だとも言われる〈映画〉というメディアに合致していると思うからだ。

『ヴィタール』では、かなりあからさまにグロテスクな人体解剖学習のようすが克明に描かれる。〈痛み〉を感じることでようやくこの世界での生を実感できる者と、〈痛み〉を感じられない肉体をもつ者(生の実感をもてない者)の対比としてそれは表れ、記憶喪失という出来事により〈生の確証〉の基盤を失った浅野忠信が解剖学習にのめり込むのは、自分と同じように〈生のよるべなさ〉を負う〈死体〉という名の触覚主体に共震しているからだ。〈もうひとつの世界〉で死んだはずの彼女・涼子(柄本奈美)と表情ゆたかに戯れる彼は、〈夢〉とも〈死の世界〉ともとれるような〈もうひとつの世界〉を〈現実の世界〉より明らかに上位においている。

父親に殴られても無反応な彼は、現世では〈痛み〉も〈エロティシズム/快楽〉も感じておらず、この現実世界は「断末魔の電気信号」なんじゃないかと呟く。〈もうひとつの世界〉で、浅野忠信と柄本奈美は交歓をかわし、愉悦に浸ってゆく。たびたびあらわれる、浅野忠信が鏡をみつめて「あ、‥あ、‥」と呟く場面は、記憶を少しずつ思い出している場面というよりは(あ、俺の“ほんとう”の世界はこっちじゃないんだった、)とフト思い出しているようにみえます。

浅野忠信に興味をもち、おもいを寄せるKIKIは、あちらの世界に重きをおく浅野と交わることができない。KIKIが彼と人間として相対するためには、原因不明の傷を顔に負い、“生ける実感”そのものとなったときだった。理由もしらされずKIKIの保護された警察署に呼び出された浅野忠信に、傷=生の実感を帯びた彼女ははじめて本音の言葉を吐露することが出来る。

「死んだ女に未練残してどーすんだよ!生きてるもんはどーすんだよ‥キレイな記憶が相手じゃ、勝ち目がないじゃないかよ‥」彼女が近づいてきた彼に凶器で殴りかかろうとするのは、感情をぶつけようとしているのではなくて、〈現実の世界〉で〈痛み=傷〉を肉体に刻みつけることによって、こちら側(現実)で〈生の実感〉を得てほしいと彼女が希求しているからなのだった。

「今っていう時間がわからないな。僕の意識ってなんなのかな‥」と懐疑をいだく浅野忠信は、こちら側(現実世界)へ引き戻そうとする周囲の者、つまり現実世界を〈もうひとつの世界〉より確固とした、優位な/有意なものとして示す者、へむかい、「だいたい、ふたつの世界に優劣をつけるのもヘンなんだよ」と、その価値体系には与しないと宣言する。

浅野忠信が記憶を失うことになった事故で死んだ、恋人だった涼子(柄本奈美)は、死後浅野のもとへ死体が巡り、彼に検体されるように目論んだ。そしてそのとおりに解剖客体として彼のまえにあらわれた彼女は、〈現実世界〉で触覚による〈痛み〉も〈悦楽〉も感じないことをしめすことにより〈もうひとつの世界〉に浅野をいざなった。彼も、痛みや異性の誘惑、人間関係の揺らぎや心癒やす様々な物事など、現実世界の刺激に不感症になることによって、彼女の望みにこたえた。他の実習生たちが解剖に抵抗感を感じるなか、無感覚に死体をビリビリゴリゴリと切り刻んでゆく水死体のような顔をした浅野忠信は、そのときから〈あちら側〉に生の基盤を置きはじめたのだった。

浅野忠信が〈こちら側〉(現実世界)で根拠を置くことになる極限まで殺風景な、箱のように薄暗い部屋には、半透明なガラス窓がはめこまれていて、窓の外側の表面には雨なのか四六時中液体がしたたり、たゆたっている。絶えず形を変え流動する液体は生命(の、実感)の永遠を示す。その窓を羨望のまなざしで見やる浅野忠信は、その向こうに、彼女との永遠の生の実感を見つめているのだ。ラスト、〈向こう側〉で彼女といる世界では雨が風景を洗いつづけ、彼女は、好きな歌のこと、匂いがするということを口にする。歌も匂いも、永遠の〈生の実感〉の証し、これ以上ない祝福の証しなのでした。

いつものことながら、塚本晋也の“スタイリッシュな映像美”と、彼のモチーフである〈痛み〉なり〈エロティシズム〉なりの“生理的/触覚的”な皮膚感覚とは、なにかどうも(梅干しとスイカ的に)食い合わせが悪く、その食い合わせの悪いかんじが毎回つづくと、それはそれで味になっているというか、それが作家性になっているかんじですが、やはり何か食い違っているという印象が残ります。しかし、塚本映画にはそのスタイルと生理的なものが合致する瞬間があって、ガン!!!!ガン!!!!とバカでかい打撃音が響き渡り画面が揺らぐとき、観客であるわれわれもおののき、嫌悪感や快感という生理を刺激される。(そのスタイルは『鉄男Ⅱ BODY HAMMER』や『東京フィスト』で最も効果的に発動したと思います。)『ヴィタール』でも、車が連鎖的にクラッシュし大音響とともに画面がブレるシーンなどに 、その効果がみられました。

存在の基盤が無根拠だという“いたたまれなさ”“よるべない不安定さ”を属性としてもつ塚本的存在としては、浅野忠信はいかなる状況でも超然としていて、確信がありすぎるように感じた。KIKI、髪型も顔立ちも、じつに塚本映画の女性で、印象に残ります。

さて、最新作『悪夢探偵』における重大なモチーフらしき〈夢〉は、果たして〈現実世界〉の〈確固たる根拠〉の優位性を揺るがすのか。〈夢〉と〈痛み/エロティシズム〉と〈精神による把握のリアリティ〉とは、いかなる変奏曲をかなでているのでしょうか。

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theme : 日本映画
genre : 映画

映画『逆境ナイン』

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『逆境ナイン』

(2005年、日本、115分)

監督:羽住英一郎
原作:島本和彦
出演:玉山鉄二、堀北真希、藤岡弘、田中直樹


島本和彦原作の映画化を、個人的な思いなしに観ることは難しいです。

小学生のころ、おこづかいが2年生のとき150円、6年生のときでも250円で個人的に激貧でしたから、週刊少年マンガ誌はもちろん買えなくて、単行本、コミックスを買うのは2ヶ月にわたる大事業でした。
だから読むといったら友達のウチで借りて読む以外、とにかく立ち読み!ヒマさえあればあちこちの本屋さんで立ち読みを繰り返していました。まだその頃は書店側がマンガにビニールかける風潮はなかったから、可能だったことでもありました。

そんななか予備知識なく出逢った島本和彦の『炎の転校生』!!あまりの面白さに全力で買い揃えた。万引きするという発想はなかったので、結構な時間がかかりましたが‥

以来、変わらず島本和彦ファンとして今に至るわけですが、ハイテンションで題材にぶつかっていく作風はしばしば空回りするため、なかなか『炎の転校生』につづく代表作をうみだせないまま、『週刊少年サンデー』という表舞台からドンドン地味でマイナーな雑誌へと埋没していったとき、忽然と傑作『逆境ナイン』があらわれたときは嬉しかった。その間の作品にも、所々冴えたところはあったにしろ、部分部分の輝きで、トータルとしては有機的に結晶しないかんじがあった。『逆境ナイン』は大げさな熱さ、大仰な描写とギャグが作品のテーマと相性よくガッチリ組み合って、最終回までテンションが落ちなかった。あきらめずに読んできた甲斐があった、と感じ入った記憶。

やがて、時はめぐり、『マトリックス』に端を発する、大仰なCGアクション・ギャグが表現として乱発されるようになる。そんななか、『火山高』は、大して面白くないが、この大仰なアクション・ギャグの系譜は島本和彦が東の横綱なんだということを世間に思い起こさせてくれた。その意味で、『炎の転校生』の劣性コピーである『火山高』が、『逆境ナイン』映画化のマエセツを済ませてくれたともいえる。最近ではドラマ『マイ☆ボイス マイ☆ヒーロー』でのお昼休みのプリン争奪戦のバカバカしい大げささに、島本イズムがあった、おそらく無意識の。3まわりくらいして、島本ギャグに時代が接近してきた。芸人でいえば井上マーとか‥

そして実現した『逆境ナイン』の映画化。
どうだったか、といえば、まあ、マアマア、という歯切れの悪い感想になってしまいますが、欠点もふくめて、この映画が存在することを肯定したい気持ち。なにより、絶版だった『逆境ナイン』を復刊させたことは何にも代え難い偉業だ、とおもう。

ということで、慎重に、なるべくホメるだけにしてサッと去りたいと思いますが、まず冒頭がいいですね。風が吹きすさび、色んなものが飛んでゆく校庭からして島本的、弱肉学園のライオン像みたいなのをナメての校内、廊下に貼り出されたどれも力強い筆致での「全力」「全力」「全力」「全力」「全力」の文字がオカシクも世界観を告げていて良い。そのあとの校長室のシーンは音響設計等不手際が目立って残念でしたが‥って、ケナさないんだった‥
あとは、登場する女の子を月田さん=堀北さん一本に絞ったのも成功していると思います。ハギワラを切ったのも、うまくまとまる要因だった。オーディションで選ばれた全力ナイン、山下がちゃんとちっちゃかったのも良かったし、新屋敷のひとはちゃんと新屋敷にみえました。

島本ファンでないひとが、今をときめく(?)玉山鉄二や堀北真希目当てで予備知識なくみても、最低限、それなりに楽しめるものに仕上がっていると思われます。なにより良いのは、この映画のさきに、面白そうな原作の像がボンヤリみえてくる点で、たとえばデミ・ムーアがストリップ嬢に扮する、底抜けな『素顔のままで』(96)をみて、誰がカール・ハイアセンの原作のほうは面白いんだと想像してくれるでしょうか‥。その意味で、『逆境ナイン』の映画版は、良かった、と言っておきたいと思います。

theme : 日本映画
genre : 映画

さよなら 『本の雑誌』、『映画秘宝』

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ふと気づいたら、『本の雑誌』の2月号、どころか、1月号も買ってないことに気づいた。まだ隔月刊(2ヶ月に1回刊行)だった時代、中学生だったころから20年弱のあいだ欠かさず買い続け、読み続けた雑誌だった。

買ってないことにきづくと、じゃ、ちょうどいいからこのままやめちゃおうか、という気持ちが自然と湧いてきた。いつの間にか、『本の雑誌』を読む理由があまり無くなっていたことに気づいたのでした。

椎名誠を面白がっていた一中学生が本を読み始めるときの指針として、椎名誠の朋友である目黒孝二=北上次郎チルドレンになるのは必定だったし(だから、いまだに冒険小説好き)、ミステリーは三橋アキラを、SFは鏡明や高橋良平を先導役に読み始め、上記の誰もがリスペクトしていた筒井康隆が、純文学への案内人でした。

いわば自分の本読みとしての原点が『本の雑誌』にあったわけで、参考にしなくなってからも無意識に敬意を表して買いつづけていたのだとおもう。編集体制は世代交代してシーナイズムは形骸化し、北上次郎も初老的な小説ばかりとりあげるようになってしまった。他媒体ではまだトンガったところがなくもないのに‥。

『本の雑誌』がコミットしていた『本屋大賞』も、リリー・フランキー『東京タワー』に受賞させたことで、その存在価値を早くも失った。“遊び”だった年間ベストテンも、幾分の権威化から逃れられないでいます。要するに軽やかでなくなった。まだ無名だったころの坪内祐三へのロングインタビューを特集にしたあたりが、最期の輝きだったのかもしれない。
それに、想像される『本の雑誌』の現在の読者像、宮部みゆきとか伊坂幸太郎とか恩田陸とかが好きそうな、ことによったら斎藤孝さえ嫌悪感なしに読んでしまいそうな読者像とは、生理的に相容れない、と感じる‥

と、『本の雑誌』ばなれを起こした理由はいろいろあって、何が決定打か分かりませんが、どちらにしても、もう自分の人生とすれ違っていたのだと、と思う。

去年で買うのをやめた『映画秘宝』も、創刊号からだからもう10年以上欠かさず買っていたことになる。ある理由から『映画秘宝』(及び洋泉社から出たもの)はもう買わないと決めたその日、『週刊SPA!』を立ち読みしはじめ、いつものとおり中原昌也の連載『エーガ界に捧ぐ』に目を通すと、中原昌也が、身内であるはずの『映画秘宝』について、もうすでに役割を終えた、存在意義の無くなった雑誌として斬って捨てていて、『映画秘宝』の購読をやめたことが、大げさにいえばなにか時代的な必然として感じられた。

『本の雑誌』も『映画秘宝』も、ある時代の、ある状況のなかでは、カウンターカルチャーとして、存在自体が批評として、有効に機能していたのだったが、その〈ものの見方〉が定着し市民権を得るとともに、その〈見方〉は、アカデミックな努力から逃げたいが気取りたくもある怠惰な人間の言い訳に堕ちてしまった。 ひとつのメディアが長いこと輝きつづけるのは至難のわざなのだとも感慨‥

人格形成後に買い始めた『映画秘宝』本誌と関係書籍は、古本に売ったり資源ゴミとして出したりして、比較的簡単に処分出来ましたが、人生のある局面を左右してきた『本の雑誌』には愛着があって捨てるに捨てがたく、処分に困る‥

‥それらとは別に、最近視界に入ってきたもののひとつが『小説トリッパー』。
『文學界』と『小説すばる』の中間みたいな雑誌、と言ったら身も蓋もないですが、読み逃せない特集があったりして、ものすごくはないのだけれど、結局毎号買ったりしてる気がする。今回の冬号の特集は〈歴史小説の愉しみ――史実とフィクションの間で〉。目玉らしき浅田次郎のインタビュー(『私の「歴史小説」』作法)は、個人的にもともと浅田次郎の書くものはどうも‥‥と思っているのでトバす。小谷野敦による、大岡昇平の歴史小説についての論考、という組み合わせにオッとなる。しかし、朝日新聞社ともあろうものの出版物で、“大岡昇平”の“平”の字が正しくないってのはどうかと思います。(正しくは、“平”のなかのチョンチョンがハの字になる。そのくらいの活字はあるでしょう!)

しかし買った本当の理由は、最新作『快適生活研究』をめぐる金井美恵子インタビューが目当て。金井美恵子は、現存する小説家のなかで最も敬愛する作家。丁寧で有意義なインタビューですが、小説家・金井美恵子像に新たな亀裂は入らない。『金井美恵子全短篇』における、蓮實重彦(の乱暴な)インタビューが、未だに指針となっているところに、繊細がとりえの幾多のインタビュアーに対する、意地悪の塊みたいな蓮實重彦の優位を感じる。全般、比較的緊迫感の薄い対話に終始しているのは、老いのせい?

theme : 雑誌(既刊~新創刊)
genre : 本・雑誌

『ルート225』



『ルート225』

(2005年制作/2006年公開、日本、101分)

監督:中村義洋
原作:藤野千夜
出演:多部未華子、岩田力、石原裕太、田中要次、崔洋一、嶋田久作、石田えり

もうすぐ15才になるエリ子とひとつ下の弟・ダイゴはある日突然、ふとしたはずみから、元いた世界と微妙に少しだけ違うパラレルワールドに迷いこんでしまう。何とか元の世界に帰ろうとする姉弟だったが‥。

『ローカルニュース』(99)『絶対恐怖 ブース』(05)などの監督作品や、多くの脚本作品で知られる中村義洋監督による、ファンタスティックな青春映画‥って“青春”というにはまだ早いような微妙な年頃、“思春期”の不安定な心の揺れが、ファンタジー=虚構という異物として表される。特に説明されるでも解明されるでもない、(もうひとつの)〈世界〉のコトワリの理解不能なさまは、〈思春期の不安や孤独、生きることの不条理、不確かな現実〉を表象する。“元いた”世界、であろうと、“もうひとつの”世界であろうと、どちらにしても世界は子供たちにとって生きがたい不条理でおおきな世界が眼前に広がっている事実に大差はない。

そのような思春期の困難を、現実的/日常的なリアリズムとは異なる、相米慎二~冨樫森の系列に連なる身体的/肉体的アクションの具体性に託して映像化した中村監督の手腕は頼もしいくらい堂々としています。堂々としすぎてやや“切なさ”に欠けますが、鏡にむかってしる仕草や、頭や顔を掻く身振り、歩き、走り、キックし、バッティングセンターで球をうつ、といった徹底して身体的なアクションが映画の肉体的リズムを刻む。

『HINOKIO』(05)でブレイク、『夜のピクニック』(06)でも主演を張る多部未華子は、久しぶりに若手“映画俳優”が台頭してきたという同時代的なワクワク感をかんじさせる女優さんだ。なにか芯のあるつよさをかんじさせる清涼感。たたずまいは非グラビア的で、どちらかというと表情はかたく変化に乏しいのに、その身体表面をおおう周りの空気の表情や色合いが一瞬一瞬移ろうさまは、映画ならではの出来事だとおもう。

そんな〈映画女優〉が、画面上に〈身体的アクション〉を刻みつけ、その瞳で何かを見つめれば、最低限“映画”になるということの証明。あくまで描写は軽快で、細部がスムーズに淀みなく流れていくので、意外と観る側が受け取る感慨が薄いのが惜しい。もうすこし異物感があってゴツゴツと不均一な触感があったら傑作になっていたかも。
どうでもいいことなのかもしれませんが、本作において最も印象に残るのは、〈肥満的存在〉にたいするこだわり・優遇ぶり。“ジャイアンツの高橋由伸”がどうやらこの奇妙な世界の理を担っているらしいのですが、〈もうひとつの世界〉での“ジャイアンツの高橋由伸”は「ややぽっちゃりしてる」という差異が見られるし、多部未華子にとって未知の世界、不安感が充満する不確かで不条理なこのもうひとつの世界で理解/信頼しあえるのが、岩田力演じる弟のダイゴと、石原裕太演じる友人のマッチョのふたりだけなのですが、このふたりが揃ってハッキリと肥満児。ボヨンボヨンしたふたつの肉塊を道連れに、不思議の国の冒険をつづける細身の少女。という図。作り手が肥満者で、痩身の少女に許容されたいという願望のあらわれかと勘ぐってしまう。

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theme : 映画感想
genre : 映画

映画『ZOO』(乙一原作のほう)

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『ZOO』

(2005年、日本、119分)

映画で『ZOO』といったら、普通にいってもちろんピーター・グリーナウェイの代表作『ZOO』のことだったんですが、どうやら最近は検索によるとそうじゃないみたいで、ズーというともう乙一版のほうが既にグリーナウェイよりメジャーなズーらしいです。

映画版『ZOO』は、人気作家・乙一の短編集『ZOO』から5編を選りぬいての映画化がなされたもの。『ZOO』といったら、乙一の著作中で短編集ながら、最大級の評価を得ているもの。それが、各篇異なる監督脚本キャストのもとバラエティー豊かに2005年、映画化されました。

誰もが思うことなのかもしれませんがー、はたから見たら、オムニバス映画を作るのは一見比較的お手軽でカンタンそうなのですが、ほんとうに面白くするのは至難のわざでなのではないかと、常々かんじていて、普通の長編映画では、感動して涙が出たり、ハラハラしっぱなしで観終えて興奮さめやらぬまま誰彼なく勧めてまわったりとか、そういう事は結構しょっちゅう起こり得ることだと思うのですが、オムニバス映画のばあい、オムニバス映画をみて涙が止まらなかったり、観終えて映画館を出てきた観客の頬が上気していて顔を真っ赤にして興奮して語り合う、という光景を想像するのも困難だと思われます。
『ZOO』に限ったことではありませんが、良かったとか各篇の出来不出来の差があったとか良くなかったとか、(オムニバス映画『ZOO』の)評判がごく通常通りにさまざまにあるなか、しかし、いざ観るときはあまりその世間の評判は関係なくて、せめて、退屈しなければイイナ・・くらいの、かなり消極的にハードルを下げて観ることになります。

『ZOO』の演出陣は、大まかに言って若手と中堅の中間くらいのメンバーで、期待値が低くても当然というか順当ですが、たとえ超・巨匠が名を連ねたオムニバスであっても、不思議とこれが期待値はあまりあがらず、ヤッパリ退屈しなければイイナ・・という身構えかたにどうしてもなってしまう。『10ミニッツ・オーダー』から『チューブ・テイルズ』までピンもキリもなく、もちろん『ZOO』も、同じように恐る恐る消極的に観ることになります。

おそるおそる観た『ZOO』は、やはりというか、各編ごとに、頑張ってるナーとかここが見所ダナーとか全然駄目ダナーとか、頭では色々浮かぶものの、感情は、喜怒哀楽、いずれにも針が振りきることなく、最終的には「へー‥」という曖昧で煮え切らない感想に集約されるような状態に宙吊りにされてしまう。難しいもんですね。

映画版『ZOO』を通してみてみたとき、その収録作のバラエティーさも讃えられた乙一の短篇集『ZOO』の作品中から、まるで一つの物語を様々に変奏したものなんじゃないかと思える5編が選ばれていて、連作としての統一感があることに意外性を感じるとともに、元々の発想がそもそもすごく視覚的なものがこんなに多かったんだなーと気づく。幾分、ジャンルでいえばミステリががった短編が多く、ミステリにはトリック的なものがつきものですから、発想が視覚的なのは必然といえば必然なんでしょうが、以下の作品の共通点として、視覚的であり、その視覚の対象先が並列的に複数化して在るさまがみてとれます。

『カザリとヨーコ』の瓜二つな顔、『SEVEN ROOMS』に登場する奇妙な構造の一連の部屋と、クライマックスの解決策。『So-far そ・ふぁ~』では少年にとっての父か母のどちらかが、あるいは父と母の相互が〈見える/見えない〉という事が話の主軸となっているし、『陽だまりの詩(シ)』におけるトリックは、被創造物であるロボット視点によって××××が×××見られることにより生じる。そして表題作『ZOO』においては、主体者の視線記憶と写真媒体の記憶機能の差異が、物語に導入される。

いずれにしても、どの作品においても、一主体者の視覚機能の不完全さ、視認可能だと盲信することへの懐疑が物語の主旋律を奏でている、おそろしくワンパターンと言ってもいいくらいに。視認主体は、対象物に対し、見まがうことなき確実性を有するものだという確信をもっているが、その無根拠な慣習的な盲信が崩れるときに、ドラマが(あるいは、オチが)生まれるという構造。


以下、いつも長くなってしまうので、メモ程度に。物語には触れる気になった場合以外触れません。


①『カザリとヨーコ』
(監督:金田龍、脚本:東多江子、出演:小林涼子(2役)、松田美由紀、吉行和子)


金田龍、まだこんなポジション。。松田・吉行、両女優のキャスティングがベタ。映画的説話構造は垂直性運動を全般で描く。人の落下、CDの落下、他の家族構成員より下層に寝起きする主人公、等‥。


②『SEVEN ROOMS』
(監督:安達正軌、脚本:奥寺佐渡子、出演:市川由衣、須賀健太、サエコ、吉高由里子)


『ZOO』映画化と聞いて、まず読者が普通に期待するのがこの『SEVEN ROOMS』の独特で奇妙な建造物の具体の映像化でしょう。制作費的に感心。須賀“ALWAYS”健太くんは果たして適役か疑問‥。市川由衣はコレといい『呪怨』といい『サイレン』といい、どうもホラーがちですが、彼女にとっては余計な回り道にしかならないんじゃないか‥。チョイ役で出演のサエコは、オトナの世界に汚れぎみなケバめな女の役。

さて、『紀子の食卓』で、見事今年のヨコハマ映画祭最優秀新人賞を受賞した吉高由里子は、この作品ではサエコよりさらに一瞬のチョイ役。終盤にとらわれてくる女子高生役としてほんの2シーン画面に登場。独特の、透明とかつ不透明な存在感が際立つ。


③『So-far そ・ふぁ~』
(監督:小宮雅哲、脚本:山田耕大、出演:神木隆之介、杉本哲太、鈴木杏樹)


映画じたいは予想と寸分たがわないつくり。男ながら、神木くんの可愛さ美しさにクラクラ。そういえば『インストール』でも、上戸彩をも食うほどの神木くんのカワイっぷり・ウツクシっぷりでした。


④『陽だまりの詩(シ)』
(監督・アニメーション:水崎淳平、脚本・絵コンテ・キャラクターデザイン:古屋兎丸、声:龍坐、鈴木かすみ)


鳥の死骸をぶん投げるシーンがナイス。たしかにアニメーション以外の映像表現ではなし得ない物語。独特のテイストを生むモーションキャプチャーを多用したCGアニメだからこそのラストまでの×××××がいきる。


⑤『ZOO』
(監督:安藤尋、脚本:及川章太郎、出演:村上淳、浜崎茜)


さて、おおかた他のエピソード群が原作に忠実な物語を予想範囲内に語るなか、トリを飾る表題作の『ZOO』は、かなりテイストも物語もアプローチが違う。俊英・及川章太郎(脚本)&安藤尋(監督)コンビの野心的な仕事だ。

謎を伏せてオチまで引っ張った原作とは異なり、主人公が女を殺したことは自明のこととして最初から秘められてはおらず、すべては起こってしまったこととして開示されている。オチまでもたせてナルホドで終わるのではない、物語の刺激としてではない、何か心に引っかかり、残るものを目指して『ZOO』の物語をエッセンスとして大胆に脚色。謎を失った、この安藤・及川版『ZOO』は、では何を描こうとするのか。

粒子の極端にあらい画面、不安定に揺れる斜めに傾いだ構図は、主人公村上淳の心象に徹底的にこの短篇映画が寄り添っていることを示す。粒子の荒さはささくれ立った彼の神経の反映であるとともに、彼の視認主体としての不完全さの証明でもある。歪にゆがんだ精神に生きているらしき村上淳が見るものが、果たしてソレがそのまま見たままの通りにソレであるのか、映画の観賞者には断定できないまま見守ることになります。

こうして、映画はほとんど主人公の主観と同化し、観念/情念そのものとなる。よって、女がまだ生きていた頃のパートが現在のパートと交互に挿入されますが、それは物語の背景の説明ではなく、彼の純想起として機能する。村上淳にとって、いま起きていることも、過去の出来事の回想も、等しく彼の感情を波立てる現在進行形の出来事として心に傷を刻みつけられる。物語の骨子はどうあれ、過ぎ去ってしまった愛への哀惜からくる荒涼感がこの心象風景を圧迫し、音響はノイズを刻む。どうしても至ることのない、成就することのない不可能性の“愛”を生き続けること。そのことが最優先される世界、それが彼の棲む心象世界であり、それがこの映画で描かれるすべてを染め上げる色調だ。

『仮面ライダーブレイド』の浜崎茜の妖艶な笑み。彼女は彼の肌に歯をたて、吸血するようにして彼の肌と衣服に刻印をのこす。居心地悪げに存在する村上淳は、愛する主体者として、浜崎茜に存在を支配されているが、写真を撮ることだけが、関係において主導権をもてる唯一の手法だ。しかし、その写真を撮ることも彼女に拒絶される。彼女の死後、腐敗していく彼女を写真におさめ続けることで、村上淳の愛の不可能性を生き続ける生が主観的に是認される。主観的生の是認とはもうひとつの世界を創造することであり、他方の世界における死を生産するきっかけともなる。こうして狂気の円環は閉じるのだ。

原作とは若干説話的機能の異なる〈写真〉と〈腐敗〉のタームは、ある映画を想起させる。言うまでもなく、ピーター・グリーナウェイの『ZOO』だ。おそらく、作り手は、乙一『ZOO』よりも断然グリーナウェイ『ZOO』にオマージュを捧げるようにして、この映画をつくりあげではないか?彼女の一瞬一瞬を切り取った写真が、膨大に連なることにより、デジタル的間欠的に断続した時間の推移とともに〈腐敗〉という〈存在の磨耗〉を描くさまは、あからさまにグリーナウェイ版を想起させる。〈存在の磨耗〉を押しとどめられない〈時間〉への〈描写〉の敗北という命題に、エリセ『マルメロの陽光』を思い出した。〈存在の磨耗〉を映画に刻印することは、映画の“魂”みたいなものが、止め絵でなく、動き(時間の推移)のなかでしか存在しないという、映画の原理を照射する。短編映画『ZOO』は、視認主体の認識の不確かさと、視認客体の交換可能な並列性、という、このオムニバス全体を包括するような強度をもった知的な表現をもっていた、と思う。で、それが、面白いものになっていたかというと、微妙なところですが‥。


‥ところで、ぜんぜんリサーチしてなくて予想だけで言いますが、乙一ファンにとってはこの安藤・及川『ZOO』が、全編中、いちばん評判が悪い気がしてなりません、なんとなく。

theme : 邦画
genre : 映画

まもなく公開の映画(1.13)

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新年もあけて、そろそろ本格的に2007年の公開ラッシュがはじまります。

すでに現在上映中のもののなかで注目作は、ふつうに『気球クラブ、その後』、『恋人たちの失われた革命』、『鉄コン筋クリート』、『イカとクジラ』、『長い散歩』とか。ふつうですね。『気球クラブ~』や『失われた~』は、一般的な観客の反応が悪いみたいで、サスガ!と頼もしく思います。園子温、ガレル、そう簡単には楽しませてはくれない方々だ‥変わり種は、ダゲレオ出版(!)制作の、山村浩二、しまおまほ、しりあがり寿、佐藤雅彦らといった異様なメンツによる短編アニメオムニバス『《TOKYO LOOP》』。

20日公開の『僕は妹に恋をする』。適材適所、廣木隆一門下の安藤尋監督にはピッタリの題材。松本潤、榮倉奈々、平岡祐太、小松彩夏というキャスティングも、2007年にちょうどいいプレ・ブレイク加減がじつに絶妙だ。ポスターなどのビジュアルイメージ、色味の薄い白が基調、安藤的。

同じく20日公開の『マリー・アントワネット』。もともと、キルスティン・ダンストならなんでも観たいほう。評判のあまり芳しくない、『エリザベスタウン』(04)や『ウィンブルドン』(05)さえ大好き。
『ヴァージン・スーサイズ』(99)でも組んだ、ソフィア・コッポラ×キルスティン・ダンストが“マリー・アントワネット”をやるなら、とうぜん相当ガーリーなものに仕上がっているはず!!今の時代に映画化するならそれですよ!!と、すでにワクワク。もし史劇を期待するひとがいたら、痛い目にあうんじゃないかと‥。キルスティン・ダンストは、その主演作『ウィンブルドン』が史上初めてウィンブルドンのセンターコートを使ってのロケ撮影を許可されたのに続いて、この『マリー~』でも、フランス政府の全面協力を得てのヴェルサイユ宮殿でのロケが実現。つくづく、いい星のもとに生まれてるな~と感嘆します。

今日、13日公開の『jackass number two』、バカがムチャするだけの映画。一作目は公開しばらくして観に行ったら、客入りが微妙で、かなりサムかったです‥‥こういう映画はイベントムービーなので、お祭りムードで観ないと悲惨な目にあう。なので観に行くかたは公開して速攻行くか、混んでそうな日時に行くか、友達大勢で行くのが良いかと思います。

同13日、『悪夢探偵』。塚本晋也監督は現在、よしもとばなな『哀しい予感』の舞台化の演出中(本多劇場21日まで)とエネルギッシュに活躍中。一見、筒井康隆『パプリカ』と同じような話じゃないかとおもえるが、予想では石井聰互の『エンジェル・ダスト』(94)みたいなかんじのテイスト?押井守とか‥。大昔ファンだった、hitomiの演技にも興味あります。

同13日、『刺青/堕ちた女郎蜘蛛』。ここのところ相次ぐ谷崎潤一郎の映画化に、やや食傷ぎみのかたもおられると思いますが、現代日本最重要監督である瀬々敬久監督の新作とあらば、好き嫌いはともかく駆けつけないと、とおもう。脚本・井土紀州とのコンビが久々に復活、さてそれがどう出るか?

theme : 気になる映画
genre : 映画

2007 冬ドラマの注目作

年始は2日から忙しかった(2日は、小田急線の経堂に初めて行き、そこのオダキュービルにはいってる系列の飲食店の手伝いでした)んですが、テレビスペシャルいっぱいがあって、録画したそれを観るのだけでも忙しかった。

なんと11年ぶりの『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ!!』、『SMAP×SMAPスペシャル』、『ズバリ言うわよ!スペシャル』、『ぷっすま!スペシャル』、『ミドル3』、『ザ・ドリームマッチ07』、『新日1・4ドーム大会』、『白虎隊』などで、みるだけで時間をたいへん消費する。
やっとみれた話題の『ハイスクール・ミュージカル』。『ドキュメント 《14才の母》の真実』なる現実の若年妊娠出産者のドキュメンタリーもみましたが、ありきたりのアプローチとありきたりの結論でガッカリ。しかしなにより、『めちゃイケスペシャル』と『内Pスペシャル』などの、お気に入りだった番組のあまりのつまらなさに、正直動揺‥。新日の東京ドーム大会の録画、何度もウトウトしてしまう。もう普通の(というか、新日の)プロレスをシラフではみられないのかも‥。


さて、すでにスタートしはじめた冬ドラですが、今回観ようと楽しみにしているのは以下のドラマです。

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まず第一は、待望の『花より男子2(リターンズ)』。番宣活動に松本潤が参加していないので、乗り気じゃないのかと不安でしたが、コンサートツアー中だったようでとりあえずホッとしました。キャストがまたちゃんと揃ったのはうれしい。しかしこの2年のあいだに、安部力だけブレイクしていないような‥。

『演歌の女王』天海祐希主演、『女王の教室』は面白かったですね~。あのキャラがウケたのに、前向きな明るい演歌歌手役、ハードルの高いリスキーな企画に思えるが、天海さんもスタッフもそれなりに自信があるんでしょう。『教室』組からは、福田麻由子がひき続き参加。

『拝啓、父上様』。べつに倉本聰ファンというわけでもないんですが、『優しい時間』にはハマったので無条件でみます。二宮くんもでてますし‥。

あとはなぜか『ヒミツの花園』が楽しみだ。釈由美子さん主演の、コメディ?かな?放送済みの第1話、録ってはあるんですがまだみてません。宣伝でもうグイッときた。珍しく嫌いな役者さんがひとりも出てないし。

ここまでが観ようとしているもので、あとは微妙。といっても、『東京タワー』『ハケンの品格』『きらきら研修医』はついつい第1話をみてしまった‥。『東京タワー』、いまだかつてリリー・フランキーの仕事を面白いと思ったないので、観るのも消極的‥山本問題で話題になった去年のスペシャルドラマ版も録画したけどその気が起きずまだみていない‥まあアレは大泉洋がキライだからみてないだけかも。『ハケンの品格』、〈ハケン〉という字ヅラ、それに〈品格〉なんて単語を使うセンスに激しく嫌悪感をいだく。ドラマじたいは、フツーに面白いかも。『きらきら研修医』、『今週、妻が浮気します』もそうだけどネット発のお話にマトモに付き合うのはかなりツライ。ケータイ小説ほどではありませんが‥。

『エライところに嫁いでしまった!』、しきたり&姑という題材には興味がひかれませんが、仲間由紀恵、谷原章介、松坂慶子、本田博太郎といったキャストのため観ようかな~というかんじです。

絶対みないのは前述の『今週、妻が浮気します』のほかは、『華麗なる一族』キムタクのドラマを観ないのは、長年のクセというか、ライフワークみたいなもの。別にまったくキライじゃあないんですが‥。『その時、ハートは盗まれた』をみて以来だから、もう相当な年月です。。

theme : テレビドラマ
genre : テレビ・ラジオ

金子修介の少女愛――『神の左手 悪魔の右手』『デスノート The Last Name』

金子修介の少女愛――『神の左手 悪魔の右手』『デスノート The Last Name』

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前項『真夜中の少女たち』(→コチラ)で名前を出した、金子修介監督・渋谷飛鳥主演の『神の左手 悪魔の右手』。補足の補足ばっかで、なにも先に進んでいない気もしますが、『神の~』をみて思ったことをメモっておきたいと思います。

自分が楳図かずおのマンガを単行本でなく、連載として初めて読んだのが『神の左手 悪魔の右手』だったので、一般的な評価はよく知らないが楳図かずおのホラーといってまず基準ラインにおくのはスタンダードはこの『神~』。映画版はそのうち〈人気の高い『黒い絵本』のエピソードを中心に実写化〉され、能力者・ソウ=小林翼は脇に甘んじて、姉・イズミ=渋谷飛鳥が主役という構え。当初、『神~』を監督するはずだったが急逝した那須博之『デビルマン』(04)ミーコ役で那須監督に気に入られた渋谷飛鳥が、今作で堂々の主演に。

夢幻的な原作は映画版ではやや平板化された印象で、いつもの金子作品のごとく相変わらず芝居の質が著しく不均一だし、大事な場面でカットを丁寧に割れば割るほど間延びして間が抜けているし、いくつかあるアクション場面もへっぴり腰なノロさでモタつく。高間賢治のカメラは相変わらず大仰で、田口トモロヲが滅ぼされるシーンは大変底抜け、マトモな評価を望めるものじゃないとは思います。

しかし、説明はしづらいのだけれど、冒頭から“映画”特有の空気、臭気が画面全体に充満しています。この映画より、映像もカット割りも台詞まわしも動作もずっと勝っていると思われるJホラー群の、かなりの作品に欠けている“映画”のかんじが、この映画にはあって、映像の美しさや凝った色彩を誇ったり誇らなかったりするある種の映画群が、ビデオっぽいというか、空気しかない空間は無しかない空虚さ、寒々しい貧しさに支配されているのに対し、金子『神~』ではエーテルみたいに充満している“空気=気”が、どこかしら感情的なロマンを帯びている、とおもう。それが、果たしてアドバンテージになっているのかは良く分かりませんが‥。

同じ金子修介監督作品でも、大メジャー、大ヒット作『デスノート』2部作の狭間で、マイナーな臭気を放つ『神の左手 悪魔の右手』ですが、金子修介らしいといえばこっち(『神~』)のほうがより金子修介らしいんじゃないか。。どうらしいかというと、美少女にたいする偏愛ぶりの健在さによって。

成熟した女性の、豊満な肢体、やわらかい仕草。そういった成人女性の魅力にではなく、青々した、少年のように華奢な、〈少女〉への偏愛。ここでの〈少女〉は、清潔感があり、ぎこちなく、肉親への情愛に溢れ、異性へのアピールも無頓着なら性への関心も低い。

『デスノート』2部作での、香椎由宇瀬戸朝香の輝きのなさ/冷遇は、人格の形成も肉体的成長もストップした大人の女性と見なされたからだし、彼女たちには誰かの所有物であるという属性が第一にくる人物像でもあった。変わって丁寧に描かれたのは、まだ幼く無邪気に家族への情愛を発散する(月の妹の)満島ひかりで、家族のためにあらわされる、喜怒哀楽と、全身を疾駆させるような熱いアクション=動作が描出される。
家族の情愛を異性愛より上位に置き生きる少女としては、『ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒』(99)の前田愛『毎日が夏休み』(94)の佐伯日菜子が代表的。未成熟な少女の少年性への偏愛は、もちろん露骨に『1999年の夏休み』(88)の水原里絵=深津絵里らで示されています。

『デスノート』2部作で、最も淫して描写されたのが弥海砂=戸田恵梨香なのは誰の目にも明らか。SMプレイさながらに拘束されて監禁された戸田恵梨香が、細い細い腕と脚を、肌露わに身悶えもがき、割れた不安定な声で悲痛な叫びをあげる。無防備に白い腋の下が露出しさらされるさまは、若い女優やアイドルの許容範囲を超えた仕打ち。かすれがちな不安定な声質は声変わりのある成長期の少年を想起させ、細くながい四肢も同じく〈少女の少年性〉の属性と言えるでしょう。

死をめぐるパズルのような頭脳戦が物語を牽引している『デスノート』においては、〈少女〉の執拗な描写は必要不可欠なものとは言えなくて、説話的密度は低くならざるをえなかった。
しかし、少女の執拗な描写とは切っても切れない密接な関係にある“ホラー”というジャンルに属する『神の左手 悪魔の右手』においては、金子監督の嗜好は必然と化し、バタくさくモタモタした垢抜けない描写のタッチは、粘着質な性欲主体が対象に淫した時の執着に似る。

人間の悪意を夢で予知し、惨劇を体感する能力をもつソウ=小林翼が被害者の女の子の苦難を遠隔体感する以外、惨劇に襲われるのは気持ちがいいくらい例外なく、うら若き少女たちのみだ。

まず、冒頭で惨劇に見舞われるのは紗綾(現在は入江紗綾)。巨乳かつ端正な顔立ちで小学生時にすでにブレイクした彼女は、小学生でなくなったばかりとはいえ通常は性的な気配を漂わせているのですが、今作では長く白いシャツの袖口が手首までしっかり肌を覆い、上までぴったりとめたボタンに襟元はフリルが大人しくおどり、長く垂らした黒髪とで首もとを覆いきる。薄暗闇にチェックの上下(ワンピース?)、胸元には嵩のある人形を抱きしめつつ歩くことで、成長期の女性的なラインは封印される。いつにも増しての棒読みぶりは、“硬さ”という〈少年性〉を紗綾に附加しています。
こうして、ぎこちない〈少女性〉を帯びた紗綾を、何者かがつけ狙う気配が立ち込める。濡れたような夜道、石壁‥‥紗綾が拾った薄気味悪い人形を抱きしめつつ、後ろを頻繁に振り返っては歩くさまを、丁寧なカット割りというか、クドいというかまだるっこしいというかバタつさいというか垢抜けないというか、つまりいつものモタモタした金子調で描写、それがねっとりとした少女/少年性への嗜好と同調する。
丁重ふうなカット割りでありながら、そのじつ襲撃犯の視点と俯瞰的視点とテキトーに曖昧な視点のカットがけっこう無造作に入り混じっているのは、制作主体/調教主体/描出主体の欲望の噴出が、間欠的に説話と視点の磁場を狂わせているのかもしれない。

今井春奈かでなれおんの二人は、野山歩きの格好という〈少年性〉で性を宙吊りにされた〈女性性でなく、少女性〉を獲得して、画面に登場する。そのうえ、唯一与えられたパーソナリティが〈甘いお菓子の誘惑に抗えない〉という“乙女”なものなのだから、〈少女性〉は最高潮に達し、金子的欲望に基づく惨劇を召喚してしまう。そこでは、血まみれのケーキを吐くまで食べ続けることをしつこく強要するという、露骨に強制口淫的なSM的風土が現出する。

こうしたSM的な情景はそこここに散見される。
少女の救出に失敗し、犯人に捕らえられた前田愛(金子作品における少女=少年の代表的役者だ)と渋谷飛鳥は、拘束具で身体の自由を奪われ、床に磔にされる。犯人は、ある小さな針状のもので二人の少女をいたぶり出す。

あるいは、足の不自由な少女・モモ=清水萌々子『誰も知らない』(04)ではいわゆる“自然体演出”をほどこされていたが、ここでは硬くセリフを述べ、硬い動作で感情を表現するため、ぎこちない〈少女性〉が増幅する‥)は、父・田口トモロヲに都合よく監禁されていて、彼のいいように振る舞うよう洗脳されている。

こうして、Sっ気が充満する映画版『神の左手 悪魔の右手』は、大林宣彦がよくつくっていた〈SMロリコン映画〉の様相を呈するに至る。そういえば大林宣彦も金子修介同様、SFっぽい作品を数多く撮ってたし、作品傾向のバラエティー豊かさは、なにか共通するものがあります。

金子修介が偏愛する〈少女〉に附加される、〈家族への情愛〉を上位に置く、という属性について、最後に指摘しておきたいと思います。
イズミ=渋谷飛鳥が作品世界を牽引する主人公であるのは、生命の危険もかえりみずに肉親である弟を救うために、全てをかけて闘いを挑む崇高な存在であるからなのだし、児童養護施設に勤め、孤児らの面倒をみることを営みとしている前田愛が、行方知れずとなってしまった紗綾を常軌を逸するほど探しつづけるのは、魂が交歓しあい極限まで親しくなった孤児の紗綾を、家族のように思ってのことだった。殺人鬼であった父に無条件の信頼を抱いて生を委ねていたモモ=清水萌々子は、おのれの生命より肉親への信頼の情を上位にもつ、金子的少女の結晶だった。金子的世界では、家族への信頼と情愛は、何にも代え難いものなのでした。

原作と異なる結末をもつ『デスノート The Last Name』で、藤原竜也演じる月が破滅に至るのは、実の肉親に手をかけようとしたことから招かれた、必然的帰結だとも言える。『神の左手 悪魔の右手』の父・田口トモロヲも、娘である清水萌々子を殺めようと決意したゆえに、己自身の死という結末が約束されたのだった。

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『神の左手 悪魔の右手』

(2006年、日本、95分)
監督:金子修介
原作:楳図かずお
出演:渋谷飛鳥、小林翼、前田愛、田口トモロヲ、清水萌々子、紗綾、かでなれおん、今井春奈


『デスノート The Last Name』

(2006年、日本、140分)
監督:金子修介
原作:大場つぐみ、小畑健
出演:藤原竜也、松山ケンイチ、戸田恵梨香、鹿賀丈史、片瀬那奈

theme : 邦画
genre : 映画

『真夜中の少女たち』

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『真夜中の少女たち』

(2006年、日本、122分)

総合監修:堀江慶
監督:佐伯竜一、堀江慶
出演:高部あい、長谷部優、上堂薗恭子、渋谷飛鳥、佐津川愛美、津田寛治、温水洋一

東京近郊の高校に通う、ある思いをかかえた5人の17歳の女子高生。それぞれの放課後、さまよう真夜中、そして明け方‥。

前項で、dreamの長谷部優について言及したさいに題名をあげた『真夜中の少女たち』。〈何気ない日常の中、微妙な年頃のゆれる心情〉を描くというオムニバス映画。4つのエピソードが30分ずつ語られたあと、エピローグで各挿話の物語が収束する。

総合監修の堀江慶は、監督としてよりも『百獣戦隊ガオレンジャー』や『愛のソレア』の俳優としてのほうが有名らしいのですが(『あいのり』はみてないのでよくしらない)、日大は映画学科監督コース出身ということは元々の演出家志向でもあって、じっさい監督作も『グローウィン グローウィン』(02)、『渋谷怪談』(05)、『キスとキズ』(04)、『全身と小指』(05)、『ベロニカは死ぬことにした』(06)と数(だけは)多く、新鋭のうちでも中堅に分類できそうな勢いのキャリアをもつ。

で、あからさまなアイドル映画というジャンクムービーである今作では、総監督的ポジションである堀江氏が2話の演出を担当し、残り2話をこれがデビュー作になるという佐伯竜一が担当しています。

なんでもかんでも一発OKみたいなテキトーな映画がほとんどを占める、現代アイドル映画という、ガラクタのようなジャンルからいえば、『真夜中の少女たち』は少なくとも真面目に作ろうとされているし、アイドルを可愛くもしくは魅力的にみせるという、ジャンルとしての最低ノルマはクリアされていると思います。

しかし、たいへん退屈な映画で、人間なり少女なりの認識は浅はかかつ陳腐、なんでも“わかってる”という気取りは鼻持ちならなくて、すっかり白々しい気持ちに支配された。以下、エピソード順に軽く触れます。

○第1エピソード『シブヤドロップス』
(監督:堀江慶、脚本:森美樹、堀江慶、主演:高部あい)


放課後、友達と渋谷に遊びに繰り出した高部あい。夜までふたりしてはしゃいだあと、断固として帰らない、渋谷にすむと言いはる高部あいは、毎日同じことの繰り返しに飽いていた。夜の渋谷を彷徨中、カフェバーで働く青年と知り合い、そのカフェバーに集うホームレス達とも交流を深める。。

今作、このオムニバスにあって、軒並み足踏み状態ぎみのアイドルたちがキャストにラインナップされているなか、ミス週プレGP、新進アイドル・高部あいは、もっとも昇り調子というか、ブレイク前夜といった明るい輝きをはなつ。最大の魅力である眩しいばかりの清潔な笑顔は、肌理のこまかい滑らかな頬に屈託なく浮かぶ。浮浪者連中と深夜に“屈託なく”戯れて遊ぶときも勿論楽しそうな笑顔がみえる。
しかし、その屈託ない笑顔を受け止める浮浪者連中が陰影も哀愁もなく、薄っぺらい存在感しかないように、話も描写もお粗末きわまりなく、これならまだいかにもテキトーに作りましたと言わんばかりのジャンクな凡百のアイドル映画群のほうが好感がもてる。渋谷でハシャぐ女子高生二人の描写が、ジャンケンして「今のアトダシ~!!」とか、寒いにもほどがある。ゲリラ的に撮るという知恵もテンションもないのか、四六時中通行人が二人に注目しているし、スタッフが見切れている気もしないでもない。。服も髪型も歯もきれいなホームレス。ステキな絵を描くカフェバーで働く好青年。数を数えているあいだに遠ざかる彼‥。バカみたい。

○第2エピソード『ベッドタウンドールズ』
(監督:佐伯竜一、脚本:吉井真奈美、主演:長谷部優、上堂薗恭子)


仲良しの長谷部優と上堂薗恭子。長谷部に彼氏がいることを知った上堂薗は、足の悪い自分にいつも長谷部をつきあわせることを重荷に感じる。二人の感情にすれ違いが生じ、深夜の学校の屋上でモヤモヤしていたお互いの思いをぶつけ合う、ふたりの好きなプロレスで。。

女二人×プロレス、という、ロバート・アルドリッチの『カリフォルニア・ドールズ』をモチーフにしたと思しきこの第2話、まず脚本に難あり。兄or父の多大な影響という影もべつにみえないがプロレス好き、という女子二人の設定を良しとするとしても、話題が猪木にホーガンって‥‥いったいいつの時代だよ!石器時代のプロレス観からくる、クライマックスの屋上でのプロレスも地味で古くさい大技のスローモーな応酬。『カリフォルニア・ドールズ』を夜テレビでやってたあと、そのあとK-1やってて寝不足って‥いったいどんな番組編成なんだ!?オセアニア大会だって深夜の『カリフォルニア・ドールズ』放映のあとにはやらないって!K-1もプロレスもゴッチャになってて、プロレスイコール深夜にやるもの、という短絡からきたセリフにしか思えない。
ナメられていた温水洋一先生がシリアスに言う「お前は、足の悪いことに甘えてるだけだ、そんなんじゃ、大事なもん、見えなくなるぞ」というセリフがひとつのキモとなっているのですが、いかにも浅い台詞‥。

長谷部優の起用は、『~キャバ嬢』での(堀江氏との)共演のゆえでしょうか。前出記事でいったように、自分は、“dream”の長谷部優が出演しているという点のみに着目して、この映画の観賞に至ったという経緯があります。では、その肝心の長谷部優はこの映画ではどうだったのか?

幾分繰り返しになりますが、そろそろブレイクせねばヤバいと2006年、勝負にきた感のある“dream”のメインボーカル、08長谷部優。各誌グラビア、写真集などの活動のほかに、映画やドラマに果敢に出演を重ねた。
私見では、グループ内では古参兵でありつつ落ち着いた優等生的ポジションにあり、メインボーカルのひとりでありながら格段歌唱力がウリというわけでもなく、比較的ルックス売りな感じはあるがダントツ感はなく、他のメンバーの色であろうモデル売りや元気系お笑い系や肝っ玉系といった分かりやすいキャッチーな売りがない、頑張っているわりに報われない微妙なポジションに居る‥‥今後キーとなるのは、彼女の大きいが昏い/暗い瞳が、“切ない”チカラを宿していて、何事かを表現し得るんじゃないかと‥。

ところが、自分が目にしたかぎり(『真夜中の少女たち』『バックダンサーズ!』『恋する!?キャバ嬢』)では、どの役もあまりに考えなしの、まあほぼバカみたいな女の子の役ばかりで、似合っているとも言い難いアーパー(死語かな)さをアピールして、いったい何の実りがあるんだろうか‥とエイベックスでプロモーション戦略を握っているヤカラを小憎らしくおもう。なかで『真夜中~』の長谷部優は、比較的陰影のある役だがアクターとしての力が試されるほどの業も深みもキャラクターに足りなかった。次作があるなら“切ない”属性をもつ瞳が生きる役柄を(それなりの演出家のもとで)、と願う。

よく考えたら、dream内で必ずしも長谷部優が推しメンというわけでもないのに長々とこだわってしまったけれども、頑張らせどころを間違えてるんじゃないかと常々ヤキモキしていると言いたかったのです。
作品的には、女の子同士の会話も自転車での道行きもなかなか良く、関係性の変容もハードルは低いながらもきちんとつながって感情のみえる場面が続いた‥って第1話に比較するとつい点が甘くなる。
しかしやはり、足のケガと自転車での送り迎えに絡んでのクライマックスが深夜の校舎屋上でのプロレス、ではモチーフがチグハグでそもそも悩みもくだらない‥映像化する価値のあるお話とは思えない。
正直、下世話な話、このエピソードの最大唯一の見所はふんだんに出てくる長谷部優の女子高生制服姿。キャリアがずいぶん長いから、女子高生役はちょっと無理しすぎ‥と思いがちですが、よく考えたらまだ20歳くらいだった。スカート丈の短いルーズの脚で躍動する長谷部優の動きを追うことのみが、この挿話の観賞を耐えうるやりかた。その意味では、ただしくアイドル映画だとも言える。上堂薗恭子もなにげにけっこう前からいるかたですが、魅力がまったく分からないのでなんともコメントしようがない。

○第3エピソード『クラッシュ・ザ・ウィンドウ』
(監督:佐伯竜一、脚本:十河直弘、堀江慶、主演:渋谷飛鳥)


優等生の渋谷飛鳥は生物の先生に恋心を抱いている。年下の男子に想いを寄せられている。その年下の男子とデートをしたあと、夜道で自動車に乗っていた先生夫婦に遭遇し、先生の、夫婦間の円満さを目の当たりにし、先生に送られる夜道、車外にでた渋谷は暴れ出す。こうでもしないと先生私のこと見てくれない。さまよう夜の街角、渋谷飛鳥はまっすぐに自分を追いかけてきた男子に、体を許すと言いだす‥。

長くなってきたので、以下、なるべく手短に。
スタンダードに撮られた、なんということもない話。ロケシーンもちゃんとしてて、テレビドラマくらいの演出。先生と奥さんの乗った車に遭遇するのが、故意か偶然か今ひとつわからなかった。主演の渋谷飛鳥はアイドルというより女優といえるキャリアと実績をもち、今年は『デスノート』2部作で大ヒットをとばした金子修介監督の映画『神の左手 悪魔の右手』(←クリックで記事に移動)でも主役をはった。この挿話でも、先生への“本気”を子供扱いであしらわれて気持ちを爆発させる役を順当に演じています。で、面白いかというと、別に‥。

○第4エピソード『センチメンタルハイウェイ』
(監督・脚本:堀江慶、主演:佐津川愛美)


家庭は崩壊し経済的にも破綻をきたし、部活を辞め好き同士だった先輩も離れていった、佐津川愛美はテレコに向かい、この地球でいきる最期の日の言葉を記録する。家にもどると借金とりらしき男(津田寛治)が押しかけて来る。。

母親の好きだったらしき男への、反発と交感。高台から町を眺めてのモノローグ。不透明なガラス戸ごしのやりとり。いかにも映画っぽい道具立てだが津田寛治の台詞や演技が設定と噛み合ってなくて、つまり演出が物語全体を見通せていない気が。どこがどうおかしいかを具体的に言う気力が出ませんが‥。

佐津川の、え、ママ?前に、好きな人できたって言ってたじゃない?その人のことは、ホントにもういいの?という呟きはしかし、そのママのキャラクターも今ひとつ不明、津田寛治のキャラと設定の遊離、佐津川愛美の切羽詰まってるはずなのにどこかノンビリした平和さによって、何だか良くわからない、抽象的なネタにしか見えなくなってしまっていた。思わせぶりな、母との“ある計画”も、勝手にしてという感じ‥。

佐津川愛美、『ギャルサー』やドラマ版『がんばっていきまっしょい』に出てましたね。映画では『蝉しぐれ』や『笑う大天使』‥。シリアスななかにも、どこかユーモアが漂う表情や立ち振る舞いが才能。

さてこの映画、こうしてみてくると総じて新人・佐伯竜一の演出は比較的的確で、総監督である堀江慶の演出のほうが格段に冴えない、という皮肉な事態が判明‥。堀江氏は、才能の有無がどうこうという以前に、ただ単に頭が悪いんじゃないでしょうか‥。

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2006年日本映画ベストテン

さて、2006年も終わり、2007年のはじまりということで、昔から、毎年脳内で勝手に選んでいるその年の映画のベストテン(1989年~2005年分、前記事)をここにあげておきたいとおもいます。


〈2006年日本映画ベストテン〉

①『紀子の食卓』(園子温監督)

②『まだ楽園』(佐向大監督)

③『世界は彼女のためにある』(保坂大輔監督)

④『愛妻日記』シリーズ(サトウトシキ他監督)

⑤『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』(青山真治監督)

⑥『サンクチュアリ』(瀬々敬久監督)

⑦『やわらかい生活』(廣木隆一監督)

⑧『爆撃機の眼』(八坂俊行監督)

⑨『ラブ★コン』(石川北二監督)

⑩『寝ずの番』(マキノ雅彦監督)






選出理由→

dreamをずっと応援しています。あまり大きな声では言えませんが、ファンだといってもいい。
かなり長いことブレイクしないし、する気配もない、この、3人組でスタートし脱退と加入を幾度か経て現在7人組で活動するエイベックスのガールズユニットは、たとえ明るい歌や単純な歌を歌っていたとしても、どうしてもまといつく暗さ、ブレイクなど有り得ぬオーラを有しています。あの藤本美貴さえオーディションでは落選させたというのに、このどうにもならない冴えない感じに、個人的にグッときている、というか、冴えないしこの先も冴える見通しのない自分の人生と照らし合わせて、結局他人ごとじゃないものを感じていて、それが“応援”ということにつながっているのだと思います。

プロモーションの下手さで名高いエイベックスにあって、今やAAAはともかくdreamはほったらかし状態で、ロクなプロモーションもないまま“落ち目のアイドルの終着駅”と称される(?)スフィアリーグなる女子フットサルのリーグに参加し、あろうことか年間優勝してしまうところが、またdreamの物悲しさ。‥自分としてはホメてるつもりだがファンの怒りを買わないかやや心配になってきた‥。

その愛すべきジリ貧状況のdreamにあって、橘佳奈と同じく最古参メンバーである長谷部優が、2006年は勝負に出た。去年の長谷部優は、フットサルではベンチを温めているかわりに、アーティストというスタンスをなげうって、水着姿で各誌のグラビアを席巻し、アクターとしてはテレビ画面にスクリーンにと、度々の登場を果たした。

‥ということで、多少(ハテ?)という出来であろうとも、長谷部優の出演した映画を是非ベストに挙げたいところでしたが、肝心の作品が『バックダンサーズ!』にせよ『真夜中の少女たち』にせよ(以後別記事)、あるいはドラマ『恋する!?キャバ嬢』にせよどうにもこうにもといった出来で、泣く泣く推挙を断念‥。ということで、前置きばかり長くなりましたが以下が選出理由です。


日本映画で圧倒されたのは①『紀子の食卓』でした。現代詩が、映画というジャンルの一作品のなかに生きていた。家庭に、社会に、恋愛に、居場所を得られない人々の孤独が、饒舌かつ硬質な言葉の氾濫のなかに浮かびあがる。構えとテーマの大きさに対して、エスキースのように粗く描きだすタッチが、スピード感とともにこの映画に巨きさを与えた、と思います。『自殺サークル』にも響いていた「あなたは、あなたの、関係者ですか?」という問いかけが今作でも乱反射して何かしらを観客に突きつける。園子温、相変わらず絶好調、『HAZARD』も“われらの時代”の詩だ、と感じる。

②③④は企画と製作過程に新機軸を感じて評価。②『まだ楽園』の出現によって、どんな理由であっても映画を作れないという言い訳は今後通用しなくなってしまった。ピンク映画の350万円、ロバート・ロドリゲスの『エル・マリアッチ』の80万円といった、例外的な製作費をも遙かに下回る製作費10万円でこの出来映え。正直脅威だ。③『世界は彼女のためにある』、大阪芸大を抑えて去年は映画美学校一派が優勢、その代表的な一本がこれ。⑧『爆撃機の眼』も健闘したが③には確かに“2006年公開の映画”感がある。④『愛妻日記』シリーズはシリーズ6本全ての脚本に荒井晴彦のチェックが入り、かつ脚本を監督の上位概念に置くことを厳守させた希有な企画。私見での最高作は『ホワイトルーム』。。映画ファンには西田直子脚本×斎藤久志監督という組み合わせは興奮必至でしょう。

⑤『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』は青山真治の最高傑作だとおもいます。⑥『サンクチュアリ』、『肌の隙間』より一歩後退したが、瀬々映画の廃墟っぷりに新たな表情が。⑦⑧⑨は別個に記事あり。廣木隆一は他に『予感』『恋する日曜日』もあった。廣木隆一の変態性愛路線(つまり、田口トモロヲ主演モノ)はどうも好きになれないので僕にとってはアタリ年。『爆撃機の眼』河井青葉だというこことと、ビデオ/DVD化されなそうなものから一本ということで。⑨『ラブ★コン』は好みな世界。恋が成立する段階をキチンと積み重ねていたと思います。

10位は例年ご祝儀orドンマイ枠。新世紀日本映画を牽引する最重要女優・唯野未歩子の監督作『三年身籠る』か、20年待った待望の『Zガンダム』劇場版3部作かと迷うが、マキノ監督の誕生を祝して『寝ずの番』に。“趣味の良い悪趣味”の宿す〈平和さ〉に、ジョン・ウォーターズを連想。かつて、たけし映画を“下手で、退屈”と斬って捨てていた津川雅彦がいざ演出したらどうなるんだろうと注目していました。物足りなさもありますが、マキノ名義での監督進出を祝して推します。才気ばしらないのがなによりの美点。

おおかたの賞賛は『ゆれる』(既出記事有)、『フラガール』、『嫌われ松子の一生』あたりに集まりそうですが、不支持を表明(詳細は機会があったら別記事で)。根岸吉太郎は、長年良さが今一つ分からない相性の悪い監督さんでしたが、『雪に願うこと』は文句なくたいへん素晴らしい映画で、素直に感動。しかし10本に入れると保守的かなとみて外しました。

妙な居心地の悪さが『闇打つ心臓』『カミュなんて知らない』あたりに漂っているとしたら、ツマラナイと切り捨てずにその不気味さに正対すべき。その意味で万田版『ありがとう』は恐るべき映画。これの一位もアリですが、あまりにも先に行きすぎていて不安‥。結局可愛げのある『紀子の食卓』を一位にすることに落ち着きました。

公開時、いまおかしんじの『絶倫絶女』(一般公開題『おじさん天国』)、杉作J太郎の2本立てには、触れるだけ触れて評価はしませんでしたが、両者のファンなので、万一にも公開時にミソつけたくなかっただけで、じつは首を傾げていました。杉作J太郎の2本はハッキリひどい出来で、このクオリティが続くなら以後の興行は厳しいものとなるでしょう。いまおかしんじの『おじさん天国』はナント他人の脚本。今岡映画のカルト的部分を浅ましく縮小再生産しただけじゃないかと必然性のなさに落胆。ただし野球場のシーンには新しい風がふいていた、とおもう。(そういえば、『おじさん天国』一般公開と時を同じくして、“史上初!巨大ダイオウイカの撮影に成功!”という一般ニュースが世を駆けた。恐るべき偶然!!)

男優にはあまり興味ないんですが『闇打つ心臓』の本多章一。の荒涼とした空虚さに浅野忠信、松田龍平以後をかんじる。

女優では、園子温演出のテレ朝『時効警察』第6話で逃亡犯森口瑶子の娘を、同じ園子温監督の『紀子の部屋』で吹石一恵の妹を演じた吉高由里子の涼しげな未来性に、遅れてジワジワ効いてくる凄さを感じました。TBSドラマ『いい女』でも主人公・石野真子の、一見粗雑で実は繊細な娘(姉のほう)を演じ、硬いゴツゴツした存在感からやがて哀しみと優しさが滲み出してくるさまを体現した。2007年も出演した映画が『渋谷区円山町』、『転々』、『歌謡曲だよ、人生は』(「ざんげの値打ちもない」)と公開を控えており、大器として遇すべき可能性をもった女優さんが新たに登場したことを自分の記憶にとどめたいと思います。

2006年、もうひとつ印象に残ったのは、吹石一恵や三津谷葉子といった、今一つ弾けない/弾けなかった(元?)アイドルが、映画のフィールドで確かな成果をしるし始めたということ。ゴロゴロいる、それなりに輝いてるひと(例えば、池脇千鶴とか)よりも、微妙なポジションで薄暗くくすぶっているようなひとが、映画的には化けがちなんじゃないかと‥。ということは、長谷部優も芸能界的にまだノーチャンスではない。。

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genre : 映画

1989~2005年日本映画ベストテン

(去年、2006年の日本映画、極私的ベストテンをこれからあげたいと思いますが、その前に、平成年間これまでの私的テンを。)


○2005年(平成17年)

①『リンダリンダリンダ』(山下敦弘監督)
②『カナリア』(塩田明彦監督)
③『援助交際物語 したがるオンナたち』(いまおかしんじ監督)
④『ピーカン夫婦』(元木隆史監督)
⑤『いつか読書する日』(緒方明監督)
⑥『空中庭園』(豊田利晃監督)
⑦『夢の中へ』(園子温監督)
⑧『LEFT ALONE』(井土紀州監督)
⑨『PEEP“TV”SHOW』(土屋豊監督)
⑩『ニライカナイからの手紙』(熊澤尚人監督)


○2004年(平成16年)

①『肌の隙間』(瀬々敬久監督)
②『ユダ』(瀬々敬久監督)
③『犬猫』(井口奈巳監督)
④『花とアリス』(岩井俊二監督)
⑤『恋する幼虫』(井口昇監督)
⑥『ラッパー慕情』(藤原章監督)
⑦『ソドムの市』(高橋洋監督)
⑧『くりいむレモン』(山下敦弘監督)
⑨『濃厚不倫 とられた女』(女池充監督)
⑩『たまもの』(今岡信治監督)


○2003年(平成15年)

①『鏡の女たち』(吉田喜重監督)
②『アカルイミライ』(黒沢清監督)
③『ヴァイブレータ』(廣木隆一監督)
④『blue』(安藤尋監督)
⑤『ばかのハコ船』(山下敦弘監督)
⑥『ドッペルゲンガー』(黒沢清監督)
⑦『発情家庭教師 先生の愛汁』(女池充監督)
⑧『ぼくんち』(阪本順治監督)
⑨『月の砂漠』(青山真治監督)
⑩『17才』(木下ほうか監督)


○2002年(平成14年)

①『ハレンチ・ファミリー 寝技で一発!』(女池充監督)
②『UNLOVED』(万田邦敏監督)
③『ロスト・ヴァージン やみつき援助交際』(サトウトシキ監督)
④『花子』(佐藤真監督)
⑤『刑務所の中』(崔洋一監督)
⑥『したがる先生 濡れて教えて』(今岡信治監督)
⑦『スワッピング・ナイト 危険な戯れ』(女池充監督)
⑧『青い春』(豊田利晃監督)
⑨『害虫』(塩田明彦監督)
⑩『2001 映画と旅』(黒沢清監督)


○2001年(平成13年)

①『SELF AND OTHERS』(佐藤真監督)
②『路地へ 中上健次が残したフィルム』(青山真治監督)
③『満山紅柿 上山・柿と人とのゆきかい』(小川紳介ほか監督)
④『トーキョー×エロティカ 痺れる快楽』(瀬々敬久監督)
⑤『高校牝教師 汚された性』(今岡信治監督)
⑥『団地妻 隣のあえぎ』(サトウトシキ監督)
⑦『痴漢電車 さわってビックリ!!』(榎本敏郎監督)
⑧『回路』(黒沢清監督)
⑨『式日』(庵野秀明監督)
⑩『修羅雪姫』(佐藤信介監督)


○2000年(平成12年)

①『愛のコリーダ2000』(大島渚監督)
②『御法度』(大島渚監督)
③『顔』(阪本順治監督)
④『OL性白書 くされ縁』(今岡信治監督)
⑤『東京ゴミ女』(廣木隆一監督)
⑥『多淫OL 朝まで抜かないで』(女池充監督)
⑦『HISTERIC』(瀬々敬久監督)
⑧『不倫妻 情炎』(女池充監督)
⑨『TRUTHS:A STREAM』(槌橋雅博監督)
⑩『カリスマ』(黒沢清監督)


○1999年(平成11年)

①『大いなる幻影』(黒沢清監督)
②『アナーキー・イン・じゃぱんすけ 見られてイク女』(瀬々敬久監督)
③『グループ魂のでんきまむし』(藤田秀幸監督)
④『ガメラ1999』(庵野秀明ほか監督)
⑤『ニンゲン合格』(黒沢清監督)
⑥『どこまでもいこう』(塩田明彦監督)
⑦『月光の囁き』(塩田明彦監督)
⑧『真・雀鬼2 麻雀無法地帯』(小沼勝監督)
⑨『愛欲みだれ妻』(今岡信治監督)
⑩『天然少女萬』(三池崇史監督)


○1998年(平成10年)

①『ラブ&ポップ』(庵野秀明監督)
②『犬、走る DOG RACE』(崔洋一監督)
③『汚れた女〈マリア〉』(瀬々敬久監督)
④『愚か者 傷だらけの天使』(阪本順治監督)
⑤『CURE キュア』(黒沢清監督)
⑥『蛇の道』(黒沢清監督)
⑦『尻を撫でまわしつづけた男 痴漢日記6』(富岡忠文監督)
⑧『痴漢電車 弁天のお尻』(今岡信治監督)
⑨『JUNK FOOD』(山本政志監督)
⑩『蜘蛛の糸』(黒沢清監督)


○1997年(平成9年)

①『20世紀ノスタルジア』(原將人監督)
②『復讐 運命の訪問者』(黒沢清監督)
③『復讐 消えない傷痕』(黒沢清監督)
④『雷魚 黒い下着の女』(瀬々敬久監督)
⑤『傷だらけの天使』(阪本順治監督)
⑥『THE END OF EVANGELION Air/まごころを、君に』(庵野秀明監督)
⑦『KOKKURI こっくりさん』(瀬々敬久監督)
⑧『WiLd LIFe』(青山真治監督)
⑨『廃校綺談』(黒沢清監督)
⑩『極道競馬 ガブノミ荒矢』(松井昇監督)


○1996年(平成8年)

①『改造屋(いじりや)総長エイジ』(松井昇監督)
②『岸和田少年愚連隊』(井筒和幸監督)
③『MIDORI』(廣木隆一監督)
④『GONIN2』(石井隆監督)
⑤『キッズ・リターン』(北野武監督)
⑥『勝手にしやがれ!!逆転計画』(黒沢清監督)
⑦『DOORⅢ』(黒沢清監督)
⑧『ラブホテルの夜2』(北川篤也監督)
⑨『アトランタ・ブギ』(山本政志監督)
⑩『極道戦國志 不動』(三池崇史監督)


○1995年(平成7年)

①『インモラル 淫らな関係』(神代辰巳監督)
②『マークスの山』(崔洋一監督)
③『KAMIKAZE TAXY』(原田眞人監督)
④『急にたどりついてしまう』(福間健二監督)
⑤『水の中の八月』(石井聡互監督)
⑥『大失恋。』(大森一樹監督)
⑦『GONIN』(石井隆監督)
⑧『無頼平野』(石井輝男監督)
⑨『トイレの花子さん』(松岡錠司監督)
⑩『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』(押井守監督)


○1994年(平成6年)

①『トカレフ』(阪本順治監督)
②『突然炎のごとく』(井筒和幸監督)
③『愛の新世界』(高橋伴明監督)
④『棒の哀しみ』(神代辰巳監督)
⑤『シュート!』(大森一樹監督)
⑥『893タクシー』(黒沢清監督)
⑦『ブラックマネー』(富岡忠文監督)
⑧『エンジェル・ダスト』(石井聰互監督)
⑨『NOBODY』(大川俊道監督)
⑩『今日から俺は!!』(鹿島勤監督)


○1993年(平成5年)

①『紅蓮華』(渡辺護監督)
②『ヌードの夜』(石井隆監督)
③『東方見聞録』(井筒和幸監督)
④『月はどっちに出ている』(崔洋一監督)
⑤『ソナチネ Sonatine』(北野武監督)
⑥『空がこんなに青いわけがない』(柄本明監督)
⑦『雀鬼2 白刃を背に』(小沼勝監督)
⑧『機動警察パトレイバー2 The Movie』(押井守監督)
⑨『XX〈ダブルエックス〉美しき凶器』(小水一男監督)
⑩『お引っ越し』(相米慎二監督)


○1992年(平成4年)

①『湾岸バッド・ボーイ・ブルー』(富岡忠文監督)
②『地獄の警備員』(黒沢清監督)
③『パチンカー奈美』(鎮西尚一監督)
④『死んでもいい』(石井隆監督)
⑤『阿賀に生きる』(佐藤真監督)
⑥『禁断の園 ザ・制服レズ』(瀬々敬久監督)
⑦『ザ・中学教師』(平山秀幸監督)
⑧『いつかギラギラする日』(深作欣二監督)
⑨『きらきらひかる』(松岡錠司監督)
⑩『ありふれた愛に関する調査』(榎戸耕史監督)


○1991年(平成3年)

『パンツの穴 キラキラ星みつけた!』(鎮西尚一監督)
②『襲撃 BURNING DOG』(崔洋一監督)
③『王手』(阪本順治監督)
④『あの夏、いちばん静かな海。』(北野武監督)
⑤『時が乱吹く』(金井勝監督)
⑥『夜のストレンジャー 恐怖』(長崎俊一監督)
⑦『泣きぼくろ』(工藤栄一監督)
⑧『真夏の地球』(村上修監督)
⑨『あさってDANCE』(磯村一路監督)
⑩『MISTY』(池田敏春監督)


○1990年(平成2年)

①『東京上空いらっしゃいませ』(相米慎二監督)
②『3ー4X 10月』(北野武監督)
③『てなもんやコネクション』(山本政志監督)
④『宇宙の法則』(井筒和幸監督)
⑤『バタアシ金魚』(松岡錠司監督)
⑥『鉄拳〈TEKKEN〉』(阪本順治監督)
⑦『われに撃つ用意あり』(若松孝二監督)
⑧『ファンシイダンス』(周防正行監督)
⑨『ほしをつぐもの』(小川一水監督)
⑩『Mr.レディ 夜明けのシンデレラ』(瀬川昌治監督)


○1989年(平成元年)

①『Aサインデイズ』(崔洋一監督)
②『その男、凶暴につき』(北野武監督)
③『どついたるねん』(阪本順治監督)
④『童貞物語3 とっておきVirgin Love!』(福岡芳穂監督)
⑤『座頭市』(勝新太郎監督)
⑥『魔女の宅急便』(宮崎駿監督)
⑦『キスより簡単』(若松孝二監督)
⑧『童貞物語4 ボクもスキーに連れてって』(廣木隆一監督)
⑨『出張』(沖島勲監督)
⑩『ZAZIE』(利重剛監督)


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genre : 映画

大晦日の格闘技バブル

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片足タックルに行く桜庭、秋山の足がヌルヌル

12月31日大晦日、フジ『PRIDE』放映のないなかで5時間34分もの時間放送されたTBS『Dynamite!!』の視聴率が発表されました。

①18:00~20:30→16.3%
②20:30~23:05→19.9%
③23:05~23:34→10.1%

ということで、紅白の、第1部が30%前後、第2部が40%弱という数字との比較、そしてこれまでフジ『PRIDE』(や、日テレ『猪木祭り』)と凌ぎを削りパイの奪い合いをしてきたなかで獲得した数字を思えば、案外ふるわない数字だった。日本での格闘技バブルは、やはり巷言われたように去年の吉田秀彦対小川直也をピークに、ゆるやかに坂を下っているようです。

31日は、仕事から帰って、チャンネルはダウンタウンと紅白を行ったり来たり。『Dynamite!!』は録画してあとからみる。それにしても、今井美樹が初出場とか徳永英明も初出場とか知らされても、もう別に今さら話題にもならないかんじ。

で、『Dynamite!!』みました。過去の試合をえんえんと見せられたあと、やっと始まったかと思えばバダ・ハリ対ニコラス・ペタス(不完全燃焼)やセーム・シュルト対ピーター・グラハム(不完全燃焼)が地味~に放映され出す。いったいこんな試合が浮動票の獲得につながるんだろうか?いい試合を順ぐりに放映する、去年の戦法はやめたみたい。それとも、ルール把握が複雑になりすぎるからなるべくK-1ルールの試合はK-1ルールの試合でまとめて、総合は総合でまとめたのかも‥?武蔵の試合も観たはずなのに、全然覚えてない‥。(武蔵の、角田さんのもそうだけど、セリャ!セリャ!と声だして打つ単発のミドルやストレート(正拳突き?)、明らかなテレフォンじゃないんだろうか‥)

顔見せテレビ興行として、どっちが勝ってもどっちでもいいような、ラフなかんじのカードが大半をしめるなか、重くて重い秋山成勲対桜庭和志戦がメインに鎮座する。最近の桜庭をみていると、秋山に勝つイメージはぜんぜん浮かんでこなくて、当日までなんか嫌な気持ちが続く‥。メインはイヤだとダダこねてた桜庭の願いむなしく、試合順が予定通りメイン決定したと知ったとき、桜庭の勝つ確率は更に少し下がった、とおもい、憂うつになりました。

田村潔司が桜庭の表のライバルなら、石澤常光=ケンドー・カシンは裏ライバルだというのが自分の(勝手な)認識で、そのカシンの対金泰泳戦での動きのドンヨリとした鈍さと、アッサリしたヤラレっぷりに、ますます鬱々としてくる。

“桜庭からスパーリングで一本とったことある”ほどに寝技が成長したという触れ込みの金子賢の第3戦、アンディ・オロゴン程度の相手から、一本どころかロクにパスガードさえままならないまま判定負け。寝技の練習全然してないというアンディの申告は勿論ウソだけど、上を取っても固まるだけの金子賢をみてると、(こんな相手から一本とられる桜庭って‥)とドンドン不安になる。そういえば金子賢の寝技での固まりようは、総合での高田延彦の戦法を思い起こさせました。

そしてようやく桜庭本人の登場。ゴング前に道着を脱ぐ秋山。桜庭、水の中をウォーキングしているかのように動きが鈍い。絶望的な気持ちになる。おもえば、桜庭が素早く動けたのはホジェリオ戦あたりが最期だった。アローナ戦のあと、シュートボクセ仕様になって、更に動きがもっちりもっちりしてきた。
金的で試合が一時ストップ。ここで終わってくれるか、終わらなくても秋山が深くダメージを負っていてくれないかなと願うが、試合は再開し、秋山の動きはフツウ。やがて、スミルノヴァス戦同様の体勢になり、上から秋山のヘニャヘニャしたパウンドでボコられ続け、なにやら言い争い、戸惑っているようなレフェリー。最期は間延びしたタイミングでレフェリーストップで桜庭のTKO負けが宣告された。

桜庭は試合中、秋山が身体にオイルを塗っていて滑るとクレームを叫んでいたらしく、試合後も改めて秋山のオイルについてクレームをつけていたようですが、報道陣へのK-1/FEG側の要請により、〈桜庭和志→試合後ノーコメント〉の報道がまかり通った。桜庭を生き餌にした明らかなニューヒーロー秋山プッシュ。桜庭の移籍という選択が誤りだったことが確定してゆく歴史の成りゆき。しかしどちらにせよ今の桜庭に勝機はすくなかったろうとおもう。

イヤな予感のした試合が後味悪く幕をおろした。結末はともかく、イヤな予感をかんじ続けてヤキモキする日々がようやく終わったことにホッとした。

今回の『Dynamite!!』の、個人的なベストバウトはジャイアント・シルバ対曙。ふたりが激突して、ロープがユサアッと大きくしなう場面には、銭になるインパクトがあったし、キッチリ秒殺負けする(しかもジャイシルに唯一負けた元力士・戦闘竜とほぼ同じような技で)あたりも微笑ましくて良かった。

大方の予想どおり、リング上から引退宣言した須藤元気、客席は予想してた観客が多かったのか微妙な反応。ジャクソン・ページには負けると思っていたけど勝ったのが予想と違った。

KIDの相手はイストバン・マヨロシュなるレスリングの強豪。アリエフ・マックモドにしろ誰にしろ、鳴り物入りで総合にきたレスリング選手の風貌&動きには、どこか可愛らしさが漂う‥皆イズマイウの親戚のような雰囲気‥そして皆、打撃を実に痛そうに嫌がる同じようなヤラレっぷり‥

地上波を失ったままの『PRIDE男祭り』は、カードの割に内容は健闘(青木真也がハンセンからあっという間の一本勝ち!スゲエ~)しましたが、一番の話題は大会でなくミルコ・クロコップのUFC流出!!資金力不足による選手の流出がついに始まった、のか。格闘技バブルの崩壊した日本とは異なり、現在バブルの真っただ中にあるアメリカの総合格闘技界にあってその頂点に君臨する『UFC』へのミルコ・クロコップ電撃移籍。榊原氏はミルコのチャレンジを応援するとか言ってるけど帰ってくる保証はどこにもなく、もう日本ではミルコのファイトはみれないかもしれないかとおもうと寂しい。。今後もヒョードル、シウバ、ノゲイラあたりの流出が気がかり‥でもハリトーノフは大丈夫かな‥

そこへミルコUFCデビュー戦決定のニュースが。2月3日、『UFC67』(ラスベガス/マンダレイ・イベントセンター)にて、エディ・サンチェズと対戦とのこと。せめて、こんな段階でコケたりしないでほしいと願う。

theme : 格闘技
genre : スポーツ

『14才の母 愛するために生まれてきた』

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『14才の母 愛するために生まれてきた』

(日本テレビ系、水曜22時~)
プロデューサー:村瀬健
脚本:井上由美子
演出:佐藤東弥
出演:志田未来、田中美佐子、生瀬勝久、室井滋、三浦春馬、北村一輝、山口紗弥加、谷村美月

裕福な家庭の子息が集う私立中学に通う一ノ瀬未希(志田未来)は、他校に通うひとつ上の男子、桐野智志(三浦春馬)と仲良くなる。一緒に子犬を助けたり、不良に絡まれて逃走したりしているうちに、閉鎖された空間にたどり着き、いつしかふたりは抱き合っていた。数ヶ月後、未希は生理の遅れに不審をいだく‥。

若年者の妊娠と出産の、肉体的・社会的困難を描く『14才の母』。こういうドラマがあって、それを新しい世代の人間がみることで、なにがしかを考える、それだけでもすごく大事なことだとおもう。

それが面白いかどうかときかれると、そこのところはよく分からないのですが、ふた昔まえの日テレドラマの、視聴率さえとれればいいといった、サモシイ作りにはなっていなくて、一歩一歩、幼い志田未来が出産へむかって強い視線ですすんでゆくさまを着実に描いていて好感を抱きました。

志田未来と三浦春馬、若いふたりが結ばれるまでの過程は、脚本的にも演出的にも難ありでしたが、弱冠14才の少女が、妊娠して以降の描写は、地味だからと端折らずに、14才ならではのひとつひとつの重い困難(たとえば母子手帳一つ手にするのも、幼さの残る風貌の志田未来が、もらいに役所へ届け出しなければならない居たたまれなさ、母乳がなかなか出ないことや若年での出産の危険、近所の、学校の、友人の、冷たい視線と、親や兄弟にまで及ぶ陰湿な嫌がらせ、等々、若すぎる妊娠・出産に対するハードルを越えていかなければならないということ)を着実に描きだす。現実のリアリティがどうこういう話でなくて、目を背けたくなる面倒なことから逃げずに登場人物たちが生きることと、同じように制作者たちも描写も考慮も面倒なことから逃げずに描くことがこのドラマでは等価なものとして、一つひとつの場面や出来事に“ほんとう”を附加した。たとえば世評高い今年の日本映画、『ゆれる』や『フラガール』がさらっと逃げたことを『14才』はちゃんとやった。

当初、放映開始時の情報誌で公開されていた各自の性格設定は以下のようでした。
○一ノ瀬未希(志田未来)明るい性格で友達も多い
○一ノ瀬加奈子(田中美佐子)教育に熱心で私立受験を勧めた。子供を愛しているが、世間体も大事
○一ノ瀬忠彦(生瀬勝久)多忙で家庭を顧みる余裕がない
○桐野静香(室井滋)智志を一流大学へ入れたい
○桐野智志(三浦春馬)多少グレ気味。未希の妊娠に驚き逃げだす
○遠藤香子(山口紗弥加)生徒の妊娠に戸惑い責任回避に必死
○波多野卓(北村一輝)人道も倫理も無視
既にドラマを観た方には周知のように、出発点においては上記のような要素に支配されていたかもしれない登場人物たちが、そのままその型通りな性格設定を維持していけばドラマも図式が明白で分かり易く面白くいられたのに、じわじわと生身の人間としての深みを増して初期設定から微妙にズレていった。勿論、未希の頑なな頑張りと信念、何より胎児の存在の不動さに動かされ、皆少なからず影響をうけて変わっていく、という物語構造の要請からくる変化(成長)だという部分も大部分ありますが、単純にドラマツルギーの面白さを追求する説話的道筋をたどるのみの変化ではない、物語の都合に従いつつも屈しない人物像がそこかしこにじんわりと起立し、説話的道筋を濁らせた。(物語効果の要請に従って、各人物を動かそうとするときに、ほんとうに根っからの悪人でもないこの人間がそんな反応をするだろうか、とか、そんなに浅はかな人間だろうか、そんな理由でそう動くだろうか、と逐一検討がなされた、ゆえに。)
故に、クッキリした傑作性/興奮誘発性は浮かび上がらなくて、作品のまとう表情/印象が、地味で冴えないものになりましたが、見た目の印象よりずっと良いドラマだったんじゃないか。と思います。

当初、志田未来の演技はいつもと同じようにみえていましたが、志田未来=一ノ瀬未希の運命と行動の行き着く場所を見守りつつ観続けてゆくと、気づいたらドラマの中央部には重い運命と使命を負う〈一ノ瀬未希〉という少女が肉体化していた。いつもの“表向きな笑顔”と“芯につよさをもつ視線”が、『女王の教室』とも『サプリ』ともちがうコントラストで、肉々しい脆さとなって顕れた。

妊娠騒動に油を注ぎ、両家を脅威にさらす雑誌『週刊トップ』編集長に、近ごろ出ずっぱりの北村一輝。文科系エロを体現するのが西島秀俊なら、今作の北村さんはブレイク前の映画群でみせたような、文科系からやや路上にはみ出したエロを漂わせていた。上戸彩のパパやった頃はテレビ的にはマイナーな存在だったのが、今年あたりですっかりテレビ的認知度を得た。
鮮烈な『カナリア』で、日本映画界のホープとなった谷村美月、志田未来とカブる過去をもつクラスメートとして出演するも、志田がいざ妊娠すると学校に行かなくなっていまい、宙ぶらりんの機能していない役になってしまって残念。。キリチャンこと三浦春馬はほぼ受けの演技で健闘。名前は分からないが産婦人科の女医さん、骨の硬そうな、いかにも頼れる産婦人科の女医さんで良い。ある種つくった声音にもリアリティを感じました。


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(反町隆史の特別出演というサプライズにはどうもありませんでしたが、志田未来の通う産婦人科医院に勤め、若年者の妊娠・出産に理解のある看護婦役として西野妙子の姿をみたときにシミジミとある感慨‥あの西野妙子がすっかり完全に大人の女性の声音になって、若者とは断絶した世代の人間を違和感なく演じている‥僕も年をとるわけだよ‥
かつて(KABAちゃんや小室哲哉の一時妻と三人で組んでいたユニット=dosのtaekoになる以前の)西野妙子の一般的なイメージといえば、所属する事務所がことごとく倒産や不幸の憂き目に遭い、流浪するアイドル、といったところでした。プロレス、格闘技界でいえば、所属する団体がことごとく潰れて、そのたびに移籍を余儀なくされる苦労人・金原弘光みたいなもの。金原選手は、いくらアノ金原が来たからって潰れようがないだろうと思われたPRIDE=DSEさえ現在、沈没寸前のクライシスに陥っているくらいの、大した負をまとった選手。不運も重なり、なんと5年間も未勝利だった金原選手が、最近ようやく勝利を手にした試合でも、試合用パンツの尻部分が大きく破れ、そのまま闘い勝つという、とことんスッキリしない不運さを持ち合わせている。そういえば西野妙子の主演映画の題名は『パンツの穴』だった。そんなところも、金原=西野間には通底して共通する何かがあります。)

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(最終回、未希が生まれてきた子供の名前を決めた、といい、“あおいそらの、そら”と宣言するのを聞いたとき、ある一定数の視聴者は、否応なくAV女優の“蒼井そら”を想起したのではないか‥。数シーン後、出生届に書かれたひらがなの〈そら〉の字をみたとき、更に深く(蒼井そらの、そらか)と思っただろう‥たぶん‥。
そら=蒼井そら、というのは、単に妄想とも言い切れなくて、ドラマの前半に蒼井そらはさりげなく登場していた。両家を悪夢に追いやる『週刊トップ』(『アサヒ芸能』とか『週刊実話』みたいな下世話な雑誌)の問題の号の、この手の雑誌定番のエロ記事/グラビアを飾る名前に、夏目ナナらとともに蒼井そらも名を連ねていた。(ただしモジリで、蒼井そら→広井そら、として。ちなみに夏目ナナ→夏目ハチ、でした。))

theme : 14歳の母
genre : テレビ・ラジオ

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