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『誰よりもママを愛す』

『誰よりもママを愛す』

(TBS系、日曜日21時~)
出演:田村正和、内田有紀、玉山鉄二、長島弘宣、伊藤蘭、小林聡美、阿部サダヲ


ダンナが専業シュフをやる、主夫モノの連続ドラマといえば、古くは確かNHKでやった渡瀬恒彦が主夫業に奮闘する『主夫物語』なんてのもあったし、あたらしくは阿部寛と宮迫博之の『アットホーム・ダッド』なんかが視聴者の記憶に残っているかと思いますが、これらの作品に共通の構造は、突然転がり込んだ専業主夫という仕事にダンナが四苦八苦する姿をとおし、当たり前に思われていた夫婦・男女の役割を新たな眼でみつめる、というものだったと思います。

そんな先行作品をまえにして、今回の『誰よりもママを愛す』はどんな機軸をもってきたか、
ひとつは、ここでの主夫・田村正和はすでにベテラン主夫であり、そこに新鮮な経験としての主夫業に四苦八苦するという価値転倒はない。弁護士である妻・伊藤蘭をフォローするため仕事を辞め、長い間主夫業をつとめてきた、という点。
もうひとつは、妻以外の女性には見向きもせず、浮気経験がゼロだということどころか、携帯の待ち受けは妻の写真、妻からの電話やメールをいつも待ちわびていて、口をひらくと時と場合を選ばずママがママがと、ママの話題ばかりという、常軌を逸する位とにかく奥さん大好きっ子だという点。

第一の点からは非・ドラマチックである設定ベースが基本線として物語の進行の基盤となる。主夫であることが長年のことで当たり前であるなら、田村正和が主夫であることじたいからはこのドラマに物語を推進する力は生まれてこない。だから基本的設定を紹介した第1話をみてもうわかったとみるのをやめた人も多いんではないでしょうか。
その非・ドラマチックな日常を、破壊する勢いで物語を推進できるのは“常軌を逸した”極端でエキセントリックなキャラクターによる。ちょっと頭がどうかしちゃっているんじゃないかと心配になる位愛妻家の田村正和の暴走ぶり、挙動不審でガサツなマンションの隣室に住む小林聡美の暴虐、長女内田有紀は口よりすぐ手が出てクビになり仕事を転々とするような荒々しいひとだが、すぐ男を好きになり激しくブリッ子化しストーカーまがいになったりとぶっ飛んでいるキャラクターだし、長男の玉山鉄二はイケメン美容師だが気弱に優しすぎて結果女とのトラブルが絶えないうえ、阿部サダヲ演じるオカマとデートする羽目になったりする。

基本的にはこの変人たち、しかし根本的に善人である人達の挙動を呆れつつ楽しみ見守ることが、このドラマの楽しみといえるかと思います。そういう意味ではリアリティはないし、かと言って徹底的にギャグで攻めるみたいなドラマでもないのでとっかかりづらく、評価的には苦戦しそうな気配が。。個人的にも、みていてそう面白いわけでもないのだけれど、やめずにみているのは全体ながれるあたたかさ。ヒーリング映像として、慌ただしいドラマ群のなか重宝しています。

みれてよかったと思うのは内田有紀の元気な姿。トップアイドルでなくなって以来、例の結婚や長髪によって、元気でない痛いイメージが増幅し続けていたので、もはや復旧は不可能かと思われていましたが、〈TENCAを取ろう~内田の野望〉なんてフレーズが不自然じゃなく似合っていたころの、ハッチャケた内田有紀が帰ってきたことに、輝きが蘇ってきていることに、やはり並のタレントでない本物のスターだったんだなと、幸福な気分にさせられました。

第2の点、田村正和の、いつまで経っても変わらぬ過度の妻への愛しっぷりは、日曜日の夜に家族なり夫婦なりでこのドラマをみることになっているダンナさんを、気の毒な立場に追いやっているんじゃないか、と思う。現実的に言ってこんな愛情過多なダンナはまずいないのに、そこから奥さんによる(田村正和とダンナを比較しての)イヤミや不満がチクチクくる可能性が大いにある。せっかく揃って一緒の時間をもっているのに、そうなってゲッソリさせられるとしたらと思うと、制作者にはほどほどにしといてくれといいたくなります。。

(そういえば、内田有紀主演ドラマ『翼をください!』(暗かった‥)がやっていた頃、日本が世界に誇る映画評論家・山田宏一が『キネマ旬報』の執筆者紹介欄で、『翼をください!』での内田有紀へ熱烈な賛辞を寄せていたことを思い出した。あの山田宏一が、あの内田有紀をねー、と変に関心したことを覚えています。)
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theme : 誰よりもママを愛す
genre : テレビ・ラジオ

『あさってDANCE』(05)

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『あさってDANCE』

(2005年、日本、63分)

監督:本田隆一
出演:黒沢愛、川村亜紀、松田洋昌、鈴木Q太郎、miko

91年に磯村一路監督、中嶋朋子主演(共演石橋保、裕木奈江ほか)で映画化された山本直樹原作の『あさってDANCE』が、快調に演出家としてのキャリアを重ねる本田隆一監督によって、全4作のシリーズものとしてリメイク。黒沢愛との顔合わせは『ウォーターメロン』以来でしょうか。主演は若手お笑いコンビ、ハイキングウォーキングの松田洋昌。同じくハイキングウォーキングの鈴木Q太郎も出演しています。劇団員であり貧乏学生である主人公のスエキチが憧れを抱く劇団の座長を、ながいながい間ブレイクしない川村亜紀が演じています。(2話以降、のはら歩や山本早織が登場。)

本田作品ということで、コメディタッチはいつものことながら期待されるところですが、意外と抑えた、というと聞こえがいいが、要するにごく普通の演出とタッチでの処理。全4作となる物語の序盤ということで物語と人物の設定の説明に追われたのか、制作条件の厳しさからか、あまり余裕のない語り口。

ねえ足どけてくれる?とややハスキーな甘ったるい声に眠りから醒めるスエキチは、祖父の葬式の夜に痛飲してからの記憶がなかった。隣に横たわるのはしどけない姿の美しい見知らぬ女。あたしにしたことおぼえてらっしゃらないの?けだもの!とコケティッシュに(ありがちな)糾弾をキメる彼女。やがて祖父の遺産4億5千万がスエキチに残されたことが弁護士タツミ(緋田康人、ABブラザースの片方)により知らされる。同時にヒビノアヤと名乗る女はスエキチの家に入り浸り、スエキチは彼女の色香に負けてついつい性交に溺れるが、彼女が金目当てであるという不信がつのる不可解なことばかり。。

「俺と一緒にいるのは遺産が欲しいから?」
「あたしと一緒にいるのはエッチがしたいから?」
巨額の遺産や過程なく同居しだす男女というテは、たんにマンガ的な設定のようでいて、男女の間に多く存在する真実の愛か否かの不信感、金銭的安定に依存したいだけではないのか?性的関心だけではないのか?という疑問を正面から見つめることによって、『あさってDANCE』は普遍的な物語になり得ている、と思う。

ヒロイン演ずる黒沢愛は、91年版の中嶋朋子に比べて、アンニュイなだらしない感じの性的魅力を発散していて、より山本直樹のキャラクターに近い。大林宣彦の映画に出るにふさわしい硬質な乳臭さのあった中嶋朋子が、この小悪魔的にとらえどころがなく性的にも開放的な女性を演じるということそのものが、緊張感にもなり躍動感になってもいた反面、設定に反して痛々しさが漂っていなくもなかった。黒沢愛のばあいは、とらえどころがない奔放さが躰のやわらかい輪郭に包まれてそのままスエキチが理屈なく捉えられる吸引力となって魅力を発散している一方、元AV女優からの転進ということから、異物としての異性がそばにあらわれ接触をもつことの緊張感が発生しないきらいがある。“AVのひと”が男性の隣にきたときに起こる性的接触が、事件的になり得ない、と。

よって、なんとなくダラダラした感じで時間が経過してゆくこの映画は、スエキチと弁護士の無内容な会話(やっちゃった問答、オッパイやめます問答‥)ぶりや、気だるげな黒沢愛の物言いや動作に魅力がある。いつになく雑な構図やカット割、色調の不均一感、ヤケクソみたいなナレーションによる説明など、明らかな欠点もありますが、短さも相俟って不快な気持ちにはならず、ほんわりした気持ちにさせられた。

懐かしいメロディーにのってのオープニング、曲はおなじみ松石ゲル。なお、本田作品といえばミューズであるmikoも友情出演。スエキチと性交直前までいく大学の女友達を演じています。


→第2話『あさってDANCE2 魔性の女たち篇』へつづく。

theme : 日本映画
genre : 映画

午後のロードショー





今週の〈午後のロードショー〉(12チャン、テレビ東京で昼間やってるやつ)、『学校の怪談』シリーズ(どれも、まったく怖くない)が『1』から『4』まで全部やって得した気分。ぜんぶ録っときました!
ほんとうにしんから好きな映画だったらDVDなりなんなりソフト買っちゃうし、今回でいうとシリーズ中『3』と『4』は好きだけど、それだけ持っているというのもおさまりが悪い。そんなに好きでもない『1』『2』を、わざわざレンタルしたりして観返す機会もそうそうない。だから連続放映して、ノーカットではない、というこの放映のしかたは理想的に受け止めてます。金出さずに、みすみすノーカット版を全作手に入れては作り手に悪いとおもうし。

『学校の怪談』『学校の怪談2』のころは、阪急東宝グループの子会社で働いていたことで、タダ券がもらえたから頻繁にタダ見していました。そんなときはだいたい、新宿歌舞伎町の、コサキン一派がいつも公演しているシアターアプルのところ、新宿コマ東宝ですか、いつもそこで観ていました。
『ACRI』とか観ていて、退屈してタバコ吸いたくなったらロビーにでて、重い扉すこし開けてタバコ吸いながらみてたりした。なにせいつもガラガラだったから、好きなように過ごせたし、つまらなくてスヤスヤ眠ってしまっても、あまり痛みは感じなかった。

そこで観た(んだとおもう)『学校の怪談』と『学校の怪談2』については、アミューズメントにしか感じられなかったし、同時期に松岡錠司監督の『トイレの花子さん』(こっちは松竹)が公開されて競作的に比較され、僕は断然『トイレの花子さん』派だったから、アンチ『学校の怪談』派としての意識のもと、常に構えて観ることになったこのシリーズでしたが、監督が平山秀幸から金子修介にチェンジし、ここから自腹で観た『学校の怪談3』は、早春のかおりのする甘酸っぱい映画で、まったく油断していたからヤラレました。前田亜季はこういうのやらせると最高に輝く!

そして再び平山秀幸の手元にメガホンが帰ってきた『学校の怪談4』、なにせ平山監督のことをまったく信頼していませんでしたから、ビックリしました、泣かされることになるとは思っていませんでした。観ていないかたには、内容はまったく明かせないのですが、哀しく、切なく、愛しい気持ちでいっぱいになりました。未だに平山秀幸の最高作といったら、この『学校の怪談4』をまよわず挙げます(その次だったら『ザ・中学教師』)。

さて、再見によって以上のような過去の印象が修正されるのか。これからちびちびみます。

theme : 邦画
genre : 映画

『サイゾー』8月号

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『噂の眞相』なきあと、すこしヒイキにしている『サイゾー』。噂の眞相が小綺麗にパッケージされ、マイルドになったかんじでしょうか。

裏のとりきれていない情報もひっくるめて、どこまでも深く果敢に突っ込んでゆく『噂の眞相』に比べて、扱う素材も視点もいいのになんか浅く安易なところにオトしてしまうきらいがあって、『SPA!』と同じような不満が残る。今号の〈ゴーマンテレビの罪と罰〉という特集にしても、読んだ結果認識を新たにした、という事態は起こらなくて、すこし肩すかしに感じたけれども、紙媒体でタブーに挑むようなブブカやナックルズ系の雑誌ともども貴重におもう。ネットでタブーを破っても実に予定調和で、面白味に欠ける。これが未来をシミュレーションするSFだったら、ネットによるタブー破りなどイージーで陳腐な細部だ。あくまで大きなデメリットをかかえた雑誌媒体でやるからこそ美しいとかんじる。

岡留安則の連載対談(最終回)と町山智浩(さいきん、芥川賞落ちた中原昌也にネチネチからまれたそう)のコラムはお金のとれる活字(岡留氏は、いざ著作になると妙に退屈になってしまうのは何故なんだろう。。)。そこへ中川翔子一派というか、オタクアイドルの小明(あかり)がコラム新連載開始。中川さんや喜屋武ちあきとちがって、あからさまにダウナーな腐臭を漂わせているところに心意気が感じられるかた。一回目は大人しめだったから、どんどんエスカレートしてマイナスなオーラを振りまいていってもらいたいと思います。

かつて椎名誠が、『新潮45』(雑誌)なんてなにが面白くて誰が読むんだろう、と思っていたのに、自分が(45歳に)なってみると、これが面白いんだ。という主旨のことを言っていましたが、ふと我に返ると、『サイゾー』を楽しく読む自分がいて、そのオッサンぶりにじんわりとショックを受けてガクッとなる。国家の行状をローテンションに憂う読み物が肌にフィットする年代に突入するとはな~‥。

A4の大判、妙な薄さと紙質の中途半端な悪さは情報誌的で、物質としては官能性に欠ける。もっとシックなかんじが似合うとおもうのだけれど、そうすると売れなかったりして、いろいろと売るノウハウがあるのかもしれません。

theme : 雑誌(既刊~新創刊)
genre : 本・雑誌

高円寺の民度

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「アニメが流行る国は民度が低い!」

というトンデモない暴言を吐いたのは、まだ世界的巨匠になるまえの宮崎駿でしたが、現在勤務する店舗がある高円寺の、民度の低さを端的にあらわしているように思われるのが店に来るお客さんの読むもの。

お店に来るひと来るひと、マンガしか読まない!!ほんとうに、ふつうの本とか、字が主体の雑誌を読んでいるひとをみたことない!!マンガを読むひとを全否定するわけじゃないが、モノニハ限度ガアル‥。一人で来た、いい感じの年齢の女性。マンガ。チャラい兄ちゃん。マンガ。家族連れの子供、マンガ。‥‥。中高年はマンガすら読まない。新宿でさえ、普通に文庫本とか読んでいるひとはケバめのお姉さんですらゴロゴロいたのに何だろうこの差は‥!?

店のアルバイトが休憩中に読んでいるのも、勿論マンガ。しかも、よりによってコナンとか金田一少年とか。近くのチェーン古本屋の品揃えは、マンガ8割/アダルト1割/その他1割という構成‥。普通の本屋に入っても、まず探してる本は置いてないです。。地域限定でマンガ大ブームでも起きているのでしょうか?

theme : 雑記
genre : 日記

『日本沈没』(06)

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『日本沈没』

(2006年、日本、135分)

監督:樋口真嗣
出演:草なぎ剛、柴咲コウ、豊川悦司、大地真央、及川光博、石坂浩二、福田麻由子

小松左京のベストセラーの映画化、というかその映画化73年版(森谷司郎監督、橋本忍(!)脚本)のリメイク。73年版との比較は様々なひとがいろいろと書いたり言ったりしているようですが、ただ、73年版『日本沈没』、神格化、とまではいかなくても、判断基準とするほどの出来の映画じゃないんじゃないかともおもう。

だいたい、樋口監督自身の言葉をひくまでもなく、現在のキャストと現在のVFX技術で73年版をなぞるだけでは、幾つもの未曽有の災害や社会的混乱を経た今現在、2006年の映画として制作する意味がない。だから、興行に値する作品かどうかという点でいえば、オマージュがどうとか原典に忠実か否かではなく、現在的なシミュレーションとしての〈日本沈没〉という災害を、いまの日本映画の最善のVFXで描くということ、そしてそれを興行として成り立つキャストで構成すること。

公開間もないのでこのキャストで興行価値があったのか、判断はつきませんが、前回の脂っこいキャスト(藤岡弘、小林桂樹、丹波哲郎‥)を持ち上げてああだこうだいうひとには、藤岡弘×いしだあゆみ的カップルが主演で、20億円の興行収入を見込めると思うのかとききたいとおもいます。しかし、ボヤきたくなるひとの気持ちもわかる気が‥。あまりにも小野寺(草なぎ剛)がナヨナヨしていて、パニックSF映画の主役を張るには、人間としても男としても物足りなすぎるのだ。しかし、これが現代の『日本沈没』にふさわしい人間関係と空気なのかもしれない。とも思う。
観たかたがたの間では、小野寺が玲子(柴咲コウ)との関係に下すあるトンデモナイ決断が話題となっていることと思いますが、この思い込みの激しさと徹底した受動性は、じつに童貞(DT)的で、柴咲コウの都合のいい積極性と相俟って、映画全体が、(いっそ)世界滅亡を願いがちな童貞による夢想世界にもみえてくる。なついている可愛い年下の女の子(福田麻由子)と柴咲コウだけは連れて逃げる発案をする小野寺は、彼女たちと一緒なら当然付いてくる筈のオバチャン(吉田日出子)というオプションは切り捨てる。童貞の理想郷には幼女と頼れるお姉さんとヒーローの自分がいればよくてババアは要らない、という他者をかえりみれない世界観が垣間見える。
他のために己の命をなげうつというヒロイズムも実に童貞的なパーソナリティ。その意味でいえば『アルマゲドン』より遙かに説得力のあるドラマツルギーだとも言えそう。

そして映画の手触りは『アルマゲドン』というよりは『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』的。クエスが師事したインドのクリスティーナが点景として今にも出てきそうなショットの連なりも終盤にある。富野ファーストガンダムのアムロから庵野エヴァのシンジくんを経由して受け継がれた〈童貞性〉が、樋口版『日本沈没』に至る。その系譜が存在する証拠(?)に、この映画には富野監督も庵野監督も関わっていますし。。

特撮による見せ場を、「たんなる」見せ場としないために必要な手続きとしての、前半の退屈で説明的な時間を忍耐する。が、その後の肝心の人間描写の躓きによって、結局、特撮シーンが「たんなる」見せ場として浮いてしまうことに。小野寺/玲子ラインの話でいえばまず吉田日出子の飲み屋の建物には誰と誰が住んでいるのかも今一つ曖昧だし、その2階のベランダで頻繁に結婚適齢期の男女がくつろぐような関係がいつ築かれたのか、そしてその割には終盤の描写で示されるのは彼らの肉体的つながりの無さと会話による相互理解の欠如。この映画を支える幹となる人間関係であるはずなのに、そもそもその関係の深さも深まりの段階も茫洋としたままでは、誰がなにを選択し、決断しようとも、どうしてもとってつけたように感じられてしまう。
しかし、ほんとうを言うと、そう感じさせる最大の理由は、草なぎ剛も柴咲コウも、ぜんぜん相手を好きに見えないこと。キスシーンも抱擁シーンも、じつに嫌々なかんじでぜんぜん熱くない。脚本がどうあっても、視線ひとつで愛を表現できる役者がいれば成立したのに‥。この二人の俳優(?)は、相手役を本当に気に入っていないと〈愛情を抱く〉という演技が出来ないという致命的な欠陥を常に抱えていると思います。しかし、最終的にはそんな演技にOKを出す演出がマズいという結論になりますが。。

特撮にかんしては、限られた予算と時間のなか、これまでの日本映画には不可能だったレベルのヴィジュアルが現前化されているんじゃないかと。止め絵ぎみのCG描写は『CASSHERN』同様、制作費の厳しいアニメの逃げかたみたいで、ある文化圏のある世代(つまり、40歳前後のオタク)共通の手なのかとおもわせる策で、やはり苦しいが、通常よりスケールもバリエーションもアップした、ミニチュアによる瓦解の物質感にこだわった崩落シーンには、日本特撮の美しいリアリティがあった。災害により炎が燃え盛り、街のあたり一面を火の粉が舞う、その火の粉のふんわりと、ひろく細かい舞いかたに、グッときた。灰にまみれた街並みの空気感の描写も健闘していると思いました。

チョイ役群。富野“総監督”由悠季はあの輝くヘアスタイルを活かした役ですぐ判りましたが、Wアンノ夫妻は見つけられず。前田愛は一緒に行ったひとに教えられて知った。

theme : 日本沈没
genre : 映画

めちゃイケメンバーの映画

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(一応前項からのつづき)ついでにめちゃイケメンバーの出演している映画について言えば、これが意外と作品に恵まれてる、とおもいます。その紹介を少し。。

まず、お笑い一筋で、寄り道となる映画出演にはおもいっきり不機嫌に難色を示していたナイナイ岡村が、相方矢部とともに渋々でた井筒和幸監督の『岸和田少年愚連隊』(96)がめちゃイケメンバー全員の全出演作中最大の傑作だと思います。近年井筒さんも年老いたのか、テレ朝『虎の門』で『フーリガン』(05)をケナす際に、こんな何の大した理由もなくケンカする(無意味な)映画、と吐き捨て、それにひきかえ自分の『パッチギ!』(04)は人種差別というちゃんとした理由がある、みたいな、ふつうに真っ当なこと言ってガッカリさせてくれましたが、井筒『岸和田~』の素晴らしさは〈喧嘩アクションのエポック。映画発明史に残る本当の痛さ〉(高橋洋)と賞賛されるアクションシーンもさることながら、些細に始まり仕返しの仕返しの仕返しの仕返しをする、その徹底して〈無意味〉なケンカの無限ループ感がある種の「純粋映画」とでも呼ぶべき、“純粋な運動体としての映画”を体現しているところにもあると思います。低予算をテンションと本能で走り抜けた演出のゆえか、ナイナイのふたりにお笑い芸人特有の演技(オーバーアクトか、もしくは妙に自然
体ぶった演技)をさせる余裕を与えなかったのも良かった。

大コケした井筒『岸和田~』ですが、吉本の制作ということで台頭中の若手お笑い芸人を毎度起用するシリーズと化した“中場利一・岸和田モノ”、メンバーの鈴木紗理奈が登場した千原兄弟主演『岸和田少年愚連隊・血煙り純情編』(97、三池崇史)も、一作目の異形性には一歩譲るけれど引っかかりと工夫のある哀切な青春映画でした。

武田信治はさすがに俳優だけあって出演作もいろいろいいのもわるいのもありますが、大島渚『御法度』(99)と大森一樹『大失恋』(95)が個人的には偏愛の対象。微妙な『TOKYO EYES』(98)も、あのジャン・ピエール・リモザン監督と仕事をなし得たというだけでも大した偉業。

さて、話題のというか、問題の極楽とんぼの山本・加藤の出演作ですが、さりげないところで(のちにアテネフランセで特集上映会も組まれた映画作家)鎮西尚一監督の『パチンカー奈美』(92)に、チョイ役で出演しているのは見落とせないところ。20回以上繰り返し観た『パンツの穴 キラキラ星みつけた!』(91、鎮西尚一)は、1991年度の日本映画マイベストワンで(脇役で出演した浅野忠信くんには気に食わない過去/作品のようですが)、(この映画については別に書きたいと思います)その鎮西監督が翌年発表したVシネマが『パチンカー奈美』。作家主義的に観ないと長所がみつけにくいきらいはありますが、脚本に塩田明彦、出演者に黒沢清、高橋洋、加藤賢崇という錚々たるメンツが参加しているときいただけでも映画ファンには観逃せないとおもわせる作品でしょう。(ちなみに“パチンカー奈美”役は青山知可子。)
極楽とんぼの出演シーンは、漠然と観てると見逃してしまうので、(観るかたは)真剣にみることをお勧めします。

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theme : 映画
genre : 映画

山本とめちゃイケ

極楽とんぼ山本の一連の淫行/暴行騒動の波紋をうけて、てっきり放映中止となるかと思ってためちゃイケが昨日なんと通常通り放送されました。でも内容は、矢部っち寿司と、死ぬほど地味な「近くへ行きたい」(2回目)。ストック臭漂うラインナップに差し替えの香り、だいたいめちゃイケメンバーが矢部と岡村しか出てないなんて不自然すぎるヘンさ。こんな地味な内容でも山本効果の注目度アップで意外と視聴率が良かったりしたのかも。お台場のイベントブースが不自然なことになってなきゃいいんですが。。行かないけど。

10周年を目前にして、有終の美、美しい幕引きのしかたを模索していたようにみえた最近のめちゃイケを、見続けてきた視聴者のひとりとしては、今回の事件は痛いな~とおもったし、無事に感動的に幕を下ろせるよう見守っていたのに、これじゃあもし放送終了しても山本のせいとか思われて感じわるい。いっそ続けて続けて続けたほうが、美しくなってしまった。

個人的にはお笑い番組としてギリギリダメくらいのライン、例の山本人形にモザイクかけて常にスタジオにおいておくとか、悪ふざけに近いところまで行って欲しい気もします‥。なんか健全に対処するのは番組として違う気が。。でも健全に対処するのだろうな、周辺内外波乱つづきのフジテレビとしては、とおもう。

何か山本の一連のニュースをみても、なにか、彼を憎むとか、そういう気になれないのはなんでしょう‥。

theme : 極楽とんぼ
genre : アイドル・芸能

『M:i:Ⅲ』

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『M:i:Ⅲ』

(2006年、アメリカ、126分)

監督:J・J・エイブラムス
出演:トム・クルーズ、フィリップ・シーモア・ホフマン、ヴィング・レイムス、ジョナサン・リス・マイヤーズ、ケリー・ラッセル、マギー・Q

ブライアン・デ・パルマの1作目(上映後、友達とふたりでそれぞれ既に買ってしまった妙に高いパンフレットを手に押し黙った‥)、ジョン・ウーの2作目(ウトウトした‥)、共にノレなくて、今回デイヴィッド・フィンチャーからジョー・カーナハンに変更された監督が最終的にはJ・J・エイブラムスに落ち着き、結果、やたらに評判が良い3作目が出来上がり上陸したときいても、心浮き立たず、そもそも、このシリーズが面白いということ自体、どうなったら面白いとかんじるのかと、まったく予想図をえがくことすら困難な状態でした。監督に抜擢されたJ・J・エイブラムスの大ヒットレンタル高回転中のドラマ『LOST』にしても、どうしてもノリきれていない(M・ナイト・シャマランの映画をワンピースみたいな語り口にした感じ、という印象)自分は、フィンチャーのほうがみたかったとか、余計なことを考えつつ観賞に臨むことに。。

しかし、これが、面白かった!!
冒頭、いきなり拘束されているトム・クルーズの目の前で、大切な女性が銃を突きつけられ、今にも殺されようとしている。その敵役のフィリップ・シーモア・ホフマンの、ゆっくりと絶妙な間をもって数えられるカウント、6、7、8、9、‥。まずこの数え方とトム・クルーズの心理状態の変転ぶりの交錯の緩急がスリリング、そして最後の数字が数え上げられるのと同時に導火線に炎がシュッ!!と走り、テーマ曲とタイトルバック!このオープニングでまず掴まれた。

時間をさかのぼって事態の発端から物語が語られるのですが、見せ場をつくることに関し過剰な物量作戦をとらないから、“ウリのアクションシーンなのに、いい加減に早く終わんないかなーとウンザリさせる”ような事態に陥らないし、人物の心理や物語から遊離したムリヤリな場面になってないからしらけたりもしない。特に演出のなにが秀でて上手いというのでもなく、よく考えたら普通にやるべきことを普通にやってるだけの普通な映画なんですが、そんな純粋にごく普通に面白いアクション映画にしばらく最近出会っていなかった。どうしても、多かれ少なかれ、作家性なり派手なアクションなり深刻な現代的主題なり、何かしら歪なセールスポイントが隆起する。ここにあるのは純粋形態の現代ハリウッド娯楽映画。クライマックスがしょぼいなど、欠点をあげようと思えばあげられるでしょうが、僕はじゅうぶん満足しました。

個人的には、中国が舞台の高層ビル滑走シーンが感慨深かった。中野駅北口にそびえ立つ中野サンプラザを永年、眺めるたびに、このガラスの斜面でジャッキー・チェンがアクションを繰り広げてくれないかなあと夢想していたのでしたが、もうジャッキーもお年‥。そこへきてトム君が『カリオストロの城』を凌駕するようなアクションシーンを作ってくれたからもういいや。と落ち着いた。

theme : M:i:III(ミッション・ インポッシブルIII)
genre : 映画

『THE有頂天ホテル』

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『THE有頂天ホテル』

(2005年製作/2006年公開、日本、136分)

監督・脚本:三谷幸喜
出演:役所広司、松たか子、佐藤浩市、香取慎吾、篠原涼子、原田美枝子、戸田恵子、YOU、オダギリジョー、麻生久美子、伊東四朗、西田敏行

『ラヂオの時間』、『みんなのいえ』といった監督も兼ねた作品から、『12人の優しい日本人』『笑の大学』『竜馬と妻とその夫と愛人』といった脚本等関連作まで、三谷幸喜がらみの映画群のなかでは面白い。これまでのいくつもの映画は、テレビや舞台でみる、いわゆる〈三谷幸喜脚本ものの面白さ〉からすると、どこか観客の期待値を下回っている感じがあったが、この『THE有頂天ホテル』はいかにも三谷幸喜モノといった予想と期待に合致したものだとおもう。喜劇作家による『グランド・ホテル』モノというのはじつはハードルが低いので(『みんなのいえ』みたいなのを面白くするほうがよっぽど難しい)、当然といえば当然なくらいの出来なのかもしれません。

しかし、この「面白い」には、〈テレビの2時間ドラマとしては〉という注釈がつく、とおもう。

そもそも観る側からしても、三谷幸喜がらみの映画に、いわゆる〈映画的〉であることなど求めていない(“あの、テレビでみて面白いと思った三谷さんのコメディ、観たい”、という感じか)のだから、それでいいといえばいいのかもしれなくて、「TVドラマ?それのなにが悪い」という向きには、キャストが豪華ということも考えれば、じゅうぶんな映画ではあると思いますが‥。

日本最大級のステージにつくられたというホテル一階部分の一大セットを、カメラが縦横無尽に移動して歩き回る役所広司と戸田恵子をおうワンシーンワンカットの冒頭からまず引っかかる。まず音がひどく悪い。まるでモノラルみたいな平面的な音。(後日、同じ映画館で某アメリカ映画を観たときには、ふつうにデジタル音響システムっていたので、映画館のせいではなかった。)空間的/立体的なシーンなのにかかわらず、音が通らない。あるいは、高級なホテルの筈なのに、香取慎吾がある客室で歌う声が隣りの部屋にまるぎこえ(襖一枚向こう、くらいに聞こえすぎ)だったりと、音の設計と物語のバランスが著しく悪い。
あるいはまた、この冒頭で、副支配人としてホテルをコントロールしてまわる役所広司を影でそっとサポートする出来た女房的な戸田恵子の振る舞いから、うすぼんやりと〈好意〉と〈二度目の妻の適性〉が示される。そして中盤とクライマックスにも現れる(役所・戸田絡みの)キーとなるシーンで、前妻・原田美枝子→戸田恵子へ役所のことをバトンタッチすることが描かれてゆく‥のですが戸田恵子の演技がバラバラで、そうなっていない。どうも演技プランについて任せっぱなし感がある。だから映画全体を引き締める重要なエピソードなのに印象が曖昧で、ただでさえ散漫になる危険性のあるグランド・ホテル形式のドラマを、不必要に散漫化している。そのうえバトンタッチ直後、ラストのパーティでの戸田恵子のテンションがどうもおかしい。

一事が万事この感じで、演技、カメラワーク、照明等々、全体が統御されていない印象。つまり“監督”職務を遂行している者が不在だということ。だから細部に魂が宿っていない。〈映画〉にも〈物語〉にも〈登場人物〉にも愛情がうすい。では“三谷幸喜”というひとは何がやりたかったのでしょうか?‥人を笑わせることが生き甲斐?何かに感動してもらいたい?俳優の輝きをみてほしい?‥。

かつて、三谷幸喜脚本の映画『12人の優しい日本人』は、あの性格のよい沖島勲監督(『出張』、『したくて、したくて、たまらない、女。』など)から、映画評の結論として、次のような言葉を引き出していました。

〈(‥)私は、こういう事を言うのが一番厭なのであるが、あまりにも歴然としているので敢えて言うが、この映画の目的は、企画のアイデアと才能のひけらかし以外、何もなかっただろう。然し……この程度のアイデアや才能は、別に、ひけらかす程の、何物でもないのである。(‥)〉

三つ子の魂ナントヤラで、『THE有頂天ホテル』がそうでないとは、とても、言えないのではないか、と。

theme : 日本映画
genre : 映画

『ゆれる』



『ゆれる』

(2006年、日本、119分)

監督・脚本:西川美和
出演:オダギリジョー、香川照之、伊武雅刀、真木よう子、蟹江敬三

田舎を離れ、東京でカメラマンとして気ままに生きる早川猛(オダギリジョー)のもとに、母の一周忌だから帰郷しろという連絡がはいる。帰省した猛は、実家のガススタで地味に働く兄・稔(香川照之)、その同僚で猛とも幼なじみの智恵子(真木よう子)と再会する。兄が智恵子に好意を抱いていることを薄々感じつつも、猛は遊びで彼女と寝てしまう。翌日、兄弟と智恵子は近くの渓谷へ遊びに行くことになる。ひとり先に揺れる吊り橋を渡って向こうへ行ってしまった猛を追って、智恵子が吊り橋へむかう。吊り橋は大の苦手だが奮起して彼女追った兄・稔だったが、橋の上には悲劇が待っていた。猛が野花にむけてシャッターを押している間に、稔て智恵子が吊り橋上でもつれた拍子に智恵子が転落してしまう。果たして、事故なのか、それとも兄が突き落としたのか。。

これもまた、好評でやや話題になった、西川美和監督の第1作『蛇イチゴ』(03)のことは、じつはあまり覚えていません。自己中で微妙に迷惑な兄がいて、忌々しいが嫌いになりきれない。その忌々しいアニキが宮迫博之。いつも拭い切れぬ兄への不信感。ボケかけてるおじいちゃんが確か『学校の怪談4』の、えーと、笑福亭、‥思い出せん、狭いキッチン兼食堂みたいなところでの朝ご飯、トーストの食べ方へのある種のこだわり。香典の持ち逃げ。そんな断片的な記憶で、あとは、印象というか、感想だけは頭に残っている、なかなか悪くなかったけど、なんか甘い、という印象が。

そんな曖昧な記憶と印象のまま、第2作『ゆれる』にむかいあうことに。『ぴあ』恒例の、初日出口調査では『M:I:Ⅲ』『ブレイブストーリー』をおさえて満足度堂々一位に。ミニシアターの観客動員数でも二位スタートで『初恋』を蹴散らし、好発進。ぼくの観た回もその前後の回もギッシリ満員。客層はオダギリジョー目当ての女性オンリーかと思っていたら、意外と男性もいる。

で、観終えてしばらく日にちが経ったのだけれど、言いたいことがあまりない。考えもなくとりあえず書き出してみると、結論だけ言えば前作と同じようになる。なかなか良い、でも、なんか少し甘い、と。

ぶっきらぼうに画面に現れる『ゆれる』のタイトルの出し方に、ある確信が見える。冒頭、東京でカメラマンとして働くオダギリジョーの個人事務所、引いたポジションの薄暗い画面のなかを、数人の男女が話しながら移動し、ソファに座り、仕事の話とオダギリの久方ぶりの休暇の状況説明がなされる。冷蔵庫を空け、水分をとって、礼服を受け取り、女の部下にキスをし玄関を出てゆく。テキパキこなされるが危うい段取り芝居。キャメラワークもどこか自信なさげだ。(残された女が独りでニヤケて唇を指で触ったりするようなルーティンはない。)

それが屋外へでて、オダギリジョーが自動車で帰郷する一連の場面では一転、画面は活気づく。刻一刻切り取られてゆく、何でもないような、ド田舎と郊外の中間のような街角のロケーションの数々が素晴らしい。〈映画的〉にも〈審美的〉にも安易に収まらない、道や交差点や街並みや空き地。車の撮りかたもいい。車の内外に響くエンジン音と外界の雑音の入り交じるかんじ、車窓の後ろに去ってゆくその何でもない風景。
やがて車は早川と(オダギリジョーの姓と同じ)名の付く埃っぽいガソリンスタンドへたどり着く。上方に過剰に吹き抜けた、屋外とも屋内ともつかないの中間的な開放感と閉鎖感を併せ持つ、GS特有の空間形成、そこによく通る店員の声が響き低い原始的なエンジン音に混じる。そこで働く智恵子に気づき、猛はサングラスをずらし、眼をふせる。

ここまでに感じるのは、無機質な無生物の描写の確かさ、音の設計のよさ、そして、人間を演出するさいの不安定さ。それが以後、覆されるのかどうか。

音でいえば、まず脚本の発想の段階から映画的だ。事件の舞台となる吊り橋の下を流れる川の轟音が渡るものの恐怖を煽ったり、離れた場所にいたオダギリジョーに、吊り橋上のふたりの言い争いや彼女の悲鳴が、果たして聞き取ることが出来たかが重要なポイントになってくる。あるいはラスト、ふたりの兄弟が、これもまたまるで川の流れのような、騒音轟く交通量の激しい大通りをはさんだ、向こうとこっちの歩道にいて、兄に気付いてもらうために弟が声の限り叫ぶことからも、音のきこえる・きこえないが疎通における大きな仕掛けとなっている。
そしてこの、声の届く/届かないという物理的分岐は、兄弟同士、相手の芯からのほんとうの気持ちや考えがわかる/わからない、という心理的分岐と重なり、本質的には他者の真意の完全な理解には到達できないという不可能性の定義を導き出す。

〈ゆれる〉とはこのこと、血の繋がりのある兄弟でもその真意の奥の奥まではわかり得ない、どこまで信じたらいいか、こころが揺らぐ、ということ。それが全編に緊迫感が漂っている要因で、兄はほんとうに殺意をもって彼女を突き落としたのではないのか、彼女の相手を知っていたのではないのか、弟はほんとうに兄の無罪を信じているのか、自分のためじゃなく兄のために多額の裁判費用を負担しているのか‥。
オダギリジョーと香川照之は、互いに向けても観客に向けても、「だいたい」の心情はさらけ出し、吐露する。しかし、それでも、奥の奥にある(のかもしれない)真意はお互い、そして観客には感知しえないから、進んでゆく裁判のゆくえと登場人物たちの心持ちの変転を緊張しつつ見守ってゆくことになる。

こういった、作劇構成上の仕掛けは効果的で、心理的葛藤も洗濯物の扱いなどを用いじゅうぶん考えられかつ鮮やか。今回は受けの演技で、瞳の潤い具合の変化がこころの揺らぎを語るオダギリジョーと、器の小さい男は得意な香川照之をはじめ、法廷のシーンで淡々・ダラダラと喋る検察官役の木村祐一ほか、俳優陣の演技もたしかな力をもって映画を形作る。

しかし、〈演技〉は〈映画〉じゃあない。
先程、数人いりくむシーンの“段取り臭”について言いましたが、さまざまなシーン、個人個人の演技の演出はしっかりしているのにも関わらず、ひとつの場面としては、どこか逃げが感じられる。智恵子が死に、病院に駆けつけた智恵子の家族を前に、いったん逃げようとする香川照之は、オダギリジョーに押し留められて、土下座するように崩れおち、謝るとも泣きじゃくるともつかない醜態をさらすが、その場面はそこで途切れる。その気まずい場を、そこにいるそれぞれの人びとが、どう感じ/考え/胸におさめたのか、その葛藤は描かれない。それが作風といえばそれまでかも知れないけれど、引っかかる。

人間と人間の感情が軋轢をおこす。そこに心のドラマがあるのに見つめない場面が多々あった、と感じた。

たとえば法廷で、最期の最期にオダギリジョーが、それまで弁護士と積み上げてきた戦略をぶち壊すような言葉を発するという、取り返しのつかないことをするとき、兄弟のあいだに決定的な〈何か〉が生起したはずなのに、その感情や視線のゆくえやふたりの間にある無言の空間などは捉えられず、普通にカットを割って兄が退場してゆく“お話の流れ”が語られる。いや、そうではなく、ここでは伏せておいて、クライマックスでドッとカタルシスとともに真意が顕れるという仕掛けだから描写せず隠したのだ、というのなら、ラストシーン、オダギリの呼びかけに気づき、微笑する香川照之、という陳腐な紋切り型がその〈答え〉では拍子抜けだ、と思う。追いつめて追いつめたさきに、どうするのか、といういちばん肝心な探求心が淡泊だ。だから、どこかオシャレ狙いのイイトコ取りにみえてしまう。

DV撮り・低予算の競作企画、〈映画番長〉の〈エロス番長〉シリーズの監修を任された瀬々敬久監督は、起用された新人監督たちに、その物語は最期にどこにたどり着くのか、そしてそこ(結末)でなにを結晶させ、表現するのか、この物語と主題の終わりに何を見つけ出すのか、と、しつこく、とにかく結末のつけかたを熟考させ、ディスカッションを重ねたという。瀬々監督は、新人ぎみの監督が、ともすれば空気感の描出と、いわゆる“良いシーン”の形成に溺れて、着地をおろそかにしがちなことを先刻承知なのだった。

才能ある西川監督の導き手が、毎回毎回自分の浅い策にウットリと〈溺れ〉て失敗している“イイトコドリの権化”是枝裕和監督(『DISTANCE』、『誰も知らない』‥)なんぞではなく、もうすこしマシな先達だったなら、『ゆれる』も傑作になりえたのに、あと数歩、甘い、と感じる。惜しい。

最後に。この『ゆれる』、オダギリジョー主演の〈アイドル映画〉としては、じゅうぶんすぎる出来ばえ。エロさ、軽やかさ、孤独、さまざまな表情と姿態。

theme : 日本映画
genre : 映画

長嶋有『パラレル』

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長嶋有『パラレル』
(文藝春秋)

長嶋有の小説ははじめて読みましたが、この『パラレル』、上手くてびっくりした。
『猛スピードで母は』で芥川賞を比較的はやく穫っているので、(芥川賞の選考委員ウケするような作家なら、大したことないんだろう)と見くびって、これまでおいておいたのでした。

今は殆ど活動していないローテンションなゲームデザイナーの主人公と、性欲も旺盛、仕事も社長として自分の会社をエネルギッシュに切り盛りする旧友・津田との、微妙な友情関係を軸に、主人公の別れた元妻など、それぞれかかわることになる異性が、近く遠く、ふたりの人生に触れてゆくさまが描かれる。結婚式に出たり、役所へ行ったり、飲みに行ったりと、あるようなないようなストーリーで、ある中途半端な年齢の男性の、とりあえず生きて生活している日々のささいな細部があらわされていて、そこから友情とは何か、愛情とは何か、男とは、女とはと、物語や主題を抽出して読み込むむきもありましょうが、それが全体像を結び、結晶化して、なにか物語の冒頭にあった認識が変容していくといった作用は及ぼされない。ただ、こういう生き方をして、感じ、過ごしているという以上のことは描かれない。そういう意味では、これは〈長編小説〉ではなくて、比較的長い、気のきいたスケッチの集積、とでもいうものに留まっている、と思います。そこには例えば、若い映画作家の映画でいえば『犬猫』や『誰も知らない』などが批判されるときに言われる、(あるひとつの空気感のようなものが)ただ描かれているだけで、その先がない。あとひとつふたつテが足りない。〉という問題と、共通するものがあると思います。

だから、読むほうは、(その特性を無視してふつうに読むひとをのぞけば、)ただ、その細部の描写を楽しむしかない。ある意味で、俳句的な点景の集合体。その断続的な細部の描写にはたしかに面白味がある。

〈シュークリーム一個入った横長の箱をぶらぶらさせて戻る。〉という一文はじつに俳句的だし、〈夜道を歩いていると遠くで若い男の笑い声がきこえる。駅を降りるときに楽器を抱えた若い男をみた。駅前は円形の広場になっているのだ。そこに何人か少年たちが集っているらしい。バイクのエンジンをふかす音も遠くにきこえる。〉という一連の文章など、まるで教科書や参考書に載ってる短歌や俳句の左脇につく『解題/解釈』の説明文みたいだ、とおもう。メールの使い方、ゲロの音の描写、女の声色の変わりかた。個人的には、主人公が軽自動車をなぜか全部アルトと言ってしまい、そのたびホンダにこだわりをもつ(元)妻に怒られる、というのが面白かった。人によっては、キャバクラの描写に深く感じいったり、オタクネタにウケたり、夫婦の離婚話にハマったりもするのでしょう。その描写は的確かつ気がきいていますが、村上春樹的な(あるいは春樹チルドレン的な)鼻持ちならない感じはなく、金井美恵子のように執拗でもない、殆どストレスを感じさせないたぐいのもの。それを、読んだもの同士、あそこの言い回しがいい、あの描写がうけた、としゃべりあうのがこの小説の楽しみかたか。

問題はこの上手さがなにを成すのか、ということ。声高でない上品さが純文学の証しであるかのような風潮が他を圧しているなか(その反面、『Deep Love』みたいな死ぬほど声高なものがバカ売れしたり‥)、従順にテイストだけみたいな小説で勝負するのがいいことなのかどうか‥。他の作品読んでないので長嶋有の他の小説がどうかはまだ分かりませんが。。

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genre : 本・雑誌

安藤健二『封印作品の謎2』

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安藤健二『封印作品の謎2』
(太田出版)

大変好評かつ話題になったルポルタージュ、『封印作品の謎』の第2弾を読む。
デビュー作でもある前作では、特撮番組や漫画の、作品/シリーズのなかで「欠番」となっているもの(『ウルトラセブン』第12話、『ブラック・ジャック』第41話など)が〈封印作品〉としてとり上げられ、その原因と経緯と当時の社会状況、そして封印解禁への見通しなどが概観されていましたが、今回は〈欠番では済まされず、シリーズの存在自体が許され〉ず、〈シリーズ全体が封印されているもの〉が取り上げられています。具体的には『キャンディ・キャンディ』、『ジャングル黒べえ』、『オバケのQ太郎』、『サンダーマスク』。少なくとも、「欠番」という〈封印〉の形態は、社会的に差別的表現として問題になったからだという、分かりやすく取っ掛かり易いスタートが、たいがい、まずあった。しかしそれが“シリーズ全体”が〈封印〉となると、その取っ掛かりすら危うくなり、より困難な取材となったようです。ここでネタばらしはしませんが、今回の本では、流通構造と権利/利害が絡む、よりオトナな闇が深まっています。

一般に、報道やドキュメンタリー、ルポルタージュというものでは、得てして制作者があらかじめ設定した結論へむけて、都合のいい資料や発言ばかりセレクトして援用しがちで、報道番組で街頭インタビューと称して欲しいコメントだけ選り好んで流す、無作為なふりをした恣意がまかり通っているなか、安藤健二のすぐれたところは、その人柄の良さ、育ちのよさに起因するのでしょうか、取材し始めた当初はあったであろう着地点のビジョンとの、じっさいに取材を進めてゆくなかで生じてくるズレとを、誠実に見つめ、キチンとズレのほうに寄り添ってゆく特性。ではないでしょうか。
『封印された『電車男』』(太田出版)では、〈電車男〉と名乗る者のネット上での言動や行動の分析から、虚言/作り話/フカシを糾弾することも可能であったし、それを暴く気がなかったわけでもなかったのでしょうが、過激な分かりやすさをショートカットで選択して、より狙いのはっきりした本(より売れる本)になる機会をわざわざ避け、取材や分析のなかでズレていって生じた気持ちに嘘をつかないことを尊重してしまう。そんな、ルポルタージュとかドキュメンタリーといった言葉から連想されるいかめしさとは無縁の安藤健二は、だから、いかにもなで肩のオットリした現代っ子といった感じで、たしかに新しい世代のノンフィクション作家なんだなとしみじみ思わせる。調査が壁にぶち当たり、煩悶として〈『ジャングル黒べえ』のことなど忘れてしまいたくなったぐらいだ。私はイライラすると無意識のうちに前髪を抜いてしまう癖があるのだが、机の上は落ちた髪の毛でいっぱいになっていた。〉かと思うと、〈書き上げるのをあきらめて再就職を考えていた私に「ここで本を書くのをやめたらただの負け犬だよな」と〉某掲示板の管理人さんの言葉に後押しされたり
していて、その気弱さに母性本能すらくすぐられる。だから、特撮番組版の『サンダーマスク』の封印について、制作した関係者が「幻でおわっていただいてよろしいかと」とか、「(復活させたいという思いは)特にないですね」とか、記事の成り立たないような言葉を吐くのに対して、〈思い入れたっぷりに「サンダーマスクをぜひ復活させてほしい」という発言を期待していた私は、落胆を隠せなかった。〉としょんぼりする安藤健二が、ようやくひとりから「封印されてるのはもったいないなぁ」という台詞を得てホッとするさまに、ヨカッタネ!とともにホッとするし、そしてまた、その過程がそのまま読者のまえにあらわされるさまは、期せずしてその全体が“恣意的な報道”への批判ともなっていると思います。
そして、恣意的でない結論へむかう文章は、スリリングなものとなります。

 × × ×

ひとつの個人的な記憶。

幼いころ、少女趣味なものがとにかく嫌いだった、気持ち悪かった。ヒラヒラ、フリフリしたもの、大きな瞳‥。もちろん、テレビで時折みかける『キャンディ・キャンディ』など、生理的に直視できない、気色悪い、大嫌いなもの、その最たるものでした。

それが、どんな気まぐれでか‥。小学校の同級生の友達・鎌田くんの家に遊びに行ったあるとき、鎌田くんの妹の小さい書棚に、今思えば原作者の水木杏子が書いたのだろう、『小説 キャンディ・キャンディ』があった。なぜそれを読む気になったのかは分からない、ファミコンのローテーション待ち(何人もでゲームすると、順番がなかなか来なかったりして、手持ち無沙汰の時間がたっぷりあるのだ、)の暇つぶしだったのかも知れない。小ぶりのハードカバーで、赤い表紙の『小説 キャンディ・キャンディ』を、僕は、夢中で〈むさぼり読んだ〉。そして泣いた。泣いた。号泣した。悲しかった。物語の途中で大切なひとが死んでしまうのに大きな衝撃を受けた。油断してた。それ以来、アニメやマンガの『キャンディ・キャンディ』を抵抗なく、ふつうにみれるようになったが、今でも『キャンディ・キャンディ』といえば、僕にとっては〈小説版〉のことです。
(鎌田くんの妹さんの本では、マンガ『うわさの姫子』(藤原栄子)も夢中で読んだ。これまた面白かったなー。しかし『うわさの姫子』の話をはじめるとまた長くなってしまうのでまたの機会に‥。また、別の同級生、小笠原くんの家でのローテーション待ちには、『こち亀』とみやすのんきのエロい『やるっきゃ騎士(ナイト)』を読みふけりました。)

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genre : 本・雑誌

『我が輩は主婦である』

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宮藤官九郎が脚本を手掛けたことで話題となったTBSの昼ドラ、

『我が輩は主婦である』

が、この週末についに最終回を迎えてしまい、かなしい喪失感に見舞われています‥。

休みの日だけ断続的に見たりというのは、今まで色々ありましたが、(録画ですが)毎日欠かさず昼ドラみたのはいったい何年ぶりだろうかと思うと、昼夜逆転した生活を送っていたころの『とっても母娘(おやこ、と読みます、渡辺典子と奥菜恵がとってもオヤコな話)』以来11年位ぶりだったな~と思い出す。

見始めた当初は、〈主婦・夏目漱石・ミュージカル〉、という題材の組み合わせに必然性がないうえに、それぞれの要素の絡めかたが不自然に感じられて、正直苦痛ですらあったのですが、斉藤由貴に夏目漱石がとり憑いたあたりから俄然、そんなことはどうでもよくなりました。

このドラマの面白さを猛然と引っ張るのは、スラップスティック・コメディ・アクション女優として、圧倒的な輝きを放つ主人公の斉藤由貴!!その神髄はアクションのズレにあるというのが自分の感じるところで、とにかく動きが派手で、しかもその感情の発現とリアクションにタイムラグがある。たとえば、甘くて美味しいモノを口にしたとき、まず彼女の夏目漱石としての内なる声(本田“北京原人”博太郎)がうめき、若干遅れてギョロ眼をむいて首が前につんのめり、こんなに美味いものがあるとは信じられないとしげしげと自分の今いる世界を見渡したりする。カンシャクを起こして(←しょっちゅう)、怒鳴り散らすときも、思ったスピードでは口から罵詈雑言が飛び出してこず、口元から切羽詰まってわれがちに言葉たちが先を競ってバタバタと慌ただしくあふれ、立ち上がって全身の手足をバタつかせるのだけれど、脳からの指令が神経を経由して体の各部所への伝達されるのがややノロいのか、過剰に騒々しくなってモタついているのが、丸々した体つきと相俟って、どこか可愛らしくユーモラスにうつる。アイドルとしての斉藤由貴の直撃を受けていない自分も、あのころピンとこなかった斉藤由貴の〈面白さ〉はこれだったのかなと思い当たる。あのころとは勿論大森一樹の〈斉藤由貴3部作〉『トットチャンネル』、『「さよなら」の女たち』『恋する女たち』)の頃のことで、『活劇の行方』の著者として“活劇”にこだわりをもつ山根貞男が『「さよなら」の女たち』での彼女に触れて、〈斉藤由貴の反応ぶりがなんとも過剰で、驚き、あわて、走り回るさまがじつに騒々しい。そう、あの大きな丸い眼も過剰に見開かれる〉、〈いきいきと弾む感性と肉体でもって反応するばかり〉の〈斉藤由貴の魅力、つまり過剰な反応の素晴らしさ〉(『映画の貌』)と、当時、その肉体の“アクション”を賞賛している。自信と確信をもって生きているようにみえる“我が輩”も、絶えず落ち着きがなく、なにをするにもあたふたあたふたしてる。だからこそ、シンプルにじっくり人生を語ったりする場面はどこか照れくさく、しみじみと印象的になる。たんにオーバーアクトを続ければ生まれるという魅力じゃあない、斉藤由貴、ひとつの希有な才能だと惚れ惚れしました。
基本は“ifもしも”なシチュエーション・コメディ(明治の文豪が、現代の家庭の主婦になる)なのですが、彼女の豊かな肉体表現があってこそ、なんとも思わないような現代の生活の細部がキラキラ輝きだす。それを脇でささえるのは、自分勝手に輝くカルト的俳優にみえたミッチーの、〈受け〉の演技。意外と好感をもちました。歌も踊りもおもいきりがいいのはさすが本職で、結局たかし役は彼しかいなかったなと思わせる説得力がありました。

脇をかためる人々の顔も、毎日毎日みていると親しみがわいてくる。息子のじゅんは、スゲーいい顔で、子役臭のない顔面を持っていて、素晴らしいと思いましたし、クリーニング屋のやすこの存在は、そのすべてが可笑しく、我が輩との掛け合いのなかでも“出前一丁”ネタは一番笑った、やすこのEDな夫役、レッド吉田ももうレッド吉田とおもわなくなっていた。ほかにも、バナナマン設楽みたいな顔した、ちょっと頭が弱めのテレビのADも、愛すべきキャラクターだった。。もう見られないとおもう喪失感。

毎日やる昼ドラなのに、ひとつの話を引っ張らず、毎日毎日次から次へと新たなネタを披露しつづける制作姿勢の志の高さに恐れ入りながら、さて、いったいどうやって終わるんだと思っていると、終了間際に、『こころ』に倣ってか、物語のバランスを欠くほど物凄いボリュームの手紙群を登場させ、とても最終回までに語りきれないペースでさまざまなエピソードをゆっくりと語りだす。このヒネクレたやり口も、大変気に入りました。

theme : 吾輩は主婦である
genre : テレビ・ラジオ

『ハチミツとクローバー』9巻

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映画化と二度目のアニメ化で盛り上がっている『ハチミツとクローバー』、ファッション的なとこからオタク的なとこまで、さまざまな雑誌で特集が組まれていますね。〈さまざまな〉分野/フィールドからアプローチされる、間口の広い、振り幅の大きい作品なんだと言えると思います。じっさい、少女マンガとしては男性も読める、とか、いや、むしろ(文系)男子のほうがハマりやすいとか、よく言われてるくらい、性差なく広がっているみたいです。周りにあんまり読んでるひといないので知らないけど。

昨日、発売日だというのでいさんで羽海野チカ『ハチミツとクローバー』の9巻を買いにゆく。
レジでお金をはらうと、特典なのか特製ハチクロクリアファイル(?)をくれる。
大きくて恥ずかしいうえ、自分がいったいどういうシチュエーションで使えばいいんだろうか。。
おまけに、巻末にスペシャルふろくと称して〈ミドリちゃんマグネット〉がついていて、ソフトカバーなのに平らなマグネットのおかげさまで本が曲がらなくて読みにくい‥。かと言って剥がすのはもったいないのでガマンして読みましたが‥。

最新号の『ダ・ヴィンチ』では『ハチミツとクローバー』特集が。森博嗣(ファン!)の冷血な分析もカッコイイが、『CONTINUE SPECIAL』ほか、他の媒体を渡りあるいて継続されている吉田豪による羽海野チカインタビューがやっぱり面白い。羽海野チカの超ネガティブ・キャラの面白さがよく引き出されていて、ダークになってもいいのにほのぼのするのは、ご本人の人柄ですか。しかし、『ダ・ヴィンチ』という浅くて軽薄な媒体と、“ディープ”の代名詞のような吉田豪との組み合わせは、なんか気持ち悪い。


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theme : ハチミツとクローバー
genre : アニメ・コミック

新作公開映画は‥(7.15)

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どこへ行っても『ゲド戦記』の主題歌が流れている今日この頃ですが、また週末から新しい映画がどんどん公開されるのに、まだ公開中のもので観てないのがいっぱいあって、すこし焦っています。ドリュー・バリモアのファンとしては、『2番目のキス』をはやくみたい。話は好みだし、ある程度以上の面白さはまず間違いないはず。。ところで、〈このシリーズは全作品‥〉というフレーズが活字になっているのを目にしましたが、『25回目のファーストキス』や『25年目のキス』などとひっくるめて〈キス・シリーズ〉とか呼んでいるのでしょうか。原題もスタッフも関係ないのに無理があるんじゃないだろうか。

新作『キングス&クイーン』が好評のアルノー・デプレシャン、いっつも気になって観なきゃと思って観るんですが、どうも‥“観たくない”という強い気持ちが、なんかデプレシャンを前にするとつきまとう。

『M:I:Ⅲ』も観なきゃと思っていますがまだチャンスが来ない。そういえば新宿武蔵野館に西川美和監督の『ゆれる』を観に行った際、あそこは上映室が3つあって、ロビーが共通なのですが、間違って『M:I:Ⅲ』上映真っ最中のところに入ってしまい、予告編かな~としばらく観ていたらどうも本編らしく、大変重大なシーンぽいところを目撃してしまいました‥。はやく忘れたい!!

で、15日、今日からスタートで気になるのは危なっかしそうな『日本沈没』。今度こそハードな樋口真嗣がみたい。キャストには実にイヤな風がふいている。
カルト映画(『ピンク・フラミンゴ』や『エル・トポ』など)の裏側を描く『ミッドナイトムービー』 も注目していますが、これまたユーロスペース。。見応えのありそうなものは、何かというとユーロスペースでしか公開していないのですから、シネコンのアドバンテージなんぞまだまだ低いというもんです。
『ラブ★コン』。学園ラブコメは好みのド真ん中。観たい。玉置成実が変化球。

もう少しあとだと絶好調廣木隆一監督の『恋する日曜日』、昭和天皇をド正面から描く超・問題/危険/話題・作のソクーロフ『太陽』も楽しみ!!
しかし一番ワクワクしているのは、つい最近出来たての、瀬々敬久監督の最新作『サンクチュアリ』!!!!『肌の隙間』のあと、どう出てくるのか、ほんとうに凄く楽しみにしています。しかし、いつどこで上映されるんだろう?

theme : 最新映画
genre : 映画

人から借りたり,貰ったりした本

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ダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』をやっと読んだ。
大ベストセラーということで、じゃあまず読むこともないだろうと読まずにずっときたのだけれど、映画化もされてそれもヒットしたうえ、ひとから文庫版を借りる機会ができたのでかりて読んでみました。

面白いのはダ・ヴィンチ/キリストがらみのウンチクだがオリジナルではなく元ネタがある。それをのぞくと、お爺ちゃんが死の危機に瀕したさい、孫に残したこねくり回してひねりにひねりった謎(=なぞなぞ)を延々解く話が殆どで、絶対に絶やしたくない話を伝えたいはずなのに、あわや伝わらない、というくらい難易度の高い謎を投げかけるというかなり無理のあるプロットで、ミステリーの新人賞に応募しても受かるかどうかも怪しいレベルだとおもう。

普段あまり本を読まない人々が読むからベストセラーなのはいいとしても、『このミス』の年間ベストテンにランクインしていたりするのが理解できない‥。無理にミステリーに仕立てた、よくある地味~な味気ない小説に思えるんですが‥。映画にするにしても、ロン・ハワード監督×トム・ハンクス主演、というメジャー感のあるコッテリしたメンツはどうも似合わない。監督は微妙なところでジョン・マクティアナンとかダニエル・ペトリー・ジュニア(←まだいるのかな?)とかで、主演もクリス・オドネルやベン・アフレック、ヒロインはサンドラ・ブロックだとか、そういう乾燥しきった肌みたいにパサパサしたスタッフ/キャストがよく似合う。オデヲン座とかで公開されてサッパリヒットしなくて、そのうちテレビ東京(12チャン)の木曜洋画劇場でオンエアされてるのを知ってるのになんとなく観逃しちゃったりとかするかんじ。


先日触れた、ひとからもらった『バカドリル』2冊。みてみたらだいぶこれまでの立ち読みで結構読んでいた。サブカル寄りの本(書店の棚でサブカル/TV・タレントとかに分類されているような本)って、気軽に読めるからだいたい本屋さんでめくっているものが多くて、手に入れるころには半分以上読んじゃっているのでした。『バカドリル』は『TVタレント名鑑』とともにトイレのお供に最適です。

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theme : 本に関すること
genre : 本・雑誌

『シネマの快楽』、CINE VIVANT六本木

20060711225131
蓮實重彦・武満徹『シネマの快楽』
(リブロポート、’86、河出文庫版、’01)

バブル、セゾン文化の爛熟期、ハスミ言説が圧倒的影響力を発揮していた時代に、六本木に出現したハイソな映画館、〈シネ・ヴィヴァン六本木(CINE VIVANT六本木)〉。〈映画大陸復帰〉後の、80年代ゴダール、シュミット、エリセら「73年の世代」の作品の紹介から、パラジャーノフ、ソクーロフといったロシア勢の公開まで、99年末に閉館するまでいわゆる〈単館ロードショー〉という興行形態のムーブメントを東京で形づくってきた、牽引してきた映画館でした。ユーロスペース(移転‥)やシャンテ(←方向転換してしまって残念‥)などとともに、80年代、90年代に東京で映画を観ていた者なら必ず通うことになった単館で、中でも最もコジャレたフンイキを醸し出しておりました。(その手の映画館としては最もコジャレてない〈シネマスクエアとうきゅう〉の、近年の存在感のなさはどうしたことでしょうか‥。)

コジャレてるのはロビーにある飲食のスタンドもそうで、一人孤独に観に来ている自分にはあまりに敷居が高く、いつも大通りをはさんだ向こう側にあるマクドナルド(外人率が高い)を愛用するしかなかった。
地下にあるシネ・ヴィヴァン六本木から階段をあがると六本木WAVEの一階で、そこの一角には当時珍しいシネフィル的品揃えのビデオレンタルスペースがあって、六本木なんぞ自分の生活圏と殆ど関わりがないのに、レンタル会員にならざるをえないような魅惑的な品々が並べられていました。(レンタルなのに、ビデオが大事そうにガラスケースにしまわれていたような記憶が。。)

さて、『シネマの快楽』、いわずと知れた名著ですが、映画批評家として一世を風靡していた蓮實重彦と、世界的作曲家として映画音楽にも積極的に関わる武満徹との対談集で、83年、シネ・ヴィヴァン六本木こけら落としのゴダール『パッション』から、2年後のエリセの『エル・スール』まで計9本ぶん(ゴダール『カルメンという名の女』、エリセ『ミツバチのささやき』、シュミット『ラ・パロマ』、タルコフスキー『ノスタルジア』、スコラ『特別な一日』、ミハルコフ『ヴァーリャ!』、ゴッドフリー・レジオ『コヤニカッティ』)、ここで公開/上映された作品のパンフレットをかざるものとして行われた対談をまとめたものです(他媒体で行われた対談2本も収録)。

劇場パンフレット用の対談だというのに『コヤニカッティ』や『ヴァーリャ!』を思いっきりけなしたりして、当時の蓮實重彦のキラーぶりが窺えますし、武満徹の、繊細で正確な読みと決して偉ぶらない人柄の良さが、蓮實氏の人柄の良くなさを中和していて清々しい、快適な読み物として、気軽に時々読み返す座右の書の一冊なのですが(武満徹がミハルコフを擁護するくだりや、エリセの映画の空間設計が解析されるあたりが、好き)、この単なる文庫版を手にするまでには微妙な迂回がありました。
単行本版『シネマの快楽』が流通してたころはなんとなく油断していて、立ち読みしたりしてたのがいつの間にか入手が困難になってしまい、そうなるとどうしても手元に置いておきたくなってシネ・ヴィヴァン六本木でパンフレットのバックナンバーをごっそり買って(といってもチビチビ買っていったのですが)ようやく安心していたら数年後アッサリ文庫版『シネマの快楽』が出た。手に入れるが何か不満が‥。

90年代後半だったか、劇場内のロビーに飾ってあった巨大な『春のソナタ』(ロメール)のポスターが、欲しくて欲しくて欲しかった。さいきん、インターネットでショップをみたらあれより遙かに小さいサイズでも馬鹿高かった‥。そういえばロメールの映画もシネ・ヴィヴァンでいっぱい観ることが出来ました。

栄華を誇った西武セゾン系の映画館であったシネ・ヴィヴァン六本木も、配給会社であるシネセゾン自体がテアトル系に業務委託され、やがて終わりを迎える。単館=ミニシアターというバブルな文明は滅び、やがて画一的なシネコンの時代がやって来た。

theme : ミニシアター系
genre : 映画

Kamipro SP 2006 Summer

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『Kamipro Special 2006 SUMMER 6.17ハッスル・エイド/7.1PRIDEGP2nd ROUND 緊急速報号』


現地時間7月8日、UFCラスベガス大会のオクタゴンに、桜庭和志なきあとのPRIDEの象徴というべき、〈PRIDEミドル級王者〉ヴァンダレイ・シウバが登場し、UFCライトヘビー級王者チャック・リデルに挑戦を表明した、というニュースをきいたとき、桜庭がHERO’Sのリングに登場した時とダブり、イヤな感じがした。しかし、「ミスター・サカキバラ(PRIDE、DSE代表)とダナ・ホワイト(UFC代表)プレジデントに感謝します」というシウバの言い回しをみる限り、合意のうえでのPRIDE(DSE)の戦略なんだとホッとする。 10・21PRIDEラスベガス大会のプロモーションとして、11月にシウバをリデルに挑戦させるのはいいとしても、9・10の無差別級トーナメント決勝戦でシウバが優勝しちゃったらどうするんだろうか‥。リデルごときとやるのはリスクがデカくなってしまう。それとも、優勝は、ない、とDSEサイドは踏んでいて尚且つリデルには勝てると確信しているのか。確かにUFCのライトヘビー級はドングリの背比べ的にティト、ビクトー、クートゥアー、リデルの4人が勝ったり負けたりを順繰りにく
りかえして、そのうちPRIDEに送りこまれたビクトーがアリスターにあっさり一本負けするところとかみると、なんかチョロそうだけど果たしてどうか。肝心のシウバが若かりし頃ビクトーとティトに負けた事実が引っかかる。しかし、あの藤田を打撃でTKOにおいこみ、K-1トップファイターのミルコとハント相手にスタンディングで互角に渡り合ったくらいだから、リデルに負ける要素もあまり見当たらない気もする。どちらにしてもUFCのトップをコテンパンにしたら、このうえないプロモーションになる。UFCのリデル対シウバもそうだけど、PRIDEも地上波放送がなくなり今後アメリカでの活動に重点をおくようになるかもしれないと考えると、ひとつのジャンルのスポーツの、世界最高峰の戦いが常に日本でライブでみることが出来た時代として、将来、せつなく思う日々が来るのかもしれません。

インターネットの普及、プロレス・格闘技雑誌全般の衰退と、大会開催即放映という状況に、需要がなくなった〈速報号〉というメディアは、かつてプロレス・格闘技のビッグマッチのある(大会場)大会のたびに(PRIDEだとほぼ毎回)数種類出ていたのだけれど、今はほぼ滅亡したに等しい。それが、今回のフジテレビPRIDE放映中止騒動をうけて『紙のプロレス』と『格闘技通信』からでた。格通は相変わらず千年一日おんなじフォーマット(試合経過レビュー、コメント、コラム等‥)で変わらぬ姿。正直、格通から出ても『ゴング格闘技』から出ても、ほとんど区別がつかない。一方、通常の誌面でも基本的に試合経過のレビューとかをやらないヒネクレたスタンスの『紙プロ』は、速報号なのに試合経過がほとんど分からないという暴挙に。決勝進出4強の勝利後速攻の独占インタビューがなんとか速報号的体裁をととのえる。
『紙プロ』ならではの大晦日特集も面白いけど、注目はやはり10・21PRIDEラスベガス大会の記事。DSEのスタッフである山本秀樹(DSE・USA シニア・バイス・プレジデント)と笹原圭一(DSE広報局局長)、及びWEBサイト『MMA WEEKLY』主宰のスコット・ピーターソン、それぞれにインタビューを敢行する、という恐ろしく地味で硬そうな特集なのに柔らかい印象にまとまってるのがすごい。 いかにUFCがPRIDEのアメリカ上陸を本気で食い止めようとしていたか、日本とアメリカの興行の仕組みの違い、PRIDEのアメリカ大会とK-1ラスベガス大会との根本的な違いがわかって面白い。アメリカのMMAブームとそのマーケットをほぼ独占するUFCからファンを強奪しなければならないPRIDEとしては、殴り込みのようにしてシウバらが、リデルやマット・ヒューズやティム・シルビアの首を穫ってくることが急務なのがわかる。

theme : 雑誌(既刊~新創刊)
genre : 本・雑誌

新宿、送別会

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土曜の夜、今更ながら、新宿のお店の送別会。高円寺店のクローズ作業を終えてから、久しぶりの新宿、久しぶりのお店へ。

LUMINE EST。映画『デスノート 前編』、物語が2006年3月/4月またぎで進行していたので期待(?)していたがチョンボはなかった。かに道楽のオブジェの手前には新宿武蔵野館。刻一刻減ってゆく武蔵野興行の映画館。武蔵野興行の映画館は、みんないい映画館だったな‥。ジュンク堂書店。久しぶりにそばを通る。ドラマ『我が輩は主婦である』のワンシーン、斉藤由貴が出版したばかりの自分の小説本を探す場面を思い出す。

店にはみんな集合していた。S山くんのほかは女子。二人が就活決まって、彼氏と別れたひとが二人。新しい店長のHさんはバツイチの子持ちの女性。いいひと。後釜がいいひとだと少し複雑な気持ちが。

〈タパ〉という飲み屋へ。そういえば以前、〈佐々木・タパ・マダブ〉という在日のアルバイトがいたが詐欺師だった。色々な理由をつけて金を引っぱろうとして、引っぱれないとわかるとバックレた。〈タパ〉ではケータイのアンテナが微妙。通じないと困る事情があったのでイライラする。ぼくの隣は中国人のOさんで、その隣は山形訛りが、そのまた隣は沖縄(北部。ゴリの訛りは南部のもの、とかなんとか)訛りがそれぞれ激しくて、むこうのほうの人との意志の疎通が困難。話が行って帰ってくるまでに訛りの渦にのまれて変質してしまう。

寄せ書きの色紙をもらう。S山くんよりなぜか『バカドリル』シリーズを2冊もらう。僕の好きな本なんで良かったら読んで、とのこと。ありがたくいただきました。

theme : 雑記
genre : 日記

『迷い婚 全ての迷える女性たちへ』

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『迷い婚 全ての迷える女性たちへ』

(2005年、アメリカ、97分)

監督:ロブ・ライナー
出演:ジェニファー・アニストン、ケビン・コスナー、マーク・ラファロ、ミーナ・スーヴァリ、シャーリー・マクレーン

ドラマ『FRIENDS』のレイチェル役でおなじみ、というか、ブラピの元奥さんとしてもおなじみ、ジェニファー・アニストン主演の、結婚迷い映画(?)。

お話は、長年付き合っている彼に結婚を申し込まれ、何の不満があるわけでもないのに心が浮き立たない。そこへ魅力的な男性が現れ‥という、お決まりのストーリー。
こういう物語だと、普通、恋愛映画、ラブコメディ、スクリューボール・コメディ、といったジャンルのレシピに沿って作られるものですが、今作品、微妙にどれでもない。恋愛映画としては、切なくなるようなシーンは皆無に等しく、ユーモアや笑いの要素も微々たるものなので、ラブコメディともスクリューボール・コメディとも呼びがたい。かといって、シリアスに人生の深遠やワビサビを感じさせるほどの熟慮された人生観もなく、これ以上なく薄い人生論があるだけ。娯楽的でもないうえに芸術的でもない、方向性が今ひとつ見えないところへ、彼女の一家は映画『卒業』(67)のモデルだという話が接ぎ木される。おばあちゃん(シャーリー・マクレーン)がかの“ミセス・ロビンソン”なのだという。そのときの男、おばあちゃんとも、母親とも関係をもったというその男こそ、ジェニファー・アニストンがフラフラっとしてしまうケビン・コスナー。
(その露わな権力欲と性的欲望の肥大ぶりに、年々スターとしてのメッキがこそげ落ちていったケビン・コスナーですが、今回、陳腐で薄っぺらい講演を得意気に行う俗物で、女には無差別爆撃という、まんまのキャラクター設定の役。よく受けたなあと思いますが、もしかしたらあまり自覚がないのかも。)

映画の宣伝としてはジェニファー・アニストン押しで、ケビン・コスナーは脇に追いやられて特にウリとされていないことから、ケビン・コスナーの集客力の弱まりと、人気の低落ぶりが見てとれます。

『卒業』の話の導入は、映画全体の〈エモーションの持続〉を無駄に邪魔するだけで煩わしく、知的遊戯にすら至っていない。結婚直前の逡巡をポリフォニックに描いたつもりなのでしょうが、孫娘ジェニファー・アニストンのケースと微妙にダブらないから賢しげなにみえるだけで、仕掛けが浮いている。おばあちゃんと孫が同じ男と付き合ったっていいけれど、映画内映画のメタフィクション仕様は余計かと思います。

シャーリー・マクレーンは『イン・ハー・シューズ』のときと同じような演技と役回りですが、今回はその特有の下品さが人生の年輪的な味になっていなくて下品さだけが浮く。学園ラブコメディではメイン級のミーナ・スーヴァリは、ジェニファー・アニストンの妹、姉とは対照的に短期ダッシュのハイテンションで結婚する女性。あまりに幼くジェニファーの“迷い”の参考にならない。彼女がいるのに意外と画面の華やかさが増幅しないのが不思議。

で、映画を構成する要素がだいたい不発のなか、ジェニファー・アニストンですが。『彼女は最高』『私の愛情の対象』『ブルース・オールマイティ』など、映画ではパッとしない印象の彼女(キャメロン・ディアス同様、日焼けにもノーケアなサバサバした豪快なざっくばらんぶりには好感をもつけれど、肌には加齢が刻まれる)。迷走しつつも、いかにも彼女にあった役柄ぽい役が大事そうに与えられるが何かが違う。今回もまたあてられた“等身大の共感得る女性像”みたいな役柄、じつはどうもあわないんじゃないかと感じる。顔面/表情にハリウッド的なファンタジーがなくて、現実だけがありすぎる。いっそ超コメディに針を振り切ったほうがいいんじゃないか‥。

クライマックス、どちらを選ぶのか、彼女が、男たちがどんな行動をとるのか、ひと飛躍が欲しかった、と思います。

theme : 映画感想
genre : 映画

『戦国自衛隊1549』

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地上波放映された『戦国自衛隊1549』(05)を観る。
『ローレライ』『亡国のイージス』とともに〈福井晴敏三部作〉を形成し、なかでもダントツに悪評を集めたこの映画。『ローレライ』も『亡国のイージス』も個人的にはぜんぜんダメだったのでこれは更に期待してなくて劇場にも行かずレンタルもせず、今回初めてテレビでみたらウワサほどつまらなくはなかった。かといって面白かったわけでもないけど。。

話は角川アニメ『時空の旅人』(86)みたい。やはり平成ゴジラ映画みたいな画面の色調のそっけなさは健在。〈ホール〉の設定が危うい。どうして子孫の人間が消え失せるのでなく人里離れた土地が消滅してゆくのか。北村一輝、オイシイ。

当初、古巣の自衛隊からの協力要請にたいし、恩ある人を助けるためにも終わる世界を救うためにも動かず、頑として拒んでいたはずの江口洋介が、なんの前触れもなく唐突に作戦に参加。一応北村の問わず語りに心打たれたのと回想に改心したのが心変わりした理由みたいに挟まれているが、物凄く弱い。ドラマの重要なプロセスが足りない。テレビだから大事な部分がカットされたのでしょうか。

しかし、何よりの問題は、(観たかたは周知のとおり)戦国時代の兵力VS近代兵器の戦いがほとんど描かれないことで、クライマックスはチャンバラ‥。何のための〈戦国自衛隊〉なのかとおもう。

しかしオリジナル(?)の『戦国自衛隊』(79)も、あれはあれで、カラオケビデオ映像をずっと見続けて乗り物酔いを起こしてしまうような感覚をおぼえる、弛緩した、じつにドラッグ風味の映画でしたから、どちらがマシとかいうレベルの話でもない気もします。

『戦国自衛隊1549』

(2005年、日本、119分)

監督:手塚昌明
出演:江口洋介、鈴木京香、鹿賀丈史、北村一輝

theme : 邦画
genre : 映画

『この胸いっぱいの愛を』

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『この胸いっぱいの愛を』

(2005年、日本、130分)

監督:塩田明彦
原作:梶尾真治
出演:伊藤英明、ミムラ

偶然飛行機に乗り合わせた4人が、20年前の北九州・福岡にタイムスリップしてしまう。それぞれ思い残すことのある彼らは、それぞれのやり残したこと、することが不可能だったことを、今一度試みる。

知る人ぞ知る時間SFの傑作『クロノス・ジョウンターの伝説』(梶尾真治)は悲しく切ない感涙必至の小説で、周囲の数人に勧めたが誰も読んでくれなかったかなしい過去が。
その『クロノス‥』が映画化、ときいたとき一瞬喜んだものの、塩田明彦が監督と知りイヤな予感が。『黄泉がえり』(03)も梶尾真治の原作の映画化で、この原作もユーモアと感動が絶妙なエンターテイメント大作として出来のいいもの、ましてや傑作『どこまでもいこう』(99)の塩田明彦監督。全然心配せず観たものが‥‥あのー、映画版『黄泉がえり』に感動したり泣いたりした方々には申し訳ないのですが‥‥少しでもいいところを探すのも苦労する惨憺たる出来映えで、初めて大きいバジェットで(ということは、勝負作で)このザマ、心底絶望的な気持ちになった、そんな過去の実績がイヤな予感を煽った。

まず躓くのはキャスティング。微妙に薄い顔(伊藤英明、勝地涼、宮藤官九郎等‥)がズラリと並び、ヒロインのミムラも必ずしも薄いばかりではないがパサパサしたオーラが薄さをアピールしている。そんな、海辺の潮風に脱色してしまった写真週刊誌みたいに色褪せているキャスト陣が、たどたどしい演技(とくに勝地涼!)でさほど切迫感のないエピソードを生き直したりしているのを観続けることは、子供の頃興味ないニュース番組をみざるを得ないときみたいに退屈。
(そもそも、ひとんちの鉢植え落としちゃったとか、他に引き取られた犬の死に目に会わなかったとか、それが全人生のなかの最大の悔恨事か?)

何より、摩訶不思議なのは跡形もない原作。原作モノの映画化が、ここがちがうあそこがちがうと文句を言われるのは避けがたいところがあるのですが、しかしそれにしても、これのどこが一体『クロノス・ジョウンターの伝説』なのか?その無関係さは『弟切草』(01)以上かも。(むしろ先ごろドラマ化された大石英司の『神はサイコロを振らない』(発行は04年)の物語に酷似。)

原作では、過去にもどり、何かを成し遂げるためには、払わねばならない巨大な犠牲、しかしその大きすぎる自己犠牲をもってしても何かを成し遂げる、という構造に、涙の増幅効果があった。しかし映画では、そもそも主人公たちは否応なく過去にいて選択肢などなく、×××と×××までの時間を有意義につかうだけ、誰かを助けたりすることにデメリットがないから、ああそうよかったね、と思わせるくらいに留まっている。
唯一、突然ナイフで××のに、驚いた。

theme : 邦画
genre : 映画

北上次郎・大森望『読むのが怖い!』

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北上次郎・大森望『2000年代のエンタメ本200冊徹底ガイド』(ロッキング・オン)

「批評家」佐々木敦が、豊崎由美『そんなに読んでどうするの? 縦横無尽のブックガイド』について触れた文章で、〈今やはっきりと死に体の「文芸批評」に代わって台頭したのは「書評」ということで〉、それを現在代表するのが〈大森望と並ぶ売れっ子が豊崎氏〉だと紹介し、〈「書評家レボリューション」は、「わかりたいあなた」と情報過飽和の交叉点から、半ば必然的に生まれてきた。現在、必要とされているのは、「批評」でなく「ガイド」なのだ。実はこれは昔からそうだったのだが、「知」的な虚飾を纏っている余裕さえ遂になくなっということなのだと思う。〉〈「わかりたい」という欲望だけは、どこかで空転しながらも生き延びているのだということだ。〉と書いている。

高踏的に「知」を振りかざし、難解な文学を難解に語り、本を読むことが好きで本を読みたい人びとの指針にはなり得ない「批評」ではなく、ただ何が面白いのか、普通に面白いさまざまな本が読みたいひとへの指針となりうるものとして、(マニアックなレビューでない)雑多な“本”を扱った「書評」誌である『本の雑誌』を、椎名誠らとともに、北上次郎こと目黒孝二が立ち上げたのが1976年。永江朗を〈この分野の先達〉と佐々木敦は書いているが、永江朗自身が『本の雑誌』の創刊時を振り返って〈僕が七七年に大学入学で上京したときは「ぴあ」と本の雑誌でしたね。(略)やっぱり東京にはすごい雑誌があるんだなあって。〉と述べているのからして、それを言うなら北上次郎(目黒孝二)こそ「先達」でしょう。

「文芸批評」が、「文芸批評家」の〈スター化〉をうむという構造のなか、読者=読書の「わかりたい」という欲望からは遊離した無縁なものと化して衰弱してゆく背景には、凡百の批評家(もどき)がロクに本(小説)を読む能力が欠けていて、誤読の山を築いてきた長い実績があるのに対して、じつは大森望や豊崎由美の読みは的確かつ正確で、「批評/書評」の構造ゆえだけでなく、書評家たちが培ってきた信用が、状況を逆転させたのだと思います。

大森望と豊崎由美が組んだ『文学賞メッタ斬り!』も面白かったんですが、その“売れっ子”大森望がエンタメ「書評」界のもはや大御所である北上次郎と組んだのが、この『読むのが怖い!』です。

個人的にはあんまり好きじゃない『SIGHT』という雑誌(高橋源一郎の新連載が始まった。取り上げられてる『9条どうでしょう』、前々から探してるんですが本屋さんで見つけられない‥。)に連載されている、北上次郎と大森望の対談形式の「書評」をまとめたもので、編集部推薦の本、北上次郎推薦の本、大森望推薦の本を持ち寄り、ABC評価をつけて論じるというものですが、各種雑誌に書評コラムをもつ両氏の詳細な書評はそちらで読めるとして、この本(連載)のウリは、それぞれ個性が異なり性格が異なるふたりのそれぞれ持ち寄ったオススメ本に対して、相手がどう反応するかという楽しげな緊張感でしょう。SF肌の人間でヒネたオタクみたいなパーソナリティの持ち主の大森望と、活字中毒が高じて、本をひたすら読むことをムリヤリ職業に仕立てあげてしまった天然系の北上次郎。相反する個性も、大森望がツッコミとして天然・北上をイジる関係性から楽しく読める。

北上次郎に読めそうな本、ギリギリのラインで好きそうな本をセレクトしてぶつけて観察する大森望とは違って、単純に自分が面白がって興奮した本を考えなしに持ってくる北上次郎は、大森望に冷静に分析されて、は?だの、へ?だの、ええ~?だの言ってしょんぼりしたりする。かと思うと興味のない本には〈何だっけ、(略)覚えてねえなあ、俺〉、〈あ~、なるほどね、じゃあ、関係ねえや、そんなの全然〉、〈これ、クイクイ読んだんだけど、どんな話だったかまったく覚えてない〉と、素っ気ないことこの上なくて、その素直さがカワイラシイというか、面白い。何より、もはや大御所なのに、「わからない」と率直に言える姿勢が素敵だ。

自分の好みはどちらかといえば大森望に近くて、ナイーヴ派とくくられている(だっけ)石田衣良、吉田修一、本多孝好、伊坂幸太郎あたりがあんまり好きじゃない(というか、むしろ嫌い)な僕にとっては、大森望の批評眼は信用に値して参考になるし、死んで欲しいくらい大嫌いな齋藤孝の『質問力』(題名も糞だ)のダメさかげんを丁寧にそしてボロカスに説明していて気持ちがよかった。ただし、ニール・スティーヴンスンはなんか苦手で、面白さがどうもよく分からない。。

theme :
genre : 本・雑誌

『サバイブ』

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『サバイブ』

(2006年、日本、86分)

◎第1エピソード『Hunger』
監督:元木隆史
主演:のはら歩

◎第2エピソード『潜伏 Hidden』
監督:本田隆一
主演:miko

〈フルモーションレーベル〉でお馴染みの、〈フルメディア〉から出たこの中編が2本立てでパッケージされている『サバイブ』は、快作『脱皮ワイフ』の監督・主演コンビ、傑作『ピーカン夫婦』の監督・主演コンビによる2本の競作ということで、〈フルモーション〉からスピンオフした外伝的作品、という観点からいくと、やはりフルモーションを代表する堂々と誇れるものとして、『脱皮ワイフ』と『ピーカン夫婦』が認知されている証ともとれます。
しかし実際、元々の企画の出発点は、プロデューサー(永森裕二?)が女優さんの〈イメージビデオ〉を撮りたいと言い出したことが始まりだったようです。ただふつうに作っても面白くないから、ドラマ性のあるものにしようとか、結果どんどん膨らんでいき現行のかたちになった模様。

メインの女優が一人でほぼ出ずっぱりで、なおかつ台詞が殆どない、という作劇は、企画初期の〈イメージビデオ〉の形式の名残でしょうか。

二人の監督、二人の女優によって競作された2つの中編から抽出される共通点は、どこまでが企画よりくる“縛り”なのか今一つ分からないところもありますが、大きくみて以下の通り。

①全編、一人の主演女優が出ずっぱりで、他に登場する女優はいない(もうひとり女性の役がある場合はそれも主演女優が演じる)。
②主演女優にはなるべく喋らせない。
③物語のストーリーラインは、〈極限状態に陥り追い込まれた女が、その状況を切り抜けるべく奮闘する〉というもの。
④描くべき共通テーマは〈エロス〉。
⑤主演女優を魅力的に撮ることを第一の主眼とする。

‥ということで、じっさいの本編ですが、比較すると同じ大阪芸大出身ながら本田隆一『潜伏 Hidden』のほうはいかにも大阪芸大的かつ本田隆一的で、カラーが存分に出ているぶん、競作の規制には居心地が悪そうで、どちらかというと饒舌な作風で引き算より足し算なところもある関西人的資質の本田監督には、殊に“女優になるべく喋らせない”という縛りはキツいようで、喋らせない不自然が所々表面化し空回りの気味がなくもない。
それに対し、画面/場面に流れる空気と間合いを大切に作り上げるのが作風だと思われる元木隆史監督の『Hunger』の場合、プロットを極限まで単純化し、物語で引き込み引っ張るのに力を注ぐのは最低限にとどめ、女優さん(のはら歩)のすべてを隅々までうつしとることに尽力しています。


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肌寒い季節の森林に、白いコートにピンクのマフラー、黒いスカート姿ののはら歩を、自殺する場所を求めてさまよわせる。(彼氏との関係が破綻し絶望したよう。)偶然迷い込んだ用具置き場のような小さな山小屋で自殺を試みた彼女は、ちょっとした手違いから右手首を縄の結び目に絡めとられてしまう。爪先立ちで立ったままの体勢で自由を奪われた彼女を、そして彼女の脱出への努力を、執拗に見つめ続けることになります。

清楚で透明感のある面立ちののはら歩が、苦悶したり濡れたりするさまをまじまじと観つづけることになるのは、成程企画当初にあったイメージビデオ的な狙いに限りなく近い成りゆきで、観る者は様々な光線のもと、のはら歩の肢体を堪能することになる。拘束されることとなるトラブルの直前にストーブで湯を沸かし始めたことから、のはら歩の肌にびっしりと玉の汗が浮かび上がり、コートの下に着ていた白いブラウスや髪の毛が濡れた肌に張りつく。刻一刻と過ぎてゆく時間の推移につれて、夕陽が、月明かりが、暗闇が、早朝の光線が、彼女の白い肌をさまざまな色合いに輝かせる。元木監督の演出は、とにかくのはら歩をじっくり舐めるように撮影し、女優さんの美しさをフィルムに少しでも多く刻印しようという、女優を撮るということの原初に立ち返ろうとしています。

脱出のために色々な道具を足の指で手繰り寄せ、使用しようとするさまを、動く足指をフェチ的にアップでひたすら追う。暑さと狂乱で、順序を経て一枚一枚身につけたものを脱いでゆく様子も、逐一ナメるように撮影される。

一般的なイメージビデオによくある、とってつけたようなシチュエーションに観るひとがしらけつづけて退屈してしまうことを回避するための様々な工夫がなされていて、例えば脱出のために延々苦闘し、ハアハアと荒く息をつくその息づかいが、布と肌とがこすれる音が性的に強調されていますが、唐突な見せ場(聴かせ場?)として浮かないようにという配慮からなのかは分かりませんが、冒頭から枯れ葉や小枝を踏みしめる音、梢を風がはしり、山鳥がさえずる、さまざまな音が静寂のなか響きわたり、不自然な突出を封じる。夜半に降り出す雨がトタンをたたく音やストーブ上のヤカンがシュンシュンたてる音とともに、いつしかすべての〈音〉そのものがエロティックな鼓動として『Hunger』全編を覆う。

また、物語るうえで必要だが見せ場ではない普通のシーン、例えば男に何度も電話をかけ続けそのたびに不通だというシーンを、角度や大きさをさまざまに変えたカットを丁寧に重ねていき退屈なものとしない作業を怠らず、段階を踏んでゆくいことによって、見せ場だけのとってつけた感じでなく必然的なドラマ性のなかでエロスを描く。西陽がさすなか、届かないところにあるケータイを引き寄せる道具とするためにブラジャーを使用し、そのために美しい乳房が露わになる展開だけはさすがに少し強引に感じましたが、のはら歩の魅力をみせるということに集中しつつ、イメージビデオ的退屈さと空虚な空転感に対して、単純な物語を語ることを疎かにしないことによって退屈ぎりぎりのところで空転させずにおくことに、健闘していると思います。

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一方、『潜伏 Hidden』は志向がガラッと変わって、本田隆一が規制と中編という枠組みに自分の作風や物語をムリヤリ押し込んだ感じ。

ファーコートを身にまとったバブリーかつゴージャスないでたちのサキ(miko)がホテルにはいってゆく。今夜はこの間の306号室で9時に、というトシカズのメールに導かれて、早めにやって来たmikoは、部屋に落ち着き、仕事が早めに終わったから先に来ている旨、彼にメールする。シャワーを浴びていると何者かが呼び鈴を鳴らす。バスローブを羽織り恐る恐る扉を開けてみるが、視界が悪い、訪問者は別の部屋にはいってゆくのがぼやけてみえる、コンタクトを落としたよう。廊下に転がっていたコンタクトを拾おうとして306号室の扉が閉じ、オートロックのためあられもない姿で締め出されてしまう。作戦を練るmiko、丁度305号室の部屋の人間が出てゆき、ドアが閉まる直前にすべり込む。まずはまともな格好をするべくその部屋にあったジャケットを羽織るとポケットから携帯が出てくる。みると先程自分がトシカズに送ったメールが表示され、しかも調べてみるとエリなる知らない女からの〈あの女と9時からならその前にあえるじゃん〉というメールがあり、それへの返事として、じゃあ7時半に305号室で、あの女からは金巻き上げてポイだから
、というふう。狂乱状態に陥ったあと、トシカズを慌てさせるさまを妄想し、ウトウトしてしまう。はねおきて、事態を打開せんとフロントに電話しているとトシカズとエリ(miko)が帰ってきた。あわてて隠れるサキ‥。

‥‥という、前半だけでもこれだけある物語は、短い時間で語りきるには慌ただしく、規制の結果一人二役で分裂することになったmikoの熱演も、物語と心理を語るのに忙しく、mikoのより多角的な魅力をみせることになったとは言い難い、と思う。押し黙った状態でいることにも何か無理があり、ついでに輝きまで押し鎮めてしまっていて、ほんとうはもっと魅力的なんだろうに、と思わせる。
ボタンの掛け違いからくる騒動を描くのに、主人公の台詞がないというのは苦しげで、どうしてもゲーム感覚で捉えられてしまい、生身の人間が生きている感が薄く、“芝居”にしか感じられないのは、第二の女を演じるmikoの金髪のヅラを本気にみれないのと同列。脇の男優陣のコミカルさに救われていますが、煩雑な物語はいかにもオムニバスの一編を観る鬱陶しさを与えます。

浮き世離れした透明感をもつのはら歩の裸体は、どれだけ濡れそぼり露わになってもどこか聖なるものを感じさせるのに対し、同じように形の整った美乳をもつmikoの肢体は現実的で、即物的な生々しさが匂いたち、いわば下世話なエロス度はのはら歩より上で、分かりやすい整った顔立ちとも相まって、ストレートな劣情へと直結させる。
万人にとっての美人というのとは少し違う種類の美しさをもつのはら歩は、それだけにそれを美しいと感じさせたときには強く、肌にはりつくような性的触感を刺激する。

夢幻的な透明感も伴っていた『脱皮ワイフ』の序盤のmikoですが、結局、お互いの好みの体位のせめぎ合いという、下世話な夫婦の権力闘争劇を演じることによって、最終的には現実的肉体に留まったのでした。本田隆一×mikoという組み合わせは、常に地に足がついた女性を生むようです。反対に、元木隆史×のはら歩による『ピーカン夫婦』の絡みを思い出してみると、性交したまま屋内から徐々に高度を上げつつ空のみえる屋上に至るさまが示されたり、ラスト、どこともしれぬ緑あふれる夢幻的な場所での性交が描かれていたりして、どこか地上のものでない、重力的な磁場から離れ、浮遊する感覚が似合うヒロイン像の創造が、ふたりのクリエイターとしての化学反応の結果なのか、『Hunger』で新たにみせる女性の姿も、常に重力に逆らう方向にロープをとばし、吊られることによって重力からの解放を希求しているようにもみえる。

逆のベクトルにmikoとのはら歩は配置され、それぞれの監督/女優の資質の差異を、体現している。短いぶん、エロスとしとも映画としても少し物足りないけれども、4人の表現者の資質がみえて興味深かった。


theme : 日本映画
genre : 映画

『OH!ノーパンツガールズ』

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『OH!ノーパンツガールズ』


(2005年、日本、35分)

監督:舞原賢三
原案・脚本:森田剛行
出演:留奈、紗綾、ジェシカ、吉井怜


前項で触れた、7月公開『神の左手 悪魔の右手』に登場の紗綾、初演技はこの作品になります。今作、当初“モブ配信”用コンテンツとして制作されましたが、配信直前に無期限延期になった問題作(?)。DVDの発売により無事広く世間にひらかれることとなりましたが、それがよかったのかどうか‥。

2005年の中国の反日暴動の際、反日サイトの掲示板に貼られた彼女の画像と日中の友好を呼びかける一文が、反日活動を激減させ、日中摩擦緩和に一役かったという伝説級のエピソードと、〈Fカップ小学生〉という(非公認)異名を携えて、今年は一般メディアでも続々露出してきた〈U-15アイドルの最終兵器〉とでもいうべき紗綾(現在は中学生)。
年端がいかない少女が巨乳だと、概して顔のつくりが粗雑になりがちですが、清楚で端正なルックスを有するという、ある種の男性の非現実的な夢の具現化のようなバランスで、久々に大型新人的に遇されている存在です。
なにしろ、考えてみると、前項でいえばデビューしたての瀬戸朝香『湾岸バッド・ボーイ・ブルー』上映前の舞台上に僕が見ていたとき、彼女はまだ生まれていなかったという若さなのだから、縁遠いことこの上なく、紗綾の所属する“Sweet Kiss”という三人組ユニット(最近解散)もよく知りません。

『OH!ノーパンツガールズ』は、その“SweetKiss”の三人、紗綾、留奈ジェシカが主要キャラクターを演じる、ジャンル分けするとライトエッチ青春コメディ、という感じでしょうか。

話は無いに等しくて、ワクワクドキドキしたい!そんな時、スカートのなかをノーパン状態にしたらアラ不思議!すがすがしい開放感と心地よい緊張感にワクワクドキドキ!私も!私も!しかしそのパンツを教室に落としてしまい、スカートめくりの男子との戦いに!というような内容。お色気とお笑い担当はもっぱら留奈とジェシカで、スター紗綾は大切に保護されているためにすることもなく、困った顔を浮かべるのに終始し、見せ場が少ない。大事にされた結果、魅力がくすんでぼやけてプロモーションとしては逆効果な気が。。

『下妻物語』系の演出(CMやTVドラマあがりのディレクターが、映像素材の加工に凝る系)も頑張っていなくはないのですが、こんな短い作品なのに、ものすごい退屈なものになってしまっているのは、制作に関わっている誰も、この作品で描かれている〈気持ち〉に、本気じゃないからか‥。

結局、用途としては、熱心なファンが購入するものとしてか、もしくは、紗綾を気になっていて、動いて喋るところを見てみたいが、でもイメージビデオ/DVDを買ったりするのには激しく抵抗があるひとが(まあ、これは映画やVシネを観る一環だから‥)と比較的低いハードルで紗綾を謁見することの出来る入門編的なものとして、といったところに限られるのではないでしょうか。普通のひとが観て楽しめる部分は殆どないと思います。

貧乏クジをひくのは魔が差してレンタルしてしまった人だけでなく、主演の“Sweet Kiss”の面々も気の毒だ。齢幼くして「おぼえときな。女はなあ、心ひらくまでは股もひらかんのじゃ!」などという台詞を元気よく言わされる留奈、オムツみたいな無様な代物をはかされパンチラシーンに挑むジェシカ、ついでに今作のターゲット層にはおそらく関心を抱いてもらえないだろうに無駄に頑張ったシーンに挑んでいる吉井怜‥。

関わる者にことごとく損をさせるような気がするこの作品、近寄らないほうが賢明だとおもいます。個人的には、紗綾ほか、誰にもグッとこなかった自分に、正直すこし安心したというプラスがありましたが。。

theme : DVD
genre : 映画

『デスノート 前編』

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『デスノート 前編』

(2006年、日本、126分)

監督:金子修介
出演:藤原竜也、松山ケンイチ、瀬戸朝香、香椎由宇、戸田恵梨香、鹿賀丈史

死神の気まぐれによって人間界にもたらされた〈デスノート〉。そのノートに名前を書かれた相手は死に至る。偶然それを手にした天才学生“月(ライト)”は、法で裁ききれていない犯罪者たちを粛清してゆく。対するは、日本警察やFBIをも手駒とする天才探偵“L”。頭脳合戦は屍の山を築きつつ、ふたりは次第に接近してゆく。。


いわずとしれた大ベストセラーコミック、
大場つぐみ・小畑健の『DEATH NOTE』の映画化。

こういう、得なんだか損なんだか分からない仕事は、もちろん金子修介監督が担当!どうやっても必ず文句が出る、負け戦必至の、超有名人気原作にたいして、思いのほか善戦していると思いました。『ドラゴンヘッド』、『キャシャーン』、『デビルマン』、『キューティーハニー』など、軒並み惨憺たる出来映えの近年の漫画やアニメが元となった映画群を振り返ってみれば、例外的な善戦ぶりとさえ言えると思います。意外と評判のよかった『NANA』(05)だって、原作の半分も面白くはないでしょう。そう思うと、原作の面白さにかなりのところまで迫った映画版『デスノート』を、簡単に切り捨てるのは慎むべきでしょう(ここでいう“マンガ”は、娯楽性より作家性が優先される純文学的なものを除く)。

実は心底からは面白いと思ったことはない金子修介の映画は、良くも悪くもやぼったく、旧来の、垢抜けなくて客の入らない“邦画”の作り方&イメージから一歩も出ないきらいがある。特撮に、少女の美しい撮り方に、と、さまざまな部分にはそれぞれ力を注いでも、“クリエーターとしての邪悪なほどの怪物的エネルギー”みたいなものが足りなくて、どこか力及ばず、全体として俯瞰して統治出来ないまま、綻びが残る(今回でも、日本に潜入したFBIの捜査官が次々に倒れてゆくシーンなどを筆頭に、色々‥)。〈映画を撮るとき、人間であることをやめた〉というような非人間的な“映画作家”ではなくて、あくまで一般的な人間で、美少女(や少女マンガ)を愛してやまない、映画監督を職業にもつオジサンに過ぎないのだ。(ただ、オジサンは、その仕事に全力を尽くす努力はするタイプ。『ガメラ 大怪獣空中決戦』(95)でのブレイクも、その丁寧なロケハン等から生まれた、と思います。)

しかし、そんなこんなのなか、今回善戦するに至った要因(と僕が勝手に考えるもの)は、原作ファンも、原作を知らない人も楽しませようとすることを怠らなかったことがそのひとつに挙げられると思います。天才VS天才の、読者(観客)の一歩先ゆく先を読めないサスペンスが主軸となって物語を引っ張ってゆくところが、『デスノート』の大きな魅力。既に原作の物語を熟知しているファンには、原作をそのままトレースしてもその種の興奮を与えることは出来ない。そこで考えられたのが後半のオリジナルな展開だったのではないかと思います。

とりあえず『デスノート 前編』における、主な原作との差異を以下に列挙すると、

①・夜神月が高校生→大学生。
②・→月に特定の彼女がいる(映画版オリジナルキャラクター)。
③・街であった乱暴な男を殺す。単なる粗暴でゲスな男→不起訴になった犯罪者。
④・南空ナオミの行動が大部分違う。
⑤・弥海砂の登場のしかた。
⑥・美術館でのエピソード(映画版オリジナル)。
⑦・月とLとが接触する局面が異なる。

‥というようなかんじでしょうか。②のキャラクターの性格設定と③のエピソードの改変は、非人道的なゲーム性の強い原作から、社会正義とは何かといったテーマを抽出し強調することによって、ターゲットをより幅広く、カルトでなく普遍的な作品にする働きを示し、⑤は原作では唐突な印象のあるミサの登場を、バスに写真をプリントするなどして前編から全編に少しずつ登場させることによって、2部作トータルの、作品としてのバランスが考えられています。ミサの手元に第2のデスノートが出現するのと、月とLが邂逅するクライマックス(⑦)は、2部作の前半の幕切れとして綺麗に決まった(その時Lが手にしていたもの!これぞ映画の文法!という感じ)。
そして何より、原作ファンをも、現在進行形のサスペンスの緊張感に引きずり込む②→④→⑥のエピソードをクライマックスに持ってきたのは、〈このキャラクターのイメージがちがうー、ここをハショッてるー〉とかだけ言って観賞をおわりにさせまいという、制作陣の心意気を感じて、感服いたしました。

美少女の撮り方に定評がある、ということになっている金子監督ですが(じつはこの説、個人的にはあまり肯定できません。例えば『クロスファイア』矢田亜希子はたぶん矢田史上最高に輝いていない矢田亜希子だし、近年でよかったのは前田愛・亜季姉妹くらいではないでしょうか。金子監督にかかると女の子がドンヨリとくすむ気が‥。)、今回の香椎由宇は撃沈。顔が綺麗なことに油断したか、輝かせる新たな努力が見えない、“よくある香椎由宇”だった。残念。たった今ブレイクするところ、という状況が役柄と酷似しているミサ役の戸田恵梨香は、〈元気さ〉の種類が、キャラクターのイメージと方向性が違うような気がしますが、出番が少なく演出プランが見えないので後編まで保留。もう少女とは言いがたい瀬戸朝香は‥普通。横浜関内ホール、デビュー作『湾岸バッド・ボーイ・ブルー』(92)の上映前、富岡忠文監督とともに壇上にあがった瀬戸朝香をみてからもう十数年。淡く応援しつつここまで来ましたが、こういうキャリアを積んでこうゆう微妙なポジションにつこうとは‥。

で、結局、金子監督の美少女発掘マニアらしい仕事は、月の妹・粧裕役の満島ひかりの起用くらいでしょうか。Folder5HIKARIとしておなじみの彼女が、まるで新人アイドルみたいな新鮮さを有しているのは驚きで、AKINAの老いっぷりをおもうと感慨深いものがあります。金子修介監督は7月公開の『神の左手 悪魔の右手』では、あの紗綾(!)をも起用し、ますます熱い少女愛をたぎらせているようです。

→『デスノート後編 The Last Name』『神の左手 悪魔の右手』の記事はコチラ

theme : ☆映画版デスノート☆
genre : 映画

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