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春の連ドラ、夏の連ドラ

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春からの連ドラ群が、次々に最終回をむかえていますが、
今回みていたのは『アテンションプリーズ』、『医龍』、『クロサギ』、『ギャルサー』、『おいしいプロポーズ』。第一回だけみて挫折したのは『ブスの瞳に恋してる』『7人の女弁護士』。(『下北沢GLORY DAYS』をみなかったのは痛恨の失策。『2ndハウス』『恋する!?キャバ嬢』で痛い目にあったので敬遠してしまいました。)

どのドラマをみるか、選択の動機にはキャストの比重が大きいので、矢田亜希子、黒木瞳、中森明菜あたりが苦手な自分は『トップキャスター』『プリマダム』を回避。『富豪刑事デラックス』は前作がアレだったので。。『弁護士のくず』『医龍』とかぶってたので見れませんでした。

ドングリの背比べとも揶揄された今期のドラマ、だけどそれぞれそれなりに面白かった。
緩急なくハイテンションに突っ走る『医龍』が一番お気に入りで、ただしく(前期でいうと)『白夜行』の後継者(チャンネルは違いますが)。序盤でのタメが後半にカチッと決まるスタイルも格好よかったんですが、役者さんが皆輝いていました。名だたるメンバーのなか、水川あさみの〈映画女優〉っぷりが感動的。いい役者さんだ。目鼻立ち、佇まいに哀しみが宿る。岸部一徳は相変わらず何もしなくて凄い。『クロサギ』山崎努の過剰な演技とは正反対。『クロサギ』では山下智久堀北真希を支える筈の中堅やベテランの余計な演技が足を引っ張った感があった。

『おいしいプロポーズ』は、ハープの響きみたいな大袈裟な音楽とか、ハートのアイリスショットとか、毎回オカシクて笑いに笑う。『ギャルサー』も、これだけ徹底してリアリティがなければツッコミようもなく、ある意味立派。

なんでか特別ファンというわけでもないのに、上戸彩のドラマは毎回必見。今回の『アテンションプリーズ』でも、序盤、相変わらず感情移入しづらい反省心のない鈍感な人物像に、イラつきながら見続けていると、いつの間にかグッときてたりする自分がいることになります。最も涙あふれたのは訓練用の疑似コクピットを用い、上戸彩の先導で、かつてパイロットの夢やぶれた錦戸亮が機内アナウンスを行うシーンでした。

で、夏のドラマ群は、また一拍おいて勝負にきているものも、ちらほら。みるつもりなのは以下の番組です。

『サプリ』、『マイ☆ボス マイ☆ヒーロー』、『タイヨウのうた』、『ダンドリ。Dance☆Drill』、『下北サンデーズ』、『結婚できない男』、『怨み屋本舗』、『がきんちょ・リターン・キッズ』あたり。9割、キャストの好き嫌い。ジャニーズは好きだしSMAPも好きだけど、何故かSMAPのメンバーの出ているドラマはみたくない。今回はないけど。だから『HERO』『西遊記』もみてない。そもそも木村拓哉の出てるドラマなんて『その時、ハートは盗まれた』しかみたことない。 映画は好きなのもあるんですけどね、『シュート!』とか『大失恋。』とか。どっちも大森一樹だからか。でも真面目に、『大失恋。』はロバート・アルトマン『ザ・プレイヤー』『ショート・カッツ』よりずっといいと思ってます。
話がそれた。男優はジャニーズ以外なら映画畑ぽいひとを、応援がてら。北村一輝とか田中要次とか。(田中要次好きなら『HERO』(バーテン役)をみないということに矛盾が。)恥ずかしいので女優さんは具体名はあげませんが、目力があってカタくてクラいひとが好みです。

‥そういえば今日の『医龍』の最終回、15分延長なのを見落として、危うくラストのラストを録画し忘れるところだった!!Gコードで予約しても、通常放映枠ぶんしか録画してくれなかったりするから、Gコードもアテにならないです。

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theme : ドラマ感想
genre : テレビ・ラジオ

『D.T.』、性的人間、ともしび

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みうらじゅん・伊集院光『D.T.』(メディアファクトリー)

一般にマイナスイメージしかない〈童貞〉というもののもつ面白さ、マヌケさ、奥深さをポジティブにとらえようとする、半ば冗談半ば本気で〈童貞的なもの〉(=“D.T.”)の貴重さを、飲み屋の馬鹿話的にみうらじゅんと伊集院光という、サブカル寄りのふたりが対談形式で語りあうという本です。

各章の合間には小コラム的にオーケンやエンケンらの初体験話(ミニ対談)を掲載。
巻末には「童貞力」を測定できる(?)「童貞センター試験」つき。

童貞であること、あるいは長く童貞であった記憶は、鬱屈を生み出し、爆発的かつマヌケな妄想力を発揮させる。
そのアサッテの方向ぐあいは、常人(非・童貞的人間)には考えもつかない世界(観)を生む。

根源的な理屈はそのくらいで、あとは

〈伊集院「だいたい『終わったら素敵なトーク』みたいな、童貞のときに学んだベッドマナーをいまでも守ってるところがどうかしてますね」、みうら「童貞はとんでもないことも信じるからね。僕の友達で、32歳で結婚するまで童貞だった奴がいるんだけど、けっこういい歳になっても『女は右のおっぱいが感じるんだってね』って唐突に言うんだ。なかなか常人にはできない発想だよね(笑)」、伊集院「『女の人のアソコは穴が6つ開いてる』とか信じちゃう奴いましたもん」、みうら「僕はそのまんま信じてましたよ(笑)」〉

といった具合に、〈童貞的なるもの〉のスバラシサをダベるのですが、こうした赤瀬川原平『老人力』『優柔不断術』ラインの、“本読むまえから大体のビジョンと体裁は分かっちゃう”ようなたぐいの本は、概念以外の90%以上の無駄話をいかに快適に軽く読んでもらうか、にかかっています。まあ、サブカル本には多かれ少なかれある宿命でしょうか。

かつて、お笑い芸人で「爆裂Q」の一員、中村好夫氏がヤングジャンプに『性的人間』を連載していて、ついに第一巻が発売、というさいに、腰オビの推薦文だれに頼んでみようか、大槻ケンヂさんかカンニングの竹山さんに頼んでみてみようと思うんだけどどうだろう、という相談を中村氏がもちかけてきたと、ある知人からききました(結局、劇団ひとりに落ち着く)。『性的人間』の内容(童貞たちが妄想にかられて間抜けなしょーもない挙動を繰り広げるギャグマンガ)からして、大槻ケンヂも竹山さんも悪くないけど、それよりも、『D.T.』の著者たちこそがピッタリじゃないか!と思ったものでした。『性的人間』は、〈童貞力〉だけ、を描いていて、写真をトレースした汚らしいタッチは評判よくないが、童貞臭がページからムンとただよう不潔さあふれる絵柄で、それはそれでテーマとマッチしていたのではないでしょうか。それが面白いかどうかは、また別の話ですが。
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(前項の『ともしび』における、ヒロイン河井青葉の行動の逐一に〈童貞性〉が見られる。彼を高いところに置いておき、彼に対してはマッチョ的に接さない(相手の行動を制御、コントロール下におかない)やりくちや、キメキメに決めた予定を、相手に予想外の行動をとられると硬直してしまうところ、まさに“D.T.”。彼女が、童貞的原理に則ってストーカー行為を行うさまが間欠的/断絶的に描かれ(“童貞は性的ステップの発展においてのリズム感がない”と『D.T.』で言われていることと呼応している)、それを犯罪的だとして断罪するのではなく、ある種チャーミングなものとして捉えられているので、その点でも、童貞性を肯定する『D.T.』との親和性が高く、『ともしび』観賞のサブテキストとして『D.T.』を、というのがこの項の結論なのでした。)

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theme : 日記
genre : 本・雑誌

『ともしび』(04)と河井青葉

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そう多いわけでもなく映画の記事をアップするなか、たびたび名前をあげることになる、
女優の河井青葉さん。

その出演作、『ガールフレンド』『爆撃機の眼』『予感』『やわらかい生活』と多少なりとも言及してきて、ふと不思議な気がしてくるのは、主演が3本(『ガールフレンド』『ともしび』『爆撃機の眼』)もあって、美貌も備えながら、河井青葉のそのあまりの無名さ。

笑っても幸薄い唇と瞳に、華奢な肢体、透明感はあるが洗練されきっていない感じは、文学部の研究室にいる清楚系の助手といった案配で、いいなと密かに思っているが接点をもつのが困難に感じさせるような、どこか高嶺な佇まいがあります。
その消え入りそうな幸薄さが、(「実物見たけど別世界のものだアレ」というような、いわゆる芸能人オーラはなく、知人にいて「あの娘きれいねえ」とどこかのオバサンとかが言うかんじ)メジャーにならない原因のひとつかとも思いますが、作品の質に恵まれていなくもないのが救いとはいえ、最大の理由は、売れたいと思っているようにはとても見えない出演作の選択にあるのではないでしょうか。
根っからのマイナー体質なのかよっぽど映画好きなのか。DV撮りの低予算なラブコレクションや映画番長シリーズのような、よくて単館で2週間ひっそりと上映されるだけみたいな映画にいそいそと出演し(『ガールフレンド』『ともしび』)、ほぼ自主制作映画な、映画美学校の生徒の卒業制作のような『爆撃機の眼』に出る(上記『ともしび』も、映画美学校の“宿題”がもととなった卒業生作品だから似たようなものか)。しかも惜しげもなく脱ぎまくる。果たしてギャラとかほとんど発生してないんじゃないかという、なにか、自分の商品価値に徹底して無頓着なさまは、一時期の片岡礼子の状況(『ホーボーズ』(97)に出てた頃とか)に酷似していますね。
(周知の通り、日本映画史上最高の“無駄脱ぎ”を『北京原人』(97)で実践してその名が大して轟かなかった片岡礼子は、その後脳出血で倒れた(02)くらいですから、やはり何かにとり憑れていたのではないでしょうか。)

ということで、他の出演作にも触れたいと思いますが、当ブログでも注目した『ピーカン夫婦』の元木隆史監督のホラー『転生』(06)が公開されたばかりで、こちらにも出演されていますが、ここは主演作の『ともしび』を手短にみてみたいと思います。(『転生』についてはまた次の機会に。)




〈映画番長〉シリーズは、DV撮影で低予算、同一条件のもとでの競作、という、〈ラブコレクション〉と同じような企画。〈ワラ番長〉〈ホラー番長〉〈エロス番長〉とジャンル別にわかれて、それぞれ総合監修者がつく。『ともしび』は〈エロス番長〉の一編で、シリーズ監修者は“ピンク四天王”(死語)の瀬々敬久。

図書館に勤める大人しい女性(河井青葉)は、ある男性(遠藤雅)を一方的に懸想している。彼に近づくため、彼の住む賃貸マンションの上下左右の部屋の住人を悪質な手口で追い込み、引っ越して出ていかせる。彼女は彼の生活の極近くにいてつきまとい、観察し、存在を近くに感じるだけで幸せ。しかし一方的なストーカー行為は、やがて破綻をきたす。。

石井隆みたいな流麗なオープニングののちに、画面に登場するのはどアップの河井青葉。未来的で無機質な図書館のカウンターで淡々と業務をこなし、誰とも馴れあおうとしない孤高のひと。昼食も皆ととらずに離れた屋外でわざわざとる。休日にいったいなにをしているんだろうと思わせる、職場の無機的な建築も呼応するような、生活感やスキをみせない透明さが現前していて、ある種の人々を魅惑する。幻想を抱く余地をあたえるに甘んじているのだ。
その幻想を抱かせ、見守る者の気持ちを淡い憧憬に移行させる能力は、劇中のヒロインと女優・河井青葉とは同形の虚像をむすんでいます。
しかし彼女は他人にどうおもわれようと頓着しない。彼女の瞳にうつるのは懸想の相手・遠藤雅ただひとり。

カット割りは断絶的で、関連がとっさに判断しづらいような、時と場所を前触れなく飛躍するシーンに幾度もみまわれる。非説明的な映画の推移に、意味や心情ではなく、リズムをうつようにして行動する彼女をとにかく見つめつづけることになる。常人よりはやく、力強く、リズミカルに歩く河井青葉のカツ、カツ、カツという靴音は、やがて映画の基調リズムとなり、彼女とはテンポのちがう他の人物の足音や、図書館でスタンプをバンバン押す音、壁ごしに伝わってくる隣の生活音などが混在し、〈音楽〉となる。音楽に意味はない。意味を拒み無口な彼女は、徹底してハードボイルド。

休日には特になにもしていないと突き放して言った次のカットでは、他人の家の玄関扉に妙なかっこうで耳を押し当てている河井青葉の不気味さとイタさは、どこか愚直で、どこまでも真剣で生真面目な表情がユーモラスにうつる。オカシさは可愛げにつながる、その不毛かつ不能的魅力。非・意味的で反・感情移入的な振る舞いは、そのまま彼女の愛のかたちが一方通行であることを示し、カットの断絶感と共鳴しつつ、決して理解=相互に愛を確かめる関係になりようがないこと、断絶的関係しか築けないことを物語っています。
その証拠に、予定外に遠藤が行動を起こし、彼が彼女の部屋の扉をたたくという絶好のチャンスにも、体をかたくして、いつも通りの姿勢で、扉の向こうの彼の行動に耳をそばだてるだけだ。新たな深まりのステップなど考えられない、徹底して一方的な愛のかたち。そういうのもアリ、と映画は肯定する。彼に抱かれた蒼井そら(キスシーンが素晴らしかった!)を呼び止めて「抱きしめてもらえませんか?」と哀願し、抱きつく河井青葉の不毛な痛い切なさ、可愛さ。

この映画の物語内だけでなく、不毛なほうへ不毛なほうへと被虐的に自分をもっていくのが、河井青葉的なるもの。とり憑かれ、無駄脱ぎの性質を片岡礼子から引き継いだ河井青葉さんには、大病に気をつけてほしいものです。

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『ともしび』

(2004年、日本、79分)

監督・脚本:吉田良子
出演:河井青葉、遠藤雅、蒼井そら、佐々木ユメカ



関連記事○『爆撃機の眼』
      ○『やわらかい生活』①
      ○『やわらかい生活』②
      ○『D.T.』、『性的人間』、『ともしび』
      ○『ガールフレンド』に
      ○DRMの2007年(『セックスエリート』に言及)

theme : 邦画
genre : 映画

『やわらかい生活』(2)

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1.田口トモロヲ

映画館の薄暗闇で、寺島しのぶ演じる優子は隣席の男による痴漢行為に感じている。出会い系サイトで知り合ったkさん(田口トモロヲ)と、合意のうえでの痴漢行為だ。冒頭からすでに、言葉のみを介して開始された関係が、恋愛的筋道ぬきに性愛的関係性と直結するさまが提示されている。
実際、この映画全般とおして、寺島しのぶにはいわゆるスタンダードな異性との恋愛は存在しない。田口トモロヲとは援交的な契約関係であるし、妻夫木聡とは出会ったときからこの男とは寝ないなと感じる。松岡俊介はED、豊川悦司は従兄弟。すべて噛み合って、幸せ、なんてことにはならないのだ。

田口トモロヲの提案で寺島しのぶは蒲田に辿り着く。その理由は、痴漢といえば場末の映画館でしょ、ということで、ここでも、言葉を介して痴漢=場末=蒲田というイメージ連鎖が生じて、現実の肉体がそれを追走し再確認するように、寺島しのぶは住人として蒲田の地を踏むことになる。その際に、立ち位置がいつでも不安定な優子は、『Love KAMATA』というホームページを立ち上げ、コミュニケーションツールとして(じっさいに、それで安田(妻夫木聡)と出会うことになる)デジカメによる写真と文章によって、世界と繋がる。街を歩き、感じたことを言葉にし、みた風景をカメラにおさめて、ネットにアップする。見て、感じて、人に伝えて関わりをもつ、その遅効性が、コミュニケーション不全と希求を示す。見、感じている心と肉体は、いつも同時的関係から一歩ズレている。タイヤ公園の怪獣を優子が目にし、へえと感じ、安田に伝わり反応がかえってくるまで数日を要した。瞬間、瞬間にあるのは常に孤独。
街を徘徊する寺島しのぶの姿と蒲田の風景を切りとるのは、『ヴァイブレータ』『ガールフレンド』のDV撮影的な、対象と溶解してしまう密接した撮りかたとは異なり、いわば35ミリ的な、どっしりとして安定した引いた構図でとらえられる。愛撫のような描写でなく、観察するような描写によって、幾分は楽しげでもありつつも、孤独を、行き詰まりを抱えているさまが見つめられている。

田口トモロヲが演じることによって“ステキな男性”の座からは滑り落ちてしまったkさんだが、優子とはもっとも調和のとれた快適で安定した関係が持続している。レストランで食事をしながらの密やかな足による性戯、走行中の車のなかでのバイブによる悪戯。お互いに薄氷のようなウソと、赤裸々なホントの自分をさらして、それらを知り承知しつつも素知らぬ顔で微温的関係をもっている。そんな〈自分の醜さを恥じる必要〉もなく〈彼を愛する必要もな〉い関係に水をさす、快適なウソの人生に亀裂を入れるのは、k側でいえば親子ですごす姿を優子が目撃してしまうこと、そして優子側でいえば、優子のホントをよく知り、微温的に快適なウソの人生が通用しない従兄弟の祥一の車と、kさんの車がニアミスすることによって。隣に並ぶ車の運転席にいる豊川悦司に見つからないように顔を背ける寺島しのぶ、もうバイブどころじゃない。「どうしたの?」「ごめん、やめていい?」ウソの人生、幻想からさめて、それまで背景にうすく控えていた祥一=豊川悦司が優子=寺島しのぶの、そして映画自体のうちに大きく比重を占めはじめる。


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2.豊川悦司

優子=寺島しのぶは、躁鬱になった原因として、だれにも分かり易く共有し易く同情し易い偽りの過去をつくりだす。両親は阪神淡路大震災で、恋人は地下鉄サリン事件で、親友は9・11で失ったと。躁鬱病=親しい者の死=皆が共有する痛ましい大事件、と、言葉で回路を作って悲しみを共有し、理解を得るために。偽りの出来事で、偽りの悲しみ/理解に誘導することによって、刹那的な関係しか人々と結べないことが露わになる。そうしたのはいとこの祥一の存在だ。
彼は金もなく、地位もなく、若さもなく、ただ共有した巨大な記憶群とその動物的な優しさのみによって、ウソで固めてかろうじて世界をいきることを耐えている優子の防御を軽やかに、静かに越えてゆく。優子の部屋での立ち振る舞いも出色だ。緊張感なくいることのできるふたりが、お互いに気をつかわずにズケズケと領域を犯すことのなんともいえない緊張感。心安い者がいることに、どこか気後れする部分。

優子ちゃん、おじさんとおばさん、阪神大震災で死んだと言いよっと?
なんでそんな作り話ば?
俺のお袋、乳ガンで死んだばってん、乳ガンで死んだ人いっぱいおるけど、他人とは分かち合えんよ。俺は、俺の悲しみなんか他人にわかってたまるかと思う。だけん、他人の悲しみも、想像はできるばってん、分かるなんて言えん。

優子と祥一は生きてきた道も生き方もちがう。豊川悦司特有の、観念を生理に昇華させてしまう静かな優しい口調で、優子のわざわざ苦しい生き様に疑問をむける。しかし詰問はしない。それが生きやすいなら、それでもいい。みっともない今のままでもいいと、産湯のように、あたたかく許容される。

実は優子の初めての相手は、一度だけだったが、祥一だった。
そのとき、きこえていた歌が尾崎豊の『I LOVE YOU』だった。優子はそう思いこんでいる。だから久しぶりに再会した祥一の車に同乗して、スピーカから流れてくるその歌に、祥一につっかかる。わざとかけたの?好いとったやん。嫌いになったのよ。なんで。いいよ、分かんないなら。永年の、多くの共有する記憶をもつ、ウソなくホントウしかないはずのふたりに生じた記憶の行き違い。生きぬくために仕組まれた嘘の網目に、たったひとつ、無意識から生まれたホントウのウソが紛れ込んでいた。だから記憶違いの判明するカラオケ店のシーンは、圧巻だし、それだけでない、さまざまな感情が、そこでは、最終的にやさしく渦巻いていた。その狭い部屋での時間は、かけがえがなくて、愛しい。

『I LOVE YOU』はやだよ、と釘をさす優子。なんでいやなんか分かったよ。忘れてたんやろ。違うったい。何が?その疑問にこたえず、曲をいれる祥一。尾崎豊の『ダンスホール』が流れだす。ふたり、画面に流れるの歌詞のに見入り、祥一の歌声が響いている。この長回しシークエンスの後半、『ダンスホール』がまるまる流れる/歌われるなか、視線が移る、祥一が優子に目をむけること、優子が祥一を見ること、見ていないときも背中をむけつつ気持ちはみていること、やがて、あのときの歌はこの歌だったと気づくこと、それら全てが、台詞なしに、シンプルかつ複雑に描かれる。説明的でも映画的ルーティンでもないやりかたで、やわらかい、あたためられた空気の動きのようにほんわりと、人と人の関係が、変化するというよりは、やわらぐ。

そして、祥一は、嘘をひとつだけ残して、
優子のまえから消える。

気付けば、優子のまわりにはだれもいなくなっていた。そして、ラストのラスト、ひとつの優しい、しかし残酷な、小さな奇跡が。涙。



3.その他

妻夫木聡の台詞は、みんな、どうも浮いてきこえました。
正直痒かった。

『ガールフレンド』コンビの河井青葉と山田キヌヲが『予感』につづきまた登場!
このまま廣木隆一映画の顔になってほしいものです。
少しヤラしいナース姿の客引きを演じています。

theme : 映画紹介
genre : 映画

『やわらかい生活』(1)

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『やわらかい生活』
(2005年製作、2006年公開、日本、126分)

監督:廣木隆一
脚本:荒井晴彦
出演:寺島しのぶ、豊川悦司、妻夫木聡、松岡俊介、大森南朋、田口トモロヲ

キャリア街道をドロップアウトし、躁鬱に陥った優子(寺島しのぶ)。出会い系サイトで知り合った趣味のいい痴漢(田口トモロヲ)と落ち合った街・蒲田を気に入った彼女は、蒲田に引っ越してくる。痴漢のkさん、元同級生でEDの議員の本間(松岡俊介)、うつ病のヤクザ安田(妻夫木聡)、いとこの祥一(豊川悦司)との関わりのなか、こころのありようが移ろってゆく。。


1.

傑作『ヴァイブレータ』から3年。監督・廣木隆一/脚本・荒井晴彦/主演・寺島しのぶ、のトリオ再び!!(正確には、プロデューサー・森重晃、撮影・鈴木一博、録音・深田晃のほか、キャストも幾人かの重複あり)ということで、『ヴァイブレータ』の夢(?)よふたたび、という狙いととらえられそうなところですが、実際、廣木隆一×荒井晴彦という組み合わせは、『ヴァイブレータ』の製作スタッフ発表時から、その手があったか!!と大変刺激的だったし、結果出来上がったものも素晴らしいものでした。よって、また廣木×荒井の仕事がみてみたいというのが映画を観たり作ったりするひとの当然の気持ちで、『ヴァイブレータ』の主演として寺島しのぶが決まったのも企画の流産スレスレの、最後の最後だったように、今回も最初から寺島しのぶありきの企画ではありませんでした。某女優が、女性を輝かせる演出手腕に定評のある廣木隆一にラブコールを送ったのが出発点で、そこから森重晃/廣木隆一/荒井晴彦でやるという企画が浮上する。まず大道珠貴『しょっぱいドライブ』が候補にあがるも、その“今なにかと話題の女優さん”は難色を示す。そこで
糸(←また字が出ない)山秋子『イッツ・オンリー・トーク』。これはオーケーということで企画が進行するが、シナリオにその女優が納得いかず、直前でオリてしまう。慌てて有名女優2名にあたるも断られ、『ヴァイブレータ』同様、またも流産しかけたところ、

荒井晴彦「寺島しのぶからケータイにメールが来て、「感動しました。私やりたい」って(略)それで「頼むよ、寺島しかいないよ、俺のシナリオ分かるの」って打ち返して。それで夏の話だったんだけど、彼女のスケジュールで11月に撮ろうということに。」(『シナリオ』7月号)

ですから、また廣木/荒井/寺島のトリオありきで、今度はまた違った“寺島しのぶ”をやろう、という狙いは当初なかった、ということは知っておくべきことで、また、寺島しのぶが〈原作に惚れ込み、難役に挑んだ〉というパンフレットの文章も、ある場での寺島しのぶの発言〈『ヴァイブレータ』のパーティーがあって、その席で私はこの映画のことを初めて知ったんです。それで荒井(晴彦)さんにホン(=脚本)を読ませて下さいと言って、読んでみて是非やりたいと思ったんです。〉からすると誤りで、寺島しのぶは荒井脚本を読んで出演を決めた。尚、『イッツ・オンリー・トーク』という題を使えなかったのは、原作を改変しすぎたからだという。


2.

『ヴァイブレータ』は一点突破的、ゲリラ的に、廣木隆一と荒井晴彦の長所の先端だけを武器に、男女の性愛表現を突き抜けることが出来た幸運な映画だったが、新作『やわらかい生活』は一見それとは何もかもがちがう。

男女一対一の単線的な関係/時間を追った前者は、赤坂真理の原作をほとんど忠実にシナリオ化したものでしたが、断片的でとっちらかった今回の原作は、シナリオ化の過程で大幅にいじられた。結果、原作ではファンに人気があるという(文庫版解説による)痴漢kは脇に甘んじ、豊川悦司演じるイトコの祥一が主軸となり寺島しのぶと関わっていくことになります。主軸とするため膨らんだキャラクターは、トリックのためだけに頭の弱い男だった原作の祥一とは異なり、『ヴァイブレータ』の大森南朋のように、動物的に女に我慢強く優しく出来る魅力をもった男となった。祥一が金魚をもって帰ってきて、うどんとそばと名付けてふたりで話す場面は原作どおりだが、廣木隆一の要望で書き足されたというシーンは、実は縁日でとったというのは嘘だった、と判明する金魚屋の場面。『ヴァイブレータ』のラスト間際に、今まで言っていたことが嘘だと話をひっくり返すシーンと同じく、原作にはない〈嘘〉の導入。荒井晴彦がとりつかれているのは、今、しゃべっているその現実のみが現実であって、現実には回想シーンなどないのだから、なにが嘘かほんとうかなど分からず、た
だ、しゃべっている相手の言葉を受け止めるだけだ。お互いに、それだけが現実。であれば、嘘の人生や経験もほんとうの人生で、〈みんな、ウソの人生が別個にあって、そちらと本当の人生を行ったり来たりしながら、辛うじて生きてるんじゃないか〉。原作にはない、荒井晴彦のシソウ。寺島しのぶと、ネットで知り合う主要人物が二人もいて、そういう相手と互いに自分のことを話す場合、自分はどこまで本当のことを言うのか、相手はどこまで本当のことを言っているのか、知る由もないある種極端な状況だけに、その話での“ほんとう”は恣意的に選択され、濃度を変える。そうして生きやすく生きるのと、その対極にある、幼少のころから互いに知り尽くしているイトコ同士の関係の、“ほんとう”の濃度、そして小さなウソ。その感情の対比の濃淡の肌理。生きにくい、繊細な、大人の、映画。

日活ロマンポルノからキャリアをスタートさせ、『ヴァイブレータ』に限らず、男女の性の表現を探究しつづけてきた荒井晴彦(廣木隆一もピンク出身、現在も幾多の映画で独自のエロス表現を追究している)には珍しく、ベッドシーン無しの脚本で、女性の孤独と性を、言葉の交歓によって(言葉こそが、ほんとうとウソをつくりだし、孤独をつくりだし、愛をつくりだす。『ヴァイブレータ』の女は自分の内なる声に支配され、交歓は言葉なき性交でしか生きれなかったが、『やわらかい生活』の女は、対外戦略として言葉を用いて防御し、そのエコーを観測することによって愛すべき他者としての自分を異性のまえに現出させる。だからラストの銭湯のエコーも上滑りせず、心に沁みるのだとおもう)表現しています。ここでも、全編ベッドシーンのような『ヴァイブレータ』とは好対照。一対一の、濃密な粘液のような手触りをもった『ヴァイブレータ』と、一対多、蒲田という街と、様々な種類の人々と関係するヒロインは、特定の人/事物に我を忘れて没入することは出来ずに、ながく後ろにつづく人生を苦しみつつ生きてゆく。刹那的になりきれない人間の“ほんとう”を描い
た映画。


3.

蒲田は思い出深い街。僕が初めて社会人になって、はじめて赴任した街。都会でも地方都市でも田舎でもない、便利で、不便な寂れた街。登場人物はそれを〈“粋”がない下町。どこか懐かしくて、夢であるいたことがあるみたいにしっくりきた〉と表現する。

偶然の出逢いのように蒲田に住居をかまえることになった寺島しのぶ。当面の金はある。デジカメ片手に街をうろつき、風景を切り取ってゆく。何かの象徴としての〈街〉ではなく、生のままの蒲田、息づく街のざわめきが優しい陽光とともに捉えられる。遠くから聞こえてくる様々な音。通り過ぎる電車の音。『やわらかい生活』での“音”は、すごくいい。布団カバーのゴワゴワ擦れる音。簡易ベッドに空気の入れたり出したりする音。屋根付き商店街での声や足音の聞こえかた。部屋の窓の外から聞こえてくる街の音。物語/心理の説明のみに還元されてしまわない、ひろがりのある豊かな音。

街を歩く、柵のむこうを列車がすれ違う。何度か出てくる横移動のシーン、廣木隆一の得意技。画面が活気づく。キラキラ躍動していて、光が降り注いでいて、風が冷たい。悩み苦しみの合間にある、何でもない、微かにいい瞬間。廣木隆一『MIDORI』(96)での、高校生の男女がふたりで向かい合って橋を渡る印象的な横移動のシーン、心の痛いふたりが、つかの間、終わると分かっている時間を一緒にいる切なさ。
皆がまわりからいなくなり、またひとりの生活に戻った優子、『やわらかい生活』のラスト、彼女に故郷から電話があり、ある事実が告げられる。このシーンは幾つかの横移動とは対照的な、〈縦一のいいロングショットで〉、じわりと鈍く認識されてゆくある悲しみを優子に認識させる、印象的なシーン。

最も好きな、いいとおもうシーンは、寺島しのぶと豊川悦司がふたりでカラオケをする場面。引いた位置に据えっぱなしのキャメラが、一秒一秒、かすかに変化してゆく、ひとりひとりの感情と、ふたりのあいだの感情が、視線の動き、しぐさ、声のトーンとしてとらえられていて、スリリングで、感動的。

観るひとそれぞれの、これまで生きてきて、そして今生きてきいる、その経験や環境によって、感じ入ったり不快に思ったり、美しく思ったり感情移入したり、あるいはまた、たんに、躁鬱病の女の話かとかガードのユルい女の話かとしか把握出来なかったりするひともいたりで、反応や感想は様々に生じると思います。

しかし、真っすぐ正面から真正直に生きられて、嘘偽りなくただ楽しく幸せな“大人”など、よっぽどの馬鹿でない限りいないのだから、
“ほんとう”だけでは生きづらく、生きられず、初めて好きになった異性とだけ永遠に愛し愛されるというファンタジーは遠く消え去り、最愛/永遠でない相手とでも、ぬくもりによってしか癒されない痛みを抱えている多くの人間にとって、普遍的な映画。


(つづく)

theme : 邦画
genre : 映画

『初恋』(06)

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『初恋』

(2006年、日本、114分)

監督:塙幸成
出演:宮崎あおい、小出恵介、宮崎将、小嶺麗奈、柄本佑

60年代後半。学園紛争。ジャズ。居場所のない孤独な少女が、兄のつてを頼り、とあるジャズバーに辿り着く。そこで出逢ったひとりの青年。国家の有りようが揺らいでいた時代。青年は理不尽な時代の流れに抗うように、国に一矢報いる計画を静かにあたためていた。。

三億円事件の真相(?)を題材とした、映画と同題の原作は、主人公と同名の作者がプロフィールを公表しないということによって、あたかも本当の実行犯がノンフィクション的に書いた小説(?)なのではないかと思わせるフックで、話題作/ヒット作となり、今回の映画化は宮崎あおい主演、ポスターのメインビジュアルは彼女の裸体的なアップ。“初恋”というタイトル。ひとをオッと思わせる、素晴らしい企画。まだ公開してないの?と思うころに公開される、適度な宣伝期間。それだけでもう及第点。

及第点、という熱のない言い方をしたのは結果出来上がった映画は微妙だとおもったからで、最終的な結論を先に言えば全般的に駄目でいいところが少し、嫌いとか憎いという感情はありません。という印象で、(悪口なら読みたくない、という方はこのへんで‥)以下、どう最終的にダメと思うのかを言います。

序盤、モノローグのなか、予告でも流れていた白バイ警官がヘルメットをとると長い黒髪がながれおちる印象的なシーン、タイミングとスピードが微妙に悪くて鮮烈さがない。嫌な予感がする。

まず、ひとつのキモとなる、三億円事件とその時代の描写ですが、登場する若者たちのカッコつけかた・しゃべり方が、今のカッコつけかた・今のしゃべり方で、ジャズバーも小綺麗でオシャレな喫茶店みたいで、空気も澄んで空調良さそう、当時の危険な悪い場所感が感じられない。そんなにオドオドして来るほどの場所に見えない。『嫌われ松子の一生』でも気になったが、ニュース映像やラジオのアナウンスで当時の重大ニュースを流して時代を知らしめる安易な手法は引っかかる。『Aサインデイズ』とかのやりかたもあるのに。いちいち通りがかりの〈一般大衆〉がさりげなくなく社会状況の説明台詞を口にする。未成年と踏んだ宮崎あおいを補導しようと追う警官ふたりが、あっちだ!追え!こっちへ回りこむ!といったふうな大時代的な説明台詞を吐く(ヒールのあるブーツで走る女の子に追いつけない警官たちって‥)のに代表されるように、観客の観賞能力を低く見積もった“説明”ばかりで描写がない。世の中にルサンチマンを抱いているらしい小出恵介も、〈頭で勝負する〉と言っているが頭が良いと思わせる描写はなく、ベストセラー『嘔吐』を手に持たせて〈東大
生〉というレッテル貼るだけでは描写とは言えない。(三億円強奪計画も杜撰なものだから、本人がそう言っているだけ、という意地悪な描写なのかもしれませんが。)

描写でなく、説明。
それがこの映画の巨大な特徴だと思います。

端的に、具体的な例があります。小出恵介が行方をくらましたあと、彼ののこしたアパートの部屋に宮崎あおいが訪れるシーンがある。

部屋に入る宮崎あおい。見回す。やはり彼はいない。部屋のすみの小机に突っ伏す。どこ行っちゃったんだろう‥。ふと半開きの押入れの前に落ちている彼の愛煙していた銘柄のタバコをみつける。半開きの押入れに目を向けるとデカいダンボール箱に三億円。

このシーン、観るとわかりますが、押入れの半端な開きかたの死角の出来ぐあい、ちょっと前に落ちている幾分中身の減っているタバコのパッケージの存在は、ガランとした部屋のなか、思いっきりアヤシくて、もしこの部屋に誰かいるなら間違いなくそこにいると思えるような唯一無二のチェック・ポイント。そこを何ら目にとめず、いないと諦め、ふとそれらを見つける不自然さが何を示しているかといえば、入室→不在の確認→途方にくれる→金をみつける、という話の流れの説明が順序として決まっているということで、〈切ない〉はずの彼女の感情/心理は無視され、物語展開の都合上、単に、〈切ない〉という感情/心理の〈説明〉をしているということが判明してくる。

ここから、もうひとつのキモである、〈初恋〉が、
説明としてしか描かれないということが導かれてゆく。

出逢いのシーン。カリスマ的魅力を発散する兄を頼ってジャズバーBにやってきた宮崎あおい。怪しいはしゃぎ方で彼女を迎え入れる面々。小出恵介は、少し離れて座っていて、〈寡黙に、知的で、大人で、孤独で、他の人達と一味ちがう〉点を前述の本などで示してゆき、それらに宮崎あおいが惹かれるという設定になっているようなのですが、惹かれる、あるいは惹かれあっていると納得させうる描写はなく、〈孤独〉であったり〈居場所がない〉ことであったりといった要素的設定が説明されてゆくのみだ。たとえば、男女の出逢いのシーン、最近の例でいえば、『るにん』においての出逢いは以下のよう、船着き場に舟が着く。高台の上からじっと見下ろす女。船からおり、あたりを見渡す男。互いに、大勢のなかのひとり。女が見る。男が女に目をむけ、見つめる。この単純なカットバックで、初対面の男女が惹かれあうさまが、見事に描かれる。『初恋』にはそれがない。だからラストの小出恵介の気持ちの種明かしも唐突な感じが否めない、一応〈秘めていた〉という設定なのでしょうが、画面には、秘めていた感情も、ふたりの間に流れる感情の関係性も見あたらなかった。
そもそも、(そして、これが、最大の欠点ですが)、複数の登場人物が画面上にいるときに、人と人との、互いのあいだに空気のように目に見えない関係性が生じていない。それを言葉で証明するのは難しいのですが、役者たちはそれぞれの設定に従ってそれなりの演技をしているだけで、そばにいる人とは関係なく物語と説明が消化されつづけてゆく。兄がすこし離れた場所にいるときの妹。気の合う仲間がそばにいるときの男と男。感情が波立っていない。『THE有頂天ホテル』にさえ、それはあった、のに。映画畑の監督とはおもえない所業。残念だ。ただヒットはしてほしいと思う。

(良かった点をいうのわすれてた。美術。彼がいなくなったあと、日当たりのよい道を宮崎あおいが画面右から左に歩いてゆき、しゃがみ込む場面。小嶺麗奈の硬い喋り方。)

theme : 映画感想
genre : 映画

『kamipro』100号

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21日に発売された
『kamipro』(紙のプロレス)の記念すべき100号目。

〈MMA&PRO-WRESTLING MAGAZINE〉というよりは、“DSEの機関誌”と揶揄されるようになりつつも飛ぶ鳥をおとす勢いだった昨今。めでたい100号で、ますます‥という筈だったのが、ここへきて6月5日の「フジテレビ『PRIDE』放映中止」事件で一転、DSEもろとも『紙プロ』暗雲がたちこめました。

100号記念のビッグサプライズとして、9年ぶり(!)の新日本プロレス取材拒否解禁!が事件よりさきに用意され(で、初登場となったのが永田と天山。かっこうのネタですね!)ていたのでしたが、このタイミングでの新日解禁は間が良すぎて美しくキマらなかった。DSEや紙プロにとって青天の霹靂だった事件より前の5月に取材がなされているのだから、紙プロとしたら新日取材解禁とDSEの危機は無関係なのですが、漠然と横目で『紙プロ』を見やっているひとからしたら「ああ、DSEアブナイから新日本にすり寄ってんのかな、醜いな」と思われかねないのかもしれません。

ここ数号、そもそも〈雑誌という形態のジャンルの存在意義〉が特集で重く問われていたりしたのが、早くも我が身に降りかかってきた、のか。菊地成孔氏が、今回の件で〈DSEとの距離感がハッキリ問われるよね。つまり“左翼的な機関誌”として立ち位置や自立性を保つのか?『聖教新聞』化して共倒れになるのか?マスコミとしてはどういう論調をとるのか〉と問うている事柄も含めて、紙媒体の難しさと面白さが緊張感もって見えて、ハラハラしつつも〈ワクワクして〉もいます。

theme : 雑誌(既刊~新創刊)
genre : 本・雑誌

『コスプレの人』フルモーション⑧

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『コスプレの人』

(2006年、日本、65分)

監督:有馬顕
出演:斎藤歩、宝月ひかる、吉岡睦雄、酒井ちなみ、諏訪太朗

食品会社で働く夫は、食玩ではない次の展開、つまみ系駄菓子の開発に取り組んでいる。妻は色々な職業の夫を体験したくて、夫にコスプレを強要する。エスカレートする妻の要望に、不満を溜め込んでいた夫は逆襲し、妻にもコスプレを行うよう要求する‥。

フルモーション第8弾は、前作に引き続き有馬顕が監督。『ニップルズ』同様、こちらも“達者”で“洒落た”テイストの演出になっています。

横に長くテーブルについた食品会社の面々が、イカについて妙に熱く論議をかわし、演説をかますファーストシーンから、コミカル感がただよう。『ニップルズ』での乳首論議と同じく、製作・脚本の永森裕二が有馬顕の長所をココだと見定めた采配なのか、些細で情けない事柄についてこだわる者の可笑しさを快調なリズムで描いて確たるスタイルあり。山下敦弘あたりのセコいスタイリッシュさとはまた違ったスタイリッシュさで、あっちがアメリカン・ニューシネマ系のあんまり勉強していない感じの野暮ったさをもっているとしたら、こちらはヨーロッパの、厳かなローファイ感をもつインディーズ映画、とでもいうか、とにかく堂々たる作風をはやくも確立しています。

さて、ディスカッションのあと、主人公の幸吉と副社長のふたりだけ会議室に残る。下級職位の提案を頑として受け入れない幸吉に対し、副社長がやんわりと言う。副社長「たまには、認めてあげるってことも大事よ。み~んな認められたいんだから」幸吉「認めてますって」。フルモーションレーベルをこれまで観てきたひとは、この台詞が全編に通底するテーマだとすぐに察するはず。〈一般的な男女の関係〉とはこうあるべきだという枠にはめず、たとえ特殊な性向があろうとも、それがそのひとであるなら、「認めて」、「受け入れ」ること。

で、今作の「受け入れ」がたいこととは、
〈今の自分と違う自分になること〉=〈コスプレ〉。
ただし、それを相手に強要すること(コスプレを相手にさせること)。

夜の残業、帰り際、むっちりとした、小さい目の鋭い同僚の女性、視線の交差、性欲が点滅する。

間欠的な点滅感。劇伴音楽もそれを煽る。自宅の全景のショット。橋の上のショット。夫・幸吉(斎藤歩)は食品会社からの帰宅途中、公衆トイレで、それまでの人生と断続した人柄/職業に切り替わる。その断続がまた点滅的。パイロット・スーツに着替えた夫が玄関に立つ、「おかえりなさい」「ただいま」。

まだ若く幼くして結婚した妻・宝月ひかるは、あったかもしれないいろいろな未来、いろいろな可能性のあった結婚を、様々な職業の夫との生を、夢見ている。週一回の(夫のみの)コスプレ・デーは、そのまま夫婦の性生活のすべてである。パイロットを演じる夫の話にきらきらと瞳を輝かせて聞き入る妻を、パイロットとして喋りながら抱く夫。このような状況は即ち現・夫の存在の否定であるから、もちろん夫は不満を募らせている。ある時、演技の途中で「さぶ‥」と呟くことによって破綻させ、譲歩条件として妻にもコスプレをさせるという提案を行う夫。かくして、互いの、ある意味“性の不一致”を解消するべくふたりで模索する。シスター×ターザン、メイド×医者‥。反省会を重ねるふたりは(こういうくだりは相変わらず好調、結婚相手のシミュレーションの筈なのにレースクイーンの格好をさせるのは、単にエロい格好させたいだけじゃん、という妻の反論などを経て)、完成度を追求してあさっての方向へいってしまうことに、凝りに凝った〈選挙戦をたたかう候補とその妻〉を演じて気づく。
袋小路に入り込み、いっそ、なんになりたいか、なんになりたかったかにしてみるという提案が妻からでて、やってみることになる。

ロックスター。

ノッてる夫とは対照的に、家中をあさり、何も見つけられず、何も自分にはなりたいものがなかったことに気づく宝月ひかる、その涙。

ふたりの和解は、宝月ひかるが〈しがない駄菓子会社の社員〉である斎藤歩の妻である〈現実〉と向き合えるようになることでなされるでしょう。そのクライマックスの一連のシーンの最期に発される、宝月ひかるの「しよ、駄菓子屋さん。」という台詞は、予想可能な予定調和ながら、キレイに決まって心地良い。

だが、キレイすぎるのもどうかという疑問が残るのも確か。
例えば、〈性の不一致期〉の絡みのシーンは構図主義的な引いたキャメラポジションからさめたように切りとられているのに対し、和解のセックスはふたりの感情の融合を象徴するようにキャメラは密接して撮られている。その明白な図式性は余白がなくて、そっけなく、〈性愛〉というエモーショナルなものの表現としては熱量が足りないのではないか、と思う。有り体に言って、一番のキモである、宝月ひかるの性交場面に著しくエロティックさが欠乏しているのは、〈性の不一致〉の過程が描かれているからだけだとは言い難く、著名なAV女優であり、タイプ的には“可愛い”かんじの宝月ひかるの、可愛いらしさの魅力をほとんど描出できていないのは致命的な短所だと思う。

ほかに絡み要員で登場する、風俗店の女性、会社の同僚である浮気相手、ともに豊満・切れ長・淫乱系でエロをちゃんと発散しているのをみると、有馬監督にとって、ただ宝月ひかるみたいなタイプはそそらないから演出に熱が入らなかったのではないかと思えてしまう。


しかし、商品としての最大の欠陥は、

コスプレ、
宝月ひかる、

というカードを揃えながら、コスプレするのはもっぱら夫で、妻・宝月ひかるのコスプレシーンはいたって淡白にしか扱われてない、という点ではないでしょうか。


前作から引き続き登場は〈着エロアイドル〉のダンナ・吉岡睦雄。
コスプレ・ロッカー=斎藤歩の会社の同僚として、
相変わらず情けない男を好演しています。

駄菓子の達人(?)役に、個人的には“黒沢清映画の顔”としてビッグネームという認識の諏訪太朗が。うれしい。


→フルモーション第9弾『アイノシルシ A lovemark』につづく。コチラ

theme : 日本映画
genre : 映画

『RENT/レント』

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『RENT/レント』

(2005年、アメリカ、135分)

監督:クリス・コロンバス
台本・作詞・作曲:ジョナサン・ラーソン
出演:ロザリオ・ドーソン、テイ・ディグス、ウィルソン・ジェレマイン・ヘレディア、ジェシー・L・マーティン、イディア・メンゼル、アダム・パスカル、アンソニー・ラップ、トレイシー・トムス

映画ファンには、キング・ヴィターやルイジ・コメンチーニによる映画化、近年ではアキ・カウリスマキの『ラヴィ・ド・ボエーム』が記憶に新しい(?)、アンリ・ミュルジェール『ボヘミアン生活の情景』を原典にもつ、プッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』。この『ラ・ボエーム』を下敷きに、1990年前後の社会問題(エイズの蔓延)及びジョナサン・ラーソン自身が経験した〈成功を夢見てイースト・ヴィレッジで暮らしていた〉当時の〈さまざまな出会いと別れ〉を背景として、創出されたミュージカル『RENT』。

96年の初演直前にラーソンが急死したことも手伝って、『RENT』は伝説的な作品と化し、絶大な支持のもとロングランを続け、この映画版の日本公開をうけてか、今秋、3度目の来日公演も決まっています。

『サウスパーク』でおなじみトレイ・パーカー&マット・ストーンの凶悪人形劇映画『チーム☆アメリカ ワールドポリス』(04)でも、主人公・舞台のスターであるゲイリーが「エイズエイズエイズエイズ‥」と明らかに『RENT』をネタに歌い上げる。これは、トレイ&マットが無差別攻撃の対象とするほど、〈ミュージカル=RENT〉という堂々たるメジャー感を、あちらの国で獲得していることの証でもあるのでしょう。

今回、映画版がつくられるにあたって、ブロードウェイ初演メンバーを出来うる限り揃えたというキャスティングの意図は、このミュージカルの制作~発表当時(89年~96年ごろ)には、エイズという社会問題を筆頭とした、モデルニテとしてあった題材、物語や楽曲が、時代の流れとともにやがて風化し、空転し、『RENT』というモノが有していた熱が失われつつあるのを感じた今回の映画製作者たちが、あの時、あの時代の『RENT』にはあった“今を生きる”作品としての〈熱〉を刻み込み、永遠のものとして封じ込めるために集結せしめた、はじめから思い出の、追想のような作品として、ノスタルジックにスタートせざるをえなかったことを物語っているのではないでしょうか。だから、映画『RENT/レント』に偏在している〈かなしみ〉は、たとえば、皆に愛されているエンジェルが病み衰えて死ぬからかなしみが全編に充満しているのでなくて、はじめから運命づけられた、ノスタルジックなメランコリーが基調となっているからなのでしょう。

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主要キャストが、薄暗いガランとしたステージに並び、ひとりひとり、小さくスポットを浴びて、「Seasons of Love」を歌い上げる。ある時代、ある場所を舞台とした、〈物語〉のある〈映画〉であることとは無縁な、純粋に、様々な歌声と、歌詞だけが響いてきて、単純な力として、感情が揺さぶられる。有無を言わせない力強さ。クリス・コロンバスなんて信用ならない、とか思っていた邪念は吹き飛んでいました。

しかし、個人的には、最大の感動シーンはこの冒頭の部分で、あとはゆるやかに平静な精神状態に近づいていきました。

主要な登場人物たちは、理由はどうあれ、他人の所有する建物を感謝の気持ちもなく占拠したり、幾度か理想だけでは生きられない厳しい現実に突き当たっても、悩んだすえに出てくる答えはいつも「自分の好きなようにやる」、といった具合に、破滅的というよりは、ただ単に幼稚な世界観から甘ったれているだけで、一年の月日が流れたり大切な友を失ったりしても成長というものがない。
元々の物語がそうなのだから、映画を作った人たちに罪はないんですが、困難に立ち向かい何事かが変容する、というドラマが生まれず、ある時代の淡白なスケッチに終始してしまっているという物語の構造が、もうひとつ、足りない感じで、最終的には感動しそこなった、冒頭でノッて感動するきまんまんだったのに。去年の家賃も今年の家賃も、来年の家賃も払わん、なんて偉そうに言うな、来年はきっとブレイクするからそのときに10倍にしてかえすとか言えないのか。血のつながってない他人のスネかじることに最後まで引け目を感じていない登場人物たちに、ひく。感情移入させる作劇なのに、そう出来なかった。

theme : 映画
genre : 映画

高円寺へ

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今日からは高円寺。

高円寺といえば、ねじめ正一の純情商店街、宮戸優光やビル・ロビンソンのUWFスネークピットジャパンくらいしか思いつかない。あまり興味があるとは言えない街。

土日は中央線が停まらないのが、初日から頭に来る。

最後に来たのは、2004年10月。
1年と8ヵ月ぶりの降車。改札でると前はなかったBECK’S COFFEEやリトルマーメイドが出来ていて、
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安めのお茶がしやすくなっている。
駅をでて駅舎を振り返ってみると上に伸びていて工事中。駅ビルというよりはステーション・ホテルが来春完成する予定らしい。
純情商店街よりはずれた通りを進むと、まえは小汚かったのに、綺麗に改装された飲み屋。新しく出現したampm。この奥、オリンピックのむこうにあったスリーエフはさぞ打撃をうけたろうなー、たしか店長が人当たりのいいおじさんだったから気の毒。

theme : 日記
genre : 日記

さようなら新宿

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数日前、突然の異動指令が出た。

新宿の今の店とは、今日、16日でお別れ。

17日からは

総武線の高円寺にある、異ブランドの系列店へ。

さようなら新宿!!

theme : 今日の出来事
genre : 日記

『プロデューサーズ』(2005)

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『プロデューサーズ』

(2005年、アメリカ、134分)

監督:スーザン・ストローマン
製作・脚本・音楽・出演:メル・ブルックス
出演:マシュー・ブロデリック、ネイサン・レイン、ユマ・サーマン、ウィル・フェレル

メル・ブルックスの映画(68)がブロードウェイ・ミュージカル化され、それをまた映画化されたもの。ゲイの演出家にナチス賛美の脚本を託し、大コケによって大儲けを企むプロデューサー、というブラック・コメディ・ミュージカル。

日本公開が、『RENT/レント』(05)とほぼ同時だったこともあり、どっちがいいかと比較対象になりましたが、少なくとも自分および自分の周囲では『RENT/レント』の圧勝ムード。劇場でも、ひとりの観客以外クスリとも笑っていなくて、多国籍文化の異文化間の差異により生ずるブラックな笑いや、ゲイ文化、業界ネタなどが日本人にはピンとこないのかも、と好意的に擁護しようにも、間が悪くて面白くもなんともない。舞台版からの続投というネイサン・レインとマシュー・ブロデリックという主役コンビの演技が特に面白くなくて、観ているうちに、なんとか面白いところはないかと貪欲に探し続けることになる。
どこがどうツマラナイのかと訊かれると困るのですが、頭では、(ああ、ここ、今笑いどころなんだろうな)(ここ、カタルシスを感じるどころなんだろうな)と思うものの、シチュエーションの面白さに安心しきって、演技は主役コンビに任せっぱなし、なのではないでしょうか、なんの工夫も感じられず、ドンヨリと映画全体が死んでいるよう。一番マトモに輝いているのが、発表された舞台をそのまま映すシーンというんじゃ、映画化した意味がそもそも感じられない。

もうけ役は、ナチス・ラブの脚本家、ウィル・フェレル。周囲の不発ぶりをよそに、このひとこんなに面白いひとだったっけ?というくらいに輝いていた。『奥様は魔女』では、向こうの国で人気のあるコメディアン、ということが今一つピンとこなかったが、今作ではナルホドと思わせるものがありました。

theme : 映画
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『ツールボックス・マーダー』、トビー・フーパー

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『ツールボックス・マーダー』

(2003年、アメリカ、92分)

監督:トビー・フーパー
出演:アンジェラ・ベティス

老朽化の進む廃墟のようなアパートに、若夫婦が引っ越してくる。改築・修理作業のためアパート内部はそこらじゅうがごたついて雑然としている。珍奇であやしい隣人たち。やがて、何者かが大工道具を用いて、次々と住人を惨殺してゆく。。

最新作『ダンス・オブ・ザ・デッド』が話題な、ホラーの巨人トビー・フーパーの、日本ではビデオスルーの作品(フルモーションでおなじみ、フルメディアから出ている。さすが!)。近年のトビー・フーパー作品は、ほとんどビデオスルーという印象が強く、また、劇場公開するにしても、リリースするビデオのパッケージに〈劇場公開作品〉と銘打つためだけ感の強い一瞬の公開で、結局ビデオスルーとあまり変わらないという状況が永く続いています。

本作は、いわくつきの古いアパートでの、謎の犯人による、様々な大工道具を使用した殺人、大工道具の使用方法の創意工夫のバリエーションが表向きの売りといえますが、ところどころ殺害方法がぞんざいだったりして、純然たるスプラッタとして楽しもうとするかたには物足りなくうつるかもしれません(じゅうぶんグロいですが)。

前々から、『ナイトテラー』前後あたりの作品に頻出する、“文字どおりの”フラッシュバックは、いったいなんなのだろうと引っかかっていて、この、フラッシュ!! バック!! という感じの、ストロボがシュボッ!!と焚かれて画面全体を眩しく光が占め、別の時空間のシーンがインサートされる、古典的といえば古典的なシークエンスを、フーパーが多用することの狙いが今ひとつみえなくて、居心地が悪いものを感じていました。ただテクニックのひとつを普通に使った、というのではなく、なにか根源的なもの‥。

近作『ツールボックス・マーダー』でも、冒頭から雨とともに雷鳴が鳴り響いていて、光の間欠的な明滅に世界が支配されています。その証拠に、雷雨のなか売店のスタンドに顔をだした金髪女性は、世間話をし、なぜかスタンガンを見せる。バチバチッ、とわざわざ作動させたスタンガンの電気による小さな雷鳴を作り出してみせる。この女性はここで買い物をしたあと、アパートに帰ってさっそく惨殺されてしまい、スタンガンはもう登場しない。スタンガンを見せびらかしたのは、何の伏線でもなく、まるで、世界の側からの光の明滅によるサインに、支配され右往左往する側の人間が同じ光の明滅のサインでこたえることが、死に直結してしまうという〈世界の理(ことわり)〉が存在するかのよう。

さて、ある登場人物が口にする〈死んだ母親の産道〉という言葉をキーワードとすれば、不透明な様々な膜(ビニールシート)がそこらじゅうをおおい、薄暗くぬらぬらと濡れて意志をもつこの舞台となるアパートメントは、人間の(あるいは、なにかの生命体の)内臓であって、必然、物語の終盤は、大腸のような、狭く一本の長いトンネルみたいな通路を、複数の人間たちが命を失いつつ進んでゆく道ゆきとなる。

この流れでいくと、〈身体器官=世界/人間〉と〈光=神の視線/光に支配され、生死を委ねる者としての、被支配者としての人間〉の対比とかなんとか、これからこじつけに入っていきそうなところですが、しかし。
裸電球の連なる、微妙に明るく、ホコリっぽい通路を、登場人物たちが進んでゆくのをみたとき、ひとつのビジョンがムリヤリ浮上してくる。

この終盤にきて改めて驚きをもって想起し、
そしてその正確さに圧倒されるのは、
中原昌也の“フーパー=ディスコ・キング論 ”。
その、フーパー世界の的確な素描っぷりです。

『マングラー』が公開されたころ書かれたこの小論に、
のちの『ツールボックス・マーダー』の全体が、
そのまま描出されています。

『ツールボックス・マーダー』の〈クライマックスの舞台となるセット〉は〈原色の照明と豆電球に照らし出されたディスコ空間〉であり、そこでダンスのようにのたくたと殺害者と被殺害者がもつれあい、離れ、またもつれあう。この舞台装置の、〈その規模たるや、夏の伊豆七島でナンパ専用に作られている臨時営業のディスコなみに埃臭さ満点〉で、雑然としつつ閉鎖された空間をつくりだしていて、フーパーは、〈己のなかのディスコを映画館に再現するとき音楽に頼らず、ひたすらミラーボールのチカチカ〉を表現/追求するため、〈光る電飾〉をもってそれをなす。

観たかたは周知のように、ドンデンぎみの最期の最期のクライマックスまで電気照明器具が物語を押し進める最大の道具となっているのを目にすると、すべてが中原~フーパー~ディスコ論に回収されてしまうことの再確認となり、脱力を覚えてしまう。
フラッシュバックの居心地の悪さも、物語のサスペンスをを盛り上げることに奉仕しているとは言い難い過剰な照明がまたたく舞台も、
あれもこれも、ヤッパリディスコか‥。

フーパー映画を観たあとに感じるダウナーな気分は、よく言われることですが、小論の終結部において、中原昌也はステキにそれを表現しています。そのときの気分は、〈親しくもないが義理のある知り合いのディスコ・パーティのチケットを買って、憂鬱な気分で地下鉄に乗るときに似ている。〉と。

theme : 映画
genre : 映画

『TAKESHIS′』

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『TAKESHIS′』

(2005年、日本107分)

監督・脚本・主演・編集:北野武
出演:岸本加世子、寺島進、大杉漣、京野ことみ

多忙に活躍する大スターの「ビートたけし」と、顔はそっくりながらコンビニ店員をやりながら役者志望でオーディションを受け/落ち続ける「北野」。互いにそっくりなふたりは、あるとき出逢い‥。

冒頭。半壊した建物のなかに差し込む白い光、そこここに倒れ伏している生死も定かではない兵士たち。遠く近く、銃撃戦がまばらに行われている音や爆撃の響きが聞こえてくる。崩れた壁のむこうから、シルエットの数名の兵士が銃をかまえつつ室内に侵入してくる、外国人だ、彼らは敵の兵士の生死を確認してまわっている、その倒れ伏した兵士、日本兵のひとり、たけしがゆっくりと動きだし、視線を上に向ける。じっと見下ろす外国人兵と目線がまじまじと合う。

阿部嘉昭による、『BROTHER』公開時の批評を思い出す。『BROTHER』においては、冒頭からたけしは死んでおり、そこでは、現世的な執着心のない、破壊的性格のみが支配している、という指摘を。

ここでは、ほとんど死体と区別のつかないたけしが、冒頭から登場する。クリント・イーストウッドじゃないが、死んでいないようでも、もう死んでいるのだ。幽霊のような存在。
『ソナチネ』までのたけしは、いかに生きるかではなく、いかに死ぬか、もしくは、死ぬまでの無為な時間をどう生きるか、という観念に支配されていたようにおもう。であれば、いつこれが最期の映画であってもいいという刹那感があった。
バイク事故(自殺?)により生死をさまよって以後のたけし映画は、周知のとおり、国際的評価と一般大衆的名声とひきかえに、多くの映画ファンや映画批評家に幻滅感をあたえた。そこでは、死にとりつかれた強迫観念としての緊迫感は影を潜め、死とともにある、弛緩した浮遊感が支配しており、最期を覚悟する精神は消え失せた、先を見据えた創作活動をつづけている。これはいったい何か。

たけし映画のトレードマークのひとつといえる、典型的なシーンに、ボサッと突っ立ったまま激しく銃撃戦が行われ、たけしは無事のまま周囲は死体の山。というシーンが今作にもありますが、監督としてのキャリアの出発点では、とにかく描写リアリティにこだわっていたたけしが、このような荒唐無稽な描写を繰り返すのはなにか矛盾したものを感じさせますが、たけしが既に死後の生の段階におり、ここに今、見えているのが幽霊/亡霊的存在であってみれば、平然と直立した状態であっても現世の弾丸が傷を負わせることができるはずもなく、最後まで直立しつづけているのは死しているからなのだ。比較すると、いわば〈生前〉の作品、『その男、凶暴につき』のクライマックスの、直立し真っ直ぐに敵に歩き寄りながらの銃撃戦では、たびたびその体は被弾し揺らぐし、『3ー4X 10月』では一方的な銃撃に終わりながらも、自らの発砲音に驚かされたりもする。そこではまだ、生きている人間の反応があった。しかし〈生前〉最期の作品ともいうべき『ソナチネ』では、殆ど死に首まで犯されており、その被弾しないという戦闘能力はほぼ〈死後〉の死人のものだったが、
たけしが銃弾によって死なないのは、『ソナチネ』での〈死の観念〉が、自ら選択するもの=自死としての死であるからで、いわば、死の直前の白昼夢のようなものとして、この映画が夢みられているからだ。

いわば〈死の直前の白昼夢〉としての「遺言」であった『ソナチネ』後、“リハビリ”と称して『キッズ・リターン』を撮ったりする北野武は、〈これが最期でも構わない〉といった〈刹那的〉な態度からはもっとも遠い、明らかに別人格の映画作家に変貌してしまった。

『HANA-BI』をはじめ、それらの映画が、
死後の世界を生きる亡霊の撮る映画だと気づくまで、
すこしの時間を要しました。

公開当時、『HANA-BI』のクライマックスの2発の銃声が響く、のろい、間の抜けたタイミングのセンスに頭をかかえ、暴力シーンの不発ぶりにげっそりし、あれだけ上手だった自動車を撮る手腕も、無惨にクスみにクスんでいるのをみて、たけしは、終わった、と悲しく思ったのでしたが、考えてみれば、『HANA-BI』や『菊次郎の夏』や『BROTHER』や『Dolls』や『座頭市』の、だらしない弛緩っぷりや描写の不鮮烈さは、これらが、死後の世界にいる亡霊がボンヤリみている夢、という、その性質ゆえのものであるのかもしれません。

全編、似非・フェリーニか似非・鈴木清順か、という『TAKESHIS′』においては、スター「ビートたけし」と一般人「北野」の分裂と溶解が取り沙汰されていましたが、この映画ではたけしだけが自己同一性を失っているのではなく、例えば「ビートたけし」の愛人である業界人である京野ことみが、同時にチンピラ寺島進の恋人である一般人であったりもするという具合に、殆ど全ての登場人物が自己同一性を約束されておらず、よって、〈「ビートたけし」にサインをもらったあと、この出逢いにより「北野」はたけしの映画の世界に入り込んでゆく〉といった“あらすじ要約”は、たけし本人がどう言っているにせよ、正しくないなくて、すべての登場人物がお互いに夢みられているような状態としてあり、自分を最低限かたちづくる枠としての人体から精神が遊離することが死であるなら、ここに登場するどの人物たちも(どのバージョンの人格たちも)、皆、北野武であり、観客であり、そして、すべて夢見る死者なのだ。

この映画では、すべての動きが鈍い。銃弾を追ってパンするキャメラも、女のジーパンを脱がそうとする主人公の手つきも、「銃撃から逃れるために車がバックしている」はずのシーンも、ひどくゆっくりしている。これらは、たけしの才能の枯渇や欠如をあらわすのか、それともこれが〈夢〉であるゆえの、夢特有の、あの、動きのままならない緩慢さ、あの、自らの身体機能をうまく制御できない感じがあらわれたものなのか。

いわば、〈死〉へむけての退屈な時間をやり過ごしていた『ソナチネ』までのたけしの生/映画が緊迫感を伴っていたのはあくまで副次的なことであって、以後の、〈死〉からさきの退屈な時間をやり過ごすという反転した作品群に、緊張感がなく、だらだらした弛緩しているのは、必然で、〈死後〉とは、刹那的な切迫感と無縁な無・時間であり、どこでもない空間に、非・人称として漠然と漂っている状態であり、(たけしの、監督としてのキャリアが)〈つづいていく〉ことは、この生/死の形態の属性であるから、〈つづいていく〉というその最大の属性を指向することが、現在の北野武の作家性ということになる。

国内的には、『あの夏、いちばん静かな海。』と『ソナチネ』の連続した記録的な不入りによって商品価値を失った〈北野武〉は、一度そこで現実世界に相対する作家としては、死をむかえてしまった。たけしを殺したのは劇場にかけつけない日本の観客だったのだ、とおもう。
以後、森プロデューサーと蓮實重彦の暗躍と操作によって、国際映画祭にて奇跡的に復活するが、そこでは、ゾンビ映画における死者のように、たけしの作風にそっくりでありながら全く別の人格を宿したかのような、ゾンビとしてのたけし映画が量産されてゆくことになる。〈つづいていく〉属性維持のため、その際に必要だったのが、(A)オリエンタルなガジェットの導入であったり、(B)作家の個人的嗜好からくる縮小再生産に陥り商品価値を減ずることを防ぐためのフィルモグラフィの複雑化であったりしたのだと思われる。
(B)からは、必然的にたけしの破壊的性格が召喚される。それまでの作品群総体から導きだされる〈作家像〉を裏切るように破壊すること。それにより、作家像にズレが生じ、作家的幻影をうみ、批評的余白が現出する。その批評性こそが現在のたけしの〈つづく〉ということの延命策であり、〈つづく〉ことのみに特化した映画は、結局、福間健二が『座頭市』をさして言ったように〈ウルトラに無内容〉だ。

『TAKESHIS′』という映画は、
以上のような経緯をへて、
〈死後〉たけし映画のもっとも先鋭的な典型例となる。

ここでの破壊対象は〈たけし映画〉総体/全体像そのものであり、かつ最高度の無意味・無内容さ、間延びして弛緩した鈍い退屈さを誇る。
どの人物が銃弾にたおれようが、観客はだれも、本気で痛みを感じることはない。だれが何をすることに成功してみせても、観客はかりそめのものとしてしか受けとらない。〈つづく〉ことの実践は、こんなにも退屈な無感覚・無感情の境地に辿り着いてしまった。

日本人観客や日本人批評家の理解は、
もはや必要とされていない。
〈つづく〉ために必要なのは、国際市場に蠢く外国人たちに、
商品価値/批評的余白を提供しつづけることのみだ。

作品冒頭と作品終結部に登場する、
外国人兵士と、
生/死の二重状態のたけしとの、
その関係こそが、
現在のたけしの関心集中事項の、露骨な表象ではないかと、
妄想する。

たけしを見下ろしている兵士は、国際映画祭における、北野映画に評価をくだす、たけしの命運を左右する外国人批評家や海外のブローカーであって、それに対してたけしは、ご機嫌をうかがうように恐る恐る卑屈に見上げている。そして、闇を切り裂く銃声は、そんなたけしの〈つづいていく〉ことへの願いを無情に断ち切る(かもしれない)、厳しい審判が下ることへの畏れなのではないか、と。
そんな妄想。

theme : 映画
genre : 映画

『めぐりあう時間たち』

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『めぐりあう時間たち』

(2002年、アメリカ、115分)

監督:スティーヴン・ダルドリー
出演:ニコール・キッドマン、ジュリアン・ムーア、
メリル・ストリープ

ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』をめぐる、
3人の女性のある1日を平行して描く。

ヴァージニア・ウルフ、
そして『ダロウェイ夫人』
がネタだという時点で、
賢しげな映画であるのは明らか。
女優たちの布陣からは、
賞狙いのいわゆる“演技合戦”ねらいも透けてみえる。
観るまえから予断を許す製作体制。
水の流れ=時間の流れ=エクリチュール=人生、という明晰な図式性。
ゲスな言い方をすれば、高尚なものに見せて、賞賛されることが、
まず第一の目的という、邪念。
感情を、愛を、全身全霊で描き、
観客に伝えることが目的なのではなく、
頭がいいと、
テクニックがあると、
センスがいいと、
作り手が誉められるためにすべてが尽くされている、
とかんじる。
予断を裏切るような映像/音には出くわさない。
窓から人物が落ちるシーン、大袈裟なうえに下手。
『リトル・ダンサー』同様、相変わらず話に画が負けている、とおもう。

theme : 洋画
genre : 映画

映画予告編をみて‥(6.10)

先日、映画館で予告編群をみて、
すこし思ったことなど。。


○『ハチミツとクローバー』。

大ヒットマンガの実写化ということで、そういった場合、キャラクターと役者さんとのイメージのギャップが大きな問題となります。
『ハチクロ』でいう最大難関は勿論〈はぐ役〉で、いくら蒼井優といえどもコレバッカリハ‥‥と思っていたのでした。しかし、予告編をみたかぎりでは、予想以上にはぐにみえます。(コロボックルと呼ばれるにはだいぶ背が高すぎますが‥。)しかし映画の出来じたいはアヤシイ香りが。映像の透明感、俳優陣への演技指導の方針、ともに狙いが中途半端な気が‥。予告編は“恋愛”を強調していて、クサい。監督は知らないひと。果たして‥!?まあ、観ますが。


○『DEATH NOTE(前編)』。

個人的には監督が金子修介ってところがネック。しかし香椎由宇が出ているならどうせ観ます。夜、新宿駅前、藤原くんのうしろに
〈MY CITY〉
の文字(ネオン)が。まだルミネになる前の撮影みたい。チョンボというか、ヘマしていないといいんですが(同日のシーンなのに、ルミネスト/マイシティとコロコロ変わったり、とか)。

○『バルトの楽園』。

このキャスト、このスタッフで、この物語、予告編すら冴えない。さんざん繰り返されてきた失敗。日本映画のダサさの象徴のような映画。地球上で、この企画を良いと感じてゴーサインを出したひとが存在するということが、奇跡。数十秒間みているのも苦痛。。

○『初恋』。

少し前に、筒井道隆主演の『ブレスレス』の企画にケチをつけましたが、これは、宮崎あおい主演、3億円事件、『初恋』というタイトルと、フックはじゅうぶん!これこそ、ヒキのある企画の見本のようなものだとおもう。(謎、初恋、古き良き(?)時代、犯罪、実話‥。)予告編の出来もなかなかです。

○『日本沈没』。

『ミニモニ。じゃムービー』でいいところを見せ、『ローレライ』で株を下げた、評価のたゆたう樋口監督ですが、予告編、特撮シーンの出来映えをみるかんじだと、少なくとも、大森一樹版が実現していなくて良かった、と思えそう。また、あの少女でてる(ドラマ『白夜行』とかの子)。引っ張りだこだなー。名前は知らないけど。我が家では、“日本のダコタちゃん”と呼ばれています。

theme : 撮影中、公開前の映画
genre : 映画

映像仙人・金井勝

20060609221214
チラシ。

なんと、

異能自主映画監督・金井勝の、
古稀記念ということで、
7月1日(土)2日(日)に

祝「金井勝古稀記念全作品上映会」

が催されるそうです!

今の、若い観客がみるとして、
どの程度興味がかきたてられないものなのか
(もしくは、かきたてられるのか)、
注目ですが、まあ、観にいかないんでしょう。

タイムテーブルには

『時が乱吹く』か・く・ししねま/『夢走る』
『一本勝負のキリギリス(←また、ケータイでは字が出ん)』『ジョーの歌が聞こえる』

とおおざっぱになっていますが、どのような形態での上映になるのかよくわからない。
4本続けて上映するのだろうか?
(説明すると、そもそも、『時が乱吹く』という映画は、もともと独立した三本の作品、『夢走る・短歌篇』(87)、『一本勝負のキリギリス・俳句篇』(88)、『ジョーの歌が聴える・詩篇』(89)を、『夢走る』の主演であり、金井勝のかけがえのない友であった城之内元春の死を悼むものとして一本にまとめたもの。一本一本の幕間に、金井勝監督のナレーションというかモノローグとして城之内元春について語る部分がはいる、というもの。つまり、もし4本続けての上映だとすると、短編3本立てを続けて2回、くりかえして観ることに近い形態になってしまうのですが‥。)

チラシをみると、
会場となる
〈space NEO〉
(御茶ノ水駅徒歩5分)は、
鈴木志郎康の16ミリの上映会が催されていたり
(6月17日、18日)しているところからして、
戦後現代詩の流れをくむ、知的磁場の存する場として、
機能しているのでしょうか。

新宿も変わった。

新宿駅も変わった。

『ジョーの歌が聴える』で聴こえてくる、
城之内元春の、

〈新宿ステーション、ステーション‥〉

と、くりかえす声に、

いま、なにを感じることができるんでしょうか。

(ほか、『無人島』『王国』『スーパードキュメンタリー前衛仙術』など、2日間に渡っての全作品上映と、金井勝他によるトークショー、飲み物+食べ物のつく古稀のお祝いの宴つきだそうです!どんな宴になるのか、あんまり想像しづらいんですが、なかなか経験できない、微妙な雰囲気を体感できそう。。)

theme : ミニシアター系
genre : 映画

三並夏『平成マシンガンズ』

20060607000901
某日本人小説家の大長編を読み進めるかたわら、
ちょっと箸休めにと、
読んだのが三並夏の『平成マシンガンズ』。

かなり高評価を得ている、
文藝賞を弱冠15歳・現役中学生として
最年少受賞した話題作です。

未知の〈なにか〉に幻惑されかつ圧倒される心の準備をして、
本作に相対しました。

ランダムに選ばれてゆく“いじめ”の対象、
不登校、
両親の不和に愛人の存在、
偽りの自分を演じる学校という名の舞台。。

毎度おなじみの物語が、
“達者な”筆致で“見事”に描かれている。
と、本心でもあるけど、
勿論、
皮肉として言ってます。

作品冒頭だけ、新味のあるというかクセのある文体を用いて(新しさアピールを)カマすけど、それ以外はごくふつうの文章、という計算高さに底意地の悪さがにじむ綿矢りさとは少し違って、新奇な硬質さを帯びているといえなくもない文章が、均一感をもって、失速することなく全編をおおっていている本作は、そつなく〈新人らしさ〉を忘れさせず、同時に〈安心感〉をあたえる適度な〈達者ぶり〉が、“文学村”の住人をけっして脅かさない適当なバリエーションとして歓迎されるのでしょうか。

端的に言って、
評価の対象のひとつになっているんであろう、
死神や、マシンガンで均等に全員を撃つといったモチーフの使用こそ、悪しき〈文学=制度〉を堅固なものとして補強するだけの、従順なイメージ使用作法で、見せかけの新しさに、げんなりさせられたというか、なーんだという、上から目線を、終始揺らがせてくれなかった。

『インストール』なんかよりはよっぽど面白いのに、
綿矢りさほど話題になりもしないし、
売れもしないんだろうと思わせるのは、

著者近影の、
そっぽをむいて、
容貌がわからないようななっているような写真の使用が、
ナニヲアラワシ
ナニヲカクシテイルノカ、

theme :
genre : 本・雑誌

『ALWAYS 三丁目の夕日』

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もうすぐ、
『ALWAYS 三丁目の夕日』のビデオ/DVDが発売されますが、
あの、去年から今年初頭にかけての圧政的な空気がさらに規模を増してひろがってゆくのかと、ゆううつな気分に支配されそうになります。

『ALWAYS 三丁目の夕日』を
絶賛しない者は、人に非ず。
みたいな絶対的価値観の押し付けとしての大絶賛ムードは、
かならずしもこの映画を全否定しているわけでもない自分でも、
いささか引くところがありました。

某誌ではここ十数年のベストワン(!)に選ばれたり、

『映画芸術』恒例の、年間ベストテン/ワーストテンで『ALWAYS 三丁目の夕日』がワーストワンに選出されたことに対し、熱心な、“善意の映画ファン”という意識らしき人物が、怒ってホームページによせた文章の主旨は、こんなに素晴らしい映画をけなすなんてと、『映画芸術』編集部の品位をうたがい、そういう行いは人としてどうかしているといった扱いで非難を浴びせるものでしたが、しかし、じつは『映画芸術』という雑誌を手にしたこともなく、どのような選出方法でワーストワンが選ばれることになるのかすら知らないといった有り様での(ニュース的な情報で知っての)非難で、『映画芸術』のベスト/ワーストの選出方法も知らない人物を、熱心な善意の映画ファンと呼べるのかどうかはともかく、そのような見切り発車であっても、絶賛ムードに逆らう者はとにかく駆けつけて斬り捨てることが許されると思い込む人物があらわれる、全体主義的正義感がまかり通っている状況には、単純に、思想統制的な画一化をはかる陰謀=恐怖政治に対するようなムカつきをおぼえます。

劇場に足を運ぶような、コアな、
ある程度熱心な映画ファンがそういう状況で、
さて、もうすこし消極的に映画に接していると思われる、ビデオ/DVD鑑賞を主体にしている(もうすでに高い評価が刷り込まれている)ファン層相手に、『ALWAYS 三丁目の夕日』大絶賛の圧政は、更なる猛威をふるうのでしょうか。

正直、『ALWAYS 三丁目の夕日』を観て、僕も涙しましたし、山崎貴の、この映画に与えることが出来た商品価値は、賞賛すべきものだと思いましたが、
出来映えに限っていえば、甘くみても中の下くらいで、とてもこの大絶賛ムードを是認できるほどのものじゃあないと思います。

時代考証の甘さ、脚本や演技のベタさ/クドさや、あまりにミエミエな泣かせ狙いに、一部で批判の声があがっていましたが、自分としては、監督本人がどこかのインタビューで自信満々に、キャメラの存在を感じさせないようなキャメラワークを心がけた、と述べていたことに対して、大いに文句を言いたい気持ちで、パンする速度というのは、ごく普通の人間の動態視力をもってして、焦点を合わせ続けられる速度を限界点として設定されるべきもので、『ALWAYS 三丁目の夕日』でなされていたパン撮影は、深作欣二に代表されるようなブンまわしの、そういうことに根底から逆らったような批評的なキャメラワークなわけでもなく、
ただ単に、
中途半端に、
ギリギリ焦点を合わせることが出来ない、ということだけに効果を発揮した、やや速すぎるパンで、観客の視線のゆくえを不必要に不快にさせるだけの、素人かと疑うようなヘタさ(もしくは邪悪さ)で、こういう撮影を、キャメラの存在を感じさせないとは呼ばない、と思う。

映画としての出来不出来を脇においておけば、賞賛したい部分(VFXの使いどころ。『血と骨』の大通りの場面や、『修羅雪姫』(2001年版)の未来の列車の通過する特撮などにおける、“限定された頑張りどころ”ということからどうしても漂ってきてしまうビンボーくささに、残念なおもいがしていたところへの、これは、冒頭から無駄遣いにみえるほど矢継ぎ早に飛ばす美術/VFXで、観客の、邦画=ビンボークサイという固定観念がマヒするまで、我慢強く、一見無駄な美術/VFXで魅せつづけ、武装解除させてしまう、そのつづける長さのセンスがすごい)もありますが、
欠点も長所もある、
ごくごく凡庸な映画を、

〈泣ける〉という免罪符によって無条件に支持し絶対的判定を下しがちなうえに、同調しない者を非道扱いするような風潮に、断固抵抗をしめしたい、と思います。


『ALWAYS 三丁目の夕日』

(2005年、日本、132分)

監督:山崎貴
出演:吉岡秀隆、堤真一、小雪、堀北真希、薬師丸ひろ子

theme : 邦画
genre : 映画

20060604204536
この季節、この時期、
夏が近づいてくると、
ドリンクの自販機から
どんどんどんどんホットのコーナーが消えてゆきます。

長年、一年中、
自販機ではホットコーヒーしか買わないし飲まないので、
夏がくるとホット探しに苦労します。

日に日に、ホットを兼売していた自販機が
コールドオンリーになっていき、
ホットを売っている自販がなくなってきて、
確保(?)しておくのに一苦労。。

自分にとって、夏は、
ホット自販を求めて探索するため、
出勤経路のバリエーションが増えてゆく季節、という趣。

(そういえば、
桜井マッハ速人が一般人に暴行されたという事件は、
やはり現実で、
4月に起きた事件がさいきん、おおやけになったから、
自分のなかで誤解が生じたみたい。
妄想じゃなくてよかった。)

theme : 雑記
genre : 日記

S山くん

20060603235205
現在、ウチの店舗唯一の男子アルバイトであるS山くんは、
けっこう映画をみるほう。

豊田利晃をすごい、と贔屓にしていて、
なかで一番すきなのは『ナイン・ソウルズ』というあたり、なかなかセンスが良いです。
( ぼくのお気に入りは『青い春』『空中庭園』で、じぶんのベタで鈍いセンスにイヤになります。。)

『アンチェイン』は未見ということで概要を話すと、
シュートボクシングという言葉も説明ぬきで通り、手間がかからない。
男子と話すのはそういうとき楽だなあとつくづくおもう。

theme : 雑記
genre : 日記

あいまいな記憶

20060602231531
ここ数日は、
月末書類に半期決算、早朝の消防訓練に新メニュー立ち上げと、睡眠不足と過労で倒れそうに忙しかったんですが、今日でようやく少し落ち着きそうなかんじ。

今週末のPRIDE武士道に出場予定の桜井マッハ速人が、一般人に暴行を受けて(プロ格闘家だから手出しは出来ず)、全治1ヶ月の負傷をおったというニュースを、
なにかで、
たしかに、
みたはずで、
怪我による出場キャンセル等のニュースが「紙プロハンド」(格闘技・プロレスサイト)でいつ報じられるかと待っていたのだけれど、一向にその気配はなく、待っているうち、しょぼいウェルター級のカード群のなかでは、比較的興味をそそられていた「ユン・ドンシク対パウロ・フィリォ」のユンの、怪我による欠場がつたえられただけで、桜井マッハ速人はピンピンしているのか、相変わらず参戦予定選手に名を連ねているようす、いったいあのニュースの記憶はどこからきたのだろう?夢?デマ?それとも桜井マッハ速人じゃなくて桜井隆多?いや、その読んだニュース(ブログとかではない)では〈PRIDEで人気を博している〉みたいなフレーズがあったはずだから、桜井隆多は少なくとも〈PRIDEで〉は〈人気を博してい〉ないからなあとおもい、謎は謎のままで、もしかして、映画監督の今村昌平死去という報も、ほんとうではないんじゃないかと疑いをかんじ、それがあいまいだと、今村昌平にかんしてなにか書いたりしても大きな過ちを犯すんじゃないかと、恐れをすこしいだいています、

結局、なんだったんだろう。。

theme : 日記
genre : 日記

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ししらいぞう

Author:ししらいぞう



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