スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

キムさんより

20060531211225
キムさんが店の連絡ノートに書き残していきました。
以下全文。

おはよう!!キムです。今日で終ります。T.T

このノートに書くのはFirst&Lastになりますね。

会えなかった子はザンネンだが、また食べにくるね^^

皆様全部やさしくしてくれて楽しかったと思います。

よく分からない場合に何度でもおこらなくてせつめいしてくれたり、いろいろお世話になりました。ありがとう・

みんなげんきでね~Fight!そしてPresentありがとう

ホント感動した。大事するわ!仕事頑張ってください。

PS きたなくてごめんね-.-;


(注:↑字が)
スポンサーサイト

theme : 雑記
genre : 日記

東京駅

20060529192123
今日と明日は、
東京駅地下の系列店での仕事。

東京駅といえばステーションホテル、
映画ファンがベタに思いだすといえば、
竹中直人監督の『東京日和』
蓮實重彦・江藤淳の『オールド・ファッション』でしょうか。
いま現在は駅舎の保存/復元のために休業中らしい。
地下街、迷いに迷う。
おもしろそうなお菓子がいろいろ。
しっとりバウム、苺のモチフィーユ、ってなんだろう、
小泉純一郎モノ、メイドモノ。
笑点モノの商品はいろいろ。
笑点の人形焼き、
木久蔵ラーメンはわかるけど木久蔵せんべいって‥。
ラーメン味じゃないのが疑問‥。
人形焼きは大喜利の各キャラクターの似顔になっている。
円楽さんのもあるから、今やレア的。
衝動買いしたくなるが、しない。
通り過ぎるだけでゆっくりみるヒマがない。
ゆっくりみたら楽しそう。

theme : 徒然日記
genre : 日記

『カナリア』、塩田明彦とドワイヨンの関係

ph_kanaria_1.jpg

才能や実力があるんだかないんだか、流れがきてるんだかきてないんだか、今ひとつとらえどころのない塩田明彦監督の、今のところの最新作である『カナリア』は昨年、激しい賛否両論のすえ、居心地のわるい位置に留まったまま、けっきょく、どのような映画だったのか、今ひとつ突き詰められないで放置状態にあるような感じがします。
褒めるほうも貶すほうも、なにか、確信がなくて困っている感じ。

概ね好評だった『どこまでもいこう』『月光の囁き』の二本同時公開で華々しくデビューすることに成功した塩田監督は、しかし、以後、『害虫』『黄泉がえり』等、褒めるのも貶すのもパワーが出ないような、どこか中途半端な印象を受ける作品を連打し、迎えた『カナリア』ですが、ここでの評価の分かれ方は、なにこれまでの〈困った〉感じとはちがう〈困った〉かんじが漂っていると思います。

『映芸』年間ベストワンを獲得したことからも、ある程度好評だったに違いない『害虫』にしても、弱々しい、紋切り型なシネフィル的語彙による擁護を、安易に誘発していた〈ゆるさ〉からいっても、中途半端さは免れず、外見的には傑作のたたずまいなのだけれど、段取り芝居で、段取り的な串団子状の物語を語り、“映画的”なカットで組み立てればなんとかなるというような、見通しの甘さが感じられ、個人的な印象では、それが傑作/名作になることを阻んでいたと思うのですが、『カナリア』に漂う〈なにか〉は、映画的であるかないかというような判別方法でも、減点法の採点方式でも、とりのがしてしまう細部や感情があるように思います。

(オウム真理教の事件をモチーフに、カルト教団の、置き去りにされた子供の側から描かれたこの映画について、まず一応、『DISTANCE』や『誰も知らない』などの口当たりの良い、綺麗なアメみたいなスナック菓子映画とは、比較するのもばかばかしいととりあえず言っておきたいと思います。
阿部和重の言う、90年代流行の、疑似ドキュメンタリー蔓延についての批判に、なんの抵抗もなく真っ正面から粉砕されてしまいそうな考えの浅い作風で、某御大の言う、結局、映画は頭が良くなければろくなものが撮れない、野球で頭の悪いやつに優れた選手がいないのと同じだという発言を思い出させます。井口奈巳監督の『犬猫』や山下敦弘監督の『ばかのハコ船』などの演技設計と比較すれば、リアルだ自然だと言われる『誰も知らない』の演技が、底の浅い、せいぜい、たとえば『稲村ジェーン』の加瀬大周の演技程度のレベル(の演技設計)だと判明してしまうと思います。)

話がすすまないので、なんかまとまらないまま先に進めますが、ここの項で言いたいことは、〈ジャック・ドワイヨン〉という固有名詞を媒介にすると、この『カナリア』という映画がよく見通せるのではないか、というような気がする、ということ。

勝手に、塩田明彦とドワイヨンとを無理矢理引き寄せて結びつけているわけではなくて(ないつもりで)、一応、以下のような根拠というか、連想から、話を進めてゆきますが、まず、塩田明彦はある雑誌で「子供の映画」に限定して「オールタイム・ベストテン」を選出し(1999年10月)、その一本としてジャック・ドワイヨンの『小さな赤いビー玉』をあげています(他9本は『アマルコルド』『少女ムシェット』『忘れられた人々』『キッド』『わんぱく戦争』『大人は判ってくれない』『新学期・操行ゼロ』『ミツバチのささやき』『動くな、死ね、甦れ!』)。
また、監督デビュー8年前の1991年、『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』0号のドワイヨン特集には、「ドワイヨン、命がけの現在を生きる」という熱気のこもった(『ラ・ピラート』から『女の復讐』までの作品群についての)長文の論考を発表しており、また、『小さな赤いビー玉』リバイバル公開時のパンフレットにも顔をだしています。
つまり、塩田明彦監督には、ジャック・ドワイヨンの映画に対して、ある程度のこだわりと執着をもって、少なくともある時期、接してきたということは間違いのない事実だとおもわれます。

監督デビューしてある程度キャリアを積んだ塩田監督は、自分は、まあ、子供を撮るのは比較的得意、と思っているし、だから、同じく子供を撮るのが得意なドワイヨンも、改めて視界に再浮上してきたのではないか、と憶測します。その経緯としては、次のような道筋だったのではないでしょうか。
『カナリア』以前の映画には、設定と状況を決めたらポンポン撮ってっちゃったような感じで、ドワイヨン的にしつこくしつこく粘った感じはみられず、それが良い方にでたときも悪い方にでたときもありましたが、今回、無責任には扱い難い題材を、現実の事件や実話にリンクさせ依存しないフィクションとして描くやりかたを選択した以上、
生半可で抽象的な人物像や人間関係や感情を描いてよしとするわけにはいかなかった。〈子供というものを置いたときに見えてくるのは〉、〈光一と由希は僕らの子供の世代〉であり、彼らに〈自分を告発される側に立たせる〉ことになる、と塩田監督は言う、つまり、『カナリア』という映画のことを思い浮かべるとき、誰もがすぐイメージする、彼らの、あの、真摯な、真っ直ぐ、なにかを射抜くような強い視線。
それを受け止めなければならない世代に属する、断罪され、問いかけられる側に属する世代として自覚を迫られることになった、作り手としての塩田監督は、仮にツクリモノの抽象的な人間/人間関係/感情ではあっても、責任をもって、極限まで、本物の感情、本物の人間、本物の人間関係を顕さなければならなかった。
そのとき、突破口として想起されたのが、ジャック・ドワイヨン、だったのではないか。と妄想する。

『カナリア』において、シーン、シーンによって出来不出来の差が激しい(演技が撮影と感情に合致した素晴らしいシーンと、演技と物語が遊離していて空回りしている寒々しいシーンと、ムラがあるとおもう)のも、澤井信一郎監督による、ドワイヨンの『恋する女』批判(演技の質が不均一、よって破綻している、という旨)を思い出させます。

つながりがどうとか、全体のバランスがどうとかいうよりも、いま、この演じられているこのシーン、この瞬間の、人物の感情の発露を極限/最上級まで表現しつくすため、気が遠くなるほどリハーサルを繰り返し、際限なくリテイクし、くりかえしフィルムをまわつしづけることによって〈なにか〉の到来を待ち続けるドワイヨンの演出スタイルは、
一瞬一瞬の〈ほんとう〉をとらえなければならず、そのことによってしか〈自分を告発する〉視線をもつ〈子供たち〉を責任もって描くための指針となっているのではないでしょうか。
それらに照らされることによって、『カナリア』の数々の短所とみなされてきたことの、いま、あのような形であることの必然性が、導き出されるのではないでしょうか。

『カナリア』という映画の、鮮明な相貌を観る側が獲得するヒントになるかもしれない、塩田明彦のジャック・ドワイヨン論から、以下に数ヶ所ぶん要約/引用することで、この項をとりあえず終わりたいと思います。
〈心理が言語的(体系的)であるとすれば、感情は非言語的(非体系的)である。「感情が主役」の映画は、いつも現在進行形によってのみ語られる。こうした映画が、ときに構成力を欠いた印象を与え、ときにある種のぶっきらぼうな印象を漂わす〉

『家族生活』という作品のなかで、登場人物の社会的属性について、ほとんどなにも説明されない。たとえばこの映画の主人公を小説家とでも設定すれば、物語全般、〈登場人物の心境が手にとるように感じられる場面を設定することに成功〉するのに、そういうことをせず、〈必要欠くべからざる物語上の設定をセリフを用いないで語るための配慮〉や〈セリフとセリフの間に劇的な強弱をつけるといった配慮が欠けているとしか思え〉ないやりかたで、映画を推進させる力としての、〈因果関係によって人間の内面を一義的に固定する〉ような〈心理主義的な劇作法〉を拒否する。

『イザベルの誘惑』のJ・ボナフェや『彼と彼女のコメディー』のJ・バーキンは〈愛する者をむりやり「強迫観念」的な意味づけの世界にひきずりこもうとしていた。しかし、彼らの恋人たちは驚くべき忍耐強さで、必死にこれを拒否する。この一貫した拒否の姿勢によって、彼らはかろうじてある種の希望に到達する。/だが、『女の復讐』のユペールはあまりに確信の度合が強く、ベアトリス・ダルはあまりに危うげに自己を見失っている。過去はユペールの語りを通してしか存在しない以上、もはやダルが「事実」とか「真実」に到達できる可能性はあらかじめ断たれている。しかしユペールが「ここに意味を読め」とつきつけてくる過去については、ダルもそれなりの警戒心と記憶喪失で対抗しえたのだ。本当の恐怖がはじまるのは〉、〈過去が再演されはじめたとき〉で、ユペールは〈自分の確信の根底にある、あの「無根拠」そのものを見てしまったのだ。〉

〈命がけの現在=人生〉である世界を〈究極まで追及したとき、因果的な物語の世界を構築していた境界線〉が消滅しはじめ、場所も設定も人間も事件も〈あらゆる物語的な意味を剥奪されて、ほとんど裸の状態に陥〉り、〈生死ぎりぎりの境目で〉生成する、純粋な生(アクション)と純粋な感情(エモーション)が作り上げる、〈可能な限り具体的であろうとするものだけが到達可能な、徹底して抽象的な世界。〉


『カナリア』

(2005年、日本、132分)

監督・脚本:塩田明彦
出演:石田法嗣、谷村美月、西島秀俊、水橋研二

theme : 日本映画
genre : 映画

キムさん

20060527231832
受験に専念するため、
韓国人のアルバイト、
キム・ミョンハさんが、
今月いっぱいで退職するということで。

今日、ほかのアルバイトから寄せ書きをもらって、
少しだけ涙目になってました。

みんなのキタネー文字の日本語が
ちゃんと読めるかすこし心配。。

SMAPが好きで、
日本史が苦手なキムさん、

お疲れ様でした!

theme : 日記
genre : 日記

いまおか日記に

そっち関係のサイト(つまり、ピンク映画関係のサイト)で
年末年始あたりから公開されている、
『たまもの』『かえるのうた』でおなじみ、いまおかしんじ監督の日記を、時々読んでいて(いまおかしんじは、とにかく文章がいいんです。大変失礼なはなしですが、映画監督としてより、もしかしたらエッセイの書き手としての才能のほうがあるのかも、と実は常々思ってなくもなかった。ケナしてるんじゃなくてホメてるんです。要するに、その文章のファンなのです。)、そのなかで保坂和志の本を読むシーンがときどき出てきます。
それに触発されるようにして、
最近また保坂和志の本を読み出した。

保坂和志の小説は、ある種かなり退屈ともいえるものなので、気分や体調によってはとても耐えられないこともあるのですが、ここ最近の自分のテンションの低さにスルリと入り込んでくるように、なにかその退屈さもコミで、心地よいかんじ。『カンバセイション・ピース』『季節の記憶』とかよりは、低予算のインディーズ映画みたいな『プレーンソング』とかのほうが好みです。

theme : 読書
genre : 本・雑誌

『ワーキング・ガール』が‥

数日前、
深夜テレビで、たまたま久しぶりに
『ワーキング・ガール』
が放映されているのを見かけました。

『ワーキング・ガール』は、
80年代が終わり、90年代が始まるころ公開された、
マイク・ニコルズ監督作品で、
メインキャストがメラニー・グリフィス、シガニー・ウィーバー、ハリソン・フォードのアメリカ映画。

ニューヨークの高層ビルのオフィスを舞台に、学歴はないが感性には自負心をもつキャリアウーマンの端っこのほうに属するメラニー・グリフィスが、恋と仕事の成功を手にする物語で、

当時の日本でも流行っていた
トレンディー・ドラマとシンクロする、

有名な主題歌とも
相互に補完しあうような、

〈爽やか〉
〈オシャレ〉
〈スカッとする娯楽映画〉

というイメージで記憶していたし、
たしか、『スクリーン』だか『ROADSHOW』だかの年間ベストテンでも驚くほど上位の高評価を得ていたのですが。。

再見してビックリ、

あまりの古びように、
あまりの風化ぶりに、
ビビってたじろぎました!!

なんとな~く記憶のなかでは、『恋人たちの予感』のメグ・ライアンあたりと、そう大差ないポジションにいたような気がしていた『ワーキング・ガール』のメラニー・グリフィスですが、
じっさい久々にみたら、これは‥

‥むくんだケバいオバサンのオバケみたいで、
とてもサワヤカ映画のヒロインとは思えない!!

もっとも、メラニー・グリフィスだけがスゴいのでなくて、シガニー・ウィーヴァー以外の全女性陣が、センスのない女子プロレスラーのヒール軍団みたいに凶悪なビジュアルで、
つくづく、
トレンディーはトレンディー、
CMをネタにしたギャグのように、
恐ろしい勢いで風化するものなのだと再認識しました。

(我が国の、『どっちにするの。』や『櫻の園』あたりも、
もうコワくて観れません。。)

しかし、シガニー・ウィーバーとハリソン・フォードは、
さすが、現在の目からみても違和感なく、
スターというのは別格なんだなあと思いました。

(そういえば、思い返してみると、ダスティン・ホフマンの風貌は、全ての時代の、すべての顔かたちや服装が古びて風化してみえるな。。
それもまた一種の才能かも‥)

theme : 映画
genre : 映画

5000

訪問者のカウント数が

5000

を超えました!!

いままで訪問してくださったかた、

クリックしてくださったかた、

ありがとうございました!!

コミュニケーション力のないブログなのでー、
ひねてどんどん陰にこもって自壊自滅ぎみで、
正直、何度か、やめかけましたが、
そういうかたがたのおかげでなんとか続けて来れました!!

今後とも続いてる/続けてるあいだは
よろしくお願いします◎

theme : 日記
genre : 日記

眠さと絶倫絶女の終了

20060523183617
仕事のトラブルで、
早朝、新宿に来なきゃならなかったせいで。
眠いです。

明日も会議のため、早朝、新宿。。

個人的な時間が持てない。。
本も読みすすまず、DVDもみる暇ないし。。
そもそも眠い。

そういえば、
昨日でいまおかしんじ監督『絶倫絶女』の上映も終わった。

男×女、女×女の、ほんのりいい話ならよくても、
男×男のほんのりいい話は、
ピンクというジャンルとしてどうかと思いました。

3年連続のベストワンは穫れないんじゃないかな。。

でも、自分の脚本じゃないのに、
『かえるのうた』でほんとうはやりたかった男二人の物語が、
不思議と出来た巡り合わせだったのかもしれません。

眠くてどよんとしてますが、
眠くて眠くてしょうがないけど眠るわけにはいかない『絶倫絶女』の主人公の〈おじさん〉のように、
栄養ドリンクで乗り切らんと!

theme : 日記
genre : 日記

黒沢清の映画が大挙襲来!!

名画座が消え去りきったかに思えた現在、

今年忽然とあらわれた
渋谷で唯一となる名画座、

〈シネマヴェーラ渋谷〉。

現在やっている、じつに(いまはなき)大井武蔵野館チックな特集
(『エロ将軍と二十一人の愛妾』ほか)も勿論、
一本たりとも観てないといったら恥をかくような必修科目だらけですが、

次にひかえる

黒沢清

の大々的な回顧上映は、
全国民必見、必参の企画ですね!!

プチ・ナショナリストが増殖している現在、
各種スポーツの応援で一丸となっているようですが、

ほんとうに世界に誇れる、
いかなる、あらゆる、例外なく、すべての、
ハリウッド映画/アメリカ映画より、
遙かに優れたハリウッド映画/アメリカ映画を量産しつづけている黒沢清の映画群がスクリーンに大挙出現するわけですから!!!!
少なく見積もって3千万人くらいはシネマヴェーラ渋谷に駆けつけないとおかしい!!世の中間違ってる!!アメリカ映画が好き、なんて言っている若者ももちろん、アメリカ映画が好きだったお年を召した方も、なんにせよ日本が勝つことに興奮するタチのかたがたも、〈ひとり・アメリカ映画・黄金時代〉というムチャクチャを、高い水準で実践しつづけ、現実のハリウッド映画/アメリカ映画に勝利しつづけている黒沢清の全28本上映に熱狂しなきゃ嘘でしょう!!!!

今回、8ミリ時代の名作群は上映されず。
長編映画はほぼフォローされており(『スウィートホーム』が入ってないのは例の伊丹十三側との裁判とかでいろいろ事情がある?そういえば『打鐘』は?)ますが、

目玉はなかなか観れない

『ココロ、オドル』『胸騒ぎの15才』

『あの子はだあれ?』『ワタナベ』

『タイムスリップ』『風の又三郎』


あたりでしょうか。

『霊刑事』『2001 映画と旅』

『カリスマのための習作』


などは残念ながら今回は観ることができないようですが、
希望を捨てずにまた上映される機会を待ちましょう!!!!!!!!!

theme : 邦画
genre : 映画

『放蕩娘』ドワイヨン④

『放蕩娘』 la fille prodigue

(1980年、フランス、95分、日本未公開)

監督:ジャック・ドワイヨン
出演:ミシェル・ピコリ、ジェーン・バーキン

理由もわからず精神的に激しく落ち込んでいるアンヌは、そんな彼女にも理解ある夫ともまともに接することもできず、父としか会おうとせず、父の夢を見、父になだめられてようやく落ち着く。
夫のもとを離れ、ひとりで暮らしだすが、引きこもってしまう妻をもてあまし、夫は妻の両親に相談する。様々な要因から、アンヌは父とふたりで暮らすことになる。
父の愛人の存在に不安定な振る舞いにでるアンヌは、エキセントリックに暴力をふるい、さまざまな無茶な要求や、性的とも言える関係を、父に強要しつづける。
世間に適応する決心をし、父のもとから離れるアンヌだったが、離れきれずに戻ってきてしまい。。

さて、〈ジャック・ドワイヨン映画祭〉、
最期の紹介となる、
監督第5作の『放蕩娘』です。

こんな、現在、別に人気が再沸しているわけでもない監督の、日本でも字幕なしで数回上映されただけの映画について何か言って、いったい誰が読むのかとムナシクなりますが、万一、我慢して読んでくださっているかたがいらっしゃったら、今回で終わりですので、もう少しガマンして下さい。

『放蕩娘』は、父と娘の精神的近親相姦を描く、いわゆる“父と娘3部作”の第1作です(第2作『家族生活』(84)、第3作『ピューリタンの娘』(86))。

やがてドワイヨンと結婚することになる、
あのジェーン・バーキンが登場!
(やがて女優となるルー・ドワイヨンを出産し、のちに離婚。)
『愛されすぎて』(91)では、妻どころか、その連れ子のシャルロット・ゲンズブールまで裸を露出させ、ヒリヒリするような肉体的存在同士の関係(←婉曲な表現)を演じさせるあたり、ドワイヨンの真性の変態っぷりがうかがえますが、
ここでも、そして『ラ・ピラート』(84)でも、直後に伴侶とする相手とは思えぬほどジェーン・バーキンを追い込み、肌だけでなく魂のすべてを露出させるような演出で、共感をアテこまない、尋常じゃない人間関係の描写に、目を逸らさせない緊迫感をあたえています。

前作『あばずれ娘』(79)で注目をあつめたドワイヨンが、メジャーなスターを起用して撮りあげた意欲作である今作は、しかし、当時本国フランスでは不評だったそうですが、
現在からすると、“ドワイヨンの映画”の典型のような作品で、ジェーン・バーキンの出演も含めて考えると、ドワイヨンの代表作に挙げるひとがいても不思議ではないでしょう。

‥最近、アテネ・フランセの安井豊が、『ラ・ピラート』についての講演/対談で述べていたものの採録を読んだのですが、

安井豊がいうには、
〈ジャック・ドワイヨン映画祭〉に招かれたジャック・ドワイヨンは、終了後、アテネ・フランセ文化センターとしては接待ランクでいうと最下級の、つまみの不味い飲み屋に打ち上げに連れて行かれたが、文句ひとつ言わず、終始機嫌よく、
温和ないいひとだったそうです。

theme : 日本未公開作品
genre : 映画

『PG』101号

20060520203014

無事に出た『PG』の101号

表紙は、
2005年PG誌ベストワンに選出された
『かえるのうた』(『援助交際物語 したがるオンナたち』)です。

ジャスト100号の林由美香追悼号で、
この雑誌、
キリよく美しく消えゆく気なのかなー
という気がすこししていましたが
半年ぶりに無事でたので、よかった。

林田義行氏の編集する真面目なピンク映画専門誌で、
今回は恒例のベストテン発表号。

ここのベストテン選出方式は変わっていて、
①規定本数以上観た人に投票資格があり、
②観た映画すべてに10点満点で点数をつけ、
③全投票者の平均点をだし、
④その高い順に順位がつくというもの。

一位の7.59点と
二位の7.52点、
普通のベストテンを見慣れた目からみると同着に見えますが、
これはこれで大変フェアな選出方式だと思います。

で、
前年は『たまもの』(『熟女・発情 タマしゃぶり』)でベストワンを獲得し、今回また『かえるのうた』(『援助交際物語 したがるオンナたち』)で連続ベストワンにの栄冠に輝いたいまおかしんじ(今岡信治)監督ですが。。

正直、面白いし、愛着も抱かせ、応援もしているんですが、
どこか、ずっと、低空飛行している感が否めないと思うのは、
自分だけでしょうか。

デビューしてわずか3作目で『痴漢電車 弁天のお尻』(98)というとんでもない傑作をものにし、末恐ろしいと思わせましたが(『OL性白書 くされ縁』(00)でかすかに次なる飛躍を予感させたほかは)、全般、どこか予想範囲内というか、(今岡信治なら、次はどんなドエライことやってくれるんだろう、どんな想像もつかない仕事をいつか成し遂げてしまうんだろう!!)というある種勝手な、過剰な期待に対し、期待をおおきく超えることでではなく、ささやかな成果を積み重ねることで、いつかブレイクする、いつか日本映画をしょってたつ監督だという周囲の熱気を、結果的にはぐらかすようなかたちでキャリアをかさね、気付いたらもう中堅。師匠の瀬々監督だったらもう『雷魚』という到達点に達していたくらいの年月が経ってしまったのに、これが到達点、といえる決定打があったのかどうか‥。と、(あくまで主観的な印象ですが)ファンとしてはもどかしい気持ちでいたところへ‥‥、

今号巻末に収められた、
いまおか監督のインタビュー(というかモノローグ?)が。

そのインタビューの終盤、
いまおか監督が以下のように言っているのを読んだ。


〈変な言い方ですけど、
すっごい映画が撮りたいとかも思うんですけど、
なんか、
「俺には無理だなぁ」って。
「たかが知れてるじゃん、俺」って感じがあって。
十年ぐらいやってると
何となく自分の可能性みたいなものが見えてくるって言うか。
寂しいことでではあるんですけどね。
(略)
ま、それが下らないものであっても、
それは自分の世界の小ささであって。
しょうがないって言うか…。
(略)
まわりの力をうまく取り込むしかないっていうふうに
最近思ってて。
後は、数を撮る!
そん中で、
たまたまうまく行けば、
いいのがね、
ポツッ、ポツッと出来るかなっていうような気持ちで、
今いるんですけどね。〉


いまおかしんじが、
じぶんで、限界と諦念を口にしているのに、
すこし、ショックのようなものを受ける。

時間と、事実の積み重ねによって、
じわじわと、
おのれの才能や未来にたいする幻想が崩れ去ってゆく、

その絶望感。

悲しい。

こうしか出来なかった、
こうしか生きてこれなかった、
という絶望感をもつ他人が、
同じように感じ、生きている他人がいる、
悲しさ。

いまおかしんじへのもどかしい感情は、
何者にも成り得てない、
自分自身へ苛立ちだ。
と思った。

勝つ根拠もなく、
『たまもの』で16ミリ同録&ハードコアに賭け、
『絶倫絶女』で他人の脚本をそのまんま撮ることに賭け、
手ぶら、無策に近い状態で
暗中模索しているいまおかしんじ監督は、
いつまでもモヤモヤ、ヤキモキさせる、
ひとごとじゃないような、目が離せない、存在です。

theme : 雑誌(既刊~新創刊)
genre : 本・雑誌

『あばずれ娘』ドワイヨン③

『あばずれ娘』 la doroless

(1979年、フランス、90分、日本未公開)

監督:ジャック・ドワイヨン
出演:マドレーヌ・デドヴィース、クロード・エベール

ノルマンディーのある貧村。
母親とどこかしっくりいっていない少女・マドレーヌは、登校中、すれ違う青年のバイクに、ふと、ヒッチハイクをするような仕草をしてみせる。止まらなかった青年・フランソワだったが、少女が気にかかりだし、少女の母親にしつこく尋ねて気味悪がられたりする。
フランソワは下校途中のマドレーヌを待ちぶせし、手をしばって拉致するも、少女は抵抗を示さない。自分の家の納屋に少女を連れ込んだ青年は、母と義父の目をのがれて少女の世話をやき、マドレーヌは一緒のベッドで眠るフランソワの肩に寄り添うようにして眠る‥。
ふたりの静かな、奇妙で親密な生活がはじまる。青年は少女の悩みの種である背中のできものを治してあげると誓い、仕事に出ては食べ物を買って帰り、文字を教える。やがて少女は「あなたのことを、お父さんとよびたい」と言い出し、青年のほうは、自分にはフィアンセがいる、となぜか嘘をつく。
ふたりにとっての、ふたりだけの幸せな日々も、
やがて犯罪として露見するときがくる‥。


長編第4作である今作も、『泣きしずむ女』同様、資金難から、長い期間完成をみなかった労作です(個人的には、当映画祭の最高作)。

この奇妙な、実話をもとにした物語を、状況説明や心理の説明を一切排し、セリフすら最小限におさえて、
いま、この瞬間の、感情とそれの宿る身体を描く、
ことに全力を注いでいる。
背景や風景への興味を遮断し、ひたすら感情の発露する瞬間にのみ執着するドワイヨンの探究心の方向が、90分という、この時期のフィルムの上映時間を決定しているようですが、それまでの狭い空間と狭い人間関係の描き方の集大成のような、2時間13分という例外的な上映をもつ『女の復讐』あたりを境にして、立体的な人間関係や空間に徐々に拡散していき、上映時間も100分前後に落ち着いて、ドワイヨン作風もさすがに大人びてゆきますが、ここでは、人と人との視線と仕草と沈黙による、原初的な関係の世界が描出されています。

ドワイヨンの大きなテーマである、おおきく年齢差のある愛情関係が、初めて正面から描かれた作品ではないでしょうか。

青年役も少女役(少女役のマドレーヌは当地の子供から選ばれた素人)も、寡黙に素晴らしい存在感をしめしており、自然な光線と自然音のなか、目を背ける犯罪劇というよりも、かすかなユーモアすら感じさせます。

theme : 日本未公開作品
genre : 映画

しまった


『AERA』四月十七日号に

〈『東京タワー』本屋大賞3回目でブーイング〉〈東京タワーでいいの?〉〈埋もれた名作を発掘し、「10万部を30万部にする」はずの賞が、ミリオンセラーを選んだ。3年目の「変質」に、選んだ人たちも揺れている〉

って記事(特集?)が出てたなんてまったく知りませんで、後追いみたいに似たようなこと書いてしまって(5/1)、今更ながらそれを知り、多少自己嫌悪中。。
出来事にはすぐ反応しないと後悔しますねー。

theme : 雑誌(既刊~新創刊)
genre : 本・雑誌

大槻ケンヂと津川雅彦

大槻ケンヂが、あるエッセイで、

マキノ雅彦版『寝ずの番』に言いがかりをつけていたんですが、
その言いがかりは間違っているとおもい、
それについて、多少言いたいことがありました。

大槻ケンヂは、『寝ずの番』を観て、
スクリーンに映し出される文字、
〈原作者・中島らもの扱いが小さかったこと〉に
〈ムッと〉したという。

〈どんなに特異な存在も人々の記憶から忘れられていくのは早い〉と寂しく思った、ということらしいのですが。

まず、大槻ケンヂのいう、大きい文字でドーンと
〈原作 中島らも〉
と出ることが、果たしてリスペクトしていることになるのか、
ということ。

なんでもいいのですが、例えば『トニー滝谷』で、画面を覆い尽くすような巨大な文字で

〈村・上・春・樹〉

とでれば、
(ああ、この作り手たちは村上春樹をリスペクトしているな)
と思うのでしょうか?
商売のダシにしているようにみえて仕方ないのじゃないか、
かえって軽んじているように感じられるんじゃないのか、
と僕は思う。

また、たとえば『火まつり』なり『十九歳の地図』なり(古くてスミマセン)の原作が中上健次だからって、でっかく〈中上健次!!〉って前面にだすのは、じつに非・中上的で、さりげなく小さく他のスタッフと変わらないサイズの文字を使用しないのであれば、きっと、その映画は、中上健次の小説の、何かを履き違えた失敗作になっているに違いない、とおもう。

そして、なにより、
『寝ずの番』という映画の、
面白さや達成度は別に考えるとしても、
僕が感動したのは、

日本映画の始祖ともいえるマキノ省三の。
世界映画史に誇りうる
世界最高の映画監督のひとりであるマキノ雅弘の。
その、物凄い、由緒正しい血をひいた津川雅彦が、
ついに〈マキノ〉を名乗って映画監督業に乗り出した、
しかし、
そこで津川雅彦がめざしたのは、
マキノの血を継ぐものとして才能をみせつけ、
ひとを感心させることではなかった。
それは、

〈無条件に面白い、らもさんの原作の世界をいかにして映像にして見せるかに全てをかけた〉

ということ。

三つの通夜をひとつにつなぐ、
明快なストーリーがないこの映画、
一本の作品としてひとを感服させるために、何がしかの作為的な〈仕掛け〉をもって繋げてしまえば、初期のタランティーノや三谷幸喜や『運命じゃない人』などに苦もなくヤラレてしまう日本の観客なんぞすぐ感心して、津川雅彦の才気を褒め称えるのは目に見えているのに、

その、一本の、一貫性をもった映画ではないという、目につきやすい欠点(?)をじゅうぶん意識したうえで、〈確かに〉、しかし、それでも〈原作の可笑しさを忠実に再現したかったから〉、一晩の話にしてみたらよかったのではという問いにも、〈ふーん、ワンナイトね。いずれにしても、まとまり過ぎると、らもさん的しっちゃかめっちゃかな味わいがなくなっちゃうな〉と気乗り薄で、それならどうするかというと、〈ストーリーがないことを長所にするためにはキャスティング、つまり芝居の面白さが勝負だと思ったし、まずは、「おそそ」「ちんぽ」といった言葉を使ってもゲスにならない役者〉として中井貴一、富司純子木村佳乃らを選定をする。
豪華なキャストも、中島らもの世界を崩さず、最大限その魅力を引きだすために奉仕している。

ここでは、
“このオレ、津川雅彦”を売りこむことよりも、
俳優陣の魅力を引きだすことよりも、
それら、演出も、演技も、はっきりと、
らもさんの原作の魅力を忠実にみせることに、
まず第一に力が注がれています。

そのことに感動した。

津川でも、マキノでも、長門でもなく、
原作の中島らもの小説世界をアピールすること。

中島らもが存命だったとしたら、
この映画を観て、
津川(マキノ)雅彦と語り合って、

果たして〈ムッと〉などしたでしょうか。

どちらかといえば、どちらかといわなくてもハッキリ好きな書き手に属する大槻ケンヂですが、許せないのは、そんなイチャモンつけておいて、
それは単にマクラに過ぎず、
本論は、中島らもの後継者は自分であって、多大な影響を受けており、〈19日発売の最新小説『ロコ!思うままに』に、彼に対する献辞を記した〉という“らも権”のアピールから、結局、自作の宣伝、みたいな醜悪さ。

こうなると、
文字の大きさにムッとした、
と言っているのも、話を転がすためのつくり話(つくり感情)であって、それにひきかえ自分がいかにらもさんをリスペクトしているのかという事を言うための道具に映画『寝ずの番』を利用しているのではないかと疑いをもちます。

“中島らも的世界”を大事にする、
ということにおいて、
大槻ケンヂのやり方は、
津川さんとは、間逆のスタンスだと思います。

theme : 映画の見方
genre : 映画

『泣きしずむ女』ドワイヨン②

『泣きしずむ女』 une femme qui pleure

(1978年、フランス、90分、日本未公開)

監督:ジャック・ドワイヨン
出演:ジャック・ドワイヨン、エディ・ポトリフ、ローラ・ドワイヨン


他に女をつくっていて一週間以上家に帰ってこない夫が、ようやく帰宅する。果てしない諍いのすえに、出ていけと言われ、夫は泣き続ける妻と娘を残して去ってゆく。
共に暮らしだした愛人は子供が欲しいと言いだし、妻は愛人に接近し、ヒステリックに関係をかき回し、結果、なぜか娘と4人ひとつ屋根の下で暮らす羽目になってしまうが、妊娠騒動のすえ、愛人は家を出る。
夫の愛人を車で追う妻のうちに、衝動的に殺意が湧き上がってくるが。。


過去のある特定の時代に舞台が設定されていたり、注文仕事であったりと、ドワイヨンの仕事としては例外的な前作『小さな赤いビー玉』(75)の失敗のあと、様々な助成機関からの援助に見放されたり、くる仕事も『~ビー玉』の二番煎じばかりだったりと、困難と迂回を余儀なくされた企画を2年の空白をもってようやく実現化された本作は、
〈限定された登場人物、愛と憎悪の表裏一体となった感情をヒステリックに演じてゆく役者たち、殺伐とした室内空間〉の演出、といった ドワイヨン節全開で、第三作にして確固たる作風を確立した作品です。

精神分析的解読を安易にゆるさない、反・心理小説的な、心理に還元されえない生(なま)の感情が、他者へむけて放射されるさまが描かれています。

夫ジャック役を監督自ら演じ、娘のローラ役を実の娘ローラが配役されており、リアリティある親子を演じ(?)ています。

theme : 日本未公開作品
genre : 映画

新宿ピカデリーの閉館‥

200605152036244
200605152036242
20060515203624
円楽さんがついに『笑点』を卒業したり、
ボブ・サップが、アーネスト・ホースト戦の予定されていたK-1アムステルダム大会で、試合開始超直前に敵前逃亡するという前代未聞の行為をしでかし、ファイターとして完全に終わりを迎えたりして、

さまざまなものの終焉があった、この週末。

あの、
新宿ピカデリー(新宿松竹会館)
が閉館する、という、
映画の制作・配給・興行が一体となっていた、
ひとつの時代の“終焉”もありました。

なんでも、そのうち10スクリーンのシネコンに生まれ変わるそうですが、シネコンなんかどこにでもあるし、新宿の拡大ロードショー館としてはピカイチに好きだっただけに、残念です。

ピカデリー1のような、千席前後の劇場はめったにないうえ、同じような容量のハコである新宿プラザ劇場やミラノ座にあるクサクサした感じがなく、のんびりとした田舎っぽさも魅力でした。

松竹という会社じたいの垢抜けなさ故のものでもありますが、歌舞伎町でもないし、ごみごみ騒然としている新宿三丁目の映画館群ともちがう、ちょうど位置的に中間にあり、新宿の映画館でよくかかるCMにならっていえば〈都会のオアシス〉ととりあえず大げさに言ってみたい案配の良さで、地下にあるピカデリー2、3に付随する松竹ショップのホコリを被ったような牧歌感も、いったい誰が買うのかわからないのにいつの時代も売っている〈松竹カレンダー〉的なイメージそのままに、やはり時代に逆行していて、それが癒やし効果もあると同時に、いずれシネコンに取ってかわられる運命をもしめしていたのでしょう。

あまりの小ささとチャチさに、
ブーイングを浴び続けていたピカデリー4も、
これでささやかな伝説と化したのではないでしょうか?
〈ピカデリー4〉経験のある先行世代は、
未経験世代にムリヤリ語って聞かせる過去がまたひとつ、
出来たのでした。

theme : 映画情報
genre : 映画

『頭の中の指』ドワイヨン①

『頭の中の指』 les doigts dans la tete

(1974年、フランス、104分、日本未公開)

監督:ジャック・ドワイヨン
出演:クリストフ・ソト、オリヴィエ・ブスケ、アン・ザカリアス、ロズリーヌ・ヴィヨーメ


パン屋で働くクリスと、母親と同居し時々働くだけのレオンは、行きつけのカフェでリヴと出逢い、意気投合する。
クリスには同じパン屋で働くロゼットという彼女がいる。リヴを友達の家に車で送ったあと、クリスとレオンはロゼット住む寮仲間の空虚なパーティーに顔をだす。
しばらく日が経ち、クリスの部屋に突然、泊まらせてくれとリヴが現れる。リヴと過ごした夜中、クリスは寝坊して遅刻して、親方にクビを言い渡されてしまう。
クリス、レオン、リヴに、リヴの存在を不愉快に感じているロゼットは、クビにしたパン屋を訴える算段を練る。地域労働センターの組合員を巻き込んで、親方に違約金を支払うことを承知させる。
はしゃいで祝杯をあげる4人だが、リヴとクリスが抱き合いはじめて状況は暗雲漂いだし、ショックでロゼットは倒れてしまう。部屋にこもってハンストをする計画をたてる若者たち。親方は金をよこそうとしない‥。


ドワイヨンの長編第一作は、トリュフォーに絶賛され、「ル・モンド」、「テレラマ」等にも讃えられ、興行としてもヒットするなど、幸福なキャリアのスタートとなった一本。

「ル・モンド」に載った実話にヒントを得て創作された物語が、キャストの、「ほとんどアマチュア」というより、素人たちによって、いきいきと新鮮/鮮烈に演じられる。〈数少ない登場人物、舞台は主人公のアパート、男女間の愛憎、俳優たちの自然な台詞まわし〉と、すでにドワイヨンらしさがうかがえる。

(トリュフォーの評は『わが人生 わが映画』を参照のこと。)

theme : 日本未公開作品
genre : 映画

ジャック・ドワイヨン映画祭

ドキュメンタリー監督・小川紳介の本の話のとき、

〈ジャック・ドワイヨン映画祭〉

に少し触れましたが、そのあと検索で調べてみると、
その映画祭のみの上映で一般劇場公開していない4作品
(『頭の中の指』、
『泣きしずむ女』、
『放蕩娘』、
『あばずれ娘』)
について、ほとんどまったく誰も触れていないことに、
色々、複雑な気持ちになりました。

上記4作品および映画祭の記録を、
なるべく私見はまじえずに、
残しておこうと思います。

〈ジャック・ドワイヨン略歴〉

1944年3月15日、フランスのパリに生まれ、映画に情熱を注ぐ青春時代を過ごす。大学卒業後は保険外交員や郵便局員を経て、66年、アラン・ロブ・グリエの『ヨーロッパ横断特急』の編集助手の職を得る。数本の短編に編集助手として関わった後、フォルジャンジーの『聖火』、エディー・マタロンの『小さすぎる僕の友達』を編集。そしてPR映画、記録映画、短編劇映画を撮ったあと(そのなかの『トライアル』はシネクラブで度々上映)、73年、『西暦01年』の共同監督としてデビュー(アラン・レネ、ジャン・ルーシュと共同監督)。
74年、第一長編『頭の中の指』をトリュフォーが絶賛。つづく『小さな赤いビー玉』も高い評価をうけ、日本でも公開される。〈が、自ら主演した次の『泣きしずむ女』(カンヌ映画祭ヤング・シネマ賞)で作風を一変、ごく少人数の登場人物による息詰まる程の感情のせめぎ合いを執拗に描写するプライベート・フィルムの如き独特の作品スタイルを打ち出した。以来一貫してマージナルな制作姿勢を保ちながらもコンスタントに作品を発表し続けている。〉

‥ヌーヴェルヴァーグ以後の世代をフィリップ・ガレルやジャン・ユスターシュとともに代表する映画作家であるジャック・ドワイヨン、最近は滅多にその作品が公開されなくなってしまいましたが、
ある時期、
この、登場人物がピリピリして互いを傷つけあう、
とりたてて物語内容のないような一見地味な作品群が、
なぜか、突然公開ラッシュを迎え(90年前後)、
その後、パッタリと公開されなくなりました。

あまりドワイヨン的に見えない『ポネット』が97年に唐突に公開されて大ヒットしてからも、状況は変わりません。

『自由、夜』がポツンとレイトショー公開されただけで紹介の途絶えていたガレルの映画はいつの間にやらコンスタントに公開されつづけ、いまや立場は逆転。はやく逝ってしまったユスターシュも一気に紹介がすすみ、現在の日本では、ガレルやユスターシュのことは話題になっても、ドワイヨンに触れられることは少なく、もしかしたらブノワ・ジャコーなどよりもマイナーな位置に甘んじているのではないでしょうか。

ヌーヴェル・ヴァーグが(ゴダールの登場が)、真にもたらしたものとは、ヌーヴェル・ヴァーグの〈後継者たろうとする人材を、ほとんど神経症的とも呼ぶべき欠語感〉の中にとじこめ、その中で映画をとらなければならない不幸な世代としてユスターシュ、ガレル、ドワイヨンがいる、と蓮實重彦は言う。〈中で最も聡明だったドワイヨンは、「ヌーヴェル・ヴァーグ」を支えた批評誌『カイエ・デュ・シネマ』的風土からあえて身を遠ざけることで自分を築く〉ことに成功する(ユスターシュは〈そこに埋没しきったままみずから生命を絶〉ち、ガレルは〈アメリカのアヴァンギャルド的な雰囲気へと逃れることで〉〈かろうじて身をまもった〉)。だから、ドワイヨンがイングマール・ベルイマンなんかを、影響された、敬愛する作家として挙げているのを、馬鹿なひと、と軽蔑の対象としてみる判断材料にするのではなく、ベルイマンを選択するという行為は、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の衝撃から身を守り、創造へのポジションをなんとかかたちづくるための、必死の選択とみるべきでしょう。
(いまでいえば、アヴァンギャルドな作品が横行する国映・新東宝の、長回しを多用する先行世代にたいして、カットを細かく割り、女性の生理に寄り添うような作風の選択をした田尻裕司が、地味な、比較的頭のよくないひと、と思われがちなのと似ていなくもない。)

ビデオやDVDで、幾分かのドワイヨン監督作品をみることはできますが、スクリーンで体感せずに良い悪いを判別できるようなタイプの映画ではないので、シネクラブや名画座的な環境が熱をもって時代を先導していない現在。一見派手なところのないドワイヨンの、再評価の機運が盛り上がる可能性は、かなり低い、といえます‥‥。

〈ジャック・ドワイヨン映画祭〉

70年代、初期ドワイヨン作品回顧上映
主催:アテネ・フランセ文化センター

開催:1990年7月27日~8月7日

7月27、28日『頭の中の指』
7月30、31日『小さな赤いビー玉』
8月1、2日『泣きしずむ女』
8月3、4日『あばずれ娘』
8月6、7日『放蕩娘』
特別企画:ドワイヨンと語る会(司会・梅本洋一)

〈ドワイヨンと語る会〉については梅本洋一が文章を残しているのでそちらを。

〈私にとっても、ジャック・ドワイヨンの隣りで司会を務めたあの一時間は、貴重な体験でもあった。そして、何を質問してくるか判らない観客の言葉を通訳しなければならない緊張感はあったものの、全体としてはとてもリラックスできて、ドワイヨンにとっても彼の映画を愛する人々(世界でそれほど多くの人々ではないが、熱狂的に彼の映画を愛する人々)との出会いは、彼を少しばかり幸福にしたのではないかと思う。その一時間について、主な質疑応答を訳出しつつここで報告してみよう。〉

とあって、
そのうちの僕の気に入った質疑応答をひとつ引用します。

観客:〈『ラ・ピラート』のロール・マルサックや『15才の少女』のジュディット・ゴドレーシュは少女なのに大人のようなまなざしをしていますが、『ラ・ピラート』や『放蕩娘』のジェーン・バーキンはまるで少女のようなまなざしです。演出上の秘訣を教えて下さい。〉

ドワイヨン:〈そう言われればそうですね。僕はそんなこと考えたこともありませんでした。でもジェーンの場合、彼女は10歳から12歳ころの思い出をとても大切にしてるんです。それから先、齢をとるのを拒否しているようなところがありますね。(略)でもロール・マルサックを何故『ラ・ピラート』に起用したのかと言うと、オーディションのとき、すでにあのまなざしを持っていたからです。でもオーディションのときは、長い髪を前に垂らしていて、顔は違いました。僕が彼女にオールバックにしろと言ったんです。視線が引き立つからです。でも演出で視線を変えるなんてとてもできない。ああしたまなざしは彼女たち独特のものなんです。〉

(当時、僕は、ジャック・リヴェット『彼女たちの舞台』(88、日本公開91)のローランス・コートと『ラ・ピラート』(84、日本公開89)のロール・マルサックの、ふたりのオールバックの少女の世界を射抜くかのようなまなざしに、完全にやられていました。オールバックフェチなのかなんなのか。。)

(以下、『頭の中の指』『泣きしずむ女』『あばずれ娘』『放蕩娘』につづく。)

theme : 映画
genre : 映画

荒井晴彦のこと

脚本家であり、
『映画芸術』編集長(’88~)でもある、

荒井晴彦の実物をはじめてみたのは、

1991年10月13日、

三浦朗特集をやった、
川崎市民ミュージアムにおける
シンポジウムでのパネラーとしてでした。

三浦朗といっても、
知らないかたもいらっしゃいましょうが、
日活のプロデューサーとして、神代辰巳の殆どの作品を手がけるなど、70年代、日本最期のスタジオ・システム、〈日活ロマンポルノ〉というムーブメントを支えた中心的なプロデューサーで、1990年10月8日に呼吸心不全のために他界されました。

荒井晴彦との関わりでいえば、当人(荒井氏)の文章によると、三浦朗は、〈僕を世に出してくれたプロデューサーだった。三十を過ぎ、名もなく貧しく美しくなく、ただヒトに絡むことだけが生きがいみたいだった時、ゴールデン街の話なら書けるだろう、書いてみるかと言ってくれた人だった。僕はラスト・チャンスだと思って、『新宿乱れ街 いくまで待って』を書いた。〉
そうやって三浦朗にデビューの後押しをしてもらった荒井晴彦。三浦朗がいなかったら脚本家・荒井晴彦はいなかったかもしれないし、不安がる神代辰巳を説得し、お互いの代表作となる神代+荒井コンビの『赤い髪の女』(ケータイだと例の“あかい”の漢字がでないのでこの字(→“赤い”)で代用します)をセッティングして作り上げることになる三浦朗は、〈日活ロマンポルノ〉の父であると同時に、(小川徹とともに)映画における荒井晴彦の父がわりでもあったようです。

その三浦朗の仕事を検証する特集が、
死後一年を経て、

(かの、伝説の〈レンフィルム祭〉が
翌92年に行われることになる)
川崎市民ミュージアムで、

『プロデューサー三浦朗の軌跡』

として開催され、数本の三浦朗プロデュース作の上映
(その日の上映は上記『赤い髪の女』だったか、)とともに、

シンポジウム『三浦朗の生きた時代』

がおこなわれ、
そのシンポジウムでは、寺脇研、荒井晴彦、黒澤満、宮下順子(美しかった!!)、根岸吉太郎、白鳥あかね、姫田真左久という凄いメンツが壇上に並び、客席にはほかに、三浦夫人とその娘たち、上垣保朗、斎藤博がいました。

ながい話になったわりには、じつは三浦朗のことはこの話にあまり関係なくて、ただ荒井晴彦をみたシチュエーションを説明してたらこんなんなってしまいましたが、はじめてみるナマのアライハルヒコは、神経質で扱いづらい大人のひと、という印象で、イライラとした口調でなされる発言やその態度は、活字になった発言や脚本作品から描いていたイメージと大きな隔たりはなかった。

活字のなかの荒井晴彦の印象は、
映画にたいするさいの、欠点を探してあげつらうような減点方式な批評方法、つまり、〈映画〉に揺さぶられたり興奮したりして、われわれのうちに生じるいろいろな未知の感情を解明するものとしての〈言葉〉、からは隔たっていると感じられた、そのヒガミネタミソネミを源泉とするかのような批評方法の用いかたに、当時、反感を覚えていたもので、ジョン・カサヴェテスの『オープニング・ナイト』について、澤井信一郎とともに延々とクサす座談会の載った号などは、不愉快でしょうがなくて捨ててしまい、あとで必要にかられて専門の古書店でわざわざ買い直すはめになりました。

いまでは、荒井氏のヒネたところも、なんか可愛らしい、
チャーミングなものとして受け入れる気持ちになってますから、
年月も流れさせてみるもんですが。

で、シンポジウムは、
やがて質疑応答にうつり、対人関係への距離感のとりかたに難のある、まあ、怪しいオタクっぽい聴衆のひとりが、聞き取りにくい喋り方で小さくまくしたてていたが、どうやら神代辰巳『四畳半襖の裏張り』のNGカットについてのウンチクを披露しているだけらしく、壇上の面々も観客も、ウンザリして困惑するのでしたが、ひとり、荒井晴彦は、〈三浦朗〉と関係のない話をするその男に対し、憎々しげに、効果的に、侮蔑する言葉を浴びせて、微妙な空気がながれるにまかせていました。

そのとき感じた、
大人げない大人だなあ、
という感想は、「大人げない」=「少年の心を忘れない」、的な等式を形成することはなく、そういう“若さ”の要素としてでない、あくまで、〈大人〉の大人げなさ、という欠損感として、ぼくのイメージのなかの荒井晴彦像は生成していきました。

正直、自分のおもな生活活動範囲は
新宿、中野、立川の3つの街のみなのですが、
『争議あり』の日記部分を読むと荒井氏、
しょっちゅう新宿、そして立川に出没していたようですが、
残念ながら、
そこでは荒井氏を一度も見かけたことはありません。

しかし、
中野の街では、何度も見かけた記憶があります。(おそらく、たぶん、『映画芸術』の編集部が中野にあった、94年から95年にかけてのことだったのでしょうか。)

みかけるたび、
必ず荒井晴彦は独りで歩いていて、
連れがいたことはありませんでした。

暗い、オッサン、
というオーラ(?)ギンギンで、
関係者でもない者が気軽に話しかけられない雰囲気を
発散しておりました。

ある夏の日、
例によってひとりで歩いている荒井晴彦を発見。

その手にはアイス。

暗い、オッサンが独り、
棒アイスをペロペロたべながら歩く姿からは、
やはり〈永遠の少年〉感は漂っておらず、
その姿は、あくまで
〈大人げない大人〉としての生をまっとうしているさいちゅうの、
ヘンで、幼稚で、ヘンクツな、オトウサン、でした。

theme : 映画情報
genre : 映画

『文藝』夏号

20060512235801
河出書房の文芸誌『文藝』の夏号は、
高橋源一郎特集。

個人的には、
小説家・高橋源一郎に興味が薄れていっているとはいえ、
たとえ〈スランプ〉ですら
〈何がしかのもの〉
にしてしまう高橋源一郎の〈カナリア〉ぷりには、
このひとが未だに日本文学の最前線にいることを表していると
思わせるものがあります。

例えば、島田雅彦がどんな出来の小説を書こうが、小説/文学にいかなる衝撃も与えなければ、危機感を煽ることもありません。(せいぜい、才能のある若手である中原某を、大朝日の権威を背に無神経な物言いによって怒らせて、その連載を中断させるというような種類の迷惑さで、顰蹙をかっているのが最大の仕事でしょうか。)

〈書くこと〉の〈不可能性〉に、ときに絶望的に、ときに楽観的にこだわり続けてきた高橋源一郎を相手に、4人の若手作家が〈40の質問〉(ひとり10問)を提出する、という企画に引っ張りだされた〈若手〉のうち、中原昌也のものは、さすがに余裕綽々、ひねりがきいていて、無意味なループを描く応答となっていますが、

対照的に、目を背けたくなるくらい無残なのは
吉田修一で、
ファンの方には悪いのですが、〈書くこと〉の〈不可能性〉などファッションの問題としか思えないような、たんなる〈通俗娯楽小説〉の書き手のひとりに過ぎない小説家の、一生懸命がんばってみた設問は、

〈「言葉」の反意語は、何だと思われますか?
また、「高橋源一郎」の反意語もぜひ教えて下さい。〉

などというもので、
ほんとうに痛々しくて、
カワイソウナ、病名ニ触レテハイケナイオトモダチみたいで、
これは‥‥編集部の人選ミスということにして、
これ以上の吉田修一の悪口はぐっと抑えるべきかもしれません。

町田康は、
意外とおとなしい、
真面目で誠実な感じの質問で、なぜか、好感度があがる。
こういうひとは、
なにやっても、なに書いてもトクするタイプだなー。

theme : 雑誌(既刊~新創刊)
genre : 本・雑誌

今岡映画を専門館で

20060511180617
近年、
アテネフランセ文化センターの特集上映や、Pー1グランプリ、四天王や七福神の一部の作家の作品の一般劇場公開などで、普通の映画ファン層、殊に女性にも、ピンク映画を映画として観る風潮はだいぶ定着/浸透してきた気がします。

しかし、それはシネクラブ的な単館上映の映画館でのことで、
いわゆるピンク専門映画館へ、
気軽に普通の映画ファンが観にいくかというと、
なかなか、二の足踏んでしまうというのが実状だと思います。
なんか、オソロシイ感じしますよね、確かに。

そもそも、
情報誌に(というか、『ぴあ』に)、
情報が掲載されなくなってしまってからこのかた、
どんなものがどこの映画館でやっているのか、
一般のファンには目にはいらなくなってしまい、
インターネット等を活用するにせよ、
かなり能動的・積極的に情報を求めなければ、
専門映画館での上映に
リアルタイムで立ち会うことは困難となっています。

で、なにげに一番人気な。
いまおかしんじ(今岡信治)監督の新作が。
新宿国際名画座で、明日(12日)から公開されます!!

題名は『絶倫絶女』
(またの名を『おじさん天国』。他2本と3本立て上映。)

前作(『かえるのうた』)に引き続き、平沢里菜子が出演しています。(事務所と色々あるようですが、今後も今岡映画のミューズとして定着されると良いですね。)

専門館デビューするチャンスかと。

未知の場での経験、
アミューズメントとしても、いかがでしょうか。

theme : 気になる映画
genre : 映画

『地獄の警備員』(1)

90年代、初頭、

そのとき、ぼくは孤独だった。

話す相手もなく、
いや、たとえいたとしても、
他人に理解してもらったり、
共感という名の精神の交流が生じたりする見込みは
いっさいなく、
ぼくがここにいて、
なにを感じていても、
誰にも計り知れないうえ、
自分でも共感的な精神の交流を求めているわけでもないような、
出口がやがてみえてくる要素皆無の孤独のなか。

黒沢清の、孤独に、遭遇した。

『地獄の警備員』という名の映画として。

さきに言ってしまえば、
90年代の日本映画の、自分にとって、個人的なベストワンとして揺るぎない位置にある、黒沢清監督の『地獄の警備員』は、面白いから、是非!! と他人に勧めうる映画とは言い難いのですし、『CURE』や『復讐』二部作で黒沢清の凄さに気づいたようなひとには、絶対にわからないだろう何かを宿しています。

あるビルに勤める元・相撲取りの警備員が、
ビル内の人間を片っ端から殺してゆく、
という、なんの意味もない物語しかもたないこの映画は、
何を宿しているのか。

ふつう、
〈映画〉を評価するために人々が手っ取り早くとりつくような手かがりが、ハシゴをはずすようにして、破棄され、観客は、居心地の悪い宙吊り感だけを頼りに、この映画の時間の流れについてゆくしかない。

そこには、

画面の、映像の美しさも、
見事な演技も、
緊迫感ある展開も、
味わい深い人間描写も、
メッセージも、
恐怖も、
感動も、
笑いも、
カタルシスもなく、
観客の、従来の映画を観賞してきたさいに用いてきた自分のなかの感情の動きや評価基準や語彙を失調させ、言葉や情動を圧殺してまわる。
この映画のなかで、ロッカーに閉じ込められたまま押しつぶされて殺される者のようにして、観客は、声なき、必然性なき、暴力を受けることになる。
〈暴力〉とはいっても、そこにはもちろん、ひとを安心させうる〈過激〉さなどどこにも見当たらない。『地獄の警備員』のまえには、〈過激〉な〈表現〉の〈限界〉に〈挑みつづける〉三池崇史の映画など、ちょうどいい心理学的なサンプルでしかないでしょう。

事実、ぼくが観た回の、上映の終わった劇場では、10人に満たなかった数少ないマニアックな観客たちでさえ、腑に落ちないイヤ~な表情で、会話もなく劇場をあとにしていました。

そして、ひとりで劇場に来ていたぼくは、

たまらなく不快だった。

すみずみまで。

ヒロインの衣装の、
襟元のフリルまで、
吐き気がするくらい、
不快だった。

それが何か、あとになってわかっていった、気がする。

当時、信頼出来る映画批評家として隆盛を誇った蓮實重彦や山根貞男の言葉さえ、『地獄の警備員』には届かなかった、触れえなかった。
ましてや、サスペンスを盛り上げるテが足りないだとか、元・相撲取りが元・相撲取りにみえないとか、本質を見誤った批判など論外、当時映画監督ではなかった青山真治や塩田明彦の批評も、あと一歩、真っ正面から語りえなかった。

そのようにして、
『地獄の警備員』という作品は、
〈孤独〉という概念を完遂、
肉体化してみせた。

やがて、
〈映画〉や〈世界〉と折り合いをつけることになる
黒沢清は、当然、世界的な映画作家と目されるようになる。

真の恐怖と引き換えに。

(つづく)


『地獄の警備員』

(1991年、日本、97分)

監督:黒沢清
出演:久野真紀子、松重豊、長谷川初範、諏訪太朗、洞口依子

theme : 邦画
genre : 映画

『爆撃機の眼』補遺

20060509115726
ずっと前に触れた、
渋谷のアップリンクで上映された『爆撃機の眼』、

上映後にロビーで八坂俊行監督が
〈『爆撃機の眼』シール〉
配っておられて、もらった、
という話をしましたが、

実はどこにいったかわかんなくなってました!

それを、
ある雑誌のなかから発見、
再会しました!!

良かった。
なくしたと思って、
なんか罪悪感かんじてたんです。

theme : 日本映画
genre : 映画

井口昇版『卍』を

『おいら女蛮』『卍』『猫目小僧』と、
今年に入ってから監督作品の公開ラッシュで
勢いが止まらない井口昇監督ですが、

絶賛するか、距離をおくかしかないような
観る側のスタンスの現在のあり方に、
正直、
かすかな居心地の悪さというか、
いかがわしさを感じています。

全肯定的な物言いで、
少しでも面白い部分があると
爆笑した、傑作だ、
とホメたおす人が散見されますが、
果たしてどうなんだろうか。

『クルシメさん』は感じのよい繊細な小品で、『恋する幼虫』が完成度を度外視した破天荒な映画でしたが、『まだらの少女』をはじめ、去年から今年にかけての作品群が、それら上記2作品に比べて落ちるのは、ほんとうは誰の目にも明らかでしょう。

本心でつくりたいものに近いものを作れていたのかもしれない、インディーな時の映画とは違い、原作つきの商業映画の演出家として、しっかり自分のカラーを出して健闘しているとか、量産のなか、クオリティという尺度とは別のモラルを背負って疾走している、とか、まあ、いろんなフォローのしようはあるかと思います。

しかし、言いたいのは、
そこで思考や感じることを放棄し、とにかくホメときゃ、先端にいるという安心感を得られる、そういう便利な道具に〈井口昇〉という〈ブランド〉が使用されているだけなんじゃないのか?という危惧。

『卍』について、
映画として観ても、エロ目的で来ても、どっちのお客さんにも対応(満足させる)できるように作った、という監督の談話もありましたが、
真面目に言ってどっちもハードルが低いところでよしとしているんじゃないでしょうか。
AV時代のレズものと同じような物語を語りながら、同じようなディープキスシーンを演出しながら、〈結局最後はそれしかない〉=〈AV〉時代の作品のほうが、もちろんエロについて先鋭的探求的に、少なくとも『卍』より先を行ってましたし、〈映画〉としても、これを正面から100%全身全霊楽しむのは困難が伴い、〈カルト〉という名の優しい〈庇護膜〉があってようやく楽しみを見いだせるたぐいのものでない、とは言い切れないところがあります。

正直、いろいろと面白い映画で、原作にかなり忠実でありつつどこからどうみても井口昇の映画であり、物語であることには、驚きと敬意を感じるし、プッシュしたい気持ちもあるのですが、とにかく、この、なんか、イヤ~な紋切り型な圧迫感が取り巻いていることに、危機感を感じます。
比較対象も、増村保造版『卍』にだけ言及しときゃいいという画一的で怠惰な空気が漂っており、なにか、ピークでもないのにピーク扱いして誤った時期に持ち上げられている不幸を感じます。

井口昇の絶頂期は、
こんなものじゃない、きっと。

『卍』

(2005年製作、日本、80分)

監督:井口昇
原作:谷崎潤一郎
出演:不二子、秋桜子、荒川良々、野村宏伸

060318.jpg

theme : 日本映画
genre : 映画

曜日の感覚、めちゃイケと内P

20060508095438
体の内から外から、
血行を良くする薬などで体調の悪さに対処。
出勤中です。

ゴールデンウイーク中は
曜日の感覚がなくて参りました!
いつも土曜日にしか感じられなくて。

土曜日はいつも帰ってから
録画しておいた『めちゃイケ』をみる習慣が長年あるんですが。
この一週間は帰ってくるたびに

(めちゃイケみなきゃ、あ、今日は土曜じゃないんだった)

と勘違いし、挙げ句の果てには
ほんとうの土曜にはめちゃイケやってなかった。

そんなに、
心から楽しみにしてるっていうのとも違うんですが。

長いあいだの習慣、
タバコみたいなものですか。

同じように、って別に同じようにでもないな、
もうとっくに終わっちゃった『内村プロデュース』、
終わったにもかかわらず、
いまだに月曜日家に帰ってくると

(さあ、内Pみるぞ!!)

と楽しみになってる、自動的に。
いつか治るんですかね~。

誰しも何らかの、そういう番組なりなんなり、
もってるものじゃないでしょうか。

もう何年も読んでないのに
「今日、ジャンプの発売日だな」とか。

その内P、今日はほんとうに放映される、スペシャルが!
あの、人間関係のバランスが、素敵だ。

そういえば
『キネマ旬報』編集部から、映画『ピーナッツ』の別冊増刊号
が出ていたけど、
あれはどうみても『内P』が好きで、
『ピーナッツ』にかこつけて実は『内P読本』をやりたかった、
という感じが微笑ましかったですね。

theme : 日記
genre : 日記

GWつかれ

20060507223125

頭いたい‥‥

具合わるい‥‥

ゴールデンウイークって
飲食は1日も仕事休めないからイヤだ~

体がグッタリしてます‥‥

theme : 日記
genre : 日記

映画版『姑獲鳥の夏』

356ff16e36e134c768bbb5f50878c269.jpg

『姑獲鳥の夏』

(2004年製作、日本、124分)

監督:実相寺昭雄
原作:京極夏彦
出演:永瀬正敏、堤真一、阿部寛、宮迫博之、原田知世、田中麗奈、いしだあゆみ

戦争直後の混乱もややおさまってきた昭和20年代の東京。産婦人科を営むある屋敷について、奇怪な噂が流れる。屋敷の娘が20ヶ月のあいだ妊娠しつづけているという。そのうえ、その夫も屋敷内の密室であった部屋から忽然と消えてしまった。騒動にまきこまれる小説家の関口、探偵の榎木津、警察官の木場古本屋にして憑き物落としである京極堂。。

公開時、ものすごく今さらというか、
なぜかこのタイミングでようやく、という感のあった、
京極夏彦の『姑獲鳥の夏』の映画化です。

乱歩的というか、猟奇的というか、少し昔を舞台にしたおどろおどろしい物語だとすぐに起用される監督といえば実相寺監督で、ケレンたっぷりに思わせぶりなテクニックを駆使して雰囲気/ムード作りに全力を注ぎ、結果、なぜか不思議と退屈な映画が出来上がっている、ということになります。

『姑獲鳥の夏』ミーツ〈実相寺昭雄〉、

という安直にもほどがあるプロデュースの期待(?)に、
実相寺監督は見事(?)にいつも通りの演出でこたえています。

製作側からすれば、
大体どんなものを作るか想像しやすい実相寺監督は、
商品管理が容易な、使い勝手のいい演出家なのかも知れません。

さて、今や、
江戸川乱歩よりよっぽど広く読まれている
〈京極堂シリーズ〉は、
熱心なファンを(各キャラに)多くもつだけに、
それぞれのキャラクターにあった配役かどうかが
シリーズ化への鍵ともいえます。
例えば、
『NANA』の映画化だったら漫画原作という性質上、
ビジュアル的なヒントはまんま用意されていますが、
小説の場合、
活字からおのおのが脳内に描いたイメージが
そのキャラとして個人のなかに息づいており、
ファンが満足いくキャスティングは至難の技でしょう。

しかし‥‥これは‥‥いったい‥‥

○小説家・関口を演じるのは永瀬正敏。
極度の挙動不審者で、人間社会に適応しているのが奇跡的なくらい精神が脆い関口を、どちらかというと鈍重な健康さを漂わせた永瀬正敏では‥。なにしろ小泉今日子と結婚するぐらい普通のセンスの人間だから、どう演じても実に安定感がある。手塚とおるとか井口昇とかどうでしょう。

○拝み屋・京極堂を演じるのは堤真一。
狙いは、分かるんですが、堤真一の顔、俗世間のかおりがプンプンするタイプ。浮き世離れのウの字もない。演出の問題も大有りだがクライマックス(?)の憑物落としのシーンも、安い詐欺師にしか見えませんでした。豊川悦司あたりの口調をもってないと。意外と、ちゃんとした映画俳優なら誰でもイケる役だと思うのですが‥。

○刑事・キバシュウを演じる宮迫博之。
スイマセンがー、宮迫の演技は大嫌いなので測定/判断不能です。『蛇イチゴ』でさえだめでした。あんな弱そうで、人目が気になってしょうがないような木場はいません!!

○天才・榎木津は阿部寛。
榎木津は凄いくらいの美青年のはずで、まあ、阿部寛も創生期のメンズノンノを長い間ひとりで引っ張ってきた男で、「笑っていいとも」の鳥越マリのコーナー「いい男さんいらっしゃい」のコーナーで、タモリを引き立て役にその美しさを誇っていた時代もあったくらいですから、美青年といえなくもないのでしょうが、今、あの濃さはレイジロウという華奢な響きと噛み合わない‥と思ったが意外と良い、と思い直したのは、やはり自分自身を唯一無二の天才扱いして違和感なくその言葉を納得させうる者はなかなかいないうえ、超能力(?)者のうえ喧嘩も怪物的に強いなんて無茶なキャラに対して、健闘されています。なんか、いがいと常識人な、大人しめなこと言うキャラだったのは阿部寛のせいではありません。

ということで、
総体的には外しているキャストで(田中麗奈などは、〈テレビに出ず映画でしかなかなか見れない自分〉を維持するために出ているとしか見えず、キャラにあっているあっていない以前の問題だと思う)、シリーズ化は困難なのではないか、と思いますが、でもまあ、別に面白いわけでもなかった映画版『陰陽師』も続編が無事作られたりしたくらいだから油断は出来ませんが‥。

開巻早々の、
めまいのする坂からまず躓きました。

個人的には、第一作『姑獲鳥の夏』の
メイン・ビジュアルというかメイン・イメージは、
京極堂へ至る、
幾度も登っては下る、この切り通しの坂で、
登ってゆく視点からゆくと熱気による空気のゆらぎの向こうに、
勾配に空が切り取られて
坂の上に張りつくようで、
遠近感が狂ってゆく感覚、視覚。
なのですが。
全然坂の感じのないたんたるデコボコ道にしか見えず、
これから幽界への境界を跨ぐかのような不吉な心のざわめきを、
表現できていなかった、と思います。

全般に、
回転するキャメラ、唐突な俯瞰、魚眼等々、
ハッタリにつぐハッタリで、

これが実相寺監督の不思議なところですが、
観ている間、特にとりたてて文句ばかり浮かぶわけでもなく、
流れてゆく時間の一瞬一瞬がものすごい苦痛なほど退屈
というわけでもないのですが、
観終わったあとに、たいてい、
自分がすごく退屈していたことに気付く。

振り返ってみると
奇怪な物語の謎にも
あやしげな登場人物たちにも
すっかり興味を失っていることを知る。
といういつものパターン。

おそらく、
次にはこうくるだろうな、こんな感じで攻めてくるだろうな、
という予想に違わず、
ほぼ予想通りの世界が繰り広げられるうちに、
観ている者の脳が眠ってゆくのではないかと
推察しているのですが‥‥。

theme : 邦画
genre : 映画

PRIDE地上波放送

帰ってきて深夜、

PRIDE無差別級GPの地上波放送を見ました。

時代の流れが去ってゆく、
無残な結果になるかもしれないと思いきや、

素晴らしい内容だった!!

ドキドキした。

最強を決めるこの舞台から逃げない男たち、というふうな、
暗に桜庭を揶揄するようなアナウンス、
しかしその、
逃げない男たち、という言葉を、
藤田なり、
高阪なり、
ジョシュなりが証明してみせた。

2日前開催の『HERO’S』もそれなりに面白かったような気がしていましたが、昨夜の『PRIDE』みたら、比べるのもバカバカしい気がした。

アッサリ終わってしまったメインですが、
秋山の相変わらず面白くもなんともない試合とマイクパフォーマンスみたあとだったから、吉田秀彦の試合っぷりにも全然不満を抱かなかったし。

判定ひとつもないことが、
すべての選手の、
意識の、
誇りの高さを
証明しているように感じました。

こころに吹いていた隙間風というか、空虚感を、
必要以上の熱いものでうめてもらえて、
生きる気力がわいた。

theme : 格闘技
genre : スポーツ

桜庭騒動のゆくえは?

〈ミスター・PRIDE〉である桜庭和志が、
5月3日の『HERO’S』(『PRIDE』のコンペティター)の舞台にたったのは大ショック!!!!で、
3月末で桜庭が高田道場から独立していたことを報じる記事が出たときからイヤーな感じは漂っていたけど‥‥。

こんなブルーなサプライズはないな~!!!

翌4日の記者会見での桜庭の、「長州力さんが新日本やめて全日本に行ったときはプロレス界全体が盛り上がったので、これで(DSE(PRIDE等を開催)とFEG(K-1、HERO’S等を開催)が)仲良くなってもらえればなって」という発言が、今回の移籍騒動の100%の真意だったらどんなにいいだろうか‥‥‥

大好きなベビーフェイスのレスラーが、とつぜんヒールに転向したのに対応出来ない純真でウブなファンのように、傷ついています‥‥

桜庭和志のほかに、
松井大二郎らも高田道場を退社していたことや、『HERO’S』の会場にヴァンダレイ・シウバも来場していたことから、元・高田道場勢+シュートボクセ勢の今後の動きに注目が集まったりで、
なにかとキナクサクアワタダシク、
完全に『PRIDE無差別級GP』の話題をくってしまいました。

でも、起きてしまったことは仕方ない。。

これで、今後、DSEとFEGの全面対抗戦でも実現する動きがあったりすれば、この桜庭の動きによる痛みも肯定出来る、と自分にいいきかせる。

ただたんに『HERO’S』にちょこちょこでて寝技出来ないキックボクサー倒して、とかじゃ、ほんとにDSEに不満が爆発したから、ってだけに終わっちゃうもの。。

それか、
FEGとTBSが大晦日のために湯水のごとく金を費やして、桜庭対ヒクソン戦でも実現させたりしたら、結果、この決断を賛美出来る日がくることになる。とか。
PRIDEに残ってウェルター級グランプリでパウロ・フィリォあたりに押さえ込まれて判定負けしたりするよりは、ずっといい。

アローナに完敗して幻想を使い果たし、いろいろ追い込まれてはるばるブラジルまで行って、せっかくウィークポイントである体重も増やして帰ってきたら今度は減量してウェルター級で出ろとかで、不満がたまったとか、高田道場及び高田延彦との微妙な距離感・違和感とか(2年半前、メインエベントで桜庭がホジェリオにズルズルと痛い判定負けを喫した男祭りの打ち上げで、高田延彦が(そんな結果はお構いなしに)上機嫌だったという挿話をきいた当時、二人の関係はメディアに発信されている師弟愛的イメージとは少し違うのではないか、と思った)、ここにいたるまで様々な要因があるのでしょうが、

根拠なく妄想する、

去年の大晦日の『PRIDE男祭り』、
美濃輪育久と対戦した桜庭和志。ずっとずっと観客のナンバーワンのヒーローだった自分に、でなく、美濃輪にこれだけの声援が浴びせられている。〈最強〉という地位から遠く離れたのみならず、絶対的ベビーフェイスの座からも、いまこの時、滑り落ちてゆく、のを直に感じ、
今の自分は、
PRIDEに居場所、ポジションはない‥‥

と決定的に思ったのではないか、と。

『PRIDE無差別級GP』、
今日開催、
新スター・美濃輪がミルコ・クロコップを倒すような奇跡でも起きないと、この一連の件によるDSEのダメージは癒えない、と思う。

theme : 格闘技
genre : スポーツ

『spoon.』6月号、市川実日子

20060504004406

なんとなく立ち読みしたことはあっても、

どんな雑誌か深く考えたことはなかった

『spoon.』ですが。


今回、映画の特集で、
買ってはじめてちゃんと読みました。

文化系女子(ハイティーンくらい?)むけの、
軽めの、ファッション&サブカル雑誌って感じで、

まあ、『オリーブ』みたいなもんでしょうか。
と思ったら記事の文中に
オリーブがどうのと何ヶ所か出てきましたから、
何らかの関係があるのかもしれません。


『オリーブ』といえば、むかし、今はなきフリッパーズ・ギターが人気者扱いで連載ももっていたりして、(パーフリ何とかというようなタイトルだったかな)、「今ハマってる本はフィリップ・ロスの『素晴らしいアメリカ野球』です」とかカマしてたりするのを読んで、いまどきフィリップ・ロスでカマした気になってんじゃねえ!! とか白けつつも読んでいたような記憶が蘇りますが、近年は手にとることもないまま、休刊になったとか終刊になったとか噂だけきいたような。
いまはもうないんですよね。


ともかく、『spoon.』、
なかなか面白かったです。

面白いと思えるのは、
とりあげる人や作品のセレクトに偏りがあるからで、
ジャンケット族的文化圏とは立ち位置が違うということ、
良くも悪くもコンセプトがキチンとあるいうことを表していると思います。

読者が望むのか、
編集側がプッシュして啓蒙しているのか分かりませんが、
この雑誌の読者層のミューズたりえるような存在は、ダントツに

市川実日子

らしくて、香椎由宇なども紙面に登場していますが、
市川実日子の扱いかた、別格感漂っています。

元オリーブモデルだったそうですから、
そっちのつながりで、
(こっち側(オリーブ~スプーン的なエリア)から出た、発掘した、産んだスターなんだぞ!だからプッシュする!)というスタンスなのかもしれません。

いいんですけどね、
いい女優さんですし。

しかし、地の文で、〈実日子の最大の魅力は‥〉とか〈演じるのは実日子!〉とか、いちいち(編集者が女優を、下の名前で)呼び捨てなのは、定期購読者じやない者にとっては異和感があって、長く深い関わりを表現しているのかもしれませんが、なんか嫌なかんじ。をかんじました。

本特集で注目されているクリエーター(?)は、

三木聡、中島哲也、西川美和、石井克久、富永昌敬(!)
あたりで、〈ビンボーくさくない日本映画〉がキーワードみたいだから、
編集、西川&富永監督あたりには、本当はあんまりノッてないのかも。

編集のかたが、オダギリジョーを大好きなのは
ヒシヒシ、ビシビシ、伝わってきましたが。

市川実日子、さん、は、
『blue』では大ブレイク超直前!!
間違いない!!という感じだったのが、
なぜか、
なんか、
どうもならず、
庵野秀明の『キューティー・ハニー』でなら!
と期待しましたが全然よくなくて、
NHKの連続テレビ小説『天花』で、
もう今度こそビシッと大勢を痺れさせてブレイク間違いない!!
と思って見(観)守っていましたが、なんか普通。。

使い方が未だにわからない女優さんなのかもしれません。

さて、今年こそ。
『嫌われ松子の一生』
『ダメジン』
『世界はときどき美しい』の三連打。
ブレイク、ド直前!!

theme : 雑誌(既刊~新創刊)
genre : 本・雑誌

04 | 2006/05 | 06
Su Mo Tu We Th Fr Sa
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
プロフィール

ししらいぞう

Author:ししらいぞう



東京在住

調理師のようなことをやっています。

趣味は立ち読み 格闘技観戦 映画観賞

3月生まれO型  

ランキング参加中☆
良かったらクリックをお願いします


ブログランキング・にほんブログ村へ
ブログランキング
ブログ内検索
最近の記事
リスト
2006年05月の記事
→次へ
カテゴリー
Category Sum
全記事一覧
あいさつ 11
映画紹介(ア行) 21
映画紹介(カ行) 19
映画紹介(サ行) 13
映画紹介(タ行) 15
映画紹介(ナ行) 7
映画紹介 (ハ行) 18
映画紹介(マ行) 9
映画紹介(ヤ行) 7
映画紹介(ラ行) 5
映画紹介(ワ行) 1
観るまえの映画のこと 19
本と映画 22
雑誌と映画 18
その他映画 36
フルモーションレーベル 14
『恋する日曜日』 13
ユーロスペース 5
本・マンガ 40
雑誌 22
ドラマ 60
いろいろなBest10 15
日記 75
作家・監督・俳優・女優 6
舞台・イベント 4
未分類 8
月別アーカイブ
最近のコメント
最近のトラックバック
リンク
YouTubeSEARCH mini
おみくじ

©Plug-in by
FairyDances
★
HeroRisa

ぱたぱたアニメ館
GIFアニメ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。