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2011年日本映画ベストテン

<2011年日本映画ベストテン>

1. ひとみのひとみぼっち(第2回)
2. サウダーヂ
3. 予告する光 gozo Cine
4. DV
5. 死ね!死ね!シネマ
6. 東京公園
7. 嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん
8. 一枚のハガキ
9. ギャルバサラ
10.制服の芽3D

次点は『若きロッテちゃんの悩み』『終わってる』など。『CUT 』は未見。どんどん興味が薄れてゆく園子温の、今年の2つの力作については、底の知れたアンモラルに白けてしまい、瀬々『アントキノイノチ』の商業映画との闘いぶりには、そのハードル設定がそもそも古いと感じてしまいました。その一方で、クオリティの高い自主映画群の、そのテの界隈の評価に自足してしまっている雰囲気にも、どこか居心地の悪さを感じてしまっています。

3.11以後、映画作品一つ一つのもつリアリティの水準、あるいはその映画の自己同一性を結晶させてかたちづくるリアリティの保証が揺らいだ。観るほうも、送り手も、リアルの強度に意識的でなくはいられなかったでしょう。
全部はしょって言うと、私たちの知る映画は、シネマは、死んだ。そう感じています。残されたのは、そのようなものがあったという記憶と郷愁。未来の映像、ある一定の長さの、ひとつひとつ強度の異なる映像の断片が拡散し浮遊する世界で、シネマの記憶をもつわれわれが、そこに快楽と歴史と感情を勝手に読みとることになるでしょう。
現在進行形、『ひとみぼっち』の故なき美しさ。『ハロプロtime』といったい何がそれほど違うのか。カメラが、美しい少女の“理由なき”笑顔と笑い声を、世界に拡散するようにして、刻む。音響を伴う映像というものの歴史がそれを可能にした。それだけでも、映画の歴史は無駄ではなかったと判断したい。1を代表とする女子流の、毎日のようにユーストリームに垂れ流される膨大な映像群もそうですが、2~5も、ある映像の断片が、もうひとつの断片を引き寄せてゆきそしてその総量が膨張してゆく、その映像のあり方に、刺激があった。6~8の、脱臼した不気味なリアリティの強度。9、10はスクリーンで、2年追い続けた木崎ゆりあを観れた素晴らしさ。しかし、『制服の芽』は玲奈のソロ曲枯葉のステーションをディゾルブ処理するとか、せっかくの3Dの効果を台無しにするような場面がたびたび目について不満があるのでこの位置です。
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2009年日本映画ベストテン

<2009年日本映画ベストテン>

①『ちゃんと伝える』(園子温監督)

②『ハルフウェイ』(北川悦吏子監督)

③『シャーリーの好色人生と転落人生』(冨永昌敬、佐藤央監督)

④『ヱヴァンゲリヲン:破』(庵野秀明監督)

⑤『ダンプねえちゃんとホルモン大王』(藤原章監督)

⑥『ライブテープ』(松江哲明監督)

⑦『ドキュメント電脳警察』(瀬々敬久監督)

⑧『熟女 淫らに乱れて』(鎮西尚一監督)

⑨『18倫』(城定秀夫監督)

⑩『余命1ヶ月の花嫁』(廣木隆一監督)


さて、主要映画誌のベストテン号の発売前に、とりあえず去年の私的ベストテンをアップします。

前年よりもさらに映画から遠ざかった2009年は、観る本数が激減したこと以上に、何が今話題かも知らないし興味もあまりないという状況で、『シナリオ』も滅多に買わなくなってしまいましたし、ネットも(元々)ほとんどみることなく。知らなきゃ知らないで、別段たいして気にかからない。

2009年のキーワードは、「物語の無根拠さ」と、「映画館で映画を観るということ」でした。交換可能性と交換不可能性、といってもいいでしょうか。
(つづく)

関連記事:2008年日本映画ベストテン

theme : 日本映画
genre : 映画

③福間健二

アキレス3
『アキレスと亀』

(選出理由②’柳下毅一郎2からのつづき→)

『アキレスと亀』に登場する、たけし演じる“自称”画家は、アート界の流行やら絵画の歴史やら社会的インパクトやらにたいして「傾向と対策」的に“雑に”顔色をうかがいつつ、のらりくらりと一生涯画家/アーティストであろうと、“雑に”試行錯誤する。この、雑に、テキトーに、テンション低くそれを行うという有りようが、たけしのシャイネス(と知性)を感じさせて微笑ましくもありますが、そのようにして、生涯を画家/アーティストとして全うするということのみを指向するこの映画における創作活動が最終的に「母性による肯定」に帰結するのをみていると、この映画に登場する大した衝動も必然性もなく垂れ流される絵画群の寒々しさは、そのままたけしの近年の映画群の「どうでもよさ」と重なってみえますし、その向かうところが結局のところ「承認」「自己実現」でしかないという貧相な光景としてあらわれてきます。
「世界的映画監督」というポジションで安穏に末永く過ごす状態を“つづく”ためだけにコンスタントに作られつづけているようにみえる北野武の映画群の、そのあまりの無内容さは驚異的なほどで、その荒涼とした表情はどこか独特な風情の前衛性さえ帯び、それがある種の批評性としてかすかな魅力を放っていなくもなかったのでしたが、『アキレスと亀』の場合、いつも通りたいへん退屈は退屈なのですが、そのツマラナさは、これまでのツマラナイ作品群(『菊次郎の夏』、『Dolls』、『座頭市』、『監督・ばんざい!』等)とはどこか趣が違っていて、「冴えたショット」やら「こだわりのある主題」やら「作家独自の生理/文体」やらといった“長所ふう”の特徴やら輝きまでもがここでは「どうでもいいこと」として処理されはじめていて、すべてを無為と退屈の鈍い色彩で塗り潰しているようにみえます。

承認/自己実現のために「ポジション取り」をする、そのために“長所”をアピールしたり作品内に盛り込んだりすること“さえ”も、「どうでもいいこと」だと北野武は『アキレスと亀』で言っているふうだとおもった。ただただ母性的に無条件に肯定され承認されたいだけなんだ、結局ね、あれこれと冴えてみせたから承認されるとか面倒クセーし、そんなこととは関係なく頭を撫でられたいんだ本当のところは、と。

そんな身も蓋もない心情に沿って誠実に形成されたとおぼしき『アキレスと亀』は、それゆえにハンパなく退屈で無刺激な作品として私たちの前にあらわれてきたのでしたが、しかし、現在の「日本映画」の大部分を占めるのが、何らかの、あるいは誰かしらの、承認のための消費材、サプリメントとして供給/需要されるために垂れ流されているだけのモノだと感じられます。それらが『アキレスと亀』に比べて「より退屈でない」としても、それが作り手や消費者の優位性に結び付かず、その無自覚な様はかえって北野武の聡明さを相対的に際立たせてしまう。

愚にもつかない小手先のテクニックを「人の良さ」という免罪符でコーティングして消臭した『運命じゃない人』の監督に何かを期待しているほうがあれですが、「承認/自己実現」のための“冴えてる”の供給装置として制作されたことが更に露骨になってしまっている『アフタースクール』、「見事な唸らせるシナリオ」「数少ない本当に面白い娯楽作品の作り手」「役者を輝かせる演出家」という「ポジション維持」のためだけに作られたんじゃないかと思わせてしまう愛情も情熱も知識もない『ザ・マジックアワー』(アンジャッシュのコントの、長くて無理があってツマラナイバージョンみたい)。現在の風景は、そのようにして、「承認/自己実現」のための道具として映画を利用する“アーティスト”で溢れかえっていて、河瀬直美(『七夜待』)や是枝裕和(『歩いても 歩いても』)はその代表格だとおもう。
「承認/自己実現」のための「ポジション取り」、それへむけての「傾向と対策」的な姿勢の制作が支配的な気分として蔓延している様子は、ある種の観客を意気消沈させているんじゃないか。そして内田けんじや河瀬直美ほど鈍感でもなく、より才能があるにしても、タナダユキや吉田恵輔や石井裕也といった若手勢が、そうした風潮からじゅうぶん意識的に距離をおけているとは言い難いと思います。

傑作と世評高い『ぐるりのこと。』でさえ、「傑作とはこんなかんじ」「イケてる演技設計とはこんなかんじ」「リアルってこんなかんじ」という“長所”パーツの適所配分作業が「演出」という名のもとに行われる(大いに期待した『東南角部屋二階の女』にしてもそのテの作品で、ひと昔まえの「傾向と対策」的な「シネマ」を召喚した、カビ臭い映画だと思った)。それは結局高橋洋のいう<支配的になりつつある画面や音のもっともらしい審美>を反芻もしくはちょびっと更新する、同じゲームボード上での退屈な椅子取りゲームに過ぎないんじゃないか。ある均一的な観念として共有される「傑作感」や「作家感」を構成するために、それこそデータベース消費的に「傑作素」「作家素」を召喚してレイアウトする。そのゲームに参加する観客も、同じデータベースから「批評素」「感想素」を瞬時に取り出し、安心して感動したり斜に構えたり出来る。
そういった姿勢は、たとえば作り手にとって「映画監督であること(ありつづけること)」が主眼であって、「映画=表現を為していたら、その結果、監督/俳優/アーティスト等と呼ばれた」といった姿勢とは異なるということで、そこで生まれる作品はようするに『公募ガイド』しか読んだことがないひとが書いた小説みたいなもんで、その参照する手近にある「リアルへの審美」は、<現在>にも<世界>にも接続性をもたずに無限バリエーションとしての映画の量産を促す。そこには、「消費」があって「経験」がない。“映画”ともあろうもの(?)が、単なる文化/サブカルチャーの一ジャンルとして、幾多のカルチャーと同じく<母権的な承認を求めて自己目的化したコミュニケーション>のために存在するだけだとしたら、そんなもの有っても無くてもどっちでもいいものでしかないじゃないか‥。

そんな予備校的な映画が蔓延するなか、大林宣彦『その日のまえに』、新藤兼人『石内尋常高等小学校 花は散れども』、鶴田法男『おろち』などは、独自の「リアル」、「審美観」を貫いて、オンリーワンの輝きを放っていると感じさせます。(ナンチャンが出ずっぱりの2時間以上ある映画の推移を、食い入るように観つづけさせるということが、いかに異様な偉業であることか‥)これらの映画の表現は、「いまどきのリアル」と摩擦を起こすことで、<現在>に生きていると感じられます。

で、予備校的感性に侵された若手らを尻目に去年、もっとも“若さ”を体現していると思えたのが、福間健二の②『岡山の娘』でした。

“若さ”を失うということが、人生の審美や感じかたが、次第にある一定の方向に収斂してゆき、だんだんと人格が保護的にオートマチックに作動してゆく割合が増えてゆくことだとすると、他の硬度や質感をもつ審美/リアリティと接するたびに、その都度(確固たるものと思われた人格の総体が)脅かされるようにして変質を被る、ある意味“即興的に”人格を形成する境界の振動が繰り返されることが“若さ”の顕れだということになる。
そのたびごとに、「成功」や「維持」への「最適化」(つまり「傾向と対策」的な姿勢)とは無縁な振動を更新することは、愚かな、バカっぽさとして、「置きにいく球」で「とにかく成功したいだけ」のゲーム参加者からは侮蔑の対象とされることかもしれません。しかし個人的には、ゲーム上での最適化などというしみったれた作業を、わざわざ出かけて行ってスクリーン上でみたいとは思わない。

『岡山の娘』の福間健二は、誰かの敷いた(承認されるという)レールに無自覚に乗りはせず、原初的なところから、音/映像の関係、言葉/発声/意味の関係、自然物/人工物/人物が映るということの関係を捉えなおし、その異質なモノとモノの関係を融合的にではなく、その関係の摩擦の感触を抽象的なイメージ(既存ゲーム参加の観客との共有イメージ)に還元しないように一歩一歩確かめながら掴もうとする。女優でも素人でもなく、娼婦でも母でも少女でもない<女性>がそこには存在し、川とそこを流動する水は、何かを象徴するでもなく、画面を審美的に活気づかせるためでもなく、唯物論的に存在を誇示することさえなく、ただ人々の住む土地の傍らを今日もきらきらと流れる。言葉は物語を、フィクションは世界のかたちを、視線は感情を、“必ずしも”「説明」しない、飼い馴らさない、着地させ輪郭を鮮明にしない。
“何か”を媒介としない不用意さは、「自己実現」とも「事前イメージの追認」とも異なるイメージを現前させ、そこでは異なる感触をもつ複数の「リアル」が、収斂を拒んで触れ合い、その摩擦が、即興的な振動として、ひとつずつ「人生」の「経験」を刻む。それらの提示が「知的遊戯」に陥らないところに、『岡山の娘』の未来性があると思った。

なんだか概念的に話が進んでしまっていますが、『岡山の娘』の“若さ”は、そうした観念的に捉えられる側面を別にしても、はっとするほどの瑞瑞しさを誇っていて、端的に、「映画を撮る」、その喜びに溢れている映画だと感じられます。
若い女性を、正面から斜めから、堂々と、まじまじと、キャメラを媒介として淫するように見つめることの喜び。風景や人物をカッチリとした構図におさめることの嬉しさにふるえる姿勢と、ルーズな構図で動作や風景を追うことの愉しさとが共存する。繋がらないモノを繋げることの歪さにたのしみつつも、だからといって古典的なつなぎの快楽もイデオロギー的に放逐しはしない。B班の撮った映像を組み込むことや制作の過程で出来する様々な障害や状況の変転を、<私>がひとりで特定の中心的イメージに作品を収斂させてしまうことを妨げてくれる「他者」と出逢う喜びとすること。(『岡山の娘』における詩人、小説家志望の女子、映画(シナリオ書き)青年らは、<現実>の事件/身近な人々からの反射を受けて(接続をもって)、世界との摩擦を条件とする言葉を紡ぐ。「作品」の、<世界>への接続は、「自分ひとりで考えた」ことからは決して生じないことを、登場人物たちは知っている。現在や世界との接続性をもたない消費的な「審美」に閉じない、この映画におけるクリエイターたちは、幾重にも重なる質感の異なるリアルの感触の有機的な繋がりとして、人生を生きる。)
そのようにして、つっかえ、つっかえながら、他者の「リアル」と接触を繰り返してゆく、人生の軌跡のように。『岡山の娘』は、「承認/自己実現」ゲームとは意識的に距離をおいた、閉塞を突破する“娯楽映画”だとおもった。

(私的なことですが、敬愛する福間健二氏に、『岡山の娘』公式ブログで当ブログについて言及していただいたことは、この上ない喜びでしたが‥佐藤忠男を「遺物」呼ばわりしたことを、やんわり窘められただけというかんじも、なくはなかった。
いちおうここで言っておこうと思いますが、佐藤忠男は、例えば森直人や尾崎一男といった現在相対的に優秀と思われる批評家やライターと比べても、比較にならないほど多くの偉大な仕事を成した映画評論家だと思っています。しかし、『映画でわかる世界と日本』や『知られざる映画を求めて』等を読んでみても、ちょっと読めないというのが正直な感想で、『わが映画批評の五○年』の前半部の、言説を更新しようと意気込んだような(時代の)文章群には魅力を感じるのに、80年代以降の文章になるととたんに読めなくなる。「書くこと」が何かを伝達するための便利な道具にすぎないかんじがあって、佐藤氏のめざすものが文学やらエクリチュールやらでないにしても、個人的には(近親のお年寄りの手紙のように)読むのが苦痛な書き手であることに変わりはなく、形骸化した「仕組み」に、情報内容を嵌め込む手つきにはシステマティックなもの、つまり若くなさ、を感じています。)

(選出理由④ただ、愛のためににつづく)

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『岡山の娘』

関連記事:『岡山の娘』へ
       『岡山の娘』その1
       2008年日本映画ベストテン
       選出理由①城定秀夫
       選出理由②柳下毅一郎1
       選出理由②’柳下毅一郎2

       

theme : 日本映画
genre : 映画

②’柳下毅一郎2

連合5
『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』


(②柳下毅一郎1からのつづき→)

なぜなら、(操作についての)真偽のほどはともかく、以下の引用にみるように『映画芸術』誌はある理由があれば順位の操作も辞さない(かもしれない)雑誌であることは自明のことですし(※1)、こちらも後で詳述しますが(※2)、その疑いが相対的には濃厚である、外国映画ベストテン1位が『インディアン・ランナー』だった1991年度および日本映画ベストテン1位が『ユダ』の2004年度のときに、とっくに柳下氏はネガティブ・キャンペーンをはっていて然るべきで、そうであるのなら、当該エントリーでの柳下氏の今さらビックリ仰天したような文章はあまりにカマトトぶりっこが過ぎますから、やはりここは①の“ぼくのベストワン”へのための操作なら許されるが、そうでない操作だから<しかしこれは酷すぎる。>”という主張に帰結しそうです。
しかしこの結論では、先に述べたように「有り得ないのだから成り立ち得ないはずの批判」をおこなう柳下毅一郎は「日本語読解力や論理的能力に欠陥が」あると、まさに<その程度なんだとにおわせてしまう>ことになりかねませんから、ここではあくまでも“ぼくのベストワン”どうこう言う話は文脈に関係がないものとして、純粋に②“操作が<あまりに酷い>から、たとえ『実録・連合赤軍~』を推すためであったとしても酷い”という批判としてこのエントリーを再読してみましょう。(ここでは、操作の有無は部外者からは分からないという立場で検討したいとおもいます。)

※1 先に述べたように、<『映画芸術』誌はある理由があれば順位の操作も辞さない(かもしれない)雑誌であることは自明のこと>だということの論拠ですが、これはすでに荒井晴彦自身による“態度としての”言明があります。

<“客観的デナケレバナラヌーーという商業紙神話の渦巻く中で「チンケな客観よりオレの独断!」をキャッチ・フレーズにしました。また新聞ハ公器デアルーーに対置し、「絶対に私器だ」に私は固執しました”という斎藤龍鳳の言葉を編集者としての頭の片隅に置き、(略)ベストテンを続けてきたが、「独断」も「私器」もコマがなけりゃ行使しようがない。「キネ旬」やヨコハマみたいなベストテン発表するために借金してんじゃねえよ>(92年度選評)、<こんなベストテンのために俺は借金してきたんじゃない。買収、恫喝、指揮権発動、軍事介入、いろんな言葉が頭をよぎる。しかし、(略)担ぐミコシもないじゃないか>(95年度選評)

ベストテンを操作しようがしまいが、編集長自身が「客観」より「独断」、「公器」より「私器」を標榜しており、キネ旬やヨコハマ映画祭と同じようなベストテンだったらやる意味がないことを散々表明しており、それが編集長の編集方針でありモットー(のひとつ)であるのだから、もし万が一操作があったという事実が証拠を伴って確定されることがあったとしても、単にそれは『映画芸術』という雑誌特有の傾向や方針やカラーなのだとして受け止めることに、何の支障があるのでしょうか(「公器」でなく、「私器」「独断」なのだから)。そのうえ、もし、本気で荒井氏や編集部がコソコソと“不正を行っているような気持ちで”大勢のお手盛り選者を動員してベストテン操作をしているのなら、①84点②83点③82点④81点、などという露骨な僅差ではなく、適度に点差に緩急をつけて操作臭を脱臭するのではないでしょうか。そして、これがもし操作であるのだとしたら、露骨に操作感をみえる(痕跡をのこす)ようにすることで「映画芸術は断固として連赤や接吻やトウキョウソナタを支持しません!!」とい
う態度の表明をしているととらえるべきなのではないでしょうか。もしくは、疑念や邪推を抱かれても一向に構わない、という態度といえるでしょう。

つまり柳下氏が<あまりに酷い>というのが露骨に見えている(脱臭していない)ことへの憤り(「オレには見えてるぞ!」?)であるのなら、(操作があったとして)そう見えても結構だという表明がなされているわけですから、批判は空回りしていると言わざるをえないとおもいます。(“ぼくのベストワン”のためなら)<少々の操作なら許されるだろう>という部分と併せ読むなら<しかしこれは酷すぎる。>という言葉は、上記の「程度の差」の話に集約されそうに思えますが、あとひとつ、批判の文脈は残っています。
それは、この<酷い>選考が、<荒井晴彦はただ自分の嫉妬心を満足させるために映芸ベスト10を利用している>から酷い、そして荒井氏や編集部の意向を汲んだ選者軍団(と柳下氏が主張する)メンバーについて、<荒井晴彦が嫉妬した相手をおとしめるためだけにマイナス点を入れるメンバーを集めてきたと言われても反論できまい>という論旨ですが、さて、「荒井」が「嫉妬」で「マイナス点を入れるメンバー」を集めた、という理路にどこか誤りはないのでしょうか。

※2 さてここで、さきほど相対的に操作の疑いが濃いととらえることが可能とした2年、1991年度外国映画ベストテンおよび2004年度日本映画ベストテンについての簡単なデータにも目をとおしておきましょう。

1991年外国映画ベスト
①インディアン・ランナー69.5
②ミラーズ・クロッシング69.1(74.6-5.5)
③コントラクト・キラー64.1(?)
④ホット・スポット63
⑤羊たちの沈黙62.1(91.1-29)
⑥シザーハンズ54.6(64.6-10)
⑦マッチ工場の少女54(56-2)
⑧テルマ&ルイーズ51.6(86.1-34.5)
⑨ニキータ49(59-10)
⑨ワイルド・アット・ハート49(74-25)
‥と、トップが0.4点差の大接戦。当時、たしか『噂の眞相』あたりで荒井氏との男女関係の噂をトバされてもいた小出“シティロード”幸子が、荒井氏共々『インディアン・ランナー』を1位に挙げていることも疑惑に花を添えています。ワースト換算がなければ、『ミラーズ・クロッシング』『羊たちの沈黙』『テルマ&ルイーズ』『ワイルド・アット・ハート』が単純点で『インディアン・ランナー』を上回る。‥しかし、『羊たちの沈黙』『テルマ&ルイーズ』がワンツーなんて不細工な映芸ベストテンなど誰が見たいでしょうか?『母べえ』が1位の映画秘宝ベストテンとかを思い浮かべたらちょうど良いでしょうか。

2004年日本映画ベスト
①ユダ98(-)
②血と骨97(123-26)
③誰も知らない96(127-31)
④下妻物語91(101-10)
‥『誰も知らない』が1位の映芸‥ぞっとしないですねえ。

そして、ここで以下の柳下氏の主張が瓦解する。
<いや、築地魚河岸三代目が映画評を書いてもいいよ。でも、これじゃあ荒井晴彦が嫉妬した相手をおとしめるためだけにマイナス点を入れるメンバーを集めてきた、と言われても反論できまい。>
反論できるのだ。東大出の氏が魚河岸三代目と小バカにしたように呼んだ築地魚河岸の帳場さん・山下絵里は、奇しくも(?)上記疑惑の04年にも選者として投票していましたが、その内実をみてみると、荒井氏がベストに推す映画(『ユダ』など)と山下氏のベストは一本もカブらず、荒井氏がワースト点を入れた作品(『誰も知らない』『血と骨』『下妻物語』など)とは山下氏のワースト選出作と一切合致していない。
つまり、柳下氏がほぼ名指しで軽侮した山下絵里は、少なくとも、<荒井晴彦が嫉妬した相手を>(若松孝二を?『実録・連合赤軍~』を?)おとしめるため“だけ”にここで<集められたメンバー>ではない。そのことだけは間違いありません。そう「反論できる」。そして、そのことについてだけでも、柳下氏は山下絵里に<あまりに酷い>根拠もない人格否定的な言いがかりをしたと非難されたとしても<反論できまい>。
そしてメディアをもつ映芸ダイアリーズが、正面からお手盛りでもないし強権による操作もないとわざわざ反論しているのを併せ読むと、少なくとも柳下氏の用いた理路によるアライ映芸批判は<全然、筋が通ってない>。

そして、そもそも、荒井晴彦が若松孝二の映画を批判的に扱うことが、どうして「嫉妬」だということになるのか、二人の関係をはたから見ているごく普通の邦画ファンにはよく分からんというのが正直なところでしょう。若松孝二がイイ映画、スゴイ映画を撮ったから、社会的な反響を集めたから、嫉妬する、のか?しかし、そんなこと(若松孝二がイイ映画を撮ったり社会的反響を集めたりすること)は昔っからのことで、今さらな話だし、だいたい、荒井晴彦は若松孝二を一貫して批判しているわけでもなく、映芸ベスト・ワーストの話に限っても『われに撃つ用意あり』をベストに入れたり、『エンドレス・ワルツ』をワーストに入れたりしてます。いちいち論証はしませんが、ひとりの監督や作家にコミットし、一貫して推し続けるような批評家像を、批評家・荒井晴彦は採らない、その姿勢が荒井晴彦の批評的特質の大きな一点だと言えるのは<みなさんご存知だ>。
それとも、連合赤軍やあさま山荘事件についての充実した映画を成したことへの嫉妬?しかしそれも『光の雨』をベストに選んだ過去があるのだから、通らない話だ。荒井晴彦自身のいたって素朴な反論というかツッコミを待つまでもなく、「嫉妬」という観念を軸にこの件を批判するのはやはりムチャな話でしょう。
こうして自分のみたところ、柳下氏の、「荒井」が「嫉妬」で「マイナス点を入れるメンバー」を集めた、という理路をつかっての批判は、ゲスの勘繰りじみたタワゴトとしか思えませんでした。(その結論が、映芸が点数操作をしていない、という結論にただちに結び付くわけではありませんが‥個人的にはどっちでもいい話です。)
同じ業界にいる、「仲間」とも呼びうる人への仕事を、あるときは賞賛し、あるときは批判したりする。そのさいの“批判”行為を、何の疑いもなく「嫉妬」という概念に結び付け盲信し、そして正義を振りかざしてしまう柳下毅一郎は、批判という行為が「嫉妬」感情と不可分なパーソナリティをもった人なのかもしれない。その“正義”の根拠はせいぜい、「ぼくの思ってたのとちゃう!!」という程度のものなので、やはりナントカ中年と呼ばれても仕方ないんじゃないでしょうか。<すべての高貴な道徳とは、それ自身に向かって高らかに《然り》と言うことから生じるのであるが、奴隷たちの道徳は、「外のもの」、「他なるもの」、「自分とは異なるもの」に対して、まず初めに《否》と言うことから発生する。>(『道徳の系譜学』)

(選出理由③福間健二につづく)

以降記事予定~
③福間健二
④植田泰弘
⑤Dream

関連記事:2008年日本映画ベストテン
      選出理由①城定秀夫
      選出理由②柳下毅一郎1
      『映画芸術』422号
      『映画芸術』424号

theme : 日本映画
genre : 映画

②柳下毅一郎1

連合2
『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』

(選出理由①からのつづき~)

2008年は、ジル・ドゥルーズ『シネマ』二分冊の邦訳刊行完了という「事件」をまえに、この年公開された映画群がどうしてもインパクトや波及力において旗色悪く感じられてしまいましたが、その『シネマ』の刊行に次いで「事件」と呼び得るとおもえたのは、若松孝二がついに撮った『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』の公開で、映画という内輪のサークルをこえるカルチャーとしての事件が、久しぶりに日本映画界におきたことを祝福したい気持ちで③に置きました(言うの遅れましたが②&③と⑨&⑩は今回、個人的な祝福・応援枠の扱いで、前者がポジティブ枠、後者がネガティブ(作品としては否定的な)枠というイメージです)。

この題材や時代について、特にこれといった意見や関心があるわけでもない自分が『実録・連合赤軍~』について今さら何か言うのもなんなので大ざっぱな感想だけ言います、現在との接続性が見えないという批判がいくらかあるようでしたが、自分はそういう感じは持ちませんでした。『突入せよ~』や『光の雨』に接したとき、思ったり感じたりすることは色々あっても結局のところ「ふ~ん」と他人事、ファンタジーや時代劇としてしか自分のなかで処理し/感じることが出来なかったという過去を振り返ってみると(たんに軽快な娯楽映画の姿をした『突入せよ~』は必然性というか歴史的な接続性に欠けてみえてしまいましたし、『光の雨』の場合は、「現在」から「過去のあの事件」をフィクション作品として照射しようとする誠実さが、かえって「現在」/「過去」を二元論的に分離し、接続性は分離した「現在」からの照射によってのみ「過去」を浮き上がらせるという構造から生じることとなり、結局、(ふまじめな自分のような観客には)今現在から分離した一つの「フィクション」として「あさま山荘事件」を消費させられるように思えた)、編年体的に淡々と事件の以前以後まで描かれ、現在までの線を律儀に引いてゆく『実録・連合赤軍~』の手つきには、ある瞬間の特権化による抽象化(フィクション化)を拒んでいるかのようにみえ、たしかに現在と地続きなんだなという地味に低音で響くような興奮がありました。
(かといって、いわゆるドキュメンタルな感じ、例えば<十九世紀末のポー河流域の農村を舞台にした『木靴の樹』がそうであったように、オルミの『ジョヴァンニ』はまるで十六世紀北イタリアの厳しい冬にタイム・スリップして撮った戦争のドキュメンタリー・フィルムのように作られている>(金井美恵子『楽しみと日々』)といった文脈で語られるパターンの反・抽象化(『チェ』2部作などが指向する)ではなく、あくまで『実録路線』ぽい快楽原則に沿うような演出も、魅惑的だったとおもいます。)

で、『実録・連合赤軍~』についてなにか言うの以上に更に今さらな気もしますが、ガースもしくはルサンチマン中年こと柳下毅一郎が『実録・連合赤軍~』について『映画芸術』というか荒井晴彦に噛み付いた件について、この場にちょっと書きのこしておこうと思います。

映画ファンなら先刻承知で、かつ既に忘れかけている話題だと思われますが、映画評論家の柳下毅一郎が自身のブログで、荒井映芸のベストテンで『実録・連合赤軍』が1位じゃなかったことを非難した一件で‥こう書いただけでもう既にオカシイ話ですが‥

<「映画芸術」#426 ベストテン&ワーストテン発表号が出ていた。立ち読みだけのつもりだったけど、あまりに酷いんで思わず買ってしまった。これは本当に酷い。衷心より申し上げるが、一刻も早くこの雑誌は廃刊されるべきだ。これ以上、荒井晴彦は恥をさらすべきではない。「映画芸術」という素晴らしい雑誌の末路がこんなものになってしまったというのは、本当に残念なことである。/荒井晴彦が嫉妬と僻み根性だけでできあがった人間なのはみなさんご存知だろうが、今年ほどそれがあからさまだったことはないのではないか。荒井晴彦はただ自分の嫉妬心を満足させるために映芸ベスト10を利用している。>と、映芸ベストテン上位のプラマイ計算を示し、<ちなみにぼくは今年のベスト邦画は「実録・連合赤軍」であり、これを一位にするのが「映画芸術」の義務だろうと思っていた。そのためなら少々の操作も許されるだろう。しかしこれは酷すぎる。>と言ったあと、ベスト上位作品にマイナス点を入れている選者を列挙しその職業(会社員、築地魚河岸の帳場さん、など)を列挙したのち(ちなみに映芸ダイアリーズを<映画芸術DIARYで映画評を書いているメンバーの合評 つまり編集部お手盛り>と紹介)、<いや、築地魚河岸三代目が映画評を書いてもいいよ。でも、これじゃあ荒井晴彦が嫉妬した相手をおとしめるためだけにマイナス点を入れるメンバーを集めてきたと言われても反論できまい。真面目に投票している人たちはどう思ってるんだろう?高橋洋も渡辺武信も、こんなところに並べられてどう感じているのか?/そして熊切和嘉はこんな投票で一位になって、本当に嬉しいのだろうか?「ノン子36歳」は素晴らしい映画なのかもしれない。でも、これじゃあ荒井晴彦にとって熊切なら安心して褒められる=嫉妬を感じず、上から目線で見られる相手だって言われてるも同然じゃないか。実際には熊切監督に対しても侮辱を働いてるんだってことを、映芸の人たちはわかっているのか?>

公正を期すために、映芸本誌に載っているデータ的な部分以外、当該エントリーの全文を引用しましたが、それに対する映芸側/当事者の反応をかい摘まんでまた以下に引用しますと、

編集長・荒井晴彦は『映画芸術』427号の編集後記で、<俺が何に嫉妬しているのだろう。「ちなみにぼくは今年のベスト邦画は『実録・連合赤軍』であり、これを一位にするのが「映画芸術」の義務だろうと思っていた」なんで義務なんだろうか、俺と若松孝二が「仲間」だからだろうか。足立正生も清水一夫も小野沢稔彦も『連赤』を批判している。映画雑誌がやらないので、「情況」でだ。みんな、「仲間」だ。仲間じゃない人たちが誉め、仲間が批判する。これ、健全だと思うけど、柳下にはこれが嫉妬にしか思えないらしい。>、<柳下、仲間が欲しいんだろうな。>と反応。

更に、柳下氏に傀儡扱いされた「映芸ダイアリーズ」が、映芸のサイトの映画芸術DIARYの記事にて<俺たちはお手盛りじゃない>と反論、<柳下氏はブログのなかで、ベストテン記事における本サイト執筆陣(映芸ダイアリーズ)の選評が「編集部のお手盛り」であると書かれていますが、その記述は事実に反しており、選評を執筆したメンバー(加瀬修一、金子遊、CHIN-GO!=千浦僚、近藤典行、深田晃司、若木康輔の各氏)の周辺にまで影響を及ぼしかねないものですので、ここではっきりと訂正させてください。>と正面から否定。そもそもダイアリーと荒井晴彦との関係も、<「映画芸術DIARY」に関しては、荒井さんはネットをやりませんし、基本的に任せてくれている>、<荒井晴彦さんのお世話になっている人間が集まっているわけじゃない>、<一回も会ったことも話したこともないし(笑)。>、<僕は『イントゥ・ザ・ワイルド』書いてますからね。荒井さんの意見が入っていたら間違いなく載らない>、<僕は一度しかお会いしたことがないし、名前もたぶん覚えてもらっていない>と口々に傀儡でないダイアリーズの活動環境を提示する。

痛烈なのは千浦僚で、<人格を認められてないわけですよね。もうひとり巻き添えを食って気の毒なのが山下絵里さんで、彼女は魚河岸で帳簿をつけてる人なんですけど、それをモジって「別に魚河岸三代目がものを書いてもいいけど」と書かれていて、東大出ている人は偉そうだな、と思いました。俺には書く権利があるけどおまえらその程度なんだとにおわせてしまう。ファンだっただけにガックリくるものがありました。(略)全然、筋が通ってないですよね。なんでこんなにつっこみ返されやすい形で攻撃したのかなと思いました。結局、『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』という自分の好きな映画が望む順位じゃなかったというだけの話なんですよ。その情熱はすごくうらやましいし、それはそれで正しい気もするけど、的にされたほうは愉快じゃない。翻訳とか、参照するものがないと、くだらないことしか書けない人だったのだろうか、柳下さんは。>と批判していました。

さて、上記の当事者たちからの反論というか「はぁ?」というふうな反応をまえに、柳下氏の文章が示す正義はかなり危ういかんじですし、その後のやりとりや展開があったのかだれかが何か反応したのか、チェックしていないのでよく知りませんが、そこに至るまでのテクストからだけでも、柳下氏がとんちんかんなことを言っているのは当事者でない人間からみても明らかです。

柳下氏の当該記事に接したときの自分の最初の感想は、はぁ?今さら何言ってんの?というものでした。

ここ数年『映画秘宝』を買っていないので、秘宝一派である柳下毅一郎の動向についてはとんと知りませんが、前々から映芸に対して敵対的な発言をしていたのでまたその類いかな~とふつうに読み進めていたら(しかしそもそも、“嫉妬心”は“満足”させるものなのでしょうか?)、<ちなみにぼくは今年のベスト邦画は「実録・連合赤軍」であり、これを一位にするのが「映画芸術」の義務だろうと思っていた。そのためなら少々の操作も許されるだろう。しかしこれは酷すぎる。>という一連の文章に躓く。

映芸や荒井氏に対して嘲笑的な態度をとっている<ぼく>の好きなベストワン作『実録・連合赤軍~』を、<ぼく>やその属する文化圏/スタンスとは明らかに異なる荒井映芸が、自分の主張と同じように<一位にするのが「映画芸術」の義務だろう>と何で思えるんだろう。それには、荒井晴彦がいかに<嫉妬と僻み根性だけでできあがった人間>だろうとも『実録・連合赤軍~』の価値や存在意義は疑いえないし、どうかんがえてもコミットするはずだ(内輪的に?政治的に?)という素朴な前提が必要なはずですが、少なくとも荒井晴彦が『実録・連合赤軍~』を推していないことは一年も前の『映画芸術』422号での宮台真司・寺脇研との鼎談でとっくに公にされているではないか。
この鼎談で荒井氏は『実録・連合赤軍~』について、<事件の再現に過ぎないよね、事実はあるけど真実には至っていない。(略)あれでは結局「総括」を総括していない。批評や総括をするのが映画であって、それがないから、なんでいまこれをただの再現映画を作ったのだろうと思った。(略)彼らは組めば森・永田をひっくり返せたかもしれないのに、なぜかそれが出来なくて、「総括」の順番待ちになってしまったのか。そこをやってくれないと。(略)>と疑問や批判を呈していました。
<これを一位にするのが「映画芸術」の義務だろうと思>うのは読者の勝手かもしれませんが、“そのためなら許されるだろう(と柳下氏が考える)少々の操作”を、なんでとっくの昔に『実録・連合赤軍~』を批判している荒井晴彦がしていないと言って、驚きカッとなり罵倒するという呑気でメチャクチャな正義を振りかざしているのだろう。

そして、①“ぼくのベストワン”へのための操作なら許されるが、そうでない操作だから<しかしこれは酷すぎる。>のだろうか。それとも②操作が(“許される少々の操作”ではなく)<あまりに酷い>から、たとえ『実録・連合赤軍~』を推すためであったとしても酷い、のだろうか。このへんの批判があいまいだ。しかし①については前述(一年前の連赤批判)のとおり、元々『実録・連合赤軍~』のために荒井晴彦が点数操作をしてでもベストワンにすることなど有り得ないのだから、そんな批判など成り立ち得ないはずでしょう。
つまりここでは、柳下氏が日本語読解力や論理的能力に欠陥がないかぎり、②の批判しか有り得ない。そうすると“ぼくのベストワン”どうこう言う話は文脈に全く関係がなくなりますが、ことはそう簡単ではありません。

(→柳下毅一郎2につづく)

theme : 日本映画
genre : 映画

選出理由①城定秀夫


デコトラギャル3
『デコトラ☆ギャル奈美』

今さらですが、前々項2008年日本映画ベストテン、のつづきから、急ぎ足で再開します。

去年、2008年は、自分が物心ついてから映画をそれなりに観つづけてきた人生の時間のなかで、最も“日本映画”への愛情が薄れてしまっている、そう感じられた一年でした。
日本映画イコール観るに値しないモノ、という(80年代後半から90年代にかけての)風潮のなかで青春期というか観客としての人格形成期を過ごしてきた自分にとって、ここ数年の、邦高洋低というある種の「日本映画の活況」、「日本映画」が無益な抵抗感を持たれることなくごくスムーズに一般観客と遭遇する環境、その作品群がノーマルな市民権を獲得するという状況は、見果てぬ夢として漠然と夢見ていた世界でした。しかしいざ、じっさいにその世界が訪れてみたとき、現実のあまりの荒涼とした有様に、白々しい気分、絶望感を抱かずにはいられませんでした。
こんな貧しい風景が、ありうるかもしれない希望の未来ではなかった、これがゴールや活況だというならば、そのまま滅んでくれた方がよかった、そんな気分。

その荒涼とおもう内実についていちいちあげつらう気力は今ありませんが、結局のところ、テレビ局の広告収入の大幅減少に伴う映画会社化や都市計画の変転によるシネコンの隆盛といった外部的環境的な変化、あるいはいわゆる「J回帰」的な社会的な潮流によって押し上げられるようにして「活況」化したに過ぎない「日本映画」は、私たちがこれまで知っていた「現代の日本に存在するしかない、みっともなさを、否応なしに引き受けた日本映画」とは異なり、滑らかな表皮を纏い退屈を隠蔽し、「経験」を疎外することで反射的な「消費」を推奨しているかのように映る。そこではあらかじめ、パターン化されたバリエーションの感情換気作用(涙する、笑う、共感する等)や定型化された感想素や批評素が周到にあるいは短絡的に前もって用意され、観客はそのいずれかを選択する作業だけで各々の望む自分のキャラ設定への見せカード(感受性の豊かな自分、冴えてる自分、‥)を入手することが出来る。その経緯を「感じること」「考えること」等の「経験」を通過したと錯覚できるという安価でストレスの少ない「消費」コンテンツとしての商品=「日本映画」。
(そこでの消費のされかたの貧困ぶりに苛立つ高橋洋は、「観客が求める審美」「現代映画において観客に支配的になりつつある画面や音のもっともらしい審美眼」を仮想敵としているようです。)

その圧倒的な現前ぶりに、「みっともなく」、「貧しい」“日本映画”は、マスを支配する観客層にはそもそも「視えないもの」でしかなく、カウンターとしての存在意義すら失い、かつての氷河期以上に作品的交通を断たれた絶望的な状況に追い込まれているうえに、もう二度と打順もまわってこないだろうとも感じられます。

なるほど、たとえば、『デトロイト・メタル・シティ』は比較的面白いし、たしかに、『おくりびと』は比較的恥ずかしくない作品的クオリティーを有している、でしょう。しかし、この程度の「面白さ」や「素晴らしさ」は、ある一定量のボリュームをもつ人格類型や文化圏にじゅうぶんに依拠し、誰もが「事前イメージの追認作業」を人格への脅威にさらされることなく享受できるものであって、ここでの「映画」は、たんに文化的なコンテンツのひとつに過ぎないのではないでしょうか。

アカデミー賞受賞と某誌ワーストワン選出などによって、様々な話題を周囲に提供した『おくりびと』は、否定派にさえ「確かに優れた映画だが、しかし問題がある」といった論調で論難されてたわけですが、自分の端的な感想をいえば、あまりの図式性に、たんに2時間くらいのまとまりのいい映像コンテンツ、くらいにしか思えなかった。
死/生、都会/田舎、死/セックス、父の死/子の誕生、芸術に奉仕する仕事/食うための仕事、といった眼をむくほどに図式的な要素がこれ以上ないくらいに露骨に(しかし品よく抑制されたうえで)分かりやすく列挙され、いいぐあいにバランスよく配分される。そして、そこであらわれる「人生の断片」は、長い人生の一瞬を切り取ったものではなく、この2時間の上映時間のなかだけに用意された、物語に奉仕するために存在を与えられただけの人間の時間。『おくりびと』の登場人物たちは、この2時間のためだけにそれらしく“生きているふうに装わされている”。ラストの石ころの扱いがその最も顕著な一例ですが、あるいはまた、本木雅弘の新たな職業に対する周囲の画一的な否定的反応がやがてこれまた画一的に肯定されてゆくのを、寒々しさを感じずに観つづけることは残念ながら困難でした。
この映画が、ミニシアターでやるようなヨーロッパ小国の無名監督の映画か何かだったとしたら、悪くはないけど、ちょっと図式的すぎるネ、というのが、ごくふつうの反応なんじゃないかと思うのですが‥。

『おくりびと』での、死に接したあとのモックンが広末に性的な衝動をぶつける展開のあまりの図式性に白々しく感じる気持ちを禁じえずに、薄ら笑いまで浮かべてしまっていたのですが、しかし、同じような、①『デコトラ☆ギャル奈美』での葬式後のセックス場面には白けずにグッときた、というのは、そこにいかなる違いがあるというのでしょうか。

城定秀夫作品は、高橋洋のいう「もっともらしい審美」などに与しない。なんとなくそうおもえる「リアル」などに頼ろうとしない。『デコトラ☆ギャル奈美』は“ふうを装う”ことなどせず、たかだか75分でしかない人生の時間も、嘘でしかない物語の設定も、エモーションを作動させるには図式的たらざずを得ないということも隠蔽せずに(かといってサブカル的エクスキューズのもつ自閉的定形化にも逃げず)、積極的にフィクションであることに(「あえて」と斜に構えることさえなく)大まじめに相対してゆく。そうしてそこでは、演技力の乏しさも、撮影環境の貧困さも、「みっともなさ」を引き受けたことからくる清々しい「豊かさ」に反転する。武装解除された。泣いた。吉沢明歩の、大声で叫んでいるがぜんぜん声が出ていないさまやムリヤリな荒くれ者ぶりも、その不器用な必死さが、「漠然と信じられているリアルな表現」よりもかえってエモーションを沸き立たせる。そうして「たかだか」な貧しい世界での「必死さ」が、“さびしさ”として、セックスの「必然」を招き寄せる。「貧しい世界で夢見られる、ささやかな願い」を、きちんと、切なさを伴って飛躍的に召喚する。
吉沢明歩をめぐる、吉岡睦雄(ジョージョー映画の吉岡睦雄はいつも好きだ)や今野梨乃らの愚かな人物像は、山下敦弘の諸作品や入江悠監督『SRサイタマノラッパー』(これらの作品は「現在支配的なもっともらしい審美」のサブカル文化圏版を体現しています)の愚かな人物像が依拠する「もっともらしいリアリズム」が「あるある」的共感に帰着する(最終的には「事前イメージの追認」に帰結する)のに対して、「愚かさ」「まっすぐさ」をフィクショナルに“つよく”体現する。このエモーションの強度は、特定の文化圏の審美/リアルを通過せずにもたらされるため、中途でのガジェット化/見せカード化への変質を被らずに、「カルト」として所を得るという自己実現ゲームにも堕ちないという表現上の誠実さと引き換えに、“冴えない”“ストレートな”印象をもたらします。そのことからくる“不幸”を、ことさら感じてもいないようなのが城定映画の楽天性でしょうか。(『ホームレスが中学生』も、いまどきな「審美/リアル」からの視線では、今作でのホームレスの扱いなど、まるで理解できないでしょう。)
『デコトラ☆ギャル奈美』は勿論、『ガチバン』(続編の元木隆史版は描写のクオリティーは上がったがまるで面白くない)や『ホームレスが中学生』にもみられた、クライマックスの祝祭ぶりに接すると、あんなに待っていた筈の女池充の映画を、もうそんなに待望していない自分に気付く。毎度おなじみの、たて笛や安いオルガンみたいな音楽も、洗練された「審美」ではなく、「情動」を発動させる。「周到さ」からくる説得的表現ではなく、感情の“ほんとう”と“ほんとう”とを綻びながらも繋いでゆくエモーションの強度へ。そのために「バカっぽく」、「みっともなく」、「貧しく」みえることを恐れない。そのようにして、類い稀なほどの清潔さが生じる。

しかしそれだけに、肝心の新東宝作品、『妖女伝説セイレーンX 魔性の誘惑』が今ひとつだったことは、たいへん残念でした。『どれいちゃんとごしゅじんさまくん』などにも見られる、ジョージョー映画の主要イメージのひとつである“むっちりした太股と、チラチラとのぞく白い下着からにおいたつようなエロへの偏愛”についても、色々好意的に言いたい気持ちもありますが、今はここで終わります。

(つづく)
次項予定:『実録・連合赤軍』『岡山の娘』など

(→②柳下毅一郎1につづく)

関連記事:2008年日本映画ベストテン
      ②柳下毅一郎1
      ②柳下毅一郎2

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2008年日本映画ベストテン

〈2008年日本映画ベストテン〉

①『デコトラ☆ギャル奈美』( 城定秀夫監督)

②『岡山の娘』( 福間健二監督)

③『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』 (若松孝二監督)

④『くりいむレモン 旅のおわり』 (前田弘二監督)

⑤『接吻』 (万田邦敏監督)

⑥『ニュータイプ ただ、愛のために』 (廣木隆一監督)

⑦『憐ーRENー』 (堀禎一 監督)

⑧『片腕マシンガール』( 井口昇監督)

⑨『さらば仮面ライダー電王 ファイナル・カウントダウン』 (金田治監督)

⑩『Girl's Box ラバーズ☆ハイ』(佐藤太 監督)



さて、諸事情で相当遅れに遅れてしまいましたが、毎年極私的に選んでいる日本映画ベストテンです。
これまでブログにおいては、後だしジャンケンにならないように出来る限り早めにアップしてきましたが、今年はどうしてもままなりませんでした。とりあえず『キネマ旬報』と『映画芸術』の決算号発売の前に、順位だけ挙げておきます。選出理由についてはおいおい更新してゆく予定です。

(→選出理由①につづく)

関連記事:2006年日本映画ベストテン
       2007年日本映画ベストテン
       『岡山の娘』へ
       『岡山の娘』その1
       『接吻』
       『Girl's Box ラバーズ☆ハイ』その1その2
       『トウキョウソナタ』その1その2
       『くりいむレモン 旅のおわり』その1その2
       『ニュータイプ ただ、愛のために』

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