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映画『陽気なギャングが地球を回す』






映画『陽気なギャングが地球を回す』

(2006年、日本、92分)

監督:前田哲
原作:伊坂幸太郎
出演:大沢たかお、鈴木京香、松田翔太、佐藤浩市、加藤ローサ、木下ほうか
、大倉孝二、古田新太、大杉漣、光石研、松尾スズキ

映像化作品がじわじわ数を増してゆく人気小説家・伊坂幸太郎のノベルス作品の映画化。伊坂幸太郎はどちらかというと苦手なというか支持していない作家で、『ラッシュライフ』まではたしかに応援していたはずなのですが、『重力ピエロ』『アヒルと鴨のコインロッカー』で完全にアンチにまわった。伊坂幸太郎を悪く言うひとはあんまりいないのでかなり肩身が狭い思いしていますが、受け付けないものは仕方ない。その最大の理由は、映画の趣味が悪いことと、“軽妙な/洒落た文章”というもののもつ根本的なサムさに無自覚な点。人柄が良いのは救いですが、だからといって愛読者にはなれない‥。村上春樹から吉田修一まで連綿とつづくこの鈍感な寒さの系譜はしかし、読書人口のかなりの割合を占める支持率を得ていて、微温的自己愛と、原理的思考の放棄の、悪しき温床となっているとおもう。

監督は、『かわいいひと』(98)の演出で一躍有望株として注目された前田哲ですが、『sWinG maN』『パコダテ人』『棒たおし!』等といった、なんだか頭の半分は冴えていて半分は眠っているような、かすかな底抜け感を漂わせている映画を積み重ねていつの間にやら“期待される新鋭”の座から脱落していた感じ。作品群の全般的な印象は、かすかな退屈さと楽天的なほの明るさ。そういう意味では(かすかで/ほんのりして/楽天的/微温的)、伊坂幸太郎と相性がわるくはなさそうにおもえる。

和製『オーシャンズ11』あたりを狙ったらしきこの映画は公開当時、かなり評判の悪かった記憶があります。この『陽気な~』を観たがっていて、観にいった子(大学生、普段ほとんど映画などみない)は、『チェケラッチョ!!』も観たがっていて、観にいっていました。つまりは、そういう激ライト層が観て、松田翔太なりなんなりがカッコ良かったり可愛いかったりしたらまあオッケー、という類いの映画だと、覚悟して観賞に臨む必要があるのかもしれない。『パコダテ人』だって正直、宮崎あおいを可愛いと思えなければ、とても観つづけられないようなモノだったわけですし‥。

序盤、いわゆるマンガチックな大仰な構図のカットがベタッベタッと小気味よく繋がれて連鎖し、野暮ったいが独特な快感のあるカッティングに、オッと前のめりになり、いずまいを正す、それにこの音楽‥。まるで往年の岡本喜八が蘇ったみたいじゃないか!
‥と喜んだのも束の間、「林さんが林に入っていった」あたりから映画はどうも鈍重で退屈になりだす。リアリティ無視なんていうのは承知のうえですが、色彩設計もカメラワークも芝居も展開も、凡庸なルーティンに従ってしまっていて、結局見せ場でないシーンはツマラナイという、よくある凡作に堕ちていった。例えば何度も出てくる大沢たかおの勤めるオフィスの場面の退屈さといったら‥無策にもほどがあるんじゃないでしょうか。原作と違うの違わないのなんて正直どうでもいいような冴えない場面が延々つづいて、90分くらいの映画なのにひどくつらかった。無内容なオトナの悪ふざけ、といっても、マイク・マイヤーズの映画や三池崇史監督のある種の映画をさんざん観たあとでは、ルパン三世の第2シリーズ以上にフヌケたお子様仕様にしかみえませんでした。工夫らしい工夫の見られる場面はみんなCGがらみという、実体感のない空虚さは、この映画のカラッポさを端的に示していると思います。

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theme : 日本映画
genre : 映画

『ユナイテッド93』

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『ユナイテッド93』

(2006年、アメリカ、111分)

監督:ポール・グリーングラス
出演:JJ・ジョンソン、ゲイリー・コモック、ハリド・アブダラ、ルイス・アルサマリ、ジェイミー・ハーディング、オマー・バードゥニ、デイヴィッド・アラン・ブッシェ

2001年9月11日。ニューヨーク発サンフランシスコ行きのユナイテッド93便は、何者かによってハイジャックされてしまう。同じころ、同様にハイジャックされた航空機群が世界貿易センタービルやペンタゴン本庁舎に激突した。その情報を携帯電話で得たユナイテッド93便の乗客たちは、このままではこの機も同じ様に特攻する確信をえて、ハイジャック犯に抵抗を試みる‥。

世紀の大事件だった9・11同時多発テロ。
あれから5年たち、次々に作られはじめた、事件を題材にした映画の第一波の上陸はまずこの『ユナイテッド93』。『ブラディ・サンデー』(02)、『ボーン・スプレマシー』(04)と、手持ちカメラを用いたドキュメンタリー・タッチのリアルな画づくりが買われての起用となったポール・グリーングラス監督は、極限までリアルを追求した。綿密な調査を行い、関わった航空局員等に多く本人を本人役として起用、93便の乗客も無名の俳優ばかりでリアルを優先し、得意の手持ちカメラでドキュメンタリー・タッチを演出し、謎であるはずの機内での出来事を、あたかも本当にそうであったかと思わせるほど迫真のサスペンスを漲らせる。

良くも悪くも必見の映画だと思います。UIPが配給ということでか、あまり宣伝が行き届いていないかんじがあり、知名度もやや低めですが、誰しも観たら何かを感じることになると思います。

凄いのは、貿易センタービルから黒煙がたつのを他のビルやビルの谷間から捉えるピントの甘い画面。くっきりと表現するのではない、ボヤケたCGの臨場感がすごい。
人質となる機内のアメリカ人たちが半端にガサツな人間ばかりでキャラクターも立たせてもらえず、かえって聡明そうなテロリストたちに肩入れしたくなるような、ハリウッド的なドラマツルギーに背をむけた人物配置も、ただの“おはなし”ではない、娯楽物語ではないという宣言となる。

しかし一方、〈リアル〉を演出することを優先するあまり、管制塔やら航空防衛司令部やら航空局やら、さまざまな場所が入れ替わり立ち替わり出てきますが、誰のキャラも立ってないうえ不安定なカメラのブン回しが祟って、どこがどこで誰が誰やら把握することが困難で、結局観客は画面からは〈雰囲気〉を読み取り、事件については字幕とレーダー画面だけを頼りに抽象的に把握することになる。
機内の状況にしても、人々の位置関係が把握しずらく、隠れて電話で地上と連絡をとろうとする者が、果たしてテロリストから見えないのか、見えても気にしてないのかとか、武器を悠長にかき集めている乗客たちをテロリストが咎めないエクスキューズがみえてこない。
混乱を描写するということと、描写が混乱することを取り違えているんじゃないかという疑問が残りました。しかし、〈ドキュメンタリー・タッチ〉と、〈ある一方のエモーションに寄り添わない作劇〉の組み合わせは、正しい作戦だと思いました。

(あるいは、阿部和重がしつこくこだわり続けている〈疑似ドキュメンタリー問題〉に関して、この映画は、どういった位置付けになるのか。阿部和重、もうどこかで何か言っているのかもしれません。目に触れたら興味ぶかく読みたいと思います。)

theme : ユナイテッド93
genre : 映画

『ゆれる』



『ゆれる』

(2006年、日本、119分)

監督・脚本:西川美和
出演:オダギリジョー、香川照之、伊武雅刀、真木よう子、蟹江敬三

田舎を離れ、東京でカメラマンとして気ままに生きる早川猛(オダギリジョー)のもとに、母の一周忌だから帰郷しろという連絡がはいる。帰省した猛は、実家のガススタで地味に働く兄・稔(香川照之)、その同僚で猛とも幼なじみの智恵子(真木よう子)と再会する。兄が智恵子に好意を抱いていることを薄々感じつつも、猛は遊びで彼女と寝てしまう。翌日、兄弟と智恵子は近くの渓谷へ遊びに行くことになる。ひとり先に揺れる吊り橋を渡って向こうへ行ってしまった猛を追って、智恵子が吊り橋へむかう。吊り橋は大の苦手だが奮起して彼女追った兄・稔だったが、橋の上には悲劇が待っていた。猛が野花にむけてシャッターを押している間に、稔て智恵子が吊り橋上でもつれた拍子に智恵子が転落してしまう。果たして、事故なのか、それとも兄が突き落としたのか。。

これもまた、好評でやや話題になった、西川美和監督の第1作『蛇イチゴ』(03)のことは、じつはあまり覚えていません。自己中で微妙に迷惑な兄がいて、忌々しいが嫌いになりきれない。その忌々しいアニキが宮迫博之。いつも拭い切れぬ兄への不信感。ボケかけてるおじいちゃんが確か『学校の怪談4』の、えーと、笑福亭、‥思い出せん、狭いキッチン兼食堂みたいなところでの朝ご飯、トーストの食べ方へのある種のこだわり。香典の持ち逃げ。そんな断片的な記憶で、あとは、印象というか、感想だけは頭に残っている、なかなか悪くなかったけど、なんか甘い、という印象が。

そんな曖昧な記憶と印象のまま、第2作『ゆれる』にむかいあうことに。『ぴあ』恒例の、初日出口調査では『M:I:Ⅲ』『ブレイブストーリー』をおさえて満足度堂々一位に。ミニシアターの観客動員数でも二位スタートで『初恋』を蹴散らし、好発進。ぼくの観た回もその前後の回もギッシリ満員。客層はオダギリジョー目当ての女性オンリーかと思っていたら、意外と男性もいる。

で、観終えてしばらく日にちが経ったのだけれど、言いたいことがあまりない。考えもなくとりあえず書き出してみると、結論だけ言えば前作と同じようになる。なかなか良い、でも、なんか少し甘い、と。

ぶっきらぼうに画面に現れる『ゆれる』のタイトルの出し方に、ある確信が見える。冒頭、東京でカメラマンとして働くオダギリジョーの個人事務所、引いたポジションの薄暗い画面のなかを、数人の男女が話しながら移動し、ソファに座り、仕事の話とオダギリの久方ぶりの休暇の状況説明がなされる。冷蔵庫を空け、水分をとって、礼服を受け取り、女の部下にキスをし玄関を出てゆく。テキパキこなされるが危うい段取り芝居。キャメラワークもどこか自信なさげだ。(残された女が独りでニヤケて唇を指で触ったりするようなルーティンはない。)

それが屋外へでて、オダギリジョーが自動車で帰郷する一連の場面では一転、画面は活気づく。刻一刻切り取られてゆく、何でもないような、ド田舎と郊外の中間のような街角のロケーションの数々が素晴らしい。〈映画的〉にも〈審美的〉にも安易に収まらない、道や交差点や街並みや空き地。車の撮りかたもいい。車の内外に響くエンジン音と外界の雑音の入り交じるかんじ、車窓の後ろに去ってゆくその何でもない風景。
やがて車は早川と(オダギリジョーの姓と同じ)名の付く埃っぽいガソリンスタンドへたどり着く。上方に過剰に吹き抜けた、屋外とも屋内ともつかないの中間的な開放感と閉鎖感を併せ持つ、GS特有の空間形成、そこによく通る店員の声が響き低い原始的なエンジン音に混じる。そこで働く智恵子に気づき、猛はサングラスをずらし、眼をふせる。

ここまでに感じるのは、無機質な無生物の描写の確かさ、音の設計のよさ、そして、人間を演出するさいの不安定さ。それが以後、覆されるのかどうか。

音でいえば、まず脚本の発想の段階から映画的だ。事件の舞台となる吊り橋の下を流れる川の轟音が渡るものの恐怖を煽ったり、離れた場所にいたオダギリジョーに、吊り橋上のふたりの言い争いや彼女の悲鳴が、果たして聞き取ることが出来たかが重要なポイントになってくる。あるいはラスト、ふたりの兄弟が、これもまたまるで川の流れのような、騒音轟く交通量の激しい大通りをはさんだ、向こうとこっちの歩道にいて、兄に気付いてもらうために弟が声の限り叫ぶことからも、音のきこえる・きこえないが疎通における大きな仕掛けとなっている。
そしてこの、声の届く/届かないという物理的分岐は、兄弟同士、相手の芯からのほんとうの気持ちや考えがわかる/わからない、という心理的分岐と重なり、本質的には他者の真意の完全な理解には到達できないという不可能性の定義を導き出す。

〈ゆれる〉とはこのこと、血の繋がりのある兄弟でもその真意の奥の奥まではわかり得ない、どこまで信じたらいいか、こころが揺らぐ、ということ。それが全編に緊迫感が漂っている要因で、兄はほんとうに殺意をもって彼女を突き落としたのではないのか、彼女の相手を知っていたのではないのか、弟はほんとうに兄の無罪を信じているのか、自分のためじゃなく兄のために多額の裁判費用を負担しているのか‥。
オダギリジョーと香川照之は、互いに向けても観客に向けても、「だいたい」の心情はさらけ出し、吐露する。しかし、それでも、奥の奥にある(のかもしれない)真意はお互い、そして観客には感知しえないから、進んでゆく裁判のゆくえと登場人物たちの心持ちの変転を緊張しつつ見守ってゆくことになる。

こういった、作劇構成上の仕掛けは効果的で、心理的葛藤も洗濯物の扱いなどを用いじゅうぶん考えられかつ鮮やか。今回は受けの演技で、瞳の潤い具合の変化がこころの揺らぎを語るオダギリジョーと、器の小さい男は得意な香川照之をはじめ、法廷のシーンで淡々・ダラダラと喋る検察官役の木村祐一ほか、俳優陣の演技もたしかな力をもって映画を形作る。

しかし、〈演技〉は〈映画〉じゃあない。
先程、数人いりくむシーンの“段取り臭”について言いましたが、さまざまなシーン、個人個人の演技の演出はしっかりしているのにも関わらず、ひとつの場面としては、どこか逃げが感じられる。智恵子が死に、病院に駆けつけた智恵子の家族を前に、いったん逃げようとする香川照之は、オダギリジョーに押し留められて、土下座するように崩れおち、謝るとも泣きじゃくるともつかない醜態をさらすが、その場面はそこで途切れる。その気まずい場を、そこにいるそれぞれの人びとが、どう感じ/考え/胸におさめたのか、その葛藤は描かれない。それが作風といえばそれまでかも知れないけれど、引っかかる。

人間と人間の感情が軋轢をおこす。そこに心のドラマがあるのに見つめない場面が多々あった、と感じた。

たとえば法廷で、最期の最期にオダギリジョーが、それまで弁護士と積み上げてきた戦略をぶち壊すような言葉を発するという、取り返しのつかないことをするとき、兄弟のあいだに決定的な〈何か〉が生起したはずなのに、その感情や視線のゆくえやふたりの間にある無言の空間などは捉えられず、普通にカットを割って兄が退場してゆく“お話の流れ”が語られる。いや、そうではなく、ここでは伏せておいて、クライマックスでドッとカタルシスとともに真意が顕れるという仕掛けだから描写せず隠したのだ、というのなら、ラストシーン、オダギリの呼びかけに気づき、微笑する香川照之、という陳腐な紋切り型がその〈答え〉では拍子抜けだ、と思う。追いつめて追いつめたさきに、どうするのか、といういちばん肝心な探求心が淡泊だ。だから、どこかオシャレ狙いのイイトコ取りにみえてしまう。

DV撮り・低予算の競作企画、〈映画番長〉の〈エロス番長〉シリーズの監修を任された瀬々敬久監督は、起用された新人監督たちに、その物語は最期にどこにたどり着くのか、そしてそこ(結末)でなにを結晶させ、表現するのか、この物語と主題の終わりに何を見つけ出すのか、と、しつこく、とにかく結末のつけかたを熟考させ、ディスカッションを重ねたという。瀬々監督は、新人ぎみの監督が、ともすれば空気感の描出と、いわゆる“良いシーン”の形成に溺れて、着地をおろそかにしがちなことを先刻承知なのだった。

才能ある西川監督の導き手が、毎回毎回自分の浅い策にウットリと〈溺れ〉て失敗している“イイトコドリの権化”是枝裕和監督(『DISTANCE』、『誰も知らない』‥)なんぞではなく、もうすこしマシな先達だったなら、『ゆれる』も傑作になりえたのに、あと数歩、甘い、と感じる。惜しい。

最後に。この『ゆれる』、オダギリジョー主演の〈アイドル映画〉としては、じゅうぶんすぎる出来ばえ。エロさ、軽やかさ、孤独、さまざまな表情と姿態。

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genre : 映画

『やわらかい生活』(2)

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1.田口トモロヲ

映画館の薄暗闇で、寺島しのぶ演じる優子は隣席の男による痴漢行為に感じている。出会い系サイトで知り合ったkさん(田口トモロヲ)と、合意のうえでの痴漢行為だ。冒頭からすでに、言葉のみを介して開始された関係が、恋愛的筋道ぬきに性愛的関係性と直結するさまが提示されている。
実際、この映画全般とおして、寺島しのぶにはいわゆるスタンダードな異性との恋愛は存在しない。田口トモロヲとは援交的な契約関係であるし、妻夫木聡とは出会ったときからこの男とは寝ないなと感じる。松岡俊介はED、豊川悦司は従兄弟。すべて噛み合って、幸せ、なんてことにはならないのだ。

田口トモロヲの提案で寺島しのぶは蒲田に辿り着く。その理由は、痴漢といえば場末の映画館でしょ、ということで、ここでも、言葉を介して痴漢=場末=蒲田というイメージ連鎖が生じて、現実の肉体がそれを追走し再確認するように、寺島しのぶは住人として蒲田の地を踏むことになる。その際に、立ち位置がいつでも不安定な優子は、『Love KAMATA』というホームページを立ち上げ、コミュニケーションツールとして(じっさいに、それで安田(妻夫木聡)と出会うことになる)デジカメによる写真と文章によって、世界と繋がる。街を歩き、感じたことを言葉にし、みた風景をカメラにおさめて、ネットにアップする。見て、感じて、人に伝えて関わりをもつ、その遅効性が、コミュニケーション不全と希求を示す。見、感じている心と肉体は、いつも同時的関係から一歩ズレている。タイヤ公園の怪獣を優子が目にし、へえと感じ、安田に伝わり反応がかえってくるまで数日を要した。瞬間、瞬間にあるのは常に孤独。
街を徘徊する寺島しのぶの姿と蒲田の風景を切りとるのは、『ヴァイブレータ』『ガールフレンド』のDV撮影的な、対象と溶解してしまう密接した撮りかたとは異なり、いわば35ミリ的な、どっしりとして安定した引いた構図でとらえられる。愛撫のような描写でなく、観察するような描写によって、幾分は楽しげでもありつつも、孤独を、行き詰まりを抱えているさまが見つめられている。

田口トモロヲが演じることによって“ステキな男性”の座からは滑り落ちてしまったkさんだが、優子とはもっとも調和のとれた快適で安定した関係が持続している。レストランで食事をしながらの密やかな足による性戯、走行中の車のなかでのバイブによる悪戯。お互いに薄氷のようなウソと、赤裸々なホントの自分をさらして、それらを知り承知しつつも素知らぬ顔で微温的関係をもっている。そんな〈自分の醜さを恥じる必要〉もなく〈彼を愛する必要もな〉い関係に水をさす、快適なウソの人生に亀裂を入れるのは、k側でいえば親子ですごす姿を優子が目撃してしまうこと、そして優子側でいえば、優子のホントをよく知り、微温的に快適なウソの人生が通用しない従兄弟の祥一の車と、kさんの車がニアミスすることによって。隣に並ぶ車の運転席にいる豊川悦司に見つからないように顔を背ける寺島しのぶ、もうバイブどころじゃない。「どうしたの?」「ごめん、やめていい?」ウソの人生、幻想からさめて、それまで背景にうすく控えていた祥一=豊川悦司が優子=寺島しのぶの、そして映画自体のうちに大きく比重を占めはじめる。


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2.豊川悦司

優子=寺島しのぶは、躁鬱になった原因として、だれにも分かり易く共有し易く同情し易い偽りの過去をつくりだす。両親は阪神淡路大震災で、恋人は地下鉄サリン事件で、親友は9・11で失ったと。躁鬱病=親しい者の死=皆が共有する痛ましい大事件、と、言葉で回路を作って悲しみを共有し、理解を得るために。偽りの出来事で、偽りの悲しみ/理解に誘導することによって、刹那的な関係しか人々と結べないことが露わになる。そうしたのはいとこの祥一の存在だ。
彼は金もなく、地位もなく、若さもなく、ただ共有した巨大な記憶群とその動物的な優しさのみによって、ウソで固めてかろうじて世界をいきることを耐えている優子の防御を軽やかに、静かに越えてゆく。優子の部屋での立ち振る舞いも出色だ。緊張感なくいることのできるふたりが、お互いに気をつかわずにズケズケと領域を犯すことのなんともいえない緊張感。心安い者がいることに、どこか気後れする部分。

優子ちゃん、おじさんとおばさん、阪神大震災で死んだと言いよっと?
なんでそんな作り話ば?
俺のお袋、乳ガンで死んだばってん、乳ガンで死んだ人いっぱいおるけど、他人とは分かち合えんよ。俺は、俺の悲しみなんか他人にわかってたまるかと思う。だけん、他人の悲しみも、想像はできるばってん、分かるなんて言えん。

優子と祥一は生きてきた道も生き方もちがう。豊川悦司特有の、観念を生理に昇華させてしまう静かな優しい口調で、優子のわざわざ苦しい生き様に疑問をむける。しかし詰問はしない。それが生きやすいなら、それでもいい。みっともない今のままでもいいと、産湯のように、あたたかく許容される。

実は優子の初めての相手は、一度だけだったが、祥一だった。
そのとき、きこえていた歌が尾崎豊の『I LOVE YOU』だった。優子はそう思いこんでいる。だから久しぶりに再会した祥一の車に同乗して、スピーカから流れてくるその歌に、祥一につっかかる。わざとかけたの?好いとったやん。嫌いになったのよ。なんで。いいよ、分かんないなら。永年の、多くの共有する記憶をもつ、ウソなくホントウしかないはずのふたりに生じた記憶の行き違い。生きぬくために仕組まれた嘘の網目に、たったひとつ、無意識から生まれたホントウのウソが紛れ込んでいた。だから記憶違いの判明するカラオケ店のシーンは、圧巻だし、それだけでない、さまざまな感情が、そこでは、最終的にやさしく渦巻いていた。その狭い部屋での時間は、かけがえがなくて、愛しい。

『I LOVE YOU』はやだよ、と釘をさす優子。なんでいやなんか分かったよ。忘れてたんやろ。違うったい。何が?その疑問にこたえず、曲をいれる祥一。尾崎豊の『ダンスホール』が流れだす。ふたり、画面に流れるの歌詞のに見入り、祥一の歌声が響いている。この長回しシークエンスの後半、『ダンスホール』がまるまる流れる/歌われるなか、視線が移る、祥一が優子に目をむけること、優子が祥一を見ること、見ていないときも背中をむけつつ気持ちはみていること、やがて、あのときの歌はこの歌だったと気づくこと、それら全てが、台詞なしに、シンプルかつ複雑に描かれる。説明的でも映画的ルーティンでもないやりかたで、やわらかい、あたためられた空気の動きのようにほんわりと、人と人の関係が、変化するというよりは、やわらぐ。

そして、祥一は、嘘をひとつだけ残して、
優子のまえから消える。

気付けば、優子のまわりにはだれもいなくなっていた。そして、ラストのラスト、ひとつの優しい、しかし残酷な、小さな奇跡が。涙。



3.その他

妻夫木聡の台詞は、みんな、どうも浮いてきこえました。
正直痒かった。

『ガールフレンド』コンビの河井青葉と山田キヌヲが『予感』につづきまた登場!
このまま廣木隆一映画の顔になってほしいものです。
少しヤラしいナース姿の客引きを演じています。

theme : 映画紹介
genre : 映画

『やわらかい生活』(1)

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『やわらかい生活』
(2005年製作、2006年公開、日本、126分)

監督:廣木隆一
脚本:荒井晴彦
出演:寺島しのぶ、豊川悦司、妻夫木聡、松岡俊介、大森南朋、田口トモロヲ

キャリア街道をドロップアウトし、躁鬱に陥った優子(寺島しのぶ)。出会い系サイトで知り合った趣味のいい痴漢(田口トモロヲ)と落ち合った街・蒲田を気に入った彼女は、蒲田に引っ越してくる。痴漢のkさん、元同級生でEDの議員の本間(松岡俊介)、うつ病のヤクザ安田(妻夫木聡)、いとこの祥一(豊川悦司)との関わりのなか、こころのありようが移ろってゆく。。


1.

傑作『ヴァイブレータ』から3年。監督・廣木隆一/脚本・荒井晴彦/主演・寺島しのぶ、のトリオ再び!!(正確には、プロデューサー・森重晃、撮影・鈴木一博、録音・深田晃のほか、キャストも幾人かの重複あり)ということで、『ヴァイブレータ』の夢(?)よふたたび、という狙いととらえられそうなところですが、実際、廣木隆一×荒井晴彦という組み合わせは、『ヴァイブレータ』の製作スタッフ発表時から、その手があったか!!と大変刺激的だったし、結果出来上がったものも素晴らしいものでした。よって、また廣木×荒井の仕事がみてみたいというのが映画を観たり作ったりするひとの当然の気持ちで、『ヴァイブレータ』の主演として寺島しのぶが決まったのも企画の流産スレスレの、最後の最後だったように、今回も最初から寺島しのぶありきの企画ではありませんでした。某女優が、女性を輝かせる演出手腕に定評のある廣木隆一にラブコールを送ったのが出発点で、そこから森重晃/廣木隆一/荒井晴彦でやるという企画が浮上する。まず大道珠貴『しょっぱいドライブ』が候補にあがるも、その“今なにかと話題の女優さん”は難色を示す。そこで
糸(←また字が出ない)山秋子『イッツ・オンリー・トーク』。これはオーケーということで企画が進行するが、シナリオにその女優が納得いかず、直前でオリてしまう。慌てて有名女優2名にあたるも断られ、『ヴァイブレータ』同様、またも流産しかけたところ、

荒井晴彦「寺島しのぶからケータイにメールが来て、「感動しました。私やりたい」って(略)それで「頼むよ、寺島しかいないよ、俺のシナリオ分かるの」って打ち返して。それで夏の話だったんだけど、彼女のスケジュールで11月に撮ろうということに。」(『シナリオ』7月号)

ですから、また廣木/荒井/寺島のトリオありきで、今度はまた違った“寺島しのぶ”をやろう、という狙いは当初なかった、ということは知っておくべきことで、また、寺島しのぶが〈原作に惚れ込み、難役に挑んだ〉というパンフレットの文章も、ある場での寺島しのぶの発言〈『ヴァイブレータ』のパーティーがあって、その席で私はこの映画のことを初めて知ったんです。それで荒井(晴彦)さんにホン(=脚本)を読ませて下さいと言って、読んでみて是非やりたいと思ったんです。〉からすると誤りで、寺島しのぶは荒井脚本を読んで出演を決めた。尚、『イッツ・オンリー・トーク』という題を使えなかったのは、原作を改変しすぎたからだという。


2.

『ヴァイブレータ』は一点突破的、ゲリラ的に、廣木隆一と荒井晴彦の長所の先端だけを武器に、男女の性愛表現を突き抜けることが出来た幸運な映画だったが、新作『やわらかい生活』は一見それとは何もかもがちがう。

男女一対一の単線的な関係/時間を追った前者は、赤坂真理の原作をほとんど忠実にシナリオ化したものでしたが、断片的でとっちらかった今回の原作は、シナリオ化の過程で大幅にいじられた。結果、原作ではファンに人気があるという(文庫版解説による)痴漢kは脇に甘んじ、豊川悦司演じるイトコの祥一が主軸となり寺島しのぶと関わっていくことになります。主軸とするため膨らんだキャラクターは、トリックのためだけに頭の弱い男だった原作の祥一とは異なり、『ヴァイブレータ』の大森南朋のように、動物的に女に我慢強く優しく出来る魅力をもった男となった。祥一が金魚をもって帰ってきて、うどんとそばと名付けてふたりで話す場面は原作どおりだが、廣木隆一の要望で書き足されたというシーンは、実は縁日でとったというのは嘘だった、と判明する金魚屋の場面。『ヴァイブレータ』のラスト間際に、今まで言っていたことが嘘だと話をひっくり返すシーンと同じく、原作にはない〈嘘〉の導入。荒井晴彦がとりつかれているのは、今、しゃべっているその現実のみが現実であって、現実には回想シーンなどないのだから、なにが嘘かほんとうかなど分からず、た
だ、しゃべっている相手の言葉を受け止めるだけだ。お互いに、それだけが現実。であれば、嘘の人生や経験もほんとうの人生で、〈みんな、ウソの人生が別個にあって、そちらと本当の人生を行ったり来たりしながら、辛うじて生きてるんじゃないか〉。原作にはない、荒井晴彦のシソウ。寺島しのぶと、ネットで知り合う主要人物が二人もいて、そういう相手と互いに自分のことを話す場合、自分はどこまで本当のことを言うのか、相手はどこまで本当のことを言っているのか、知る由もないある種極端な状況だけに、その話での“ほんとう”は恣意的に選択され、濃度を変える。そうして生きやすく生きるのと、その対極にある、幼少のころから互いに知り尽くしているイトコ同士の関係の、“ほんとう”の濃度、そして小さなウソ。その感情の対比の濃淡の肌理。生きにくい、繊細な、大人の、映画。

日活ロマンポルノからキャリアをスタートさせ、『ヴァイブレータ』に限らず、男女の性の表現を探究しつづけてきた荒井晴彦(廣木隆一もピンク出身、現在も幾多の映画で独自のエロス表現を追究している)には珍しく、ベッドシーン無しの脚本で、女性の孤独と性を、言葉の交歓によって(言葉こそが、ほんとうとウソをつくりだし、孤独をつくりだし、愛をつくりだす。『ヴァイブレータ』の女は自分の内なる声に支配され、交歓は言葉なき性交でしか生きれなかったが、『やわらかい生活』の女は、対外戦略として言葉を用いて防御し、そのエコーを観測することによって愛すべき他者としての自分を異性のまえに現出させる。だからラストの銭湯のエコーも上滑りせず、心に沁みるのだとおもう)表現しています。ここでも、全編ベッドシーンのような『ヴァイブレータ』とは好対照。一対一の、濃密な粘液のような手触りをもった『ヴァイブレータ』と、一対多、蒲田という街と、様々な種類の人々と関係するヒロインは、特定の人/事物に我を忘れて没入することは出来ずに、ながく後ろにつづく人生を苦しみつつ生きてゆく。刹那的になりきれない人間の“ほんとう”を描い
た映画。


3.

蒲田は思い出深い街。僕が初めて社会人になって、はじめて赴任した街。都会でも地方都市でも田舎でもない、便利で、不便な寂れた街。登場人物はそれを〈“粋”がない下町。どこか懐かしくて、夢であるいたことがあるみたいにしっくりきた〉と表現する。

偶然の出逢いのように蒲田に住居をかまえることになった寺島しのぶ。当面の金はある。デジカメ片手に街をうろつき、風景を切り取ってゆく。何かの象徴としての〈街〉ではなく、生のままの蒲田、息づく街のざわめきが優しい陽光とともに捉えられる。遠くから聞こえてくる様々な音。通り過ぎる電車の音。『やわらかい生活』での“音”は、すごくいい。布団カバーのゴワゴワ擦れる音。簡易ベッドに空気の入れたり出したりする音。屋根付き商店街での声や足音の聞こえかた。部屋の窓の外から聞こえてくる街の音。物語/心理の説明のみに還元されてしまわない、ひろがりのある豊かな音。

街を歩く、柵のむこうを列車がすれ違う。何度か出てくる横移動のシーン、廣木隆一の得意技。画面が活気づく。キラキラ躍動していて、光が降り注いでいて、風が冷たい。悩み苦しみの合間にある、何でもない、微かにいい瞬間。廣木隆一『MIDORI』(96)での、高校生の男女がふたりで向かい合って橋を渡る印象的な横移動のシーン、心の痛いふたりが、つかの間、終わると分かっている時間を一緒にいる切なさ。
皆がまわりからいなくなり、またひとりの生活に戻った優子、『やわらかい生活』のラスト、彼女に故郷から電話があり、ある事実が告げられる。このシーンは幾つかの横移動とは対照的な、〈縦一のいいロングショットで〉、じわりと鈍く認識されてゆくある悲しみを優子に認識させる、印象的なシーン。

最も好きな、いいとおもうシーンは、寺島しのぶと豊川悦司がふたりでカラオケをする場面。引いた位置に据えっぱなしのキャメラが、一秒一秒、かすかに変化してゆく、ひとりひとりの感情と、ふたりのあいだの感情が、視線の動き、しぐさ、声のトーンとしてとらえられていて、スリリングで、感動的。

観るひとそれぞれの、これまで生きてきて、そして今生きてきいる、その経験や環境によって、感じ入ったり不快に思ったり、美しく思ったり感情移入したり、あるいはまた、たんに、躁鬱病の女の話かとかガードのユルい女の話かとしか把握出来なかったりするひともいたりで、反応や感想は様々に生じると思います。

しかし、真っすぐ正面から真正直に生きられて、嘘偽りなくただ楽しく幸せな“大人”など、よっぽどの馬鹿でない限りいないのだから、
“ほんとう”だけでは生きづらく、生きられず、初めて好きになった異性とだけ永遠に愛し愛されるというファンタジーは遠く消え去り、最愛/永遠でない相手とでも、ぬくもりによってしか癒されない痛みを抱えている多くの人間にとって、普遍的な映画。


(つづく)

theme : 邦画
genre : 映画

『やさしくキスをして』

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◎『やさしくキスをして』

パキスタン移民の子である男性と、イギリスの、白人女性。ふたりは出逢い、惹かれあう。
肌の色、宗教、就職、親族‥。
様々な障害、差別、迫害、厳しい現実。
ストレートな恋愛映画。
障害を乗り越えて、結ばれるかどうか。
ケン・ローチの描写は、
いつも〈ほんとう〉で、ウソがない、と思う。
登場人物をこう動かしたらドラマチックだとか、
俳優にこんな動作をさせたら映画的だとか、
余計な色気を出さない。だからシラケない。
しかし一方、地味でウリとなるフックやビジュアルインパクトが足りないことがままある。しかし今回はド真ん中の恋愛映画。一般にも届くことの出来る幸福。飛躍のないドラマの、ほんのすこしの飛躍がもたらす幸福。高鳴るピアノの音。

『やさしくキスをして』
(2004年、イギリス・イタリア・ドイツ・スペイン)
監督 ケン・ローチ
出演 エヴァ・バーシッスル/アッタ・ヤクブ

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『夢の中へ』



園子温の『夢の中へ』(05)

驚いた。

アングラ・インディーズ映画の象徴的存在のひとり園子温は、どちらかというと苦手な存在でした。
いままで避けてきて申し訳ないです!!
『自転車吐息』とか特にモノスゴク苦手で、特有な自己愛の発露が生理的に受けつけかったんですが‥。

物語は、一人の意識でもって幾重もの少しずつ異なった人生を、夢を介しながら、さまよい生きる。
筒井康隆の『夢の木坂分岐点』のようだが、

これはまさか‥‥
鎮西尚一が映画化を夢見ていた、
クロード・シモンの『三枚つづきの絵』
なんではないか?

発想やねらいは 明らかにアングラ的なんですが、その処理がアングラ的自己満に陥らない。意味不明(に思えそう)なエピソードが延々つづいたとしても、ちゃんと、じゅうぶん面白く、嫌な臭みを感じさせない。アーティストなんて甘えたものじゃない、演出家なんだ、と感じました。
象徴やテーマや人生の深遠や前衛芸術の臨界点への挑戦とか、そういったものに色目を使わない、具体的なアクションや生や性を登場人物たちが生きているから、同じように「主人公が理不尽な状況に巻き込まれ右往左往する」というシチュエーションでありながら、サブ監督の諸作みたいにシラケることがなかったんだと思います。
飲み会で主人公がわざとらしく巨乳に触れるシーンとか、妹の登場した瞬間とか、グッときた。

なにより良いのは、台詞まわしです。
小劇場ふうの 細かいリアルでもなく、
山下敦弘やイグナミ監督や風間志織とかのリアルともちがう、
微妙な位置に立った良さ。
これに対しては、福間健二の短評が素晴らしく的確に触れられていました。

〈「知」から遠く離れた、とんでもない作品だろうか。園子温は、昔もいまも何を考えているのかよくわからないが、めちゃくちゃやっているみたいでなんとかなっちゃうのは、才能があるということなのか。〉〈それよりも何よりも、役者の演技の質がほかの映画とはまったくちがう。芝居の嘘がないというのではなく、その嘘を見抜いている自由さがある。〉

『映画芸術』の決算号のコメントですが、福間健二さんの文章は、いつも自分への嘘がなくかつ的確だと思います。(岡田秀則氏、『リンダリンダリンダ』でペ・ドゥナを使うと発想したのはプロデューサーじゃなくて山下監督ですよ。)
そこまでいかないにしろ、『時効警察』での園子温演出の回(4、6話)も、
ほかの演出家のものの大半が小劇場ふう演技なのに対して、
一歩ちがうスタンスをとっといるように思われます。

theme : 邦画
genre : 映画

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