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映画『松ヶ根乱射事件』

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『松ヶ根乱射事件』

(2006年制作/2007年公開、日本、112分)

監督:山下敦弘
脚本:向井康介、佐藤久美子、山下敦弘
企画・制作:山上徹二郎
出演:新井浩文、山中崇、木村祐一、川越美和、三浦友和、キムラ緑子、烏丸せつこ、西尾マリ、安藤玉恵、光石研

90年代初頭、ある田舎町。事件らしい事件の起こらぬこの町で光太郎(新井浩文)は警察官をしている。双子の兄である光(山中崇)は家の仕事を気まぐれに手伝うだけ、父・三浦友和は家出中‥。ある意味平穏なこの町の人々の生活に、訳ありなカップル(木村祐一、川越美和)が侵入してきたことから、少しずつ亀裂が入り始める‥。

天才との名声が日増しに高まる大阪芸大一派の出世頭、山下敦弘監督が、映芸年間ベストワンに輝いた『リンダ リンダ リンダ』(05)のつぎに世に問うた長編映画が、この『松ヶ根乱射事件』です。
山下敦弘監督は『どんてん生活』(01)『ばかのハコ船』(03)でダメ男の人生の時間をオフビートなコメディとして提示してみせ作風を確定させたあと、以降3作、『リアリズムの宿』(04)では高名な他者(つげ義春×長塚圭史×くるり)を導入し山下流ロードムービーを仕立て上げ、『くりいむレモン』(04)では名作エロアニメ(亜美モノ)の実写版リメイク、『リンダ リンダ リンダ』はガールズバンド青春ムービーと、タイプの違う映画に挑んだ。そしていずれもかなりの成功をおさめることで、個性的な作風という範疇に収まらない、本格的な技術と才能もつことを知らしめた。
勝負作かつ本人的には変化球、という難しいところ(『リンダ リンダ リンダ』)での成功でブレイクを果たした山下敦弘監督が、脚本の向井康介とのコンビを離れた新たな冒険の旅(『天然コケッコー』)のまえに、“自分の王道”を再確認するように発表したのが『松ヶ根乱射事件』で、ダメ男のオフビート・コメディ路線に再降臨。というのが、大ざっぱなフィルモグラフィの流れとして、観客なり論客なりに把握されている最大公約数的な位置づけだと思われます。

何でも来い、何でもできるということを証明しまくって名をあげたのちに、元々得意としていた題材やタッチに帰ってきたわけですから、本作のクオリティの高さが尋常じゃないのは当然というか、名人芸の域。しょーもない時代のしょーもない町に生きるしょーもない人々の間に起こる、愚かしい波紋が描かれるだけのこの映画において、ほんの小さな細部ちいさな細部に、いちいち技術とハートが投入されているのだから、もう誰にも真似出来ない〈山下/向井ワールド〉がかなりの高みで結晶しています。冒頭の、子供が死体(?)に対してしょうもないことをする場面から、ラストの、2時間かけてタメてタメた“乱射”がスカしっ屁のように終わる感じまで、ダラッと決まった傑作だと思います。

非力なエンジンが回転する音から、家庭用電灯のヒモに付けられた余計なもの、光の部屋のダサいインテリアまで、世界を構成する諸要素のことごとくが、いちいち、温かく、安く、見苦しく、切ない。キャラクターのいちいちも、生き恥感あふれる味があって、いとおしい。しかし正直なところ、個人的には、何故だか山下敦弘監督の映画をいちいち細かく具体的にホメたりすることに、常々徒労感を感じていますので、あんまり文章であーだこーだ言いたくない気分‥。

さて、批評的には概ね、山下節健在、ということで、『ばかのハコ船』や『リアリズムの宿』に寄せられたような賛辞が与えられているようですが、群像劇であるという新機軸のほかに、新たな段階に入ったかとも思わせる差異もあるようにみえます。
『松ヶ根乱射事件』での主役・新井浩文は、〈主演というのは受け身で、脇の人が攻めたり遊んだりして、映画を成り立たせる〉という通常の配置関係で世界に放たれ、じわじわゆっくりと壊れながらも狂言回しとして“松ヶ根”という〈世界〉を観客の目の前に開示する役割を誠実に担う。それは、これまでのダメ・オフビートな作品群での主人公とは明らかに違う表情を映画にもたらしているように思います。

『リアリズムの宿』までの作品では、堂々たる連続主演として山本浩司が作中に存在していましたが、彼は世界を開示するどころかごく間近なモノゴトしか把握できず、ちっさな保身と慢心によって物語世界をどうでもいい方向へ迂回・疲弊させてゆくだけで、まるで脇役の(スケールの小さい)トリックスターじみて、自分のこざかしい策略に自分ではまってみたりして映画/物語の支柱としての役割を放棄しつづける。主軸をになう人物が短絡的すぎて映画の構造は軟化してゆき、作品じたいが不定形に流動化していた印象があった。『リンダ リンダ リンダ』でも、そもそもの始まりであった友人同士のケンカの原因を観客に開示してくれる登場人物は、誰一人いない。そうして〈ブルーハーツ〉を演る必然性も〈韓国からの留学生〉をボーカルに据える理由づけもなにもなく、構造としての〈発端〉〈必然性〉〈動機〉がことごとく骨抜きにされているという異様な作劇。がそこにはあった。

『松ヶ根乱射事件』では、眼差しに秘めたものをもつ新井浩文が世界の理をじっと見据えていて、語りは整然とすすむ。彼は作品の主軸と主題をにない、照射された世界も周囲の人物たちも、鮮明な像をむすぶ。この“りっぱに”“ふつうに”〈優れた映画〉っぷりに、かすかな違和感を覚えなくもない。この映画が孕む、〈笑い〉の裏にひそむ〈毒〉は、万人にたやすく受容されるものですが、たとえば『リアリズムの宿』にあった〈愚かしさ〉への〈笑い〉は、善/悪、正/誤という世界把握へと至らずに、無責任に放置する、というトンデモな批評性に支えられていたのではなかったか‥。


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theme : 邦画
genre : 映画

『マスター・オブ・サンダー 決戦!!封魔龍虎伝』

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『マスター・オブ・サンダー 決戦!!封魔龍虎伝』

(2006年、日本、92分)

監督・動作設計:谷垣健治
製作統括:倉田保昭
出演:木下あゆ美、芳賀優里亜、椿隆之、永田杏奈、小松彩夏、アドゴニー・ロロ、千葉真一、松村雄基、倉田保昭

怨霊が黄泉より蘇り人を襲いだした。千四百年の昔より伝わる、悪霊を封じ込めるための秘儀〈鬼封じの法〉を用いて怨霊を封印すべく、〈青龍の七人衆〉の縁者、子孫が集結した‥!

木下あゆ美出演作の最新は、TBSの昼ドラ『結婚式へ行こう!』ですが、ここでの木下あゆ美は、主人公である親友アオイ(石橋奈美)の結婚式当日に新郎リョウスケ(坂上忍)を奪い逃げておいて、その直後、いけしゃあしゃあと被害者当人のアオイの家に居候して、あまつさえ何かにつけてアオイにニャーニャー懐いているという、信じがたい妹的キャラ・マコトを演じています。このリアリティもへったくれもない役を、意外と嫌味なくどこか可愛げもある人物として体現し得ている木下あゆ美は、じつはなかなかの役者さんだとおもう。

この『マスター・オブ・サンダー 決戦!!封魔龍虎伝』での木下あゆ美の起用は、代表作であるデカレンジャーのジャスミン方向からの抜擢でしょうが、こういった、正面からリアリティをうんぬんするのが難しいような題材を成り立たせるだけのモノをもっていると感じさせるのでしょうか。芯がとおって背筋のスッのびた凛としたかんじと、舌足らずで無防備な部分が同居していて、頑なで抜けてる、硬質で幼稚、という振り幅をもっていて、それが少々苦しげな世界観や物語でも何とかしてしまう“大きさ”となっていると思います。

テレ朝系列の特撮戦隊もののヒロインのひとり(『特捜戦隊デカレンジャー』)、テレ東深夜ドラマのダークで妖艶な役(『怨み屋本舗』)に、TBS昼ドラの女の群像劇の一員(『結婚式へ行こう!』)、そしてこのVシネチックなファンタジーアクションの本作と、ムダにバラエティーに富んだ役柄を難なくこなす。〈アジア震撼!日本が誇る国際的2大アクションスター初バトル遂に実現!千葉真一VS倉田保昭〉と銘打たれた、2大スターの競演と、谷垣健治のアクション監督としてのこだわりぶりに注目が集まるこの映画ですが、実質、作品世界を負って立つ役柄を木下あゆ美が気負うことなく演じていて見事だと思います。

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お話は、里見八犬伝みたいな話のバリエーションで、無理のあるところが色々ありますが、こういう映画で細かくアラ探ししても生産的じゃないのであたたかく見守るべきでしょう。しかし、『七人のおたく』みたいに、アキバ系オタク、ナンパ師、コスプレ、ギャンブルなど様々な特性や属性をもった仲間が集結したのに、ほぼ誰の特技も役に立たないどころか、集めた面々は誰一人として事件の解決に関与しないまま終わるというのは、それはいくらなんでも‥。

さて、選ばれた勇士たち7人の面々、ターゲット(非モテ系男子)を想定してか、妙に美少女(アイドル)比率がたかく4名、それに対して男はオタク1名お笑い系外人1名と、ようやく最後にイケメンひとり。しかもそのイケメン(椿隆之、『仮面ライダー剣』)も軽いナンパ師で、女の子たちとステキなロマンスに陥って前面に出てきたりとかいうことはなくて、物語の後景で大人しくしていますから、非モテ男子が疎外感を感じないで済むように配慮されている(?)わけです。

ガリ勉少女役の芳賀優里亜『仮面ライダー555』発。映画は『恋する日曜日』(06、→別記事はコチラ)、『海と夕陽と彼女の涙~ストロベリーフィールズ~』(06、→別記事はコチラ)、『Voices』(05)などに出演。使い勝手がいいんだか悪いんだか、微妙な成長過程にあるひとかと思います。なにげに塩田明彦の『どこまでもいこう』(99)や『害虫』(03)に出ていたらしいのですが全く記憶にない‥。数年後には名をあげて、今度はメジャーな部類の塩田明彦作品に是非!

メジャー作『僕は妹に恋をする』(06、→既出記事有り)の好演で名が知れ、今後引っ張りダコ必至と思われる小松彩夏は、去年は『ドリフト』2部作(→既出記事有り)と『僕妹』(公開は2007年)、それにこの『マスター・オブ・サンダー』と映画に盛んに出演しました。『恋文日和』(04、→別記事はコチラ)を含め、アンニュイで儚げな、陰のある役を演じて印象をのこしていますが、今作では実写版『美少女戦士セーラームーン』からの流れでの出演か、まんまコスプレする美少女役。カラッとした明るめの軽い役柄も悪くなく、メイド姿などコスプレも見所。今後、安藤希とポジションがカブりがちかとも思うが、ダークなほうに行き過ぎない、明るさのある声質が救いにもなる。

アクションはインパクトのスピードと“痛さ”の表現に焦点。ただ『マッハ!』や『トム・ヤム・クン!』を観たあとでは、早回しはやっぱりシラケるところ。キャストがちゃんとアクションシーンを頑張ってる部分は好印象。
そして、千葉真一のアクション。千葉真一にたいして、斜めから笑いつつみようという向きもあるかも知れませんが、動きと動きの間を繋ぐ“タメ”の演技/アクションが、やっぱり素晴らしくて、老獪なレスラー(武藤とか)みたいになるのがアクションスター晩年の正しい在り方かとおもう。ジャッキー・チェンみたいな変わらぬ方法論だと、今のジャッキー映画が、その若いころの映画にかなわないのは必然となりましょう。

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theme : 日本映画
genre : 映画

『マリー・アントワネット』②

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『マリー・アントワネット』

→①からのつづき
マリー・アントワネット=キルスティン・ダンストが画面に姿を見せない場面――たとえば母国の母が手紙を書いたり読んだりするシーン、兄がフランスにやってきてマリーの旦那を諭すシーン―― であってさえ、その場面は母の手紙を介して主体者マリーが想起する、想像としての肉親たちの行動風景だと捉えられうるのではないでしょうか。兄が夫を諭す場面では、巨きなゾウが介入し、一種幻想的な非リアリズムを感じさせる。同じくマリーの登場しない、従者らしき者どもが絵をかけかえることによってマリーの子供の死を表現した場面など、明らかにリアリズムからは遠く離れた表現主義的な描写で、マリーの心情の色彩に事実は歪められて顕れ、他とは異質なシーンとなっています。

〈表現主義〉とは『日本百科辞典』によれば〈様々な芸術分野(略)において、一般に、感情を作品中に反映させ、現実をねじまげて表現する傾向のことを指す。また、この語は、感情の中でも特に不安や葛藤などをあらわしたものを指すことが多い〉とされていて、その伝でいえば、『マリー・アントワネット』は表現主義の王道をいっている映画ということになるかもしれません。それにしては、過激さも冒険も独創性もないんじゃないかという意見もありましょうが、少なくともサントラにニュー・ウェーヴの楽曲が使われていたり大部分の登場人物が英語を話したり史実に反する描写が出てきたりするのをリアリズムに反すると突っついて非難するのは、見当違いというものでしょう。

話がそれました。あるいはまた、ある場面ではマリー=キルスティンのすぐそばで周囲の者がマリーについてひそひそとよからぬ噂話をしているが音として響いて来ないのに、幾分か後のシーン、マリーが宮殿内で孤立しはじめてからの場面では、遠くにあって届くはずのない場所からのひそひそした噂話が次々にマリーの耳朶にはっきりと届いてくる。全ては、やはりマリー=キルスティンの感じる孤独感、閉塞感、世界の断片の不愉快な肌触りであって、それでもそこに居ざるを得ないいたたまれない感情に沿って全ては組織されています。

しかし、何も有機的・立体的にドラマを形作っていかない(ないないづくしの)シナリオを用いて、感情にのみ寄り添い歴史上の人物を現在の時空間に蘇らせ体感させるという戦略は、たいへん志高く心意気には感服しても、それを完遂し成功に導くにはそれなりの力量が必要なのではないでしょうか‥、そして、ソフィア・コッポラにはその演出力(もしくは、人間的性格的な何か‥)が不足していたため、多くの観客を説得するに至らず、同じ感性の者にセンスを賞賛されるだけ、という非生産的な回路に閉じてしまっているような気がします。

それはたとえば登場する多くの人物たち、ポリニャック公爵夫人やプロヴァンス伯爵夫人やメルシー伯爵など、比較的マリーのそばにいる近しい面々ですら、通り一遍の薄っぺらい人物像しか与えられていないことにもあらわれています。マリーが生理的に嫌悪をもよおす相手であるデュ・バリー夫人も、近年稀にないほどキャラの立ってない魂のこもっていない悪役。マリーが心奪われることになる、男前なフェルゼン伯爵(『ベルサイユのばら』ではあのオスカルもフェルゼンの虜になったんだった‥)も、ルックスが良いだけで色気も人間的魅力も半端にしか描かれない。
フェルゼンと仮面舞踏会での見つめあうカットバックも、ルーティンに沿っただけの粗雑でおざなりなものだったし、性的関係を結ぶシーンも冗談みたいで、マリーに想起されるフェルゼンのイメージが“戦場で勇ましくポーズを決めるの図”では、いかにこの映画がマリー/キルスティン/ソフィアの内的世界の表出とはいえ、あまりに貧困ではないのか‥。

〈感情〉とは、孤独とは、〈他者〉との関わりあいから初めて生まれ、また、乗り越え得るのではないでしょうか。完全に理解しあう時など訪れない〈他者〉と生きる〈世界〉で生じる孤独こそが描かれるべきで、脳内妄想の域を出ない薄っぺらなカキワリの人間たちとの関係からいくら孤独や閉塞感を描いたところで、現実の感情の劣性コピーしか生じないでしょう。

このような事態に陥った要因は、たぶん、ソフィア・コッポラという人間の小ささ、未熟さに由来する、のではないか。自分の感情、不満(孤独など、の)を周囲にまき散らすのに精一杯で、周囲の他者が何を考え、感じているのか思いを馳せる余裕がないのでしょう、きっと。彼女の分身たる彼女の映画及びそのヒロインの姿がそれを端的に物語っています。
淋しい土地で夫にほっとかれて夜遊びする、という、『マリー・アントワネット』と殆どおんなじ話の前作『ロスト・イン・トランスレーション』は、いわばソフィア版『東京画』ともいえて、しかしヴェンダースの東京の活写ぶりとソフィア・コッポラのそれとは決定的な違いがある。

たとえば同じようにパチンコ屋が登場しても『ロスト~』のそれは“孤独なワタシ”の背景を彩るものでしかないが、ヴェンダースはその空間の不思議さと閉店後に作業する“釘師”の存在を興味深く凝視する。『ロスト~』に現れては消えてゆく人々は〈よそよそしい世界〉の象徴物でしかなく、彼らに内面はなく、賑やかしとしてセンス良く画面を横切る。一方の『東京画』でヴェンダースがキャメラを向ける厚田雄春は、ヴェンダースには計り知れぬ世界の秘密を知る人物としてあらわれ、不可知論という概念を、理論ではなく“経験”として、ヴェンダースの、そして観客の魂に刻みつけるのだ。

ソフィア・コッポラの世界においては、他者的な“経験”はなく、幼い抽象的な世界観のうちでの“わたしのモヤモヤ”があるだけだ。『マリー・アントワネット』において、表現がどこか突き抜けないのは、〈他者〉の設定にたいして高をくくってしまったからなのだとおもう。
自分以外の人間も、自分と同じように、しかし別個にそれぞれのパーソナリティ、感情を有して、生きているということ。そのことに鈍感な人間は、せいぜいよくても〈センスがよくて、オシャレ〉程度の映画しか作れない。

〈ロードムービー〉のキーワードとして〈閉塞感〉〈中間性〉〈断片性〉をあげましたが、それ以上に世界の手触りの〈外部性〉が〈旅〉の本質となる。〈外部性〉とは要するに〈他者〉のこと、そこで“唐突に”出会うもろもろの事物や生命は、根源まで完璧に理解し尽くすことのない余白を常に残しづつけ、存在の手触りだけを残像のように魂に刻んでゆくものだ。ソフィア・コッポラはそれらを容易に内面化出来ると(あるいは審美的記号化処理が出来ると)楽観視しているふしがある。

情勢は、革命の火の手は、伝聞でしかマリーの元へ届いて来ず、脅威も市民の貧窮も実感として彼女の感情をかきたてることはない。〈少女〉である彼女自身の感情、“閉塞感”や“居心地の悪い思い”と直接リンクしない他人の叫びは、抽象的な観念としてたやすく消化されてしまう。

ソフィア・コッポラの描写は決して〈他者〉の〈痛み〉には寄り添わない。革命の足音は、マリー=キルスティンにとってのそれはオフからの音にすぎず、不吉さの記号でしかない。それが他者のあげる苦痛の悲鳴のようなものだと想像することはないのだ。

マリー=キルスティン目線の映画だという軸は決してブレさせない作り手は、勿論暴徒化した群衆を大がかりなモブシーンなどで現出させず、彼らは、マリー=キルスティンから視認できる範囲の、黒い影、薄っぺらいシルエットのようにしか表象されない。自分を危機に追いこむ群衆など“わたしの人生の主人公であるわたし”にとってあくまで傍系の者ども、彩りにすぎず、バルコニーに出て群衆に頭を垂れるマリーの姿は、その他大勢である不特定多数の観客に対する主演女優の優雅な振る舞いとみえる。中盤では皆を集めて主演の舞台まで披露したマリー=キルスティンは、序盤、観客に甘んじていた観劇の場でも、禁じられた拍手を強行することで、己の存在を視線劇の中心化とせしめた。

ラストシーンは、迫りくる危険から逃れるために、馬車で宮殿から走り去るときに訪れる。キルスティン・ダンストは穏やかかつ確信にみちた表情を浮かべている。自分が世界の中心であるという妄執から解放されたとき、幼年期は終焉を迎える。〈他者〉の意志により強制的に生命を奪われるという、他者に主体性を譲り渡す出来事に遭遇するまえに、他者を排しつづけた映画は終わりを告げる。

theme : マリー・アントワネット
genre : 映画

『マリー・アントワネット』①

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『マリー・アントワネット』

(2006年、アメリカ・フランス・日本合作、123分)

監督・脚本・プロデューサー:ソフィア・コッポラ
原作:アントニア・フレイザー
美術:K.K.バーレット
衣裳:ミレーナ・カノネロ
音楽:ブライアン・レイツェル
出演:キルスティン・ダンスト、ジェイソン・シュワルツマン、アーシア・アルジェント、マリアンヌ・フェイスフル、ジュディ・デイヴィス、リップ・トーン

弱冠14歳の、オーストリアの皇女アントワーヌ、のちのマリー・アントワネット(キルスティン・ダンスト)は、単身フランスの王室に嫁ぐ。彼女にとって母国と自身の地位の安泰のためには世継ぎを産むことが急務だったが、夫との仲は思うように進展せず、マリーは異国の地で孤独を深めてゆく‥。

1.

キルスティン・ダンスト×ソフィア・コッポラ×マリー・アントワネット!!
この組み合わせを聞いた(見た)とき、ナルホドネ~~と、かなり感心しました。
頭が悪いわけでもないが微妙にガードのユルいかんじのあるキルスティン・ダンストをマリー・アントワネットに、というキャスティングは、ミスキャストにみえてジャストな気もする絶妙なキャスティングに思えましたし、『ヴァージン・スーサイズ』以来、キルスティンと久々にタッグを組むソフィア・コッポラが挑む題材が、オーストリアからたったひとり嫁いでくる華やかかつ悲劇の皇女の物語だというのも、一本筋の通ったことに思えたのでした。

山崎まどか言うところの〈女子映画〉というジャンルにおいて、ジャンル外の世間にまで名声をとどろかせている出世頭(?)のクリエイターといえば、ソフィア・コッポラをおいて他になく、彼女は長編第1作『ヴァージン・スーサイズ』(99)ではカンヌへの出品、MTVムービーアワード最優秀新人監督賞受賞を果たし、続く『ロスト・イン・トランスレーション』(03)でもアカデミー賞脚本賞やゴールデングローブ賞作品賞ほか、多数の賞を手中するなど、新世代の旗手として讃えられています。

で、その作風はというと、娯楽映画のフォーマットに忠実でありながらディテールへのこだわりやジャンルの脱構築によって〈女子映画〉を豊かにしてゆく他の多くの(ジャンルの)担い手とは異なり、かなりストレートなアーティスト、やや古ぼけた意味合いでの芸術家志向というんでしょうか、“社会や家庭のなかで少女が陥る、生ぬるい閉塞感へのいたたまれなさ、居心地の悪さ、居場所のないやるせなさからの、脱出(飛翔)”という自分の耽溺するモチーフ/感情を映画に定着させることに拘り、その映画はある種私小説的な色合いをおびる。

雑にいえば、『ヴァージン・スーサイズ』で描かれた生あたたかい退廃的な環境への苛立ちは、作り手じしんの、コッポラ・ファミリーの一員として在ることの没落貴族的甘美さと居心地の悪さを想像させるし、『ロスト・イン・トランスレーション』の、異境の地・東京でぽつねんと途方にくれているスカーレット・ヨハンソンのいたたまれなさと苛立ちは、本人の実体験が基になっているというのだから、ある程度恵まれていようとチヤホヤされていようと、なんとも言いようのない不自由な圧迫感にいつもどこかイラついているソフィア・コッポラ自身の人生や感情がそのままトレースされて映画に反映している。

そういう経緯から導き出されるのは、最新作『マリー・アントワネット』における、オーストリアから単身フランスの王家に身をよせることになるマリー・アントワネットは、これまでの作品同様、ソフィアの感情の分身として、ヴェルサイユに居心地悪そうに佇むだろうという予想。史実のなかの人物でなく、あくまで、“わたし”が14歳だったとき、そして“わたし”が18歳だったとき、感じていた息苦しさ、閉塞感が、ここでの主眼となろう。だから、ここでの王妃マリーは現代に生きる/生きたティーンエィジャーが転生したものだろうし、それは今の時代にこの映画を作る意義から要請されて表されたものでなくて、ソフィア自身の性質による必然の表出となる。(ほんとうの、自分の安息の場所とは信じえない場所に、孤独をかかえて、佇む)というソフィア的存在として、たまたまマリー・アントワネットという題材がそこにあったのだとおもう。その意味で、史実や言語のリアリズムをツッコまれたベルトルッチの『ラストエンペラー』について、(確実な記憶ではないのですが、たしか、)これは史劇ではなく広大な空間にポツンと取り残された幼い少年の映画だと看破した淀川長治に倣っていえば、『マリー・アントワネット』は史劇ではなく、異境の地で生あたたかい閉塞感に苦しむひとりぼっちで佇む少女を描いた映画となるのではないか‥というのが(長くなりましたが)観るまえの予想。でした。

2.

トワイライト、という単語を連想させるような、甘美な飴色の色調に染め上げられた写真。その中央には、フリルのついた純白のドレスを身にまとい、その胸元にはピンクのコサージュをつけたキルスティン・ダンストが、スイーツのクリームが付着した指先を舐めるかのように曲げた人差し指を唇に添え、いたずらっぽく微笑んでいる。ポスターなどに使われている、『マリー・アントワネット』のメイン・ヴィジュアル・イメージだ。そこに〈恋をした、朝まで遊んだ、全世界に見つめられながら。〉というコピーがつく。
まっすぐにガーリーなものをイメージさせるビジュアル。ささいなことでキャッキャと笑いころげ夜な夜な騒ぎ、噂話と甘いものに貪欲なティーンエィジャーのイメージがそこにはある。公開前から劇場内に鎮座していた、山のようなスイーツに埋もれて優雅に横たわるキルスティンのスチールを利用した立体的な造形物がまた、そのイメージを補強する。

おそらく、この映画を楽しみにして観にくる女の子たちは、夢のように壮大で豪華なヴェルサイユ宮殿の美しさとか、めくるめく可憐なファッションとか、登場するスイーツの数々が目にもたのしく美味しそうだとか、美しい映像だとか、時代劇とはおもえないポップでキュートな映画だとか、そういったことを賞賛するつもりでまた溺れるように楽しみたいとも欲望しつつ映画館に駆けつけるのではないか‥

しかし、事はそう単純にはすすまない。
冒頭、200年以上前のものとは思えぬリズムが刻まれはじめると、黒い画面にはセックス・ピストルズのアルバムロゴに模した書体のタイトル・ロゴが現れ、流れ去ってゆき、スイーツの山に埋もれたマリー=キルスティンのショットがインサートされる。一見、時代劇のリアリズムは徹底無視の、ガーリーでポップでキッチュな映像作品の開幕を宣言するかのような幕開け。

しかし、そのインサートされたショットが何やら異物感を訴えてくる。スイーツとマリー・アントワネットという組み合わせの、さぞ可愛らしいだろうと予想されたよりも遙かに色合いは地味で、殆ど退色したような白色ばかりが画面の印象をしめるような、冴えない光線が捉えられる。そればかりか、当のマリー=キルスティンは魂が抜けたような茫然とした虚ろな表情で脱力しているのだ。そこからは〈テーマ・カラーはキャンディ&ケーキ〉、〈甘くてロマンティックな夢の世界を観ているよう〉、〈考えられないほどカラフルな衣装や小物やスウィーツの氾濫〉というこの映画をめぐる言辞からはほど遠い〈憂い〉を含んでみえる。

以後頻出する多量のお菓子も、巷で賞賛されているほど美味しそうにもみえず言うほどカラフルでもなく、色味は沈んでいます。たびたび催される狂騒的なパーティの場面やさまざまなドレス姿からも、女の子のウキウキする“楽しさ”がじゅうぶんに浮かび上がって来ず、かえって空転している空虚さばかり印象づけられる。ただ演出が下手なだけといったらそれまでですが、例えば『プリティ・プリンセス』に代表される、いかにも少女好きするある種の〈女子映画〉の細部が、ディズニー的に100%の“楽しさ”を充満させるのに比べると、明らかに“孤独さ、空虚さ”がその色彩を決定づけているかにみえます。

だいたい、アン・ハサウェイあたりに大きい瞳を見開かせて、ヴェルサイユ宮殿の華麗さ壮麗さに感嘆させておけば、物事は簡単に済むはずなのだ。本物のヴェルサイユ宮殿でのロケされたという、この映画の目玉であるヴェルサイユをマリーが訪れるときには、楽しげな音楽でも流し、優雅でゆったりとしたトラヴェリングで宮殿の圧倒感を正面から示して、ワ~とか歓声をあげさせて瞳をキラキラさせたら一丁あがり‥なのに、マリーがキルスティン・ダンストで監督がソフィア・コッポラとなればそうはいかない。キルスティンの微妙にちっさい目が瞬間チラッと輝いたとしても、それが100%MAXの“楽しさ”を満たすことはついになく、マリー=キルスティンの視点/心情に寄り添ったカメラは、よそよそしく、断片的に宮殿を切り取ってゆくだけだ。

じっさい、この『マリー・アントワネット』においては、マリー=キルスティンの心情に徹底して寄り添って描写が綴られてゆく。だから、ヴェルサイユの壮麗さを観客に堪能させるための描写など充分になされるはずもなく、マリーがなにがなんだか分からないまま流れに流されていく気持ちそのままに描写/建物や風景のスケッチもラフに流れ去り、宮殿内は御寝所に至って初めてその場に立ち止まるようにして心身ともにそこに、佇み、途方にくれ、ようやく相容れぬ他者である夫と相対する。
感情も時も場所も移ろい、落ちつくところなく、今のところは、このような感情でここに居る、というとりあえずの宙吊り状態として表れる。その意味でこの映画はマリー=キルスティンに寄り添った、閉塞された空間・環境での一種の反転したロードムービーともみえて、〈ロードムービー〉というジャンルが本質的に内包する“閉塞感”と“中間性”が『マリー・アントワネット』の本質にあるのではないか。開巻まもなくの不必要なほどに長い馬車に揺られ旅する一連のシーンが示唆するのはそういうことではないのか。。事実、この映画が、もっとも映画として輝くのは三度の馬車での移動場面となるだろう。

〈旅〉とは、今みている世界を、世界の一断片でしかないと認識して把握するとともに、自分の存在もその断片のごく一部だと認識する営為だともいえる。そう認識したとき、人は圧倒的な自由感と不自由感を同時に感じ、そこに孤独を覚える。だから、広大な空間に孤独に佇むマリー=キルスティンの瞳は、孤独の受容にむけて組織される。歴史的真実や社会情勢の構造などが見渡せると過信することは決してないのだ。

描写がマリー=キルスティンの視点に徹底して寄り添っていることの証左は、宮殿の断片化以外にも幾つか指摘することが出来ると思います。
まず、映画全編、ほとんど全てのシーンに常にマリーは居合わせ続ける。マリーを省いた人物たちに集わせて背景を説明させる場面を要所要所挿入して物語をスムーズに語ったりはせず、だから、マリーがその全貌を把握しているはずもないフランス革命に至るまでの経緯は観る側にとってほぼ闇の中となるのですが、かろうじて説明がなされる数少ないシーン、ルイ16世がアメリカへの支援を続行する決断を下す政治的場面でさえ、大勢の閣僚に混ざって、必ずしも必要でないのにマリーがフレーム内に居てその決断に立ち合う(なんの資料的根拠もありませんが、このシーン、あとから足されたシーンではないか?と勝手に想像する‥、噂話やたわいない享楽の場面などだけで構成され物語の説明が極端に排された、“ないないづくしのシナリオ”を書き上げてたソフィア、斬新!冴えてる!自分って天才かも!と興奮したのもつかの間、スタッフだかプロデューサーだかに、最低限の背景は説明すべきじゃないか、そうしないとマリーの心情も浮き彫りにならないかとかなんとか非難され、渋々付け足した、とか。そういった折衷策的な中途半端なシーンにみえる。どうせなら、何も説明しないほうが狙いがはっきりしたのではないか‥)のだし、

→以下②につづく

theme : マリー・アントワネット
genre : 映画

『真夜中の少女たち』

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『真夜中の少女たち』

(2006年、日本、122分)

総合監修:堀江慶
監督:佐伯竜一、堀江慶
出演:高部あい、長谷部優、上堂薗恭子、渋谷飛鳥、佐津川愛美、津田寛治、温水洋一

東京近郊の高校に通う、ある思いをかかえた5人の17歳の女子高生。それぞれの放課後、さまよう真夜中、そして明け方‥。

前項で、dreamの長谷部優について言及したさいに題名をあげた『真夜中の少女たち』。〈何気ない日常の中、微妙な年頃のゆれる心情〉を描くというオムニバス映画。4つのエピソードが30分ずつ語られたあと、エピローグで各挿話の物語が収束する。

総合監修の堀江慶は、監督としてよりも『百獣戦隊ガオレンジャー』や『愛のソレア』の俳優としてのほうが有名らしいのですが(『あいのり』はみてないのでよくしらない)、日大は映画学科監督コース出身ということは元々の演出家志向でもあって、じっさい監督作も『グローウィン グローウィン』(02)、『渋谷怪談』(05)、『キスとキズ』(04)、『全身と小指』(05)、『ベロニカは死ぬことにした』(06)と数(だけは)多く、新鋭のうちでも中堅に分類できそうな勢いのキャリアをもつ。

で、あからさまなアイドル映画というジャンクムービーである今作では、総監督的ポジションである堀江氏が2話の演出を担当し、残り2話をこれがデビュー作になるという佐伯竜一が担当しています。

なんでもかんでも一発OKみたいなテキトーな映画がほとんどを占める、現代アイドル映画という、ガラクタのようなジャンルからいえば、『真夜中の少女たち』は少なくとも真面目に作ろうとされているし、アイドルを可愛くもしくは魅力的にみせるという、ジャンルとしての最低ノルマはクリアされていると思います。

しかし、たいへん退屈な映画で、人間なり少女なりの認識は浅はかかつ陳腐、なんでも“わかってる”という気取りは鼻持ちならなくて、すっかり白々しい気持ちに支配された。以下、エピソード順に軽く触れます。

○第1エピソード『シブヤドロップス』
(監督:堀江慶、脚本:森美樹、堀江慶、主演:高部あい)


放課後、友達と渋谷に遊びに繰り出した高部あい。夜までふたりしてはしゃいだあと、断固として帰らない、渋谷にすむと言いはる高部あいは、毎日同じことの繰り返しに飽いていた。夜の渋谷を彷徨中、カフェバーで働く青年と知り合い、そのカフェバーに集うホームレス達とも交流を深める。。

今作、このオムニバスにあって、軒並み足踏み状態ぎみのアイドルたちがキャストにラインナップされているなか、ミス週プレGP、新進アイドル・高部あいは、もっとも昇り調子というか、ブレイク前夜といった明るい輝きをはなつ。最大の魅力である眩しいばかりの清潔な笑顔は、肌理のこまかい滑らかな頬に屈託なく浮かぶ。浮浪者連中と深夜に“屈託なく”戯れて遊ぶときも勿論楽しそうな笑顔がみえる。
しかし、その屈託ない笑顔を受け止める浮浪者連中が陰影も哀愁もなく、薄っぺらい存在感しかないように、話も描写もお粗末きわまりなく、これならまだいかにもテキトーに作りましたと言わんばかりのジャンクな凡百のアイドル映画群のほうが好感がもてる。渋谷でハシャぐ女子高生二人の描写が、ジャンケンして「今のアトダシ~!!」とか、寒いにもほどがある。ゲリラ的に撮るという知恵もテンションもないのか、四六時中通行人が二人に注目しているし、スタッフが見切れている気もしないでもない。。服も髪型も歯もきれいなホームレス。ステキな絵を描くカフェバーで働く好青年。数を数えているあいだに遠ざかる彼‥。バカみたい。

○第2エピソード『ベッドタウンドールズ』
(監督:佐伯竜一、脚本:吉井真奈美、主演:長谷部優、上堂薗恭子)


仲良しの長谷部優と上堂薗恭子。長谷部に彼氏がいることを知った上堂薗は、足の悪い自分にいつも長谷部をつきあわせることを重荷に感じる。二人の感情にすれ違いが生じ、深夜の学校の屋上でモヤモヤしていたお互いの思いをぶつけ合う、ふたりの好きなプロレスで。。

女二人×プロレス、という、ロバート・アルドリッチの『カリフォルニア・ドールズ』をモチーフにしたと思しきこの第2話、まず脚本に難あり。兄or父の多大な影響という影もべつにみえないがプロレス好き、という女子二人の設定を良しとするとしても、話題が猪木にホーガンって‥‥いったいいつの時代だよ!石器時代のプロレス観からくる、クライマックスの屋上でのプロレスも地味で古くさい大技のスローモーな応酬。『カリフォルニア・ドールズ』を夜テレビでやってたあと、そのあとK-1やってて寝不足って‥いったいどんな番組編成なんだ!?オセアニア大会だって深夜の『カリフォルニア・ドールズ』放映のあとにはやらないって!K-1もプロレスもゴッチャになってて、プロレスイコール深夜にやるもの、という短絡からきたセリフにしか思えない。
ナメられていた温水洋一先生がシリアスに言う「お前は、足の悪いことに甘えてるだけだ、そんなんじゃ、大事なもん、見えなくなるぞ」というセリフがひとつのキモとなっているのですが、いかにも浅い台詞‥。

長谷部優の起用は、『~キャバ嬢』での(堀江氏との)共演のゆえでしょうか。前出記事でいったように、自分は、“dream”の長谷部優が出演しているという点のみに着目して、この映画の観賞に至ったという経緯があります。では、その肝心の長谷部優はこの映画ではどうだったのか?

幾分繰り返しになりますが、そろそろブレイクせねばヤバいと2006年、勝負にきた感のある“dream”のメインボーカル、08長谷部優。各誌グラビア、写真集などの活動のほかに、映画やドラマに果敢に出演を重ねた。
私見では、グループ内では古参兵でありつつ落ち着いた優等生的ポジションにあり、メインボーカルのひとりでありながら格段歌唱力がウリというわけでもなく、比較的ルックス売りな感じはあるがダントツ感はなく、他のメンバーの色であろうモデル売りや元気系お笑い系や肝っ玉系といった分かりやすいキャッチーな売りがない、頑張っているわりに報われない微妙なポジションに居る‥‥今後キーとなるのは、彼女の大きいが昏い/暗い瞳が、“切ない”チカラを宿していて、何事かを表現し得るんじゃないかと‥。

ところが、自分が目にしたかぎり(『真夜中の少女たち』『バックダンサーズ!』『恋する!?キャバ嬢』)では、どの役もあまりに考えなしの、まあほぼバカみたいな女の子の役ばかりで、似合っているとも言い難いアーパー(死語かな)さをアピールして、いったい何の実りがあるんだろうか‥とエイベックスでプロモーション戦略を握っているヤカラを小憎らしくおもう。なかで『真夜中~』の長谷部優は、比較的陰影のある役だがアクターとしての力が試されるほどの業も深みもキャラクターに足りなかった。次作があるなら“切ない”属性をもつ瞳が生きる役柄を(それなりの演出家のもとで)、と願う。

よく考えたら、dream内で必ずしも長谷部優が推しメンというわけでもないのに長々とこだわってしまったけれども、頑張らせどころを間違えてるんじゃないかと常々ヤキモキしていると言いたかったのです。
作品的には、女の子同士の会話も自転車での道行きもなかなか良く、関係性の変容もハードルは低いながらもきちんとつながって感情のみえる場面が続いた‥って第1話に比較するとつい点が甘くなる。
しかしやはり、足のケガと自転車での送り迎えに絡んでのクライマックスが深夜の校舎屋上でのプロレス、ではモチーフがチグハグでそもそも悩みもくだらない‥映像化する価値のあるお話とは思えない。
正直、下世話な話、このエピソードの最大唯一の見所はふんだんに出てくる長谷部優の女子高生制服姿。キャリアがずいぶん長いから、女子高生役はちょっと無理しすぎ‥と思いがちですが、よく考えたらまだ20歳くらいだった。スカート丈の短いルーズの脚で躍動する長谷部優の動きを追うことのみが、この挿話の観賞を耐えうるやりかた。その意味では、ただしくアイドル映画だとも言える。上堂薗恭子もなにげにけっこう前からいるかたですが、魅力がまったく分からないのでなんともコメントしようがない。

○第3エピソード『クラッシュ・ザ・ウィンドウ』
(監督:佐伯竜一、脚本:十河直弘、堀江慶、主演:渋谷飛鳥)


優等生の渋谷飛鳥は生物の先生に恋心を抱いている。年下の男子に想いを寄せられている。その年下の男子とデートをしたあと、夜道で自動車に乗っていた先生夫婦に遭遇し、先生の、夫婦間の円満さを目の当たりにし、先生に送られる夜道、車外にでた渋谷は暴れ出す。こうでもしないと先生私のこと見てくれない。さまよう夜の街角、渋谷飛鳥はまっすぐに自分を追いかけてきた男子に、体を許すと言いだす‥。

長くなってきたので、以下、なるべく手短に。
スタンダードに撮られた、なんということもない話。ロケシーンもちゃんとしてて、テレビドラマくらいの演出。先生と奥さんの乗った車に遭遇するのが、故意か偶然か今ひとつわからなかった。主演の渋谷飛鳥はアイドルというより女優といえるキャリアと実績をもち、今年は『デスノート』2部作で大ヒットをとばした金子修介監督の映画『神の左手 悪魔の右手』(←クリックで記事に移動)でも主役をはった。この挿話でも、先生への“本気”を子供扱いであしらわれて気持ちを爆発させる役を順当に演じています。で、面白いかというと、別に‥。

○第4エピソード『センチメンタルハイウェイ』
(監督・脚本:堀江慶、主演:佐津川愛美)


家庭は崩壊し経済的にも破綻をきたし、部活を辞め好き同士だった先輩も離れていった、佐津川愛美はテレコに向かい、この地球でいきる最期の日の言葉を記録する。家にもどると借金とりらしき男(津田寛治)が押しかけて来る。。

母親の好きだったらしき男への、反発と交感。高台から町を眺めてのモノローグ。不透明なガラス戸ごしのやりとり。いかにも映画っぽい道具立てだが津田寛治の台詞や演技が設定と噛み合ってなくて、つまり演出が物語全体を見通せていない気が。どこがどうおかしいかを具体的に言う気力が出ませんが‥。

佐津川の、え、ママ?前に、好きな人できたって言ってたじゃない?その人のことは、ホントにもういいの?という呟きはしかし、そのママのキャラクターも今ひとつ不明、津田寛治のキャラと設定の遊離、佐津川愛美の切羽詰まってるはずなのにどこかノンビリした平和さによって、何だか良くわからない、抽象的なネタにしか見えなくなってしまっていた。思わせぶりな、母との“ある計画”も、勝手にしてという感じ‥。

佐津川愛美、『ギャルサー』やドラマ版『がんばっていきまっしょい』に出てましたね。映画では『蝉しぐれ』や『笑う大天使』‥。シリアスななかにも、どこかユーモアが漂う表情や立ち振る舞いが才能。

さてこの映画、こうしてみてくると総じて新人・佐伯竜一の演出は比較的的確で、総監督である堀江慶の演出のほうが格段に冴えない、という皮肉な事態が判明‥。堀江氏は、才能の有無がどうこうという以前に、ただ単に頭が悪いんじゃないでしょうか‥。

theme : 映画
genre : 映画

『M:i:Ⅲ』

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『M:i:Ⅲ』

(2006年、アメリカ、126分)

監督:J・J・エイブラムス
出演:トム・クルーズ、フィリップ・シーモア・ホフマン、ヴィング・レイムス、ジョナサン・リス・マイヤーズ、ケリー・ラッセル、マギー・Q

ブライアン・デ・パルマの1作目(上映後、友達とふたりでそれぞれ既に買ってしまった妙に高いパンフレットを手に押し黙った‥)、ジョン・ウーの2作目(ウトウトした‥)、共にノレなくて、今回デイヴィッド・フィンチャーからジョー・カーナハンに変更された監督が最終的にはJ・J・エイブラムスに落ち着き、結果、やたらに評判が良い3作目が出来上がり上陸したときいても、心浮き立たず、そもそも、このシリーズが面白いということ自体、どうなったら面白いとかんじるのかと、まったく予想図をえがくことすら困難な状態でした。監督に抜擢されたJ・J・エイブラムスの大ヒットレンタル高回転中のドラマ『LOST』にしても、どうしてもノリきれていない(M・ナイト・シャマランの映画をワンピースみたいな語り口にした感じ、という印象)自分は、フィンチャーのほうがみたかったとか、余計なことを考えつつ観賞に臨むことに。。

しかし、これが、面白かった!!
冒頭、いきなり拘束されているトム・クルーズの目の前で、大切な女性が銃を突きつけられ、今にも殺されようとしている。その敵役のフィリップ・シーモア・ホフマンの、ゆっくりと絶妙な間をもって数えられるカウント、6、7、8、9、‥。まずこの数え方とトム・クルーズの心理状態の変転ぶりの交錯の緩急がスリリング、そして最後の数字が数え上げられるのと同時に導火線に炎がシュッ!!と走り、テーマ曲とタイトルバック!このオープニングでまず掴まれた。

時間をさかのぼって事態の発端から物語が語られるのですが、見せ場をつくることに関し過剰な物量作戦をとらないから、“ウリのアクションシーンなのに、いい加減に早く終わんないかなーとウンザリさせる”ような事態に陥らないし、人物の心理や物語から遊離したムリヤリな場面になってないからしらけたりもしない。特に演出のなにが秀でて上手いというのでもなく、よく考えたら普通にやるべきことを普通にやってるだけの普通な映画なんですが、そんな純粋にごく普通に面白いアクション映画にしばらく最近出会っていなかった。どうしても、多かれ少なかれ、作家性なり派手なアクションなり深刻な現代的主題なり、何かしら歪なセールスポイントが隆起する。ここにあるのは純粋形態の現代ハリウッド娯楽映画。クライマックスがしょぼいなど、欠点をあげようと思えばあげられるでしょうが、僕はじゅうぶん満足しました。

個人的には、中国が舞台の高層ビル滑走シーンが感慨深かった。中野駅北口にそびえ立つ中野サンプラザを永年、眺めるたびに、このガラスの斜面でジャッキー・チェンがアクションを繰り広げてくれないかなあと夢想していたのでしたが、もうジャッキーもお年‥。そこへきてトム君が『カリオストロの城』を凌駕するようなアクションシーンを作ってくれたからもういいや。と落ち着いた。

theme : M:i:III(ミッション・ インポッシブルIII)
genre : 映画

『迷い婚 全ての迷える女性たちへ』

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『迷い婚 全ての迷える女性たちへ』

(2005年、アメリカ、97分)

監督:ロブ・ライナー
出演:ジェニファー・アニストン、ケビン・コスナー、マーク・ラファロ、ミーナ・スーヴァリ、シャーリー・マクレーン

ドラマ『FRIENDS』のレイチェル役でおなじみ、というか、ブラピの元奥さんとしてもおなじみ、ジェニファー・アニストン主演の、結婚迷い映画(?)。

お話は、長年付き合っている彼に結婚を申し込まれ、何の不満があるわけでもないのに心が浮き立たない。そこへ魅力的な男性が現れ‥という、お決まりのストーリー。
こういう物語だと、普通、恋愛映画、ラブコメディ、スクリューボール・コメディ、といったジャンルのレシピに沿って作られるものですが、今作品、微妙にどれでもない。恋愛映画としては、切なくなるようなシーンは皆無に等しく、ユーモアや笑いの要素も微々たるものなので、ラブコメディともスクリューボール・コメディとも呼びがたい。かといって、シリアスに人生の深遠やワビサビを感じさせるほどの熟慮された人生観もなく、これ以上なく薄い人生論があるだけ。娯楽的でもないうえに芸術的でもない、方向性が今ひとつ見えないところへ、彼女の一家は映画『卒業』(67)のモデルだという話が接ぎ木される。おばあちゃん(シャーリー・マクレーン)がかの“ミセス・ロビンソン”なのだという。そのときの男、おばあちゃんとも、母親とも関係をもったというその男こそ、ジェニファー・アニストンがフラフラっとしてしまうケビン・コスナー。
(その露わな権力欲と性的欲望の肥大ぶりに、年々スターとしてのメッキがこそげ落ちていったケビン・コスナーですが、今回、陳腐で薄っぺらい講演を得意気に行う俗物で、女には無差別爆撃という、まんまのキャラクター設定の役。よく受けたなあと思いますが、もしかしたらあまり自覚がないのかも。)

映画の宣伝としてはジェニファー・アニストン押しで、ケビン・コスナーは脇に追いやられて特にウリとされていないことから、ケビン・コスナーの集客力の弱まりと、人気の低落ぶりが見てとれます。

『卒業』の話の導入は、映画全体の〈エモーションの持続〉を無駄に邪魔するだけで煩わしく、知的遊戯にすら至っていない。結婚直前の逡巡をポリフォニックに描いたつもりなのでしょうが、孫娘ジェニファー・アニストンのケースと微妙にダブらないから賢しげなにみえるだけで、仕掛けが浮いている。おばあちゃんと孫が同じ男と付き合ったっていいけれど、映画内映画のメタフィクション仕様は余計かと思います。

シャーリー・マクレーンは『イン・ハー・シューズ』のときと同じような演技と役回りですが、今回はその特有の下品さが人生の年輪的な味になっていなくて下品さだけが浮く。学園ラブコメディではメイン級のミーナ・スーヴァリは、ジェニファー・アニストンの妹、姉とは対照的に短期ダッシュのハイテンションで結婚する女性。あまりに幼くジェニファーの“迷い”の参考にならない。彼女がいるのに意外と画面の華やかさが増幅しないのが不思議。

で、映画を構成する要素がだいたい不発のなか、ジェニファー・アニストンですが。『彼女は最高』『私の愛情の対象』『ブルース・オールマイティ』など、映画ではパッとしない印象の彼女(キャメロン・ディアス同様、日焼けにもノーケアなサバサバした豪快なざっくばらんぶりには好感をもつけれど、肌には加齢が刻まれる)。迷走しつつも、いかにも彼女にあった役柄ぽい役が大事そうに与えられるが何かが違う。今回もまたあてられた“等身大の共感得る女性像”みたいな役柄、じつはどうもあわないんじゃないかと感じる。顔面/表情にハリウッド的なファンタジーがなくて、現実だけがありすぎる。いっそ超コメディに針を振り切ったほうがいいんじゃないか‥。

クライマックス、どちらを選ぶのか、彼女が、男たちがどんな行動をとるのか、ひと飛躍が欲しかった、と思います。

theme : 映画感想
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