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?『ニュータイプ ただ、愛のために』

あいの2
『ニュータイプ ただ、愛のために』

 (選出理由?福間健二からのつづき→)

そういえば、前々々々記事ですっかり書き忘れていましたが、城定秀夫監督の『ガチバン』(脚本はイマタケマサオと城定秀夫)、佐藤二朗が全身白タイツで演じるザーメンの役がひとつのポイントだったわけですが、あれは『愛染恭子の人妻セールスレディ~快楽の実演~』(小林悟、00)の時に助監督だった城定秀夫と竹洞哲也がやはり全身白タイツで演ったという精子の役からの意図的な引用なりオマージュなりなんでしょうか(『PG』No.103)?

‥こんな枕で人が引かないか若干心配ですが、佐藤二朗といえば、その監督デビュー作『memo』が去年公開されましたが、たいした注目も浴びなかったことが考えさせられたというか、これが20年前だったら、この独自である意味達者な軟体的映画文体やシリアスかつコミカルな不思議な作風は、それなりの話題をあつめて、要注目の異業種監督としてそれなりに語られたんじゃないか‥と時代が変わったことを思った。共通認識としての「映画」「技術」「古典」等の確固たるイメージが広く共有されていない状況では、「あえて」とも言える「個性的であること」はカウンターとしての効力を持たないということでしょうか。とすると、こういった事態は、現行のカルチャー全般が、その存在基盤として、短絡的で単純な、脊髄反射的な感情喚起作用をよりどころにするのは不可避だということを指し示し、<若い作家のウエルメイド志向と、老練な監督たちの余裕綽々のコワレっぷりに二分してしまった>(松島政一、同上)といった現象はいずれ必然だったとも言えるかもしれないし、そうすると自分の、若めの作り手に抱いている不満の数々は、言っても詮無いことかも知れません。

さて、絶賛ムード漂う園子温の『愛のむきだし』ですが、個人的にもじゅうぶんに面白かったとはいえ、何だか熱狂しきれなかったというのが正直な感想です。雑に話をすすめると、園子温は、手持ちのカードを切り尽くしたという印象で、ここまで毎回毎回観客が思わぬほどの距離を踏破してハッとさせてきたものが、手の内が底をつき、内容としても戦いかたとしても分かりきったかんじになってみると、本人の狙いとは裏腹に、ラフさが強度を削ぐ結果になっているとおもった。(なぜか)花村萬月でいうと、イケイケ後期の『皆月』『鬱』あたりを過ぎた、『ぢん・ぢん・ぢん』『風転』『♂♀』等のラフさが熱気とならずに欠点として目につくかんじを連想した。

その園子温はさいきん、「ケータイ小説的なもの」への興味をインタビュー等で示していて、『愛のむきだし』"『ちゃんと伝える』はその作品的冒険の端緒なのかも知れませんが、廣木隆一は前々からずっと地道に、「ウエルメイドなもの」「ケータイ小説的なもの」に接するように、映画を量産しているとおもう。ウエルメイドであることやケータイ小説的もしくは刹那的、あるいはセカイ系的であることは、一般に、現在的にはコミットの不能性を見据えた「交換可能性」への対処としての「文脈の不在」からの「接続性の容易さ」として捉えられていると思われますが、廣木隆一監督はそこに「具体性」の楔を打ち、「交換不可能性」を現出させる。その作用は、幾つかある作風のうち、文芸路線(『やわらかい生活』『きみの友だち』等)や、フェチ/SM路線(『美脚迷路』『ラマン』『M』等)ではなく、観念に溺れないぶん何ということもないウエルメイドな作品群(『恋する日曜日』諸作等)のほうに鮮明にあると思います。で、そのような理由から(も)、去年の廣木映画では、文学的で高級な複雑さをもつ『きみの友だち』よりも?『ニュータイプ ただ、愛のために』をとります。

さてタイトルにはその名は冠されていませんが、BS-iドラマ『恋する日曜日 ニュータイプ』からの発展企画である?『ニュータイプ ただ、愛のために』は、アンドリウ印『恋する日曜日』シリーズの映画版の、『さよならみどりちゃん』もカウントすれば第4弾。廣木隆一監督作がそのうち3本(『恋する日曜日』『恋する日曜日 私。恋した』と、本作)を占める。ダブル大悟(竹財輝之助、佐野和真)の共演ということで、ドラマ版『砂時計』のファンが劇場に押し寄せる‥ということもなく、大政絢ヲタが大挙して駆け付けるということもなく、ひっそりと少ない劇場数での公開を静かに終えた模様。僕の観た回は観客は5人いるかいないか位でした‥うむ、いつもの映画版『恋する日曜日』の客席風景、ってかんじ。
(尚、大政絢演じる超能力者・津木野ユリは、『恋する日曜日 ニュータイプ』に登場した同じく大政絢演じる超能力者と同名ですが、ドラマ版の彼女はサイコメトリーであり、生活環境も本作とは異なる。ドラマ版での片手を革手袋で隠し能力をセーブする表現は、本作での眼帯へと転化していますが、二作品はそれぞれ独立したまったくの別物です。)
まだ未ソフト化ということで、伏せるべき点は伏せて話をしたいと思いますが、別段、煽るほどの傑作であるわけでも、催涙効果のはげしい感動(喚起)作でもなく、ごく普通のウエルメイドな映画だということは先に断っておきたいとおもいます。

荒涼といいたいほど鄙びた土地、死んだようにくすんだ海と山がある、ある地方の土地。その土地の、閑散とした港の端にあるフェリー乗り場に付属する、ガランとして寂れた切符売り場の建物で、寡黙に仕事をする津木野ユリ(大政絢)。港も切符売り場も、仕事の行き帰りで通る通勤路も、そして帰りつく古びた一軒家にも、人の気配がまるで無いかあっても間欠的でごく僅か、基調としての静謐が支配する<世界>。海を見晴らすことのできる場所からの風景には、世界の終わりのような風のふく音が響きわたる。

この<終末感>、そしてある種の紋切り型でいえば中景としての<社会>が欠落した「セカイ系」の世界観のなかで、ごくわずかな登場人物たちが、「愛すること」の証明がそのまま「死」や「記憶の喪失」や「大切なつながりの感情の、消失」や「身体機能の欠損」に直結する苛酷な交換ゲームを、刹那的に/永遠的に、生きぬく。ここでは、「きみとぼく」あるいは「私とあなた」の関係の変転がそのまま<世界>の形を変え、時空と運命を歪める。接続性の容易な、つまり歴史性や固有性から無縁な「物語」は、取り立てて新味のない、“そのテ”の作品の典型といってもいいでしょうし、結末で主人公がする、ある決断的な選択は、極限状態での二択という“あるある的な”接続性の高さで、観客との共感作用を強引かつ安易に招き寄せているでしょう。

しかしここでは、そういった安易な消費行為に還元され尽くさない、具体性の余剰が感じられます。
乾いた冬の大気のようによく通る音の響きが、寂漠とした切符売り場前の空間でちいさく反響し、大政絢の住む家の、それぞれ古びた、雨戸や、柱や、床や、雑然とした庭先にはプライベートさが宿り、唯一的な、具体的な手触りとして、交換不可能性をしっとりと生理的に滲ませてゆく。それらのプライベートなスペースへ不意に男性的な無骨さと柔らかさをもって侵入してくる竹財輝之助が、大政絢に対してゆるゆると放っている異性としての官能は、シャッフル感なく、この場にしかない魅惑を、小さく更新してゆく。緩やかな長回しを基調とした演出は、そこにあるままの、反・カテゴライズ的な時空間を提示し、パターン化された感情喚起パーツの組み合わせとして流通させることが困難な「なんでもなさ」を積み重ねてゆきます(反・ヒット作的要素)。そこには、シネフィル的な文化圏に適合し易いようなショット/文体の特権化も、インテリの語りを誘発するようなフックも見当たらずに、この映画をひとつの全体として結晶させていると想定されるような野心なり自己実現方向への意図なりが希薄なのだ。そしてその希薄さを、肯定的に受けとっている自分がいる。ひとつの映画を観て、良い悪いを判断したり、コミュニケーションを志向して何事かを語ったりする、そのために存在するのではなく、ただその1時間半の上映時間のあいだ、その触感を感じつづけ、上映時間が終わる、そこにはイデアはなく、ただ触れるように“普通の映画”がそこにあるだけ。『ニュータイプ ただ、愛のために』はそのような映画だと感じた。
(反・美学的な長回しの多用は、硬直した文体として表現が閉塞してゆきがちかもしれませんが、廣木隆一のいいところは、軽薄に、いともアッサリと審美的/フェティッシュにも走るところで、中盤に颯爽と登場する廣木組常連の山田キヌヲが、海岸沿いに伸びる堤防のところを歩く横移動の画面の、急に快楽的にピシリと決まったカッコ良さ。廣木映画はやっぱり横の移動と音の設計が素敵。あと、どうでもいいこと(?)なのかも知れませんが、山田キヌヲはあの能力があるなら、“あのような事態”には陥らないのではないでしょうか‥?)

‥まだ触れていないことを幾つか。
既出記事で称賛した(?)?『接吻』は、これも既出記事で批判した(?)『トウキョウソナタ』に比べて、「他者性」「通俗」にたいする闘いかたが、より意識的だったと思っています。「シネマ」の虐殺は「映画獣」黒沢清の任ではなく、より下の年代の者が為すのが健康的。

江川達也の書いた、マンガ入門的な本だったかコラムだったか忘れましたが、そこで言われていたことのひとつは、作者が「10」の物凄い熱量で、スゲエ~面白いと思って描いたものでも、読者はようやく「1」クスリと笑うくらいだというギャップ、つまり作り手が「4」の面白さだと思って描いたものを受け手は決して「4」の面白さとは受け取らない、超本気でやらなきゃ娯楽になんか成らないというふうなことだったと記憶します。そのことを、?『片腕マシンガール』を観て思い出した。口の端をニヒルに歪めて斜に構えている類いの者には、決して作れない映画だと感嘆しました。

( 選出理由?くりいむレモン 旅のおわりにつづく)
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theme : 日本映画
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映画『ナイトミュージアム』

20070507001511

『ナイトミュージアム』

(2006年、アメリカ、108分)

監督・製作:ショーン・レヴィ
原作:ミラン・トレンク
脚本:ロバート・ベン・ガラント、トーマス・レノン
出演:ベン・スティラー、カーラ・グギーノ、ディック・ヴァン・ダイク、ミッキー・ルーニー、キム・レイヴァー、ジェイク・チェリー、ビル・コッブス、リッキー・ジャーヴェス、ポール・ラッド、ロビン・ウィリアムズ、オーウェン・ウィルソン

ニューヨーク。何事にも半端なラリーは、そのダメっぷりのせいで愛する息子との絆を失いかけていた。奮起してようやく得た仕事は、自然史博物館の夜警だった。働きはじめて、ラリーは知ることになる、この博物館では深夜を過ぎると展示物が次々と生命を得たかのように動き出すことを‥。


恐竜の化石や蝋人形など、博物館の動かないはずの展示物がもしも動き出したら‥という、ものすごい他愛ないお話の映画が、本国でよもやの大ヒット!日本では人気も知名度も今ひとつハジけないベン・スティラー主演作ながら、日本公開でも無事に大ヒットをおさめ、ベン・スティラーファンは溜飲を下げた格好。アメリカのコメディ映画が軒並み劇場公開されない、よくてビデオスルー(DVD全盛期の今、“ビデオスルー”にかわる丁度いい言葉ってないもんかな)という日本の公開状況のなか、祝福すべきニュースとなりました。

ベン・スティラーの名前と顔は『リアリティ・バイツ』(94)の時に知り、当初自分のなかでは悪くないルックスだがかすかに間の抜けたかんじのある才人、『ケーブルガイ』(96)と併せて、(俳優もやる映画監督)、という印象(利重剛みたいなもの)だったので、『サタデー・ナイト・ライブ』で名をあげた、冠番組ももったりする著名なコメディ・アクター、というイメージの認識にはなかなか至らず、『メリーに首ったけ』(98)以降の、しつこい位にしょうもない数々のコメディ映画の波状攻撃にジワジワと認識を改めていったのでしたが、今に至ってもアクターというよりはクリエイター、というイメージがまず先に来る。

だからなのか何なのか、たとえばジム・キャリーの新作と聞いても、内容とスタッフによっては全く期待もしないし観たくもならないのだけど、『ドッジボール』や『ナイトミュージアム』みたいな、普段ならベタなアイデア/物語の、そそらない映画にベン・スティラーが出演したとなると、何かあるんじゃないかと何となく観たくなってそわそわさせられる。ファンなのかというとそういうわけでもないのですが(日本でベン・スティラーファンと公言する人々からスノビズムの臭いが漂うのは、彼の微妙な“クリエイター”ぶりに由来するのでしょうか)、何しろ出たら何でも観たくなる人だ。

自分が最も好きなのは『ズーランダー』(01、監督・制作・脚本・主演)の彼で、スーパーモデルなキメ顔&ポーズが最高におかしかったのでしたが、『ドッジボール』(04)の悪役ともどもこういった作り込んだヤリ過ぎなキャラ作りで臨んだ映画はどちらかというと例外的で、『ミート・ザ・ペアレンツ』(00)に代表されるような、周囲の世界とのズレにオタオタする反応的な演技に可笑しみの本領があるとして、ファンに期待される存在なのだと思われます。ベン・スティラーというとまず、周囲のあんまりな状況や言動に、口を中途半端に半開きにして、中途半端な体勢で居心地悪そうに空回りしてる、そんなリアクションが目に浮かびます。

周囲の世界にオロオロして接する、といっても、たとえばドラマ版『電車男』などの伊藤淳史あたりとはだいぶ違う。伊藤君のよく演ずるオロオロは、善良さアピールをタテにして卑屈に周囲にびくびく接するという〈周到な押しつけがましさ〉があってイライラさせられるのですが、ベン・スティラーのオロオロには、妙に自己イメージが高く楽天的なキャラクターがにじみ出ます。カッコ良く見られたい、スマートでいたい、落ち着いて泰然としたオトナな所をみせたい、等々といった〈あるべきエエカッコの自画像〉を調子こいて思い描くが実態は全然ついていかなくて、他者や周囲との関わりのなかでいちいち醜態をさらす、そのブザマな反応が人間くさくて愛嬌がある(周到じゃないから、イメージを〈押しつけることに失敗する〉)。異色な『ズーランダー』や『ドッジボール』のキャラクターも、カッコイイふうだけど/大悪党そうだけど、他人からみたらたいへん間が抜けて見えて無様、という共通した指向があります。

『ナイトミュージアム』のお父さんも、息子にいいとこ見せたいし、やるなら頼りがいあるプロフェッショナルな夜警でいたい、という思いの空転ぶりが小道具を扱う気取った手つき等であらわされ、微笑みを誘います。気の利いたハイブロウなギャグなど殆どない、幾分ユルいこの映画が、それでも飽きさせずに最後までそれなりに楽しませるのは、ちゃんと(仕事や復権を)やり遂げるんだ、という彼の、キチンと芯のあるリアクションが全編に行き渡っているから、寒々しい単なるアミューズメント映画にならず、ぬくもりが全体を包み、好感を抱かせます。
ラストでは、ラリーのズレ続けていた自己イメージが実態とピタリと一致、いきいきと生き輝く、というカタルシス。キレイすぎて少し足りない気もしなくもないけれど、あたたかい気持ちになるだけでも充分とも言える。毎度毎度共演している朋友オーウェン・ウィルソンのカメオ出演(ていうには出過ぎ)も、いつもながら心あたたまる関係性だと感じられます。

アッパー・ウエスト・サイドにある〈アメリカ自然史博物館〉は、『素晴らしき日』『スプラッシュ』等、多くの映画に印象的な場面を与えてきましたが、海外ドラマ『フレンズ』の主役のひとり、ロス(デビッド・シュワイマー)が一時期働く職場として殊に印象ぶかい。その『フレンズ』で同じく主役のひとりフィービー(リサ・クドロー)の彼氏役だったポール・ラッドが序盤登場したものだから、これはもしかしたら博物館でロスがチラッと顔を見せたりするかも、とあらぬ期待を抱いてしまいました‥。



(追記‥‥みのわあつお『サタデー・ナイト・ライブとアメリカン・コメディ』という本に、その名もずばり「クリエーターとしてのベン・スティラー①②」という記事がありますが、いかにもパンフに載ってる無難な文章、という域を出ず、「クリエーターとしてのベン・スティラー」について何の新たな発見もない、残念なもので、参考になりませんから、特に読む必要はないでしょう。)

theme : 映画感想
genre : 映画

映画『涙そうそう』






『涙そうそう』

(2006年、日本、118分)

監督:土井裕泰
脚本:吉田紀子
音楽:千住明
出演:妻夫木聡、長澤まさみ、麻生久美子、塚本高史、平良とみ、森下愛子、大森南朋、船越英一郎、小泉今日子、中村達也、橋爪功

森山良子作詞の『涙そうそう』をモチーフに、東宝が例によってテレビ局とのタイアップ(本作はTBS)で催涙映画(もしくは、催涙を期待させる映画)を仕立て上げ、客を呼びこんで大ヒット(興収31億)を記録した映画『涙そうそう』。主演に妻夫木聡と長澤まさみという、非映画ファンにも波及力のあるスターを配し、兄妹愛を歌いあげる。監督はTBSのベテランドラマディレクターの土井裕泰で、映画『いま、会いにゆきます』(04)では興収48億をあげたことから、企業的な信頼はあついと思われます。

歌を元ネタにした映画の企画が近年花盛りで、今年(2007年)も『恋しくて』『Watch with Me~卒業写真~』『歌謡曲だよ、人生は』などがまもなく公開。こういう企画はいい加減ウンザリで、例えば大林宣彦『なごり雪』(02)を題材に映画を撮ったりするのは、年寄りの感傷として許せる面もあるのですが、最近のこの安易なブーム(?)には正直嫌悪感があります。この現象は、ショーン・ペン『インディアン・ランナー』(91)を撮ったりすることや、丹羽多聞アンドリウ『恋する日曜日』(03~)シリーズを制作しつづけることとは、明らかにベクトルが異なっているとおもう。ショーン・ペンなら内的必然性があるわけですし、アンドリウの場合はおおまかに言ってさまざまな枷を設けることでアイドル映画のかたちで作家主義政策を復古させてもいるわけだし、そもそも大ヒットの為のヒキのある楽曲セレクトなど為されていない。

『涙そうそう』に代表される、近年の歌を元ネタとした映画群には、殆どそういう要素は見られない。そう遠くないごく近い過去にたいそうヒットした歌謡曲というものは、ようするに、現在のごく一般的な不特定多数の層にアピールする共感作用(そーゆー恋って切ない、そーゆー死って悲しい、そーゆー事ってよくある、等々‥)を根本のところで有しているということでもあって、そのエッセンスを映画にスライドさせて落としこめば、少なくともCDの大ヒットをもたらした範囲くらいの、共感作用を欲する層には容易にアピールしうる、ということからの企画のゴーサイン。まして、『涙そうそう』などといった、催涙系かつオリエンタル風味ももつ素材は、東宝にこの上なくオイシイと思わせたに違いない。〈死〉や〈家族愛〉などとは、誰もが無縁ではいられず、共感は広範に作用しないわけがない、と‥。

共感作用のニオイに強く吸引されるたぐいのライトな客層とは、このところしつこく何度も言ってる気もしますがつまり“事前に抱いた〈イメージ〉に作品が合致するかを確認・追認するだけの、自己肯定的/自己共感的に閉じたシステムを生きるような感性”の持ち主と同一でもあって、『涙そうそう』でいえば彼ら彼女らは〈曇りなき善意〉〈曇りなき無償の愛情〉〈愛する者の死、による涙〉〈沖縄の海や風物詩〉〈妻夫木聡の爽やか〉〈長澤まさみの可憐〉といったあらかじめ想定される要素にたいして、待ち焦がれるかのように見出しては〈確認〉し〈共感〉のチェックマークをつけてゆくことを「観賞の手びき」とする。
そこでは、例えば妻夫木聡がじゅうぶん納得いく成りゆきで不可避的に死のうが、とってつけたような展開で死のうがお構いなし、(妹を想って、頑張って、死んだナ)とポイント的把握(共感)が為されたら無事泣く、というシステムが生きられています。

冒頭、妻夫木聡は異様なほどニコニコしつつ、〈いいひと〉〈さわやか〉要素をしつこいぐらい不断に振りまきながら映画に登場し、その善人ぶりを観客に念押しする。さりげなく画面で示すなどという上品なことはせず、セリフで声色で脇の登場人物による評価でと、後半に用意する「悲しい結末」を効果的にすべく、露骨な下準備を進める。
彼が騙されてオケラになる必要も、死に至らざるを得ないほど体を壊す絶対的な理由も、妹にそこまでこだわることも、不可避なことかというとそこまでじゃなくて、その理屈や筋道や必然性を欠いた“作りすぎ”“やりすぎ”なパーツパーツががそっけなく放置されていて、好きなモノ(自分が泣けるヤツ)拾って持っていきな、という案配で、やんわりと不幸と悲しみの共有を強いる。(荒井晴彦『ALWAYS』『火星のカノン』『害虫』への批判を思い出した、〈『害虫』は「美徳の不幸」かと思ったら、ご都合主義の「不幸」だった。(略)どうしてこの子ばっかりこんな目にあうのって言ってるけど、映画がそうしてるんだよ。映画の作り手がそんな目にあわせてるんだよと思った〉『映画芸術』402号、とか‥。)

ものすごく久しぶりの再会で、たったひとりの血のつながっていない妹が、まるで長澤まさみみたいに可愛らしく成長していた!という肝心な再会時の妻夫木くんの反応は、描かれないで、すっ飛ばされる。〈再会〉が映画の発端で、長澤まさみの可憐な魅力がこの映画の大きな売りなのは間違いないのだから、芸術映画なわけでもない東宝の単なる娯楽映画でこのすっ飛ばしは解せないと誰もが不審に思うはずなのですが、きっと共感派(?)の人々にとっては「あるがままの映画作品」なんてどうでもよくて、好きずき気ままに共感パーツを引っ張ってきては泣けばいいのだから、映画に落ち度があろうが長所があろうがどうでもいいことなんでしょう。東宝/TBSとしても、別にこのテの映画のクオリティなど気にしてないのだから、こんなビックバジェットを土井監督程度の人材に易々と預けられるのだと思います。

公開時、主演ふたりがプロモーションでしきりにテレビ画面に登場していましたが、印象に残ったのは妻夫木くんが土井監督を軽視しているのがミエミエに感じられたことで、ヒットするならオレと長澤の力であるだけで、アンタの下手な演出の手柄じゃないとでもいうふうだった。じっさい、松岡錠司塩田明彦清水崇三池崇史犬童一心廣木隆一行定勲等々といったそうそうたる映画監督と仕事を重ねてきた妻夫木くんにとっては、ベタな箇所をスローモーションで強調したりする土井裕泰のバカみたいな演出は、よくて苦笑いの対象でしかなかったでしょう。

この映画の魅力の大きな部分をになう長澤まさみ、最近は映画でもドラマでも今一つ成績が出なかったのが『涙そうそう』のヒットでひと息ついたかたち。ここでの魅力は『ロボコン』『セカチュー』路線の種類のかわいさでありつつも、しかし、なんだか徐々に存在感がささくれ立ってきていて、翳りはじめている気がする。健康を損なうと肌荒れするように、精神(の輝き)が気づかない間に磨耗していて、溌剌さにもどこか憂鬱ななにかの影がさしている。成長過程で一度ガクンと落ちて、運が良ければ中年期に盛り返すたぐいのひとなんでしょうか‥。

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映画『日本以外全部沈没』

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『日本以外全部沈没』
(2006年、日本、98分)

監督・脚本:河崎実
原作・出演:筒井康隆
出演:柏原収史、小橋賢児、村野武範、藤岡弘、寺田農、黒田アーサー、デーブ・スペクター、イジリー岡田、ダイハード鈴木、ユリオカ超特Q

駄作と名高い樋口版『日本沈没』と真っ向勝負!というわけでは必ずしもない本家の小松左京『日本沈没』よりある種高い人気を誇る筒井康隆のブラックユーモアSF短編『日本以外全部沈没』の映画化。
日本に落ち延びる有名外国人が原作ではフランク・シナトラとかだったのが、時代にあわせて装いも新たにブルース・ウィルスやシュワルツェネッガー。って『ダイ・ハード』も『ターミネーター』も15年以上まえ‥このテキトーなセレクトぶりがこの映画を象徴しています。

河崎実の映画みて出来がどうのとか欠点があるとか退屈だとか言う方がおかしいというか、覚悟して観ないとならない。覚悟といっても、襟を正して観なくちゃいけないほうの覚悟じゃなくて、ユル~いトーク番組や、タモリ倶楽部とか、そういうのをボケっと観るよりユルい姿勢でみないとつとまりません。

筒井康隆原作の映画化は『わたしのグランパ』とか『パプリカ』とかリメイク版『時をかける少女』とか、このところ盛況ですね(ドラマでは『富豪刑事』とか)。しかし問題作的な路線は『俗物図鑑』や『大いなる助走』あたりで途絶えていた、たしか(ちがってたら誰か教えて下さい。ちなみに『男たちが書いた絵』は無視。)。それを河崎実一派が『日本以外全部沈没』で復活させた。その出来は予想に違わずボロボロの貧乏っちいシロモノですが‥。

たとえば、あたらしいところでは阪本順治が『KT』や『亡国のイージス』を撮って世に問うた!みたいな、そういうふうな正面からの問題作。なつもりは『日本以外全部沈没』の作り手はさらさらない。とおもう。しかし、そのノンポリぶりが、かえってこの物語を危険でブラックなものに感じさせる。某大統領とか金某とかを粗雑に登場させて粗雑に扱うのに『花井さちこ~』を連想。思うに、“問題作”のカッコにくくられるとブラックな衝撃は弱まる気がします。だから、面白いとは言い難いが、存外危険なかんじがするのは結果オーライかと。そういえばこのツツイ問題作路線、内藤誠~鈴木則文~河崎実というラインは、一本なにか共通点がある。どこか底抜けで、だらしなく、映画を娯楽のための商品として認知していて、フィルモグラフイ全体からはそこはかとない貧乏臭さが漂う。先輩がたのばあい、貧乏ながら妙に行儀よく丁寧だったのが災いして『俗物図鑑』も『大いなる助走』も勢いのない凡庸な作品になってしまっていましたが、河崎実は実にいつもどおり、ヤッツケ仕事みたいにザッと作り上げた、それが結果的には良かったとおもう。世間的な評価はいっさい知りませんが‥。

そういえば、前項『ドリフト』につづきこれも柏原収史&小橋賢児コンビ作。ムチャな物語もテキトーな作りも、なぜか共通するところがあります。

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『日本沈没』(06)

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『日本沈没』

(2006年、日本、135分)

監督:樋口真嗣
出演:草なぎ剛、柴咲コウ、豊川悦司、大地真央、及川光博、石坂浩二、福田麻由子

小松左京のベストセラーの映画化、というかその映画化73年版(森谷司郎監督、橋本忍(!)脚本)のリメイク。73年版との比較は様々なひとがいろいろと書いたり言ったりしているようですが、ただ、73年版『日本沈没』、神格化、とまではいかなくても、判断基準とするほどの出来の映画じゃないんじゃないかともおもう。

だいたい、樋口監督自身の言葉をひくまでもなく、現在のキャストと現在のVFX技術で73年版をなぞるだけでは、幾つもの未曽有の災害や社会的混乱を経た今現在、2006年の映画として制作する意味がない。だから、興行に値する作品かどうかという点でいえば、オマージュがどうとか原典に忠実か否かではなく、現在的なシミュレーションとしての〈日本沈没〉という災害を、いまの日本映画の最善のVFXで描くということ、そしてそれを興行として成り立つキャストで構成すること。

公開間もないのでこのキャストで興行価値があったのか、判断はつきませんが、前回の脂っこいキャスト(藤岡弘、小林桂樹、丹波哲郎‥)を持ち上げてああだこうだいうひとには、藤岡弘×いしだあゆみ的カップルが主演で、20億円の興行収入を見込めると思うのかとききたいとおもいます。しかし、ボヤきたくなるひとの気持ちもわかる気が‥。あまりにも小野寺(草なぎ剛)がナヨナヨしていて、パニックSF映画の主役を張るには、人間としても男としても物足りなすぎるのだ。しかし、これが現代の『日本沈没』にふさわしい人間関係と空気なのかもしれない。とも思う。
観たかたがたの間では、小野寺が玲子(柴咲コウ)との関係に下すあるトンデモナイ決断が話題となっていることと思いますが、この思い込みの激しさと徹底した受動性は、じつに童貞(DT)的で、柴咲コウの都合のいい積極性と相俟って、映画全体が、(いっそ)世界滅亡を願いがちな童貞による夢想世界にもみえてくる。なついている可愛い年下の女の子(福田麻由子)と柴咲コウだけは連れて逃げる発案をする小野寺は、彼女たちと一緒なら当然付いてくる筈のオバチャン(吉田日出子)というオプションは切り捨てる。童貞の理想郷には幼女と頼れるお姉さんとヒーローの自分がいればよくてババアは要らない、という他者をかえりみれない世界観が垣間見える。
他のために己の命をなげうつというヒロイズムも実に童貞的なパーソナリティ。その意味でいえば『アルマゲドン』より遙かに説得力のあるドラマツルギーだとも言えそう。

そして映画の手触りは『アルマゲドン』というよりは『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』的。クエスが師事したインドのクリスティーナが点景として今にも出てきそうなショットの連なりも終盤にある。富野ファーストガンダムのアムロから庵野エヴァのシンジくんを経由して受け継がれた〈童貞性〉が、樋口版『日本沈没』に至る。その系譜が存在する証拠(?)に、この映画には富野監督も庵野監督も関わっていますし。。

特撮による見せ場を、「たんなる」見せ場としないために必要な手続きとしての、前半の退屈で説明的な時間を忍耐する。が、その後の肝心の人間描写の躓きによって、結局、特撮シーンが「たんなる」見せ場として浮いてしまうことに。小野寺/玲子ラインの話でいえばまず吉田日出子の飲み屋の建物には誰と誰が住んでいるのかも今一つ曖昧だし、その2階のベランダで頻繁に結婚適齢期の男女がくつろぐような関係がいつ築かれたのか、そしてその割には終盤の描写で示されるのは彼らの肉体的つながりの無さと会話による相互理解の欠如。この映画を支える幹となる人間関係であるはずなのに、そもそもその関係の深さも深まりの段階も茫洋としたままでは、誰がなにを選択し、決断しようとも、どうしてもとってつけたように感じられてしまう。
しかし、ほんとうを言うと、そう感じさせる最大の理由は、草なぎ剛も柴咲コウも、ぜんぜん相手を好きに見えないこと。キスシーンも抱擁シーンも、じつに嫌々なかんじでぜんぜん熱くない。脚本がどうあっても、視線ひとつで愛を表現できる役者がいれば成立したのに‥。この二人の俳優(?)は、相手役を本当に気に入っていないと〈愛情を抱く〉という演技が出来ないという致命的な欠陥を常に抱えていると思います。しかし、最終的にはそんな演技にOKを出す演出がマズいという結論になりますが。。

特撮にかんしては、限られた予算と時間のなか、これまでの日本映画には不可能だったレベルのヴィジュアルが現前化されているんじゃないかと。止め絵ぎみのCG描写は『CASSHERN』同様、制作費の厳しいアニメの逃げかたみたいで、ある文化圏のある世代(つまり、40歳前後のオタク)共通の手なのかとおもわせる策で、やはり苦しいが、通常よりスケールもバリエーションもアップした、ミニチュアによる瓦解の物質感にこだわった崩落シーンには、日本特撮の美しいリアリティがあった。災害により炎が燃え盛り、街のあたり一面を火の粉が舞う、その火の粉のふんわりと、ひろく細かい舞いかたに、グッときた。灰にまみれた街並みの空気感の描写も健闘していると思いました。

チョイ役群。富野“総監督”由悠季はあの輝くヘアスタイルを活かした役ですぐ判りましたが、Wアンノ夫妻は見つけられず。前田愛は一緒に行ったひとに教えられて知った。

theme : 日本沈没
genre : 映画

『泣きしずむ女』ドワイヨン②

『泣きしずむ女』 une femme qui pleure

(1978年、フランス、90分、日本未公開)

監督:ジャック・ドワイヨン
出演:ジャック・ドワイヨン、エディ・ポトリフ、ローラ・ドワイヨン


他に女をつくっていて一週間以上家に帰ってこない夫が、ようやく帰宅する。果てしない諍いのすえに、出ていけと言われ、夫は泣き続ける妻と娘を残して去ってゆく。
共に暮らしだした愛人は子供が欲しいと言いだし、妻は愛人に接近し、ヒステリックに関係をかき回し、結果、なぜか娘と4人ひとつ屋根の下で暮らす羽目になってしまうが、妊娠騒動のすえ、愛人は家を出る。
夫の愛人を車で追う妻のうちに、衝動的に殺意が湧き上がってくるが。。


過去のある特定の時代に舞台が設定されていたり、注文仕事であったりと、ドワイヨンの仕事としては例外的な前作『小さな赤いビー玉』(75)の失敗のあと、様々な助成機関からの援助に見放されたり、くる仕事も『~ビー玉』の二番煎じばかりだったりと、困難と迂回を余儀なくされた企画を2年の空白をもってようやく実現化された本作は、
〈限定された登場人物、愛と憎悪の表裏一体となった感情をヒステリックに演じてゆく役者たち、殺伐とした室内空間〉の演出、といった ドワイヨン節全開で、第三作にして確固たる作風を確立した作品です。

精神分析的解読を安易にゆるさない、反・心理小説的な、心理に還元されえない生(なま)の感情が、他者へむけて放射されるさまが描かれています。

夫ジャック役を監督自ら演じ、娘のローラ役を実の娘ローラが配役されており、リアリティある親子を演じ(?)ています。

theme : 日本未公開作品
genre : 映画

『ニライカナイからの手紙』

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〈蒼井優主演〉で、
〈沖縄が舞台〉。

‥とくれば、ヒーリング・ムービー、癒し系、ほのかにいい話、で最後はすこし感動。

‥そんなイメージの企画。
蒼井優さえ出れば、ゴーサインの出る企画。
ハードルはけっして高くない。
ごく順当に処理すれば、じゅうぶん商品として通用する、と思われる。
演出家は、大御所や鬼才である必要はない。
新鋭が適当だ。

どこ方向から企画がスタートしたのかしりませんが、そういった想像をさせる企画。それで作り手もOKで観客もOKなら何の問題もないでしょう。 みずいろの海、すんだ高い空に、朴訥とした瞳の、蒼井優。
監督は新鋭・熊澤尚人。

オフの声。海辺で遊ぶ母娘の数ショットからはじまる。追想らしい。海の向こうにあるニライカナイというところについて、語る。やがて母は理由を言わずに島を、娘のもとを、去る。それ以来、母は帰って来ず、娘=風希の誕生日ごとに東京の母から手紙が届く。つぎの年も、また次の年も‥。
風希がカメラを手に写真を撮りはじめると、その姿が〈現在〉の蒼井優となる。

まず、〈沖縄〉として、数々の映画に登場してきたあの周知の〈沖縄〉と、この映画に出てくる〈沖縄〉が、違う表情をみせているように感じる。
崔洋一の描く乾いた沖縄、
『ウンタマギルー』のねっとりとした沖縄、
たけしの身を隠す遮蔽物のない明るい絶対的な荒野としての沖縄。
雑にいえば、その他の沖縄は大同小異、『ナビィの恋』も『ちゅらさん』も、最近の〈沖縄〉の表情は変化に乏しいとおもう。

そこで、『ニライカナイからの手紙』。
美しい風景や光線に溢れているのだけれど、主眼がそこにない。〈沖縄〉を売りとするならば、その濃密な空気感、光線、風景のなかで生きている登場人物たちを活写することになる。
しかし『ニライカナイ』では、〈沖縄〉が舞台であるということはたまたまであって、いま感じ、生きている躍動こそが主眼となっている。東京=沖縄の二都物語であるから、〈風景〉は物語としても映画としても大きく、重要なウエイトを占めるべきものだ。
しかしここで描写はそのようには向かわない。それが単なる作戦ミスなのか、深慮のすえの確信犯なのか、よく分からないのだけれども、
あまり観たことのない新しい〈沖縄〉が定着されていた、
そのことの価値。

ということは後半、高校を卒業した蒼井優が、母恋いとカメラの修行のために、〈東京〉に出てきてからのパートでも同じことが言える。

まず到着した空港の空気も、なんか他の映画と違う。雑音の入り方、揺れるキャメラ。空港を出たらさて、東京なのですが、その東京の風景も、つまらなくて、その〈つまらなさ〉が他の映画と違う。渋谷の街並みも、吉祥寺の井の頭公園も。

新鮮です。あらたなもの、あらたな街に出逢うたのしさ、緊張感。

手法的には、ドカッと据えたキャメラ、という部分と、手持ちで手ブレこみの荒っぽい撮影が混在しつつ、風景に執着なくパッパッと切り替わる。

ではなにに執着するのかといえば、
空気をとらえるのではなく、
動作、動作でつなぐ。
キャメラの揺れ、
走る風希、
風に揺れる樹々の動き、
落ちるもの、
浮かぶもの。
動きだす情動=おもい、が最重要なのだ、
それがこの映画を甘い、観光・ヒーリングだけのものにしていない。
(遠い母への想い、その母の愛情による限りない庇護のモチーフ、浮かぶ透明な玉が登場し、写真におさめられる場所を選ばないのも、情動=おもい、が要であるという証明だと思います。)

‥ラストの大仕掛けは賛否両論あると思われますが、
このタッチで、このラスト?
という感じ、
〈新鋭〉として、
悪くないと思います。

theme : 邦画
genre : 映画

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