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映画『トウキョウソナタ』その2

(→映画『トウキョウソナタ』その1、からのつづき)

2.

〈京王線初台駅ちかくのこの場所、かつてここに石造りの巨大な廃墟があった。(略)国の所有物で、何とか試験場と言ったが、私はその敷地を大学のキャンパスに見立てて『ドレミファ娘の血は騒ぐ』という映画を撮った。(略)この初台の試験場がメインのロケ場所に選ばれるにおよんで、結果、映画はやけに重苦しく陰鬱なムードの漂うものとなった。〉

1984年に(当初、『女子大生・恥ずかしゼミナール』なるタイトルのにっかつロマンポルノとして)撮影された『ドレミファ娘の血は騒ぐ』(85)のメインロケ地が、実際の大学ではなくて〈巨大な廃墟〉だったことは、黒沢清がそのキャリアの初期から、〈廃屋をめぐる想像力〉を駆動させていたことを示しています。〈全てはこの場所のせいである。この場所に偶然行き着いてしまったおかげで、作品の運命は大きく変化してしまった(略)。廃墟の中で、時間は止まっている。ゆえに、そこはあらゆる流行や風俗と無縁の場所である。変わりに、死が、永遠と不動のしるしとしてヌッと頭をもたげてくる。〉

そのようなかたちで、〈流行や風俗〉からどこか断絶した、どこか抽象的な世界/映画内で、幾人かの(複数のグループの)登場人物が戯れ/闘争劇を繰り広げるのが、黒沢清映画の基本的な形であったと、とりあえずは言うことが出来ると思います。

『地獄の警備員』(91)の頃を振り返って、黒沢清は以下のように述べています。〈当時はまだ、ストーリーが起こる舞台の外側は意図的に排除しようと思っていました。(略)物語の起こる舞台とその外を、抽象的などこでもない場所に設定していました。怪物も荒野の彼方から謎のガンマンがやってくるように、ふらりと抽象的な外部からやってくる。(略)(『地獄の警備員』は)確信を持って外部はないと決めて撮った最後の映画かもしれません。〉
黒沢清にとって「廃墟」で映画を撮ることは“どこでもない抽象的な場所”で己の信ずる映画的指向/嗜好/試行を阻害されずに実践することが出来るという意味で、格好の場所だった。“そこに外部はない”。そのようにして、流行や風俗などと無縁の抽象的なところで発想され組織されていた初期作品、『神田川淫乱戦争』(83)も『ドレミファ娘の血は騒ぐ』も『地獄の警備員』も、依拠するところは(現在や現実とどう関わるかということにはなく)あくまでも〈映画の原理〉=「シネマ」だけだ、という作家的スタンスで構築されたものにみえたし、黒沢清監督がそのように素朴な「シネマ」信奉を貫く「映画原理主義者」であったことは、その映画をある種のユートピア的な幸福感で充たすのと同時に、何かから取り残された、(それこそ廃墟のように)ドンヨリとした死んだ空気が澱んでいる、そんな鬱陶しさをもその作品の感触に与えていたように感じられます。

流行や風俗に無縁の、外部のない抽象的な世界で、無時間的な死の支配する“どこでもない場所”で推移してゆく映画世界は、『復讐』二部作(96)あたりで変貌を遂げるまで、ごく普通に観客とすれ違ってしまっていたのはある意味必然でもあったと思われますが、そこで第一に夢見/目指されているのは黒沢清がおもう「シネマ」へ向けての純粋な運動体としての映画製作であり、その真摯な殉教ぶりは胸を打ちますが、同じ教義を共有しない不特定多数の観客に愛されることは叶わないだろう孤高さで、それこそ〈餌を下ろしたこともないし、餌が下りてないから当然誰もかかってこなかった〉し、むしろ〈その餌を下ろさないということがすごい〉と個人的には衝撃を受けたのでしたが、しかし、ここであらわれてくる“映画”の姿は、必ずしも黒沢清なりの「シネマ」概念の純粋培養的な生成物としてのみ有るわけでなく、そこにはイメージとしてコントロール不能な異物が“残念ながら”入り込んできて、混濁してチグハグな印象をもたらします。そしてそんな“ズレ”は、確信犯的というか意識的なものらしくみえる。

『地獄の警備員』の舞台は90年前後のとある一般的な比較的大きいオフィスビルということになっていますが、実際に画面にあらわれるそれは、なんだか埃っぽく古ぼけていて、ここで人間が常時活動しているという気配がさっぱり無く、空気が澱んで死んでいる感じがあります。
映画一般のごく通常の手続きとしては、廃校なり使われていないビルや家屋などを、あたかも人が常時活動しているような生き生きとした息吹きをその建物に吹きこむという作業が行われ、物語の運行や人間関係の推移に対し違和感なくスムーズに観客に感知/移入させるわけですが、黒沢清のばあいはそのように空間を「死(無時間的)→生(有時間的)」と変貌させようという意志が感じられず、死(無時間的)的な空間はそのままに、そこで抽象的な映画世界を創り上げようとする。死的な澱んだ空間を映画内物語に適合させるために最適化しないという黒沢清監督の姿勢には、性格的にいいかげんだということがあったにしても、それ以上に、抽象的な外部なきシネマを夢見ると同時に、そんな理想的状態などありえないという事実を引き受ける、相反する意志を示すものであるようにみえます。
そのような〈残念ながら〉を積極的に引き受けること。何度となく黒沢清により口にされていた(筈だけれど当該テキストが見つけられなかったので記憶で言いますと)「ハリウッドではなく、この現代の日本の限られた環境で映画を撮らなければならないことのみっともなさ、残念さ、を引き受けること」という旨の言葉通り、その映画には前提としての不完全さに支配され、不均衡でチグハグで、不透明さに澱む気配が満ち、その解読不能性と異物的な他者性が「廃墟」という場に集約されます。

〈もう、映画というこの世ではない楽園だけでは世界は成り立たないと意識せざるを得なかった〉と述懐する黒沢清は、『復讐』二部作(96)で排除していたはずの日常的な風景を(『運命の訪問者』では〈郊外の建売の一軒家を、『消えない傷痕』では〈狭いアパートの室内や学生下宿〉を〉)あえて舞台とし、『アカルイミライ』(02)に至っては〈努めて映画から来る発想は禁じようと思っていました。最終的には何らかの形で出てしまうでしょうが、スタートの地点では映画に寄りかからないと〉決意する。黒沢的「廃墟」は、「シネマ」発動の絶好の場であると同時に、その不可能性も宿す(映画の原理の)「外部」でもあるという、二重化された、混濁した〈世界〉の無秩序が顕れてくる場だとも言えて、抽象と具体が同時に宿される錯綜したダナミズムがその映画を魅惑的なものとしているように思えます。そして、黒沢清の映画では、そのように抽象/主題/意味といった指示作用を、〈世界〉の具体性/物質性が常に凌駕するという運動が波立つ非・意味作用の極点として、「廃墟」が現前する。

〈映画の原理だけで映画を作ろうとしていて、それができていると信じることができた時期はどこかユートピアみたいでした。しかし、映画を作っていれば、外の原理は自然に紛れ込んで来ますし、嫌でもそれについて考えるほかありません。日常であったり、夫婦であったり、社会の状況であったり、さまざまな社会の現実から逃れられないものでしょう。(略)映画以外の原理を無理にでも取り入れたものと、どうしても動き出してしまう映画の原理に身を任せたものと、二つの原則の間をまるで二本撮りのように行ったり来たりして、いつの間にか一本の作品の中に両方あることになってきたような気がしています。〉


3.

「シネマ」という言葉について、青山真治の『サッド ヴァケイション』に触れたときもロクに説明しなかったのですが、ここでいう「シネマ」の定義は、アンドレ・バザンがああ言ったとかジル・ドゥルーズがどう問うたとかいったこととは厳密な関係は無く、各々のシネフィル(死語?)が不変な絶対基準としてもつ「シネマ」の概念が、イデアみたいにしてあるとかそういう話で、「シネマ」についてちょうどよい話があった『ロスト・イン・アメリカ』(稲川方人・樋口泰人編)での青山真治、阿部和重、塩田明彦、安井豊による座談会の一部を、以下に引用します。

〈安井 「シネマ」って言語学でいう「ラング」と同じようなものだと思うんですよ。ソシュールが「ラングは実在体ではなく、語る主体のなかにしか存在しない」と言っているんですが「シネマ」も、目に見えるような外在的なものではなくて、見る主体でも、撮る主体でも、(略)その主体の意識に問うことによってしか明らかにならない性質のものだと思うんです。(略)ジャック・ラカンという人の理論を乱暴に要約したものなんですが、人間というのは独りでは決して生きてはいけない動物で、必ず模範となるモデルを必要とする。で、そのモデル、例えば先生なら先生を尊敬し、同一化することによってヒトは大人になっていくと。ところが、ラカンは「それだけではない」と言っている。(略)いろいろな生き方をしている人がたくさんいる。それなのに「なぜ先生なのか」と問われた時に「いやいや、君の選択は正しい。大いにその先生を尊敬してよろしい」と言ってくれる、目に見えない何者かが同一化の対象の背後にいる。つまり、ヒトは先生に同一化すると同時に、(略)その選択を保証してくれる、目に見えない何者かにも同一化するという二重のプロセスによって
、大人になっていくというのがラカンの考え方なんです。で、ラカンは、先生への同一化を想像的な関係、その背後の何者かへの同一化を象徴的な関係と呼んでいるんです。一方はイメージですから目に見える。もう一方はシンボル、言葉ですね、だから目に見えない。(略)人間は目に見えるものだけを見ているのではなくて、その背後の見えないものも見ている。で、その見えないものを見ることによって、常に自分の見ている世界を確認しているんだと。(略)同一化することになる先生の正しさを保証する目に見えない何者かを、ラカンは「大文字の他者」と呼んでいます。(略)東(浩紀)君は「大文字の他者」を具体的に「社会」と言い換えていました。社会が先生の正しさを支えていると考えれば分かりやすいでしょう。で、僕は「象徴的なものへの同一化、目に見えないもの、大文字の他者、……それはシネマだ!」(笑)と確信したわけです。(略)
青山 (略)「シネマ」という言葉が、映画を撮るなり、批評を書くなりする時の正統性を無条件に保証するものとして機能していたというのはよく分かる。(略)「ホークスは天才だ」ということを広く認知させることが第一の目的ならば、彼ら(ヌーヴェル・ヴァーグの連中)がその後、なぜ次々と映画を撮り始めたのか、つまり批評を書くことと映画を撮ることの関係が見えないし、作家主義がもっている政治的な意味合いも分からない。彼らは、批評を書くことと映画を撮ることを別次元で考えていたわけではなく(略)そのふたつの行為を結び付けていたのが「シネマ」という言葉だと。
安井 そこでは「シネマ」という言葉が理念として機能していた……。〉

青山真治が『サッド ヴァケイション』でその自分のなかにある「シネマ」の虐殺を試みて、澱んでいた〈世界〉との接続性を回復しようとしたように、黒沢清も〈映画というこの世ではない楽園だけでは世界は成り立たない〉という自覚から『復讐 消えない傷痕』あたりから黒沢的「シネマ」観に適合しない「外部」を積極的に取り入れてゆくことになる。〈映画以外の原理を無理にでも取り入れたものと、どうしても動き出してしまう映画の原理に身を任せたものと、二つの原則の間をまるで二本撮りのように行ったり来たり〉してキャリアを重ねてきた黒沢清は、『ニンゲン合格』(98)や『カリスマ』(99)や『大いなる幻影』(99)ではまだ濃厚に澱んで充満していた「シネマ」に対し、『2001映画と旅』(01)あたりを転回点として、積極的に虐殺に転じてゆきます。
『アカルイミライ』という映画の風通しの良さは、そのような虐殺による更新のある種の成功に由来していたと思いますし、『LOFT』(05)のばあいは、キャメラマン芦澤明子の参入や2キャメ方式の採用が、「シネマ」の揺るぎない強固さをかえって強調し内側に閉じてゆく作用をもたらした、虐殺という意味では未遂に終わった映画だったと感じたのでしたが、そこで最新作『トウキョウソナタ』の登場となります。


4.

印象で言いますが、「シネマ」の虐殺と外部の導入、という観点でいえば、『トウキョウソナタ』は黒沢清のフィルモグラフィ中、それがもっとも達成された映画だと思います。黒沢清監督自ら規制をかけていたはずの平凡かつストレートな家族という題材、高橋洋や古澤健のような“コチラ側”ではない他人(マックス・マニックス)の脚本といった外的な要素の導入や、活気あふれるショッピングモール(屋内ロケは昭島のモリタウンですが、外観はどこか郊外のジャスコ‥)というおよそ黒沢清ぽくない舞台装置の援用など、あらかじめ目立った差異もありますが、それ(外部からの導入)以上に、映画そのものの内実が「シネマ」に依拠しない“手ぶら”感があります。その感触は(阪本順治の『魂萌え!』(07)にも感じた)冬の遠い日差しのような“弱々しさ”を醸し出していて、そよぐような頼りないような、何か小さくざわざわした感情が生じます。

ラストのピアノ演奏シーンは、撮影なり、演出なり、美術なりの力によって、映画をどこか目論んだ地点に着地させるのではなく、既成の音楽、その楽曲一曲のもつ力に、この映画が2時間の上映時間を費やして持続させたエモーションの行く末を終結する役割を預けてしまうやり方で、映画の原理を遠ざけ〈世界〉を召喚します。演出のコントロールも趣味の発露もその効果に殆ど影響を及ぼせない、ある意味投げっぱなしな大胆さは、意味や歴史に重く撓む「シネマ」を放逐する。そこで最期に吹く風はまた、世界の“変調”の〈兆し〉としてありますが、その“変調”は、誰かの信ずる原理や信条や世界把握のあり方とは無縁に、ただ、そのようなもの(音楽)が世界には在る、という提示だけがあって、それはいかなる意味指示作用も生まない、そのような更新を示す。それは〈センス〉や〈才能〉や〈深い洞察〉によって構成/構築/配置されたものではなくて、ただそこに無作為的に“在る”。それを記録する、キャメラとマイクがツールとしてたまたまあった、そんな手ぶら感が、この映画の観終えたときに開放的な気分をもたらしていると思います。

そして、ここには無時間的な澱んだ気配も無いかわりに、映画的な魅惑もなんだか希薄におもえます(映画的な魅惑、というと「シネマ」がどうのという話と混同しそうですが、要するに、魅力がない、と感じる)。そこで思い出すのは、エドワード・ヤン後期(『エドワード・ヤンの恋愛時代』『カップルズ』『ヤンヤン 夏の思い出』)やホウ・シャオシエン後期(『フラワー・オブ・シャンハイ』『ミレニアム・マンボ』等)の、風通しは良いが「不気味な」作品群で、いかにも傑作然とした佇まいの、映画的気配が濃密な作品群(『恐怖分子』『クーリンチェ少年殺人事件』や、『恋恋風塵』『冬冬の夏休み』など)を遺棄するようにして到達した、透明で拡散的でフラットでかつ混濁もした快楽素の解析が困難なこれらの映画にはあった「不気味さ」が、『トウキョウソナタ』には何だか感じられない‥。たとえば『カップルズ』では、オリエンタルであったり映画的であったりするフック/快楽素を削ぎ落とし、外部に出られないある種絶望的なシステム/社会に生きる登場人物たちが蠢くさまが描かれていました。ここで導入される〈世界〉/〈外部〉は、システムを揺るがす
わけではなく、それでもシステムは作動しつづけ、我々は生きていく、といった真っ直ぐで甘えのない厳しい認識が『カップルズ』にはあります。『トウキョウソナタ』の作劇は、与えられた素材に対し、システムの作動についてはいかにも黒沢清的な手つきで素描し、〈世界〉/〈外部〉については「そこにそのようにしてあるものだから、自分の関知するところじゃない」と責任を放棄する。
〈世界〉/〈外部〉を、解読不能性を属性とする物質性/他者性として安易に括弧に入れることで、結果、抽象と具体の混濁がダイナミズムをうんでいたその映画世界から具体を排除し、抽象が保護される。次男が警察に留置される場面や子供部屋に国境と称する線が引かれている場面が与える「安心」感は、「シネマ」が“抽象的”に保護されていると感じることに由来するし、そうして〈世界〉の具体性との闘いに背を向けたことから、「廃墟」の混濁は吹き払われ、囲われてただ単に弱体化し延命した「シネマ」がチロチロと小さな光を発する。
『トウキョウソナタ』には「不気味」な「物質性」が、つまり〈未来性〉がない。真摯な世界把握への意志無き〈世界〉への依拠は、ただの怠惰な逃避に過ぎないと思います。


(主要引用・参考文献~『キネマ旬報』『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』『映画芸術』『ユリイカ』BN、黒沢清『映画のこわい話』『恐怖の対談/映画のもっとこわい話』『黒沢清の映画術』『映画はおそろしい』『映像のカリスマ』、宇野邦一『映像身体論』、蓮實重彦『映画狂人、神出鬼没』『映画崩壊前夜』、『アカルイミライ』『ニンゲン合格』『トウキョウソナタ』『カリスマ』パンフレット、宮台真司『絶望 断念 福音 映画』、稲川方人・樋口泰人編『ロスト・イン・アメリカ』、大寺眞輔編著『現代映画講義』、金井美恵子『金井美恵子全短編Ⅱ』『愉しみはTVの彼方に』)

関連記事:映画『トウキョウソナタ』その1
       シネマの虐殺
       映画『叫』①
       映画『叫』②


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映画『トウキョウソナタ』その1

『トウキョウソナタ』
〈2008年、日本・オランダ・香港、119分〉

監督:黒沢清
脚本:Max Mannix、黒沢清、田中幸子
撮影:芦澤明子
音楽:橋本和昌
照明:市川徳充
出演:香川照之、小泉今日子、小柳友、井之脇海、津田寛治、井川遥、児嶋一哉、役所広司

サラリーマン・佐々木竜平(香川照之)は突然、会社からリストラを宣告される。妻(小泉今日子)にそのことを言い出せぬままにハローワークで仕事を探すも、なかなか満足いく職にありつけないまま時が過ぎてゆく。その父に頭ごなしにピアノを習いたいという希望を却下された次男の健二(井之脇海)は給食費を着服し、月謝とすることで密かにピアノを習い始める‥。


1.「廃墟」としての家庭

居間か食堂か、何の変哲もないけれども人の気配が感じられない部屋に、画面の右手から、どこか凶々しい、不吉な風が吹き、ゆっくりと新聞紙が舞う。『回路』の街角に吹きすさんでいたあの風、『降霊』では窓外の木の葉を揺らし、『LOFT』における謎の建物へ向かう道筋に生い茂る緑を靡かせていた、〈世界〉の変調を知らしめるようなあの風が(『ドレミファ娘の血は騒ぐ』の、『復讐 消えない傷痕』の、『CURE』の、『大いなる幻影』のあの風‥)、閉塞しているかと思われた室内を流れている。黒沢清の映画に吹いている“風”は、たとえそこが世界の果ての辺境であろうとも、不可視の世界/原理/構造の中枢から距離を無効にして“飛躍して”届く〈兆し〉としてあって、そのようにして突然現れる〈兆し〉は、何の変哲もなかった風景(世界の在り方)を一変させます。

嵐の訪れに薄暗く色素を失った室内の奥にはサッシの窓が半ば開かれてあり、外からの激しい雨がそこから入り込み水が居間の床をパタパタと叩いている。窓の外では、ポツポツと植えられている貧相な木の枝に張りついた葉が雨に打たれて揺れる。何の変哲もない筈の部屋が、その空間のガランとした暗い空虚さと、その床面を浸食する水によって、「廃墟」化する。
(蓮實重彦はかつて黒沢清の映画における廃墟の頻出について、〈空洞化した建築が人目を避けてどこかに残されているなら、その床一面にわずかな水を流しておけ〉ばそこに「黒沢的廃墟」は瞬く間に完成し、〈林を抜けてこの廃墟にたどりつく者がいたとするなら、その人間には「善悪」を超える権利が認められる〉だろうと『「善悪の彼岸」に』で述べています。)
単なる民家の一室に過ぎない場所が、ここでは「黒沢的廃墟」の気配をかすかに放ち出す。その廃墟化に抗うように、雨水を拭こうとしているこの家の主婦らしき女性がバタバタと画面のなかを行き来し(それはどうやら小泉今日子らしいのだけれど、人物に焦点をあわせてゆくスター化作用はそこでは行われず、厚みのある人物像として結晶しない、以後しばらくは内面も体温も感じさせないシステマティックで空虚な物体としてこの家に「いつも居る」。)、この空間のガランとした空虚感を際だたせる。

窓が開かれた、あるいは窓ガラスそのものがなく外界/世界にひらかれた居室の空間性もまた、黒沢清の映画の重要な魅惑のひとつとしてその映画(群)を形成していて、『大いなる幻影』のアパートの開放された窓と吹きわたる外気、『蜘蛛の糸』で大杉漣が棲む事務所の窓から臨む樹の緑を透過する光、『カリスマ』で刑事の役所広司がたどりつく植林作業員たちの宿舎では多くの窓ガラスが割れていて風が通り過ぎるがままになっているさまや、『LOFT』で中谷美紀が住むことになる部屋の開け放った窓から入りこむ正面の謎の建築物の物質性はこれまで、私たち観客をワクワクさせてきたものでした。そして勿論、「廃墟」もまた、窓も扉もない、内と外が無媒介的に通底する空間性の最たるものとして、黒沢清映画の多くの場面でその姿を現してきました。

前述の蓮實氏は、黒沢的廃墟を無時間的な物質の悪意が跳梁する空間と定義し、宮台真司は〈社会〉の中に突如として〈世界〉が侵入してくるときに〈社会〉の中の「弱い環」である廃墟が登場すると指摘していますが、要するに、黒沢清の「廃墟」は、雑な意味でのリアリティの観念(=世界把握)からは零れ落ちる、真に物質的な〈この世界〉の感触として、不意にぬっとあらわれてくる「他者性」として存在を観客に知覚される。時代や社会のシステムや、慣習や習慣による慣れからくる常態化に抗うようにして、私たちの怠惰な固定観念の向こう側から、システムを押し分け、一瞬で亀裂を入れてそれは立ち顕れる。そこでは、そうであろうと普段私たちが思っていたルールとは違う不可視の〈世界の法則〉が作動し、思わぬ不意の惨劇が起こりますが、それは私たちがそれまで依拠していた、心理や、時間的歴史性や、善悪の社会的な価値基準を無効にする〈世界〉の物質性が“何も媒介としないこと”、つまり〈暴力〉として顕れてきていたからだということになります。

さて、小泉今日子の蠢く家屋を襲った不意の嵐は、(黒沢清もある種の影響を受けているアッバス・キアロスタミ監督の、『友だちのうちはどこ?』での雨が、隔たった2つの地点を結びつけるように)風とともに離れた場所にある夫・香川照之のいるオフィスへと、距離を無効化して観客を連れてゆきます。
外が嵐の不穏な空気でざわざわと騒がしく落ち着かなげなこの会社(TANITA)、このオフィスでは先刻の家屋の場面とは異なりすべての窓は閉ざされ、そして白いブラインドがことごとく降ろされていて、外界を臨むことができない。ブラインドの向こうからの、暗く、そして中途半端に明るいぼんやりとした光が、射し込むとも射し込まないとも言えないような曖昧さで室内を包む。
この部屋の、妙に曖昧で不安げな宙吊り感”は、ブラインドのもつ開/閉の二重化という属性、そうして結局のところ外は見えないという特性からして、この『トウキョウソナタ』という映画のもつ「隠す/露呈する」「見る/見えない」という主題体系と響きあうようにもみえますが、それ以上に、黒沢清映画に幾度か登場するある舞台装置の感触を想起させます。

それは、窓が何らかの理由で曇っているのか、あるいは窓の外が霧に包まれているのかは分からないが、とにかく乗客を取り巻いている窓という窓が曖昧な不透明さを帯びていて外界から視覚的に遮断されている、ある種幻想的なかんじもある乗り物。『地獄の警備員』ではその冒頭、窓外が不気味にくすんだタクシーに乗った久野真紀子が通勤するオフィスビルに向かう。その露骨に抽象的な舞台装置を経由して、主人公は常人には計り知れない原理で殺戮を重ねる殺人鬼の待つ非・日常世界へと侵入してゆきますし、『CURE』の後半、まるで雲の中か異界を浮遊してさまよっているようなバスに乗った役所広司は、その反リアリスティックなバスに揺られて、やがて人知れぬ廃墟に辿り着きます。
このように窓という窓を不透明さに覆われて外界と遮断され、極度に抽象的空間と化した黒沢的な移動装置(乗物)は、我々の知る原則からは断絶した〈世界〉そのものの暴力性に遭遇する場へと主人公/観客を導いてゆく作用があります。

この妙に曖昧な不透明さで窓を覆われたオフィスは、嵐の気配に微かに振動するようにして不可視の外界の不穏さを抽象的に漂わせています。スタジオに作られた電車車両内セットのように揺らぐ気配さえみせそうなこの抽象的な“乗物”で、香川照之はリストラを宣告され、平坦な日常から転げ落ちる(以降に登場する、事実としての乗り物である屋根の開閉する自動車や出兵する長男の乗りこむバスは、その窓からの眺めは可視的で、そのような作用は生まない)。そしてオフィスからかろうじて持ち出した日常の残滓であった私物や書類の入っているらしき紙袋も、その帰宅の道行き途中で廃棄することになります。

その道行き途中でふとたどり着く公園らしき広場は、職を失った者たちで溢れており、幽鬼の群れのような彼らのドンヨリした意志なき動作からは後戻りが困難な異界の臭気が漂う。もう後戻りが出来なくなった1人の浮浪者が、新参者の幽鬼候補者に今のうちに引き返せと助言をしている。公園には椅子とも言えないようなごく低い四角のコンクリートの塊が地面からニョキニョキと幾つも生えており、人々はその椅子(?)に律儀にポツリポツリと腰をおろしている。屋外のだだっ広い空間に多くの椅子、といういかにも黒沢的な光景は、奇妙で間抜けで、魅惑のある図。

さて、世界の変調の〈兆し〉としてある“風”に吹かれ、黒沢的〈乗物〉に揺られた香川照之は、必然的に「廃墟」に辿り着くことになります。幽鬼の群れを傍らに通り過ぎた彼は、自宅近くの三叉路で偶然次男の健二(井之脇海)と合流し(ここでの、微妙な距離感の父子のやりとりが素晴らしいと思います)、ふたりは電車がすぐそばを走り抜ける場所に建つ家に共に帰り着きますが、玄関からふつうに家に入ってゆく息子とふと距離を置いた香川照之は、玄関を回避し、家屋に付随したわずかばかりの細長い敷地を右手に迂回して苦労しいしい進んでゆき、先程雨水が激しく入り込んでいたサッシから密かに居間に侵入しようと試みる。
リストラゆえの早く帰りすぎたことを妻不審がられないために、玄関を避けての居間からの侵入だという心理的説明もなくはないのですが、どう考えても庭~居間からの侵入行為はどんな理由づけをもってもより極めて不審だし、そもそも主婦である小泉今日子が、息子の帰宅時間頃に食堂と続き部屋になっている居間にいないとタカをくくるのはいくらなんでもムリがあるでしょう。香川照之は、心理的必然とは無縁に、黒沢的「廃墟」に〈世界〉の原理に従って、開巻早々に辿り着いた。〈床一面にわずかな水を流〉されて俄かに「廃墟」化した我が家に、〈林を抜けてこの廃墟にたどりつく者〉としての資格を得るためにわざわざ貧相な庭の貧相な木々をぬって(=林を抜けて)到着する。という卑小な冒険を経て。

〈林を抜けてこの廃墟にたどりつく者がいたとするなら、その人間には「善悪」を超える権利が認められる〉、だろう。たしかに『トウキョウソナタ』での香川照之は、黒沢清的な想像力に忠実な筋道をとおって、「廃墟」たる家庭にたどりつたように見えます。しかし、ここであらわれてくる廃墟は、これまでの黒沢清映画の廃墟とはだいぶ趣が違って感じられます。

“雑な意味でのリアリティ”の信奉者であるごく普通の登場人物/もしくは観客が、それとはまったく別種の世界の原理に触れ、次第に触覚的に汚染されてゆくようにして事態が推移していったとき、不意に黒沢的廃墟が顕れてくる。それが黒沢清的な世界観というか世界把握なわけですが、『トウキョウソナタ』では冒頭から既にメインの廃墟である筈の家/家庭が画面に登場してきます。そこには、幾多の黒沢清映画にあった廃墟特有の映画的かつ魅惑的な空間性もなく、そこで吹いている風には、『降霊』なり『LOFT』なりでの風にはあった有無を言わせないような官能性が、スッポリ抜け落ちています。
不意打ちするものとしてでもなく、顕れてくるものとしてでもなく、魅惑的な官能性も欠落している『トウキョウソナタ』の「廃墟」の在り方は、黒沢清の想像力の変質を示すのでしょうか。

(→映画『トウキョウソナタ』その2につづく)

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映画『チェケラッチョ!!』






『チェケラッチョ!!』

(2006年、日本、117分)

監督:宮本理江子
音楽:ORANGE RANGE
出演:市原隼人、井上真央、平岡祐太、柄本佑、伊藤歩、玉山鉄二、山口紗弥加、KONISHIKI、ガレッジセール、陣内孝則

進路に悩む、沖縄の高校三年生のボンクラトリオ(市原隼人、平岡祐太、柄本佑、)と幼なじみの唯(井上真央)。市原隼人は、バイト先で出逢った年上の美女(伊藤歩)に一目惚れする。ある日、彼らが井上真央に連れられて人気バンド「ワーカホリック」のライブに行くと、会場には伊藤歩がいた。そしてライブをみた彼らは、バンドを組んでラップに挑戦することになるが‥。


2006年の東宝は興行的に絶好調だった。年間日本映画興行収入ランキングベストテンでは、『デスノート the Last name』ワーナー『男たちの大和 YAMATO』東映)をのぞき、じつに8本を占めた(『男たち~』は去年からのロングラン上映、ワーナーの『デス~』は業界の掟(協定)を破る短期間でのテレビ放映でヒットを拡大したという、ややイレギュラーな要因もあった)。ラインナップ的に、『ゲド戦記』をはじめとしたアニメ作品をのぞいても、何らかの話題性、つまりメジャー性を、作品が有していたものが並ぶ。『THE有頂天ホテル』『県庁の星』『海猿LIMIT OF LOVE』『嫌われ松子の一生』『トリック2』『日本沈没』『涙そうそう』『NANA2』といった作品群は、良くも悪くも何だかんだ話題にのぼったし、ホラーというジャンルでさえ『輪廻』『着信アリFinal』はホラーファン層以外にもちゃんと題名が浸透した。見るからにマイナーな装いの『虹の女神』みたいな小品さえも、キッチリある程度の話題作に仕立て上げた。
(これに対して、たとえば東映の、『最終兵器彼女』『燃ゆるとき』『バルトの楽園』『風のダドゥ』『アジアンタムブルー』等々といった題名の映画が公開されたことが、いったいどれだけの人に認知されているのでしょうか。)
『チェケラッチョ!!』も目立たないながらも見事興行収入10億を突破(10.8億)、これは松竹第2位の『タイヨウのうた』(10.5)を上回る数字で、キャストやスケールを考えると大当たりしたと言えると思います。

東宝の戦略は、多くはテレビ局とのタイアップで知名度をあげ、ターゲットとしては若年層やファミリー層を見据える。いわゆる良心的映画ファンに訴えかける映画では、出来不出来を問わず大ヒットは見込めない。普段映画を観に行くことが習慣化していない浮動票的な部分に的を絞ることでヒットを目論むという、出版業界が露骨にベストセラーを狙うときと同様のやり口は、根本に観客への不信感がある。良質なもの、優れたものを希求する営みによって映画館が満員になるなどという、甘い考えをいだいていないのだ。

『チェケラッチョ!!』は、フジテレビとのタイアップ(スピンオフの連続ドラマも放映)、市原隼人・井上真央・平岡祐太といったプレブレイクなキャスト、夏×海×沖縄×ラップ×青春という題材、楽曲はORANGE RANGE、という要素から構成され、徹底してテレビサイズ的な平板平明な“明るさ”が指向されている。そこに〈経験〉は最初から用意されていなくて、観る前に抱く〈イメージ〉の〈確認〉、〈追認〉のためだけに作品が存在する。
“謎の美女”(伊藤歩が!?)は登場した瞬間にその正体は予想出来るし、クライマックスもラストシーンも、予想された光景がやがて目の前で繰り広げられ、それを観客は安心(と退屈)とともに確認し、観賞前抱いたイメージとの合致にどこか満足して観賞を終える。〈経験〉ともっとも遠いこの作業は、摩擦や刺激を脳にも感情にも与えることなく、その脳軟化的で平穏な〈口当たりのよさ〉が、〈快適さ〉として満足感を生むという、非生産的な構造がそこにはあって、現在的な〈イベントムービー〉のひとつの姿であるとは思う。

『ナビィの恋』(99)のときには他の人々同様、〈沖縄〉をとらえるのに〈歴史性〉を無視している制作者の姿勢に憤りを感じたりしていたのでしたが、ここ(『チェケラッチョ!!』)に至っては、もう何も感じなくなってしまった。『チェケラッチョ!!』での沖縄は、たまたま舞台が沖縄であるに過ぎず、他のどの町なり海なりに差し替えてもかまいやしないかんじがあって、『ナビィ~』ではまだあった〈オキナワ〉固有の地域性はかなり薄れています。歴史的なものの忘却だけでなく、地霊的なものや空気感すら喪失して、スタジオだの伊豆だので撮影を済ませたといわれてもソッカと思ってしまうような抽象性を帯びた舞台で、徹頭徹尾テレビ的演技でもって物語が処理されてゆく。

開巻早々の結婚式の場面には10分も費やされ、語りの遅さが際立ちますが、これはオキナワ的時間の緩慢さを示す気概などは無論なくて、単に設定や感情や出来事を一個一個単調に説明していったら長くなったということで、退屈することはあっても置いてきぼりにされる心配は全くないという“安心の構造”が宣されているともいえましょう。以下、喜怒哀楽のハッキリした顔の演技と大きい身振り、目をこらす必要のない画面設計と、〈カッコイイ/カッコ悪イ〉〈キレイ/キタナイ〉〈縛られた大人/理屈じゃない若者〉といった意味指示作用の明確なパーツ群で映画はかたちづくられ、片手間に観ても完全に理解が及ぶという種類のノーストレスを『チェケラッチョ!!』は提供する。

〈観る〉ことが精神に負荷をかけることで何かが生じるという〈経験〉が、かつては「映画をみる」ということだった。しかし現在的な〈私〉(主体者=客体者)は、変容させてゆくものではなくて、無刺激的にただ己を肯定してくれる無限反芻的なものを欲しているだけという現状。ここでの〈私〉は、「映画をみること」によく似た、自分への共感という不毛な回路に閉じる〈イベント〉を擬似的に体験する。東宝という会社は、そのような感性を狙い撃つ。上記のラインナップを今一度みてみれば、見事に貧困な〈イメージ〉に従順に合致する、〈反・経験〉的な映画ばかりだということが露骨にみてとれます。その典型例である『チェケラッチョ!!』について、どこがいいとか悪いとか言ったりすることは、根本的に不毛なことなのだ、とおもう。

theme : 日本映画
genre : 映画

映画『魂萌え!』(2)

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『魂萌え!』(2)

『魂萌え!』(1)からのつづき

冒頭、井の頭公園。池に覆い被さる桜の木々と桜の花の房の群。コントラストは弱く、白っぽい画調。そこにはこれまでの阪本映画にはあった“凶々しさ”、こってりとしたケモノくさい人間ぽさが感じられず、自然界の植物の、細くながく持続する、微弱な力としての空気が淡くそよいでいるだけのようにみえる。ここでは〈異形のもの〉を好んで描いてきた阪本順治らしからぬ“平穏さ”が表出していて、新しい阪本映画の開巻を告げているようにみえます。

原作では夫の死後に物語が始まり、夫は全編、不在の虚の中心点として小説内に鎮座し偏在しているが、映画では定年退職の日の夫(寺尾聰)の行動が淡々と描かれ、一日の最期、妻(風吹ジュン)に微笑とともに握手を要求し、何事かを告げると、場面は三年後の火葬場にとび、その握手のくだりを想起している風吹ジュンが、あのとき夫が何を言ったのかを思い出そうとして思い出せないとこぼし、一緒にいた時間は長いのに、この三年間が一番あっという間だった、と語る。

このあと映画はずっと、寡婦である敏子=風吹ジュンに近づいたり離れたりしながら寄り添いつづけ、その生の持続を見つめるのですが、風吹ジュンの回想であるようにみえる生前の寺尾聰の出勤し会社で過ごす一日の描写はいったい何かとまずは不審におもう。社員食堂の場面があることから、あるいは不倫相手の伊藤昭子=三田佳子が働いていた場所を示したともみえるが、この段階では風吹ジュンは不倫相手の存在を知らないのだから、これはやはり回想ではなくて普通にある特定の日の日常描写に過ぎない。これにより、もの言わぬ死者としての夫が、この映画の説話構造の不在の中心点を担うという確固とした構図は崩れ、やや軟体化した語りは、緻密な構造としてではなく、常に綻びつづける弱々しい素っ気なさで紡がれてゆく。過去の作品群の豪快な破綻ぶりとは異なった(弱々しい)破綻のしかたで、欠陥といえば欠陥だし、それが新たに獲得された語り口だと評価するなら出来なくもない“微妙さ”を抱えて、映画は進行していきます。

基本的には風吹ジュンの魂の流浪が描かれてゆくこの映画のなかで、前述の生前の夫のシーンのような、風吹ジュンから離れた、語りの亀裂として在り、そのため印象的となったシーンがあって、それが不倫相手の昭子=三田佳子絡みの場面にあります。初対面(初対決)となる敏子=風吹ジュンのもとに赴くまえに、車のなかで三田佳子がブツブツと挨拶を練習する、異物感のある場面。あるいは、最期の対決のあと、〈阿武隈〉から敏子が帰り、表にのれんを掛けにでた昭子が風に煽られ、誰かに「風、でてきましたねえ」と語りかける開放感ある眩しいシーン。これらのシーンが映画全体が淡いトーンとテンポのなか、ひときわ印象に刻まれます。

その一方、風吹ジュンが夫の死後、意識すらしていなかった困難(と悦び)が次々と押し寄せてきて、眠っていた“魂”が“萌え”ゆく流浪の〈日常生活の冒険〉が語られてゆく〈チグハグでない〉本流のパート、①で述べたようにこれまでは役者に表現させた阪本映画独特のリアリティをもって虚構の強度に対抗してきた(→〈チグハグさ〉)ものが、今回普通の日常のリアリティに相対した〈チグハグでなさ〉に手ぶらで勝負をかけねばならないパートでは、正直、精彩を欠いているように思われます。ご飯を炊きすぎたり、ゲロをバックに吐いたりとか、良くなくない細部もあるのですが、自分がたいへんに問題があると感じるのは、主要キャストから端役までの演技です。

阪本順治流の演技指導は、先に述べたようにルーティンに流れぬようこれまでのやり方を削ぎ落とし作らせず、一歩一歩、一手一手、不器用に確かめるように作りあげてゆくものだった。同じように女性を主人公に据えた『顔』でも『ぼくんち』でも、主人公が行く先々で現れ出逢う人々は、その映画でしか居ない存在感を豊かに示していたが、どうしたことか『魂萌え!』の登場人物たち、殊に女性陣はルーティンな演技を繰り広げる。上手下手でなく、環境や相手あって反応としての演技がある、という阪本順治が今までこだわってきたことが、どこか疎かになっているようにみえてしまうのだ。
夫の死で初めて会うことになった長男の家族との会話を交わす風吹ジュンは、ある緊張感をもって接している風でも、呆然として無関心なようでもなく、ただ単に脚本上のセリフのやりとりを無難に消化しているようにみえる。キレて家出するくだりも、感情が沸点に至るまでを、必要なら長すぎるくらいの時間を浪費してでも表現すべきものを“丁度いい”“適度な”ところでキレに移行し、描写が滞らない。阪本映画のリアリティが日常のリアリティに向かう〈チグハグでなさ〉とはツルツルと流れるように描写が過ぎゆくことであるのかと訝しくおもう。

仲良し4人組が集うシーンがとりわけヒドく、これぞルーティン演技の見本ともいえるやりとりの間のオンパレードで、それぞれが作り込んだ役内でポンポンとセリフを消化してゆく。反射、反応として会話が機能していない。4人中、もっともヒドいのは今陽子で、まだマシなのは由紀さおりでした。

男優の演出には手馴れた阪本監督は、〈お互いにヒントを出しあう駆け引きみたいなこと〉をして剥ぎ落とし、コントロールしてゆくのが(今回、豊川悦司、田中哲司、共に良くて、印象も鮮烈で描写に愛情があった)、今作では、錚々たる女優陣を相手に、どうにもコントロールしきれなかったのではないか。と想像する。

不倫相手の昭子を演じる三田佳子は、幾つものインタビューで、どうやって理路整然と〈自分が〉役作りをしたかを滔々と語りたおす。声の出し方も白髪も福島弁も、おかしくなったあとのメイクも舌を出すシーンも、〈自分が〉考え、役作りしてきたと得意げだ。男優相手なら真っ先に抑圧するだろうこういう暴走をおさえきれず、結果、〈三田佳子の、いわゆる、名演技〉がそこに刻まれてしまった。ハッキリ言って、どうみても作りすぎだとおもう。(30年も東京で働き暮らしてアノ訛りようは、意味付加しすぎだ。)このようにして、女優による反・阪本的演技がそこここに出立してしまう事態となった。

原因は、不得手な女優のコントロールに手間取ったこともありましょうが、“普通の女性を、男の願望でなく描く”というかされた枷に、最期までうろたえ、自信が持てずに来てしまったということだろうと思います。

阪本監督は『シナリオ』誌の加藤正人との対談で、〈『顔』の吉村正子は、自分を全面的に投影するというか、演出する時に、言葉を持ち得ている、という自信があったんですけど。今回、セリフやト書きを書いても自分が100%腑に落ちてるかっていうと腑に落ちてなかったりするんだけど、原作に対する信頼を頼りに演出してみる、これは初めてですね。〉と完璧な自信をもって演出に臨まなかったことをもらしています。山根貞男によるインタビューでは〈初めてづくしが今回やりたいと思ったところ〉とも言っているのだから、それはそれで本人的には“是”なのでしょうし、次作へむけてのステップとして有意義なものではあったのでしょうが、『魂萌え!』単体としてみれば、結果は、意余って力足らず、突き抜けた感慨を得るのは難しい出来映えに終わってしまったのではないでしょうか。

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theme : 邦画
genre : 映画

映画『魂萌え!』(1)

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『魂萌え!』

(2006年、日本、125分)

監督:阪本順治
原作:桐野夏生
出演:風吹ジュン、三田佳子、田中哲司、常盤貴子、加藤治子、豊川悦司、寺尾聰

平凡に暮らす59歳の主婦・敏子は、突然訪れた夫の死に呆然となる。これまで夫の庇護下に生きてきた敏子はさまざまな問題に直面することになる。遺産相続に目の色をかえる、すねかじり癖の抜けない子供たち。隠されていた夫の長年の浮気。そして、老いた我が身と、独りで生きてゆくこれからの長い時間‥。

阪本順治長編第15作。〈骨太な、男の映画(活劇)、を撮り続けている映画監督〉とことあるごとに言われ続けてきた阪本順治が、老境にさしかかった女性を主人公に、軽やかな映画を撮った。ただし女性を主人公に据えることは『顔』(00)の藤山直美や『ぼくんち』(03)の観月ありさと前例はあって、必ずしも特異な例とは言えない。では阪本順治のフィルモグラフィ内において、あるいは『顔』『ぼくんち』と対比して、『魂萌え!』はいかなる位置を占めるのか。

『魂萌え!』で主人公の敏子を演じた、風吹ジュンは言う。阪本順治の映画では、〈私の知っている役者さんが、映画の中では知っている人に見えない。それって、理想じゃないですか〉。だから〈ずっとファン〉でいたし、いつかその〈現場に入ってみたい〉と念願していた、と。阪本順治の演出のもとであれば、“いわゆる、風吹ジュンの演技”、“いつもの、風吹ジュン”ではない、“未知の、新たな風吹ジュン”の肖像が刻まれ、更新されるかもしれないという期待感がもたれているということで、そこで語られた“期待感”には、演技指導だけに限らず、阪本映画のある種の特質が現れているでしょう。

阪本順治の意識の根幹には、常に、ツルッとイージーなイメージに物事が流れてしまうことへの嫌悪があると思われる。第1作『どついたるねん』(89)、第2作『鉄拳』(90)では、器用にソツなく演技をこなす既存の役者ではなく、演技は素人だが肉体的運動感にリアリティのある赤井英和、大和武士といった当時職業俳優ではない(元)ボクサーをつづけざまに主役に起用した。ほうっておいたら役と演技をつくって来てしまう、手馴れた役者というものへの警戒感が強くあり、それに比べればゼロ状態の(当時の)赤井や大和が、手探りで世界(映画)に接していく、その一歩一歩の確かな手触りを画面に定着させてゆくほうを採る。(今ではピンと来ないかもしれませんが『どついたるねん』当時、麿赤児や美川憲一を普通の娯楽映画でキャスティングするのはかなりの飛び道具で、これもゼロ状態を希求してのことでしょう。)

その逆に、経験のある役者をつかうとき、阪本順治はそれまでの彼らの既存のイメージ、既存の演じかたを剥ぎ取ることに専念腐心する。そうして引いていく、削っていくという作業は、俳優と監督との間に戦闘というか緊張関係が走り、これまでとは違う、俳優には自分のなかにあるルーティンでない芝居で世界と向き合わなければならないんだという実存的覚悟が生じる。そのような戦いはキャリアも名声もある役者にとってはいつもの演じる快楽とは異なる苦痛でもあって、『顔』(00)の藤山〈直美さんは、相当フラストレーションはあった〉ようだし、阪本映画の常連である豊川悦司もでさえ油断すると“いわゆる、豊川悦司”になってしまい、そのたびにその“豊川悦司”を削って演技指導が行われる。

『どついたるねん』『鉄拳』の赤井英和、大和武士が、『王手』(91)『トカレフ』(94)で阪本映画に帰ってきたとき、そこに映っているのは“『どついたるねん』の赤井”でも“『鉄拳』の大和”でもなく、『王手』の赤井、『トカレフ』の大和でなければならなかった。阪本順治の映画から離れていた、わずかな期間でもそれなりに蓄積してきた演技のノウハウを、今度は削っていかなければならない。『王手』『トカレフ』のふたりに、どこかフィルムの色彩を脱色していったような、存在感の消耗が見られるのはそういう理由だと思われる。『王手』演出時、阪本監督はインタビューにこたえ、〈赤井が見えたとか安達英志(『どついたるねん』での役名)が見えた時は、NGだしてるし。編集でもこれは赤井だなって、笑えても外そうっていう。やっぱり今回この将棋指しの、飛田っていう役に赤井がピタッとはまって、なおかつ特別のキャラクターを作らないと。〉と述べています。どこで読んだか聞いたか忘れましたが、スムーズに赤井として将棋を指させないよう、利き手と逆の手で指すように指示が出て、あの鮮明で印象的な、力のこもったモーションが生まれたの
だという。

〈彼は、どこかで常にナマなものを求めており、それが俳優の肉体に向かったりするのだが、その一方には強烈な虚構意識があって、ナマなものも必ずや阪本独自の虚構空間に引っ張り込まずにはおかないのだ。このあたりのバランスというか、せめぎ合いが、阪本順治の作劇術ということになるのであろう。〉と上野昂志は『『顔』を支える肯定の力』という文章で阪本順治の映画を規定する。ただある種の傾向にあるリアリズムの芝居で日常を描き、ひとつの世界の真実を切り取るのではなく、その確かな手触りを忘れぬまま、ある大きくフィクショナルな状況に人物たちを投げ入れる。そこに独特な構えの大きさと、それにそぐわないほどの鮮烈な人間の臭みや色気、哀愁が滲んだ。それこそが阪本映画の魅力の根幹でありましょう。

いつも映画をみるときは、なるべくチラシ程度以上の情報を入れないで観賞に臨むというスタンスなのですが、『魂萌え!』では観賞が都合によりだいぶ遅れて、そのせいか自然となんとなく色々入ってきてしまった。〈この企画を選択した時点で期待するのは、いままでの手練手管は通じないということの面白味〉〈いちばん素直な阪本さんが出たなと。かつてないほど無防備〉〈いま自分が「更地」になれたことが気持ちいい〉。なるほど。俳優にゼロ状態を求めるだけでなく、己にも常にゼロ状態で、ナマであることを希求する阪本順治らしいし、その希求の姿勢が、彼のフィルモグラフィの豊かさも貧しさも生んできたのだと思う。

同じように女性が主演でも、『顔』や『ぼくんち』の物語には異形のものがあり、ある種ファンタジー的な抽象性にまで達しかねないフィクションの香気が漂っていました。しかし『魂萌え!』での主人公は普通のオバサンに待ち受けている普通の物語だ。大状況に登場人物たちを投げ入れるという、阪本映画のやり方とは明らかに違う物語がここには用意されていて、人間の存在感のリアリティと虚構の強度のぶつかり合いのチグハグさが阪本映画であったとすれば、役者に表現された独特のリアリティの向かう先が、普通の日常のリアリティだという〈チグハグでなさ〉は、確かに阪本映画にかつとない表情を与えるでしょう。

〈風吹さんならでは、というものは全部消してもらいました。(略)すごく抑えてもらいました。風吹ジュンさんはいりません、みたいなキツい言葉を言ったらしいですよ(笑)。じゃあなんで私なの、って思いますよね。だから、ちょっと歩き方から変えてもらったり。〉と、いつも通りの演技指導で臨んだ本作は、ご飯の炊き方から靴の脱ぎかたといった小さな演出の部分の累積で勝負してゆく。人物のない画を極力避けてきたこれまでの作品と異なり、風景や花のアップといった非人間が対象となったショットも頻出する。

では、それらの狙いはどこまで達成できたのか、そうして何を描き得たのかという問題になりますが、先に感想を結論的に言えば、その達成は、結実度合いは疑問の残る、微妙なところだった、と感じています。

(以下、『魂萌え!』(2)につづく

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genre : 映画

映画『どろろ』

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『どろろ』

(2007年、日本、138分)

監督:塩田明彦
原作:手塚治虫
アクション監督:チン・シウトン
脚本:NAKA雅MURA、塩田明彦
出演:妻夫木聡、柴咲コウ、瑛太、杉本哲太、麻生久美子、土屋アンナ、劇団ひとり、原田美枝子、原田芳雄、中井貴一

乱世の武将・醍醐景光は、天下統一を叶えるために、我が子の体を48体の魔物に捧げる契約を交わす。生まれながらにして体の48箇所を奪われてしまった百鬼丸は、魔物を倒し己の体を一部ずつ取り戻す戦いのうちに、天涯孤独の野盗・どろろに出逢い、旅をともにすることに‥。

1967~69年にかけて執筆連載された手塚治虫の『どろろ』を、塩田明彦監督の演出により映画化したもの。話題をよんだ福井3部作でさえ製作費は各15億前後だったのが、『どろろ』ではなんと20億。ニュージーランドロケということはあったにせよ、塩田明彦にそれだけの大作を預けることにまずはビビる。

このところ日本映画界で隆盛を誇るムーブメントの担い手といえば、大阪芸大一派と映画美学校一派、ということになるでしょうが、その映画美学校一派の源流というか親玉は蓮實〈映画表現論〉の影響下にある立教大学一派(正確には、大和屋竺の影響下にある人々もカブる)。その立教一派の面々の勢いが、このところすごい。年の瀬には万田邦敏が異形の映画『ありがとう』を世に問うたかとおもえば、年があけると周防正行11年ぶりの新作『それでもボクはやってない』が公開され注目をあつめた。そして“現・世界のクロサワ”黒沢清の最新作『叫』もまもなく登場する。屁理屈みたいな映画を年がら年中発表している青山真治も、『サッド・ヴァケイション』が公開を控えています。

インテリしかターゲットにならない青山真治の映画はともかくとして、ひろく一般の人々にむけて娯楽の方向へ努力している万田・黒沢・周防のさまざまな苦難をよそに、現在『どろろ』が公開中の塩田明彦監督は、立教大学一派のなかにあって、例外的に興行的にも批評的にも幸福な地位を築いてきました。
デビュー作は『どこまでもいこう』『月光の囁き』(99)の二本同時公開という華々しいスタートをきり、その初日の劇場は観客で埋め尽くされ、批評的にも大変好評に迎えられた。代表作『害虫』(02)あたりまではどちらかというとシネフィル的な、いかにも立教らしい作家的立ち位置にいると思われたものが2003年、突如大バジェット『黄泉がえり』が大ヒットを記録、『この胸いっぱいの愛を』(05)に連なる大衆的ヒット狙いの作品も担わされはじめる一方、社会的問題作『カナリア』(05)では狙い通り賛否両論をよんだ。(順風満帆の代表選手のように思われていた周防正行でさえ『シコふんじゃった。』によって認知されるまでに10年のキャリアを要したし、絶頂期のあと11年の沈黙を余儀なくされた。)

『どろろ』がお仕着せの仕事ではなく、塩田明彦自ら念願していた企画だということから、『どこまでもいこう』から『害虫』『カナリア』と連なる批評的成功をおさめた作家主義的路線と、『黄泉がえり』『この胸いっぱいの愛を』の大きいバジェットで出来は無惨なオモテの路線、両方の中間に位置する作品としてみえ、出来不出来の落差がはげしい塩田作品の傾向から類推するに、出入りあって結果60点くらいのものに落ち着くんじゃないかという漠然とした消極的な期待感をもって、観賞に臨みましたが‥。

観了したあとに抱いた、このどんよりした気分はなんでしょうか。怒りも喜びもない、中途半端な気持ちは、たとえば万田邦敏『ありがとう』の異様な感触が気色悪いモヤモヤ感を生じさせるのとはすこし異なっていて、それとはすこし違う場所で発生しているかんじがする。

ノレたかノレなかったかで言えば、ノレなかったということになるんでしょうが、それでオシマイにしたいという気分にもならない。序盤、回想シーンと説明的場面と見せ場(アクション)が断続的に団子状に順繰りに展開される、そのリズムというか構成の、相互パート間のエモーションが繋がらないことにまず躓く。フィクション内のリアルすら指向しない統一感のないモンスター造形や、夢幻的傾向のつよいチン・シウトンのアクション設計も、それが総体に及ぼす狙いが今ひとつ見えなくて、躓かずにはいられない。

塩田明彦の商業映画監督としての出発点となる『どこまでもいこう』では(同日公開のデビュー作、『月光の囁き』のほうがじつは撮影順は先だが)、細部の累積が全体を見事に構成しているようにみえ、そこに素直な幸福感があった(その緻密なモザイクが織りなし、やがて控えめな光の乱反射が照らし出すのは、荒涼とした団地世界に生きる少年の〈孤独〉)のが、フィルモグラフィを重ねるにつれ次第に、部分の集積による全体像の形成、という作業に塩田明彦は懐疑を抱いていることが露わになってきた。
個々のカット、そのカットごとに宿る感情や空気が、別のカット(次のカット、や、あるいは呼応しあう要素を附加された親類のようなカットへ)に慣性的に流れるように移行してゆくことに塩田明彦は異を唱える。一本の映画のなかには人生のように、悲しいこともあり楽しいこともあり、冗談を言わなそうなひとがふと冗談を口にすることもあるはずだ。ある悲惨な事件が出立しても、その悲しいなかにも別の要素が常にもぐり込もうとしてくる。このカットに在る一瞬の(現在進行形の)感情が、次のカットにも移行し、そして全体を染め上げる(=それが“主題”となる)ことこそウソではないのか。思えば、楽しい遊びやイタズラ、冒険や走り回ること、異性の少女への淡い恋情などの諸要素が織りかさねられ、いざ出来上がった織物『どこまでもいこう』の中心にあらわれたのは、少年の深いふかい孤独と絶望だった。幸福なパーツの組み合わせが結果幸福を形成しないという皮肉な事実の現前。色素のうすい空に響く乾いた音は、哀しみも愉悦もともにあらわしていたのだった。

カットとカットの間の断続性の強調を推し進めたすえに到達したのが、代表作『害虫』で、そこでの〈断続性〉は、(宮崎あおい演じる)〈少女〉の心理の不可視性を、反心理的な突発性を、その存在感のみに依存して描くのに大変適していた。非説明的に、一瞬一瞬の宮崎あおいの動きや感情がカット毎にブレて、その描写の間欠ぶりが、息せききった〈青春映画〉〈少女映画〉と相性よく合致したのだと思います。しかし‥、ここでは分析的なことはしませんが、『害虫』においては、非説明的であることと、映画の物語を進行させることの相関戦略が甘くて、“映画的”な要素/雰囲気で画面を構成することと、作者側に都合よく話を進展させるご都合主義とで、なんとなく安易に乗りきった感があった。

『黄泉がえり』『この胸いっぱいの愛を』では、感動させるような要素が山積みなのにちっとも盛り上がらないのは、塩田明彦の作家的姿勢が、各カット間、各要素間、各挿話間を有機的に結びつけ全体化して、ひとつのエモーションを結晶化し現出させるというセオリーから、遠く隔たっていることが原因だと思われます。(しかし、コレらで感動したひともいたようなので挨拶に困りますが‥。そういう人々は、“映画”をみずに、“物語”を勝手に自分のほうに引き寄せて我が身と照らし合わせて想像し、勝手に感動しているのだとしか思えない‥。)

そして『カナリア』では各シーン、各カットの断絶はより増して、カット毎、シーン毎にエモーションはギリギリいうほど充填され、しかもそれぞれのカットや出来事は独立して無理に全体化を促されたりしない。登場人物の誰もが〈世界〉の全体像を把握できぬまま必死に生きる。さまざまな感情の暴発や感情の抑制、肉体を突発的に動かしたくなる焦燥が一瞬一瞬噴出し、そして断続する必然が、このうえない孤独の哀しみをあらわした。傑作だとおもった。

さて、このような経緯を経てたどり着いた『どろろ』では、各カットや要素の断絶するさまは、また新たな様相を呈する。『どろろ』では(あるいは、塩田映画では)いろいろな要素が同じ方向なりひとつの感情なりを指向せずに観客を躓かせることになるとこの文の前半で言いましたが、ここでは更に、外来的な非・結合要素が多々導入される。20億の製作費も海外ロケ、あまりにビッグな手塚治虫という原作者と原作、カルト作連発の曲者・NAKA雅MURAのシナリオ、直接コントロール出来ないVFXやチン・シウトンの珍妙なアクション演出‥。ほとんどは自らの要望で招き寄せたこととはいえ、100パーセントを制御しきれるわけもないそれら外的要因を召喚し、それぞれのパーツなりパートなりを一点の主題にむけて集約させるわけではなく、その描写を、さまざまに微妙にアサッテの方向を指向させる。これまでは内的要請により、各細部を全体化させないように結合の脱臼作業をおこなっていたものが、ここへきてその役割を〈他者〉に投げたかんじ。完全な制御はできず、完全な理解/融合はありえぬ〈他者〉の、絶対的な外部性を塩田明彦は欲したのではないかと思う。作家性という名の己が指向性に甘んじる慣性的堕落、知らぬまにルーティンに陥り気づかぬ危険、自分の映画がだんだん脳軟化症的に刺激も感性も失ってゆくのを畏れての〈他者〉導入措置ではないのか‥。

これまで〈他者〉がその映画に導入されていなかったかというわけではないにしろ、ここでははっきり意識的に、制御できない余地の残る方式での映画づくりを楽しみはじめたんだとおもう。そうすると、観客も、一瞬一瞬だけ見つめ、映画トータルの総体図など気にもとめずに、手ぶらでその映画に接していかなければならないのでしょう。着ぐるみみたいな怪獣が出たかと思えばCG臭まるだしのモンスターが現れるのをみて、世界観がメチャクチャだとかツッコんだところで何も生まれないのだ。

そして塩田明彦が『どろろ』という題材に固執した理由が以上のようなことから導き出される。断片/部分が全体/世界を構成するのだという常識を覆す、断片/部分は断片/部分のままであって総体を指向しないという世界観が塩田明彦の映画観にフィットしたのだ。盲目的に信じられている、ひとつの人格にひとつの肉体という〈結合性〉を疑うかのように、百鬼丸の体は〈結合〉を解き相互に〈断絶〉し、〈無法則/無方向〉的に散逸し、世界を断片化する。〈パーツ〉間の結合が生の基盤にあるはずだという常識がここでは疑われているし、その結合を追い求める百鬼丸の旅は〈荒唐無稽〉なものとなる。

そして更に結合の解体は加速する。

ひとつの人間/人格をあらわす言葉だったはずの“百鬼丸”“どろろ”という二つの言葉は同一性の楔を解き、妻夫木聡と柴咲コウの二つの人間/人格に分化される。そしてまた、分化の分化の末に存在する柴咲コウ=どろろに付与された性別も、〈男/女/性的未分化の子供〉と分割されかつその身体に偏在するという、部分→全体化の解体という塩田明彦的主題を一身に体現した。その意味で、柴咲版どろろ、というムチャな役に思いきり良く生命を吹き込んだ柴咲コウに、映画全体が救われていたと思う。

theme : どろろ
genre : 映画

『ドリフト』

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『ドリフト』

(2006年、日本、79分)

監督:神野太
出演:柏原収史、小橋賢児、遠藤雄弥、小松彩夏、長澤奈央、小阪由佳

CGなしの公道カーアクション。朽ちた廃墟のようになった車のカットからはじまる。廃墟は妻子を事故でなくした柏原収史の現在をあらわし、峠での走りは妻子の復讐の手段でありまた自己再生の運動ともなる。

肝心のカーアクションさえ不発。運転席のカットと走行する車のアクションのカットバック、という根本的な描写の遊離の問題に対して戦略がなく、だいじな事はセリフで解説するだけ、結果、インチキくさい。だいたい、妻子の復讐のために、プロボクサーが無敵の走り屋になるって物語からしてインチキくさすぎる‥。

柏原収史の坊ちゃんぽさや、小橋賢児の駄菓子くさい(30円くらい)貧乏たらしさでは、重い(?)物語を背負いきれない。柏原収史、最近出ずっぱりだが、どす黒いモノ漂う『カミュなんて知らない』でも、なんだか存在感が妙に楽天的で軽い。それが映画にとって良かったのか悪かったのか‥。小阪由佳や長澤奈央はアイドルのゲスト出演という域を出ないが、柏原の義妹を演じるグラビアアイドル小松彩夏(『僕は妹に恋をする』『マスター・オブ・サンダー 決戦!!封魔龍虎伝』『恋文日和』)は、大きく伏し目がちの瞳が哀しみを常在させていて秀逸、リアリティのない役柄に存在感を与えたと思う。フルモーション諸作のヒロイン(のはら歩とか)を思わせる透明な儚さがあり、背伸び感のある幼い発声が可愛い、そして重力にとらわれないひらりと軽い身体がまた儚い。(しかし、このキャラクターが、「ドラテク」とか言わないと思います、バカバカしい。まあ、言わせたいんでしょうけど‥。)

(続編『ドリフト2』あり、柏原、小橋、小松は引き続き登場。)

theme : 日本映画
genre : 映画

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