スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

映画『接吻』

せぷうう


『接吻』
(2006年、日本、108分)

監督:万田邦敏
脚本:万田邦敏、万田珠実
プロデューサー:仙頭武則
ラインプロデューサー:佐藤公美
音楽:長島寛幸
撮影:渡部眞
録音:臼井勝
美術:清水剛
照明:和田雄二
出演:小池栄子、豊川悦司、仲村トオル、篠田三郎

孤独な日々に過ごすOLの遠藤京子(小池栄子)はある日、テレビに映し出された坂口秋生(豊川悦司)の笑顔に釘付けになる。一家惨殺事件の犯人として、坂口が警察に逮捕される瞬間の笑顔だった。この人は自分と同じ人間だ。そう確信した京子は、取り憑かれたように坂口に関する資料を収集し、裁判の傍聴に通い始める‥。

1.

この妙な映画について、何を言ったらいいんでしょうか‥。言うことがたくさんある気もするし、何もない気もする。とりあえず、たいしたプランもなくアタマからこの映画について触れだしてみて、この映画が突然ブツリと終幕を迎えるのをマネて、無造作に終わってみたいと思います。

2.

この映画を制作した会社はランブルフィッシュであると告げる、これ見よがしで騒々しく忌々しい、カンに障るアニメーションが鎮まったあと、素っ気なく『接吻』本編がはじまる。急な石段をのぼってゆく男の後ろ姿が、アメリカンビスタの横長の、しまらない微妙な画面上にペッタリと扁平に張りつき、ゆっくりと動いてゆく。男の尻ポケットからは、金槌の柄らしき棒状の物体が飛びだしている。石段をのぼりきると男/豊川悦司は、はっきりしない天候の空の下、何の変哲もない風貌の閑静な住宅街を一歩一歩あるいてゆく。

男の“歩み”の、夢魔的な感覚に、“8ミリ感”がある。(万田邦敏が8ミリ時代に、数々の名作を残したという事実からの連想などでなく、ただ、)豊川悦司の、夢のなかのような水のなかのような、息苦しい微妙な“歩み”に、8ミリ感、夢魔的な感覚を、感じたのでした。自主制作8ミリ的な撮影/映写/観賞体験における登場人物の立ち振る舞いには、通常の商業映画とはちがう、ただそれだけ、という即物感がある。歩くこと/振りかえること/見つめることといった〈身振り〉のひとつひとつ、いちいちが、唯物論的でありつつ、かつ、意味で重く撓む。〈歩くこと〉が、〈歩くこと〉というアクションであることを強調され、同時に〈歩くこと〉が前後のカットとの繋がりのなかで意味をもって存在することが常に意識化される。人物の動作の無意味と有意味とが、同時にその存在にまとわりつき、その動きに不可思議な夢魔性を付与する。豊川悦司の歩みは、そのように複数のコノテーションをはらむように感じさせながら、そのじつ、端的で、唯物論的なモノとしてしか、そこには、ない。
そのようなある種の矛盾を孕んだあり方は、『接吻』という映画の魅惑とそして語りづらさをあらわしているようにも感じられます。豊川悦司や小池栄子の人物ありようは、他者性を徹底した描写ゆえのものであって、上記のような感触も、他者性が表象としてあらわれたものだと簡単に言えるのかもしれませんが、それだけで説明がつかなそうなところが『接吻』には確かにあって、『接吻』が『Unloved』と異なる種類の困惑を観客に与える要因でもありましょう。

3.

その、幾分不気味で不穏な“かんじ”を、8ミリ感だとか夢魔的だとかとりあえずここでは呼んだのでしたが、その“かんじ”は『接吻』にも『Unloved』にもあった。しかし、ショットとショットが連なり、(その間にある動作や言葉の)無意味と有意味が厳密に連鎖し一本の映画として結晶してゆく、その(シネフィル的な意味での)“シネマ感”が『Unloved』にはあり、そこには新鮮な驚愕とともにある種の既視感と安心があり、「ショットの厳密さ」がどうの「映画的」がどうとか言っていれば済みそうな落としどころが無くもなかったと、今にしておもう。
『Unloved』では、その不穏さの/映画的魅惑の/張りつめた語りの、起因するモノとしてそういった要素(ショットの厳密さ等)を意匠→効果→演出として私達は納得しえていたのかもしれませんが、『接吻』における、語りの透明さや、構図の厳密でなさ等からは、もはや“凄さ”や夢魔感の根源を演出や画面設計に安易に求めることの危うさを示しているように思えてくる。純粋な階級闘争の物語として硬質な強度を誇った『Unloved』の感触があくまで作家的なものに起因するものとして感じられたのに対し、ごく普通の演出に思われる『接吻』でのそれは、結局京子/小池栄子や坂口/豊川悦司の人間個体そのものに起因しているように感じられます。

『Unloved』という映画は、独自の感性と思考を生きる、共感することの限りなく困難なひとりの女性がおのれの“愛のかたち”を貫き通すさまを異様なテンションで描いた映画だと、ひとまず表現することも出来るとおもいます。
ここで言う「異様なテンション」とは、例えば『トレインスポッティング』だとか、三池崇史のある種の映画とか、いかにもで予定調和な“カウンターカルチャー然”とした映画に付随する(気持ちのよい)「異様なテンション」ではなく、われわれ観客の様々な快楽原則に寄り添わぬ「異様さ」であって、映画を観ようというわれわれ観客の動機や気持ちに奉仕しない、よく分からないが不可視の存在意義ノヨウナモノが、私たちの見えないどこかで蠢いているようなのだった。そのようにして、何か私たちのあずかり知らぬ原理で進行してゆくと思しき『Unloved』においては、「他者性」としての「人間・関係」が描かれるとともに「他者性」そのものとしての「映画」が顕れてくる。露骨な三角関係、図式的な貧富の格差、合致せぬ人生観をもつ他者との相容れぬ闘争が非・融合、反・和解的に繰り広げられ、そこで飛び交う「言葉」は言外の意味を含んだりしない非・ニュアンス的な言葉として、硬質な物体として唯物論的なブラウン運動を繰り広げていた。その運動体そのものとしてあった『Unloved』の魅惑に比べて、『接吻』のそれは慎ましやかな物語映画の顔
をしているように見えますし、前より上手くなったんだか下手になったんだかよく分からないのも『接吻』の面白さのひとつですが、「他者性」の導入の水準が変化した結果、息遣い荒くそして静かに進行する『接吻』には、活劇の匂いがより強く漂う。ゴダール的活劇からイーストウッド的活劇へ、と言えば口当たりはいいけど、果たしてどうか(透明であろうとする意志有り)。ただ、「アート系映画」的な安心感から、普通の映画、としての不穏さに一歩踏み出したかんじはじつにあって、『接吻』のラストのあっけらかんとした切れ味には、通俗の良さが確かにあった。

編集やら映像処理やら構図などに宿った意志が前景にせり出してくるようだった『Unloved』にあった「他者性」は、それこそ用意されて差し出された「他者性」として、我々は内輪の言葉のようにツーカーで授受し、自閉していっただけなのかも知れません。
それらが後退していったとき、『接吻』にあったのは万田夫妻の自我の顕現でもシネフィルへの目配せでもなく、ただ、瞳を見開き、じっとどこかを見つめる小池栄子の存在の、圧倒的な豊かさ。声の響き。その佇まい。ピンとあがった眉尻から凛とした孤高な気配が立ちのぼり、その、何ということもない身振り、言葉のひとつひとつが、かけがえのない、この世にひとつしかないモノやコトとして一瞬一瞬に小さく眩しくきらめき、消えてゆく。その束の間のまどろみの、胸を締め付けられるような切なさは、至福と絶望を同時に体感させますが、そのようなことは、京子/小池栄子にとっては、預かり知らぬどうでもいいこと。彼女はただそこに存在し、ある決断を不断にくだしつづけ、その連鎖が彼女の生き様となって立ち現れてくる。観客はそれを息をのんで見つめ、見守りつづけるだけ。彼女が波及させる行動や言動の印象から純粋な愛を感じようと恐怖を感じようと、それは硬直したカテゴライズに逃げたい観る側の怠惰な精神の動きに過ぎなくて、彼女は死刑囚・坂口/豊川悦司との、名付けがたい関係をただ淡々と、それこそ、生きるように、生きている。
この映画内では、京子ー坂口ー長谷川(仲村トオル)の関係をめぐる多くの言葉が費やされてゆきますが、それでもその関係は定義されて安定した構図に定着してゆかない。言葉に深読みすべき深遠などなくただ言葉は言葉として硬質に存在しているように、その言葉によって人間たちもその存在を定義されたり解釈解読されたりせず、ただそこにそのように在るモノとして関係という不定形の流動体が浮遊している。他者としての〈言葉〉、にとっても他者性としてある〈コト/モノ〉、にとって他者としてある〈関係〉。すべては解読不能で、唐突で、必然。そこには気負いも装飾もなくて、ただ不意打ちとして観客を襲う。

スポンサーサイト

theme : 日本映画
genre : 映画

映画『ステップ・アップ』

stepapums.jpg


『ステップ・アップ』

(2006年、アメリカ、100分)

監督・振付:アン・フレッチャー
原案・脚本:デュエン・アドラー
出演:チャニング・テイタム、ジェナ・ディーワン、マリオ・ドリュー・シドラ、レイチェル・グリフィス

貧民街に生まれ育ったタイラーは、ある事件のせいで有名な芸術学校で奉仕活動をすることになる。そこで出逢ったバレエ・ダンサーのノーラは、大切な発表会を控えてパートナーが戦線離脱するという緊急事態に陥っていた。彼女の要求する高いレベルの踊りに対処できるのはタイラーだけだった‥。

エイベックスが日本配給に関わった『ステップ・アップ』(共同配給は松竹)は、全米興行収入6500万ドル超で、宣伝によると全米ダンス映画史上5位の興収を記録した(ダンス映画って分類がアイマイで胡散臭いが‥)そうで、“今の時代”のダンスを息吹きを伝える、オシャレ度と娯楽性の高い映画を期待させます。『チアーズ!』ほか、膨大な映画の振付をしてきたキャリアを誇るアン・フレッチャー、これが監督としてのデビュー作となります。
近年、『セイブ・ザ・ラスト・ダンス』『ダンス・レボリューション』など、若者をターゲットにしたダンスを題材にとった映画がコンスタントに制作され、需要も少しずつ高まってくるところへ、クラシックバレエとストリートダンスの出会いという、ありがちかつ新機軸な切り口でスマッシュヒットをとばした本作で、新鋭俳優としての主演ふたりのステップアップにも成功した模様(ダジャレの意図無し)。

作品全体の出来不出来といったものとは関係なしに、音楽が流れて登場人物が踊り出すと、それだけでもう無条件に楽しく、ワクワクさせるものがあります。中盤のクラブでの大勢によるダンスバトル、クライマックスの、バレエとストリート・ダンス、バックボーンの違うふたりのそれぞれの特性を生かし融合させたステージなどは盛り上がり、なかなか楽しくみることができました。

しかし、なんだかアッサリした感動しか残らないのは、道具立てがイージーで、その設定をサラッと撫でれば描写は事足りる、という制作者の姿勢によるものでしょうか。〈バレエ(伝統的)/ストリート(現在的)〉、〈金持ち/貧乏〉、〈将来を約束されたレール/将来の見通しのたたなさ〉等々という図式的な対比を二人に割り振って、乗り越える(分かり合える)ためのドラマの装置としているのが、幾分古めかしく感じられます。
金持ちのクラシック娘は、実は親にちゃんと愛されていない冷たい家庭に暮らす。貧民街に住むタイラーの親友は黒人で、バスケと悪事の刹那的人生を送ってる、等。そういった、パターン通りの設定をザッとみせるだけでは描写とはいえないし、今ここに生きているというような、たったひとつの人格/魂という唯一性が薄い――つまりキャラクターの設定も描写も薄っぺらく書き割りじみているから、事件が起きてもダンドリで物語が進行したようにしか感じられなくて、もうひとつ胸に迫ってこない。親友の弟がささいな行き違いから面白半分に手を染めた犯罪により殺されるのも、不可避な悲劇にはどうもみえない“ユルい必然さ”で、殺すことはなくても死んだら話が進むから殺したという気配がなくもない。
そういった登場人物に対する傲慢が、例えば復帰してくるノーラのパートナーの、掃いて捨てるような扱いに出ているとおもいます。

唯一、違っていたのが、タイラーとその幼い妹との関係。微妙な距離感とお互いへの微妙な愛情が滲んでくるようで、このふたりだけにしかない唯一性の親密さがあった。小さな庭で遊ぶシーンや、妹がお兄ちゃんに大きなグラスでオレンジジュースを持ってきてあげる場面などは、きらきらと息づいて感じられました。

ストリートなイケメンを演じる『コーチ・カーター』チャニング・テイタムは、顔や髪型や体つきが『プリズン・ブレイク』に出てくる死刑確定したお兄さんにみえて、その彼がカッコ良く踊ったりするのが可笑しく感じられてしまう。前半の練習で“クラシックバレエ式に苦労してる”場面は、(後半上手くなってみえるために)ワザと手を抜いて踊っているようにしか見えませんでした。

山の手バレエダンサーのノーラを演じるジェナ・ディーワンはバックダンサーをPVやライブで数多くこなしてきた本格的なダンサーで、『ステップ・アップ』で映画初主演、公開待機作にあの『THE JUON2』を控える。『呪怨』ハリウッド版の一作目の主演がサラ・ミシェル・ゲラーだったことを考えると、大きな瞳と豊かな胸、なんとなく共通するものがあって、なるほどねえと感心する。

エンドロール後、〈オンライン・ダンス・コンテスト〉と称して、倖田來未『BUT』にのせて、どうやって選ばれたのかは知らない最終選考に残ったらしき6人のチンチクリンが延々と踊る。そうして延々と『BUT』が流れつづけ、『ステップ・アップ』で流れていたいくつもの楽曲の余韻も記憶も流し去った。エントリーナンバー5番の男子が飛びぬけてリズム感がなかったことだけが、印象に残りました。

そのうちの誰が良かったかを、出口にある投票用紙に書いてくれと画面上では言ってたんですが、表に出ても何も置いてない。松竹は何やってんだ‥。

theme : 洋画
genre : 映画

映画『叫〈さけび〉』② 記憶の二重化――黒沢清映画の世界像

326311_01_L.jpg

(『叫〈さけび〉』①(→コチラ)からのつづき)

『叫〈さけび〉』②

(記憶の二重化――黒沢清映画の世界像)

映画『叫〈さけび〉』では、複数の登場人物が「全部なしにしたい」、「全部なかったことにしたかった」とつぶやき、凶行に及びます。文明の進歩や人生の成りゆきに、「なしにしたい」と切り捨て忘れ去ってきた、大切だったり好きだったりした物や事や者が、少しずつ澱のように(世界の底に)沈殿し、いつしか怨念の噴出として復讐を行うという構造。その構造を黒沢清は“怪談”とよび、それを現代の、刑事物/ミステリの形式に落とし込んだのがこの『叫〈さけび〉』ということになります。
世界の復讐を担う存在である葉月里緒菜は、宮崎アニメあたりであればキャラ付けされて文明批判を滔々と述べる存在に仕立て上げられるところでしょうが、ここでの葉月里緒菜は、叫び声をあげ、忘却されることの悲しみを表すだけ。人格を削ぎ落とされた〈かなしみ〉の権化として、高度成長社会の発展によって忘却された土地の表情とともに、個々人の呻きも掬いあげます。

この映画のなかで、「なかったこと」にせんと個人が個人を殺すことは、社会や時代の問題として処理されてはいない。犯人たちは、それぞれのごくプライベートな動機と衝動によって事をなす。その淡々かつ陰鬱な犯罪の様相に、時代があわられているという言い方も出来るでしょうが、ここではそれを殊更に現代社会の病理として示してはいない。公と私という、遊離した要素は無理に統合されずに、“罪を忘却する”ということそのものに亡霊が復讐するという、システマティックな特性が霊的存在に与えられています。映画の発端としては個人的な殺人が問題とされ、調査を進めるうちに、〈世界〉を〈忘却〉することへの復讐、が接ぎ穂されるのですが、“個人の死が序章に過ぎず、社会の死が本質的な問題としてクローズアップされてゆく”とスケールアップしていくわけでは必ずしもなくて、終幕に至っても変わらずある個人にとって近しい者の死は世界の崩壊と優劣をつけえぬ痛みとしてある。

さて、たまたま最近読んだ〈戦後のサブカルチャーの流れから、時代ごとの「意味論」と、その変遷過程を明らかにする〉書として書かれた『増補 サブカルチャー神話解体』(宮台真司・石原英樹・大塚明子、ちくま文庫版)に、以下のような記述があるのを目にしました。

73年以前は、〈〈若者〉の概念は、〈大人〉や世間との差異によってはじめて意味をもつものだった。こうした互いに相補的なコードが、実は〈大人〉にも〈若者〉にも共有されていた。〉〈どちらの側も、相手側を「敵」と見なすことで「連帯する内部」を構築でき〉ていた。だが〈大学紛争の敗北を最初のきっかけとし、(略)[〈大人〉/〈若者〉]という相補的な共通コードが崩壊し、「連帯する内部」が消滅した。「シラケの時代」の到来だ。代わりに〈我々〉としての自己ではなく、唯一性としての〈私〉が浮上してきた。(略)
変化の最初の表れは、意外にも恐怖コミックに見出された。新興住宅地の開発のかげで忘れられた共同体の記憶(白蛇!)が、失われた個人の記憶(前世!ポルターガイスト!)に置き換えられたのだ。〉〉

55年に生まれ、まさに70年代の転換期を青春時代とした黒沢清は、上記の引用文に従えば、相補的なコードであった〈大人〉/〈若者〉という二元論が崩壊せんとする微妙な過渡期に若者として人格を形成するという錯綜した体験をした、ということになると思います。結果、黒沢清のパーソナリティのなかには相容れないふたつの世代の要素が混在し、創作に反映されることになった。と仮定してみます。

〈大人〉への対立項としての立脚点を反・〈大人〉=〈若者〉に置くことが、黒沢清の創作のとりあえずのスタンスではあった。①で触れた、『ユリイカ』での黒沢×万田対談はまさに〈私は絶対に成熟しない〉と題されていましたし(このタイトルはのちシネマヴェーラ渋谷での黒沢清大特集上映のタイトルに転用)、このコード内での闘いが、作家としての原動力であったことも明かされています。

〈意地になってる。絶対に成熟しないぞ、と。(略)自分のテーマやスタイルを確立して、巨匠への道を歩んでもいい年齢なんだろうけど、なんでかはわかりませんけど、それだけはいやだという思いがあって、子どもじみたことをいつまでもやっていたい(略)上の世代への感情的なレベルでの反感っていうのが基本にありますね。僕らの上の世代の誰かが作ってきた、大人ってこうよねという像にはまるのが絶対にいやだという。〉

この発言をみるかぎり、権威的な〈大人〉の対立項である〈若者〉として表現の牙を研ぐ黒沢清は、73年以前の、典型的な、相補的なコードの補完者に見えます。じっさい、彼が映画で扱う題材には、73年以前の風土にふさわしい〈新興住宅地の開発のかげで忘れられた共同体の記憶(白蛇!)〉(以下、白蛇的記憶)が数多く見受けられます。『カリスマ』の〈世界の法則〉を司る巨木、企画の段階で終わった『水虎』、テレビ版『学校の怪談』シリーズでの伝承的綺談に勿論『叫』での地霊まで‥。それだけであったなら〈過去〉や〈物語〉や〈対立項〉に固執する典型的な世代にみえる黒沢清の存在や作品を、どこか複雑化していて、尽きせぬ豊かなものとしているのは、その要素とは必ずしも合致しない〈具体性〉〈生々しさ〉〈私的〉である部分だ。(権威的な価値観には反発しつつも、解読を拒む具体的生々しさを帯びた黒沢映画は、共同体の無意識を表象するような抽象的共感からは逸脱し、世間的拡散という成功のレールから逸れ続ける。)

黒沢映画における、〈具体的〉な〈生々しさ〉をもつ〈私的〉な手触りは、73年以前的なものとの断絶、〈「連帯する内部」の消滅〉(白蛇的記憶の消失)と密接に関わりがあるようにも見えます。恐怖コミックの分野において恐怖客体が〈失われた個人の記憶(前世!ポルターガイスト!)〉(以下、前世的記憶)の段階に以降したように、〈大人〉/〈若者〉コード内で闘いつつも、コード体系そのものに馴染めない自己も黒沢清は敏感にかんじとる。

〈客観的な視点を持っているのが大人びていてよろしく、自分の妄想や知っている世界だけでやっているのが子どもじみていてよろしくないと普通言うけど、「本当にそうか?」というところでやってるつもり。区別がない、とは言い切れないんだけど、そういう大人・子どもの区別はやめたいと思ってる。〉

黒沢ホラーの商業的出発点であった『スウィートホーム』の原型となったシナリオは『心霊』なる題名で、その〈一番の狙いはダブルで幽霊を出すこと〉で、〈主人公のお父さんは、もとからいる幽霊と、(略)死んだ奥さんの亡霊の挟み打ちに遭〉うという、いわば〈白蛇的記憶〉と〈前世的記憶〉という異なるベクトルの恐怖客体が同一作品内に共存/偏在するという、驚くべき構造をもっていた。

最新作『叫』に存在する、よくみると歪に不均衡な姿で居心地悪げにある〈世界の記憶〉の恐怖と〈個人の記憶〉の恐怖は、シナリオ『心霊』と同様に、黒沢清の分裂し錯綜した作家性を示しているとおもう。73年以前と73年以後を同時に生きることは、〈ゴダール以後〉の代表的映画作家でもある黒沢清が透明なウェルメイドな物語映画を語ろうとしている二重性ともダブる。
「連帯する内部」が消滅した時代になお、〈世界の理/記憶〉(白蛇的記憶)を捏造し、それをあくまで個的な手触りで構築してゆくこと。ゆえに、黒沢清の映画からは、“主題”も“心理”も剥落してゆく。もはや共同幻想では有り得ない、相補的コードとしての〈世界の理〉は、とりあえずでっち上げられたものでしかないのだから、その映画の風景が廃墟そのものであるのは、必然なのでしょう。


theme : 日本映画
genre : 映画

映画『叫〈さけび〉』①

honbun20070223_002_000.jpg

『叫〈さけび〉』

(2006年、日本、104分)

監督・脚本:黒沢清
プロデューサー:一瀬隆重
出演:役所広司、小西真奈美、葉月里緒奈、伊原剛志、オダギリジョー、加瀬亮、平山広行、奥貫薫、中村育二、野村宏伸

刑事・吉岡(役所広司)の周囲で続発する殺人事件。被害者は皆、海水による溺死を遂げていた。そして被害者の周辺には自分の痕跡がかすかに見え隠れする。自分が犯人なのかと揺れる吉岡の前に、この世のものではない謎の赤い服の女(葉月里緒菜)が出現しはじめる‥。

1.

去年『LOFT』(06)公開時には、すでに次回公開待機作としてその名が広く知られていた『叫〈さけび〉』が、ついに公開されました。
前作『LOFT』は、あまりにも〈純・映画〉としての野心的な映画表現が孤高の域に達していて、結果、シネフィルや黒沢マニアにしか開かれていないようにみえる閉じかたで、観客不在の様相を呈していたように思います。いつもどおり、黒沢清監督は娯楽やサービスを心がけたとのたまうが、ホラーとしてもラブストーリーとしても、ストレートに恐怖や感動が観客に与えられたとは思えない。黒沢清擁護派がその恋愛映画ぶりをホメる恋愛映画的部分ですが、『LOFT』を恋愛映画としてスムーズに感動する人がいたとしても、それは幾分アブノーマルな反応で少数派にとどまり、大方の賛同も感動も呼び起こしてはおらず、困惑ばかりが反射されていた。優れた美点も多々有する『LOFT』ですが、相容れない細部のムリヤリな結合ぶりが、フランケンシュタインのように奇妙な継ぎ接ぎだらけの生命体としての不気味さを醸し出し、そのどんより澱んだ感じが映画の表情を決定し、『LOFT』という映画=運動体=生命体は、生きているのか死んでいるのか分からないような脈打ちかたで、描写は時に躍動し、時に空転する。『LOFT』が孕み、そして主題ともする要素
である生/死の中間性は勿論〈ミイラ〉のモチーフと重なるが、そこから派生し生成する要素群が独特すぎて、多くの観客をほんとうに中間性のただなかに宙吊りにしてしまったのは、ある意味狙いどおりだったとも、その様相が魅力だとも言えますが‥。

2.

さて、『LOFT』では泥吐きやミイラの甦りや奇妙な機械の作動ぶりといった細部が、脈絡を欠いた唐突さで一般の観客をおいてきぼりにしていましたが、『叫〈さけび〉』では一応、謎は整合性をもって回収され、娯楽映画としての形を成しています。たしか『ドッペルゲンガー』(03)公開時、対談で万田邦敏が黒沢清に対し、最近の黒沢映画が甘いのは抑圧が足りないんじゃないかと言って、黒沢清は抑圧なんかイラナイ!と突っぱねていたのでしたが、ホラーなり娯楽なりを一応真面目に目指しながらも奇妙なオブジェと化すほど暴走した『LOFT』とは対照的に、Jホラーのドン、一瀬隆重プロデューサーの抑圧下にあった本作はまがりなりにも商品のかたちをとっていて、ホレミロやはり抑圧は必要だったんじゃないかと言う声も聞こえてきそうな一方で、『LOFT』等の孤高を愛するファンからは、『叫〈さけび〉』は中途半端に世間に迎合した生ぬるい作品だと糾弾されかねない映画にもみえかねない面も有しています。

パッとみたところ、『叫〈さけび〉』はこれまでの黒沢映画の集大成的作品にみえます。手口が同一で犯人の異なる連続殺人事件、という筋立てや赤いドレスは『CURE キュア』(97)を思わせますし、幽霊+ミステリーは『降霊』(99)、飛び降りを着地までとらえるシーン等は『回路』(01)、失われた記憶は『ニンゲン合格』(99)ほか、そして登場人物に与えられた、“吉岡”の名。風は幾多の黒沢映画のそこここで吹いては髪を乱し、帽子を押さえさせる。やはり登場する数々の廃墟は、黒沢映画のトレードマークと言ってもいいでしょう。

それらの魅力的な細部が、これまで〈純粋運動機械〉としての〈映画〉を構成する唯物論的な諸要素として、そっけない素振りでひとつの映画作品をつくり上げていました。黒沢清監督は、〈時代〉も〈主題〉も〈知〉も〈感情〉も表象しようとせず、本人がのぞんでいるのかもしれない〈物語〉や〈娯楽〉さえも指向しない、反・意味的な〈運動としての映画〉を量産してきました。しかし『叫〈さけび〉』の一見突拍子もない細部は最終的には物語やサスペンスに奉仕/回収され、各々の部分は全体を指向する。かつてゴダールの『ヌーヴェル・ヴァーグ』について、そこには細部はなく、あるのは全体を構築するシステムだけだ、と論じた黒沢清が、『叫〈さけび〉』をそのような領域へと近づけて構築しようとしたとしても後退とはいえないでしょう。

『打鐘〈ジャン〉 男たちの激情』(94)を黒沢清の最高傑作とする意見に、納得する気持ちもなくはないらしい本人にとって、奇妙な細部の傑出は、マニアは喜ばせても自分の目指すところからしたら至らないだけ、という認識があるのではないでしょうか。90年代初頭、黒沢清の、こう撮りたい、こんなものを作りたいという欲望と衝動がつくりあげてきた映画が、世間の無視と黙殺にながらく晒される一方、周防正行は、無意識的な同時代的感性とは離れた立ち位置から、己の欲望と世間の欲望を一致させるというわざを成し、日本映画界の希望の星と化した。その影になるようにして、低予算プログラムピクチャー的世界に埋没していった黒沢清監督の孤独な姿は美しさを放ち、『地獄の警備員』(92)以降、『復讐』2部作(97)直前の作品群は、個人的にはもっとも愛する黒沢映画でした。
しかし『復讐』以降事態は一変する。『復讐 運命の訪問者』(97)の“誰がみたって大傑作”な佇まいは、黒沢清がついに己の欲望と世間の欲望の一致点をみつけた記念碑であると同時に、不気味な異物として絶望感と非解読性を発散させていた異形の作風に別れをつげる宣言ともとれて、併走し続けてきたファン(自分)には寂しい“幼年期の終わり”だった。かくして、黒沢清は〈世界のクロサワ〉となった。時折登場する異様な作品(『回路』等)に待ってましたと狂喜したりするのは、やはり間違いなんだと『叫〈さけび〉』は告げる。

3.

『回路』で観客の度肝をぬいた、一女性の高所からの飛び降り→地面に激突死、をワンカットで捉えるショットが、今作『叫〈さけび〉』でも繰り返されますが、既にそこにはあの衝撃的カタルシスはなく、中途半端に危険な高さからしょぼくれた中年男が飛び降り、中途半端に着地して死には至らないという、煮え切らない感触が残される。この飛び降りシーン、『回路』では突発的かつ突出し、衝撃と傷をフィルムに残して物語には関与しない、異物としての細部を形成していたのでしたが、『叫〈さけび〉』では鈍い音と擦過傷を世界に刻み、落ちた男はそのまま世界にとどまり、物語に参加し続ける。異様なシーンは異様なシーンのままにとどまらず、結果、異様な全体像を、世界像を形成し、“異様な映画”に結実する。“異様なシーンを含む映画”ではなく全体としての“異様な映画”が形成される営みを過小評価して済ませて、いいものかどうか。物語に奉仕しないことを殊更持ち上げれば済むと思うある種の美学にとらわれることは、何でもかんでも他者性がどうのと言って済ませていたある時期の批評家みたいに怠惰な態度でしょう。

それらが物語に回収されえたとしても尚、役所広司の飲むペットボトル、弁当を入れていたビニールの色、凶器のコードが収められたビニール袋の質感、小西真奈美が帰って玄関に鍵をかけるタイミングといったささいなことから、葉月里緒菜の動くスピードや黒い建物の位置とたたずまいまで、ワクワクするような豊かさに満ちた細部をもつ映画を、図式的な予想や思い込みで切り捨ててはならないと思います。

4.

新宿武蔵野館では上映前、相変わらず石井スポーツ、焼き肉の長春館、の化石みたいなCMが流れていました。新宿のローカル館で映画を観るよろこびの一つは、ご当地CMをみる喜びでもあります。これらに加えてかつては今は亡きサウナ・レインボーなんかのCMがあった。(エル・フラメンコのCMも最近みないな‥。「サウナ、レインボウ~~」の響きは、先ごろ三木聡監督『亀は意外と速く泳ぐ』でふせえりが完コピし、現在に蘇らせてました。)そういう俗っぽい郷愁も、映画観賞のおおきな要素だとおもう。

何が言いたいかというと、映画が地に足ついた俗っぽさを黒沢清が愛しているのに対し、ある種の黒沢ファンなりシネフィルが、修道院的雰囲気の知的磁場のなかで現実から遊離して映画と接するという遊戯に淫していて、両者間には違う方向のベクトルをもつことからくる、不幸なすれ違いがあるのではないかということで(『黒沢清の映画術』の、『CURE キュア』の項参照)、反・通俗の牙城として〈テアトル新宿〉があるとしたら、批評で語られてナンボなところのある青山真治はさしずめ〈テアトル新宿専門監督〉の様相を呈しています。〈ユーロスペース〉や〈シネセゾン渋谷〉の部類ではもちろんないけれども、ジャンクな客層が相手というわけでもないという幾分半端なポジションにある〈新宿武蔵野館〉で、その映画がたびたび上映されている黒沢清は、商業監督としての困難な位置にいることが、その上映館のポジションが示唆的にしめしているとおもう。殆ど最上のハリウッド映画のようだった『ドッペルゲンガー』が新宿武蔵野館で、多くの観客とすれ違ってしまった『LOFT』がテアトル新宿で公開、という事実からは、その立ち位置の困難さと過分な期待と誤解の交錯ぶりが伺えます。

黒沢清の世代は、焼き肉の長春館のCMの場末感と調和し拮抗する、そのような映画を撮る最期の世代だと感じる。それを感じる主体としての自分は、彼や彼らの世代にたいして、映画が通俗であるということが血肉としてあらかじめ魂に備わっている、最期の人類だという憧憬を抱いています。黒沢映画に頻出する廃墟の風景は、滅びゆく“娯楽としての映画”への、遠未来からの挽歌のようにして心に刺さる。あからさまなメタ映画だったりはしないのに、いつも“映画についての映画”にみえてしまう黒沢映画(の、憂鬱さ、黄昏感)。その最新、『叫〈さけび〉』において、〈記憶の忘却〉を主軸として物語が語られているのは、必然にもみえるのでした。

→『叫〈さけび〉』②につづく。

theme : 日本映画
genre : 映画

『それでもボクはやってない』

soreboku_poster.jpg

『それでもボクはやってない』

(2007年、日本、143分)

監督・脚本:周防正行
出演:加瀬亮、役所広司、瀬戸朝香、山本耕史、
もたいまさこ、 田中哲司、 小日向文世、
光石研、尾美としのり、高橋長英、
大森南朋、鈴木蘭々、唯野未歩子

就活中の青年(加瀬亮)は、面接に向かう満員電車で痴漢に間違われ、現行犯逮捕されてしまう。彼は取り調べで一貫して容疑を否認するが、勾留、起訴、裁判と不可避的に“日本の司法制度”の泥沼にはまってゆく‥。


すごかった。2時間23分の上映時間のあいだ、エンドロールが終わりきるまで、緊迫感に固まりつづけみまもりつづけました。おもしろかった。冤罪を主題に、ものすごくストレートに作られ、ものすごくストレートに訴えかける映画で、枝葉に色気を出さないそのブレのない真っ直ぐさは、さすが邦画の4番打者だとおもう。

この映画は、誰かしらの役者の評価をあげるためにあるのでも、周防正行の作家性や手腕を周囲に称揚させるためにあるのでも、ましてやより多くの観客を動員して配給会社なり製作会社なりを潤すためにあるのでもなく、ただただ日本の刑事裁判の実態を嘘なくありのままに描くことを動機として存在しているようにみえる。そのためには、映画としての面白ささえ犠牲にしたと監督自身が語るように、家族愛や異性愛による彩りは余分な脇道だとばかりに排除されるし、いかにもな憎々しい判事像や裁判官像を配して主人公への感情移入をことさら促したりもしない。主人公は裁判であって、加瀬亮ではないのだ。そこでは加瀬亮応援団として映画が主人公に加担したりせず、気持ちよく彼に感情移入してノセてもらいたい観客の欲望に日和ることはない。厳密なリアリズムで裁判を描ききった『それでもボクはやってない』の潔癖さは、素直にすごいとおもいます。

周防正行、じつに11年ぶりの新作で、直球中の直球を投げた。もともと直球派といえば直球派でしたが、それはあくまでも娯楽映画としての直球であって、お金を出した人間(なり会社なり)は、周防正行なら、まず間違いなく観客を楽しませる、満足感を与える映画をつくるはずで、マーケティング力に突出した周防氏の企画なら題材のキャッチーな話題性で大化けする可能性があると考えたでしょう。そこにあるのは、“ハリウッドにも認められた企画力をもつ、娯楽映画職人”としての周防正行監督への信頼感だったと思います。

しかし周防正行は予想された道をゆかず、映画はシリアスな社会派の様相を呈していました。現実としてあることを優先し、たとえ法廷や取調べ室に窓があったりしたほうが映画が面白くなるにしても、「現実はないから」というリアリズムをあくまで優先し、面白かろうと面白くなかろうとそれが真実の姿だから。と本当にあるがままを提示することに徹する。過去作とは明らかに違うこの制作姿勢は、果たして周防正行の変質を物語るものなのでしょうか。

これまでの周防作品でも、ある特殊なルールに従って機能している共同体なり機構なりに投げ込まれたフラットな性質の主人公が、手探りでその世界のルール(ことわり)を触知しながら生きてゆくさまが、繰り返し描かれてきました。『変態家族 兄貴の嫁さん』では、“変態家族”に嫁いできたヨメは、それぞれアブノーマルぎみな性癖をもつ家族に圧倒され右往左往し、その家族の一員になるためにただならぬ苦労を強いられるし、『ファンシィダンス』ではお寺、『シコふんじゃった。』では相撲の世界、『Shall weダンス?』では社交ダンスといった、制作当時は「なんとなくは知ってるけど、ダサいし縁遠そうだし、よくは知らない」微妙にマイナーな世界に主人公を投げ込んだ(『ファンシィダンス』は『ピュアラブ』よりずっと前だし、『Shall weダンス?』はウッチャンナンチャンが番組で社交ダンスをやりだす前だった。『シコふんじゃった。』だけは、企画段階では(相撲は)マイナーだったものが、公開までのあいだに大相撲がブレイクしてしまったため後追いぽくなってしまいましたが‥)。
『それでもボクはやってない』も、まさに「なんとなくは知ってるけど、ダサいし縁遠そうだし、よくは知らない」世界にごく普通の青年がなんとはなしに迷いこみ、その徐々に明らかになってゆく機構のルールに新鮮な反応を示し、やがてそのルール内で生きる道を探ることになる物語で、その意味でこれまでと変わらない〈周防的世界〉だ。

しかしそこで今回、目をひくのが、語り口、ということになる。冒頭の俯瞰のパンから走行中の列車をカメラは捉え、列車内に視点が移動したかとおもうと、ひっきりなしにカメラが揺れ動きながら物語を語ってゆく。
これまでフィックスの固定画面、ローアングルといった小津譲りの文体を駆使し、画面構成をカッチリと行ってきた周防正行の映画とは思えない不均衡で無造作なショットが頻出し、ここのところずっと流行っているドキュメンタリータッチかとも思わせる映画の成りゆきに、誰もが目を疑うでしょう。

インタビューにこたえて周防正行は、〈映画を面白くするための「計算、論理」は考えなかった〉、〈この映画を面白くしようと考えたことは一度もなくて、とにかく現実に僕が見たことを伝えたい〉、〈演出の工夫をしようとかいっさいなく〉、〈ほんとに小技ないです〉と言い放っています。媒体が違ってもそれらの談話で共通して訴えられているのは、制作態度の〈無作為ぶり〉の強調だ。なるほど、だから今まで蓄積してきたテクニックを捨て去り、手ぶらで題材に相対していったのか。と何となく納得しそうになる。しかし、果たしてそうなのか。

阪本順治『魂萌え!』で見せた手ぶらぶり。一見、『それでも~』も同じようにゼロ地点からの“手ぶら”のように見えても、『魂萌え!』での演出が明らかに不器用に弱々しく、庇護欲をそそるくらいだったのに対し、『それでも~』はやけに明朗明確に迷いなく、なによりやたらと力強いのだ。このあまりの違いはなんなんだろうとおもう。

先に結論を言ってしまえば、周防正行はぜんぜん手ぶらでも無作為でもなく、かなり周到に勝算をはじき出してこの映画の撮影に臨んだのだとおもう。ある意味それは『シコふんじゃった。』や『Shall weダンス?』に挑んだときよりも余程自信をもって臨んだ勝ち戦だった。その自信と数倍増しの周到さが表現のものすごい力強さの正体ではないのか。

これだけのブランクのあと、新世紀を迎えて幾年も経過しているところへ、〈ナイスな題材〉+〈スキない上質のコメディ映画〉をもって復活したところで、過去の人の懐メロ的活躍。という扱いで終わる可能性は大きかった。「周防正行?まあ面白いけど、やっぱり古いよね。ワンサイクルまえの映画ってかんじ。今の空気吸ってないというか」とかなんとか。プロモーション的には何かを仕掛けなければクリエーターとしてアトは無い。という危機感が皆無だったとは思えない。

「痴漢冤罪」という題材と出会ったとき、周防監督はそれにみあった表現のスタイルを探りに探ったのだとおもう。そうして出された結論は、テクニカルに流麗に語ることではこの題材は活きず、意匠を前面にみせると“良質で、良心的な社会派映画”にカテゴライズされてオシマイ、という判断で、そうならぬためには、是非とも無技術・無作為の表情を表しつづけなければならないと考えた。その“手ぶら”ぶり、“ゼロ感”が、題材にむかう真摯な姿勢をもっとも表現しうるだろう。取り繕う余裕がないほど、映画か否か面白いか否かなど関係なくとにかく現実を伝えたい、という“切羽詰まった”表現。それが、この題材に最も適していると思われたから、採用した。いわば“無作為”という名の作為。これがフェイクドキュメンタリーだったりしたらお里が知れて分かりやすいのだけれど、聡明な周防監督はあくまでごく普通の劇映画として作品を組織してゆく。作為的な表情を極力覆い隠しながら。

『それでもボクはやってない』は、そうとは見えないが周到な作為の連打で成り立っていると思う。以下、少しだけ例をあげていきたいと思います。

まず映画のおおまかなリズムとして、肝心の法廷場面はフィツクスでじっくりと描き、そしてそれ以外の場面では前述“手ぶら”ふう手法を発動させ、それらが交互に現れることで、まるで快楽原則に則ったかのような絶妙なリズムとコントラストをみせる。手持ちカメラで絶えず揺れ動いている画面の頻出、雑なつなぎに画面レイアウトの不均衡、と乱調相次ぎ、明らかにピントが甘すぎるショットまであって、あれだけ厳格な映画群を構築してきた周防監督が、ワザとでなければOK出すはずがない箇所が満載。(森田芳光『39・刑法第三十九条』の〈乱暴さ〉はわざとらしいと皆気づくのに、『それでも~』はなんだかわざとらしくないのは勿論、わざとらしい/わざとらしくないの境界を周防正行が凡百の映画監督より敏感に感知できるバランス感覚、聡明さを有しているから。)
そして現実には映画で描かれたよりずっとずっと長いはずの裁判も、じつは得意なディゾルヴ(『シコふんじゃった。』冒頭)を用いて、観客が退屈しない長さに切りつめてある。

役所広司瀬戸朝香のいる弁護士事務所が、薄汚い川沿いに位置し、高架線だか高速道路だかがその上を覆い川面にコンクリの建造物が影を落としているという優れた舞台装置も、メタフィジックに意味作用の解読を誘う。

しかし恣意的であることが最もわかりやすいのは、重要な証人・唯野未歩子の扱いだと思います。あの結末、あの判決文を聞いて、それまでの経過を遡って思いかえしたとき、唯野の存在の扱い方が映画を盛り上げるのに効果的なように巧みになされていたことに気づいた。
加瀬亮を救える唯一有利な目撃をした唯野未歩子を、加瀬側は探し出すことが出来ず、裁判は公判を重ねてゆく。(判決がどっちにも転びそうなたゆたう成りゆきも充分エンタメですが、)そこへついに唯野が見つかって、証言台にたつのが第9回公判。第10回公判が検察官の論告・求刑で第11回が弁護士による弁論要旨、第12回は判決なのだから、まさにギリギリに飛び込んできた一発逆転の朗報として観客の前に提示されるのだ。〈映画を面白くするための「計算、論理」は考えなかった〉なら、目撃者を行方不明にして公判の最期に滑り込ませたりせずアッサリとっとと提示すればいいのに、溜めに溜めた。
シナリオを読んで気づいたのですが第9回公判と第10回公判を提示する順序がわざわざ逆になっていて、

⑩(検察官の論告・求刑→ここまで不利でピンチを煽り)
⑨⑪(新証人、弁論で有利に、カタルシスを準備しといて‥)
⑫で一転、一気に観客をどん底に突き落とす。という工夫。

〈演出の工夫をしようとかいっさいな〉かったなど、到底信じらんない。肝心の唯野未歩子の証言内容の絶妙なスキも、判決理由を聞くに及んでその徹底的に緻密な効果のための構成・計算に感嘆したのだった。(思えば、主人公の26歳フリーターという設定も、被害者の法廷でのあまりにいたいけなさまも、本当にジャストな細部として判決とサスペンスにに貢献していました。)

衝動などではない。
冷徹で強靱な意志で、すべてがコントロールされているのだ。その意志が、無作為な衝動というスタイルを観客に納得させるという方向に向かった、これはある種前衛的な映画なのだった。

映画作家ピエル・パオロ・パゾリーニは、古典的な〈散文的映画〉に対して、ゴダール以後の、カメラを意識させる、文体そのものが映画であるような映画を〈詩的映画〉と名付けた。周防正行の仕事は、デビュー作から一貫して、露骨な文体の映画(〈詩的映画〉)でありながら、作り手である〈わたし〉を滅却することで、限りなく〈散文的映画〉に近づこうという、とんでもなく野心的なものだった。周防正行は、何も変わっていなかったのだ、とおもう。

theme : それでもボクはやってない
genre : 映画

映画『三年身籠る』

079vdgrmoru.jpg

『三年身籠る』

(2005年制作/2006年公開、日本、99分)

監督・原作・脚本:唯野未歩子
出演:中島知子、西島秀俊、奥田恵梨華、塩田三省、木内みどり、丹阿弥谷津子

末田冬子、29才。出産を間近にひかえているが母親になる実感がわかないまま日々を暮らしている。夫の徹は冬子以上に親になる自覚がなく愛人と浮気したりと、気ままに親になる猶予期間を生きていた。ところが冬子のお腹は大きくなるばかりで、いつまで経っても産まれてくる気配がない‥。

女優・唯野未歩子が放つ初監督作品(自主制作の短編作品有り)。自主映画女優として出発し、やがて新世紀日本映画の象徴的存在となった彼女は、いわば新世代の室井滋か。と言われても全然嬉しくないでしょうが‥。

一般的には誰それ?という知名度だと思われる唯野未歩子、ネイチャーメイドのマルチビタミンのCM出てた、米粒につのだじろうが目鼻を描いたような顔のひと、と言ってかろうじて通じるかどうか‥。しかし無名だろうとなんだろうと、そのすごさは主演作含む出演作群をみれば一目瞭然、『フレンチドレッシング』、『クルシメさん』、『大いなる幻影』、『ナイン・ソウルズ』、『恋する幼虫』、『透光の樹』、『血と骨』、『いたいふたり』、『犬と歩けば チロリとタムラ』、『それでもボクはやってない』‥。個人的な好悪で一部恣意的に題名を挙げるのを省いた映画もありますが、確かな作家の映画ばかり選んで出演し、しかも映画はその監督の仕事のうちでも最高傑作やそれに準じる作品が数多く含まれている。奇跡のような選球眼というべきか、“日本映画の神”に選ばれし女優なんだと納得するべきか。
とにかくそんな若手の女優さんが監督作品を世に問うたとなれば、その出来とは無関係に、無条件に祝福するべき出来事だとおもいます。

『三年身籠る』という題名からもう物語はぜんたい大体明らかで、女性が三年身ごもる話。そのようなわかりきった話をどのように力点をおいて語り、魅せるのか、あるいはまた、観客からしたらどのような魅力を映画に感知してノることが出来るのか。という、特殊な物語だが賞賛も批判も語り口の工夫に焦点がおかれる、ある種プログラムピクチャーでの評価のされかたに似るとおもう。

さて、データ的根拠もなく、勝手な想像というか印象でものを言いますが、“唯野未歩子”には東京郊外の匂いがあると感じる。

武蔵野台地からはじまって、奥多摩にかけて徐々に標高があがってゆく範囲の土地での、冬の外気は肌寒く葉の落ちた季節、晴れた弱々しい光も室内では窓を通して肌にあたたかい感覚。彼女の存在に接すると、そんなイメージが湧きます。
井口昇『クルシメさん』や黒沢清『大いなる幻影』に出演していたときの唯野未歩子から受けた印象も多分にあるのでしょうが、村上龍の文章から地方出身者の香りが露骨に漂ってくるように、唯野未歩子が醸しだす羞恥と鈍感の混在した性質は、東京多摩地区的なものを感じさせます。

監督作となる『三年身籠る』でも、たとえ本人が画面に姿を現さなくとも、そこには都心でもなく地方でもない、多摩の気配が精神として充満している気がする。

冒頭。少し肌寒そうな大気のなか、弱い光が視界全体をぼんやり浮かび上がらせる早朝、誰もいない道を掃く女がいる。中島知子。無表情とは違うが、何をも指向していない表情を表層にたたえて掃き続けている。
周囲を掃き終えて後ろを振りかえるとそこにもゴミが落ちていて、気になった女は下がってそれもチリトリに押しこむ。と、またその後ろをみるとゴミがある。真ん中に一本道が一点透視で画面の上へ消えてゆくロングの縦の構図が示され、その道を真っすぐ下がってゆく中島知子が示されると、一転横移動になり山林まで辿りつき掃き続けているカットに飛躍する。

中央線を下ってゆくと、八王子あたりで急に空気が冷え、そこまでは平らな土地がつづき民家が密集しているがその底冷えするかんじが山地と隣接した土地なんだということが意識されます。そのあたりから寂れた奥多摩へむかう道が伸び、木々は鬱蒼としてくるかわりに枯葉はふえ低温の自然界で植物が生きる厳しさを示す。自分のイメージでは、一本道は八王子からどこか支線に入ったマイナーめの路線のどこかに最寄り駅をもつ、そんなささやかな一軒家の前を通る道で、車で行けばそれほど時間がかからずに奥多摩の木々のなかにもぐり込む。
勿論、画面で展開される山奥まで掃き続けてしまう一連の場面は妄想的なイメージシーンで、女はほどなく現実に帰着し、さほど疲れた様子もなく自宅の玄関に戻り、玄関では今から出勤のダンナ(西島秀俊)とすれ違い、行ってらっしゃいと声をかけるが無視されることで閉じられる。この冒頭の山林への飛躍は、後半、出産の場となる冬枯れの山林という舞台を静かに予告する。

訥々とした、現実と妄想(もしくは、妄想じみたデフォルメ描写)を鈍重なリズムでベタに混在させて繰り出す意匠/スタイルは、たけしの『みんな~やってるか!』や、まあまあの時の森田芳光を彷彿とさせる。たけしのそれが、ぬめりを帯びた艶をふくんだ感触を与え、シャイネスゆえのトウカイとして無意味・無指向を組織するとすれば、森田芳光のそれは己を高くみせるための野心が、流行の先端でありたいという軽薄で重い強迫観念だけが、空虚で無機質な画面構成をうむ(表現欲の対象は己の名誉でしかないなら、その意匠の意味指示は徹底して無意味で、その空無さが時に時代に歓迎され、時にすれ違った)。そこでは枯渇する“何か”への希求が、小さく性欲にほてり発熱する肌のようなともしびとなって、画面に低いじんわりした熱を与えているようにみえる。

唯野未歩子のばあいは、女性であることで生理的表現や繊細なタッチを期待されるのにたいして、期待とは異なる意匠を映画にあたえる。作中には料理(=食べるという生理)や妊娠という性の生理がふんだんに登場しながら、どこか乾いていて、徹底して理知的だ。理知による描写では、子宮感覚的に無媒介に生理が噴出するのではなく、性=生を十全に描くために必要なパーツとして理詰めでそれらは配置されている。

山奥(奥多摩?)に引っ込んでからの後半の展開はあまりに理詰めで観念化が著しく、観客の人生との接点を失ってやや空転してしまった感がある。中島知子にあたえた、何事にも穏やかに、いかなる指向感情も付与しないという演技設計も、妊娠という圧倒的な事柄のまえに単なるガジェットとして遊離してしまった。予告をみたときは映画のヘソとなるかと思われた西島秀俊の、お父さん?なる!というセリフも、陰茎の切断という重い意味作用をもつガジェットを前にして、幾分突破力に欠けた。

そもそも、姉に〈冬子〉、妹には〈緑子〉という名を付与したことから、既に意味作用で存在が鈍く沈む。加えて名字には“末”の字がつくとくれば尚更。恒常的な生命増産器官そのものと化した姉が〈冬(=生命の死)子〉という名をもち、異性との結合/結婚/出産というシステムに徹底して抗おうとする(異性=他者としての男との結合を否定する、同じものを食べることによる同化融合への志向や、彼氏の去勢による同性化)妹の名がよりによって〈緑(=生命の繁栄)子〉だとか、露骨に乱舞する意味指示群が解読を強迫し、映画の運動を停滞させる。そのこと(意味作用/指示/解読)にはちょっと抵抗したい気持ちになります。(唯野監督自身による小説版は未読ですが、映画版は妻/夫の話が主軸だが、小説では姉/妹の話が主軸となっているらしい。夫の存在の肉付けが貧困なのに比べ、もうひとりの女性の在り方である妹の行動の豊穣な細部をみると、唯野未歩子のほんとうの興味はこちらにあるような気がします。)

何事かを訴えつづける細部はしかし、センスがいいとか肌理細やかだとかテキトーな言葉で流され、あとは物語の目新しさだけで安易に語られてしまう危険性、弱さをこの映画はもつ、と思う。表現が堂々としすぎていてそれがかえって主題の表現対象への浸透を阻んだ、と感じます。
ただ、ここから、このやりくちから何か大きなものが生まれる可能性はあるでしょうし、いつか理知的な作業の積み重ねが、巨大な傑作をうまないとも限らないんじゃないか‥。次回作も期待してます。

〈多摩地区的〉であるということは、〈地方的〉な中央(東京)への指向もしくは反発という一点集中な力学の世界観から無縁で、〈23区/都心的〉な、社会が機械構造のようにして作動するその中心点、内部機構の一部として同化しているのとも違う、中心への憧れもなく反作用的に別な価値観の立ち上げることもなく制度の担い手でもないといった、中途半端な立ち位置を有することであり、二元論から逃れるようにして宙吊り状態に在る微妙な困難さをある種、繊細な鈍感さ(?)で乗り越えるという生きる姿勢をもつということで、唯野未歩子の『三年身籠る』のばあいは、己の理知的頭脳を背景に、その“意匠”に必要以上に確信をもつという〈鈍感さ〉で事に対処したのだった。

theme : 日本映画
genre : 映画

映画『ZOO』(乙一原作のほう)

img20060927_p.jpg

『ZOO』

(2005年、日本、119分)

映画で『ZOO』といったら、普通にいってもちろんピーター・グリーナウェイの代表作『ZOO』のことだったんですが、どうやら最近は検索によるとそうじゃないみたいで、ズーというともう乙一版のほうが既にグリーナウェイよりメジャーなズーらしいです。

映画版『ZOO』は、人気作家・乙一の短編集『ZOO』から5編を選りぬいての映画化がなされたもの。『ZOO』といったら、乙一の著作中で短編集ながら、最大級の評価を得ているもの。それが、各篇異なる監督脚本キャストのもとバラエティー豊かに2005年、映画化されました。

誰もが思うことなのかもしれませんがー、はたから見たら、オムニバス映画を作るのは一見比較的お手軽でカンタンそうなのですが、ほんとうに面白くするのは至難のわざでなのではないかと、常々かんじていて、普通の長編映画では、感動して涙が出たり、ハラハラしっぱなしで観終えて興奮さめやらぬまま誰彼なく勧めてまわったりとか、そういう事は結構しょっちゅう起こり得ることだと思うのですが、オムニバス映画のばあい、オムニバス映画をみて涙が止まらなかったり、観終えて映画館を出てきた観客の頬が上気していて顔を真っ赤にして興奮して語り合う、という光景を想像するのも困難だと思われます。
『ZOO』に限ったことではありませんが、良かったとか各篇の出来不出来の差があったとか良くなかったとか、(オムニバス映画『ZOO』の)評判がごく通常通りにさまざまにあるなか、しかし、いざ観るときはあまりその世間の評判は関係なくて、せめて、退屈しなければイイナ・・くらいの、かなり消極的にハードルを下げて観ることになります。

『ZOO』の演出陣は、大まかに言って若手と中堅の中間くらいのメンバーで、期待値が低くても当然というか順当ですが、たとえ超・巨匠が名を連ねたオムニバスであっても、不思議とこれが期待値はあまりあがらず、ヤッパリ退屈しなければイイナ・・という身構えかたにどうしてもなってしまう。『10ミニッツ・オーダー』から『チューブ・テイルズ』までピンもキリもなく、もちろん『ZOO』も、同じように恐る恐る消極的に観ることになります。

おそるおそる観た『ZOO』は、やはりというか、各編ごとに、頑張ってるナーとかここが見所ダナーとか全然駄目ダナーとか、頭では色々浮かぶものの、感情は、喜怒哀楽、いずれにも針が振りきることなく、最終的には「へー‥」という曖昧で煮え切らない感想に集約されるような状態に宙吊りにされてしまう。難しいもんですね。

映画版『ZOO』を通してみてみたとき、その収録作のバラエティーさも讃えられた乙一の短篇集『ZOO』の作品中から、まるで一つの物語を様々に変奏したものなんじゃないかと思える5編が選ばれていて、連作としての統一感があることに意外性を感じるとともに、元々の発想がそもそもすごく視覚的なものがこんなに多かったんだなーと気づく。幾分、ジャンルでいえばミステリががった短編が多く、ミステリにはトリック的なものがつきものですから、発想が視覚的なのは必然といえば必然なんでしょうが、以下の作品の共通点として、視覚的であり、その視覚の対象先が並列的に複数化して在るさまがみてとれます。

『カザリとヨーコ』の瓜二つな顔、『SEVEN ROOMS』に登場する奇妙な構造の一連の部屋と、クライマックスの解決策。『So-far そ・ふぁ~』では少年にとっての父か母のどちらかが、あるいは父と母の相互が〈見える/見えない〉という事が話の主軸となっているし、『陽だまりの詩(シ)』におけるトリックは、被創造物であるロボット視点によって××××が×××見られることにより生じる。そして表題作『ZOO』においては、主体者の視線記憶と写真媒体の記憶機能の差異が、物語に導入される。

いずれにしても、どの作品においても、一主体者の視覚機能の不完全さ、視認可能だと盲信することへの懐疑が物語の主旋律を奏でている、おそろしくワンパターンと言ってもいいくらいに。視認主体は、対象物に対し、見まがうことなき確実性を有するものだという確信をもっているが、その無根拠な慣習的な盲信が崩れるときに、ドラマが(あるいは、オチが)生まれるという構造。


以下、いつも長くなってしまうので、メモ程度に。物語には触れる気になった場合以外触れません。


①『カザリとヨーコ』
(監督:金田龍、脚本:東多江子、出演:小林涼子(2役)、松田美由紀、吉行和子)


金田龍、まだこんなポジション。。松田・吉行、両女優のキャスティングがベタ。映画的説話構造は垂直性運動を全般で描く。人の落下、CDの落下、他の家族構成員より下層に寝起きする主人公、等‥。


②『SEVEN ROOMS』
(監督:安達正軌、脚本:奥寺佐渡子、出演:市川由衣、須賀健太、サエコ、吉高由里子)


『ZOO』映画化と聞いて、まず読者が普通に期待するのがこの『SEVEN ROOMS』の独特で奇妙な建造物の具体の映像化でしょう。制作費的に感心。須賀“ALWAYS”健太くんは果たして適役か疑問‥。市川由衣はコレといい『呪怨』といい『サイレン』といい、どうもホラーがちですが、彼女にとっては余計な回り道にしかならないんじゃないか‥。チョイ役で出演のサエコは、オトナの世界に汚れぎみなケバめな女の役。

さて、『紀子の食卓』で、見事今年のヨコハマ映画祭最優秀新人賞を受賞した吉高由里子は、この作品ではサエコよりさらに一瞬のチョイ役。終盤にとらわれてくる女子高生役としてほんの2シーン画面に登場。独特の、透明とかつ不透明な存在感が際立つ。


③『So-far そ・ふぁ~』
(監督:小宮雅哲、脚本:山田耕大、出演:神木隆之介、杉本哲太、鈴木杏樹)


映画じたいは予想と寸分たがわないつくり。男ながら、神木くんの可愛さ美しさにクラクラ。そういえば『インストール』でも、上戸彩をも食うほどの神木くんのカワイっぷり・ウツクシっぷりでした。


④『陽だまりの詩(シ)』
(監督・アニメーション:水崎淳平、脚本・絵コンテ・キャラクターデザイン:古屋兎丸、声:龍坐、鈴木かすみ)


鳥の死骸をぶん投げるシーンがナイス。たしかにアニメーション以外の映像表現ではなし得ない物語。独特のテイストを生むモーションキャプチャーを多用したCGアニメだからこそのラストまでの×××××がいきる。


⑤『ZOO』
(監督:安藤尋、脚本:及川章太郎、出演:村上淳、浜崎茜)


さて、おおかた他のエピソード群が原作に忠実な物語を予想範囲内に語るなか、トリを飾る表題作の『ZOO』は、かなりテイストも物語もアプローチが違う。俊英・及川章太郎(脚本)&安藤尋(監督)コンビの野心的な仕事だ。

謎を伏せてオチまで引っ張った原作とは異なり、主人公が女を殺したことは自明のこととして最初から秘められてはおらず、すべては起こってしまったこととして開示されている。オチまでもたせてナルホドで終わるのではない、物語の刺激としてではない、何か心に引っかかり、残るものを目指して『ZOO』の物語をエッセンスとして大胆に脚色。謎を失った、この安藤・及川版『ZOO』は、では何を描こうとするのか。

粒子の極端にあらい画面、不安定に揺れる斜めに傾いだ構図は、主人公村上淳の心象に徹底的にこの短篇映画が寄り添っていることを示す。粒子の荒さはささくれ立った彼の神経の反映であるとともに、彼の視認主体としての不完全さの証明でもある。歪にゆがんだ精神に生きているらしき村上淳が見るものが、果たしてソレがそのまま見たままの通りにソレであるのか、映画の観賞者には断定できないまま見守ることになります。

こうして、映画はほとんど主人公の主観と同化し、観念/情念そのものとなる。よって、女がまだ生きていた頃のパートが現在のパートと交互に挿入されますが、それは物語の背景の説明ではなく、彼の純想起として機能する。村上淳にとって、いま起きていることも、過去の出来事の回想も、等しく彼の感情を波立てる現在進行形の出来事として心に傷を刻みつけられる。物語の骨子はどうあれ、過ぎ去ってしまった愛への哀惜からくる荒涼感がこの心象風景を圧迫し、音響はノイズを刻む。どうしても至ることのない、成就することのない不可能性の“愛”を生き続けること。そのことが最優先される世界、それが彼の棲む心象世界であり、それがこの映画で描かれるすべてを染め上げる色調だ。

『仮面ライダーブレイド』の浜崎茜の妖艶な笑み。彼女は彼の肌に歯をたて、吸血するようにして彼の肌と衣服に刻印をのこす。居心地悪げに存在する村上淳は、愛する主体者として、浜崎茜に存在を支配されているが、写真を撮ることだけが、関係において主導権をもてる唯一の手法だ。しかし、その写真を撮ることも彼女に拒絶される。彼女の死後、腐敗していく彼女を写真におさめ続けることで、村上淳の愛の不可能性を生き続ける生が主観的に是認される。主観的生の是認とはもうひとつの世界を創造することであり、他方の世界における死を生産するきっかけともなる。こうして狂気の円環は閉じるのだ。

原作とは若干説話的機能の異なる〈写真〉と〈腐敗〉のタームは、ある映画を想起させる。言うまでもなく、ピーター・グリーナウェイの『ZOO』だ。おそらく、作り手は、乙一『ZOO』よりも断然グリーナウェイ『ZOO』にオマージュを捧げるようにして、この映画をつくりあげではないか?彼女の一瞬一瞬を切り取った写真が、膨大に連なることにより、デジタル的間欠的に断続した時間の推移とともに〈腐敗〉という〈存在の磨耗〉を描くさまは、あからさまにグリーナウェイ版を想起させる。〈存在の磨耗〉を押しとどめられない〈時間〉への〈描写〉の敗北という命題に、エリセ『マルメロの陽光』を思い出した。〈存在の磨耗〉を映画に刻印することは、映画の“魂”みたいなものが、止め絵でなく、動き(時間の推移)のなかでしか存在しないという、映画の原理を照射する。短編映画『ZOO』は、視認主体の認識の不確かさと、視認客体の交換可能な並列性、という、このオムニバス全体を包括するような強度をもった知的な表現をもっていた、と思う。で、それが、面白いものになっていたかというと、微妙なところですが‥。


‥ところで、ぜんぜんリサーチしてなくて予想だけで言いますが、乙一ファンにとってはこの安藤・及川『ZOO』が、全編中、いちばん評判が悪い気がしてなりません、なんとなく。

theme : 邦画
genre : 映画

04 | 2017/05 | 06
Su Mo Tu We Th Fr Sa
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
プロフィール

ししらいぞう

Author:ししらいぞう



東京在住

調理師のようなことをやっています。

趣味は立ち読み 格闘技観戦 映画観賞

3月生まれO型  

ランキング参加中☆
良かったらクリックをお願いします


ブログランキング・にほんブログ村へ
ブログランキング
ブログ内検索
最近の記事
リスト
映画紹介(サ行)の記事
→次へ
カテゴリー
Category Sum
全記事一覧
あいさつ 11
映画紹介(ア行) 21
映画紹介(カ行) 19
映画紹介(サ行) 13
映画紹介(タ行) 15
映画紹介(ナ行) 7
映画紹介 (ハ行) 18
映画紹介(マ行) 9
映画紹介(ヤ行) 7
映画紹介(ラ行) 5
映画紹介(ワ行) 1
観るまえの映画のこと 19
本と映画 22
雑誌と映画 18
その他映画 36
フルモーションレーベル 14
『恋する日曜日』 13
ユーロスペース 5
本・マンガ 40
雑誌 22
ドラマ 60
いろいろなBest10 15
日記 75
作家・監督・俳優・女優 6
舞台・イベント 4
未分類 8
月別アーカイブ
最近のコメント
最近のトラックバック
リンク
YouTubeSEARCH mini
おみくじ

©Plug-in by
FairyDances
★
HeroRisa

ぱたぱたアニメ館
GIFアニメ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。