スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

映画『岡山の娘』その1

okayama2.jpg


『岡山の娘』
(2008年、日本、92分)

監督・脚本:福間健二
撮影・照明:大西一光
記録・編集:福間雄三
音楽:吉田孝之
詩:福間健二、三角みづ紀、東井浩太郎
出演:西脇裕美、家ノ上美春、石原ユキオ、季羽和喜、入海洋一、東井浩太郎、岡本文子、佐藤盛一郎、三原真、真砂豪、杉本克敬、北川透

岡山に暮らす大学生のみづき(西脇裕美)の母が借金を残してこの世を去った。彼女は、大学をやめて自己破産の手続きをしようとする。みづきが青果市場で働きだした頃、会ったこともない父・立花信三(入海洋一)が長い旅から帰還し、岡山にやってくる‥。

1.

事前には『岡山の娘』という映画が、福間健二がかつて一時期過ごしていた岡山で撮られたこと、くらいしか予備知識がなく、氏がもしも岡山時代に娘をなしていたら‥という発想からストーリーが生まれたという、その大まかな物語(岡山に娘がいて、父親が会いにゆく)も上映前のトークショーで観賞寸前に知ったばかりでした。なるほど、それで『青空娘』か‥。
岡山時代の福間健二というと、『福間健二詩集』に次のような文章がありました。〈三十歳からの五年間、岡山にいた。国立大学の教師になったことで親を安心させたが、二十代を最初からやりなおしている感じだった。まるで危ういところを救われるように結婚し、五四二頁の詩集『最後の授業/カントリー・ライフ』を出した。〉
その“やりなおした二十代”については、同じ文章の前節に〈詩はだんだんしんどくなっていった。英文学にも意欲がわかなかった。映画とロックでなんとかもちこたえたということにしておきたい。〉とある。結晶し、成熟してゆく仕方ではなしに、横滑りしてやり過ごすかんじに、氏の20代の日々が、逃げるように想起されています。何かおおきなものへのカウンターから、成人を経て、構築し、定着してゆくといった成熟する大人としての人生モデルがしっくりいかない苦しさにあって、その「やりなおし」としての30代に福間氏は〈大学の教師になって親を安心させ〉、〈結婚し〉、長いブランクを経て詩人としても再生する。

そこで「やりなお」されていたのは、ツリー型/ピラミッド型というか、いわゆる旧来の人生モデルのステップを、こころでは仮初めのものながら、「とりあえず」「あえて」のぼってみること、だったのではないでしょうか。『カントリー・ライフ』の冒頭部、〈まるで快楽の演技でもするように/つぎつぎに季節を脱いで/なにかの主人となり、なにかの/奴隷となり、視線の消える坂道で/手袋をした手に不意を打たれ/かがやくのをためらっているうちに/私たちは衰弱する〉という言葉の連なりは、カウンターする(絶対的な基準となるような)対象も、超自我的なよるべき規範も見失いフラット化した現状に、成熟や完成に向かうやりかたでなしにその生を「とりあえず」「あえて」染まるように生きてみる仕方が示されているように読めます。
『岡山の娘』冒頭の「もうこれ以上することはない、と会う人みんなが言った、2007年夏、岡山」というみづき/西脇裕美の呟きは、「目指されるべきもの」の終焉した世界の到来を正確に告げていますし、それはまた、『ピンク・ヌーヴェルヴァーグ』での瀬々敬久の、〈テーマ主義も終わったし、きっちり芝居することも終わったし、どういうふうに映画を作るのかというところで、考え方がまったく違うところから行かないとしょうがない〉という言葉の向かうところとも響きあっているように思えます。

2.

幾分、雑に話を急ぎすぎたでしょうか。「しんどさ」に実直に向きあって、確信をもって「社会」や「人生」へ向き合うことを困難に感じていた二十代も、「あえて」選択された旧来の人生モデルの階段を〈親を安心させ〉るようにして刻んだ三十代も、福間氏は、「物語」を盲信することで安楽を得られない迷いと苦しさと居心地の悪さのなかで生の時間を刻みながら、それでも、ふと、〈いつまでも猶予と逃げ道をあたえられているように見えながら、いつのまにか、のっぴきならない大事な場面にさしかかっている。そこに〉、急にたどりついてしまう。そう感じる。そのようにして、否応なくその都度その都度〈急にたどりついてしまう〉人生の〈のっぴきならない大事な場面〉に立ち合いながら〈そこを生きぬく〉こと。それを“物語=映画”として提出したものが前作『急にたどりついてしまう』だったと、とりあえずコジツケるようにして言えるかもしれませんが、最新作『岡山の娘』においては、「とりあえず」「あえて」“物語”を選びとることへの懐疑/不信感がより深まっているようにみえます。
今でも、いや、人生のどの場面でも感じられてしまう〈のっぴきならなさ〉、〈急にたどりついてしまう〉感覚が、この映画にも遍在してはいるのですが、それが“物語”や“人間関係描写”の充実/充填からの作品的完成化/結晶化へと向かわず、“表現”として壊れることで「物語」が滲み、希薄化するように感じられます。『岡山の娘』という映画で選びとられた「物語」や「登場人物とその関係」が、その自己同一性を見失い、弱々しく、じんわりと失効してゆくのですが、それらが顕れてくるさまが、落ち着きのいいアヴァンギャルドな前衛性を提示せずに、だらしなく、自然に流れでるように、漏れでるようにして、物語や、人物像や、出来事から、同一性を微妙に奪ってゆく。これは去年、藤原章監督のDV映画『ヒミコさん』の話のときにも触れたDV映画的特質でもあって(『岡山の娘』はHD撮影)、映画『岡山の娘』が、『急にたどりついてしまう』的な端正さの、どこか閉じた作劇にとどまらずに、一個の作品としての自己同一性を曖昧に放棄し流動化させることで、「あえて」“物語”を選びとることの不自然さ、居心地の悪さに、より誠実であろうとした映画だったことのあらわれでもあるでしょう(劇場公開版の92分バージョンのほかに、2時間をこえるロングバージョンや岡山映画祭2007上映用の25分バージョン等が存在することからも、この映画作品が、確固として唯一的に結晶化/定形化することから逃れようとする性質を有することを示しているように思えます)。
『岡山の娘』は、様々な詩作品や書物、先行する映画からの引用やオマージュが積極的にとりいれられていますが、ここでの引用やオマージュは衒学的には作用せず、ここではそれらは、この作品の〈外部〉に、異なる思考や異なる世界、リアリティの硬度や質感が違う表現が他者的に「確かに」存在する、そのような接続を示すものとしてあります。均一的な価値観や審美性によって纏められたモノを一個の作品として結晶させる、そのような無自覚な「物語」性が、ここでは不誠実なものとして疑われているように思えます。『岡山の娘』は、作品的な境界/自己同一性を、非・均一的な外部へと曖昧に押しひろげることで、「現在」を生きる誠実な「物語」を掴もうとする。
(思えば、ここ最近のいまおかしんじ作品にどこか感じるネガティブな意味での違和感は、“物語”が「あえて」選ばれている「しんどさ」、「居心地の悪さ」をじゅうぶん感じながら映画制作が為されているのに、何だか妙にシュッとキレイに固定化させてしまう日和った力が働いている故で、その作品的境界を定形化する作用は、ある特定のサブカルチャー的文化圏や過去の映画作品に保護的に“依拠”することから生じているように思える。そこでは、「現在」が息をしていないんじゃないかと‥。)

3.

〈岡山になにかを置いたままにしていて、それを見つけに行く。岡山を舞台に映画をつくるとしたら、そんなふうにやりたい〉。置いたままにした“なにか”とはなにか。
福間氏独特の言い回しに、「‥ということにしておこう」「‥ということにしておきたい」というものがありますが、「運がよかった」/ということにしておこう(「映画とロックでなんとかもちこたえた」/ということにしておこう)という言い回しは、「運がよかった」「映画とロックで~」という認識や判断が「あえて」「とりあえず」選ばれているものにすぎず、不確かな、幾らでも交換可能な(不誠実な)ものとして揺らいでいることを示していると同時に、その上で、そのように「しておきたい」という気持ちの“本当さ”のほうに誠実さ、比重の大きさを置いていることをあらわす。「映画とロックで~」という認識/判断で勝負するのでなく、“そういうことにしておきたい”と感じる気持ちがあることのほんとう、を逃さないこと、で勝負したいという気分。ちょうどよく“冴えてる”かんじの認識/判断に着地させて得る〈知的さ〉に甘んじないこのような姿勢は、作品にグダグダな、バカっぽい表情を与えるかも知れませんが、それは幾多の映画における諸々の映像や言葉が結局のところ、独自でナイスな己の〈思想〉や〈前衛性〉や〈知性〉や〈センス〉を提示するという作り手の自己実現に還元されてしまう“貧しさ”から逃れようとすることに由来しているとおもう。

かつての福間氏は、岡山において子をなさなかったし、〈国立大学の教師になったことで親を安心させ〉もしたし、結婚もし、詩人として再生しもした。しかしそれは人生のその時その時に「急にたどりついてしま」ったようにして不確かな確信のうちの認識/判断によって「とりあえず」「あえて」選びとられてしまった交換可能だったかもしれない人生の刻印なのだった。〈「とりかえしのつかない夏」/たとえばそれを何べんくりかえしてから/ぼくたちは出会ったのだろう〉。寄る辺ない、カウンターするにも依拠するにも規範のないなかで「あえて」「とりあえず」生き、「急にたどりつい」た人生で生じた「物語」に常に付着するようにしてある、交換可能な「物語」。それを「選ぶ」という“手つき”が、ひとつの物語だけを選択し作品化することの居心地の悪い不自然さのなかで、かろうじて見つけることの出来るリアル(=ほんとう)だと、『岡山の娘』という映画はその出発点から告げる。(『岡山の娘』という映画は、そのような「根拠の薄弱感」の弱々しさに意識的に支配されているのではないでしょうか。この物語自体、「岡山」という土地を舞台でなければ成り立ち得ない物語ではないし(福間「岡山がどういう土地だってことじゃなくて、大阪と広島のあいだにこういうとちがあるってことを出せばいうと思いました。(略)どこでもよかったんじゃなくて、ここにみづきはいるという現実ですね。」)、冒頭のナレーションが「スペイン語」で語られなければならなかった絶対的な理由もなく(父・信三が放浪していたという土地の言葉のひとつですが)、そもそも当初は智子役だった西脇裕美をみづき役にコンバートせねばならなかったのも純粋に制作途上のトラブルからであって、役と役者の結びつきが絶対のものであるような信仰からも遠いところにある。)

〈なにかを置いたままにして〉いたのは、交換可能な選択肢としての、“わたし”の「物語」なのだった。


(つづく)

関連記事:『岡山の娘』へ

(引用・参考文献~福間健二『ピンク・ヌーヴェルヴァーグ』『福間健二詩集』『詩は生きている』『侵入し、通過してゆく』、『急にたどりついてしまう』『岡山の娘』パンフ、『シナリオ』『映画芸術』『キネマ旬報』BN)
スポンサーサイト

吉祥寺バウスシアターで『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』爆音ナイト

20070424221925


○今、もっとも気になり、観に行きたい映画は、公開されたばかりの新人・吉田恵輔監督の『机のなかみ』です。気になって気になってしょーがないんですが(傑作の予感)、貴重な休み、結局行ったのは違う映画‥

○で、行ったのが久しぶりの吉祥寺バウスシアターの爆音ナイト。上映作品は青山真治『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』、1年ぶりの観賞。仕事もあって扶養する者(一人と三匹)もいる身としては、(ほんとは本命の)週末の青山真治オールナイト行きはあまりにハードルが高く、妥協点としてのレイトショー。
爆音ナイトは『右側に気をつけろ』とか『ジェリー』とか、爆音でもう一度観てみたい、と思うものだけ行ってますが、爆音環境での観賞が大前提な『エリ・エリ~』は、DVDで観ても何の足しにもならない希有な映画なので、この機会を逃すまじと足を運びました。〈テアトル新宿〉での上映に接したときは、「まるで〈吉祥寺バウスシアター〉にいるみたいじゃん!」とその爆音上映ぶりに驚嘆したのでしたが、今回、爆音の本場の〈吉祥寺バウスシアター〉で観ることで、『エリ・エリ~』の真の真の姿がみられるんじゃないかと‥。

○上映前、一本だけ予告編が流れる。AJ・シュナック監督の『カート・コバーン アバウト・ザ・サン』。94年に自殺したニルヴァーナのカート・コバーンについてのドキュメンタリー。奇妙な符合、必然?青山真治の劇場映画デビュー作『Helpless』(96)で主人公にニルヴァーナのTシャツを着せて、当時のパンフレットに〈ニルヴァーナ〉なる短文を寄せた青山真治の、10年目の到達点『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』の爆音上映前にカート・コバーンの声が流れた。また、去年の『エリ・エリ~』公開時期が、ニルヴァーナのカート・コバーン最期の二日間を描くフィクション『ラストデイズ』ガス・ヴァン・サント監督)とカブるという偶然もあった。
〈何に興味あるかと言うと、いわば半死半生の世界である。例えばニール・ヤング。そのギターの音が太くでかくなるばなるほど生の実感を離れていく不思議。(略)奇妙な偶然(略)、カート・コバーンがニール・ヤング狂であり、その遺書にニール・ヤングの詞を引用していたということ。〉(『〈ニルヴァーナ〉』、青山真治)
(「It's bettbr to burn out than to fade away」、衰えて消えてゆくよりも、今燃え尽きるほうがいい)

○探偵・戸田昌宏(このひとが出てると、何だか不穏なモノが漂う)の爪に、キャラクターにそぐわない、白いマニキュアが光る。小津安二郎『秋日和』における原節子の、〈パール入りとも銀入りとも見えるネイル・エナメル〉の光りかたの〈異様さ〉の引用でしょうか。
『秋日和』の物語は、言ってみれば複数の中年男がひとりの若い女性を人生の軌道にのせようとする話。そう考えれば『エリ・エリ~』との繋がりも、ナクハナイと、こじつけレナクモナイ。クライマックスの草原でのライブ場面も、ピクニックだと言えば言えなくもないし、終盤、筒井康隆と戸田が車を走らせながら共に歌を口ずさむのもピクニック的だし‥?

『レイクサイド マーダーケース』で「女もイケる(描ける)」と示した青山真治でしたが、『エリ・エリ~』での描写は母性としての女、娼婦としての女、そして少女、という露骨に分離した概念的な抽象化に後退。ヤッパリ苦手なんじゃないか‥?シネスコ画面を縦に倒して撮影された、横たわる女(〈娼婦としての女〉)をナメるドリーショット、結果、大きなスクリーン画面に現れるのは、横長に切り取られた巨大な女体の部分のアップ。カメラがゆっくりとナメて上昇しつづけ、巨大な女体が長めのワンショットでようやく全貌をあらわす。そこに感じられるのは、女性への恐怖心というか畏怖というか、インポテンツ的なもの‥。


エリ・エリ・レマ・サバクタニ エリ・エリ・レマ・サバクタニ




『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』

(2005年制作/2006年公開、日本、107分)
監督・脚本:青山真治
撮影:たむらまさき
出演:浅野忠信、宮崎あおい、中原昌也、筒井康隆、岡田茉莉子

theme : 映画館で観た映画
genre : 映画

映画『アキハバラ@DEEP』

070221_a-deep.jpg

『アキハバラ@DEEP』

(2006年、日本、119分)

監督:源孝志
原作:石田衣良
出演:成宮寛貴、山田優、忍成修吾、荒川良々、三浦春馬、佐々木蔵之介、寺島しのぶ、萩原聖人

〈ユウのライフガード〉というホームページをきっかけに知り合った、一癖あるオタクたち。彼らは秋葉原に事務所を構え、〈アキハバラ@DEEP〉なる会社を設立する。やがて、彼らの開発した新型検索エンジンに大企業の魔の手が‥。

石田衣良のくだらない小説の映画化。マンガ化、ドラマ化、そして映画化とメディアミックス展開したこの作品ですが、他のメディアミックス展開された〈商品〉としての〈物語〉群と同様に、物語構造はたいへん古くさく、最先端というわけでもない適度な時代的適合性を帯びた設定をもつ。異なる特性をもったマイノリティの軍団(弱者)が上位の権力者(強者)を倒す(もしくは、懲らしめる)という猿蟹合戦パターンで、オタク版『七人の侍』をいち早くやった映画『7人のおたく』と一体何が違うのか、あるいは石田衣良自身のIWGPシリーズあたりと何がどう異なってるのか理解に苦しむ。
勿論あの石田衣良が“オタク”にも“アキバ”にも格別の愛情を抱いているわけがないのだから、この小説がそれらをテキトーに利用して器用に料理しただけのものになっているのは必然。別に、〈アキバ〉でなくても〈オタク〉でなくても成立するお話。だから映像化でもアキバとは縁遠そうな源孝志(映画版)なりオフィスクレッシェンドの大根仁(ドラマ版)なりの監督が、なんの気負いもなくオシャレに映像処理して一丁あがり、としても後ろめたくもならない、そうした〈軽さ〉が『アキハバラ@DEEP』にある。その〈軽さ〉は、質的には欠点である一方、メディアミックス的には長所だともいえる。
〈軽さ〉とは、必然性や固有性の薄さに由来し、異メディア間での互換性の高さを召喚する。“異形の傑作”と賞されるようなタイヘンな作品を、誰が多メディア展開しようとするでしょうか。

ということで、この映画版『アキハバラ@DEEP』も、極めて低いハードル設定と低い期待感を帯びて生まれ、飄々と“ほどほど”の表情を浮かべています。2時間のあいだ、ほどほど楽しめたらオッケーで、仮に感動したとしても、その感動を10年も20年も引きずるようには出来ていない。そもそもジャンルが違うのだとおもう。

映画版では〈アキハバラ@DEEP〉のメンバーは6人から5人に改められ、よりシンプルに観やすくなり、山崎邦正、田口浩正、博多華丸、田口トモロヲ、森本レオなど、出ても出なくてもいい“良く知った顔”の登場で退屈は紛らせられる。原作同様、オタクのリアリティなど知ったことか、とばかりにメンバーに成宮、忍成、三浦とイケメンが揃い、髪型だって清潔なカッコイイもの。言われなきゃオタクだと分からないような面々がキレイに演じてフィクションを織り成す。ドラマ版では小阪由佳(納得)が演じた役も、映画版では萌えのカケラもない山田優を配置。男子オタク受けしそうな要素を極力排して、マイルドに一般層に吸収、かくしてオタク文化をDQNの圧政下に置く作業がまたひとつ進行した。

通り一辺のオタク理解を体現するのが、成宮君の演技設計。こういうハートのない紋切り型のオタク像に心底ウンザリしてます。それに比べて忍成修吾は、ベタに潔癖症のオタクを演じているだけなのですが、体の反射、目の動き、言葉の響きのバリエーションが素晴らしく、こんな世界観にもほんとうを与える恐るべき才能を示す。山田優はリアリティとは関係なく、キックとパンチのキレが物凄くて、単純にほれぼれした。

theme : 邦画
genre : 映画

『オトシモノ』

オトシモノ




『オトシモノ』

(2006年、日本、94分)

監督・脚本:古澤健
出演:沢尻エリカ、若槻千夏、小栗旬、杉本彩、板尾創路、浅田美代子

駅のホームで定期券を拾った少年が消えた。少年は、沢尻エリカの妹の同級生だった。やがて、同じく“オトシモノ”の定期券を拾った妹が消えた。沢尻エリカは事態の究明に乗り出すが‥。

DVDで観賞。公開時、どうにかして映画館でみたいと思っていたのだけれど、今となっては何をこの映画に期待していたのかサッパリ思い出せない。黒沢清の映画に関わり、『ロスト★マイウェイ』(04)を撮った、映画美学校出身の古澤健が大メジャーでホラーに挑んだという点に興味をひかれたのだったか‥。

松竹のマークに、予算の比較的余裕のあるホラー、という珍妙で希少な映画ですが、観ているうち、過去のさまざまな映画の手法をイタダキ、ただ使ってるというかんじに、すっかり萎えてしまう。Jホラーの凄さは、ホラー表現の歴史を踏まえてそれを常に刷新しつづける作業によって豊かになってきたのではなかったか‥。カットが変わると人影が近くに出現、振り返るとカットが切り替わり誰もいない、とか頻繁に出てきますが、そういうテはもう食傷ぎみ‥。

冒頭、ホームで定期券を拾う手のショットから、カメラがポンと引いてロングぎみに少年とホームをとらえたのをみてオッと思ったのも束の間、そのあと列車内から少年が引きずり出されるまでのやり口は韓国ホラーみたいで(悪口)、げっそりする。カットが変わったら突然何かが起こってる、という積み重ねが、ある種の逃げにみえてしまう。

妹の同級生の少年の家を訪ねる沢尻エリカ。そんな薄い関係性で、返事がないからってズカズカ家にあがっていく神経が信じられん。それですごく小さい声でどなたかいらっしゃいませんか‥とか言って侵入するなんて、空き巣じゃないんだから‥あまつさえ、勝手に人んちのベランダまで入り込んだ挙げ句、呪怨な子と遭遇‥って知ったことか!

リアリティからズンと離れた終盤の展開、地底トンネル巡りの、トビー・フーパー・ライドな感じには、心惹かれるものがなくもなかったのですが、すでにそれまでの展開で散々興味が擦り切れていて、良い反応を自分の精神が示すことはなかった。通常の、ホラーならではのフィルムの質感に乏しかったのも、世界観が峻立して迫ってこなかった一因でしょうか‥。

theme : ホラー
genre : 映画

『海と夕陽と彼女の涙 ストロベリーフィールズ』

41004343.jpg

『海と夕陽と彼女の涙 ストロベリーフィールズ』


(2006年、日本、91分)

監督・脚本・編集:太田隆文

出演:佐津川愛美、東亜優、芳賀優里亜、谷村美月、伊藤裕子、小西博之、三船美佳、吉行由実、浪岡一喜、並樹史朗

昭和40年代。夕陽と海の美しい町暮らす、17歳の女子高生・夏美(佐津川愛美)は、自分も同乗していた自動車の事故で、三人のクラスメイトを亡くしてしまう。葬儀の日、ひとりだけ生き残った夏美の前に、三人が幽霊となって姿をあらわした。しかし、彼女たちが現世にとどまれるのは死後48時間だけだった‥。

村おこし映画、という蔑称が〈リージョナルムービー〉と名をかえて、日本中で制作がさかんに行われて隆盛を誇る昨今、和歌山県田辺市の全面バックアップを受けてオール田辺市ロケで製作された、『海と夕陽と彼女の涙 ストロベリーフィールズ』。自身も田辺市出身である太田隆文監督は、大林宣彦に師事し、テレビドラマの演出でキャリアは積んではいるが劇場映画としては本作がデビュー作となります(特別出演の小西博之も同郷)。

で、正直、何の予備知識もなく観たのですが、あんまり上手いのでビックリしました。太田隆文の演出、個人的には師匠の大林宣彦より上じゃないかとおもった。

回想のモノローグから、古き良き時代、少女たちの制服の白が眩しい季節に、海と山に囲まれ陽光に溢れた町に、観る者は連れて行かれ、その空気を吸うことになる。冒頭の、山や道や家や空、日常生活のスケッチや人々の躍動をとらえたカットの積み重ねがまず素晴らしくて、居住まいをただしました。

この映画最大の美点は、ロケハンがたいへん丁寧になされていることだと思います。古い街並、海沿いの狭くうねった道、草木の両脇に生い茂る石階段、本通りから枝分かれした坂道。幾分高い木塀に挟まれた細い裏道。高校生活の場として画面に登場する築100年以上だという木造校舎もすごいが、ラストの、小高い丘に建つ一軒の家とそこからの眺望も印象深い。

大林宣彦のばあいだと、高低差のある空間や密閉された空間などの使い方が、これ見よがし過ぎてクドクドしいことが多々あって、それが映画の勢いも魅力も減退させてしまうという事が度々起きてしまうのですが、『海と夕陽と彼女の涙 ストロベリーフィールズ』では、過剰な“映画的”粉飾としての空間設計をやりすぎず、物語の的確な舞台として慎重で自然な選択がなされ、きちんと躍動感を伴って活用される。そういう基本的なことが下地にあるから、ファンタジーな物語も空転せずに、登場人物たちの感情の移ろいが情感をともなって観る者に伝わってくるのだと思います。
奇抜な意匠で奇をてらうのではない、あくまで正攻法で物語と感情を見据える、そうした、作家主義に還元されない、慎ましい娯楽映画としての作法に、好感をもつ。

殊にいいと思ったのは、日本家屋の縁側や、学校一階にある渡り廊下(というんでしょうか、校舎の一部から一部に移るときに屋外を通る廊下)などの、室内と屋外の中間に位置する場所での場面、その活気づいて魅力的なこと。夏美の家の縁側でのドラマや、葬儀の行われれた建物の、ガラス戸で中庭と仕切られた縁側で暴発する感情劇はその舞台装置と相俟って、映画に印象的な区点を刻む。

屋外と室内の中間的な場での光線の巧みな使い手といえば、誰しもすぐ成瀬巳喜男の名を思い浮かべるかも知れませんし、さらに『海と夕陽と彼女の涙 ストロベリーフィールズ』では、8ミリビデオの使用からはじまって、霊の見える/見えないという装置に、様々な人物の思惑が交錯するドラマをきっちり視線劇として丁寧に仕立て上げるという、〈視線〉にこだわった映画の構築が行われていることからも、〈視線により構築される劇の名手〉としての成瀬巳喜男との類似点(もしくは、その影響)が想起されるかもしれませんが、じっさいに映像に接したかんじでいうとあまり成瀬的なものは感じられない。ああいった鋭敏で繊細な交響詩を織り上げる才能とは別種の、地道で鈍重な努力の積み重ねによって作り上げられた『海と夕陽と彼女の涙 ストロベリーフィールズ』は、どこか凡庸な印象を与えてしまうかもしれません。しかし、このような物語に感情をのせて観る者へ届けるのに必要なのは、才気や華麗さではなくて、丁寧で確かな描写なんだということを、この映画の存在は示していると思います。

物語の説明と人物紹介をするさいの簡潔な手際よさも侮れない。序盤、学校の教室内、無言でイジメの指示をだす芳賀優里亜(標的は佐津川)、そこへオフで谷村美月の怒鳴り声がかぶさる(男子につかみかかっている)のへ、毅然とした東亜優が止めにはいる。短い時間で関係と人物を分からせてしまう手腕。ことに、柔道でインターハイに出場することになった谷村美月の応援団を担任が募り、たまたまのようにして東佐津川芳賀の三人が決まってしまうダンドリはかなり危なっかしいのに、丁寧な視線のつなぎとアクションのタイミングの良さ(芳賀優里亜)でうまいこと乗り切っているあたりは確かな演出力を示したとおもう。

死神の処理の仕方はけっこう危なっかしいかんじもするのですが、しかし、悔いを残して幽霊になってしまった三人が、きっちり後悔を解消して成仏してゆくのではなく、あくまでやり残したことはやり残したままで死神に世界との繋がりを理不尽に絶たれてしまうという残酷な描きかたは、“死”を涙腺をゆるめるためだけの道具として安易に扱う幾多の映画群を前にして、倫理的な問いかけになっているともおもう。死神とは、生者や死者の都合によって現れたり出現が遅延したりする存在ではなく、とつぜん目の前に猶予なくあらわれてしまうものなのだ。一日一日をしっかり生きないといけないし、いろいろなことから目をそらしたまんまにしておいちゃいけないということ。

主演の佐津川愛美『蝉しぐれ』(05)でデビュー後、『真夜中の少女たち』→既出記事はコチラ)や『笑う大天使』など順調に映画出演をかさね、女優さんとしての地位を着実に築いている。ドラマ『がんばっていきまっしょい』『ギャルサー』などにも出演し、今作『海と夕陽と彼女の涙 ストロベリーフィールズ』では彼女の得意な〈よく転びそうなアタフタした女の子〉を着実に演じています。若者人気よりも、年配者が安心してみていられる女優として重宝されそうなかんじもあり、異性的“可愛さ”をいつでも封じて演じられるのが強みでしょうか。

谷村美月『カナリア』(04、→別記事はコチラ)がいつでも代表作であのイメージはなかなか拭えない。ドラマ『14才の母 愛するために生まれてきた』(→別記事はコチラ)がヒットしたことでようやく全国区的に顔が知られたとおもいますが、使い勝手の悪さも同時に示す。本作同様、『笑う大天使』でも佐津川愛美と共演。

芳賀優里亜には『マスター・オブ・サンダー 決戦!!封魔龍虎伝』(→別記事はコチラ)の項でも触れた。吉岡美穂を華やかにしたようなルックスだが、華やかなヒロイン役よりは陰のある役柄が多いのは大きい瞳に内に籠もった憂鬱が宿るからか。映画版『恋する日曜日』→別記事はコチラ)では華やかさと憂鬱の共存が絶妙だと思います。

東亜優はホリプロスカウトキャラバン出身、この映画のあと昼ドラながら世間的話題もさらった『吾輩は主婦である』(→記事はコチラ)に出演(斉藤由貴と及川光博の娘役)。先に撮った『海と夕陽と彼女の涙 ストロベリーフィールズ』のほうがずっと大人っぽいのが興味深い。
全体、おのおのの女優さんの特質が活かされるよう役の人物像に配慮がなされていて、それでもそのキャラクターの群像が物語と遊離しない。太田隆文監督、将来的に女優から演出されたいとラブコールがくる演出家になるかもしれないと思います。


20070217092526.jpg

theme : 邦画
genre : 映画

『ヴィタール』

10000368761_s.jpg

『ヴィタール』

(2004年、日本、86分)

製作・監督・脚本・撮影監督・美術監督・編集:塚本晋也
音楽:石川忠
出演:浅野忠信、柄本奈美、KIKI、岸部一徳、國村隼、木野花、りりィ、串田和美

医大生の博史(浅野忠信)は交通事故により一切の記憶を失ってしまう。自分の部屋にあった医学書に興味をもち、医学部に入学しなおした彼は、その空白をうめるように解剖学習にのめり込む。やがて徐々に記憶を取り戻しはじめるが、ある女性と自分が戯れるという、〈記憶をこえた、もうひとつの世界〉に同時に生きはじめる‥。

最新作『悪夢探偵』が公開中の塚本晋也監督。長編としてはその前作にあたる『ヴィタール』は、いつもながらのアイデンティティの実感の問題に、記憶/夢が介在するという映画で、まだ未見ですが『悪夢探偵』とおそらく興味深い密接な相関関係があるのではないか‥という予想があります。

塚本晋也監督の作風を雑にいえば、暴力とエロティシズムをモチーフに、身体の変容と痛みを描く、ということになると思いますが、ここに〈夢〉が介在するとどういうことがみえてくるのでしょうか。〈夢〉をみている状態というのは、〈生〉の根拠も〈現実〉の根拠もないところで、時間=空間を生きているという状態であって、そこでの“自分”は過去の〈生〉からも〈現実〉の〈肉体〉からも切り離された浮遊物としてある。今、こうしていることが、果たして“ほんとう”のことなのか、ここにあるおのれの肉体は、記憶は、人生は、愛情は、“ほんとう”のものなのか、確証を得るすべがまったくない未決定の状態。必然、物語の主体者である主人公は、その確証を、〈生〉の実感をつかむために力をつくす。では〈夢〉であるかないかを知るために、古来から行われている行為とは何か。(ホッペタをつねるなどして)自分の肉体に〈痛み〉をあたえ、観念ではない即物的な〈痛覚〉を呼び覚ますことだ。

ここで大ざっぱにですが、〈痛み〉のモチーフと〈夢〉のモチーフがリンクする。〈痛み〉も〈エロティシズム/性〉も、それらを生の実感を得るための重要な手段とすることは、塚本晋也に限ったことでなく普遍的な方法として多くの人間がとりつかれていることであって、そこでの〈生の実感の確認〉とは、己の生の根拠への不安感に基づいている。

『鉄男』における、人生に居場所のない風情のしがない主人公は、その肉体が鋼鉄化してゆく過程で、“痛み”と“エクスタシー”のない交ぜになった〈生の実感〉を得る。〈変容〉のなかの〈痛み〉と〈快楽〉によって、かろうじて生を生きている証として感じられることが、執拗に繰り返し語られるということは、塚本映画において、そもそも〈現実の生〉に実感が感じられないからであって、確証のもてない生の無根拠ぶりはいまが夢であろうが現実であろうが変わりがない。とすると、一段進んで、たとえ〈夢〉のなかであろうと、〈生の実感〉が得られるのならばそれは〈現実の生〉より上位のものとなる。

『ヴィタール』で語られているのはそういう主題であって、より大きくいえば、世界そのものよりも、感じる/知覚する主体の認識のほうに“ほんとう”の決定権を置くということで、なんだか『強い人間原理』とか、ソッチのほうまで行ってしまいそうな雲行きですが、塚本晋也の場合、精神の把握のリアリティというよりは、あくまで肉体的・触覚的リアリティを優位に置く。個人的には、必ずしも好きな作風ではないし、じつは人が言うほどは才能をかんじてもいないのだけれど、それでも無視できなくおもうのは、その姿勢というか資質が視覚芸術でなく触覚芸術だとも言われる〈映画〉というメディアに合致していると思うからだ。

『ヴィタール』では、かなりあからさまにグロテスクな人体解剖学習のようすが克明に描かれる。〈痛み〉を感じることでようやくこの世界での生を実感できる者と、〈痛み〉を感じられない肉体をもつ者(生の実感をもてない者)の対比としてそれは表れ、記憶喪失という出来事により〈生の確証〉の基盤を失った浅野忠信が解剖学習にのめり込むのは、自分と同じように〈生のよるべなさ〉を負う〈死体〉という名の触覚主体に共震しているからだ。〈もうひとつの世界〉で死んだはずの彼女・涼子(柄本奈美)と表情ゆたかに戯れる彼は、〈夢〉とも〈死の世界〉ともとれるような〈もうひとつの世界〉を〈現実の世界〉より明らかに上位においている。

父親に殴られても無反応な彼は、現世では〈痛み〉も〈エロティシズム/快楽〉も感じておらず、この現実世界は「断末魔の電気信号」なんじゃないかと呟く。〈もうひとつの世界〉で、浅野忠信と柄本奈美は交歓をかわし、愉悦に浸ってゆく。たびたびあらわれる、浅野忠信が鏡をみつめて「あ、‥あ、‥」と呟く場面は、記憶を少しずつ思い出している場面というよりは(あ、俺の“ほんとう”の世界はこっちじゃないんだった、)とフト思い出しているようにみえます。

浅野忠信に興味をもち、おもいを寄せるKIKIは、あちらの世界に重きをおく浅野と交わることができない。KIKIが彼と人間として相対するためには、原因不明の傷を顔に負い、“生ける実感”そのものとなったときだった。理由もしらされずKIKIの保護された警察署に呼び出された浅野忠信に、傷=生の実感を帯びた彼女ははじめて本音の言葉を吐露することが出来る。

「死んだ女に未練残してどーすんだよ!生きてるもんはどーすんだよ‥キレイな記憶が相手じゃ、勝ち目がないじゃないかよ‥」彼女が近づいてきた彼に凶器で殴りかかろうとするのは、感情をぶつけようとしているのではなくて、〈現実の世界〉で〈痛み=傷〉を肉体に刻みつけることによって、こちら側(現実)で〈生の実感〉を得てほしいと彼女が希求しているからなのだった。

「今っていう時間がわからないな。僕の意識ってなんなのかな‥」と懐疑をいだく浅野忠信は、こちら側(現実世界)へ引き戻そうとする周囲の者、つまり現実世界を〈もうひとつの世界〉より確固とした、優位な/有意なものとして示す者、へむかい、「だいたい、ふたつの世界に優劣をつけるのもヘンなんだよ」と、その価値体系には与しないと宣言する。

浅野忠信が記憶を失うことになった事故で死んだ、恋人だった涼子(柄本奈美)は、死後浅野のもとへ死体が巡り、彼に検体されるように目論んだ。そしてそのとおりに解剖客体として彼のまえにあらわれた彼女は、〈現実世界〉で触覚による〈痛み〉も〈悦楽〉も感じないことをしめすことにより〈もうひとつの世界〉に浅野をいざなった。彼も、痛みや異性の誘惑、人間関係の揺らぎや心癒やす様々な物事など、現実世界の刺激に不感症になることによって、彼女の望みにこたえた。他の実習生たちが解剖に抵抗感を感じるなか、無感覚に死体をビリビリゴリゴリと切り刻んでゆく水死体のような顔をした浅野忠信は、そのときから〈あちら側〉に生の基盤を置きはじめたのだった。

浅野忠信が〈こちら側〉(現実世界)で根拠を置くことになる極限まで殺風景な、箱のように薄暗い部屋には、半透明なガラス窓がはめこまれていて、窓の外側の表面には雨なのか四六時中液体がしたたり、たゆたっている。絶えず形を変え流動する液体は生命(の、実感)の永遠を示す。その窓を羨望のまなざしで見やる浅野忠信は、その向こうに、彼女との永遠の生の実感を見つめているのだ。ラスト、〈向こう側〉で彼女といる世界では雨が風景を洗いつづけ、彼女は、好きな歌のこと、匂いがするということを口にする。歌も匂いも、永遠の〈生の実感〉の証し、これ以上ない祝福の証しなのでした。

いつものことながら、塚本晋也の“スタイリッシュな映像美”と、彼のモチーフである〈痛み〉なり〈エロティシズム〉なりの“生理的/触覚的”な皮膚感覚とは、なにかどうも(梅干しとスイカ的に)食い合わせが悪く、その食い合わせの悪いかんじが毎回つづくと、それはそれで味になっているというか、それが作家性になっているかんじですが、やはり何か食い違っているという印象が残ります。しかし、塚本映画にはそのスタイルと生理的なものが合致する瞬間があって、ガン!!!!ガン!!!!とバカでかい打撃音が響き渡り画面が揺らぐとき、観客であるわれわれもおののき、嫌悪感や快感という生理を刺激される。(そのスタイルは『鉄男Ⅱ BODY HAMMER』や『東京フィスト』で最も効果的に発動したと思います。)『ヴィタール』でも、車が連鎖的にクラッシュし大音響とともに画面がブレるシーンなどに 、その効果がみられました。

存在の基盤が無根拠だという“いたたまれなさ”“よるべない不安定さ”を属性としてもつ塚本的存在としては、浅野忠信はいかなる状況でも超然としていて、確信がありすぎるように感じた。KIKI、髪型も顔立ちも、じつに塚本映画の女性で、印象に残ります。

さて、最新作『悪夢探偵』における重大なモチーフらしき〈夢〉は、果たして〈現実世界〉の〈確固たる根拠〉の優位性を揺るがすのか。〈夢〉と〈痛み/エロティシズム〉と〈精神による把握のリアリティ〉とは、いかなる変奏曲をかなでているのでしょうか。

20041129003fl00003viewrsz150x.jpg

theme : 日本映画
genre : 映画

『あさってDANCE4 愛と欲望の旅だち篇』

ADE0656_2.jpg

『あさってDANCE 愛と欲望の旅だち篇』

(2005年、日本、69分)

監督:本田隆一
原作:山本直樹
出演:黒沢愛、松田洋昌、鈴木Q太郎、川村亜紀、のはら歩、山本早織、千太郎、大堀こういち、緋田康人、松田優、星野あかり

ついに本田隆一版『あさってDANCE』もクライマックスの第4弾。松石ゲルの、毎度おなじみのテーマ曲が心地よく、切なく響く。思えば、厳しい冬に訪れた寒く暖かい小春日和のような感触の映画だった、とおもう。
形式上は一本一本の映画とはいえ、全4話のドラマといった感じで、各話に厳密な起承転結や別個の明確な主題があるわけでもなく、4作全体のなかを右往左往する群像がテキトーに低空飛行しつつ、時空と物語を紡いでゆく。最終作の今作はまとめに入ってゆくこともあって、前作までよりさらに雑然と要素がとっちらかっている印象。しかし今作まで語り残された主題もある。

川村亜紀でも、のはら歩でもなく、ヒビノアヤ/黒沢愛を選んだスエキチ/松田洋昌。ふたりは新しい部屋(フレディ/千太郎の部屋の上)で一緒に住み始める。ライバルたちは後景に退いて、この第4話ではヒビノアヤがスエキチを、スエキチがヒビノアヤを、どれだけ本気で好きなのかを改めて試されることになる。

そもそも出会いからして、多額の遺産が転がりこむことになったスエキチのもとに、見ず知らずの女・アヤが色気を振りまきつつ転がりこんできたことから関係がスタートしたのであるから、アヤ/黒沢愛が金目当てで近づいてきたのではないとスエキチには断言することができないまま、ズルズルと不信感を伴った関係が続けられている。
一方、少しでも魅力的な女性にはすぐフラフラとなびいてしまうスエキチは、アヤを邪険に扱ったかと思えば、その娘との関係の雲行きが怪しくなると都合よくアヤに好意を示すと、四六時中ヤルことばかりで、まるでアヤは性欲のはけ口でしかないかのように接する。

アヤはいつまで経っても別居した旦那のもとから籍をぬこうとせず、ちょっとした間違いのようにして文学賞を獲ってしまった旦那の付き添いで温泉地に行ってしまう。かと思うと瀕死の老人の遺産目当てにその老人と結婚しようとしたりして、そのユルさにスエキチはヤキモキし、彼女の自分への愛情を疑い続ける羽目になっている。

あるいは、ふたり、引っ越した新居のバスタブでいちゃつき、後ろから攻めるスエキチに、「あたしと一緒に住むことスンナリOKしたのは、毎日こういうことが出来るから?」とつぶやく黒沢愛。第3話の項で触れたように、この映画において後背位/バックは獣欲的衝動を差し示すのであるから、ここでのスエキチには性欲しかみえていない。アヤの不在時に悶えるのも、ハートではなく性欲に支配されているさまを示すし、まだ籍を抜いてない前の旦那(大堀こういち)とアヤが温泉地に一泊する挿話で、スエキチがおそれて悪夢にみるのも、アヤの気持ちが動いてしまうことではなく、旦那と後背位でヤッているという事柄だった。

金目当てで瀕死の老人と結婚しようとしている黒沢愛をスエキチは「愛してる」という言葉で引き留めようとするが、黒沢愛は、〈愛してる〉などという定型的な紋切り型の言葉にふたりの関係が押し込められんとされるのに抵抗をしめし、アイシテルなんて言葉は外国語のようで、ほんとはもっと何だか分からないもんだという。関係が決裂したのちに再会したとき、突き放すアヤにスエキチは追いすがり、押し倒す。「‥俺たち、終わりなのか?」「するの?結局アタシって、躰だけの女なのね」「愛してる」「‥便利なコトバ」。

クライマックス、すれ違い続けた末に、とつぜん戻ってきたアヤに対し、スエキチは「もうやだよ、理由もなくいなくなったり帰ってきたり、そのたびにガッカリしたり舞い上がったり、嘘か本当か分かんねーオマエの一言に一喜一憂したり」と力なく訴える。「戻ってこない方が、よかったみたいね」と返すアヤへ、「ずっとここにいて欲しいって言ってるんじゃないか」とすがるスエキチ。アヤは言う。

「ねえ、このままアタシの一挙一動に浮かれたり、しょんぼりしてよ!ワクワクして、ドキドキして、ガッカリしてよ!」

この台詞が棒読みなのが惜しいが、ある型にはめようとするスエキチへのアヤ/黒沢愛のこの解答は、スエキチとアヤの二人の間のみに生じた、世界にたったひとつの関係性を大切にみつめて、粗雑なカテゴライズを拒絶する、誠実な作業と感情として現前したのだった。(老人の遺産を狙うことは、結果として、スエキチの遺産を目当てにスエキチと付き合っているのではないということの表明なのだった。)見つめあうふたりは正常位で抱きあい、キスをする。演出上のミスか、スエキチ側の獣欲的性向護持ゆえの反旗か、絡みの後半、また後背位になってしまったのは、情感の盛り上がりを損ねてしまった、とおもう。あるいは、その反・正常位的非正対感がのちのすれ違いを暗示しているのか‥。

今作でも、相変わらず緋田康人&大堀こういちのコンビがアドリブ満載でくすぐってきますが、ここまで黒い隣人・フレディを居心地悪く演じていた西麻布ヒルズの千太郎、今回は出番/見せ場も多く、オマカセ演技をのびのびとこなし、お笑い芸人であることを思い出せる達者なところを見せつけます。

ゲスト出演はAV女優の星野あかり。スエキチの憧れの対象である兄嫁に扮し、白く美しい肌をあらわに絡みを披露していますが、この実家の兄/兄嫁のパート、カットされたシーンが多かったのか話のつながりの悪い場面や意味不明の台詞があったりして、中途半端な印象。脱ぎ損かと。
いっぽう、第3話から登場のスエ役の山本早織は、前作にも増して見せ場がなく、未知数の演技力・魅力ともども発揮しないまま終わってしまっています。
4作をとおして主役を演じた松田洋昌の演技にはこれまで触れてこなかったのですが、演技力は無きに等しく、自然体ふうの演技でなんとかやり過ごそうとしている印象。そのため比較的容易な感情表現と不得意な感情表現との差が大きく、人格の表現に破綻をきたしていなくもない。しかし、演技のクオリティをどうこう言う類いの映画でもないからそれでもあまり気にならない。
雑多な要素がざわめくように飛び交う、全般的にヌルめのギャグやヌルめのエロやヌルめのラブを、気軽に楽しめたらそれでいいんだと思います。

かくして本田/黒沢版『あさってDANCE』の幕は降りる。10年後、飲みすぎて記憶をなくしたスエキチが目覚めると、あのときと同じように彼女がすぐそばに添い寝していた。もう一回はじめからはじめようよ。そしてまた、彼女の一挙一動にに一喜一憂する、彼女に踊らされる、ダンスする日々がまた、はじまる。スエキチは彼女を胸に抱き寄せた。

theme : 邦画
genre : 映画

07 | 2017/08 | 09
Su Mo Tu We Th Fr Sa
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
プロフィール

ししらいぞう

Author:ししらいぞう



東京在住

調理師のようなことをやっています。

趣味は立ち読み 格闘技観戦 映画観賞

3月生まれO型  

ランキング参加中☆
良かったらクリックをお願いします


ブログランキング・にほんブログ村へ
ブログランキング
ブログ内検索
最近の記事
リスト
映画紹介(ア行)の記事
→次へ
カテゴリー
Category Sum
全記事一覧
あいさつ 11
映画紹介(ア行) 21
映画紹介(カ行) 19
映画紹介(サ行) 13
映画紹介(タ行) 15
映画紹介(ナ行) 7
映画紹介 (ハ行) 18
映画紹介(マ行) 9
映画紹介(ヤ行) 7
映画紹介(ラ行) 5
映画紹介(ワ行) 1
観るまえの映画のこと 19
本と映画 22
雑誌と映画 18
その他映画 36
フルモーションレーベル 14
『恋する日曜日』 13
ユーロスペース 5
本・マンガ 40
雑誌 22
ドラマ 60
いろいろなBest10 15
日記 75
作家・監督・俳優・女優 6
舞台・イベント 4
未分類 8
月別アーカイブ
最近のコメント
最近のトラックバック
リンク
YouTubeSEARCH mini
おみくじ

©Plug-in by
FairyDances
★
HeroRisa

ぱたぱたアニメ館
GIFアニメ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。