スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

11・16

へあー
『ヘアスプレー』

今日(11月16日)、『バイオハザードⅢ』を観に行く予定があったため、昨夜は予習として『バイオハザードⅡアポカリプス』を観てましたが‥‥20回くらいウトウトした‥‥。なんとも興味が持てず、翌日の上映中爆睡しないか不安になってくる。

『Ⅱ』はともかく『Ⅲ』はラッセル・マルケイだからとか無理やり期待を盛り上げつつ、翌日の夕方に出かけたのでしたが、食事をとったあと、何だか話の成りゆきで『ヘアスプレー』を観ることになっていました。
で、観た。た、楽しい‥。泣いた。洗われた。

ジョン・ウォーターズ版を神格視してるわけでもないので、あーだこーだアラ探しする気持ちもなく、素直に歌と踊りに溢れたピースフルな世界にどっぷり浸り幸せな気持ちに満たされる。舞台(版)のミュージカルを映画的に転生させるとか、昔のモノを現在的映画ならではの工夫をするとか、ヘタにしていないのがいいなと退廃的に思い、社会的テーマに本気で色気を出したりしていないのにも好感を抱く。ジョン・ウォーターズよりちょっとだけ上手く、ちょっとだけ大衆的。芸術とか賞とかカルトとかいう言葉が浮かばないのが素敵。歌とダンスと、笑顔。それ以上に何がいるんだという気持ち。最近のミュージカル映画、『シカゴ』や『プロデューサーズ』や『ドリームガールズ』には全然ピンとこなかったのが嘘のように涙が流れていた。
やっぱりデブは明るく大らかじゃなくちゃ。とニッキー・ブロンスキーの笑顔を見ながら某ドリームガールズの小癪な新人女優を思い浮かべる。大丈夫かなとおもうくらいアホっぽくなってるザック・エフロンは、最近の木村了に見えた。

パンフレットを、長谷川町蔵の文章だけはお金を払う価値があると思いつつ読みおえる。外は冬の夜。ピースな未来を夢見ることが出来た時代。そんな世界とは無縁な時代に生きている。やっぱり人生にはミュージカルが必要だ、とおもう。



『ヘアスプレー』

(2007年、アメリカ、116分)

監督・振付:アダム・シャンクマン
脚本:レスリー・ジェイクソン
作曲:マーク・:シェイマン
作詞:マーク・シェイマン、スコット・ウィットマン
出演:ジョン・トラボルタ、ミシェル・ファイファー、クリストファー・ウォーケン、ニッキー・ブロンスキー、ザック・エフロン、アマンダ・バインズ、ジェリー・スティラー、クイーン・ラティファ

スポンサーサイト

theme : 記録
genre : 日記

国道20号線、映画『ヒミコさん』

20071113024113.jpg


→映画『国道20号線』、ヒミコさん からのつづき)

さて、21時ジャストにポレポレ坐ビルの階段を地下に駆け下りきって、ポレポレ東中野のロビーに到着する。今日はローテーションの谷間で、トークショー無しの日(前日は高橋洋&柳下毅一郎、翌日は佐藤左吉&塩田時敏&宮川ひろみという錚々たるメンツ)。なので客入りはイマイチかと思いきや席は大方埋まっており、熱気が渦巻いていました。

客層はやはり男性が多いが、意外と女性の数も少なくない。7:3か6:4くらい?年齢は20代がメインみたいですが、30代もことのほか多い。白髪混じり50代らしき人もいた。ただ、そういった年配のかたが上映中、僕の隣でスヤスヤ眠っていましたが‥。
30代らしき人々はかなりの割合で、年のとりかたが良く分からないといった風情の非成熟な青さを醸し出し、若手層のうち少なくない人数からは、自身の鬱屈をカウンターカルチャーに依存することによってやり過ごしているような雰囲気が発散されている‥。つまり、スタッフキャスト陣から(物語内容からも)映画秘宝臭が漂っているように、観客層もそのまんま『映画秘宝』の読者層(もしくは秘宝の潜在的読者)といった趣がつよい。

ムック時代の創刊号から購読しつづけていた『映画秘宝』と訣別したのが去年の秋。それ以来読んでいないのでよく知りませんが、長いスパンでこの『ヒミコさん』は応援され紹介つづけていたに違いないとおもう。映画を観にきたというよりは、映画秘宝のイベントに参加しに来たという感じのなくもない、このワイワイした雰囲気とカルトを求める予定調和な期待感の充満に、かすかな違和感と不快感を覚えつつ上映がはじまる。

自分は藤原章の熱心な信奉者であるわけではなく、純然たる監督作とは言いがたい『神様の愛い奴』(01)と、『ラッパー慕情』(04)しか観ていません。『神様の愛い奴』には説得されませんでしたが、『ラッパー慕情』は“ある種の”傑作だと感じて、その年の個人的なベストに数えました。

その“ある種の”というのは、普通の意味ではヒドい出来栄えだがという意味もあって、『ラッパー慕情』は同年(2004年)に公開された井口昇の『恋する幼虫』や高橋洋の『ソドムの市』とともに自分のなかではひとかたまりの印象としてあり、古風な意味での学生8ミリ的な壊滅的クオリティのしろものが、芯を食った表現をもつと、人畜無害な幾多の映画群をよそに存在意義をもつという認識をさせられたということ。しかも、それが形式として立派に劇場公開され、ある程度の話題作となるという状況。そのうえ、その8ミリ的なモノがいわゆる〈映画的〉表現に向かわず(勿論言うまでもなく、岩井俊二的方向にも走らず)、DV的と言いたくなる独自の空虚な話法として04年に同時多発的に噴出したこと。(〈(DVによる映画制作の)利便性が、カットを割ってゆく撮影時の前提を曖昧にし、結果、作品組成がルーズになっている。そのルーズさが個々の作品の差異をうまないのだ。〉〈(カット/シーンの進展が時間の進展になるという通常のフィルム映画の特質にたいし)「映画≠時間」という新形式をつくったのがDVといえるかもしれない。つまり映画と時間が非同一的な関係になり、両者の隙間に不定型な何かが生ずる。〉阿部嘉昭「ビザールと純愛」)

90年代後半から収穫を示しはじめたDV映画ですが、DVによる映画撮影がフィルムで撮れないゆえの代替でなく、まさにDVによってしか示されなかっただろう達成が、一個人の才能によってではなくムーブメント的に立ち現れてきた。そういった映画史の更新が行われたという認識が、『恋する幼虫』『ソドムの市』と『ラッパー慕情』をひっくるめて評価する理由だと。雑に言えばそうなります。

メチャクチャなフレーミング、雑な編集、素人まるだしの演技、まとまりも緩急もない話法、ありえない照明にありえない美術、失敗している録音、思いつきのようなセリフ。「映画の底がぬけた」とは、撮影所システムもプログラム・ピクチャー制度も崩壊し、映画表現の豊かな積み重ねの歴史が無効となった時に映画評論家の山根貞男が発した言葉でしたが、その時でさえ、目指されるべき「優れた映画的表現」や「クオリティ」や「エンターテインメントとして楽しませるために呻吟された表現」があった。しかし『ラッパー慕情』などには、到達すべき表現的クオリティが本気で夢見られている形跡がないように見える。かつての同人的8ミリにさえ向こう側に垣間見えたような、「本来、あるべき完成形」が見えてこないのだ。

4畳半的リアリズムと、絢爛たるビザールな妄想的描写。DV的にラフな時空間のシャッフルと、純なほど映画青年的に無防備な長回し。それらが、質もリズムも何も、一本の映画として存在させるための通常考えられる整合性によって制御されずに散乱し、1本の映画という枠にも、1時間半の上映時間にも収まらず、滲んでハミ出してゆくように作品的境界がたゆたっている。観客は、藤原章『ラッパー慕情』前半と井口昇『恋する幼虫』後半を雑に接合させて上映したとしても、それほど動揺せずに観つづけているんじゃないか。そのような面でも、これらの伝統と断絶したようなDV映画の達成は、商業映画の形式を更新したと言えると思います。

そのなかでも(『恋する幼虫』や『ソドムの市』に比べても)、『ラッパー慕情』は作品境界の溶解率が高く、現行のものがトータルに制御された一塊の作品であるという印象が、一段と弱い。それが良い事なのか悪い事なのか分かりませんが、観賞しての印象では別バージョンがいくらでもあり得るように感じさせます。というのは、『神様の愛い奴』が上映や公開のたびにバージョンも印象も著しく異なったことから後付け的に導き出したこじつけというわけでもない。井口昇であれば『~幼虫』には『~幼虫』固有の空気があり、ノーマルな映画に比べれば遥かに作品境界の溶解現象が見られるものの、作家主義的に掬いとることが出来そうな全体の統御感がある。雑多な細部も、最終的には〈井口昇の〉、〈『恋する幼虫』の〉というふうに、所属先が回帰してくるかんじがありますが、『ラッパー慕情』の、そして『ヒミコさん』のばあい、突飛であったりシブかったりする様々な細部の所有権が、われわれの生きるこの〈世界〉に属するような気配があります。

何でもいいのですが、たとえば井口昇の眼球いじり描写、口唇期的描写、他者を傷めることによって関係を築くといった触覚描写、その、眼球や傷や唾液は、われわれのいる世界のものではなく、井口昇の宇宙で咀嚼され発酵し吐き出され、画面の向こう側から観客の前に差し出されている。井口昇という触媒を経て、よく知っているモノや事のはずだがどこか妙な臭いや液体のこびりついた変容した・加工されたモノやコトとして、それらは現れてくる。そこに作家性を確認する人々は、ある種の奇妙な安堵につつまれながら、安心して井口昇の映画を賞賛できるというわけなのでしょう‥‥過激に飛散しそうなDV作品が、そのように一個の作品として包み込まれる‥‥そして、皆、安心して、破天荒な傑作だと口にすることが出来る。

(観た範囲でしか言えませんが、)藤原章というひとりの映像作家に、刻印をのこすような作家性がないというのではないのですが、『ヒミコさん』という映画の独特な拡散してゆく風貌は、〈作家性〉や〈括弧付きのアート〉にいったん事物を預けない態度(生理)から生じているように思えます。

野球部エースの武川君が、座頭市のようにオニギリを不器用にほおばる。そこで触発されるのは観客の『座頭市』を観た記憶。後半、事件(?)が進行してゆくなか、画面に唐突に日時等のデジタルな表示が現れてはじめる。『グッドフェローズ』だ。われわれは、〈藤原章を介して〉でも〈『ヒミコさん』という愉快なカルト作を介して〉でもなく、その瞬間、じかに『グッドフェローズ』(や勝新の『座頭市』)という映画に接したときの感触を蘇らせる。藤原章はブルース・リー好きだからとかどうだとか、スコセッシの影響だとかオマージュだとかいうことは、いったん観る者が自分のフィルターを“介して”、事後的に了承しているに過ぎない。
若者たちに名を尋ねられた謎の美女が、去り際、振りかえってヒミコですと答えるわざとらしいカット、ベタ中のベタで笑いを誘う。ベタ→笑いという回路は、自己の記憶庫と照らし合わせて発動する。そこには、〈藤原章〉という固有名詞も、そのシーンの前に後に連なっているはずのカット群や物語の流れやキャラクターのアイデンティティの変容も、介在していない。唐突に歌われる紅工業高校の校歌、その一節が「共産思想を叩きこめ~」と歌われるありがちなネタに、案の定ある種のセンスを共有する観客から笑いが生じる。そこでも、ある種類の、斜に構えた性質をもつ人格パターンを刺激するピンポイント攻撃が為されただけであって、作家主義とも、1時間なり2時間なりの上映時間の一定かつ不断の流れとも無縁に、バラバラに解体した“断片”として直接的にわれわれ観客に接した瞬間、われわれ観客の、これまで世界と接してきたある種の感情が召喚される。
笑いや、悲しみや苦しみや後悔や情けなさや性欲の疼きや郷愁が、〈世界〉対〈われわれ〉が関係する作用として、『ヒミコさん』によって促される。〈われわれ〉対〈映画〉の関係のうちに、〈映画〉の内実としてそれらの諸々の情動が詰め込まれているのではないのだ。〈藤原章〉は対世界を見つめる。その映画は、私たちの生きる世界に相対するように観客を誘い、私たちがひとつの小さな完結した小宇宙に閉じこもることに異を唱える。人がカメラを回し、映画を撮り、それを観にひとが劇場に訪れて一本の映画と言われているものを観る、という、人と人が関係することを、限りなく開かれたものとして提示する。それがDV映画、とりわけ『ヒミコさん』の“前衛”だ、とおもう。

『ヒミコさん』は開かれている。作品的境界が曖昧にひろがっている。狭い範囲の話で言っても、(『ラッパー慕情』に引き続き『ヒミコさん』には宮川ひろみを筆頭に多くのキャストが続投していますが(次作『ダンプねえちゃんとホルモン大王』も、『ヒミコ』の監督&キャストで撮影が開始されたそう))、田野辺尚人は『ラッパー』と同じ〈百円さん〉なるキャラを演じていますし、『ヒミコ』には『ラッパー』で撮影された井口昇(まりっぺの父)のシーンと継田淳のシーン(狂太博士)が組みこまれたすえ、“(流用)出演”なる、ケッタイな表記が生じている。〈一本・の・映画・を・観る〉ということが、当たり前の一繋がりのコトとしてではなく、無意識無自覚の偽られた結合でしかないと疑われています。

しかし‥実際のところ、そのような特質とは無縁なところで『ヒミコさん』は消費されていた。高橋洋が『ソドムの市』を世に問うたとき、商業的価値として、現状では“カルト”として期待され、納得され、消費されてゆくことを受け入れつつも、苦渋の心情を吐露していました。『ヒミコさん』を観賞する客席からひっきりなしに上がる笑い声からは、未知のものに接するという“体験”として謙虚に相対する意識とは徹底的に無縁に、カルトなもの/難解なもの/カウンターカルチャー的なもの/冴えたもの、を確認して称揚し、そして、安心する。という無為な精神運動が営まれているように感じられる響きがありました。弛緩し、安心しきった屈託のない笑い声。
そこには、別の〈島宇宙〉に住んでいるという違いがあるだけで、セカチューから三丁目の夕日から恋空まで、〈泣きに〉行って自分の都合のいい(→グッとくる)パーツだけ拾って“泣いて”オシマイという閉じた回路を生きるある種のライトな観客たちと、結局同じ安心への依存構造がみえます。
『涙そうそう』の項ほかでしつこく繰り返しているように、“事前に抱いた〈イメージ〉を追認するために観るという自己肯定に閉じたシステムを生きる感性”が〈共感作用〉をもつパーツに折々に触れて、満足する。大概それは結局のところ“あるある”探しでしかないというのが現状で、それが、それぞれバージョン違いの、<ある人生モデル>あるあるであったり<ある性格傾向モデル>あるあるであったりするにすぎない。セカチュー的観客とは知能指数的には大きな隔たりがありそうですが、にもかかわらず、セカチュー的映画に反応する層を軽蔑してそうな『ヒミコさん』に駆けつけた層の多くの部分では、無自覚に、セカチュー的観賞と何ら変わりない精神の運動が生きられてるのではないでしょうか。
<「映画としての体を成していない」「ヘタウマでなくてヘタクソだ」批評家はそう言ってこの映画をくさすだろう。だが>、われわれは違う。と。そのような某ライターのコメントがパンフに載っていました。典型的な閉じた共同体を自己肯定的に生きる派閥的怠惰な精神が、そのように決め付け、安心を得る。
そのような状況下で、『ヒミコさん』プロデューサーのしまだゆきやす氏は、自分の〈人生モデル〉に都合のいい〈共感作用〉をつまんでいるだけの意見に、苛立ちを示しています。〈『ヒミコさん』を案外悪くないと言う人も、青春モノとしてわかった気になってるだけのように思えます。ちょっと待ってよと。(略)みんな個人が許容できるリアリティーだけで解釈しようとする。なぜ、もっと妄想力を広げないのかと苛立ちます。〉

『ソドムの市』公開にさいしてのインタビューで、高橋洋は以下のような言葉を残しています。
〈当然商売的なこととして、たぶん今だったらカルトとして受け止められて、ある流通力は持つかもしれないという計算は勿論働いているけど、出所は全くピュアなんです〉、〈ある種の受け方として一番判り易いのは、これはカルトものだと。それはそれでいい。取り込まれてもいいけど、見てくれたお客さんがそうじゃない何かも感じてくれたらいいな、ということですね。〉

『ヒミコさん』を、自分の人生傾向に引き寄せて、カルトのノリで消費するのではなく、素直に〈そうじゃない何かも〉無視せず感じること。作品が開かれている、ということを、都合のいいツールとしないことが、「観る」という“楽しい”〈経験〉なのではないでしょうか。


329170_01_07_02.jpg
『ヒミコさん』宮川ひろみ、高橋洋

theme : 日本映画
genre : 映画

映画『パニック・フライト』






『パニック・フライト』

(2005年、アメリカ、85分)

監督:ウェス・クレイヴン
出演:レイチェル・マクアダムス、キリアン・マーフィ

ここのところしばらく具合悪くて寝込んでいた。
ようやく少し元気が出て、たまっていたDVDをみだしました。

で、本作、何故かてっきり、サミュエル・L・ジャクソンの「ヘビが、ジャンボを、ジャックする」のかけ声(?)でおなじみの『スネーク・フライト』だと思いこんで観はじめたから、たいへんな目にあいました。
(DMMで、ジャケットをみずにタイトルのイメージでいい加減にウィッシュリストに入れるとこういう失敗をするという教訓。。)

離陸しようとしている飛行機、不穏な陰謀のにおいがかすかに漂い、ホテルウーマンのヒロインはジャンボに乗りこむ。
‥ヘビはどこに潜んでいるんだろう?サミュエル・L・ジャクソンはいつ登場するんだろう?と不審に思いつつも『スネーク・フライト』だと思いこんでいるから、ヘビが出ないとはカケラも思っていない。やがてヒロインの隣席の男の怪しさが増してゆき、そろそろヘビの出番かと思いきや、その加藤ローサみたいな顔したホテルウーマンはテロリストにためらいなく反撃!なんと飛行機を降りてしまう!このあたりで時間はもう後半戦に突入している。飛行機降りて、なおかつヘビがまだ出てこない!なんて斬新な構成!とビビる。

しかしクライマックスがきても、彼女はついに再び飛行機にのることはなく、犯人とのアクションに突入‥。ようやく(これは、どうやら、スネーク・フライトじゃないな‥)と気づきましたが、気づいたときには映画は終わっていました‥。

theme : 映画感想
genre : 映画

映画『僕は妹に恋をする』

bokuimo.jpg

『僕は妹に恋をする』

(2006年、日本、122分)

監督・脚本:安藤尋
原作:青木琴美
撮影:鈴木一博
出演:松本潤、榮倉奈々、平岡祐太、小松彩夏、浅野ゆう子

双子の兄妹である頼と郁は同じ高校に通う高校三年生。郁は、幼いころから変わらぬ特別な想いを頼に抱いているが、ここのところ、頼は何を言っても冷ややかな反応しかかえしてこない。そんなとき郁には矢野が、頼には楠友華が接近してきて、兄妹の関係と感情に化学変化を起こす。そして、郁への想いを抑えていた頼はついに気持ちを彼女にぶつける‥。

大ヒットした少女マンガの映画化である本作は、松本潤、榮倉奈々、平岡祐太といった旬でなおかつ女子人気の高いキャストをそろえ(小松彩夏は違うか)、原作ファン(ティーン)に限らず一般女性層にもアピール可能な布陣を敷いた。しかし、このキャストでは、原作ほどのスキャンダラスな描写は望むべくもなく、更に、安藤尋が監督をつとめるとあっては、映画は原作のガチャガチャした雑多な魅力からは遠く離れた、息詰まる静謐なものとなるでしょう。

こうして、物語骨子のエッセンスを抽出されて別物となる定めを負った映画版『僕は妹に恋をする』は、原作のファンを困惑させる出来になっているかもしれません。映画版『僕は妹に恋をする』では、双子の兄妹の恋愛、という元々の観念的かつ神話的な出発点に立ち戻り、物語を動かす“外的要因”としての多くのエピソード群や事件は極力排されています。そうして、映画は、主要人物たちの〈感情〉のみに特化した抽象的・神話的な世界観をつくりあげる。映画を動かすのは、恋する者を妨げる社会や家庭の用意する障壁ではなく、あくまで恋愛主体たちの感情の揺れ。

母親は、ふたりの関係を怪しみはじめるが、それによって障害やサスペンスが生じて物語を形作るということはなく、母親の存在は傍景にとどまる。

あるいは、このような題材から推測される語り方からすると、かなりの禁忌/タブーをおかすことになる二人の恋の成就は、幾多の社会的慣習や葛藤を乗り越えてタメてタメてなされるのことになるのが常道であるはずなのが、(郁/榮倉奈々の真っすぐな気持ちは最初から顕れているが)頼/松本潤の本意がじゅうぶんに観客に浸透するまえに、序盤でさっさと二人は結ばれてしまう。(この、二段ベッドを舞台に、寝ている郁/榮倉奈々に頼/松本潤が唇をよせていき、郁は目覚め動揺する、頼は、ずっと、好きだったんだ、と告げ、自分か自分以外のヤツか、選んでくれと迫り、郁は受け入れ、キスをして、抱き合うまでの一連のシークエンスは、息づかいと感情の揺れが伝わる、さすがの処理。)これは社会であったり、家庭であったりする〈外的障壁〉との葛藤によるサスペンスを描くことが、この映画の主眼ではないことの証左だ。

その後、映画の大半は、主要人物の4人の思惑と恋情の交錯をじっくり描き出すとともに、二人の神話的な禁断の恋の着地点を模索し、探求し続けることに費やされることになる。

安藤尋は新鋭(‥と思っていたらもう10年選手だった。時の流れははやい‥)のなかでは確かな実力を感じさせる監督で、『blue』(03)『ココロとカラダ』(04)が一部で高評価を得ているが、苦手なひとも多いらしい。廣木隆一門下らしく、登場人物の呼吸音が響いてくるようなささやかな空間と時間のなか、感情の粒子が空気中に浮遊し、たゆたうように、少しずつ人と人との“関係”の“かたち”が変容していくさまを捉える長回しを得意とするが、ある種、役者の生や性の輝きを最優先する廣木演出と異なり、安藤尋のばあい、作品の構造と語りのプロセスの厳密化に志向をつよくもつ。『dead BEAT』(99)では借金苦を発端に不可避的に犯罪に至り、その犯罪による波紋が事実として累積してゆくさまが説話構造の厳密さとして形成されていた。『blue』では、同性愛的な魂の交錯関係をもつことになる二人の少女が、〈少女的なもの〉を形成するふたつの側面を二分した人格として、現在の空虚を埋める手だてとしてそれぞれの自己発現を示すが、その対比が縦の構図と横移動、静物画と接吻のモチーフと併せて厳密に構成される。『blue』での他者への依存の在り方は『ココロとカラダ』で変奏され、女主人公二人の、両者の依存と主導権争いを綿密に運動化し、脱色的に破滅へと向かうさまを構造化する。(『blue』での少女二人は東京にでてルームシェアする夢を果たせず、一人だけが東京へゆくが、『ココロとカラダ』はその後の二人を引き続き描こうとするかのように、先に東京にでた少女を追うようにしてもうひとりの片割れがその部屋に転がりこむ。)
どこか開放感をおぼえさせる廣木演出と異なり、安藤映画にあるこの種の厳密さは、息苦しい圧迫感を観客にあたえ、敬遠される要因ともいえると思います。

『僕は妹に恋をする』においても、環境音や自然光や息づかいなどの生理が溢れかえっているにも関わらず、自由な空気感とは程遠い濃密な閉塞感のなかで神話的宿命を背負ったふたりの道ゆきが探求されてゆく。

画面の構造化と連鎖する説話の厳密化は、おおよそ以下のように示されます。

冒頭(幼なじみの少年少女がやがて離ればなれになるホウ・シャオシエン『恋恋風塵』と瓜二つのファーストショット)、真暗な画面の中央に白い光がみえ、やがてそれがトンネルの出口へと向かう列車の視点によるものだと判明し、やがて画面全体に広がった光はハレーションを起こす。その列車は幼少時の二人に永遠の愛の約束を交わす〈約束の地〉に至る。
この、画面上手前の空間は暗く、奥の別空間は明るく(明るすぎて)不可視、という縦の構図は以後反復され(階段をのぼり屋上へ至る場面や、体育館と屋外の道を同時にしめす場面など)、クライマックスの再びのトンネル場面、及びラスト、〈約束の地〉から画面奥に二人が遠ざかってゆく遠景のシーンで閉じられる。(不可能性への〈希求〉の主題。)『blue』でも、幾度も登場する縦にのびる野道は、海と空の接するあの海辺、小西真奈美と市川実日子のふたりだけの〈約束の地〉へと通じていて、ラストカットで再び出現することで、その円環を閉じていた。

あるいは『blue』でも描かれていた〈並ぶ〉ことの主題(鏡/重複/対比の主題)。キリがないので主なものの列挙だけ。並んで横たわること(そこで向き合ったり、あるいは片方がいなかったりという変奏)。二段ベッドという空間で同方向をむき横たわること(結ばれる=それが重複する/重なりあう)。それぞれひとりずつの別の異性のパートナー(片方がデート中に、もう一組もデートする)。自転車に二人乗りし同方向を指向。そして、本作でも秀逸で印象ぶかいキス描写は勿論、相互侵犯的な性交と異なり鏡面対比的な接触だ。阿部嘉昭は『blue』評で〈接吻には濁った欲望がない〉〈だからそれは最終的に口と口との友愛の接吻に転ずる〉と指摘した。それに準じれば、本作でも、キスのみで描かれる松本潤と榮倉奈々の性愛が、ラストで友愛に至るのは必然だった。
そして、並列/重複/反復/鏡面対比の主題は、乱反射するクライマックスの、交互に背負いあい、幾度も往復するシーンで最高潮に達する(また、直接的には性交が描かれない今作において、ぼぼ性交描写ともいえる場面)。

大ざっぱにいって上のような厳密化された構造内で、抽象化された双子の兄妹の恋愛〈感情〉が綴られてゆく。映画内部に運動をもたらすのは(いずれかの)恋愛主体者の感情によってのみで、いわば映画全体が恋情の運動体そのものとなる。その蒸留された観念の抽象化がやはり息苦しさを映画にもたらすが、双子の恋愛の成就という題材の神話性は、純化した感情運動の抽象性と相性良く、“エモーションの持続”を特化するという属性をもつ長回しの多用も、神話的物語に肉体と感情を定着させた。

演じる役者陣は、郁役の榮倉奈々、頼役の松本潤も悪くはないけれど、印象鮮烈なのは楠友華役の小松彩夏。『恋文日和』(04)『ドリフト』(06)でも印象を残しましたが(『マスター・オブ・サンダー/決戦!!封魔龍虎伝』(06)では、別の意味で‥)、今作での、望みのない想いに存在を賭ける、“哀しみ”を少女の身体と大きい瞳に宿す儚いつよさは格段に鮮烈で、宿命的に空虚に墜ちてゆくさまは安藤映画のミューズを体現してみえます。それに比べると、松本潤と榮倉奈々は、頼や郁というよりはまだ、“松本潤”であり“榮倉奈々”であり、代表的イメージである『花より男子』『ダンドリ。』のバリエーションにみえてしまっていたかもしれません(ただし榮倉奈々の身長の高さは、妹萌え的誤読を拒絶する存在の確かさを画面に刻み得た、と思う。)

秀作だとおもいます。ただし、欠点がないとは言えないとも思う。まず冒頭の回想場面、ふたりの子役の“笑顔”の演技は、映画全体をぶち壊すほどの破壊的ダメさでした。そして、そもそもその〈約束の地〉の舞台設定が観念に傾きすぎ、かつ、あまり魅力的な映画的空間になりえていなかった(同様のことが、二段ベッドの空間設計にも言えると思います)。
また、人物の生の輝きより、ときに構造の厳密さを優先する演出は、例えば“振りかえる人物”をカメラの回り込みもしくはカット割りで捉えるときなど、人物の動きが死んで、仕草が亡霊化してしまっていると感じる‥段取りと丸投げの混乱が起きているんじゃないかと‥。
あと、ささいなことですが、最も良いと思えた、松本潤と小松彩夏がふたりで歩き、ホテルに入り性交に及ぼうとする一連のシーン。国立の大学通りを横切るカットから、脇道に入り古びたラブホがあるカットにつながるのですが、国立市は文教地区なのであのような施設は駅前にはないのだった‥。べつに、国立を舞台にしているわけでなくて単に無名の一本の通りとして使用したんでしょうが‥良いシーンだっただけに、個人的ながら興がそがれたことが残念でした。

しかし、最大の問題は、このような長回しと厳密な設計による勝負の仕方が幾分80年代的な古めかしい戦略にみえてしまうことで、果たして時代/題材とキチンと向きあって戦い得ているかというとやや疑問が残ります。その閉塞感が、映画を観る者に停滞した息苦しさを感じさせ、〈恋愛物語〉が純粋に〈恋愛感情〉として突出して結晶しようとするのをどこか妨げているとおもう(厳密な長回しでは世界一のテオ・アンゲロプロスが、『霧の中の風景』(88)『こうのとり、たちずさんで』(91)あたりを世に問うたときには、両方とも偏愛する映画ですが、さすがにもうこの巨匠の時代的役割は終わっているんだなと寂しさを感じさせた)安藤尋には自分の作風を貫くことでではなく、毎作ごとに自己を刷新してゆくことでブレイクしてもらいたいと思う。

しかし、そのような問題があるにしてもないにしても、いかにも“映画らしい映画”を、それを求めてもいないし体験したこともないかもしれない観客層に経験させることになるとしたら、それはとても貴重なことだったと思う。

映画館は比較的若い女性客が9割以上を占めていた。いつも試写室で映画をみるような人種には無縁のことなのでしょうが、この『僕は妹に恋をする』を、男性ひとりで観にいくのは相当な勇気が必要だ。もっといえば男性ふたりで行くのも三人でいくのもかなりハードルが高い。自分のことでいえば、異性と行くことを画策したがあえなく頓挫し、結局ひとりで行き、変質者に思われやしないかと戦々恐々として観る苦行となった。
そのような中で観る『僕妹』は、10代20代のその手の女性客の、あまりのマナーの悪さに観賞を阻害されることに。おしゃべりは上映中はそんなにないのですが、とにかく上映中、絶え間なくサラウンドでビニールをガサガサやる音がきこえる。息づかいの音を基調としたような緊張感ある長回しのシーンなどでは、殊更ガサガサは耳につく。よって、音響がじゅうぶんにはきこえてこない場面もあった。監督はじめスタッフも、客層を含む上映環境にまでは計算が行き届かなかったのではないでしょうか‥。

T0005015.jpg

theme : 僕は妹に恋をする
genre : 映画

『孕み-HARAMI- 白い恐怖』

Harami001.jpg

『孕み-HARAMI- 白い恐怖』

(2005年、日本、76分)

監督・編集:田尻裕司
脚本:佐藤有記
出演:前田亜季、絵沢萠子、矢口壹琅、高瀬アラタ、中山玲、磯貝誠、はやしだみき、川瀬陽太、今井悠貴

大雪降りしきる、とあるペンション。出産を控えた17歳の娘・ユイは、両親とともにやって来た叔父夫婦の営むこのペンションで出産を迎えるはずだった。しかし妊娠にも出産にも実感がなく他人ごとのように振る舞うユイに、両親は戸惑いを隠せない。近くの山小屋にすむ盲目の男・サカタを周りのものは気味悪がるなか、ユイは強い興味を抱くが‥。

第2作『OLの愛汁 ラブジュース』(99)の、繊細かつ丁寧な、必然性のある性描写で一躍名をあげた〈ピンク七福神〉のひとり(だった)、田尻裕司監督も、若手だと思っていたのに気づけばもう10年選手。。(それなりの秀作とされている『ノーパン痴漢電車 見えちゃった!!』(00)や『姉妹OL 抱きしめたい』(01)は個人的にはどうも今一つ肯定しづらいものの、)近年の『不倫する人妻 眩暈』(02)、『淫らな唇 痙攣』(04)という、いわゆる(?)〈佐々木ユメカ二部作〉においては、身体の物質性と女性の感情の揺らぎを独自の話法で描いて確かな達成を示し、作家としての充実度を増してきている感がある田尻監督。
獅子プロでは、瀬々敬久、佐藤寿保、今岡信治といったアクの強いアヴァンギャルドな作家に囲まれる環境のなか、聡明な田尻裕司は戦略として、カット割りの多い、性を感情にそって丹念に紡ぐ、丁寧な職人監督の道をとらざるを得なかった。その結果〈印象的なカラミイコール田尻印〉というふうに作風が確立したと認知されてゆく。しかしその作風は、ピンク映画界内から外へ波及し一般にブレイクするにはあまりに地味だし、ピンクを離れた一般の場で機能するものなのか、どうか‥。

四天王以後の世代では、今岡信治(=いまおかしんじ)や女池充がピンク映画の改題の一般公開でブレイクしてゆくなか(女池充の『ビタースイート』『花井さちこの華麗な生涯』が一般公開されたのは『孕み』公開とほぼ同時期ですが‥)、何故か低予算ホラーで遂に一般デビューを果たすことなったのは、器用貧乏的なところを買われてのものか。『孕み』なるホラー映画の監督に田尻裕司が、ときいたとき、テクニシャンだけにいざ一般映画を撮ると平凡な印象しか残せないサトウトシキの悪夢(『アタシはジュース』から『ちゃんこ』まで‥)ふたたびか、と不安がよぎった。

『孕み-HARAMI- 白い恐怖』を観たひとがまず感じるのは居心地の悪さではないでしょうか。
徹底して説明が省略されているために、設定も狙いも登場人物の感情もみえてこないまま、観客は何にノっていいか分からずに映画が進んでゆく。冒頭からの畳みかけるような不安定なカメラワークとカット割りで車で雪国に入り込んでゆく家族らがとらえられるが、乗っている人物たちの関係も前田亜季の妊娠の経緯も今一つ明らかでないままに杖をついた盲目の大男が車内に侵入してきて黒く視界を覆ってしまい、感情的背景もみえぬままに前触れもなく窓の隙間から携帯を捨てさる前田亜季、直後、突然の悲鳴が車内をつんざく。後追いで意味が了解される事柄もあれば、観客の理解を放置したまま進行される事柄もあるが、どちらにしても、ノるノらないに関係なく映画はどんどん移ろい過ぎてゆく。

ホラー映画を観る側として定めてもらいたい、(恐怖を感じる)“主体”もあやふやなまま宙吊りにされる。普通に考えればヒロインのユイ=前田亜季に感情移入(主体化)して、理解困難な襲撃者・サカタを恐怖の対象として相対する図式となりノってゆくことになるはずなのですが、そもそもその前田亜季が、両親に「‥‥怖いのよ‥」「ユイがか?」「時々、バケモノみたいにみえる‥」と会話されるほど、冷淡な表情で現世的な感情から遊離していて、不気味に観客の感情移入を拒絶している。終盤、前田亜季とともに逃げることになる子供ですら、大男に雪玉をぶつけ、凶悪にわらい「バケモノ」と罵る、感情移入できぬ不知の領域に生きる、これもまた一種の「バケモノ」だ。勿論、前田亜季も。。

仮タイトルが『バケモノ』であったというこの映画、脚本は『ユダ』『肌の隙間』で非・説明的に性と犯罪を描き、瀬々映画に非=知的で原初的な輝きをもたらすことに貢献した佐藤有記。ここで描かれる〈怪物性〉も、ある原因や背景から説得的に生じるのではなく、すべての人間のなかにあらかじめ在る非=知の領域から噴出するものとして描出される。

それに対して田尻裕司監督が充分応え得たのか、どうか。まずひとつの戦略として色彩設計があった。ほぼ盲目の大男・サカタは、ボンヤリと平板な視界に現れる外界の反射としての色彩に反応して、凶暴化したり優しさが噴出する。前田亜季はそれをなぞるように屋根上で目を閉じ、一面白いボンヤリした視覚に浮かぶ青色(青は、妊娠した胎児をあらわす色として頻繁に青いショットが挿入される)を目指して死に身をさらしてみせる。黄色は保護を促す色として機能し、赤は殺意=怪物性の噴出を指向する。

しかし、じっさいの画面は、そんな設計もぶち壊す壊滅的な出来映えをさらけ出す。照明も足りずにピントも甘く、特殊効果もチープで観るにたえない代物。DV撮影ということもありましょうし、ピンク映画に劣らずタイトな現場だったという要因もあるにせよ、 田尻監督本人があるインタビューで、〈作り手の思いを汲んで映画を観るなんて、そんなの僕はまるで信用していないですよ。出来たものだけ観ればいい。ちゃちいものはちゃちいって、ちゃんと言おうよと。〉と言っているので遠慮なしで。ちゃちい、と。
銃撃の音も閃光も間抜け、雪崩で道が塞がれたビジュアルもヒドくてシラケる。人々が消えてゆく数々の場面の描写が不鮮明、亜季パパが建物の外に怪物を追ってゆくアクションも間が悪い、 クライマックスの対決も音楽もなくモタモタしているので緊迫感なく、怪物の弱点が子供の叫び声って‥‥。

このような、不出来で不鮮明な描写の集積では、志高い制作の狙いや意図などといったものは、むなしい虚言でしかない。田尻監督のブレイクは、やはり性表現を伴った映画によって成されるのを待つしかないのでしょうか。。


theme : 日本映画
genre : 映画

映画版『ハチミツとクローバー』

323400view001.jpg

『ハチミツとクローバー』

(2006年、日本、116分)

原作:羽海野チカ
監督・脚本:高田雅博
音楽:菅野よう子
出演:櫻井翔、蒼井優、伊勢谷友介、加瀬亮、関めぐみ、西田尚美、中村獅童

竹本、森田、真山、山田、はぐみ。美大で出逢った彼らは、それぞれ届かない想いを抱えていた。竹本は花本教授の姪・はぐを一目みた瞬間に恋におちる。山田は真山に、真山はバイト先の未亡人・理花に、それぞれストーカー的に片思いしているが、想いが成就する気配はない。森田ははぐに何かを感じ、興味をもつ‥。

2期にわたるアニメ化、様々な雑誌等での特集、その多様なメディア展開をうんだ大ヒット少女マンガ『ハチミツとクローバー』。そして展開の最終段階でもあろう実写映画版の公開。予告編をはじめてみたとき、ヤッチャッタ‥と思ったのでしたが、いざ公開されてみると、それなりに評判が良くて、これはもしかしたら‥と期待して観たのですが、結論から言って、ホメるところを探すのに苦労したし、苦労するくらいいいところが無いのにビックリした。というと意地の悪い言い方か‥。いちおう、ホメる気満々で観賞にのぞんだことは、言っておきたいとおもいます。

スピッツの主題歌は、良かった。自分は嵐は好きなんですが、嵐の曲よりもずっと良かった。別にファンでもないのに、さまざまな楽曲が劇中に使用されているこういう映画のなか、横並びに聴くと、ヤッパリいいんだな、と思った。

まず冒頭、出逢いという重要なエピソードが起こることになる、先生の家。1階のみんなのいる場所と2階のはぐの部屋、という、魅力的なはずの舞台装置が全く活かされていない、とまず躓いた。後半にも、皆の集まるなか、森田が2階からはぐを連れ去る場面があるが、なんの空間的な面白味もない。先生の研究室、奥がはぐのアトリエと化している空間の面白さもぜんぜん活かされることがない。真山→山田への拒絶場面、はぐと森田の合作による交歓場面が繰り広げられる中庭の空間も同様‥。もったいない。ふんわり感でも出したかったのか、画一的に多用されるシーン終わりのフェイドアウトも、効果への考慮が甘い。自転車でついに走り出すシーンの運動感の欠如。ファッションの色合いは考えられていても画面全体、映画全体の色調が隅々までコントロールされていない。。映画以前の商品だとおもった。

監督はきいたことない人で、どうせCMディレクターあがりだろうと思って調べたらやっぱりCMディレクターあがりだった。そういう予断や予想を裏切らない、予定調和な構築力の欠如っぷりがそもそも問題なんじゃないでしょうか。
さまざまな要素が豊かに絡み合う原作から、“恋愛”と“言いたいように言い、やりたいようにやる”の二点だけを抽出したシナリオ化は、多くのものを捨て去った。よって竹本の想いも、森田の想いも単なるフツーの恋愛感情でしかないし、2時間もある上映時間の最後の最後の結論が、好きなひとに好きって言うだけじゃ、そんなことを言うためだけの2時間かよとおもうし、あの中途半端に短い自転車走行シーンも意味をなさないんじゃないか、ともおもう。あるひとりの手が、もうひとりの肩や手に触れても、ハッと感情が波立ったりすることなく、シナリオ消化の段取り芝居に流れ去っていくだけ。。ここにあるのは形骸化した『ハチミツとクローバー』の残骸、じゃないでしょうか。
天才は天才で好きなようにノビノビやれ、凡才は凡才で自分に誠実にあれ、というありきたりな警句が『ハチクロ』の最大メッセージだというなら、こんなにも皆の心をつかんでなかったんじゃないか。

問題の俳優陣は、薄目でみればなかなか健闘しているとおもいます。難役はぐの蒼井優も、(魅力的ではないけど、)エキセントリックじゃない、ああいう朴訥としたはぐもあるかもしれないと思ったし、関めぐみや櫻井翔は、標準的なテレビドラマくらいの演技と造形ですが、悪くないと思います。

最大の問題は、森田役の伊勢谷友介。たしかにこういう男がモテるだろうという魅力を発散してはいます。しかし、こういう喋り方、身振り、髪型への気のつかいかたやピアス、世渡りのうまい振るまい。すべてが、凡庸な才能の人物のパーソナリティを示している。〈天才〉として、はぐと通じ合うポジションの人物なのだから、この伊勢谷友介の森田の存在は、映画を基盤からぶち壊した。それに比べれば、西田尚美のリカという、惨劇のようなミスキャストなど、かわいいもんです。

一番よかったのは堀部圭亮(マリオだかルイジだかの役)。マンガから飛び出してきたかのようなジャストフィットなキャラクターでした。

一緒にみたひとに、面白かったところをきいてみると、長考したすえ、「‥‥‥絵がいっぱいでてきたところ‥」と苦しげに長所を挙げていました。

theme : ハチミツとクローバー
genre : 映画

『初恋』(06)

20060624000929.jpg

『初恋』

(2006年、日本、114分)

監督:塙幸成
出演:宮崎あおい、小出恵介、宮崎将、小嶺麗奈、柄本佑

60年代後半。学園紛争。ジャズ。居場所のない孤独な少女が、兄のつてを頼り、とあるジャズバーに辿り着く。そこで出逢ったひとりの青年。国家の有りようが揺らいでいた時代。青年は理不尽な時代の流れに抗うように、国に一矢報いる計画を静かにあたためていた。。

三億円事件の真相(?)を題材とした、映画と同題の原作は、主人公と同名の作者がプロフィールを公表しないということによって、あたかも本当の実行犯がノンフィクション的に書いた小説(?)なのではないかと思わせるフックで、話題作/ヒット作となり、今回の映画化は宮崎あおい主演、ポスターのメインビジュアルは彼女の裸体的なアップ。“初恋”というタイトル。ひとをオッと思わせる、素晴らしい企画。まだ公開してないの?と思うころに公開される、適度な宣伝期間。それだけでもう及第点。

及第点、という熱のない言い方をしたのは結果出来上がった映画は微妙だとおもったからで、最終的な結論を先に言えば全般的に駄目でいいところが少し、嫌いとか憎いという感情はありません。という印象で、(悪口なら読みたくない、という方はこのへんで‥)以下、どう最終的にダメと思うのかを言います。

序盤、モノローグのなか、予告でも流れていた白バイ警官がヘルメットをとると長い黒髪がながれおちる印象的なシーン、タイミングとスピードが微妙に悪くて鮮烈さがない。嫌な予感がする。

まず、ひとつのキモとなる、三億円事件とその時代の描写ですが、登場する若者たちのカッコつけかた・しゃべり方が、今のカッコつけかた・今のしゃべり方で、ジャズバーも小綺麗でオシャレな喫茶店みたいで、空気も澄んで空調良さそう、当時の危険な悪い場所感が感じられない。そんなにオドオドして来るほどの場所に見えない。『嫌われ松子の一生』でも気になったが、ニュース映像やラジオのアナウンスで当時の重大ニュースを流して時代を知らしめる安易な手法は引っかかる。『Aサインデイズ』とかのやりかたもあるのに。いちいち通りがかりの〈一般大衆〉がさりげなくなく社会状況の説明台詞を口にする。未成年と踏んだ宮崎あおいを補導しようと追う警官ふたりが、あっちだ!追え!こっちへ回りこむ!といったふうな大時代的な説明台詞を吐く(ヒールのあるブーツで走る女の子に追いつけない警官たちって‥)のに代表されるように、観客の観賞能力を低く見積もった“説明”ばかりで描写がない。世の中にルサンチマンを抱いているらしい小出恵介も、〈頭で勝負する〉と言っているが頭が良いと思わせる描写はなく、ベストセラー『嘔吐』を手に持たせて〈東大
生〉というレッテル貼るだけでは描写とは言えない。(三億円強奪計画も杜撰なものだから、本人がそう言っているだけ、という意地悪な描写なのかもしれませんが。)

描写でなく、説明。
それがこの映画の巨大な特徴だと思います。

端的に、具体的な例があります。小出恵介が行方をくらましたあと、彼ののこしたアパートの部屋に宮崎あおいが訪れるシーンがある。

部屋に入る宮崎あおい。見回す。やはり彼はいない。部屋のすみの小机に突っ伏す。どこ行っちゃったんだろう‥。ふと半開きの押入れの前に落ちている彼の愛煙していた銘柄のタバコをみつける。半開きの押入れに目を向けるとデカいダンボール箱に三億円。

このシーン、観るとわかりますが、押入れの半端な開きかたの死角の出来ぐあい、ちょっと前に落ちている幾分中身の減っているタバコのパッケージの存在は、ガランとした部屋のなか、思いっきりアヤシくて、もしこの部屋に誰かいるなら間違いなくそこにいると思えるような唯一無二のチェック・ポイント。そこを何ら目にとめず、いないと諦め、ふとそれらを見つける不自然さが何を示しているかといえば、入室→不在の確認→途方にくれる→金をみつける、という話の流れの説明が順序として決まっているということで、〈切ない〉はずの彼女の感情/心理は無視され、物語展開の都合上、単に、〈切ない〉という感情/心理の〈説明〉をしているということが判明してくる。

ここから、もうひとつのキモである、〈初恋〉が、
説明としてしか描かれないということが導かれてゆく。

出逢いのシーン。カリスマ的魅力を発散する兄を頼ってジャズバーBにやってきた宮崎あおい。怪しいはしゃぎ方で彼女を迎え入れる面々。小出恵介は、少し離れて座っていて、〈寡黙に、知的で、大人で、孤独で、他の人達と一味ちがう〉点を前述の本などで示してゆき、それらに宮崎あおいが惹かれるという設定になっているようなのですが、惹かれる、あるいは惹かれあっていると納得させうる描写はなく、〈孤独〉であったり〈居場所がない〉ことであったりといった要素的設定が説明されてゆくのみだ。たとえば、男女の出逢いのシーン、最近の例でいえば、『るにん』においての出逢いは以下のよう、船着き場に舟が着く。高台の上からじっと見下ろす女。船からおり、あたりを見渡す男。互いに、大勢のなかのひとり。女が見る。男が女に目をむけ、見つめる。この単純なカットバックで、初対面の男女が惹かれあうさまが、見事に描かれる。『初恋』にはそれがない。だからラストの小出恵介の気持ちの種明かしも唐突な感じが否めない、一応〈秘めていた〉という設定なのでしょうが、画面には、秘めていた感情も、ふたりの間に流れる感情の関係性も見あたらなかった。
そもそも、(そして、これが、最大の欠点ですが)、複数の登場人物が画面上にいるときに、人と人との、互いのあいだに空気のように目に見えない関係性が生じていない。それを言葉で証明するのは難しいのですが、役者たちはそれぞれの設定に従ってそれなりの演技をしているだけで、そばにいる人とは関係なく物語と説明が消化されつづけてゆく。兄がすこし離れた場所にいるときの妹。気の合う仲間がそばにいるときの男と男。感情が波立っていない。『THE有頂天ホテル』にさえ、それはあった、のに。映画畑の監督とはおもえない所業。残念だ。ただヒットはしてほしいと思う。

(良かった点をいうのわすれてた。美術。彼がいなくなったあと、日当たりのよい道を宮崎あおいが画面右から左に歩いてゆき、しゃがみ込む場面。小嶺麗奈の硬い喋り方。)

theme : 映画感想
genre : 映画

09 | 2017/10 | 11
Su Mo Tu We Th Fr Sa
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
プロフィール

ししらいぞう

Author:ししらいぞう



東京在住

調理師のようなことをやっています。

趣味は立ち読み 格闘技観戦 映画観賞

3月生まれO型  

ランキング参加中☆
良かったらクリックをお願いします


ブログランキング・にほんブログ村へ
ブログランキング
ブログ内検索
最近の記事
リスト
映画紹介 (ハ行)の記事
→次へ
カテゴリー
Category Sum
全記事一覧
あいさつ 11
映画紹介(ア行) 21
映画紹介(カ行) 19
映画紹介(サ行) 13
映画紹介(タ行) 15
映画紹介(ナ行) 7
映画紹介 (ハ行) 18
映画紹介(マ行) 9
映画紹介(ヤ行) 7
映画紹介(ラ行) 5
映画紹介(ワ行) 1
観るまえの映画のこと 19
本と映画 22
雑誌と映画 18
その他映画 36
フルモーションレーベル 14
『恋する日曜日』 13
ユーロスペース 5
本・マンガ 40
雑誌 22
ドラマ 60
いろいろなBest10 15
日記 75
作家・監督・俳優・女優 6
舞台・イベント 4
未分類 8
月別アーカイブ
最近のコメント
最近のトラックバック
リンク
YouTubeSEARCH mini
おみくじ

©Plug-in by
FairyDances
★
HeroRisa

ぱたぱたアニメ館
GIFアニメ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。