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?『くりいむレモン 旅のおわり』その1

たびのおわり10
『くりいむレモン 旅のおわり』

(→選出理由?ただ、愛のためにからのつづき)

先日、大久保の病院通いのついでに、久しぶりに中野に寄りました。
いつも順路になっている音吉プレミアム1号店(アッチ系の中古CD・DVDショップ)への階段を上がってみると防火鉄扉が閉まっており、貼り紙がはってあった。つい2日前に、移転のため閉店とは‥。そして移転先が広島とは‥。ネットで物を買わないのでこういう店がなくなると地味に痛手。
ブロードウェイ3階では、まずタコシェ。『Spotted701』は、『愛のむきだし』@ユーロスペースの際『ホームレスが中学生』のシナリオ採録(Vol.8)が目当てで初めて買いましたが、正直あんまり読んでいなかった。趣味は近そうなので、この機会(?)に読もうと思って既刊Vol.1~11のうち、あんまり内容的に興味のなさげな数号以外を購入し(レジには伊東美和氏もいた)、読んでみました。面白い(どちらかというと女子の文章の方が面白い。ただし森下くるみは良くなかった)。タメにもなる。しかし、印象は、ポレポレ東中野におくフリーペーパー。でもお金はとる。面白いフリーペーパーも、雑誌となるとどうか。雑誌は運動体としての駆動力がないと、ワクワクが発生せず、仲良しクラブの好きなもの擁護に留まる怖れがあるとおもう。
(そっち系の配給等をやっている人が手がけているという背景もあり)『Spotted701』の推しは、松江哲明を中心に、井口昇、山下敦弘、いまおかしんじなど、ピンク/インディーズ系で、仮想敵はメジャー系。しかし、メジャー系に届くはずもない場で、誰も傷つくことも刺激を受けることもない場で仲間内を(作品が発表されるたびに)肯定的に語ることには、運動がないともおもえる。山下敦弘あたりを仮想敵にする位じゃないと、雑誌の立ち位置が見えてこないんじゃないか。自らの配給する作品の宣伝媒体も兼ねていることから意識的に距離をとらなければ、そのへんじゅうにある業界ベッタリのジャンケット的な雑誌群と、本質的には変わらないものになってしまうんじゃないかと。
あと特集的に『デコトラ☆ギャル奈美』を推している雑誌がとっくにあった(Vol.7)のを知らなかったとは不勉強でシマッタとおもった。しかし特集は読みでがありました。城定監督のフィルモグラフィが知りたかったので、ここでタラガ氏のサイトを知ることが出来て良かった。僕も『くりいむレモン 夢のあとに』が大好きで、何度も繰り返し観てます。

で、『Spotted701』という雑誌の主人公は松江哲明ですが、個人的に、なぜか松江監督に興味がない。悪い印象も何ももっていないのですが、とにかく特になにも思うことがない‥。
そのあと新刊書店や古書店で『シナリオ』『kindai』『少年たちはなぜ人を殺すのか』『アダルトビデオ革命史』『ケータイ刑事マニアルBOOK2』等を購入。『kindai』は今号で64年の歴史に幕。ラスト表が℃-uteって、kindaiらしくない。創刊号の表紙が山田五十鈴、2号が藤田進と原節子、って今のkindaiからするとちょっとどうなのと思う。キング・アンドリウが自主映画やってたことは何となくは知っていましたが、ケータイ刑事本の小中和哉インタビューによると、小中氏は<多聞ちゃん>とは映研の先輩後輩で(小中氏が1つ年上)、『ケータイ刑事』は<多聞ちゃん>が<当時撮ってた作品の世界観に>わりと近いとのこと。

枕のつもりがいつまで経っても繋がらないので唐突に話を変えますが、(つづく)
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theme : 日本映画
genre : 映画

青山真治“監督作品”『酔眼のまち ゴールデン街』

『酔眼のまち 新宿ゴールデン街1968~98年』
(たむらまさき、青山真治/朝日新書)


〈カウンターカルチャーの聖地・新宿ゴールデン街。1968年の新宿騒乱からバブル期の狂乱を経て、98年までの映画人の梁山泊ぶりを、渦中にあった映画キャメラマンたむらまさきの証言を〉映画監督・青山真治が聞き書きした、という触れ込みの薄い新書、『酔眼のまち 新宿ゴールデン街1968~98年』。

この本を一読したところの印象は、〈新宿ゴールデン街〉について、その黄金期に立ちあった者(たむら氏)から貴重な証言を採取し、ひとつの街の(一時代の)すがたを描き出す、というところに主眼はないと感じられます。それ(新宿ゴールデン街)はこの新書の企画が商業的に成立するための方便であって、〈キャメラマン・たむらまさき〉の貴重な証言/発言を出来るだけ長い分量として形にして残す、その映画史的な意義がこの書物の指向するところであり、〈新宿ゴールデン街〉が語られ、その証言が採取されてゆくのは、あくまで副次的な要素に過ぎません。

たむらまさき/田村正毅は映画ファンなら誰しもその名を知る名キャメラマンで、比較的若い観客にとっては歴史上の、あるいは神話的人物として捉えられているのではないでしょうか。黒木和雄『竜馬暗殺』(74)、柳町光男『さらば愛しき大地』(81)、相米慎二『ションベン・ライダー』(82)、藤田敏八『修羅雪姫』(73)等の日本映画史に燦然と輝く重要作のキャメラマンをつとめたのは勿論のこと、とりわけその名が無条件に(?)リスペクトの対象となるのは、小川プロダクションのというか、小川紳介の主要な映画群のほとんどの撮影を手がけたことによるのが大きいとおもう。小川紳介監督第1作『青年の海/四人の通信教育生たち』(66)から小川作品に撮影助手として就き、「三里塚」シリーズの第1作『日本解放戦線・三里塚の夏』(68)から撮影としてクレジットされ、以降シリーズ全作品に撮影として関わり、山形県に移り住んでからの『ニッポン国古屋敷村』(82)、『1000年刻みの日時計・牧野村物語』(86)の記念碑的二大巨編も担当。世界映画史に永遠にその輝きを刻むだろう小川作品の代表的キャメラマンとして、その名は畏怖と憧憬をもって読者に受け止められているのではないかと思います。

さてこれまでインタビューやら何やらで、その発言/証言を読んだり目にしたりすることも絶無というわけではなかったのでしたが、たむら氏は〈基本的に異様に口数の少ない人〉であり(〈「無口のたむら」と言われるくらいだったんだけど。だから「恐い」とも言われたのかな(笑)。無口でいて、いきなり怒鳴りだすと言われてたんだ。〉)、そうであれば、なかなかその発言/証言がまとまった形で世に出るのは幾分の困難があるでしょう(小川紳介全作品追悼上映会(@アテネ・フランセ文化センター)において、『三里塚・岩山に鉄塔が出来た』(72)上映時のゲストとして田村氏が登場したさいは、その無口ぶりへの配慮から松本正道氏が聞き手としてフォローしていましたし(〈普通ですと、講演というかたちでお話が進むんですが、田村さんはとても寡黙な方なので、一応僕が一緒に座らせていただいて、質問をしてみようということになりました〉(松本))、また、〈アテネ・フランセ文化センターで僕のやった作品を特集上映してくれまして、そのとき舞台に出て何かしゃべれ、というんで、(略)心細いんで(佐藤)譲に一緒に出てくれ、と頼んだ〉という具合に、その口の重さにはかつて定評があったよう)。
しかしその貴重な発言/証言の数々が世に出ないのは非常にもったいないというわけで、後発世代の映画監督として『Helpless』(96)でたむら氏と組んで以来、〈実のところこの十年、それこそゴールデン街のカウンターで、あるいはロケ先の宿舎だかその地方の酒場だかで〉多くの話を交わすことになった青山真治は、〈いつの間にかどんな話も気楽にできる立場に潜りこんでしまった私が、ならばここはひとつ、〉ある時代の、ゴールデン街や映画史の貴重な証言者であるたむら氏に長いインタビューをおこなうという〈お節介を承知で一肌脱いでおくか、と踏んだ次第〉で、それがこの『酔眼のまち 新宿ゴールデン街1968~98年』という薄い書物として結晶する。

本来であるなら、この手のインタビュー本は現行のものより、発言のより細密かつ多量な収集/提示と的確で膨大な脚注の集積によって、ひとつの時代のひとつの文化を浮かび上がらせる、というのが資料的にも書籍としてもよりよい姿であるように思えるし、朝日新書からではなくてワイズ出版あたりから重量感のある大部の書物として出版されるほうが、よほど有り難かったなという残念な気分もある。

しかし新書という性質上、そのすべてを記録し貪欲に取り込み膨れあがろうとする類いの指向性を望むべくもない『酔眼のまち』は、たむら氏の〈無口〉と〈酩酊〉をある種の口実として、その発言が戦略的に組織される。各章は〈ロールⅠ〉〈ロールⅡ〉‥と名付けられ、それらを構成するパート群は〈シーン1〉~〈シーン23〉とシーンナンバーをふられてゆく。明らかに、というか言うまでもなく一本の映画という体裁を模して組織された『酔眼のまち』は、編年体的なクロニクルとしてでなく、酩酊する語り手の非・厳密さに添うように時と場所が錯綜し、モンタージュされるようにして、全体でひとつの時代/場所/感情が浮かび上がるような、“青山真治監督作品”の『酔眼のまち』、という“映画”として、撮られ、編集されたものとして、私たちのまえに提示される。
青山真治の監督作品でいえばそのDV作品、『軒下のならずものみたいに』や『すでに老いた彼女のすべてについては語らぬために』あたりの感じの、40~50分ほどの中編がめざされているようにみえる『酔眼のまち』においては、「死者は何度でも回帰する」という青山映画的主題を担った故・太田喜代子というキャラクターが、〈不在の中心〉としてこの“映画”には遍在しています。
誰がみたって露骨に中上健次の『岬』『枯木灘』『地の果て至上の時』の秋幸三部作に添わせるように「北九州サーガ」を(浅野忠信の役名は‥などと指摘するのも憚られる露骨さで)組成していった青山真治は、本書においても中上に倣うかのように、その彼女(太田喜代子)の、〈本書の至る所に響いているはずのあの高らかな笑い声〉を、(オリュウノオバの声や瞳が中上健次の幾つもの小説に遍在し全てを見渡しているように)すべてを包みこむ遍在する基調として響きわたらせようと試みている、と感じられる。

ここでは、〈でも「唯尼庵」があって、キヨがおってのゴールデン街というところもあった。いなくなることによってゴールデン街が違ってしまった、と言えばそれもそうかもしれない〉と、まるで中上的「路地」が語られるときの口調のように、「ゴールデン街」が語られる。〈幻覚のさめたトモノオジは、はるか昔にオリュウノオバは死んだはずだ、それに律儀者で信心深いオリュウノオバが、(略)アル中の自分のような半端者に、柔らかい路地の女のように笑みをつくり手招きするはずがないと〉思い、〈トモノオジが思い浮かべ、あの時はああだった、この時はかくかくしかじかだったと神仏の由緒をなぞるように(略)、幻覚とも現実ともつかぬ相貌のオリュウノオバ相手に日がな一日来る日も来る日も語るのは、アル中のトモノオジの深い嘆き以外なにものでもなかった〉といった、『奇蹟』の記述におけるトモノオジ/オリュウノオバの二重化された語りをなぞるようにして、錯綜し酩酊したエクリチュールとして「たむらまさき」の「語る言葉」が遍在する太田喜代子の声を全編を覆う基調として、切り刻まれ、編集されてゆく。

〈話はもどるけれども〉、〈話を前に戻すけれども〉、〈また少し話が戻るけど〉といちいち頻繁に往還し錯綜し、反復するたむらまさきの語りは、この書物/映画が、露骨に反・編年体的クロニクルとして指向されていることを表します。実際、『酔眼のまち』を読んで「新宿ゴールデン街」の正確な知識を仕入れたいと願う種類の読者の期待は、残念ながら裏切られるでしょう。そこで語られているのはあくまで語りのおぼつかない酩酊者・たむらまさきの、過ぎ去ったが確かに在ったある時代へ、過ぎ去ってしまったがまだたしかに居ると感じられるひとへ向けての、ある感情の滲むエクリチュールに過ぎなくて、その様相があくまで反・知識的、反・情報的な不定形さを帯びるのは、カテゴライズを極端に嫌うというたむら氏のある種のシャイネスが、『酔眼のまち』を便利で得してタメになるようなものとして結晶化していくことに違和や拒絶を感じていたためでしょうか‥。そのために結果生じた“貧しさ”の印象は、清潔に感じられて好感を抱かせる種類のものだとおもう。

本文中で〈ハローワーク〉とも称される新宿ゴールデン街は、映画史的にはある時期重要な映画人たちの集いまた流動してゆく交通的な場として読者のまえにあらわれてきます。曽根中生、姫田真佐久、中上健次、武満徹、川喜多和子やヴェンダース等々といった錚々たる固有名詞が映画の名の下にあらわれ、そして去ってゆく運動体としての街が活写される。

それが時につれ次第に、たしかに〈徐々に人が減ってきつつあり〉、〈「ゴールデン街ハローワーク」的なことはもう全然起こらなくなって〉きたとたむら氏は語り、ゴールデン街がそれこそ(蓮實重彦が『路地と魔界』で指摘するところの)中上的に「また一人」、「また一つ」と減少の翳りをみせても、インタビューを受けて〈新宿ゴールデン街〉という路地を想起するたむら氏は〈今回のこういうきっかけ〉によって喚起された様々なものごとに対しても〈そうであったのかあ。おれはその頃、そんなことを知らずに何かワイワイ飲んでて、その人と出会ったりして、なんだかんだ言ってたんだけど、(略)ちゃんと知ってれば、もっとちゃんと付き合えたかもしれなかった〉と思い、〈だから私はますますここにいます〉と言う。〈変わったから寂しいとか、ぜんぜんない〉と言うたむら氏の、〈ずっと変化はあるわけだし〉、〈うろ覚えだったことがこのたびいろいろ修正されたり、(略)その変化のことを私なりにもう一回ちゃんと反芻して〉酩酊し記憶を錯綜させる姿勢(それこそ〈右にぶつかって一つ知り、左にぶつかって一つ知るという具合に〉)は、〈減少〉に対してあくまで悲観的な感傷を持ち出さない(反・経時的姿勢)。その“語り”に、中上的魅惑を見、そしてゴールデン街に路地をみた青山真治(小説家としては中上健次のパスティーシュから出発した)が、〈独特の言葉でもって語られるのを〉音楽をきくようにして〈聴く、という試み〉により組織するという、たいへんに中上的な方法による書物の提示をめざした、と感じられるのは、自然な経緯ではないでしょうか。青山真治は、リファレンスによる他者性の導入を不可避なものと前提することで、かろうじて映画に携わることが出来るといった倫理観をもつ「映画作家」なのだとおもう。
長編小説『ユリイカ』が『枯木灘』をめざして書かれたとするなら、新書『酔眼のまち』は、『紀州 木の国・根の国物語』の輝きに魅せられるようにして形作られていったのではないでしょうか。


付記:
本文中、〈つまらない作品〉だの〈やってて面白くはなかったな(笑)。もうほとんどばかばかしくなってきて(笑)〉と否定的に述べられている映画の題名は伏せられていますが、『1000年刻み~』の仕上げから『死霊の罠』(87)あたりということから、当該の映画は高橋和夫『熱海殺人事件』(86)と推察されますが、〈あれこれやってはいるんだけど〉と複数的に語られていることから長谷部日出雄『夢の祭り』(88)もその一本だと考えられます。

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蓮實重彦の捏造癖?ーー蓮實重彦『映画崩壊前夜』

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蓮實重彦『映画崩壊前夜』


蓮實重彦の新刊『映画崩壊前夜』を読む。思ったり連想したりしたことを、以下に書いてゆこうと思います。

北野武の第1作『その男、凶暴につき』(89)に初めて接したとき、素晴らしいシーンの連続に、これは凄いとか傑作だとか思いつつ興奮しながら観つづけていたのでしたが(後年、観直したら結構スキだらけなので逆にびっくりした)、その反面、コレはちょっと‥という弱いと感じられるシーンも幾つかあって、その最たるものが白竜演じる清弘がチンピラをビルの屋上から落とす場面でした。

その直前までの、ガランとした室内に鉄パイプが転がり響きわたる音から、屋上のコンクリを振るわれる鉄パイプがガラガラ擦る音へ連鎖し、そうやって鉄パイプをふるいながら後ずさりするチンピラの背後に遥か下の地上の街並みがヌッとフレームインしてくるまでの呼吸が素晴らしいだけに、そこからの拙い指切り描写→落下するチンピラを数台のキャメラでとらえる一連の凡庸な処理には、すっかり白けて現実に引き戻されてしまったのでした。
この場面ですぐに思い出されたのは、蓮實重彦の『映画と落ちること』という(『映画の神話学』所収。この新刊『映画崩壊前夜』にも、『映画の神話学』を思わせる原論的な文章が冒頭に載っています)名高い文章で、たけしといえど映画における“落ちること”の不可能性から逃れるのは困難なんだなと思わせられたのでしたが、それとは対照的に、蓮實重彦のこの論文が間違いなくずっと念頭にあったはずの門下生・黒沢清が、『CURE』(98)や『回路』(01)や『叫』(06)などで卓抜な落下シーンを提示してみせたのが興味深い。そういえば、たけし『その男、凶暴につき』での、鉄パイプや金属バットの内部が空洞であることからくる乾いた響きや、ロッカールームや清弘のアジトのガランとした何もない空虚な空間の設計からくる乾燥した廃墟感は、後期黒沢清映画の空虚な空間性と通じるものがあるかもしれません。
物語の中枢に存在する妹・灯(川上麻衣子)は精神的にも肉体的にも空洞性を体現し、その(肉体的/精神的)空洞を何かで埋めようとする複数の登場人物による闘争劇が、『その男~』というドラマだったといえるかも知れない。そして、世界から何かを内部に補填され変容してそこに存在する妹を前にして、それこそ「全部なかったことにしたい」とばかりにたけしはその存在を抹消する。そういう意味では、灯に薬物が注入され男性器が挿入された時点で、闘争劇とともにこの映画自体も本質的には終了していて、その後のシーンは商品として成立するための蛇足であったのかもしれません。
(根本的に空虚な“何か”を埋める、という作業は北野武映画の手つきとして一貫しており、前期には主に〈時間〉が、後期では〈映画そのもの〉が空虚な空洞性を有しています)

少し話が逸れはじめてますが、この『その男~』の落下シーンをみて蓮實重彦はどう言うかな~と思っていたところ、みた限りでは89年中にたけし映画への言及はなかったし、翌90年の『マリ・クレール』での連載では、最近の若手でまともな映画が撮れるのは阪本順治と周防正行くらいのものだ、とか言っていたので、あぁたけし映画はハスミ的にはダメなんだな~と思ってた。それからしばらくのち、『あの夏、いちばん静かな海。』(91)と『ソナチネ』(93)の間くらいの時に『ルプレザンタシオン』誌上で蓮實重彦による北野武インタビューがあって、両者は初遭遇。蓮實氏がたけし映画をどう評価しているのか注目しましたが、記事を読んでみた印象ではなんだか褒めてはいるものの、例えばホウ・シャオシエンなんかに対するインタビューに比べて明らかに熱度が低く、相対的な意味で持ち上げてるんだなと思わざるをえないものでした。

のちに森昌行プロデューサーに乞われてたけし映画の世界的売り出しに一役買ったのも、たけし映画を高く評価するゆえというよりは、「いま、僕に一〇億をくれたら、五年で日本映画を世界的なものにしてみせる」「私に一〇億くれたら、くれなくてもいいから貸してくれれば(略)向こう三年は世界の映画祭でグランプリをとれる日本映画をプロデュースすることができる」等との発言の背後にある幾分“政治的な”自己顕示欲、自己実現のための道具としてたけし映画を利用しているだけにしか思えなかった。『3ー4x 10月』(90)のことは本気で好きらしいが、『ソナチネ』以後のたけし映画についての発言や文章には、どこかローテンションな弛緩した気配が漂っているように感じられます。

新刊『映画崩壊前夜』にも、『Dolls』(02)や『座頭市』(03)などのたけし映画へ言及した文章がいくつかありますが、どうも持ち上げることをあらかじめ決めたうえでその映画に接している緊張感の無さがあらわれていて、信用ならないうえに、まるでハスミのエピゴーネンの書いたんものなんじゃないかというような不出来さ。これらに藤井仁子とか署名があっても少しも不思議じゃないかんじ。

そもそも蓮實重彦の、時代時代での反応に関する捏造癖は、小心からくる明らかな弱点で、北野武評価も自分がいち早かった~みたいなとんでもないことを言うから注意が必要だとおもう。例えば『文藝別冊』の淀川長治追悼特集号における、金井美恵子との対談では〈(北野武を映画批評家で)最初から褒めてたのは、淀川さんと山田さんと僕くらいでしょ。あとは誰も褒めなかったんですから。〉なんて歴史の捏造を平気で行う。少なくとも、蓮實重彦や淀川長治よりずっと“いち早く”、(映画評論家に限っても)秋本鉄次、大高宏雄、内海陽子、北川れい子、塩田時敏、寺脇研、野村正昭、山根貞男等々といった面々が公の場でたけし映画を高く評価していました。もしたけし映画が黙殺の憂き目にあっていたのであれば、『その男、凶暴につき』がヨコハマ映画祭や映画芸術誌での年間ベストテンで共に第2位に輝くことなどなかったでしょう。それとも、蓮實重彦の言うヒヒョーカとは、佐藤忠男や双葉十三郎、山田和夫といった前世紀の遺物みたいな人々のこと“しか”指し示していないのだろうか。

その対談において蓮實氏は、〈批評家というのは、まさにその時・その場で仕事を果たす人ですから、その効果をリアルタイムに受け止められない人たちは駄目だと思う〉と断罪しますが、残念ながらその言葉は蓮實氏自身にも跳ね返ってくる。アレクサンドル・ソクーロフへの評価などは、蓮實氏が批評家として“リアルタイムに受け止め”そこなった例でしょう。

1990年のロッテルダム国際映画祭に参加した蓮實重彦は、「ストローブ=ユイレの新作『黒色の罪』と『セザンヌ』の厳しい美しさには慄然とさせられた。/第十九回ロッテルダム国際映画祭報告」という原稿を『マリ・クレール』誌に寄せる。そこでソクーロフの出品作『ボヴァリー夫人』に触れた箇所がある。これをテクスト①とします。


〈たしかにかつてのモスフィルムの文芸超大作とかなりの違いがあって、無視はしえないものの、とうていホウ・シャオシエンとは比較しえないし、ストローブとユイレの新作『セザンヌ』に唐突に挿入されるルノワールの『ボヴァリー夫人』の一シークェンスの前に消滅するしかないといった程度のものだ。〉

それが、①をそのまま収録した『映画に目が眩んで』の上梓から2年後に刊行された『映画巡礼』ではなんと以下のように修正されていました(②)。


〈かつてのモスフィルムの文芸超大作とはきわだった違いが認められる。たしかにその作風は無視はしえないものの、『ボヴァリー夫人』を見た限りではホウ・シャオシエンとは比較しえないし、ストローブとユイレの新作『セザンヌ』に唐突に挿入されるルノワールの『ボヴァリー夫人』の一シークェンスの迫力の前にはやや色褪せてみえる。この監督の評価はもっと他の作品を見てからにすべきだろう。〉

②では、“『ボヴァリー夫人』を見た限りでは”とか余計な逃げ道を新設しているし、“消滅するしかないといった程度のもの”という威勢の良い断言が、“やや色褪せてみえる”と急転直下のソフト路線。②の末尾にとってつけたように加筆された一文などは、悲しくて泣けてくる。

天下の蓮實重彦がそんなコスいマネをするに至った背景は、周知のように、90年のロッテルダム映画祭参加から93年の『映画巡礼』出版までの間に、レンフィルム祭のための作品選定という作業(サンクトペテルブルグ滞在)や『レンフィルム祭――映画の共和国へ』監修というビッグプロジェクトがあったことで、その作業の過程を経た結果“その時・その場で”“リアルタイムに”発した断定の修正を余儀なくされてしまったということになる。
たけしにしろ、ソクーロフにしろ、見くびっててスマンくらいで済むような話で、何も捏造や偽装を行わなくても‥と普通に思いますが、そんな小細工をも為さなければ批評家としてのアイデンティティが成り立ち得ないような批評家像を、蓮實氏が自身で構築してきたということでしょうか。

つまり、扇動家、動員力のある映画批評家としての部分での、蓮實重彦の根幹にあるのが「ホレ見ろ。俺が(ずっと前に)言ったとおりだろ?」という目利きの先見性、レーダーの鈍い者への絶対的な優位性なのでしょう。その命綱が(というか、その言葉の価値が)、リアルタイム勝負での打率の圧倒的な高さ、であるなら、それの「巧妙な誇示」と「負けないリアルタイム勝負」とで織りなすテクスト群の継続的な発信が必須となり、対ソクーロフ戦でのチョンボは隠蔽すべき過去となる。そんなかんじでしょうか。

私見では、蓮實氏のそういった映画批評家としての有効性をもったテクストの発信は、93年頃に書かれたヴィクトル・エリセの『マルメロの陽光』についての一群の素晴らしい文章を最後のピークとして、ゆるやかに減少/減退してゆく。ここからは確証のないテキトーな戯言ですが、90年代なかば、社会状況のタコツボ化によってでしょうか、映画を巡る言説全般のうねりを左右するような扇動運動の試みは、機能不全化する。かつては何らかのカウンターカルチャー足り得ていた、日本映画も、ピンク映画も、シネフィル的映画も映画秘宝的B級映画もVシネマも、それぞれほどほどに許容される市民権を得て並列的にサブカルチャー化する。そこでは、蓮實的文化圏からの言葉は波及して響かず、「あっそ」と受け流される。
クリント・イーストウッドの『許されざる者』(92、日本公開は93年)公開の折りに蓮實氏がパンフレットに寄せた文章は、それこそ「ホレ見ろ。ずっと前に俺が言ったとおりだろ?」の典型だったのでしたが、この一文が予想外なほど一大バッシング、大ブーイングを呼び起こしたのは、「負けないリアルタイム勝負」の提示が波及力を失い、バランスを失った「巧妙な誇示」が単なる誇示に堕ちてしまったからなのかもしれない。

90年代後半の映画批評家廃業の期間を経て、映画批評家業に復帰した「総長以後」のゼロ年代の文章群が収められている『映画崩壊前夜』においては、“その時・その場で”“リアルタイムに”他者としての未知の映画との遭遇を言葉として組織してゆく、そのような批評的運動は諦念の果てに置き去られているようにみえる。日本の映画作家でいえば、とりあげられているのは黒沢清、青山真治、万田邦敏、中田秀夫、塩田明彦、北野武といった、蓮實門下生か蓮實プロデュース関連といえるセレクトが大部分で、俗に言う内輪ボメの様相を呈し、未知の言説に触れる目眩や興奮は読む者についには訪れない。しかし、タコツボのなかでの言説でも、読むべきものが皆無な状況であるならば、それでも自分が書くしかないだろうといった消極的なモチベーションがその文章を支えているのかも知れない。
勿論、唯一無二、比類なき映画批評家として一世を風靡した蓮實重彦の映画批評は、凡百のエセ評論家を今でも遥かに凌駕する。その意味では、『映画崩壊前夜』という書物は、相対的にたいへん優れた映画批評本だ、ということが出来ると思います。

追記:北野武の修正癖?につづく)

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『シネマの記憶喪失』

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阿部和重・中原昌也『シネマの記憶喪失』
(2007年刊/文藝春秋)


本書は、2005年から2006年まで純文学誌『文學界』で連載されていた、付け焼き刃でない、バリバリのシネフィルである小説家、阿部和重中原昌也の、対談形式の映画時評が一冊の書物にまとめられたものです。
『文學界』の映画時評枠は、この前は阿部和重単体(『映画覚書vol.1』に収録)のものだったのが、この阿部/中原『シネマの記憶喪失』にうつり、現在は中原昌也がピンで『映画の頭脳破壊』を連載中。じわじわと阿部和重が追い出されて中原昌也を据えた、みたいな図ですが、どうやらこれは阿部氏の事情らしく、今年は映画批評家業は放棄して小説家業に専念するようです。今年の『群像』1月号から連載がはじまった『ピストルズ』は、『シンセミア』に劣らない画期的な大作になる予定なんだと思います。

中原昌也と阿部和重、小説家としてどちらを上位におくか、好みや小説観によってわかれるところかもしれませんが、こと映画批評家としての資質に関しては、中原昌也が圧倒的に上だとおもう。阿部和重じしんも『映画覚書』の連載で、つくづく映画批評家としての才能のなさに嫌気がさしたのではないか、とたいした根拠もなく思う。

阿部和重の時評は、疑似ドキュメンタリー問題に拘りがあり、そのテーマにリンクした作品を論じる時は熱を帯びるが、それ以外、大部分の映画について触れた文章では、クリエイターらしく秀でている武器である、構造分析力(殆どの映画評論家を名乗る人々に欠けている資質だから、それだけでも凡百の評論家を軽く凌ぐ)頼みのごく大人しいもので、正確を期して手堅く息苦しく乗りきっている感があった。あくまでも、間違いはおかさないようにという、聡明な慎重さは美点でもあるけれども、“小説家”としてはもう少し無責任な放言を繰り出してもいいんじゃないかという不満が残る。聡明な悪趣味さを作風として選択できる小説家・阿部和重ともあろう者が、映画批評の場では妙に大人しいのは読者として残念で、〈阿部和重〉にしか書けない〈阿部和重〉の批評だからこそ読める、そういうたぐいのものを読みたいとおもう。だから『映画覚書』で異様に突出するのは、ゴマキのコンサートに触れたときだったりする。

このひとの映画評を読むと、いつも何か元気がなくなる。しゃっちょこばってるひとを見ると疲れる、みたいなかんじ。そんな阿部和重と、無責任な放言が案外的をついたりする中原昌也の対談、という組み合わせはお互いマイルドになってけっこう普遍的な読み心地。
(じつは連載時ほとんど(数回くらいしか)読んでませんでした(映画を観るまえはなるべく情報をシャットアウトするので、観たあとだともう『文學界』は次の号になってたりする)ので、はじめて読むようなものでした(『ミュンヘン』の回、『宇宙戦争』の回、『LOFT』の回あたりは連載時に読んでた)。通読して面白くかんじたのは『ライフ・アクアティック』の回や『ヒストリー・オブ・バイオレンス』の回など。傑作だとおもった『ヒストリー~』をイイと言うひとが周りにいなくて、孤独な思いをしていたので、きちんと語られていてうれしかった。国でいうと、アメリカ映画については読みも造詣も深い一方、なぜか日本映画やフランス映画については読みが今一つ浅いのが残念。)

読み違えず、かつ紋切り型にならないようにも気をつけながら映画に“言葉”で接していくのが阿部和重なのに対して、中原昌也は(言葉でなくて)“人格”で直に接してゆく。〈中原 ヴェンダースは何を考えて映画を作ってるのか、どこに映画の完成を求めているか、いつも謎ですね。そもそも、自分が作った映画がどんなものか分かっているのか、まずそれを問いたい気がする〉なんて、バカだと思われたくない阿部和重や青山真治には言えないセリフで、それがまた何気にヴェンダース映画の核を掴んでいるようにみえるのが侮れない。〈野蛮〉を現代日本で体現出来ている、希有な存在だ。

『シネマの記憶喪失』は、自身らもクリエイターである者達による映画論として、映画というジャンルを原理的に探究する傾向のある精神の持ち主にはある程度有益な書物だけれど、映画をあくまでも“共感主義”でしか観ることをしないある種の観客層(読者層?そもそもそういう人たちは本など読まないかも‥)には徹底して無縁の本だし、そもそもそこへ届かせようとしてもいないようにみえる。そのことが、この本を織り成す文章群を、内輪に閉じ澱んだ、鮮度の低いものに感じさせていると思う。

2月、本書刊行を記念して、吉祥寺バウスシアターで例の爆音上映がオールナイトで行われました。そこでは阿部/中原トークショーのほか、ホウ・シャオシエン『憂鬱な楽園』ペキンパー『ガルシアの首』スコリモフスキー『ザ・シャウト』などが上映されました。(『シネマの記憶喪失』と直接関係ないセレクトが素晴らしいと思います。)そして、本書『シネマの~』にも度々ゲストとして登場した、二人の朋友である青山真治監督の『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』が4月にやはりバウスシアターでの爆音上映が決定!!テアトル新宿で観たときも、かなりの爆音上映ぶりだと思いましたが、これが爆音の本場・吉祥寺バウスシアターでの観賞だといったいどうなるのか‥。DVDで観たりしてもしょうがない映画なので、この機会に多くのかたに観られたらいいと願っています。

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genre : 本・雑誌

長谷川町蔵・山崎まどか『ハイスクールU.S.A.』

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長谷川町蔵・山崎まどか
『ハイスクールU.S.A~アメリカ学園映画のすべて~』
(国書刊行会)

ジョックス、ギーク、プレップ、サイドキックス、ブレイン、スウィート・シックスティーン、プロム‥、アメリカ製学園映画には、そこでしか聞き慣れない単語があるように、独自の法則性と歴史性がある。〈学園映画は、隠れたアメリカのティーン文化の宝庫である。その独自性は常に興味深い。同時に、学園映画ほど、些細なようにみえて実は重要な、普遍性のあるテーマを扱っている映画ジャンルはない。私たちはそこに十代の自分自身を見出すだろう。〉
と、まえがきで宣言がなされる本書は、題名どおり、アメリカの学園映画(学園を舞台にした映画)を縦横無尽に語り尽くした、たいへん貴重な書物だとおもいます。
ただし誰もが必読、一読感嘆間違いなし!という貴重さかというと、必ずしもそうではないかもしれないんですが、少なくとも、好きな映画のジャンルはと人に訊かれたとき、いつもアメリカのティーン・コメディ・ムービーを挙げる自分にとっては、殆どがビデオスルーでロクなレビューもされないアメリカ製学園映画についての詳細な本が上梓されたことは、たいへん喜ばしいし貴重なことにおもえるし、買ってから何度も読んだんでもうだいぶボロボロになりかけてる、そのくらい待望だったし、想像以上に読み応えがあって、うれしかった。

去年の夏くらいに、学園映画/ティーン・コメディのレビューの第一人者・長谷川町蔵がついにソッチ方面の本を出すという告知を最初に目にしたとき、てっきり様々な媒体で発表している短評群を一冊にまとめた本が出るのだとばっかり思っていたのですが、いざ出版され手にとってみれば、山崎まどか(『女子映画スタイル』も興味深い本でした)との対談形式の本で、それぞれテーマごとに章立てられて(①ジョン・ヒューズ(『すてきな片想い』(84)で“学園映画”を誕生させた偉人)、②学園映画の集団劇としての構造、③階級社会としての学園内における、階級差恋愛、④学園ホラー映画、⑤学園女子(目線)映画、⑥古典リメイクの場としての学園映画、⑦脱出劇としての学園映画、⑧学園映画からコロンバイン事件を読み解く、⑨学園卒業後の映画、⑩そして現在形の、最新の学園映画の潮流)、学園映画とは何か、学園映画の面白さ、豊かさを網羅的に論じて隙がない。ミニコラムや脚注も充実していて隅々まで楽しい一冊です。

だいたい、(最近作でいえば、)名作と一般にも名高い『ハイスクール白書 優等生ギャルに気をつけろ!』や『『天才マックスの世界』ならともかく、この本以外のどの書物で『恋のミニスカ ウエポン』『チアガールVSテキサスコップ』を正面から取り上げて、真面目に論じられるでしょうか?
〈学園映画〉は、このジャンルにつきものの、(表面上の)表現や物語の平面さ(=たわいもなさ)が災いしてか、日本ではカルト的にもカウンターカルチャーとしても省みられず、マトモに受容されない歴史を重ねてきました、ある意味、日本映画の“鬼っ子”であるVシネマのように。『ハイスクールU.S.A』は、その映画史の空白をうめる、“貴重な”一石だ、とおもう。
これを読めば、『電車男』が学園映画のさまざまなパターンの、劣悪なコピーにすぎない貧相な物語だというのがわかるし、乙一の『GOTH』になんとはなしに感じた、ゴス理解の甘さへの不満の根本もみえてきます。

かつて、アリシア・シルバーストーン主演、エイミー・ヘッカリング監督の『クルーレス』(95)を観たときに、凄い!と感じたものの、当時の自分の映画観なり成熟度なりでは、その良さを言葉に出来ずにモヤモヤしていたのでしたが、本書のわかりやすい分析と学園映画史における位置づけによって、なんとなく腑に落ちたかんじで、得した気持ちになりました。

(そういえば、この『クルーレス』、恵比寿ガーデンシネマで観たんでした。恵比寿ガーデンシネマが開館したとき、こけら落とし、オープニング作品が『ショート・カッツ』と『リアリティ・バイツ』で、ナルホドね~とその路線に関心したのでしたが、間もなく公開された、アーパーギャルが闊歩してるようなこの映画は、ラインナップ中なんだか異質で居心地悪そうだったし、お客さんの入りも微妙だった記憶があります‥。)

ジャンルの称揚という使命を負っているとはいえ何でもかんでも絶賛し過ぎな気もするし、せっかくの対談形式なのにあまりに整理されていて会話が予定調和すぎ、対談形式のものを読む愉しみに欠けるだとか、出来れば作品名だけでなくて人名の索引があればなあとか(無いと結構不便)、思うところがなくもないんですが、少なくとも、今後このジャンルの映画を語るには、絶対に欠かせない一冊になっていると思います。

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genre : 本・雑誌

桐野夏生『魂萌え!』

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桐野夏生『魂萌え!』、新潮文庫版で読了。

桐野夏生から何となく興味が薄れていったのはいつ頃からか。一般デビュー作の『顔に降りかかる雨』から、好みではないけど大変な熱量のある小説というか小説の熱気にあてられて、つられるようにして読み続けてきました。何だかんだ言っても『OUT』だって充分面白かったし、『柔らかい頬』はかなり凄い野心的な小説で、はっきり傑作と断言したい作品だと今でもおもいます。

それがいつの間にやら、『光源』あたりが何となく分岐点か、わかっちゃったような気持ちになって、追っかけるのがめんどくさくなって、この『魂萌え!』が出たときももうあまり気にしませんでした。

阪本順治の最新作が『魂萌え!』だときいても、通常、原作つきの映画はよほどマイナーな小説でない限り、読んでから観るのが自分のスタンスなのですが、今回、そこはサボって一週間以上まえに観に行ったのですが‥。

前売り券もゲットしマックで食料も買いこんで、上映10分前に映画館のまえに立ったとき、ケータイが鳴った。出てみると高円寺の店からで、今日メインで料理(ストーブ)をやるはずの人が両手を切るケガをしたとのこと。観賞を断念し、映画館のまえから立ち去ることになってしまった。

それ以来、前売り券が宙にういたまま行くチャンスが未だに来ない。これは、小説『魂萌え!』を読んでから映画観ろというお告げだと前向きに受け止めて、買って読みました。

思ったより粘着質な描写がなくサバサバしているのは、作者の年齢的なものか。結末が映画と原作で違うという話はきいていたので、読了してますます観たくなったが次のチャンスまで果たしてまだ上映しているかな?と、ヒットしていることを願う。

普段の行動範囲ど真ん中の立川が頻繁に出てくるので、あそこでロケだったら面白いな、とか、想像しつつ読み進めました。

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genre : 本・雑誌

待望の『シネマ』

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年末調整ですこしお金に余裕が出来て、きのう、新宿と中野に買い出しにゆく。

中野ではブロードウェイで『映画秘宝』のバックナンバーを大量に売る。出来たお金等で『シナリオ』のバックナンバーや桂千穂『スクリプター 女たちの映画史』、漫画等(『PLUTO』の4巻がもう古本で出てた!)、すべて古本で買う。迷ったすえに双葉十三郎の『ぼくの採点表』を買わなかったことに後から後悔‥。安かったんですが‥。

そのあと、新宿で親戚と示し合わせて合流、正月食材の買い出しに新宿小田急ハルクへ。地下に向かう階段で杉作J太郎とすれ違う。文化系なひょろっこい男の子を連れていました。

そして本命、新宿紀伊国屋書店で、なかなか買えなかったジル・ドゥルーズの『シネマ2*時間イメージ』を、やっと、ついに、購入!!(発売され、店頭に並んだとき、本屋でまじまじとみても、まさか、バッタもんじゃないのか、と信じられなかった。表記がイマージュ、じゃないことにも違和感‥。でも、どうやら本物みたい。)

近い未来からみれば、日本の映画受容史における、2006年最高最大の事件は『シネマ』邦訳の発売だと、誰しも断言していることでしょう。そのくらい、書物現物の現前は衝撃的だったし、待望のもの。

今村昌平の死は、たしかにあるひとつの時代の終わりを告げている事件だし、ソクーロフの『太陽』という、昭和天皇を息づく生命体として真っ正面から描いた映画が日本のスクリーンに映し出されたことも、〈天皇〉という存在の表象の歴史に決定的革命的な刻印をのこしたと思われます。

新作では、アカデミー賞がらみのホモ映画や偶然の出来事のコラージュみたいな映画やケン・ローチの秀作などを蹴散らすような、クリント・イーストウッド『父親たちの星条旗』やホウ・シャオシエンの『百年恋歌』などの例外的な作品もあったし、書物の分野でも、レッドパージについての力作論考や澤井信一郎のモノグラフィなど貴重な収穫もあった。

今年開催された、吉田喜重や、鈴木清順や、溝口健二や、成瀬巳喜男などの連続上映は、通いつめた新しい世代に、確かな刻印を残したかもしれません。それでも、『シネマ』発売の優位は揺らがないのではないか‥?

読むまえから勝手なことを言ってますが、哲学者による映画書である『シネマ』、〈彼の哲学的著作との出会いがなければ今日の活躍がありえたとは思えないほど浅田彰に決定的な影響を与えたジル・ドゥルーズは、映画をめぐる書物を刊行したというだけで今世紀最大の思想家とみなされるべき〉、〈断言してもよいが、これは映画を巡って書かれた書物の中で最も痛快な文章である〉と某元東大総長が『シネマ』について記したのが20年以上まえ、以来、破格の名著とうたわれながら、ぜんぜん、まったく一向に、邦訳の出ないまま、アテネ・フランセでは兼子正勝による“ドゥルーズ『シネマ』購読会”なんて授業が行われていたのを、遠くから羨望の気持ちを抱きつつ指をくわえてみていたは10年以上まえ。指をくわえていたのは時間も金も気力も学力もなかったからか‥。原書を読む力もない自分には、フランス文学系の批評家らが当然のように〈運動ーイマージュ〉/〈時間ーイマージュ〉だとか〈脳の映画〉/〈身体の映画〉だとかの分類に基づいて当然のように論をすすめたりするのを、コンチクショウと思いながら読んでいた記憶の歴史があって、その記憶と今がつな
がり、たしかに日本語でよめる『シネマ』が、現在、目の前にあらわれました。

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