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2009年ドラマ冬春夏 覚え書き

おれてん2
『俺たちは天使だ!NO ANGEL NO LUCK』

さて、ずっとノータッチだった今年の連ドラ。残しておかないと忘れそうなので、以下に3期9ヶ月ぶん、急ぎ足で記録しておきます。(順番は例によって大した意味なし)


<2009年冬ドラマ>

 悒ーバー30』
◆悗△蠅佞譴心饑廖
『赤い糸』
ぁ悒札譴屬3』

ァ愾ゲバ』
Α悒薀屮轡礇奪侫襦
А慄榮も晴れ。異状なし』
─悗ちゃべり』
『キイナ』
『大好き!五つ子』
『メイちゃんの執事』
『ラブレター』
『ヴォイス 命なき者の声』
『歌のおにいさん』

『神の雫』
亜悒螢札奪函
院Q.E.D. 証明終了』
押RESCUE 特別高度救助隊』


<2009年春ドラマ>

 BOSS』
◆愬鬚そ奸

『ぼくの妹』
ぁ愿鬚韻爐螢好淵ぅ僉次

ァ慄盻裁判』
Α悒好泪ぅ襦
А悒供Εイズショウ』
─悒粥璽好肇侫譽鵐此
『ゴッドハンド輝』
『アタシんちの男子』
『夜光の階段』
『名探偵の掟』
『Mr.ブレイン』
『LOVE GAME』
『婚カツ!』


<2009年夏ドラマ>

 慍兇燭舛賄兄箸! NO ANGEL NO LUCK』

◆惘紊濂伊槓REBOOT』
『ふたつのスピカ』
ぁ悒トメン・夏』
ァ悒屮供次Ε咫璽 崖っぷちのヒーロー』
Α慊覯Α
А惘逎蹈奪』
─悗海禅機
『救命病棟24時』(第4シーズン)
『ダンディ・ダディ』
『メイド刑事』
『恋して悪魔 ヴァンパイア☆ボーイ』
『任侠ヘルパー』
『華麗なるスパイ』
『オルトロスの犬』



〇冬→
TBSの昼ドラが40年の歴史の幕を閉じました(最終作は「愛の劇場」が『大好き!五つ子』、「ひるドラ」が『おちゃべり』)が、その終わり間際に、『オーバー30』(CBC最終作)という素敵なドラマに出あえたことは、悲しいなかにも幸せなことでした。
30を過ぎた女の幸せとは?という題材を、主婦代表のアイコさん/島崎和歌子と、キャリアウーマン代表のミカさん/遊井亮子との対比で描く、という取り立てて新味のない企画なのですが、非・プログラムピクチャー的作品が一発一発が勝負作(商品価値がはっきりとした短絡的快楽の供給源)とならざるを得ないのとは異なり、企画意図や主題にドラマの語りが縛られずに、普通の日々の、生活でのささやかな感情の移ろいやすれ違いを、これといって派手なフックもなく丁寧にのったりくったり描くことが出来るのは、やはり連綿とつづく“枠ありき”な環境に負うところが大きく、そういった「なんということもない描写」が意匠として気張らずに存在を許されるのが、プログラムピクチャー的なものの名残りとしての、テレビの連ドラの大きなアドバンテージだと思います。“冴えてみえるように”とか色気を出したら、『オーバー30』の優しい味は出ないでしょう。
『三代目のヨメ』などでは、登場人物たちは物語や主題や役柄の配置に奉仕していて窮屈な印象でしたが、『オーバー30』に登場する人々は、それらに奉仕する以前にまず人と人との関係を生きる「人間」であって、しかしその描かれ方が「自然体ふうリアル」でなく“普通のドラマ”としてなのが素晴らしい。そのドラマの帰結は、「主婦的な生き方の肯定」にも「キャリアウーマン的な輝き方の賛美」にも傾かず、ただ、アイコさんがいて、ミカさんがいる、彼女らやその周囲の人々が、日々生きていくなかで、時に躓き苦しみ、時に幸せに人と繋がるということとしてあらわれる。付属的なキャラとして、図式的配置に埋没してもおかしくないような娘のサクラコ/小池彩夢や息子のケンタ/鏑木海智、別居中の夫・ナオユキ/高知東生が、キャラではなく温かみのある人間として存在していました。

奇抜な映画版に比べて、意外と(?)丁寧でしっとりと恋や学園生活が描かれていたドラマ版『赤い糸』。そのあんがい肌理のこまかいドラマの推移のなかに度々、唐突に、脈絡なく、凶暴に挿入される「ケータイ小説的」ガジェットの無慈悲さに、来た来た!とワクワク。9話以降、終盤の着地が決まらなかったのが惜しまれますが、破壊的にとっちらかった原作が相当うまくまとめられていると思います。
『ギャルサー』や『ちりとてちん』で一躍ビッグネームとなった藤本有紀の脚本作『本日も晴れ。異状なし』は、「南の島=善人=癒し」というパターンに則らず、登場する島民は地味〜に器の小さい小人物ばかり、という意地の悪いドラマ。南の島の風景も、“美しく”視聴者に提供しないという徹底した意地悪さで、ただならない才気は感じます。毎回、秋川雅史による主題歌が最悪のタイミングで流れだし、作り手がこのテノール歌手を小バカにしてるんじゃないかという疑念が‥。

〇春→
『BOSS』の良さは、その「軽さ」が、<刑事ドラマ>の歴史性から断絶していることで、『あぶない刑事』にしろ『踊る大捜査線』にしろ『時効警察』にしろ、先行作/歴史へのカウンターとしてその表現が“あえて”形成されていたのでしたが、『BOSS』の軽さと乾いたスピード感は、それらの作品群がどうしても払拭できなかった「貧乏くささ」をほぼ完全に拭い去ることに成功していると思います。最終2話での「あわや普通の刑事ドラマ?」と心配させた真面目っぽい盛り上げも、見せかけのものとしてスルリと避ける着地が爽やか。

基本的には、そのナルシスティックな俗物臭ゆえに、たいがいの“子役”が嫌いなのですが、『白い春』での大橋のぞみのあまりの可愛らしさに、我が子を無条件で肯定する気持ちを、捩じ伏せるように理解させられた気がしました。『ザ・クイズショウ』での大橋のぞみは何とも思わなかったので、『白い春』というドラマの演出というか表現の素晴らしさゆえだと思っています。
(しかしやっぱりこれみよがしな調子こいた子役はどうもダメで、先日近しい人間に、「最近、やっぱり自分は子役が嫌いだとつくづく思ったよ。『天地人』で妻夫木くんの子供時代やったヤツとか、『任侠ヘルパー』で草剪くんに頬っぺたつままれるガキとか、車のCMの“こども店長”とかいうヤツとか‥」と言ったら「全部おんなじ子だよ!!」と指摘された。言われるまで気付かなかった‥)
その『ザ・クイズショウ』、ドラマ自体は壊滅的に話の整合性がメチャクチャでしたが、その表面的な在り方としての「半バラエティ番組」的なつくりは、ある息吹を感じさせます。物語に「情報バラエティ」部分が埋め込まれずに寒々しく遊離していた『Mr.ブレイン』や、振り返ってみると四六時中挿入されるキーワードクイズ場面くらいしか印象に残っていない『魔女裁判』と、作品世界に自閉しない容易な接続性の誇示としての「バラエティ番組的」な仕掛けと空気をもつドラマが台頭(?)してきているんじゃないかと(『LOVE GAME』は、海外リアリティショウ・パクリ系の、深夜枠バラエティ的?)。次シーズンの『こち亀』『オトメン』などにもそのような気配はありますが、(これも次シーズンですが)『華麗なるスパイ』には不思議とそれがなく、閉塞した息苦しささえあるように感じます。
(『魔女裁判』、フジ土曜深夜枠の、『ライアーゲーム』『ライフ』のあのタッチが帰ってきた!と一瞬喜びましたが、それっぽいのはテイストだけで、べつに面白くはなかった‥。)
そのキャスト&タイトルから期待されるイメージを超絶に裏切り、誰も望むことのない展開へ突き進んでいった『ぼくの妹』は、一般に迷走した一本と受け取られていると思いますが、そのじつ描写のクオリティは尋常じゃない高いレベルだとおもった。殊に、“生きた”人間の発した言葉に対して、生理的な感情のゆらぎ→それへの反射としての発語、という対話の構築が素晴らしく、そして、ほんの端役にしか見えなかった人物がじんわりと存在感を増してくる微妙な呼吸の妙も油断なりません。

あと『湯けむりスナイパー』は、第2話は傑作でしたが、シリーズ通して演出が一本調子でちょっと平板でした。一部サブカルのほうの人らが凄いだ傑作だとか言ってましたが、いくらなんでも持ち上げ過ぎでしょう。
『アタシんちの男子』は要するに女版『シスター・プリンセス』みたいなもんで、花男以降の潮流が露骨なとこまできたなという印象。

稲森いずみ主演ということで遠慮してしまい、『アイシテル〜海容〜』を観逃したのが悔やまれますが、そのうち観ようとは思います。

〇夏→
ワーナーがついにテレビドラマに本気になったか?と観るまえの期待感の強かった『オルトロスの犬』の、あまりの頭の悪さにもビックリしましたが、トラブルがあったとはいえ『救命病棟24時』(第4シーズン)のあんまりな弛緩ぶりにはもっとビックリした。
首都圏大災害という大掛かりなカンフル剤を用いた前シーズンに比べて、救命救急の制度的な崩壊というネタがいかにも地味というのもありますが、『医龍』だの『ナースあおい』だの『コード・ブルー』だの、海外ドラマでの『ドクター・ハウス』だのといった様々な趣向をこらし新鮮な視点を提供した医療ドラマ群を通過した視聴者には、『救命病棟24時』はあまりにアッサリしてみえて、「‥で?」としか思われなかったかも。“チーム”の生気のなさもシリーズ随一。まさかこのシリーズが、面白さで『ゴッドハンド輝』に負けるとは、いったい誰が予想出来たでしょうか‥。
印象としては今回、進藤センセイや小島センセイは北乃きいや石田卓也が画面に映ると脇役にみえてしまう。もっとも、北乃きいには、いかなる映画やドラマに出てもあらゆる登場場面で主役にみえてしまうという、特異な性質がありますが‥。

『トワイライト〜初恋〜』の露骨な二匹目のドジョウ『恋して悪魔 ヴァンパイア☆ボーイ』は、中山優馬と桜庭ななみといった新鮮味のあるキャストで、いいかんじの青春感が出そうで出なかったのは、ドラマの中心に加藤ローサの鈍重な存在感がもったりと鎮座していて、感情の“揺らぎ”を疎外したからでしょうか。桜庭ななみは『ふたつのスピカ』もとても良くて、スウィートパワーらしい清潔感のある女優さん。今年の夏は上記2本と映画『サマーウォーズ』&『東京少女桜庭ななみ』再放送(地上波)と、桜庭ななみ一色だったと記憶。

『ROOKIES』では窮屈そうに安仁屋役を演じていた市原隼人、『猿ロック』での反射のいい役柄では本領発揮。市原隼人はみっともないくらいチャカチャカした反応に才能がありますね。『帝王』の塚本高史の演技は心ここにあらずというかんじの、魂の感じられないものでしたが、実話というフックとともに、とっちらかった話の展開の「落ち着かなさ」と程よく調和していた気もします。

すべての台詞、すべての動作に輝きが宿り、隅々まで充実した探偵コメディ『俺たちは天使だ! NO ANGEL NO LUCK』。スベりそうなギャグすらスベる寸前で演出がすくう確かさ。イケメン集団のパッケージ売りの、他愛ないドラマといえばそうですが、じゃあオッサンがいっぱい出てきて深刻な社会ネタでもやってりゃ良いドラマなのか?とも思う。
この『俺たちは天使だ!』が今期のベストだったと個人的には思いますが、正直2009年の夏ドラを代表するのは何と言っても『ブザー・ビート 崖っぷちのヒーロー』でした。“月9”にも本気、“トレンディー・ドラマ”にも本気、“バスケ”というネタ自体も本気で一般に浮上させようというハンパない本気度。故なきプライドや自己イメージと、社会や現実、他人の心は一致しないという案外だいじなことを、カッコつけだけじゃなくちゃんと語ろうとする。その熱気がちゃんとドラマにものっていたとおもう。
一個人としては、北川景子が「リコ!」と呼ばれても、つい相武紗季のことかと反応してしまうし(ついこのあいだまで『絶対彼氏』で「リイコ」と呼ばれていた)、大政絢は山Pじゃなくて溝端淳平の妹(『ハチワンダイバー』)の印象のほうが強いとか、「突然奪うキス」「車を追って走る」等のシーンがパッチワーク的だとか、どうもシャッフル感が邪魔して作品世界に真面目に入っていけずにネタ消費的に接してしまいましたが、それこそがトレンディー・ドラマだとも言えるのかもしれません(適当)。
貫地谷しほりは“批評的に”「トレンディー・ドラマの演技」を構築していて、冴えたひとだとおもった。あと、北川景子は「井森美幸みたいな演技」とウチでは評判が芳しくなかったです。

関連記事:2008年秋ドラマ

theme : テレビドラマ
genre : テレビ・ラジオ

秋の新ドラマ

じょうおう1
『嬢王 Virgin』

いまひとつパッとしない夏ドラマが終わって、徐々に秋ドラマがはじまってます。特にこれといって見たい理由がみつからない『マイガール』は既にスルー、『嬢王 Virgin』は枠(ドラマ24)推しで見てますが、原幹恵はともかく、たぶん目玉なんだろう原紗央莉にはまったく興味がわきません。永田彬は『電王』でのヘラヘラした役(尾崎)のイメージが強くて、ビッグで寡黙な重々しい役柄を、なんだか真面目に受けとれませんが‥。

まったく別系統のドラマですが、07年の春期、08年夏期と、ともにマイベストだったドラマが続編&リニューアルで帰ってきた『ライアーゲーム シーズン2』『リアル・クローズ』の激突(?)が最大の楽しみです。続編になって守りに入り、妙に浪花節ぽいかんじにならないかかすかに心配もありますが、原作もあるので大丈夫かなとも思っています。結局のところ自分は何が(誰が)好きなのか、ハッキリするかなというたのしみもある。

ほどほど楽しくみていた『オトメン(乙男)』『交渉人 THE NEGOTIATOR』も無事に続編が到着。といっても、オトメンは曜日と時間が変わっただけですが‥。『交渉人』は、その演技が大嫌いな塚地くんが新レギュラーとして加わったので個人的には少々テンションが落ちてます。

ハズレの多い日テレ深夜枠ですが、毎回野心作ぽくみえて毎回期待だけはします、『傍聴マニア09』はどうでしょうか。
冗談みたいな企画の『少公女セイラ』は、岡田惠和/金子文紀/磯山晶と、ナゾの最強布陣。どういう方向性で勝算をみているのかいまいち分かりづらい。日テレらしいライトな学園モノに、流行りの歴史要素をプラスしたかんじ?の『サムライ・ハイスクール』。これも方向性がよくみえないけど、当たれば金脈となるかも。キャストも三浦春馬、杏、小林涼子、城田優、市川実日子など、個人的には印象のいい人が多め。
『東京DOGS』『アンタッチャブル』『おひとりさま』あたりは普通のドラマとしておさえとくかんじ。しかし、いまさら「歴女」「格差恋愛」「草食系男子」「おひとりさま」といった要素で連ドラを作ろうという『おひとりさま』のマーケティング(?)は相当にニブいんじゃないでしょうか。『アンタッチャブル』、チャンスだけはさんざんある佐藤智仁、いいかげんブレイクなるか。障害イコール感動という狙いの『チャレンジド』、題材としては興味がうすいけど、一応キャストでおさえます。ところで村川絵梨と松井珠理奈って、どことなくですが似てると思っています。

みないのは『JINー仁ー』、『不毛地帯』『ROMES/空港防御システム』『0号室の客』あたり。大沢たかおの、自分のカッコヨサに酔いしれている姿をゲップが出るほど観させられている邦画ファンは、『JINー仁ー』は出来れば遠慮したいところじゃないでしょうか。『不毛地帯』みたいなのをみるのはもっと歳とってからでいいかなと常々思っている。ジャニーズには耐性があるほうだと思ってますが、あんまり露骨にターゲットが絞られているものは生理的に厳しい。
あと松岡錠司も参加の『深夜食堂』、みたくないわけじゃないんですが、時間帯的に“いろいろと”他の番組と被っていて、残念ながらウチのハードだと録画ができません。それに、どうやら自分は、「ちょっといい話」には不感症らしい‥。そういえば松岡錠司の映画は、いつの頃からか「ちょっといい話」ばっかりだな‥。

theme : テレビドラマ
genre : テレビ・ラジオ

'旅のおわり

たびのおわり7
『くりいむレモン 旅のおわり』

90年のじんのひろあき版『櫻の園』(以下、じんの版)が嫌いでした。ひっくるめていうと、これみよがしなやり口に反発をおぼえてたし、女の子たちが素材としても描き方としてもちっとも魅力的に思えなかった。
で、リメイクとなった関えり香版『櫻の園』(以下、関版)を期待して観てみたら、当時じんの版を否定していたことをすこし反省した。関版は、冴えたところのないテレビドラマだと思った。会話で全てが説明される。全編、説明につぐ説明。じんの版の登場人物たちは、少なくとも説明のための道具ではなかった‥。

説明は、オウム返し、ストレートな疑問形、「ふうん/へぇ」等の相槌を利用して会話に変換される。寡黙な主人公・桃/福田沙紀に代わって担任の菊川怜が桃のプロフィールを“桃本人にむかって”滔々と説明する‥。戯曲「櫻の園」の説明、学校のしきたり、生徒のポジション等‥。たとえば、古い「櫻の園」の脚本を見つけた福田沙紀が姉の京野ことみと会話し、昔あった「櫻の園」上演の試みを知る場面。「こんなの見つけた」「えっ?それ」「あかずの教室ってとこにあったんだけどね」「あかずの教室」「脚本と演出、坂野先生ってすごくない?」「先輩、演劇部の部長だったからね」「ねぇねぇ、平成9年ってことはさ、お姉ちゃんコレみた?」「ううん」「え?」「やらなかったの、そのお芝居。あんなに稽古したのに」「稽古したって?」「演劇部だったからね」「そうだったの?」「覚えてないか?あの頃の桃バイオリンで忙しかったから覚えてるわけないよね」‥。
夕暮れ。駅前で柳下大がカッコつけてサックスを披露しているが‥その曲は上戸彩の歌(夢のチカラ)‥いくらオスカー主導とはいえ、この段階で真面目にこの映画につきあうのを諦めました。

オスカーが牽引した企画なわけだし、どうせなら商業映画として正面から通俗を引き受けて美少女クラブ31メンバー総出演でやればよかったのに。製作委員会方式が裏目に出た、面白くもないバランスのいいキャスティング(オスカーの顔を立てたかのような上戸彩・米倉涼子・菊川怜などという特別出演枠は、初々しくなければならないこの企画にはマイナス要素だとおもう)が効果的だったのか、自分が観たときは松竹らしい、熱気のない辛気臭い客層でした。

説明のために色分けされ役割分担されたに過ぎない記号としての人物の言動/行動からは、エモーションが駆動せず、あらかじめ用意された物語を“感情らしきもの”で上から撫でるだけで、青春の鬱屈も不安も憧れも、「青春映画を構成する定形的パターン要素」としてルーティン的に扱われただけという印象(途中まで進んでいたという新・じんの版のほうが観たかったと観たあとで思った)。

人は、青春の大事な場面でさえ、有意味な言葉などそうそう口にしないし、状況説明ばかり話しはせず、気持ちはまた別にある。日々の生活や関わりのなかで、思いが推移し、摩擦をおこし、うつろうさまを、直接的な言葉のやりとりとはべつのところで、人の感情の「ほんとう」を映しだそうと試みる井口奈己監督『人のセックスを笑うな』のような(反・関版、的な)映画は、たいへんスマートで豊潤、じつに立派に「映画的」な感慨を与えてくれますが、しかし、このような映画が指向する「リアル」や「映画的」は、今や、あらかじめ分かりきった正解に向けて、勝つに決まってる解答を組織する、閉じた「安全さ」と化してしまっている気がする。「あるある」を拾い上げ、傑作素を結合させて、共感作用をたっぷり効かせるという基盤のうえで安心して楽しめる「奇跡のような、素晴らしいシーンの数々」。これが2004年辺りならアリだったかも知れないが、2008年には既にどこかズルイものと映った。

『女』『古奈子は男選びが悪い』『遊泳禁止区域』などの中短篇で、すでに天才の誉れ高い前田弘二も、イメージとしては一見、「いまどきのリアル」、「いまどきの審美」に与した「あるある的」共感作用に依拠した映画作家に見えもします。前田弘二(と高田亮)による、非中心化作用をもつ“リアルっぽい会話”場面は、いかにも「あるある的」に受容され称賛を得ることで、観客の「消費」がその段階で安心して終了することもじゅうぶん考えられる類いのものとも言えるでしょう。
もちろん、前田映画の会話/(ディス)コミュニケーション劇はーーたとえば山下敦弘/向井康介コンビの映画における登場人物たちの絶妙な会話が、根本的にはひとつの人格の複数のバリエーション間での会話であり、彼ら登場人物たちの用いる言葉が結局のところひとつのセンス、ひとつの文体として共通のものとしてあって、それが統合されてある種の“作家の文体”が確立される助けともなっていますが、そのような理由から、山下/向井映画においては本質的には摩擦や成長のない世界が築かれているのとは異なりーー前田映画のそれは、 それぞれべつの人生をそれぞれなりに刻んできた異なる人格、異なる思考/嗜好/志向回路をもつ人格と人格による、それぞれ違う意味合いでの関係性構築のための遭遇を組織しようとする摩擦的「闘争」としてあり、複数の人物による無方向的に発された言葉群のブラウン運動は非中心化を促し、表面的には「噛み合ってるような噛み合ってないような、リアルな、気まずい、滑稽な、自然で無為な会話」として顕れてみえますが、そこには「同じ場所/時間を共有する複数の人と人のあいだのコミュニケーションは、異なる免疫をもった者として対峙するため(そしてそれゆえ尚且つ、異なる志向をもってその“場”に臨むため)、非・融合的に生じ、本質的に“必ず”噛み合わない」といった冷徹な認識があるとおもう。
「自意識の滑稽な空転」が、山下/向井的な作劇では創出者のパーソナリティに「偶然的に」起因するが、前田/高田的作劇においては創出者の世界把握に「必然的、宿命的に」帰結する。

前田弘二待望の商業長編映画デビュー作である『くりいむレモン 旅のおわり』は、女子高生たちの無駄話シーンの素晴らしさに眩惑されて、つい、いわゆるリアルな会話でその映画が構築されていたような印象をもっていましたが、観なおしてみるとこの映画における主要人物同士の会話はあんがい必要的・説明的で、これまでの短篇群では、ワン・シチュエーションのコントとして説明的な台詞は極力排除したままでも押し切ることが出来たのに対して、ここでは、「長編」映画として物語を語るために、異なる人格間の非・融合的な接触を長い射程をもって描出するさいにある程度「説明的」であることも引き受けられていると思えます。これは前田/高田が「いまどきのリアル」の信奉者なのではなく、他者とのコミュニケーションは非・融合的に為されるという世界把握を揺れずにもっていることの証左だと言えるんじゃないでしょうか。

『くりいむレモン 旅のおわり』での、(前田映画の顔というべき)宇野祥平はお兄ちゃん役としては正直ミスキャストだと思うし、宇野祥平が妹のアヤ/キヨミジュンの手に触れる場面や、カラオケの個室でノブ/榊原順がエリ/鈴木なつみにキスするシーンなどは、段取り臭を払拭しきれず演出としてあと一歩だと感じるし、そしてやはり、説明部分はこなれていないぶん雑談パートとのバランスが危うい。
「説明」を引き受けて物語と感情の推移を牽引しつつも、それなりのリアルと自然さをもって「ほんとう」や「人生モデル」を提示するという闘いかたは、ある意味ごく真っ当な正道であって、既に過去の古今東西の映画人たちが技術的に研磨し積み重ねてきた膨大な歴史(と技術的達成)があり、そこに正面から挑むのは、正直勝ち目の見出だしづらいシンドイやり方だと思えます。歴史性に接続の必要のないような、「あるある的」に「独自の人生モデルの提示」を「センス競争」としてやっていれば、天才的なセンスをもつであろう前田弘二なら、その高評価を維持したたましばらくはたやすく闘い得たでしょう。

しかし『くりいむレモン 旅のおわり』では勝機の見える見えないではない難しいところでの勝負に出た。そうしてそれゆえ、『くりいむレモン 旅のおわり』が単なるセンスに留まらない、いろいろな感情がはみ出すような映画になりえたんじゃないか。おなじ兄と妹の近親相姦ドラマとして、演技や描写のクオリティでは『誰とでも寝る女』が上かもしれないが、感情を動かす力では『旅のおわり』が遥か上をゆく。ネタとほんとうの人生くらい違うとおもう。

そして特筆すべきは人物たちの風景への沈みかた。通常、記録映画でさえも(商業用劇映画ならなおさら)、主要人物を風景や通行人から浮き立たせる作用をその画面はもつ(スター化、肯定作用)わけですが、この映画では、しばしば登場人物たちが風景に、雑踏に、均一的に埋没してしまう。この、画面内での人物の非・特権化、非・中心化は、表象としての埋没とともに、べつの作用をうながします。
駅で切符を買うアヤと、少し間をおいてそれを追うノブが映りこむ駅前の画面。あるいは、アパートに車で帰ってきた兄との屋外での再会場面。中野駅構内でばったり逢うエリとノブの、画面での有りよう。そして、原宿駅からの皆での『遊泳禁止区域』ぽい歩みの場面も、人々が徐々に雑踏の風景に沈みこんでゆく‥。
そして非・中心化を被って均一的に「自然化」した画面を、うっすらと、アヤの抑えながらも上ずった“せつない”感情が、すべておおいつくす。友達との楽しげで無内容な会話の場面でも、兄と交わす無難な近況報告の対話場面でも、その会話内容やその自然さもしくは説明的なさま、あるいはその場に支配的な空気/気分といったものといっさい関係なく、画面は、アヤの“せつなさ”に感染し、映画そのものがせつなさと気まずさに染まり尽くす。

やがて、兄への恋慕が破綻(前述のように、異なる人と人の思いは“必ず”非・融合的に帰結する)するあたりから、主にアヤの“せつなさ”のトーンに染められていた「感情そのものとしての画面」が、それこそ非・融合的に異なる色彩の感情に混濁しはじめる。アヤと兄の関係に苦しめられつつエリの性に引き寄せられるノブと、年上の彼氏がいながらもノブにある種の繋がりを感じるエリの感情が、混じりゆくことなく侵食してくる。

そうして神社で対峙する三人の交わす会話は、自分でない他人は、自分の想定や想像とは違うシステムでおもいを抱いているという非・融合的な世界把握を反映した最たるものとなります。

ノブ「一つ聞きたいんだけどさ。オレら付き合ってんの?」
アヤ「ノブはどうなの?エリと付き合いたいの?エリは‥‥エリはノブのこと好きなの?」
エリ「ノブはどうなの?」
ノブ「アヤは‥‥オレと付き合ってる?なあ?」
アヤ「でも」
ノブ「オレはオマエがどう思ってるか知りたいんだよ」
アヤ「‥‥‥付き合ってる」

ラスト、ホテルでのふたりは、お互いに相手の“ほんとう”のところを知りたいのか、そして、すべてを知ることが、何か関係や感情を解決的に幸福に導くのか、異なる他者の“ほんとう”に接することに自分は耐えることが出来るのかと、魂の有りようを試される。なんとなく分かった気になる平和な融合などいつわりだと『くりいむレモン 旅のおわり』の作者たちは登場人物たちに突き付ける。他者と関わることが苛烈な傷となる融合か、孤独な非・融合か。答えは出ないまま、傷だけは負い、温もりへの“さびしさ”だけは確かに抱いて手と手は繋がれ、ふたりは均一な雑踏へと消えてゆく。「感情そのものとしての画面」の連なりである『くりいむレモン 旅のおわり』は、その映像からも音響からも、何の意味指示作用も発信しない。その均一的で“貧しい”画面には、「意味」や「答え」はなく、何かの途中にある誰かの痛みのような感情だけが、ある。

(つづく)

theme : 日本映画
genre : 映画

イりいむレモン 

たびのおわり10
『くりいむレモン 旅のおわり』

(→選出理由い燭澄愛のためにからのつづき)

先日、大久保の病院通いのついでに、久しぶりに中野に寄りました。
いつも順路になっている音吉プレミアム1号店(アッチ系の中古CD・DVDショップ)への階段を上がってみると防火鉄扉が閉まっており、貼り紙がはってあった。つい2日前に、移転のため閉店とは‥。そして移転先が広島とは‥。ネットで物を買わないのでこういう店がなくなると地味に痛手。
ブロードウェイ3階では、まずタコシェ。『Spotted701』は、『愛のむきだし』@ユーロスペースの際『ホームレスが中学生』のシナリオ採録(Vol.8)が目当てで初めて買いましたが、正直あんまり読んでいなかった。趣味は近そうなので、この機会(?)に読もうと思って既刊Vol.1〜11のうち、あんまり内容的に興味のなさげな数号以外を購入し(レジには伊東美和氏もいた)、読んでみました。面白い(どちらかというと女子の文章の方が面白い。ただし森下くるみは良くなかった)。タメにもなる。しかし、印象は、ポレポレ東中野におくフリーペーパー。でもお金はとる。面白いフリーペーパーも、雑誌となるとどうか。雑誌は運動体としての駆動力がないと、ワクワクが発生せず、仲良しクラブの好きなもの擁護に留まる怖れがあるとおもう。
(そっち系の配給等をやっている人が手がけているという背景もあり)『Spotted701』の推しは、松江哲明を中心に、井口昇、山下敦弘、いまおかしんじなど、ピンク/インディーズ系で、仮想敵はメジャー系。しかし、メジャー系に届くはずもない場で、誰も傷つくことも刺激を受けることもない場で仲間内を(作品が発表されるたびに)肯定的に語ることには、運動がないともおもえる。山下敦弘あたりを仮想敵にする位じゃないと、雑誌の立ち位置が見えてこないんじゃないか。自らの配給する作品の宣伝媒体も兼ねていることから意識的に距離をとらなければ、そのへんじゅうにある業界ベッタリのジャンケット的な雑誌群と、本質的には変わらないものになってしまうんじゃないかと。
あと特集的に『デコトラ☆ギャル奈美』を推している雑誌がとっくにあった(Vol.7)のを知らなかったとは不勉強でシマッタとおもった。しかし特集は読みでがありました。城定監督のフィルモグラフィが知りたかったので、ここでタラガ氏のサイトを知ることが出来て良かった。僕も『くりいむレモン 夢のあとに』が大好きで、何度も繰り返し観てます。

で、『Spotted701』という雑誌の主人公は松江哲明ですが、個人的に、なぜか松江監督に興味がない。悪い印象も何ももっていないのですが、とにかく特になにも思うことがない‥。
そのあと新刊書店や古書店で『シナリオ』『kindai』『少年たちはなぜ人を殺すのか』『アダルトビデオ革命史』『ケータイ刑事マニアルBOOK2』等を購入。『kindai』は今号で64年の歴史に幕。ラスト表が℃-uteって、kindaiらしくない。創刊号の表紙が山田五十鈴、2号が藤田進と原節子、って今のkindaiからするとちょっとどうなのと思う。キング・アンドリウが自主映画やってたことは何となくは知っていましたが、ケータイ刑事本の小中和哉インタビューによると、小中氏は<多聞ちゃん>とは映研の先輩後輩で(小中氏が1つ年上)、『ケータイ刑事』は<多聞ちゃん>が<当時撮ってた作品の世界観に>わりと近いとのこと。

枕のつもりがいつまで経っても繋がらないので唐突に話を変えますが、(つづく)

theme : 日本映画
genre : 映画

い燭澄愛のために

あいの2
『ニュータイプ ただ、愛のために』

 (選出理由Jヾ峽鯑からのつづき→)

そういえば、前々々々記事ですっかり書き忘れていましたが、城定秀夫監督の『ガチバン』(脚本はイマタケマサオと城定秀夫)、佐藤二朗が全身白タイツで演じるザーメンの役がひとつのポイントだったわけですが、あれは『愛染恭子の人妻セールスレディ〜快楽の実演〜』(小林悟、00)の時に助監督だった城定秀夫と竹洞哲也がやはり全身白タイツで演ったという精子の役からの意図的な引用なりオマージュなりなんでしょうか(『PG』No.103)?

‥こんな枕で人が引かないか若干心配ですが、佐藤二朗といえば、その監督デビュー作『memo』が去年公開されましたが、たいした注目も浴びなかったことが考えさせられたというか、これが20年前だったら、この独自である意味達者な軟体的映画文体やシリアスかつコミカルな不思議な作風は、それなりの話題をあつめて、要注目の異業種監督としてそれなりに語られたんじゃないか‥と時代が変わったことを思った。共通認識としての「映画」「技術」「古典」等の確固たるイメージが広く共有されていない状況では、「あえて」とも言える「個性的であること」はカウンターとしての効力を持たないということでしょうか。とすると、こういった事態は、現行のカルチャー全般が、その存在基盤として、短絡的で単純な、脊髄反射的な感情喚起作用をよりどころにするのは不可避だということを指し示し、<若い作家のウエルメイド志向と、老練な監督たちの余裕綽々のコワレっぷりに二分してしまった>(松島政一、同上)といった現象はいずれ必然だったとも言えるかもしれないし、そうすると自分の、若めの作り手に抱いている不満の数々は、言っても詮無いことかも知れません。

さて、絶賛ムード漂う園子温の『愛のむきだし』ですが、個人的にもじゅうぶんに面白かったとはいえ、何だか熱狂しきれなかったというのが正直な感想です。雑に話をすすめると、園子温は、手持ちのカードを切り尽くしたという印象で、ここまで毎回毎回観客が思わぬほどの距離を踏破してハッとさせてきたものが、手の内が底をつき、内容としても戦いかたとしても分かりきったかんじになってみると、本人の狙いとは裏腹に、ラフさが強度を削ぐ結果になっているとおもった。(なぜか)花村萬月でいうと、イケイケ後期の『皆月』『鬱』あたりを過ぎた、『ぢん・ぢん・ぢん』『風転』『♂♀』等のラフさが熱気とならずに欠点として目につくかんじを連想した。

その園子温はさいきん、「ケータイ小説的なもの」への興味をインタビュー等で示していて、『愛のむきだし』"『ちゃんと伝える』はその作品的冒険の端緒なのかも知れませんが、廣木隆一は前々からずっと地道に、「ウエルメイドなもの」「ケータイ小説的なもの」に接するように、映画を量産しているとおもう。ウエルメイドであることやケータイ小説的もしくは刹那的、あるいはセカイ系的であることは、一般に、現在的にはコミットの不能性を見据えた「交換可能性」への対処としての「文脈の不在」からの「接続性の容易さ」として捉えられていると思われますが、廣木隆一監督はそこに「具体性」の楔を打ち、「交換不可能性」を現出させる。その作用は、幾つかある作風のうち、文芸路線(『やわらかい生活』『きみの友だち』等)や、フェチ/SM路線(『美脚迷路』『ラマン』『M』等)ではなく、観念に溺れないぶん何ということもないウエルメイドな作品群(『恋する日曜日』諸作等)のほうに鮮明にあると思います。で、そのような理由から(も)、去年の廣木映画では、文学的で高級な複雑さをもつ『きみの友だち』よりもΑ悒縫紂璽織ぅ廖,燭澄愛のために』をとります。

さてタイトルにはその名は冠されていませんが、BS-iドラマ『恋する日曜日 ニュータイプ』からの発展企画であるΑ悒縫紂璽織ぅ廖,燭澄愛のために』は、アンドリウ印『恋する日曜日』シリーズの映画版の、『さよならみどりちゃん』もカウントすれば第4弾。廣木隆一監督作がそのうち3本(『恋する日曜日』『恋する日曜日 私。恋した』と、本作)を占める。ダブル大悟(竹財輝之助、佐野和真)の共演ということで、ドラマ版『砂時計』のファンが劇場に押し寄せる‥ということもなく、大政絢ヲタが大挙して駆け付けるということもなく、ひっそりと少ない劇場数での公開を静かに終えた模様。僕の観た回は観客は5人いるかいないか位でした‥うむ、いつもの映画版『恋する日曜日』の客席風景、ってかんじ。
(尚、大政絢演じる超能力者・津木野ユリは、『恋する日曜日 ニュータイプ』に登場した同じく大政絢演じる超能力者と同名ですが、ドラマ版の彼女はサイコメトリーであり、生活環境も本作とは異なる。ドラマ版での片手を革手袋で隠し能力をセーブする表現は、本作での眼帯へと転化していますが、二作品はそれぞれ独立したまったくの別物です。)
まだ未ソフト化ということで、伏せるべき点は伏せて話をしたいと思いますが、別段、煽るほどの傑作であるわけでも、催涙効果のはげしい感動(喚起)作でもなく、ごく普通のウエルメイドな映画だということは先に断っておきたいとおもいます。

荒涼といいたいほど鄙びた土地、死んだようにくすんだ海と山がある、ある地方の土地。その土地の、閑散とした港の端にあるフェリー乗り場に付属する、ガランとして寂れた切符売り場の建物で、寡黙に仕事をする津木野ユリ(大政絢)。港も切符売り場も、仕事の行き帰りで通る通勤路も、そして帰りつく古びた一軒家にも、人の気配がまるで無いかあっても間欠的でごく僅か、基調としての静謐が支配する<世界>。海を見晴らすことのできる場所からの風景には、世界の終わりのような風のふく音が響きわたる。

この<終末感>、そしてある種の紋切り型でいえば中景としての<社会>が欠落した「セカイ系」の世界観のなかで、ごくわずかな登場人物たちが、「愛すること」の証明がそのまま「死」や「記憶の喪失」や「大切なつながりの感情の、消失」や「身体機能の欠損」に直結する苛酷な交換ゲームを、刹那的に/永遠的に、生きぬく。ここでは、「きみとぼく」あるいは「私とあなた」の関係の変転がそのまま<世界>の形を変え、時空と運命を歪める。接続性の容易な、つまり歴史性や固有性から無縁な「物語」は、取り立てて新味のない、“そのテ”の作品の典型といってもいいでしょうし、結末で主人公がする、ある決断的な選択は、極限状態での二択という“あるある的な”接続性の高さで、観客との共感作用を強引かつ安易に招き寄せているでしょう。

しかしここでは、そういった安易な消費行為に還元され尽くさない、具体性の余剰が感じられます。
乾いた冬の大気のようによく通る音の響きが、寂漠とした切符売り場前の空間でちいさく反響し、大政絢の住む家の、それぞれ古びた、雨戸や、柱や、床や、雑然とした庭先にはプライベートさが宿り、唯一的な、具体的な手触りとして、交換不可能性をしっとりと生理的に滲ませてゆく。それらのプライベートなスペースへ不意に男性的な無骨さと柔らかさをもって侵入してくる竹財輝之助が、大政絢に対してゆるゆると放っている異性としての官能は、シャッフル感なく、この場にしかない魅惑を、小さく更新してゆく。緩やかな長回しを基調とした演出は、そこにあるままの、反・カテゴライズ的な時空間を提示し、パターン化された感情喚起パーツの組み合わせとして流通させることが困難な「なんでもなさ」を積み重ねてゆきます(反・ヒット作的要素)。そこには、シネフィル的な文化圏に適合し易いようなショット/文体の特権化も、インテリの語りを誘発するようなフックも見当たらずに、この映画をひとつの全体として結晶させていると想定されるような野心なり自己実現方向への意図なりが希薄なのだ。そしてその希薄さを、肯定的に受けとっている自分がいる。ひとつの映画を観て、良い悪いを判断したり、コミュニケーションを志向して何事かを語ったりする、そのために存在するのではなく、ただその1時間半の上映時間のあいだ、その触感を感じつづけ、上映時間が終わる、そこにはイデアはなく、ただ触れるように“普通の映画”がそこにあるだけ。『ニュータイプ ただ、愛のために』はそのような映画だと感じた。
(反・美学的な長回しの多用は、硬直した文体として表現が閉塞してゆきがちかもしれませんが、廣木隆一のいいところは、軽薄に、いともアッサリと審美的/フェティッシュにも走るところで、中盤に颯爽と登場する廣木組常連の山田キヌヲが、海岸沿いに伸びる堤防のところを歩く横移動の画面の、急に快楽的にピシリと決まったカッコ良さ。廣木映画はやっぱり横の移動と音の設計が素敵。あと、どうでもいいこと(?)なのかも知れませんが、山田キヌヲはあの能力があるなら、“あのような事態”には陥らないのではないでしょうか‥?)

‥まだ触れていないことを幾つか。
既出記事で称賛した(?)ァ慇槓』は、これも既出記事で批判した(?)『トウキョウソナタ』に比べて、「他者性」「通俗」にたいする闘いかたが、より意識的だったと思っています。「シネマ」の虐殺は「映画獣」黒沢清の任ではなく、より下の年代の者が為すのが健康的。

江川達也の書いた、マンガ入門的な本だったかコラムだったか忘れましたが、そこで言われていたことのひとつは、作者が「10」の物凄い熱量で、スゲエ〜面白いと思って描いたものでも、読者はようやく「1」クスリと笑うくらいだというギャップ、つまり作り手が「4」の面白さだと思って描いたものを受け手は決して「4」の面白さとは受け取らない、超本気でやらなきゃ娯楽になんか成らないというふうなことだったと記憶します。そのことを、─慂厦咼泪轡鵐ール』を観て思い出した。口の端をニヒルに歪めて斜に構えている類いの者には、決して作れない映画だと感嘆しました。

( 選出理由イりいむレモン 旅のおわりにつづく)

theme : 日本映画
genre : 映画

Jヾ峽鯑

アキレス3
『アキレスと亀』

(選出理由◆婆下毅一郎2からのつづき→)

『アキレスと亀』に登場する、たけし演じる“自称”画家は、アート界の流行やら絵画の歴史やら社会的インパクトやらにたいして「傾向と対策」的に“雑に”顔色をうかがいつつ、のらりくらりと一生涯画家/アーティストであろうと、“雑に”試行錯誤する。この、雑に、テキトーに、テンション低くそれを行うという有りようが、たけしのシャイネス(と知性)を感じさせて微笑ましくもありますが、そのようにして、生涯を画家/アーティストとして全うするということのみを指向するこの映画における創作活動が最終的に「母性による肯定」に帰結するのをみていると、この映画に登場する大した衝動も必然性もなく垂れ流される絵画群の寒々しさは、そのままたけしの近年の映画群の「どうでもよさ」と重なってみえますし、その向かうところが結局のところ「承認」「自己実現」でしかないという貧相な光景としてあらわれてきます。
「世界的映画監督」というポジションで安穏に末永く過ごす状態を“つづく”ためだけにコンスタントに作られつづけているようにみえる北野武の映画群の、そのあまりの無内容さは驚異的なほどで、その荒涼とした表情はどこか独特な風情の前衛性さえ帯び、それがある種の批評性としてかすかな魅力を放っていなくもなかったのでしたが、『アキレスと亀』の場合、いつも通りたいへん退屈は退屈なのですが、そのツマラナさは、これまでのツマラナイ作品群(『菊次郎の夏』、『Dolls』、『座頭市』、『監督・ばんざい!』等)とはどこか趣が違っていて、「冴えたショット」やら「こだわりのある主題」やら「作家独自の生理/文体」やらといった“長所ふう”の特徴やら輝きまでもがここでは「どうでもいいこと」として処理されはじめていて、すべてを無為と退屈の鈍い色彩で塗り潰しているようにみえます。

承認/自己実現のために「ポジション取り」をする、そのために“長所”をアピールしたり作品内に盛り込んだりすること“さえ”も、「どうでもいいこと」だと北野武は『アキレスと亀』で言っているふうだとおもった。ただただ母性的に無条件に肯定され承認されたいだけなんだ、結局ね、あれこれと冴えてみせたから承認されるとか面倒クセーし、そんなこととは関係なく頭を撫でられたいんだ本当のところは、と。

そんな身も蓋もない心情に沿って誠実に形成されたとおぼしき『アキレスと亀』は、それゆえにハンパなく退屈で無刺激な作品として私たちの前にあらわれてきたのでしたが、しかし、現在の「日本映画」の大部分を占めるのが、何らかの、あるいは誰かしらの、承認のための消費材、サプリメントとして供給/需要されるために垂れ流されているだけのモノだと感じられます。それらが『アキレスと亀』に比べて「より退屈でない」としても、それが作り手や消費者の優位性に結び付かず、その無自覚な様はかえって北野武の聡明さを相対的に際立たせてしまう。

愚にもつかない小手先のテクニックを「人の良さ」という免罪符でコーティングして消臭した『運命じゃない人』の監督に何かを期待しているほうがあれですが、「承認/自己実現」のための“冴えてる”の供給装置として制作されたことが更に露骨になってしまっている『アフタースクール』、「見事な唸らせるシナリオ」「数少ない本当に面白い娯楽作品の作り手」「役者を輝かせる演出家」という「ポジション維持」のためだけに作られたんじゃないかと思わせてしまう愛情も情熱も知識もない『ザ・マジックアワー』(アンジャッシュのコントの、長くて無理があってツマラナイバージョンみたい)。現在の風景は、そのようにして、「承認/自己実現」のための道具として映画を利用する“アーティスト”で溢れかえっていて、河瀬直美(『七夜待』)や是枝裕和(『歩いても 歩いても』)はその代表格だとおもう。
「承認/自己実現」のための「ポジション取り」、それへむけての「傾向と対策」的な姿勢の制作が支配的な気分として蔓延している様子は、ある種の観客を意気消沈させているんじゃないか。そして内田けんじや河瀬直美ほど鈍感でもなく、より才能があるにしても、タナダユキや吉田恵輔や石井裕也といった若手勢が、そうした風潮からじゅうぶん意識的に距離をおけているとは言い難いと思います。

傑作と世評高い『ぐるりのこと。』でさえ、「傑作とはこんなかんじ」「イケてる演技設計とはこんなかんじ」「リアルってこんなかんじ」という“長所”パーツの適所配分作業が「演出」という名のもとに行われる(大いに期待した『東南角部屋二階の女』にしてもそのテの作品で、ひと昔まえの「傾向と対策」的な「シネマ」を召喚した、カビ臭い映画だと思った)。それは結局高橋洋のいう<支配的になりつつある画面や音のもっともらしい審美>を反芻もしくはちょびっと更新する、同じゲームボード上での退屈な椅子取りゲームに過ぎないんじゃないか。ある均一的な観念として共有される「傑作感」や「作家感」を構成するために、それこそデータベース消費的に「傑作素」「作家素」を召喚してレイアウトする。そのゲームに参加する観客も、同じデータベースから「批評素」「感想素」を瞬時に取り出し、安心して感動したり斜に構えたり出来る。
そういった姿勢は、たとえば作り手にとって「映画監督であること(ありつづけること)」が主眼であって、「映画=表現を為していたら、その結果、監督/俳優/アーティスト等と呼ばれた」といった姿勢とは異なるということで、そこで生まれる作品はようするに『公募ガイド』しか読んだことがないひとが書いた小説みたいなもんで、その参照する手近にある「リアルへの審美」は、<現在>にも<世界>にも接続性をもたずに無限バリエーションとしての映画の量産を促す。そこには、「消費」があって「経験」がない。“映画”ともあろうもの(?)が、単なる文化/サブカルチャーの一ジャンルとして、幾多のカルチャーと同じく<母権的な承認を求めて自己目的化したコミュニケーション>のために存在するだけだとしたら、そんなもの有っても無くてもどっちでもいいものでしかないじゃないか‥。

そんな予備校的な映画が蔓延するなか、大林宣彦『その日のまえに』、新藤兼人『石内尋常高等小学校 花は散れども』、鶴田法男『おろち』などは、独自の「リアル」、「審美観」を貫いて、オンリーワンの輝きを放っていると感じさせます。(ナンチャンが出ずっぱりの2時間以上ある映画の推移を、食い入るように観つづけさせるということが、いかに異様な偉業であることか‥)これらの映画の表現は、「いまどきのリアル」と摩擦を起こすことで、<現在>に生きていると感じられます。

で、予備校的感性に侵された若手らを尻目に去年、もっとも“若さ”を体現していると思えたのが、福間健二の◆慍山の娘』でした。

“若さ”を失うということが、人生の審美や感じかたが、次第にある一定の方向に収斂してゆき、だんだんと人格が保護的にオートマチックに作動してゆく割合が増えてゆくことだとすると、他の硬度や質感をもつ審美/リアリティと接するたびに、その都度(確固たるものと思われた人格の総体が)脅かされるようにして変質を被る、ある意味“即興的に”人格を形成する境界の振動が繰り返されることが“若さ”の顕れだということになる。
そのたびごとに、「成功」や「維持」への「最適化」(つまり「傾向と対策」的な姿勢)とは無縁な振動を更新することは、愚かな、バカっぽさとして、「置きにいく球」で「とにかく成功したいだけ」のゲーム参加者からは侮蔑の対象とされることかもしれません。しかし個人的には、ゲーム上での最適化などというしみったれた作業を、わざわざ出かけて行ってスクリーン上でみたいとは思わない。

『岡山の娘』の福間健二は、誰かの敷いた(承認されるという)レールに無自覚に乗りはせず、原初的なところから、音/映像の関係、言葉/発声/意味の関係、自然物/人工物/人物が映るということの関係を捉えなおし、その異質なモノとモノの関係を融合的にではなく、その関係の摩擦の感触を抽象的なイメージ(既存ゲーム参加の観客との共有イメージ)に還元しないように一歩一歩確かめながら掴もうとする。女優でも素人でもなく、娼婦でも母でも少女でもない<女性>がそこには存在し、川とそこを流動する水は、何かを象徴するでもなく、画面を審美的に活気づかせるためでもなく、唯物論的に存在を誇示することさえなく、ただ人々の住む土地の傍らを今日もきらきらと流れる。言葉は物語を、フィクションは世界のかたちを、視線は感情を、“必ずしも”「説明」しない、飼い馴らさない、着地させ輪郭を鮮明にしない。
“何か”を媒介としない不用意さは、「自己実現」とも「事前イメージの追認」とも異なるイメージを現前させ、そこでは異なる感触をもつ複数の「リアル」が、収斂を拒んで触れ合い、その摩擦が、即興的な振動として、ひとつずつ「人生」の「経験」を刻む。それらの提示が「知的遊戯」に陥らないところに、『岡山の娘』の未来性があると思った。

なんだか概念的に話が進んでしまっていますが、『岡山の娘』の“若さ”は、そうした観念的に捉えられる側面を別にしても、はっとするほどの瑞瑞しさを誇っていて、端的に、「映画を撮る」、その喜びに溢れている映画だと感じられます。
若い女性を、正面から斜めから、堂々と、まじまじと、キャメラを媒介として淫するように見つめることの喜び。風景や人物をカッチリとした構図におさめることの嬉しさにふるえる姿勢と、ルーズな構図で動作や風景を追うことの愉しさとが共存する。繋がらないモノを繋げることの歪さにたのしみつつも、だからといって古典的なつなぎの快楽もイデオロギー的に放逐しはしない。B班の撮った映像を組み込むことや制作の過程で出来する様々な障害や状況の変転を、<私>がひとりで特定の中心的イメージに作品を収斂させてしまうことを妨げてくれる「他者」と出逢う喜びとすること。(『岡山の娘』における詩人、小説家志望の女子、映画(シナリオ書き)青年らは、<現実>の事件/身近な人々からの反射を受けて(接続をもって)、世界との摩擦を条件とする言葉を紡ぐ。「作品」の、<世界>への接続は、「自分ひとりで考えた」ことからは決して生じないことを、登場人物たちは知っている。現在や世界との接続性をもたない消費的な「審美」に閉じない、この映画におけるクリエイターたちは、幾重にも重なる質感の異なるリアルの感触の有機的な繋がりとして、人生を生きる。)
そのようにして、つっかえ、つっかえながら、他者の「リアル」と接触を繰り返してゆく、人生の軌跡のように。『岡山の娘』は、「承認/自己実現」ゲームとは意識的に距離をおいた、閉塞を突破する“娯楽映画”だとおもった。

(私的なことですが、敬愛する福間健二氏に、『岡山の娘』公式ブログで当ブログについて言及していただいたことは、この上ない喜びでしたが‥佐藤忠男を「遺物」呼ばわりしたことを、やんわり窘められただけというかんじも、なくはなかった。
いちおうここで言っておこうと思いますが、佐藤忠男は、例えば森直人や尾崎一男といった現在相対的に優秀と思われる批評家やライターと比べても、比較にならないほど多くの偉大な仕事を成した映画評論家だと思っています。しかし、『映画でわかる世界と日本』や『知られざる映画を求めて』等を読んでみても、ちょっと読めないというのが正直な感想で、『わが映画批評の五○年』の前半部の、言説を更新しようと意気込んだような(時代の)文章群には魅力を感じるのに、80年代以降の文章になるととたんに読めなくなる。「書くこと」が何かを伝達するための便利な道具にすぎないかんじがあって、佐藤氏のめざすものが文学やらエクリチュールやらでないにしても、個人的には(近親のお年寄りの手紙のように)読むのが苦痛な書き手であることに変わりはなく、形骸化した「仕組み」に、情報内容を嵌め込む手つきにはシステマティックなもの、つまり若くなさ、を感じています。)

(選出理由い燭澄愛のためににつづく)

okayama3.jpg
『岡山の娘』

関連記事:『岡山の娘』へ
       『岡山の娘』その1
       2008年日本映画ベストテン
       選出理由‐訥蟒夫
       選出理由¬下毅一郎1
       選出理由◆婆下毅一郎2

       

theme : 日本映画
genre : 映画

◆婆下毅一郎2

連合5
『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』


(¬下毅一郎1からのつづき→)

なぜなら、(操作についての)真偽のほどはともかく、以下の引用にみるように『映画芸術』誌はある理由があれば順位の操作も辞さない(かもしれない)雑誌であることは自明のことですし(※1)、こちらも後で詳述しますが(※2)、その疑いが相対的には濃厚である、外国映画ベストテン1位が『インディアン・ランナー』だった1991年度および日本映画ベストテン1位が『ユダ』の2004年度のときに、とっくに柳下氏はネガティブ・キャンペーンをはっていて然るべきで、そうであるのなら、当該エントリーでの柳下氏の今さらビックリ仰天したような文章はあまりにカマトトぶりっこが過ぎますから、やはりここは,痢箸椶のベストワン”へのための操作なら許されるが、そうでない操作だから<しかしこれは酷すぎる。>”という主張に帰結しそうです。
しかしこの結論では、先に述べたように「有り得ないのだから成り立ち得ないはずの批判」をおこなう柳下毅一郎は「日本語読解力や論理的能力に欠陥が」あると、まさに<その程度なんだとにおわせてしまう>ことになりかねませんから、ここではあくまでも“ぼくのベストワン”どうこう言う話は文脈に関係がないものとして、純粋に◆帆犧遒<あまりに酷い>から、たとえ『実録・連合赤軍〜』を推すためであったとしても酷い”という批判としてこのエントリーを再読してみましょう。(ここでは、操作の有無は部外者からは分からないという立場で検討したいとおもいます。)

※1 先に述べたように、<『映画芸術』誌はある理由があれば順位の操作も辞さない(かもしれない)雑誌であることは自明のこと>だということの論拠ですが、これはすでに荒井晴彦自身による“態度としての”言明があります。

<“客観的デナケレバナラヌーーという商業紙神話の渦巻く中で「チンケな客観よりオレの独断!」をキャッチ・フレーズにしました。また新聞ハ公器デアルーーに対置し、「絶対に私器だ」に私は固執しました”という斎藤龍鳳の言葉を編集者としての頭の片隅に置き、(略)ベストテンを続けてきたが、「独断」も「私器」もコマがなけりゃ行使しようがない。「キネ旬」やヨコハマみたいなベストテン発表するために借金してんじゃねえよ>(92年度選評)、<こんなベストテンのために俺は借金してきたんじゃない。買収、恫喝、指揮権発動、軍事介入、いろんな言葉が頭をよぎる。しかし、(略)担ぐミコシもないじゃないか>(95年度選評)

ベストテンを操作しようがしまいが、編集長自身が「客観」より「独断」、「公器」より「私器」を標榜しており、キネ旬やヨコハマ映画祭と同じようなベストテンだったらやる意味がないことを散々表明しており、それが編集長の編集方針でありモットー(のひとつ)であるのだから、もし万が一操作があったという事実が証拠を伴って確定されることがあったとしても、単にそれは『映画芸術』という雑誌特有の傾向や方針やカラーなのだとして受け止めることに、何の支障があるのでしょうか(「公器」でなく、「私器」「独断」なのだから)。そのうえ、もし、本気で荒井氏や編集部がコソコソと“不正を行っているような気持ちで”大勢のお手盛り選者を動員してベストテン操作をしているのなら、84点83点82点81点、などという露骨な僅差ではなく、適度に点差に緩急をつけて操作臭を脱臭するのではないでしょうか。そして、これがもし操作であるのだとしたら、露骨に操作感をみえる(痕跡をのこす)ようにすることで「映画芸術は断固として連赤や接吻やトウキョウソナタを支持しません!!」とい
う態度の表明をしているととらえるべきなのではないでしょうか。もしくは、疑念や邪推を抱かれても一向に構わない、という態度といえるでしょう。

つまり柳下氏が<あまりに酷い>というのが露骨に見えている(脱臭していない)ことへの憤り(「オレには見えてるぞ!」?)であるのなら、(操作があったとして)そう見えても結構だという表明がなされているわけですから、批判は空回りしていると言わざるをえないとおもいます。(“ぼくのベストワン”のためなら)<少々の操作なら許されるだろう>という部分と併せ読むなら<しかしこれは酷すぎる。>という言葉は、上記の「程度の差」の話に集約されそうに思えますが、あとひとつ、批判の文脈は残っています。
それは、この<酷い>選考が、<荒井晴彦はただ自分の嫉妬心を満足させるために映芸ベスト10を利用している>から酷い、そして荒井氏や編集部の意向を汲んだ選者軍団(と柳下氏が主張する)メンバーについて、<荒井晴彦が嫉妬した相手をおとしめるためだけにマイナス点を入れるメンバーを集めてきたと言われても反論できまい>という論旨ですが、さて、「荒井」が「嫉妬」で「マイナス点を入れるメンバー」を集めた、という理路にどこか誤りはないのでしょうか。

※2 さてここで、さきほど相対的に操作の疑いが濃いととらえることが可能とした2年、1991年度外国映画ベストテンおよび2004年度日本映画ベストテンについての簡単なデータにも目をとおしておきましょう。

1991年外国映画ベスト
.ぅ鵐妊アン・ランナー69.5
▲潺蕁璽此Εロッシング69.1(74.6-5.5)
コントラクト・キラー64.1(?)
ぅ曠奪函Ε好櫂奪63
ネ咾燭舛猟戚62.1(91.1-29)
Ε轡供璽魯鵐54.6(64.6-10)
Д泪奪噌場の少女54(56-2)
┘謄襯&ルイーズ51.6(86.1-34.5)
ニキータ49(59-10)
ワイルド・アット・ハート49(74-25)
‥と、トップが0.4点差の大接戦。当時、たしか『噂の眞相』あたりで荒井氏との男女関係の噂をトバされてもいた小出“シティロード”幸子が、荒井氏共々『インディアン・ランナー』を1位に挙げていることも疑惑に花を添えています。ワースト換算がなければ、『ミラーズ・クロッシング』『羊たちの沈黙』『テルマ&ルイーズ』『ワイルド・アット・ハート』が単純点で『インディアン・ランナー』を上回る。‥しかし、『羊たちの沈黙』『テルマ&ルイーズ』がワンツーなんて不細工な映芸ベストテンなど誰が見たいでしょうか?『母べえ』が1位の映画秘宝ベストテンとかを思い浮かべたらちょうど良いでしょうか。

2004年日本映画ベスト
.罐98(-)
血と骨97(123-26)
Cも知らない96(127-31)
げ失癖語91(101-10)
‥『誰も知らない』が1位の映芸‥ぞっとしないですねえ。

そして、ここで以下の柳下氏の主張が瓦解する。
<いや、築地魚河岸三代目が映画評を書いてもいいよ。でも、これじゃあ荒井晴彦が嫉妬した相手をおとしめるためだけにマイナス点を入れるメンバーを集めてきた、と言われても反論できまい。>
反論できるのだ。東大出の氏が魚河岸三代目と小バカにしたように呼んだ築地魚河岸の帳場さん・山下絵里は、奇しくも(?)上記疑惑の04年にも選者として投票していましたが、その内実をみてみると、荒井氏がベストに推す映画(『ユダ』など)と山下氏のベストは一本もカブらず、荒井氏がワースト点を入れた作品(『誰も知らない』『血と骨』『下妻物語』など)とは山下氏のワースト選出作と一切合致していない。
つまり、柳下氏がほぼ名指しで軽侮した山下絵里は、少なくとも、<荒井晴彦が嫉妬した相手を>(若松孝二を?『実録・連合赤軍〜』を?)おとしめるため“だけ”にここで<集められたメンバー>ではない。そのことだけは間違いありません。そう「反論できる」。そして、そのことについてだけでも、柳下氏は山下絵里に<あまりに酷い>根拠もない人格否定的な言いがかりをしたと非難されたとしても<反論できまい>。
そしてメディアをもつ映芸ダイアリーズが、正面からお手盛りでもないし強権による操作もないとわざわざ反論しているのを併せ読むと、少なくとも柳下氏の用いた理路によるアライ映芸批判は<全然、筋が通ってない>。

そして、そもそも、荒井晴彦が若松孝二の映画を批判的に扱うことが、どうして「嫉妬」だということになるのか、二人の関係をはたから見ているごく普通の邦画ファンにはよく分からんというのが正直なところでしょう。若松孝二がイイ映画、スゴイ映画を撮ったから、社会的な反響を集めたから、嫉妬する、のか?しかし、そんなこと(若松孝二がイイ映画を撮ったり社会的反響を集めたりすること)は昔っからのことで、今さらな話だし、だいたい、荒井晴彦は若松孝二を一貫して批判しているわけでもなく、映芸ベスト・ワーストの話に限っても『われに撃つ用意あり』をベストに入れたり、『エンドレス・ワルツ』をワーストに入れたりしてます。いちいち論証はしませんが、ひとりの監督や作家にコミットし、一貫して推し続けるような批評家像を、批評家・荒井晴彦は採らない、その姿勢が荒井晴彦の批評的特質の大きな一点だと言えるのは<みなさんご存知だ>。
それとも、連合赤軍やあさま山荘事件についての充実した映画を成したことへの嫉妬?しかしそれも『光の雨』をベストに選んだ過去があるのだから、通らない話だ。荒井晴彦自身のいたって素朴な反論というかツッコミを待つまでもなく、「嫉妬」という観念を軸にこの件を批判するのはやはりムチャな話でしょう。
こうして自分のみたところ、柳下氏の、「荒井」が「嫉妬」で「マイナス点を入れるメンバー」を集めた、という理路をつかっての批判は、ゲスの勘繰りじみたタワゴトとしか思えませんでした。(その結論が、映芸が点数操作をしていない、という結論にただちに結び付くわけではありませんが‥個人的にはどっちでもいい話です。)
同じ業界にいる、「仲間」とも呼びうる人への仕事を、あるときは賞賛し、あるときは批判したりする。そのさいの“批判”行為を、何の疑いもなく「嫉妬」という概念に結び付け盲信し、そして正義を振りかざしてしまう柳下毅一郎は、批判という行為が「嫉妬」感情と不可分なパーソナリティをもった人なのかもしれない。その“正義”の根拠はせいぜい、「ぼくの思ってたのとちゃう!!」という程度のものなので、やはりナントカ中年と呼ばれても仕方ないんじゃないでしょうか。<すべての高貴な道徳とは、それ自身に向かって高らかに《然り》と言うことから生じるのであるが、奴隷たちの道徳は、「外のもの」、「他なるもの」、「自分とは異なるもの」に対して、まず初めに《否》と言うことから発生する。>(『道徳の系譜学』)

(選出理由Jヾ峽鯑につづく)

以降記事予定〜
Jヾ峽鯑
た田泰弘
Dream

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